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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
- 702 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 20:50
- コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。
三浦環の祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。
アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から日本的情緒を基本とした邦楽的技巧表現の傾向をますます強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和 15 年 に日本コロムビアから発売された唄で、日本国内よりも大陸に渡り激しい戦火の中にあった兵士たちのあいだで圧倒的に支持された。
大戦中に中国へ慰問に行った渡辺はま子が、この歌を歌ったところ、のちに元帥陸軍大将になられた畑俊六大将(支那派遣軍総指令官、後に元帥陸軍大将第二総軍司令官。終戦時.第一総軍司令官 杉山元元帥陸軍大将とともに天皇陛下に終戦を上奏した。)が「目の前で泣き出されて、わたしも涙声で歌ってしまった。」と古賀に話したということが古賀政男自伝「わが心の歌」に載っている。
自伝には支那事変が泥沼になってることを想わざるをえなかったという。
また、夜も光り輝くニューヨークなど太平洋戦争開戦直前の豊かなアメリカをつぶさに見てきた古賀にはアメリカとの戦争は無謀にしか見えなかったと自伝に書いている。
いくら国が見栄を張っていばって士気を高めようとしたころで、人の心は優しくもろいものなのだ。普遍的でそこに嘘偽りがない、だから人の心を打つ・・誰か故郷を思わざる。
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、80年前の昭和15年、1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。
歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。
ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。
西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。
約1年間、「外務省音楽文化親善使節」として、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国した古賀政男。
昭和14年〈1939 〉8月31日、当時1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。
アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。
そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。
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