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山本八重は、凄い

[1:(2013/01/07(Mon) 13:43)]
この女性は、日本の鏡


[32:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/22(Wed) 08:55)]
徳川慶喜は慶応三年十月十四日大政奉還を行い、徳川幕府は260年余で幕が閉じられました。
大政奉還後も左幕派の薩・長に対する反目がひどく、遂に幕府は薩長と鳥羽・伏見に戦いましたが大敗し、慶喜は江戸城に戻り謹慎の意を表しました。
慶応四年二月五日、徳川慶喜を追討するため東征大総督有栖川宮熾仁親王が京都を立ちました。朝廷軍(官軍)は5万の兵で江戸城攻撃の態勢を整えましたが、幕臣勝海舟と総督府参謀西郷隆盛との交渉によって、平和裡に慶応四年四月十一日、江戸城の明渡しが行われました。
これに不服の旧幕臣は、10日から11日夜にかけて大量に江戸を脱出しました。
歩兵奉行大鳥圭介を統括とする軍は、市川国府台に集結し下野から会津に入り、仙台を経由して函館まで転戦しました。
徳川海軍副総裁榎本武揚の徳川艦隊は、官軍への艦隊引渡しを拒否して品川から館山に脱走し、仙台を経て大鳥軍と合流し函館まで転戦しました。
北日本においても会津藩、庄内藩が中心となり仙台藩、米沢藩、長岡藩による奥羽越列藩同盟の連立を企て、官軍に徹底抗戦を行ないました。
なかでも上野寛永寺での彰義隊の自決、長岡藩・河合継之助は長岡藩中立独立国を目指すが官軍に聞き入れられず抗戦・戦死、会津藩は白虎隊の自決などの悲惨な状況下で松平容保中心にした徹底抗戦、そして函館・五稜郭での最後の抵抗などがよく知られています。
また、下総・上総でも撤兵頭福田八郎左衛門が率いる撤兵隊(さっぺいたい)が、霊岸島から船で脱出し、本陣を真里谷に置き抗戦を繰り返しました。
これらの旧幕臣による官軍への一連の戦いが『戊辰戦争』です。


[33:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/22(Wed) 09:03)]
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった


[34:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/22(Wed) 09:07)]
明治元年(1868)
二本松城を占領した新政府軍は、東部の藩境母成峠・石莚口を攻撃。伝習隊、土方歳三の新選組、猪苗代城の会津兵が応戦したが守りきれず退却した。会津軍は進路の日橋川にかかる十六橋を破壊して新政府軍を止めようとしたが間に合わず、退いて戸ノ口原で決戦するべく鶴ヶ城に援軍を頼んだ。(この時滝沢本陣から派遣されたのが飯盛山で自刃した白虎士中二番隊である。)。
戸ノ口原をも突破した新政府軍は滝沢峠から若松城下に侵入し、甲賀町郭門はじめ北側各郭門を突破し鶴ヶ城に迫ってきた。城内は手薄であったため、郭内の武士の家族は半鐘を合図に続々と入城したが、西郷一族を始め婦人や老人・子供の多くが足手まといになるのを恐れて自刃した。新政府軍はいったん市街地を引き上げ帰城する会津軍の包囲網をしいたので、援軍はなかなか入城できなかった。また郭外では佐川官兵衛率いる会津軍が各地で転戦した。一方新政府軍は小田山から鶴ヶ城に向けて砲撃を繰り返したので、城内に犠牲者が続出した。

それでも一ヶ月の籠城に耐えたが、米沢藩の勧めもあってついに降伏。甲賀町通りで降伏式が行われた。すでに若松の町は大部分が焦土と化していた。


[35:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/22(Wed) 09:32)]
同盟軍が二本松城の南大壇口に急いで防禦線を張ったとき、この主力の一部は数
え年で十二歳から十七歳までの少年兵(二本松少年隊)であった。彼ら総勢六十数名は二十歳の隊長
木村銃太郎に引率されて深い霧の中で陣を敷いた。

■やがて夜明けの霧が晴れようとしたころ、正面の敵の猛攻撃が始まった。砲弾は
目の前の松林で凄まじい勢いで破裂し、銃弾は無数に飛んでくる。少年らも負けず
に重い百匁銃で応戦したが仲間はばたばたと倒されていった。乱戦のさなか一弾が
隊長木村銃太郎の二の腕を貫き、つづく一弾が腰に命中した。木村はドーッと倒れ
た。「この傷では城まで行けない。早く己の首をとれ!」と叫んだ。少年たちは泣
きながら隊長の首を斬り、あまり重いので二人がかりで髪を掴んで退却した。

■背後の城中からは火の手があがり、味方はいつの間にか戦場から姿を失い、少年
隊も二十二名の戦死者を出した。会津藩兵も、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽
組が日光口より駆けつけ、井深守之進率いる猪苗代隊とともに正法寺・大壇の街道
筋に奮戦したが、小隊頭小笠原主膳をはじめ、約三十名が戦死、負傷者多数をだし
て敗退した。

■その頃、城主丹羽長国は重臣たちの諌めで一方を切り開いて米沢へ落ち、夫人は
会津へ逃れた。戦火が二本松の城下を包むころ、後に残った家老丹羽一学をはじめ
とする重臣内藤四郎兵衛・服部久左衛門・丹羽和左衛門・阿部井又之丞・千賀孫右
衛門ら七名は本丸に火を放ち、従容として国難に殉じた。


[36:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/23(Thu) 09:32)]
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 
会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.r.ribbon.to/books/yamato.htm


[37:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/24(Fri) 07:41)]
林 洋海 (著) 「十二歳の戊辰戦争」]現代書館 
03(3221)1321。 四六判、270ページ。2100円。


[38:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/24(Fri) 07:43)]
>>37
戊辰戦争には多くの少年兵が戦場に駆り出されている。彼らは大人に伍して戦い、戦場に散った。二本松少年隊・少年新選組・衝鋒隊少年隊士・白虎隊・長州干城隊少年隊士など、少年兵の聞き書きを、現代文で読みやすくした記録と時代背景。


[39:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/24(Fri) 08:51)]
薩摩は分捕隊がまず人家に乱入


会津籠城時、少年たちが唐人凧をあげて見方の士気を鼓舞
殿様を守る護衛隊として白虎隊より年少の10〜15歳
隊長は西郷寧太郎
べろくん出し という奇怪な鬼のような唐人が舌を出している絵柄の凧


真夜中に女が自分の焼け跡に行き沢庵や大根のおろしがねを拾って帰る。重宝がられ皆が貸してくれという。


戦った婦女子は江戸や京都詰め
生まれて初めて故郷に帰り、町も知らずどこに逃げていいか分からない人も。
会津で婦女子の教育はしていなかったが、江戸や京都にいたから勉強も武芸もでき、プライドも高かった。身内が鳥羽伏見で亡くなった人も。
男性は女まで出したとか恥ずかしいからやめてと言ったが聞かなかった。
上級士族の婦女子は率先して看護、炊き出し、弾薬作り。
じゃないと一ヶ月も籠城はもたなかったのでは。


砲丸が城中に落下すると、婦女子が水を浸した蓆や俵で覆って消す。
衣服の汚れも顧みず、手当てや炊き出しも奮闘。
最後の時には白無垢で、薙刀にて敵陣へ切り込み果てる覚悟。


「我々の無念を、全員死ぬ事で百年後の歴史に問う」


会津避難の半鐘を鳴らしたのは城下に侵入されてから。人がいなかった。
武器もなく、老人白虎隊、藩兵の妻娘ばかり。武器も槍と火縄銃くらい。
敵に捉えられ屈辱を受ける婦女子も続出
白河口から攻めた兵、老婆を溝に叩きのめし殺害
服も食物もなく、脱走や自殺する者も。
降参と大書した白旗を城門に。


[40:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/24(Fri) 09:43)]
護衛隊

 この日、西郷寧太郎建議し十三歳より十五歳に至る有志の少年隊を組織し、名づけて中軍護衛隊と云う〔護衛隊〕、寧太郎その隊長を命ぜらる。
 八月二十六日、我が公大庭恭平をして古屋佐久左衛門に賜う所の親書を携え高久の本営に至らしむ、折柄西軍高瀬口より高久を襲撃し我が軍利あらず、兵を小荒井に収む、恭平すなわち小荒井に至り、公の親書を佐久左衛門に致す、時に衝鋒隊瓦解の状あり、恭平百方説いて隊勢を維持せしむ、佐久左衛門は大鳥圭介と共に猪苗代進撃の議を唱ひ将士を率いて猪苗代に向いたれば、上田八郎右衛門は恭平をして追跡して進撃のことを謀らしむ、圭介、佐久左衛門いわく、兵粮弾薬は乏しく戦うべからず、今、小笠原侯、板倉侯、福島に在り、我ら福島に至り進撃を謀るべしと、隊兵ことごとく福島に赴く、恭平等止むを得ず共に福島に至る〔大庭恭平書出、南摩綱紀筆記〕。


[41:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/05/24(Fri) 10:03)]
会津の少年兵

他にも、あったようだが混乱のため残っていないようだ。

・白虎隊 (びゃっこたい)
 16歳から17歳までの藩士の男子で構成。
 当初は15歳からだったが、15歳は戦闘不向きとの理由で、16歳からとなった。
 元々は警備隊で、士中隊は藩主の親衛隊、寄合隊は予備隊である。
 悲劇を生んだ部隊は、士中二番隊である。

 総督:黒河内式部
 士中一番隊
49名  隊長:春日和泉
 士中二番隊
42名  隊長:日向内記
 寄合一番隊
106名  隊長:原 早太 → 望月辰太郎

 寄合二番隊
67名  隊長:太田小兵衛
 足軽一番隊
79名  隊長:日向弥志□
 足軽二番隊
 隊長:唐木助之進
 ( 総 勢 ) 343名  


・護衛隊 (ごえいたい)
 13〜15歳の少年有志で編成。
 城内の守備を行ない、開城まで奮戦。
 後に第6代大阪市長を務めた池上四郎の兄/三郎も加入し、篭城戦を戦いぬいた。
 中軍護衛隊 約50名  隊長:西郷寧太郎


・年少隊 (ねんしょうたい、幼少隊、ようしょうたい)
 14歳から15歳で編成。
 士中、寄合一中隊で構成。
 城下で戦うも、多くが戦死。
 年少隊 (幼少隊) 約100名  隊長:安部井登


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