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昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2015/10/04(Sun) 23:04)]
昭和前半、昭和の初頭から昭和30年代にかけ、日本映画は黄金時代にあった。

まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、
娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があった。そして映画公開を楽しみに待った。
その映画には主題歌があって、レコード全盛時代で映画とともに人々は、それを愛唱し
口ずさんだのが今に残る多くの名曲だった。

日本におけるトーキ―映画の最初は田中絹代主演の昭和6年「マダムと女房」。日本における「映画主題歌」は、
昭和4年、佐藤千夜子「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)。

特に、映画と提携したのが昭和6年に彗星のごとく登場した古賀政男で、「古賀メロディー」の名で愛されたその多くの名曲の、その多くは映画主題歌でもある。


[76:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/09/13(Wed) 12:55)]
昭和歌謡が好きな人集まれ!


[77:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/09/19(Tue) 15:28)]
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


[78:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/09/20(Wed) 21:03)]
昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS 10cH


[79:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/09/30(Sat) 11:11)]
古賀政男さんがつくった軍歌・軍国歌謡 その五 「勝利の日まで」


「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞 古賀政男作曲。霧島昇歌。一九四四年四月・コロムビア


h ttp://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/04/post_6c1b.html


[80:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/10/12(Thu) 22:10)]
昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/music/index2.html#2


[81:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/10/13(Fri) 18:26)]
>>80

訂正

昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50


[82:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/01(Thu) 06:19)]
>>79

勝利の日まで(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、昭和20年)

「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。
・・
昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。
映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、
♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
 こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲「勝利の日まで」(サトーハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。
これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感を持つ哀調を帯びた名曲。



「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)
昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。
当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。
りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。
遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。
毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
 
 楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。
『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。

そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
 
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むことも許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
 出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。
そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。
・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・


[83:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/01(Thu) 07:04)]
勝利の日まで
作詞 サトウ・ハチロー 作曲 古賀政男

一、 
丘にはためく あの日の丸を   
仰ぎ眺める 我等の瞳   
何時かあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎   
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 
二、 
山で斧ふる 翁の腕も   
海の若者 櫓を漕ぐ腕も   
町の工場の 乙女の指も
今日も来る来る お國の為に  
我等はみんな 力の限り 
勝利の日まで 勝利の日まで
 
三、 
雨の朝も 吹雪の夜半も   
思ふは一つ ただただ一つ   
遠い戦地と 雄々しき姿
浮かび来る来る ほほえむ顔が 
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 
四、 
空に飛び行く 翼に祈り   
沖をすぎ行く 煙に誓ふ  
國を挙げての この戦に           
湧いて来る来る 撃ちてし止まん   
我等はみんな 力の限り   
勝利の日まで 勝利の日まで
 


[84:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/01(Thu) 07:08)]
「勝利の日まで」

サトー・ハチロー作詞 古賀政男作曲 歌手 霧島 昇

太平洋戦争の終盤 いよいよ先行きが危うくなってきた昭和19年の発表、国民総動員命令が下令され、女学生・中学生も学業を捨て、教師とともに勤労動員に駆り出された時です。
あたかも その応援歌となった歌ですが、もうサイパンは陥落し、対米勝利などありえないのが、然るべき人々には明白でした

内容の深刻さと対照的な奇妙に明るい歌詞とメロデイは、このコンビが戦後の歌謡界にも通用した理由でしょう。

アナクロニズムそのもので 戦後長く封印されてきた理由もそれですが、
「二度と こんな時代が来てはならない」と反語の意味で取り上げます。

音楽も娯楽も あらゆる文化が戦争賛美につながるよう仕向けられ、個人の楽しみが完全にはく奪された時代です。「時局がらふさわしくない」という理由で退けられた 音曲・映画の多かったことも、知られています。

昭和二年生まれの亡母は、ひもじい思いをさせられた女学校の苦しい動員生活を、奪われた青春として、何度も語っていて、戦後はシャンソン系にはまっていました。

晩年に、このメロディを聞くと女学生時代を思い出して、こっそり涙ぐんでいました。
戦時歌謡は、TVも映画もない当時の国民の 唯一の娯楽だったのでしょう。


[85:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/08(Thu) 21:00)]
「西条八十作詞・古賀政男作曲」の沢山ある名曲の一つに、松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の主題歌で格調高い「サヨンの鐘」(1941)他がある。
今ほとんど知られてないが、日台の架け橋のような歌で、現在も台湾で知らない人は無い歌だそうで参考までに、中国名「月光小夜曲」。

「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、
自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまう、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送る。それを聞いた渡辺はま子が
、太平洋戦争直前にこの歌を歌う。後昭和18年に映画が作られる。

平成10年9月7日NHK 特集で放送された。日本人の高校生の女の子が台湾に行き、「サヨン」のお姉さんや知り合いに、当時の様子を 取材して歩くというもの。
「サヨンの鐘」は、中国語では「月光小夜曲」というタイトルで歌われていますが、 サヨンの村では、日本の歌詞をそのまま中国語に訳して歌われてる。
台湾原住民(かつての高砂族)の小学生達が学校で合唱していました。




「サヨンの鐘」(西条八十)渡辺はま子・・中国名「月光小夜曲」
  ♪あらし吹き巻く 峯ふもと  流れあやふき 丸木橋・・

「サヨンの歌」(西條八十) 李香蘭(山口淑子)
  ♪花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜露に濡れる・・

「なつかしの蕃社」(西條八十)霧島昇、菊池章子
  ♪春はやさしい 緋桜が 赤く七つの 峰染めて・・

<CD 紹介>
CD「渡辺はま子 / シナの夜 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・サヨンの鐘
CD「李香蘭 / 蘇州夜曲 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・・・サヨンの歌
CD「SP原盤復刻による日本映画主題歌集 5」(「サヨンの歌」「なつか  
   しの蕃社」「勝利の日まで」他)(「サヨンの鐘」は入ってない。)

「サヨンの鐘」の“鐘”と、『組曲 サヨンの鐘』
  h ttp://www1.ocn.ne.jp/~shoji/sayon.html
h ttp://yi-lan.karube.net/AVSEQ33.htm



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