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【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/06/19(Sun) 18:45)]

唱歌・童謡、新民謡、歌曲・歌謡曲、多くの詩人、作曲家が生まれ、明治以来たくさんの「日本の歌」が生まれました。

その歌は多くの詩人や作曲家の人一倍の歌にかけるたゆまぬ情熱と努力の賜物であり結晶であり、かけがえのない文化遺産です。

日本の音楽文化遺産、日本の名歌・名曲・名盤を語りましょう。


[202:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/01/05(Sat) 13:27)]
>>200

荒城の月:滝廉太郎作曲「荒城月」は無伴奏で、歌われている「荒城の月」は編曲版。

戦前、SP盤は山田耕作編曲版、本居長世編曲版、橋本国彦編曲版、古賀政男編曲版(李香蘭)がある。


[203:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/01/05(Sat) 21:53)]
「旅人の唄」

大正12年(1923年)2月 発表「旅人の唄」作詞 野口雨情/作曲 中山晋平

レコード:昭和3年12月発売『旅人の唄』ビクター/佐藤千夜子 歌 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲 伴奏

昭和3年(1928)に野口雨情、作曲家の中山晋平らが行っていた「新民謡運動」で佐藤千夜子が「旅人の唄」を歌う。ちなみに、佐藤千夜子は日本初のレコード歌手と言われる。

佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは日本全国に限らず台湾、蒙古まで出掛けています。

旅人の唄 (野口雨情作詞 中山晋平作曲 佐藤千夜子歌)

 山は高いし 野はただ広し
 一人とぼとぼ 旅路の長さ

 乾く暇なく 涙は落ちて
 恋しきものは 故郷の空よ

 今日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国やら 果てさえ知れず

 水の流れよ 浮き寝の鳥よ
 遠い故郷の 恋しき空よ

 明日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国かよ 果てさえ知れず
 
 ・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 h ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536

旅人の唄 歌碑
茨城県北茨城市磯原町磯原1-240 JR常磐線 磯原駅西口広場にある。。。


[204:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/01/05(Sat) 22:01)]
☆野口雨情作詞、佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品のうち,野口雨情作詞の代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲) 大正13年(内外蓄音機)
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922)ビクター53876
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター50385
青い芒  1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
港おどり 1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
紅屋の娘 1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクタ‐50755
船頭小唄 1932.6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


[205:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/01/05(Sat) 22:03)]
野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。
詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 

野口雨情は、放浪の詩人、土の詩人などとも言われる。野口雨情(英吉)の青春時代・明治時代は、まだ開拓と移民の歴史でもあった。
日本でも北海道開拓のために、多くの人が北海道の原野に入殖した。あの「赤い靴」の話も、厳しい寒冷地だった北海道入殖に伴う悲話といえる。雨情は北海道での生活の中で、そのことと出会う。

雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。
明治35年(1902)3月、文芸雑誌「小柴舟」によって詩壇に登場するが著名の域までにはいたらなかった。 同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ひろと結婚。
同38年3月、処女詩集「枯草」を自費出版した。 
父の残した借財整理の煩わしさから逃げたかったのか、同39年(1906)当時日本領であった樺太に渡ったものの事業は失敗、
帰郷後、月刊詩集「朝花夜花」の刊行も詩壇の一部で注目されただけだったが・・「七つの子」の原型が「山がらす」♪烏なぜなく 烏は山に 可愛い七つの子があれば・・としてここに載っている。


[206:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/01/05(Sat) 22:07)]
広大な山林田畑を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。
雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。
明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。
そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。
雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。
雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。

昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。
そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。

雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。


[207:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/02/12(Tue) 18:09)]
☆サトウハチローと「童謡」
童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。
その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・

   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。
寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
  ttp://www.0108.tv/history2.htm

中田喜直ら若手は、後にその批判した「童謡」の名をそっくりそのまま戴いて、「童謡協会」を作って、会長(初代、サトウハチロー、二代目中田喜直))に収まり童謡を推進する!というのだがいかにも動機不純なのは否めずすっきりしない。

ここに大正時代に始まった『童謡運動』はここに終焉を迎えることとなった。

昭和30年代後半から40年代にかけて、「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」、「ぞうさん」などが盛んに歌われることもあった。しかし、いま殆ど聞かれない。


[208:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/02/12(Tue) 18:23)]
>>207

「うれしいひな祭り」

サトウハチロー作詞  
河村光陽作曲




あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔(がお)
お嫁(よめ)にいらした 姉(ねえ)様に
よく似(に)た官女(かんじょ)の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒(しろざけ) めされたか
あかいお顔の 右大臣(うだいじん)

着物をきかえて 帯(おび)しめて
今日はわたしも はれ姿(すがた)
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り



寒い冬がようやく終わり春の訪れが感じられるきょうこの頃、
どこからか聞こえるのはこの歌 うれしいひな祭り

昭和11年(1936)山野三郎名義

やはり日本の歌はいい、やさしくほっとする温かさがある名作
やはりまだ日本が貧しく、草深かった戦前の唄はいい!。


童謡歌手桑名貞子盤がいい。


[209:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/02/12(Tue) 18:54)]
■殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


■ たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。



■ 歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

因みに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。





[210:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/02/20(Wed) 18:48)]
   
   「さすらいの唄」

北原白秋作詞・中山晋平作曲


行(ゆ)こか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を
露西亜(ロシア)は北国 果てしらず
西は夕焼 東は夜明
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に

泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠い灯(あかり)も チラチラと
とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(アオ)よ
明日(あす)の旅路が ないじゃなし

燃ゆる思いを 荒野にさらし
馬は氷の 上を踏む
人はつめたし 我が身はいとし
町の酒場は まだ遠し

わたしゃ水草(みずぐさ) 風吹くままに
流れ流れて 果てしらず
昼は旅して 夜(よ)は夜で踊り
末はいずくで 果てるやら

大正6年(1917)松井須磨子
昭和9年(1934)佐藤千夜子

佐藤千夜子盤絶品!


[211:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/02/20(Wed) 18:55)]
『ゴンドラの唄』

吉井勇作詩 中山晋平作曲 

1.いのち短し恋せよ乙女
紅き唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

2.いのち短し恋せよ乙女
いざ手をとりてかの舟に
いざ燃ゆる頬を君が頬に
こヽには誰も来ぬものを

3いのち短し恋せよ乙女
黒髪の色褪せぬ間に
心のほのほ消えぬ間に
今日はふたたび来ぬものを


『ゴンドラの唄』は、1915年(大正4年)芸術座公演『その前夜』における劇中歌として作曲され松井須磨子が歌った。昭和9年(1934)、佐藤千夜子が吹き込んでいる。


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