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【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/06/19(Sun) 18:45

唱歌・童謡、新民謡、歌曲・歌謡曲、多くの詩人、作曲家が生まれ、明治以来たくさんの「日本の歌」が生まれました。

その歌は多くの詩人や作曲家の人一倍の歌にかけるたゆまぬ情熱と努力の賜物であり結晶であり、かけがえのない文化遺産です。

日本の音楽文化遺産、日本の名歌・名曲・名盤を語りましょう。


212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 22:46
>>211

生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌でもあった。 晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平、信州中野出身の晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として賞を獲得したり栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
その28日後、今から67年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。 晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。



213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/02(Sat) 00:36
古賀政男総合スレ 2CH


h ttp://2chb.net/r/natsumeloj/1320231349/


ここのyou Tube で李香蘭歌う「荒城の月」(土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲 1942)が聴けます。

李香蘭が戦地慰問でいつも最初に歌ったのが、この「荒城の月」です。


214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/02(Sat) 23:22

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)

そして、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていくのが古賀政男の【古賀メロディ】。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそことによる。

今年、平成31年は『古賀メロディ 88年』

影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・

もうすぐ90年!


戦前の「古賀メロディ」のたくさんある名曲のほとんどが80年を超えた、名実ともに【日本のクラッシック】といえるもの。



215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/12(Tue) 13:39

童謡を次世代へ、学会創設 雨情の作曲コンクール開催
2019 3/5(火) 16:49配信 共同




日本童謡学会の会見に出席した松尾一彦さん(後列左)、野口不二子さん(前列中央左)、海沼実さん(同右)ら=東京都内
 童謡を次世代へ歌い継ごうと、歌手や研究者らが昨年、日本童謡学会(東京都新宿区)を創設。今春から詩人野口雨情の詩に曲をつける作曲コンクールを開催するなど、普及や研究に向けた活動を本格化させた。

 同学会理事長で、長年合唱団などで童謡の指導をしてきた音楽教育家の海沼実さんは「童謡は想像力をかき立てる作品が多い。心にとっておやつのような、栄養を満たしてくれるもの。子どもたちに、創作当時に込められた思いを大切にしながら、伝承していきたい」と話す。
同学会は、北原白秋らが童謡を発表した雑誌「赤い鳥」の創刊100年に当たる昨年7月に創設された。昨今、幼稚園や保育園などの教育現場以外では童謡を歌う機会が激減しており、海沼さんは「風前のともしび」と危機的状況を訴える。

 「七つの子」や「シャボン玉」を生み出した雨情の詩に曲をつける作曲コンクールは、プロ・アマ問わず、8月末まで作品を募集している。審査員を務めるのは、雨情の孫野口不二子さんや、NHK「みんなのうた」で放送された童謡の作曲も手掛けた元「オフコース」の作曲家松尾一彦さんらと、力が入る。
 今後は、童謡を使った音楽療法で高齢者の心身ケアをする「童謡セラピスト」の養成や、童謡に関するデータベース構築なども計画している。
名誉理事に就任した、落語家の故初代林家三平さんの妻でエッセイスト海老名香葉子さんは1月、都内で開かれた会見で、戦災孤児となった自身の経験を踏まえて思いを語った。「私は童謡や唱歌によって生き永らえました。歌は人の心を優しくしてくれます。(雨情ら)先生方がつくった童謡を永遠に歌い継がなくてはいけない」



216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 18:14
「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。
明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。
当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。
哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。
世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。
三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれば」に通ずることだ。
他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。
武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。

「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)
※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。
幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。
そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。
戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 22:55
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 13:21
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」

好評 発売中!

オリジナル原盤を使っているので良い。


219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:25
流行歌の世紀―近代日本の大衆音楽(菊池清麿)
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html

流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。



220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:44
苦闘の時代―作曲家・古関裕而誕生
コロムビア入社



221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:44
昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア

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