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【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。




131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:27
>>130
昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 18:02

   11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日




史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。


133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/19(Sun) 22:54
古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。


代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。



134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/19(Sun) 23:07
古賀政男音楽博物館の概要
作曲家の古賀政男が住んでいた屋敷をそのまま公開したもの。ここで数々の名曲・古賀メロディーが生れ、今では大物とよばれる歌手たちもレッスンに通っていた。書斎・居間・寝室には生前のままにピアノなどの愛用品が置かれ、懐かしのレコードや多くの写真・原譜も展示されている。

135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/16(Sat) 22:38
3つの「雲のふるさと」
李香蘭の未発表曲2曲が発見され、話題になっています。いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」で、昭和19年に録音されながら、レコ−ドにはなりませんでした。「雲のふるさと」は、信濃出身の兵士が前線で、ふるさとをしのび涙を流すところが、戦争も末期になった軍部の気に入らなかったのか。この曲はその前年に、伊藤久男が映画「あの旗を撃て」で歌ったのが最初です。6連音符をあしらったり、古賀メロディーでもユニークな歌曲調で、自信作だったようです。せっかく李香蘭の美声で歌われたのに、くやしかったことでしょう。
この歌には、なおも後日談があります。なんとかもう一度世に出したいという古賀の執念がみのって、戦後の昭和42年、関沢新一の新しい詩を得て「思い出は遠く哀しく」という歌に生まれ変わり、美空ひばりが歌いました。こんどは、幼馴染と別れて都会に出た青年が、やがてその人が誰かの花嫁となったことを伝え聞き、遠く哀しい思い出に熱い涙を流すという、青春センチメンタリズムの極致のような歌です。ヒット曲にはなりませんでしたが、「私はセンチメンタリスト」が口ぐせだった古賀は、これでやっと気がすんだことでしょう。昭和53年の古賀の葬儀でも、明治大マンドリン部の後輩たちが、この曲を演奏して、偉大な先輩を送りました。
「雲のふるさと」は、まもなくコロムビアから発売される2枚組CD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収められています。これで、この曲は、伊藤久男・李香蘭・美空ひばりの3種が揃うことになり、古賀の満足や、思うべし。「思い出は遠く哀しく」はカラオケにもあります。

136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/18(Mon) 08:57
「雲のふるさと」は戦後、NHKラジオ歌謡として放送された。

137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/20(Wed) 15:05
音楽文化研究家、長田暁二氏によると、古賀政男が世に出た昭和初期は、
東の横綱はカチューシャの唄の中山晋平、西の横綱は祇園小唄の佐々紅華。

ここに古賀政男が打ってでて世代交代を果たしたといえる。
これまでの作風と大きく違うところ、それは、これまでのピアノと違って、
ギター(クラッシックギター)は旋律の指ずかいからまるで違ったもので、
ギタ―歌曲にしかできない繊細なメロディが奏でられる。

ピアノ、オルガンは、いくつかのキーボードで決まってしまうデジタル演奏である面があるのに対し、
ギタ―は純アナログ演奏ってしまうといえる。

ギター演奏家大家であった古賀政男「古賀メロディ」の秘密。




138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/20(Wed) 15:07
ピアノ、オルガンは、いくつかのキーボードで決まってしまういわばデジタル演奏である面があるのに対し、
ギタ―は純アナログ演奏といえる。

139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/20(Wed) 15:35
いくつかのキーボードで決まってしまうピアノ、オルガンに対し、
ギタ―歌曲では繊細なメロディが表現できる。
これがギターの大家であった古賀政男「古賀メロディ」の秘密。




140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/21(Thu) 09:10
キーボード楽器でもあるピアノが限られた鍵盤で演奏するしかないのに対し、
ギタ―は間(ま)の細かい繊細な音を自由に奏でられる。

プレクトラム音楽家で演奏家、ギタ―の名手でもあった古賀政男。
「古賀メロディ」と称され愛されで続けた理由でもある。

「影を慕いて」は昭和3年の作曲であるが、完成には3年位かかり、昭和4年(1929)10月29日の
アンドレ・セコビアの来日を経て完成。

ギタ―演奏については徹底的に研究し尽した、ギタ―の最大の名手である。

昭和6年1月佐藤千夜子(ビクター)、昭和7年3月藤山一郎(コロムビア)で公開された。


初期の「影を慕いて」や「月の浜辺」から、戦後の「麗人の歌」「湯の町エレジ―」など多くの曲に自らギタ―伴奏している。
これが、「古賀メロディ」の特徴であり、「古賀メロディ」が「「古賀メロディ」として永く多くの人々に愛され歌われ続けた理由はここにある。

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/21(Thu) 09:44
国民栄誉賞作曲家古賀政男の,正式なレコードデビューは昭和6年3月コロムビアであるが、その前にも佐藤千夜子版がビクタ―から出た。
さらに古賀政男のレコードデビュ―としては、その前にも作曲家としてではなく、ギター演奏家としてのレコード吹込みが先だった。
昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》がそうだ。
尺八の野村景久と共演した。さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。
まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 昭和四年十二月二十三日、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手佐藤千夜子の歌でレコードになる。

142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/21(Thu) 09:50
国立国会図書館 歴史的音源
永続的識別子 info:ndljp/pid/8274465
タイトル ギター・尺八連奏:恋慕流し(上)
作詞・作曲・編曲・実演家
野村 景久[尺八]
鈴木 光久
古賀 正男[ギター]
製作者(レーベル)コロムビア(戦前)
発売年月日 1929-06
詳細レコード表示にする

143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/22(Fri) 22:16
日本コロムビア ホームページ

古賀政男プロフィール

古賀政男
◇ 本名:古賀正夫
◇ 生年月日:明治37年11月18日
◇ 出身地:福岡県三潴郡田口村(現:大川市)

明治大学在学中に明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画し、在学中に音楽家を志す。
昭和4年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にて処女作「影を慕いて」を発表。昭和6年にはコロムビア専属の作曲家となり、昭和9年にはテイチクに移籍したが、昭和13年にコロムビアへ復帰。半世紀近くに渡っていわゆる“古賀メロディー”を発表し、数々のヒット曲を生み出した。
作曲活動のかたわら、昭和13年には外務省の音楽文化親善使節として世界各地を訪問、昭和49年には広島平和音楽祭を開催するなど、音楽で平和を訴える活動を続けた。また、昭和34年には日本作曲家協会を創設して初代会長に就任。日本レコード大賞を制定するなど、音楽界の発展に尽力した。
昭和53年7月25日、73歳で死去。翌8月4日、“古賀メロディー”作曲による実績が認められ、国民栄誉賞を受賞した。

144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 09:11
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/01(Mon) 20:18
作曲家古賀政男が昭和53年7月に亡くなって、今年、平成30年(2018)は40年になる。

古賀政男が作曲家として世に出たのは昭和6年(1931)だった。日本がまだ貧しかった時代(1931)である。
昭和の大不況、世界大恐慌と、満州事変の勃発、太平洋戦争に至る遠因ともいわれる東北大凶作の真っただ中だった。

小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡が新たに「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から87年前の昭和6年(1931)3月。
「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。




146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/01(Mon) 20:21
古賀政男没後すでに40年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。








147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 11:49
日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)
戦後の会長は作家で、詩人と作曲家が交互にやることになっていたのが、吉田正あたりから詩人がいなく崩れてきているようだ。



歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家


148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 11:53
公益社団法人 日本作曲家協会歴代会長

初代 古賀政男 1958 - 1978  (昭和33年−53年)
2  服部良一 1978 - 1993
3  吉田正  1993 - 1997
4  船村徹  1997 - 2005
5 .遠藤実  2005 - 2008
6  服部克久 2008 - 2013
7  叶弦大  2013 - 2017
8  弦哲也  2017 -

149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 20:03
設立目的 日本作曲家協会


昭和33年(1958年)11月30日に「作曲活動を振興し日本の音楽や芸術文化の向上を図り作曲家の社会的地位と著作権を守る」ことを目的に初代古賀政男氏(昭和53年・1978年没)を会長に発足しました。そして平成24年4月1日に公益社団法人日本作曲家協会として再出発しあらためて「作曲活動の振興を通じて音楽の普及を図り、もってわが国の芸術文化の発展に寄与することを目的とする」を定款に掲げ活動を続けております。


150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/13(Sat) 08:05
NHKホームページより

NHKアーカイブス・スペシャル
幾山河は越えたれど 〜昭和の心 古賀政男〜
放送:前編 12月29日(日)23:10〜翌0:55(105分)
   後編 12月30日(月)23:25〜翌1:10(105分)

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
 1979年(昭和54年)4月14日放送
 90分×2本(二部構成)
前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。

後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。

【スタッフ】
脚本:早坂 暁/たなべまもる
音楽:山本丈晴
制作:萩原具佳
演出:岡崎 栄
美術:青柳敏郎
技術:高尾禮充
効果:高橋美紀
撮影:山下政人
VTR技術:松岡住夫
照明:宮本省二
音声:服部己喜男

【出演】
渥美 清

柳生 博

水谷良重

ハナ 肇

山内 賢

森 光子
 ・・・ほか

藤山一郎 
 ディック・ミネ
霧島 昇 
 近江俊郎
村田英雄 
 島倉千代子
美空ひばり 
 森 進一
さとう宗幸 
 八神純子
ツイスト 
 原田真二
さだまさし 
 矢野顕子

【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒

【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。

*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。

古賀政男音楽博物館
 〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12

*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。

古賀政男記念館
 福岡県大川市大字三丸兼木844

151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/19(Fri) 09:45
最近なんでも区別がない、何でも同じ。名曲が存在しない。

戦後に至るまで「メロディ」のつく作曲家は古賀政男の「古賀メロディ」ただ一つ。

それはレコード最初期から半世紀にわたって世の主流だった「古賀メロディ」だから。
それは大御所、惧れ多い称号のようなものだったのだ。


戦後、昭和40年台「懐メロブーム」が起こって、たくさんの作曲家を区別のためなのか、

作曲家の後ろにナンデモ「メロディ」をつけて同じにしてしまったのだ。
服部良一などリズム系(J−POP)とされるものなどにも、なんでもかんでも。

服部メロディとか、古関・・吉田・・とか・・実際にそういうのが使われた形跡はない。

いまの「なんでも名曲」につながるおかしなこととして指摘しておきたい。

152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/20(Sat) 20:06
昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。

直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。

古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。

古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。

古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を与えてくださった終生の恩人」と書いている。


「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)

このうち音楽学校卒業が22人。

藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。

22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。

関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。

今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。


・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・それが古賀メロディ・・・

第一級の文化遺産・大切に歌おう!

153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/21(Sun) 15:50
最近なんでも区別がない、何でも同じ。名曲が存在しない。

戦後に至るまで「メロディ」のつく作曲家は古賀政男の「古賀メロディ」ただ一つ。

それはレコード最初期から半世紀にわたって世の主流だった「古賀メロディ」だから。
それは惧れ多い称号のようなもの。


戦後、昭和40年台「懐メロブーム」が起こって、たくさんの作曲家を区別のためなのか、

作曲家の後ろにナンデモ「メロディ」をつけて同じにしてしまったのだ。
服部良一などリズム系(J−POP)とされるものなどにも、なんでもかんでも。

服部メロディとか、古関・・、吉田・・、、とか・・実際にそういうのが使われた形跡はない。

「なんでも『・・メロディ』」は、いまの「なんでも名曲」につながる」、誤解を与えるおかしなこととして指摘しておきたい。


154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/22(Mon) 21:11
【古賀メロディ】とは、レコード歌謡創世記昭和6年頃から戦後に至るトップブランド「古賀メロディ」・・昭和の歌謡史が生んだ、そのトップブランドへの唯一の敬称で他にない。


155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/26(Fri) 23:59
(論文紹介)
メロディパタンのクラスタ分析 -古賀メロディパタンの特徴- Cluster analysis of melody pattern-A characteristics of KOGA melody style-
h ttps://ci.nii.ac.jp/naid/110003106845

・参考文献: 19件
・被引用文献: 2件
著者
秋山 好一 AKIYAMA Kouichi
 大阪電気通信大学短期大学部
松田 稔 MATSUDA Minoru
 大阪電気通信大学工学部

抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。

収録刊行物
日本音響学会誌 00053(00012), 915-921, 1997-12-01
(一般社団法人 日本音響学会)


156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 22:29
コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

東京メトロ、小田急線代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前



157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/12(Mon) 20:10
古賀政男
1904‐78(明治37‐昭和53)
昭和の大衆歌謡の最大の作曲家。《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》《人生劇場》《湯の町エレジー》《悲しい酒》など広く愛唱される〈古賀メロディ〉の数々を残した。福岡県生れで少年時代を朝鮮で過ごし(そのため朝鮮民謡の影響を受けたとされる),明治大学マンドリン・クラブの部員時代に作曲を試み始め,コロムビア・レコード専属作曲家となって,1931年以後次々にヒットを出した。中山晋平に代表される大正期には,唱歌調,新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が,[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて「歌謡曲」として確立されたと言える。
出典 株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説


158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/12(Mon) 23:05
>>152

今やなんでも名曲だが、シンガーソングライターといって、すべて自己流、音楽学校出はいない。

トップブランドネームたる「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が佐藤千夜子から、戦後を除いて27人。(1929‐1945)

このうち音楽学校出身歌手が22人。

藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。

音楽学校出身22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」*音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。
(*東京美術学校と東京音楽学校が戦後の学制改革で東京芸術大学となる。)

関種子、藤山一郎(増永丈夫)は東京音楽学校本科主席卒業。

(そのレコードデビューは古賀政男のデビューそのもの。

今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・その理由だ!。


159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/13(Tue) 00:19
>>158

■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。

東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての
「歌謡曲」というジャンルが確立していった。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には」、それを支えた優れた音楽学校出身歌手がいた。

以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり (古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
杉狂児    東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。





160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 12:24
>>157

中山晋平に代表される大正期には,唱歌調,新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が,[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて「歌謡曲」として確立されたと言える。

161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 16:35
NHKTV「日本の名曲10曲」

「荒城の月」
「波浮の港」
「叱られて」
「この道」
「浜千鳥」
「影を慕いて」
「出船」
「宵待草」
「花」
「からたちの花」



162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:18
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 11:58
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本の名曲、それは日本がまだ貧しかった時代、明治から大正、昭和の初めにかけて、多くの当代随一・第一級の大歌手・声楽家が歌い継いできた、80年を超える歴史を持つ。


164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/20(Tue) 09:23
日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/21(Sat) 18:08
古賀政男音楽博物館「国際博物館の日」記念 無料開館日

平成30年5月18日(金)

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」です。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)を無料開館日と致します。
ぜひご来館ください。

166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/20(Fri) 13:59
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06

尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。


167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/08(Wed) 16:35
(参考)

「音の歴史とビクター」日本ビクタ―(株)(研修資料)

抜粋
日本ビクタ―蓄音機株式会社創立前後
ラッパ吹き込みと電気吹き込み
赤盤と邦人歌手
レコード流行歌とビクタ―の独走
古賀メロディの出現
ラジオ放送とレコードの競争
昭和10年代 第一次・第二次大戦時代
昭和20年代 戦争は終わった
昭和30年代 SPの終焉とステレオレコード その他




168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/09(Thu) 12:45
>>167

音の名門ビクター その貴重な資料から、古賀メロディーの出現について・・

古賀メロディーの出現  

古賀政男の最初のヒット曲「酒は涙か溜息か」が、昭和6年 8月に藤山一郎の唄 でコロンビアから発売されると、空前の 大ヒットとなった。「影を慕いて」が作曲としては早く、明大の学生当時(3年)に明大マンドリン倶楽部の演奏会で佐藤千夜子が唄っている。レコードも4年にビクターから発売されているが話題にならなかった。7年に藤山一郎が唄ってヒットさせている。
 古賀政男は子供の頃朝鮮に育ち、「ヨナ抜き」晋平節の流行の中で、日本的な 哀調味をただよわせながらも、朝鮮の俗謡に流れる哀愁味をつきまぜ、独特の頽廃感をもった曲である。藤山一郎は東京音楽学校 在学中で,レコード吹き込みが学校側に知れて、退学処分にされかけた。1ケ月の停学で ある。「酒は涙か溜息か」に続いてヒットした「丘を越えて」 (島田芳文作詞、古賀政男作曲)は、伴奏にアコーディオンを 初めて使ったものであったが、50〜60万枚売れたという。


169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/12(Sun) 20:24
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06



尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。
さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。

170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:13
「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来


昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。

“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。

【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対するもの(称号)であり、「メロディ」をつけるのはただ一つ【古賀メロディ】だけ。


(作曲家の後ろに何でも、JPOP、リズム系までなんでもメロディをつけて呼ぶのは、戦後昭和40年代以降のナツメロ番組で、実際にそう呼ばれたわけではない。)


古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、

いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。

そして両方とも、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)





171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:43
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/19(Fri) 00:25
[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年3月から8月まで。
古賀メロディの隠れた名曲、NHK国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)♪丘にはためくあの日の丸を仰ぎ眺める我らが祈り・・がある。
合唱版は昭和20年1月である。2月には硫黄島の戦い、3月10日一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲・・。
昭和19年から日本各地に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。この歌を歌ってるとなぜか涙が出てきて歌えなくなる‥この歌を最後に古賀政男は川口湖畔に疎開となった。


今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和15年(1940年)1月20日、日本コロムビアから発売された。歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

西條八十作詞、古賀政男作曲の数えきれないほどたくさんある名曲のうちでも日本のスタンダードと言える名曲日常のごくありふれた日本の現光景、やさしい言葉、短い言葉で随所に散りばめられた詩人の殊玉の詩、それは今の世でも変わらず生き続けられる普遍性を持つ。

そこに嘘偽りがない、だからひとの心をとらえてはなさない。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという「誰か故郷を思わざる」。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で歌われ、内地に逆輸入された。

慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将(支那派遣軍総司令官、後に元帥陸軍大将 第二総軍司令官)から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

古賀は軍からは軟弱だといわれていたはずだが、こうしたこともあって、陸軍の中枢から非常事態、国難のさ中、戦争の最終段になって、戦禍から国民作曲家古賀政男を守らねばと気ずいたのだろうか。
なお、古賀政男は20年8月に復帰、戦後最初は昭和21年5月、霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪夢はやぶれて花嫁人形・・

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。
湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。


173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:07
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:45
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男と藤山一郎との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/18(Tue) 22:54
月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ

 2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ



 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。
 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。作詞の島田芳文は、古賀政男
 がコロンビア専属初期のコンビですが、『丘を越えて』『キャンプ小唄』
 と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。オリジナル
 のレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。


176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:29
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年昭和93年7月で40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。

177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/03(Sun) 23:29
丘を越えて(藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺(河原喜久恵)
乙女心 (関種子)
窓に凭れて(関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。



今年平成最後の平成31年(2019)は昭和94年、古賀メロディ発祥88年。

古賀メロディの殆どの名曲は80年を超える【日本のクラッシック】の名に恥じないものと言っていい。

178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/30(Sat) 22:25
>>133

古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。


代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。




小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴する古賀邸は、昭和13年に作られた、テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に外務省音楽文化親善使節として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。

14年、コロムビア復帰、JASRACのもととなる大日本音楽著作権協会設立にコロンビアとして深く関与。

古賀政男は著作権としても圧倒的であって、「著作権」と切っても切れない関係。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。

戦後、古賀政男は、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長。


財団法人古賀政男音楽文化振興協会、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。


179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/31(Sun) 21:45
古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会を作り自ら初代会長として日本レコード大賞を制定、作曲家の権利向上など、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。・・

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
大きな屋敷に住み、指には大きなダイヤをつけ、幅2mもあるリンカーンなど大きな外車に乗り、テレビが家庭に普及していく中で、歌謡番組では審査委員長として「よかったね、よかったね」と。


小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。
同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。
第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。



180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/31(Sun) 21:52
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、その財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。

西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された、東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。



財団法人古賀政男音楽文化振興財団、古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも不思議ではない。


多くの人が歌った聴いた、80年の歴史の重みをもつそれはもう「古賀メロディ」を越えた、「童謡」に匹敵する名実ともに【日本のクラッシック】である。


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