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【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。




2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:55
古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。



なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。



3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:58
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発」。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、86年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。


『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
h ttp://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY



 

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:58
毎朝、玄関でお金の音がする。

 これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。


5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:15
1931年(昭和6年),ちょうど古賀政男が作曲家メジャーデビューした年、ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲという人物が、ヨーロッパの主な著作権団体の代理人として、日本での著作権の使用許諾・使用料請求などの活動を開始しました。
これがいわゆるプラーゲ旋風で、これに慌てた日本政府は、1939年(昭和14年)仲介業務法を制定し、社団法人大日本音楽著作権協会に仲介業務の許可を独占的に与え、他の者は仲介業務ができなくなったのです。
 このためプラーゲはあきらめて1941年、日本を去ったのでした。これ以来、大日本音楽著作権協会、のちのJASRACがわが国の音楽著作権管理を一手に引き受けてきた。


6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:18
現在、一般社団法人日本音楽著作権協会(Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。英称を略し、「JASRAC(ジャスラック)」と呼ばれることも多い。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。

概要
音楽(楽曲、歌詞)の著作権を持つ作詞者・作曲者・音楽出版者から録音権・演奏権などの著作権の信託を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、著作権侵害の監視、著作権侵害者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。社団法人であるため一般社団・財団法人法に基づいて非営利目的の運営が法律により定められている。
本部は東京都渋谷区の古賀政男音楽文化記念財団が所有するビル内に設置され、22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは、現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、1939年(昭和14年)に設立された大日本音楽著作権協会をその前身とする。


7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:36
?日本音楽著作権協会(JASRAC)はヤマハや河合楽器などの音楽教室での演奏にも著作権料を徴収する方針を固めた
?JASRACは現在、コンサートや演奏会、カラオケにも著作権料を徴収している
?来年1月から徴収を始めたい考えだといい、徴収額は年間10?億円と推計。教室側は反対しており訴訟になる可能性も

これに対し反発も多い。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:41
?は点の文字化けです。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 18:49
JASRACに対する反発として巷では、このようなことも巷では言われています。
それほど古賀政男はJASRACに著作権料で貢献しているといえる。
またコロンビアの顔でもあり、最大の著作権者たる「日本の名士」たる古賀政男は、JASRACの設立にも関与した。


JASRACなんて単なる古賀政男先生の版権に群がった乞食のなれの果てでしょ?

JASRACって必要か?

JASRACっていうのは古賀政男という作曲家がはじめた著作権管理団体です。

古賀政男の曲使用料をとるだけの団体だったのが、横文字の社名にして分かりにくくしてる。


10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 19:44
明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、
代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRACのビル。

当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。(ちなみに「目白御殿」が2750坪)

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」に残っている。

代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。

古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。

戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。

これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。

ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。

また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。

また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。


西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、代々木上原の古賀邸跡の「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、平成6年に古賀財団(財団法人古賀政男音楽文化振興財団)のビルに移転。

「古賀政男音楽博物館」と一体で、その隣にそびえ立つこのビル(古賀財団のビル)にテナントとして移転。

JASRACをテナントとしてそびえたつその威容は、まさにそこが大衆音楽文化の聖地たる象徴にふさわしい。




11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 20:33
《婦系図の歌》(戦後《湯島の白梅》となる)《勘太郎月夜唄》がある。この二曲は清水保雄の作曲となっているが、実は古賀政男の作曲という説が存在する。
事の発端は、昭和45年、日本音楽著作権協会(略称・ジャスラック)の会長選挙戦である。会長選挙にはサトウ・ハチローと古賀政男が出馬する意向をしめしており、二人の一騎打ちが予想されていた。
この時、清水保雄はサトウ・ハチロー側を支持する立場に回り、古賀の出馬に反対する態度をとった。
これに古賀が激怒する一幕があった。この年の五月、古賀は、急性膵臓炎のために日赤病院に入院。

本来古賀がなると思われた、戦後中山晋平、西條八十、堀内敬三の後、戦後4代目のJASRACの会長は古賀政男ではなくサトウハチローとなった。

詩人サトウハチローの後、第5代古賀政男がなったのだが、昭和53年に亡くなってしまった。

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 20:57
日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家




13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:13
昭和14年に大日本音楽著作権協会として設立された。
会長は内務省関係政治家だったが、戦後は作家で、著作権者で作曲家と詩人が交代でやることになっていた。
分野はクラシックを含めたす音楽分野べて。だが「著作権」となるとクラッシックはほとんどいなく、実際は歌謡曲(歌謡曲とは歌詞をもった「歌曲」のこと)分野がほとんどすべて。

戦後初代は作曲家中山晋平、次に西條八十、堀内敬三、サトウハチロー、古賀政男、いずれも大衆歌謡に関係した知る人ぞ知る錚々たる人物といえる。
その後、歌も変わり昭和も末となるともう錚々たる人もいなくなる。

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:20
2006.07.24 Monday
【おぴにおん】 みんなで唄える歌がない(1) 戸倉真一

最近よくある話題に「最近の歌はメロディーがない」「皆で口ずさめる歌がない」「昔の歌はよかった」というのがある。主に70年代、80年代、集中的にヒットチャートに歌を送りこんでいた小生などの耳には一見心地よさそうに聞こえる会話なのだが、果たしてどうなのか。
確かに70−80年代に年間最低4、5曲はあったミリオンセラーが、最近のヒットチャートを見ていると1曲あるかないかである。CDの売り上げだけを見ても、2005年度は1995年度と比べても、実に半減している。この一見音楽業界の衰退とも見える現象には、様々な要因を含んでいる。
まず日本人は古来メロディー(節)を詩(うた)に付随するものとして捕(と)らえて来た。かつて故古賀政男先生から「都倉君、詩が夫でメロディーは女房の役目だよ」と言われ、若気の至りで「いや先生、私は逆だと思います」と、先生を苦笑させた覚えがある。
音楽家としては音が言葉より優先しているという気持ちが強かったようだ。1970年代と言えば録音技術の発達とともに作曲家の曲作りの方法も変わってきた頃である。いわゆるマルチトラック録音と言うもので、この辺からレコーディング・プロデューサーなる仕事も生まれた。いかにスタジオでよい音を作るか、良いサウンドを作るかにまい進し、言葉を軽視していった結果、いつしか良い「ミュージック」はあっても、良い「ソング」が出来にくくなってきたのかも知れない。
今の若者の音楽的感性は驚くほど発達して来たが、日本人のDNAが古来から持っている情緒のようなものが数十年で変わるはずもなく、もう一度すなおに「節」と「詩」に戻ってみる時なのかも知れない。
【神戸新聞 2006年1月11日(水)「随想」掲載 全7回シリーズ】


15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:36
5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年(1928)から53年(1978)に亡くなるまでの、半世紀にわたる「昭和」の歴史そのものの作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。

16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 21:44
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 22:27
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 23:23
一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

設立趣旨
 作曲家古賀政男は、生前から音楽文化の振興をはかるため、自己の財産を提供し、公益事業を目的とする財団法人の設立に熱意を燃やしてきました。
 その遺志を受け継いで、昭和54年1月18日、財団法人古賀政男音楽文化振興財団が、文部大臣の許可のもとに設立され、その後平成25年4月1日に一般財団法人に移行いたしました。
 以来今日まで、古賀メロディーの継承・発信と音楽文化の発展を目指して、古賀政男音楽博物館を中核とし、福岡県大川市の古賀政男記念館(分館)と連携しつつ、財団の活動を展開してまいりました。
 古賀政男音楽博物館では、古賀政男ゆかりの品々の展示とともに、日本の大衆音楽をさまざまな角度から取り上げた企画展示を行い、博物館併設の「けやきホール」では、古賀メロディーや歌謡史などをテーマにミュージアム講座、コンサートを主催するほか、各種の演奏会も開催しております。
 館内には、日本の大衆音楽文化の発展に貢献した作詩家・作曲家・歌手・編曲家・演奏家の方々を顕彰し、その輝かしい業績をたたえる「大衆音楽の殿堂」を設けております。
 さらに当財団では、全国各地での古賀メロディーを中心とした音楽祭・コンクールや舞祭りなどのイベントにも、毎年、共催・後援等を通じて積極的に協力をしております。
 今後さらに、古賀メロディーをはじめとする日本の大衆音楽文化の継承と発展に寄与していきたいと思います。

名 称:一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団
理事長:植木 浩
所在地:東京都渋谷区上原3−6−12
TEL :03-3460-9051
設立年月日:昭和54年1月18日
設立目的
 当財団は、古賀政男音楽博物館の設置・運営を行うとともに、音楽関係者に対する奨励・助成等を行い、もって我が国の音楽文化の発展に寄与することを目的とします。
事業内容
古賀政男音楽博物館の設置・運営及び音楽に関する調査・研究
「大衆音楽の殿堂」の設置による大衆音楽の創造、発展に顕著な業績のあった者に対する顕彰
音楽文化の発展に寄与している団体に対する助成
古賀楽曲の継承、振興を図るため、各地における歌謡祭等の開催
音楽堂(けやきホール)の設置・運営
事務所ビルの賃貸
その他設立の目的を達成するために必要な事業

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 23:27

事務所ビルの賃貸とはJASRACに対する本部ビルの賃貸です。

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 00:32
リンカーンなんて車幅が2mを超えている。
全長6m。

リンカーーーン


リンカーン、リンカーンといえば、まだ外車がめずらしかったころ、作曲家の古賀政男が地方に行くにも愛用していた車。


よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。
私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、
車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
h ttp://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html


師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。

 古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
 そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。
 坂を登った左側には大きな車庫があってリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。





21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 09:21
古賀政男先生のご自宅へレッスンに通った日々、思い出の古賀邸スケッチです。当時、住込み修業をしていたアントニオ古賀先生のご自宅から、バス、電車を乗り継いで40分。まだ十代でした。代々木上原古賀邸の思い出でも紹介してます。 (スケッチ/ルナ・ケンゾー)

 古賀政男先生の邸宅です。(図)

 井の頭通りに面して正門があり、そこからず−っと奥まで敷石道が続いています。
 門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。

 大きな石の門を入り長い敷石道の坂を上っていきます。
 左側には車庫があって、ベンツ、リンカーン、マスタングなど高級車が並んでいました。

 車寄せをはさんで車庫の向かい側が古い日本式洋館の古賀政男先生の邸宅です。

 玄関を入って左側の部屋がレッスン室でした。



22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 09:25
>>21

h ttp://lunaken.com/e/08070101.htm

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 12:09
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から86年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに36年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。









24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 12:19
古賀政男音楽博物館など「古賀財団」のビルは、上から見るとつながったコの字型。左がJASRACが入ってるビル、右が博物館。

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/15(Wed) 12:31
昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十、サトウハチロー、古賀政男など錚々たる詩人や作曲家などが会長となっている。

ただ、明治時代に作られた「著作権法」は戦後現在の姿に改正されるまで一度も見直しされず、パクリはけっこうあったようだ。

参考までに、西新橋から移転した現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。

「古賀政男音楽博物館」とともに、その建物が昭和の歌謡に絶大な寄与を果たし著作権も圧倒的とされた昭和の著作権王古賀政男の遺志を継ぐ「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理に属するというのは古賀政男の偉大さを物語るに十分すぎる象徴的なものであろう。

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#menu

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 11:38
☆古賀政男と『七人の侍』
・・古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など


古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。

いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。

古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりし人。 

あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカードやリンカーンを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。

戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。

古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。

 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。

さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。

『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。

このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 11:57
東京ラプソディ
昭和11年(1936年)

 日本では軍國主義が高揚され、軍歌が流れる中で民衆には渡邊はま子〈ああそれなのに〉や、美ち奴〈うちの女房にゃ髭がある〉等に人氣がありました。6月に入り〈東京ラプソディ〉が藤山一郎の明るい歌聲で發賣されると瞬く間に流行り出しました。
 風薫る5月、古賀政男は愛用のフォードで神宮外苑を運転しながら、樂想を深めたと云はれています。中山晋平の〈東京行進曲〉を念頭に、カサド作曲のマンドリン合奏曲〈西班牙の花〉の旋律を一部使ひ、昭和のモダン都市「東京」を謳歌する健康的な歌は、戰前最後のものでした。

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 14:02
現在の住宅地としての姿は関東大震災で焼け出された人々が土地の安さに引かれ移住したことに始まる。28(昭和3)年ごろには現在の古賀政男音楽博物館から坂を少し上った上原仲通り商店街の原型ができたが、住宅地と商店街の間には沼沢地と急峻な丘やがけがあり、大変不便な場所だった。

杯を傾け命名
 これを打破するため住民たちは団結。自らの手で丘を切り開き、35年には住宅地と商店街をつなぐ1本の坂道が完成した。落成時には杯を傾け坂の命名談義で盛り上がり、「皆で協力して苦労し、やりくりしたのだから『やりくり坂』が良い」との意見にまとまったという。

 

 「やりくり坂」完成後、沼沢地も埋め立てられ街は徐々に発展。引き寄せられた人々のなかには若き古賀政男の姿もあった。九州から上京し作曲活動の第一歩を踏み出したのがこの代々木上原だ。また日本人だけではなく、ロシア革命後、亡命を余儀なくされたトルコ系イスラム教徒の人々も住み着いた。彼らが協力して建てたのが東京回教学院。現在の東京ジャーミイである。

 「この街にユセフ・トルコというプロレスの名物レフェリーがいてね。彼が苦しかった時代、何から何まで面倒を見ていたのがうちの父親だった」と当時を回顧するのは、上原社会教育館館長の大木成介さん(79)。往時から住民同士助けあって温かな交流が持たれていたようだ。

トルコとの懸け橋
 東京ジャーミイは東京回教学院が老朽化、閉鎖した後、その跡地にトルコ政府の肝いりで00年に開堂。同寺院を切り盛りするエンサリ・エントルコさん(34)は第2代イマーム(礼拝のリーダー)。「東京ジャーミイは祈りの場だが、またトルコ文化センターとしての顔も持つ。トルコと日本の懸け橋となるよう施設はいつも開放し、住民の皆さんのお越しを歓迎します」と語る。今ではテレビで有名になり街の名所に。


古賀の音楽博物館
 もう1つのランドマーク・古賀政男音楽博物館は、3000坪あった古賀の大邸宅跡地に建つ。同じ敷地内には古賀も創設にかかわった日本音楽著作権協会(JASRAC/ジャスラック)がテナントとして入る。都内を転々とした古賀だが、思い出の地として52年に引っ越し、ついのすみかとなった。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 15:56
私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。昭和13年完成。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。。「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


代々木上原三丁目 古賀政男邸
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,

古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違い。

因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。

古賀メロディーを愛したというあの角さん(田中角栄)の、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)。
参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:21
『旅姿三人男』昭和14年
(テイチク/詩:宮本旅人/曲:鈴木哲夫/歌:ディック・ミネ)
清水港の・名物は・・


 この曲を作詞した宮本旅人の、伝記作家としてのもっとも有名な仕事は、古賀政男伝でしょう。いまでこそ古賀伝はたくさんありますが、昭和13年という早い時期に古賀伝を出したのです。たぶんこれが古賀伝の最初です。
 古賀邸に寝泊まりするほどの熱心さで、入念に打ち合わせて作られたとされる本で、したがって客観的な伝記というよりも、今活躍している芸能人の伝記と同様にPR的な色彩のつよい本ですが、それでもテイチク時代の古賀政男の周辺の事情などがわかり、貴重な資料となっています。
(宮本旅人はいろんな本を書いた人で、わたしの編纂したCD−ROM版SF書籍データベースには『シベリアのターザン』という本を入れてあります。シベリアを侵略してくるロシア人と戦うシベリア原住民の少年の話です)

 で、その古賀伝とは――

◎宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)

第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集

 B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。

 この本を神田の古書街で若いころ(50年くらい前です)に見つけて購入しました。
 古賀メロディのファンでも持っていない人が多く、当時すでに一種の稀覯本だったと思います。
 古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。
 復刻本には、著者の宮本旅人の復刻の言葉と同氏が撮ったらしい晩年の古賀政男の写真があって貴重です。


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:49
俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」

古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。


32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:55
戦後の西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。

 ♪おさない日 かなしい日
  聞いた歌 懐かしメロディー
  君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・

映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。

次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・

なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。



33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 22:46
西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。
父十兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子になりました。・・
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。
八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。
喉頭ガンをわずらっていました。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。

「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員 西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知の皆様に御通知申し上げます。




32 名前:名無しさん@お腹いっぱい

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 23:11
物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。





35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 15:12
「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩 古賀政男作曲
 昭和15年(1940)

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。



古賀政男氏が、生前あるテレビ番組で、この曲について語っていたことが印象に残っています。佐藤惣之助氏から歌詞をはじめて見せられたとき、古賀氏は感動で打ち震えたと言って「僕が心の夫なら 君は心の・・・」とつぶやいたあと、感極まってしばし絶句。そして口をついて出たのが、次の言葉でした。
  「私はね、歌謡曲というものはね、『詩』がお姉さんで、『曲』は妹だと思います。」

後日、この発言に対し、某作曲家が「古賀さんはああ言われたけれども、私は詩と曲とは『双子の姉妹』だと思います。」と異を唱えていました。
歌謡曲にとって詩と曲とは、お互いに、言わば、車の両輪という関係ですから、論理的には某氏の説のほうが正しいように思われます。しかし、古賀氏の言う「姉」と「妹」とは、ひとつのの作品が誕生するまでに至る順序を指しているのであって、「上下」や「優劣」とはまた別の話だと思います。時には愚姉賢妹という例だってありますから。
 「詩はお姉さん」という言葉が「作曲家」、しかも古賀政男という大家から発せられたところに、却って氏の誠実で謙虚な人柄が偲ばれるように思います。




36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 15:27
新妻鏡
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、
唄:霧島 昇・二葉あき子

1 僕がこころの良人(おっと)なら
  君はこころの花の妻
  遠くさびしく離れても
  泣くな 相模(さがみ)のかもめどり

2 たとえこの眼は見えずとも
  きよいあなたの面影は
  きっと見えます 見えました
  愛のこころの青空に

3 強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐にあてらりょう

4 むかし乙女の初島田
  泣いて踊るも生計(くらし)なら
  清い二人の人生を
  熱い泪(なみだ)でうたおうよ

*3番は歌われていない。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 21:53
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。


『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。



「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html


昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。


以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:03
人生の並木路

(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路


日活 1937.1.14 「検事とその妹」主題歌

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。

若きディックミネの歌う 昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。






39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:18
人生の並木路


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。
 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽
 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。
 これは、私の心の師「盲目の賢者」様から教え諭された事です。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:25
『検事とその妹』 惹句より


「検事とその妹」(1937年1月)は原節子の出世作「新しき土」(1937年2月)の直前の公開作品。宣伝チラシを入手した所、惹句には「新しき土により世界の舞台へ登場する節子。これは至純明眸可憐無比 原節子第一線への躍進篇」とあります。思いっきり原節子の話題性に飛びついた感がありますが狙いどおり、主題歌 「人生の並木路」とともにヒット作となります。



新しき土  

ストーリーは泉鏡花の「滝の白糸」のバリエーションで、検事を目指し学業を続けた兄を助けるために苦労した妹の結婚が決まるが、なんとその結婚相手が犯罪に関わっており、検事の兄が拘引する、、というもの。

惹句には「熾烈を謳われる検事の兄が裁きの庭に見出したものはなんだったのだろう? 幼少より苦楽をともにし、誰よりも愛している妹の幸福を約束する若者であろうとは! 検事の胸に絶え間なく吹きつける嵐の音よ!」と煽りたてます。それで「♪泣くな妹よ 妹よ泣くな〜」なんですね。それでも最後は「♪生きて行こうよ希望に燃えて 愛の口笛高らかに この人生の並木路」と妹は兄を許し、婚約者を待ちます。戦前の日本ってこういう苦労もの、お涙頂戴ものが好きだったんでしょうか。。でも是非、見てみたいですね。フィルムが現存するという話は聞いた事がありませんが、、。

****

■「検事とその妹」は1956年に丹波哲郎と日比野恵子主演で再映画化されており、あらすじ等の詳細は下記を参照ください。<h ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24817/>

■ちあきなおみが「緑の地平線」を歌った映像があります。
曲紹介では岡譲二、小杉勇、星玲子出演と紹介されていますが、せっかくだから原節子の星玲子と写ったスチール写真も使って欲しかった、、。(スチール写真は22点現存)

<h ttp://www.youtube.com/watch?v=AL1lixFc1C8>


41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:35
「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、もうすぐ70年ですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

  
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。

h ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:00
NHK 2016年(平成28年)1月25日[月曜日]
文化・エンタメニュース一覧

「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元

原節子 永遠に美しく

「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元
1月25日 18時41分


「伝説の女優」と呼ばれ、去年9月に95歳で亡くなった原節子さんが16歳の時に出演した映画のフィルムが残されていたことが分かり、劣化したフィルムから一部の映像が復元されました。専門家は「原さんの初期の映画は失われたものが多く、復元できたことは意義がある」と話しています。

このフィルムは去年9月、95歳で亡くなった原節子さんが昭和12年、16歳の時に出演した映画「検事とその妹」です。
これまで神戸市の資料館に保管されていましたが、フィルムの劣化が激しく内容が分からない状態となっていました。このほどNHKなどが最新のデジタル技術を用いて修復したところ、およそ10秒間のシーンを復元することに成功しました。
映画「検事とその妹」は、検事になった兄と原さん演じる妹のきずなを描いた作品です。復元された映像は、裁判所の傍聴席とみられる場所を映した場面で、カメラが移動すると原さんが着物姿で前を見つめながら座る姿が映し出されます。
原さんは、このあと出演した別の映画をきっかけに大スターとなりましたが、それ以前のフィルムは多くが失われているということで、映画評論家の佐藤忠男さんは「ただきれいなだけでなく非常にそうめいな昭和初期の良家のお嬢さんという感じがよく出ていると思う。ワンカットだけでも復元できたことは意義がある」と話しています。


43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:05
古賀政男の最初の映画主題歌は、昭和6年、同名の映画「チャッカリしてるわね」、

まだサイレント映画であった。

古賀政男はサイレント時代から映画の主題歌を作っている。

今、2015年10月
、トヨタ・カローラのCMに使われている「丘を越えて」(古賀政男作曲)。

これは昭和6年〈1931〉、新興キネマ「姉」の主題。
昭和4年マンドリン合奏曲として作られたものだが、「姉」の映画化に伴い
野口雨情門下の詩人「島田芳文」が詞をつけたもの。

CMで違うが、「酒は涙か溜息か」とともに藤山一郎によって吹き込まれたもの。

「酒は涙か溜息か」は、映画「想い出多き女」になっている。



44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:09
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年(1929)、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌,元祖「青春歌謡」である。

昭和改元(1926年12月)の丁度5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、2015昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。

山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:17
「目ン無い千鳥」(サトウ・ハチロー作詞)は、日米開戦前年、昭和15年(1940)に公開された,小島政二郎原作、東宝映画「新妻鏡」の挿入歌です。 (主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)のB面)

戦前戦後2回映画化され、戦後テレビドラマでも3回放送されています。

映画化(1940,1956) 

TVドラマ化(1966,1869.1974) ・1969年挿入歌「目ン無い千鳥」 歌・大川栄策


♪目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら・.・

「目ン無い千鳥」とは、[目隠し鬼ごっこ]のこと。

子供の空気銃の誤射によって失明した薄幸の美女が辿る「数奇な運命と美しい愛の物語」。

詩人サトウ・ハチローは、 目が見えぬということを、一言も触れずに,それをあらわしています。

多分、今ではこういう歌はできないでしょう。

この美しい歌が、放送禁止曲とかになったということはありません。



太平洋戦争前に、こうした[青春歌謡]ができていたことは驚きです。日本がまだまずしかった時代、貧しくもこころ豊かな時代だからこそ生まれた歌でしょう。

でもやはり、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌うからこその青春歌謡であって、大川栄策が歌うとド演歌になってしまうのは残念です。

歌いこなせる歌手がいなくなってきているのは残念なことです。

飽食の時代といわれ久しいですが、日本が豊かになるにつれ、こうした歌が歌われなくなっていると言うことは残念なことです。

また最近、なんでも「言葉狩り」がまかりどおっているようなのは残念なことでは有りますね。


15 名前:名無しさん@お腹いっぱい

46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:25
日本映画の黄金時代と、昭和レコード歌謡(歌謡曲)の黄金時代はほぼ重なる、日本がまだ貧しい時代であった。

日本における最初のレコード歌謡は、昭和3年〈1928)佐藤千夜子「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)であった。

佐藤は日本におけるレコード歌手第一号とされ、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手であり、古賀政男の才能を見抜き

メジャーデビュ―させたことで昭和歌謡史で忘れることのできない歌手。

古賀政男は佐藤について自伝で、私の作曲家としての道を開いてくださった「終生の恩人」と書いている。


47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:33
戦前から戦後にかけて名作で知られる大女優「原節子」が亡くなって。
15歳から多数の映画に出演した。
ここにでてくるものでは・・・

『緑の地平線』*前篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品。)
『緑の地平線』*後篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品。)
『白衣の佳人』*(阿部豊 監督、1936年)由紀子
『検事とその妹』*(渡辺邦男 監督、1937年)明子
『勝利の日まで』*(成瀬巳喜男 監督、1945年)(冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品。)
『麗人』*(渡辺邦男 監督、1946年)菊小路圭子
『青い山脈』(今井正 監督、1949年)島崎雪子
『続青い山脈』(今井正 監督、1949年)島崎雪子

*主題歌 古賀作品


48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:39
ゆかりの唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)

都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命

あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。

高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命



1935日活映画『緑の地平線』の挿入歌。いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。

「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。




49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:46
・新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 

You Tubeのほか、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。


「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942 COL100542  





50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 13:01
丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です。


藤山一郎 影を慕いて.
藤山一郎独唱・「影を慕いて」。声楽技術を駆使した歌唱芸術で古賀政男の名曲を歌いあげます。明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏でした。その後、佐藤千夜子がビクターで吹込みましたが、レコードは売れませんでした。藤山一郎の登場をまたなければなりませんでした。




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