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【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。




28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 14:02
現在の住宅地としての姿は関東大震災で焼け出された人々が土地の安さに引かれ移住したことに始まる。28(昭和3)年ごろには現在の古賀政男音楽博物館から坂を少し上った上原仲通り商店街の原型ができたが、住宅地と商店街の間には沼沢地と急峻な丘やがけがあり、大変不便な場所だった。

杯を傾け命名
 これを打破するため住民たちは団結。自らの手で丘を切り開き、35年には住宅地と商店街をつなぐ1本の坂道が完成した。落成時には杯を傾け坂の命名談義で盛り上がり、「皆で協力して苦労し、やりくりしたのだから『やりくり坂』が良い」との意見にまとまったという。

 

 「やりくり坂」完成後、沼沢地も埋め立てられ街は徐々に発展。引き寄せられた人々のなかには若き古賀政男の姿もあった。九州から上京し作曲活動の第一歩を踏み出したのがこの代々木上原だ。また日本人だけではなく、ロシア革命後、亡命を余儀なくされたトルコ系イスラム教徒の人々も住み着いた。彼らが協力して建てたのが東京回教学院。現在の東京ジャーミイである。

 「この街にユセフ・トルコというプロレスの名物レフェリーがいてね。彼が苦しかった時代、何から何まで面倒を見ていたのがうちの父親だった」と当時を回顧するのは、上原社会教育館館長の大木成介さん(79)。往時から住民同士助けあって温かな交流が持たれていたようだ。

トルコとの懸け橋
 東京ジャーミイは東京回教学院が老朽化、閉鎖した後、その跡地にトルコ政府の肝いりで00年に開堂。同寺院を切り盛りするエンサリ・エントルコさん(34)は第2代イマーム(礼拝のリーダー)。「東京ジャーミイは祈りの場だが、またトルコ文化センターとしての顔も持つ。トルコと日本の懸け橋となるよう施設はいつも開放し、住民の皆さんのお越しを歓迎します」と語る。今ではテレビで有名になり街の名所に。


古賀の音楽博物館
 もう1つのランドマーク・古賀政男音楽博物館は、3000坪あった古賀の大邸宅跡地に建つ。同じ敷地内には古賀も創設にかかわった日本音楽著作権協会(JASRAC/ジャスラック)がテナントとして入る。都内を転々とした古賀だが、思い出の地として52年に引っ越し、ついのすみかとなった。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 15:56
私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。昭和13年完成。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。。「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


代々木上原三丁目 古賀政男邸
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,

古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違い。

因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。

古賀メロディーを愛したというあの角さん(田中角栄)の、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)。
参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:21
『旅姿三人男』昭和14年
(テイチク/詩:宮本旅人/曲:鈴木哲夫/歌:ディック・ミネ)
清水港の・名物は・・


 この曲を作詞した宮本旅人の、伝記作家としてのもっとも有名な仕事は、古賀政男伝でしょう。いまでこそ古賀伝はたくさんありますが、昭和13年という早い時期に古賀伝を出したのです。たぶんこれが古賀伝の最初です。
 古賀邸に寝泊まりするほどの熱心さで、入念に打ち合わせて作られたとされる本で、したがって客観的な伝記というよりも、今活躍している芸能人の伝記と同様にPR的な色彩のつよい本ですが、それでもテイチク時代の古賀政男の周辺の事情などがわかり、貴重な資料となっています。
(宮本旅人はいろんな本を書いた人で、わたしの編纂したCD−ROM版SF書籍データベースには『シベリアのターザン』という本を入れてあります。シベリアを侵略してくるロシア人と戦うシベリア原住民の少年の話です)

 で、その古賀伝とは――

◎宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)

第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集

 B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。

 この本を神田の古書街で若いころ(50年くらい前です)に見つけて購入しました。
 古賀メロディのファンでも持っていない人が多く、当時すでに一種の稀覯本だったと思います。
 古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。
 復刻本には、著者の宮本旅人の復刻の言葉と同氏が撮ったらしい晩年の古賀政男の写真があって貴重です。


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:49
俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」

古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。


32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 19:55
戦後の西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。

 ♪おさない日 かなしい日
  聞いた歌 懐かしメロディー
  君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・

映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。

次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・

なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。



33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 22:46
西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。
父十兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子になりました。・・
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。
八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。
喉頭ガンをわずらっていました。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。

「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員 西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知の皆様に御通知申し上げます。




32 名前:名無しさん@お腹いっぱい

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/16(Thu) 23:11
物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。





35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 15:12
「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩 古賀政男作曲
 昭和15年(1940)

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。



古賀政男氏が、生前あるテレビ番組で、この曲について語っていたことが印象に残っています。佐藤惣之助氏から歌詞をはじめて見せられたとき、古賀氏は感動で打ち震えたと言って「僕が心の夫なら 君は心の・・・」とつぶやいたあと、感極まってしばし絶句。そして口をついて出たのが、次の言葉でした。
  「私はね、歌謡曲というものはね、『詩』がお姉さんで、『曲』は妹だと思います。」

後日、この発言に対し、某作曲家が「古賀さんはああ言われたけれども、私は詩と曲とは『双子の姉妹』だと思います。」と異を唱えていました。
歌謡曲にとって詩と曲とは、お互いに、言わば、車の両輪という関係ですから、論理的には某氏の説のほうが正しいように思われます。しかし、古賀氏の言う「姉」と「妹」とは、ひとつのの作品が誕生するまでに至る順序を指しているのであって、「上下」や「優劣」とはまた別の話だと思います。時には愚姉賢妹という例だってありますから。
 「詩はお姉さん」という言葉が「作曲家」、しかも古賀政男という大家から発せられたところに、却って氏の誠実で謙虚な人柄が偲ばれるように思います。




36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 15:27
新妻鏡
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、
唄:霧島 昇・二葉あき子

1 僕がこころの良人(おっと)なら
  君はこころの花の妻
  遠くさびしく離れても
  泣くな 相模(さがみ)のかもめどり

2 たとえこの眼は見えずとも
  きよいあなたの面影は
  きっと見えます 見えました
  愛のこころの青空に

3 強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐にあてらりょう

4 むかし乙女の初島田
  泣いて踊るも生計(くらし)なら
  清い二人の人生を
  熱い泪(なみだ)でうたおうよ

*3番は歌われていない。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 21:53
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。


『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。



「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html


昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。


以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:03
人生の並木路

(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路


日活 1937.1.14 「検事とその妹」主題歌

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。

若きディックミネの歌う 昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。






39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:18
人生の並木路


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。
 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽
 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。
 これは、私の心の師「盲目の賢者」様から教え諭された事です。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:25
『検事とその妹』 惹句より


「検事とその妹」(1937年1月)は原節子の出世作「新しき土」(1937年2月)の直前の公開作品。宣伝チラシを入手した所、惹句には「新しき土により世界の舞台へ登場する節子。これは至純明眸可憐無比 原節子第一線への躍進篇」とあります。思いっきり原節子の話題性に飛びついた感がありますが狙いどおり、主題歌 「人生の並木路」とともにヒット作となります。



新しき土  

ストーリーは泉鏡花の「滝の白糸」のバリエーションで、検事を目指し学業を続けた兄を助けるために苦労した妹の結婚が決まるが、なんとその結婚相手が犯罪に関わっており、検事の兄が拘引する、、というもの。

惹句には「熾烈を謳われる検事の兄が裁きの庭に見出したものはなんだったのだろう? 幼少より苦楽をともにし、誰よりも愛している妹の幸福を約束する若者であろうとは! 検事の胸に絶え間なく吹きつける嵐の音よ!」と煽りたてます。それで「♪泣くな妹よ 妹よ泣くな〜」なんですね。それでも最後は「♪生きて行こうよ希望に燃えて 愛の口笛高らかに この人生の並木路」と妹は兄を許し、婚約者を待ちます。戦前の日本ってこういう苦労もの、お涙頂戴ものが好きだったんでしょうか。。でも是非、見てみたいですね。フィルムが現存するという話は聞いた事がありませんが、、。

****

■「検事とその妹」は1956年に丹波哲郎と日比野恵子主演で再映画化されており、あらすじ等の詳細は下記を参照ください。<h ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24817/>

■ちあきなおみが「緑の地平線」を歌った映像があります。
曲紹介では岡譲二、小杉勇、星玲子出演と紹介されていますが、せっかくだから原節子の星玲子と写ったスチール写真も使って欲しかった、、。(スチール写真は22点現存)

<h ttp://www.youtube.com/watch?v=AL1lixFc1C8>


41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/17(Fri) 23:35
「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、もうすぐ70年ですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

  
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。

h ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:00
NHK 2016年(平成28年)1月25日[月曜日]
文化・エンタメニュース一覧

「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元

原節子 永遠に美しく

「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元
1月25日 18時41分


「伝説の女優」と呼ばれ、去年9月に95歳で亡くなった原節子さんが16歳の時に出演した映画のフィルムが残されていたことが分かり、劣化したフィルムから一部の映像が復元されました。専門家は「原さんの初期の映画は失われたものが多く、復元できたことは意義がある」と話しています。

このフィルムは去年9月、95歳で亡くなった原節子さんが昭和12年、16歳の時に出演した映画「検事とその妹」です。
これまで神戸市の資料館に保管されていましたが、フィルムの劣化が激しく内容が分からない状態となっていました。このほどNHKなどが最新のデジタル技術を用いて修復したところ、およそ10秒間のシーンを復元することに成功しました。
映画「検事とその妹」は、検事になった兄と原さん演じる妹のきずなを描いた作品です。復元された映像は、裁判所の傍聴席とみられる場所を映した場面で、カメラが移動すると原さんが着物姿で前を見つめながら座る姿が映し出されます。
原さんは、このあと出演した別の映画をきっかけに大スターとなりましたが、それ以前のフィルムは多くが失われているということで、映画評論家の佐藤忠男さんは「ただきれいなだけでなく非常にそうめいな昭和初期の良家のお嬢さんという感じがよく出ていると思う。ワンカットだけでも復元できたことは意義がある」と話しています。


43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:05
古賀政男の最初の映画主題歌は、昭和6年、同名の映画「チャッカリしてるわね」、

まだサイレント映画であった。

古賀政男はサイレント時代から映画の主題歌を作っている。

今、2015年10月
、トヨタ・カローラのCMに使われている「丘を越えて」(古賀政男作曲)。

これは昭和6年〈1931〉、新興キネマ「姉」の主題。
昭和4年マンドリン合奏曲として作られたものだが、「姉」の映画化に伴い
野口雨情門下の詩人「島田芳文」が詞をつけたもの。

CMで違うが、「酒は涙か溜息か」とともに藤山一郎によって吹き込まれたもの。

「酒は涙か溜息か」は、映画「想い出多き女」になっている。



44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:09
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年(1929)、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌,元祖「青春歌謡」である。

昭和改元(1926年12月)の丁度5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、2015昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。

山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:17
「目ン無い千鳥」(サトウ・ハチロー作詞)は、日米開戦前年、昭和15年(1940)に公開された,小島政二郎原作、東宝映画「新妻鏡」の挿入歌です。 (主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)のB面)

戦前戦後2回映画化され、戦後テレビドラマでも3回放送されています。

映画化(1940,1956) 

TVドラマ化(1966,1869.1974) ・1969年挿入歌「目ン無い千鳥」 歌・大川栄策


♪目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら・.・

「目ン無い千鳥」とは、[目隠し鬼ごっこ]のこと。

子供の空気銃の誤射によって失明した薄幸の美女が辿る「数奇な運命と美しい愛の物語」。

詩人サトウ・ハチローは、 目が見えぬということを、一言も触れずに,それをあらわしています。

多分、今ではこういう歌はできないでしょう。

この美しい歌が、放送禁止曲とかになったということはありません。



太平洋戦争前に、こうした[青春歌謡]ができていたことは驚きです。日本がまだまずしかった時代、貧しくもこころ豊かな時代だからこそ生まれた歌でしょう。

でもやはり、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌うからこその青春歌謡であって、大川栄策が歌うとド演歌になってしまうのは残念です。

歌いこなせる歌手がいなくなってきているのは残念なことです。

飽食の時代といわれ久しいですが、日本が豊かになるにつれ、こうした歌が歌われなくなっていると言うことは残念なことです。

また最近、なんでも「言葉狩り」がまかりどおっているようなのは残念なことでは有りますね。


15 名前:名無しさん@お腹いっぱい

46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:25
日本映画の黄金時代と、昭和レコード歌謡(歌謡曲)の黄金時代はほぼ重なる、日本がまだ貧しい時代であった。

日本における最初のレコード歌謡は、昭和3年〈1928)佐藤千夜子「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)であった。

佐藤は日本におけるレコード歌手第一号とされ、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手であり、古賀政男の才能を見抜き

メジャーデビュ―させたことで昭和歌謡史で忘れることのできない歌手。

古賀政男は佐藤について自伝で、私の作曲家としての道を開いてくださった「終生の恩人」と書いている。


47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:33
戦前から戦後にかけて名作で知られる大女優「原節子」が亡くなって。
15歳から多数の映画に出演した。
ここにでてくるものでは・・・

『緑の地平線』*前篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品。)
『緑の地平線』*後篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品。)
『白衣の佳人』*(阿部豊 監督、1936年)由紀子
『検事とその妹』*(渡辺邦男 監督、1937年)明子
『勝利の日まで』*(成瀬巳喜男 監督、1945年)(冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品。)
『麗人』*(渡辺邦男 監督、1946年)菊小路圭子
『青い山脈』(今井正 監督、1949年)島崎雪子
『続青い山脈』(今井正 監督、1949年)島崎雪子

*主題歌 古賀作品


48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:39
ゆかりの唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)

都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命

あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。

高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命



1935日活映画『緑の地平線』の挿入歌。いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。

「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。




49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 12:46
・新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 

You Tubeのほか、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。


「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942 COL100542  





50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/18(Sat) 13:01
丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です。


藤山一郎 影を慕いて.
藤山一郎独唱・「影を慕いて」。声楽技術を駆使した歌唱芸術で古賀政男の名曲を歌いあげます。明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏でした。その後、佐藤千夜子がビクターで吹込みましたが、レコードは売れませんでした。藤山一郎の登場をまたなければなりませんでした。




51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:07
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。





52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:21
誰か故郷を想わざる
  (西條八十作詞 古賀政男作曲)

花摘む野辺に 日は落ちて
みんなで肩を 組みながら
唄をうたった 帰りみち
幼馴染(おさななじみ)の あの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を 想わざる



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:28
昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。

古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。


おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。


54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/19(Sun) 21:32
>>51
訂正
藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現東京芸術大学)首席卒業の名歌手との出会い。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/20(Mon) 11:52
李香蘭の未発表曲2音源発見 古賀政男作曲、漂う厭戦感
米原範彦
朝日新聞デジタル2015年4月11日15時18分


写真・図版
兵庫・西宮で開催された「大東亜建設博覧会」で「父よあなたは強かった」を歌う李香蘭時代の山口淑子さん。この催しについては1939年4月13日付大阪朝日新聞朝刊で「素晴らしい満映の花 唄のうまい李香蘭」などと報じられた


 戦中は時代の波に左右された俳優・歌手、戦後は政治家としても活躍した山口淑子(よしこ)さん(1920〜2014)が戦時中の1944年、李香蘭(りこうらん)時代に録音したとみられる2曲の未発表音源が見つかった。
「雲のふるさと」「月のしづく」で、いずれも作詩は大木惇夫(あつお)、作曲は昭和を代表する作曲家の古賀政男。発売されなかった理由は不明だが、戦後70年を経て埋もれていた戦時歌謡が発見され、専門家は「奇跡的だ」と評価する。

山口淑子さん死去(2014/9/14)
特集:山口淑子さん

 山口さんが昨年9月に亡くなったのを受け、日本コロムビア社が音源を調査。古賀政男音楽文化振興財団(東京都渋谷区)が所有する古賀の遺品のSP盤を整理する過程で、確認した。

 SP試聴盤の裏表に1曲ずつ収録されていた。盤中央には、各曲名と「李香蘭」の文字が書かれている。
包装紙には「未発表」「S19」などの文字が見える。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/21(Tue) 23:17
「勝利の日まで」

「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。
・・
昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。
映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、
♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
 こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲「勝利の日まで」(サトーハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。
これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感を持つ哀調を帯びた名曲。


「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)
昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。
当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。
りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。
遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。
毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
 
 楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。
『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。

そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
 
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むことも許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
 出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。
そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。

・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・

57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/27(Mon) 01:06
古賀政男は昭和53年8月に亡くなった。同じ年の暮れに「平凡出版」から追悼本「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」が出版された。

その最初のあたりに「日本人と古賀メロデー」と題して歌人・楠本憲吉氏が追悼文を寄せている。古賀作品の真髄は決して「義理、人情」ではない。
人生に真面目に取り組む姿勢であると。以下抜き出して紹介してみる。

私(楠本憲吉氏)は、「古賀メロデー」という言葉には、二つの使い方があるのではないかと思っている。
ひとつは広く古賀政男作曲を意味するものと、もうひとつは、古賀政男の書いた曲のうち、
特に詩のテーマが人生の悩みや苦しみを表現しているもの。

後者の系列に入るものとしては、「男の純情」「人生劇場」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「誰か故郷を想わざる」などがはいるでしょう。

こうしてみると、この狭い意味での「古賀メロデ-」は、いかにも日本人の心の琴線に触れるエッセンスがたっぷりという感じがする。

今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。
病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、「今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねエ」といって盛んに嘆いていた。

佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、
「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、「僕にはこの詩に曲を付けることができません。」といって返したことがあるという話が印象的だった。

結局は西条氏に「貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。」といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。
とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。




「人生劇場」には、「義理と人情のこの世界」と歌い上げているが、古賀メロデーの真髄は、決して「義理、人情」ではない。人生に真面目に取り組む姿勢である。
真面目に取り組んでいれば必ずいい明日がある。--自分がそうだったから、古賀氏は真実そうおもっていたと思う。

だから古賀メロデーはどんなにどんなに哀愁を帯びていても、暗さがないし陰気な感じをうけないのである。

最後に私の選んだ古賀メロデーベストテンとして、10曲をあげている。

目ン無い千鳥、勝利の日まで、南の花嫁さん、柔、女の階級、サーカスの唄、湯の町エレジー、男の純情、人生の並木路、青春日記

それぞれ簡単な説明つきだが、「勝利の日まで」は軍国歌謡のひとつだが、この歌には思い出があり忘れられない曲だという。
なお、「目ン無い千鳥」は、最近いろいろな人が歌っているがやはりオリジナルの霧島昇夫妻のがいいとある。
男の純情・人生の並木路・青春日記の三曲は説明不要だろうとある。





58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/02(Thu) 00:07
JASRACは古賀政男さんという作曲家の大御所がはじめた著作権管理団体で、もともとは作曲作詞者の権利を守り利益を正当に得るための業界団体を目指していたのだろうと想像します。
目的を達成するには音楽関係の著作権全般をできるだけ網羅し、利用したい人はJASRACと契約する以外ないという状態が効果的です。
かなり早い段階でその目的達成のための手段は達成されました。
 
その後、強引すぎると感じられる権利行使がいろいろな場面で問題ではないかと批判の的になってきました。・・
 

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/04(Sat) 10:25
日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


 宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

 詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

  そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

 大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)。

これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。

60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/05(Sun) 10:23
今年、平成29年〈2017〉は「昭和」で数えると92年目。

「昭和」は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで62年と14日となる。

「昭和」は、日本の歴史、いや世界の歴史の上で最も長く続いた元号であり、元年と64年は共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。
なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

元号の【昭和】は『書経』堯典の「百姓昭明、万邦協和」によるもので、すべての国民の安寧のもとに国際社会の平和の実現を目指すものだった。
実際は、「昭和」の時代は、30年代半ば、高度成長時代くらいまで、今では考えられないほど貧しい時代、食料難の時代で、しかも戦争に明け暮れたのでした。

最近テレビで「昭和歌謡」とか言って若い下手な歌手しか出てこないが、その歌は昭和最末期、昭和50年代、飽食の時代。
明治と大正を合わせた60年より長い。60年をはるかに越える「昭和」。

その昭和の「名」だけいいとこどりした、退屈なモノトーンの歌、下手を競い合うような歌ばかり!。
「レコード歌謡」が始まった「昭和」、昭和改元して実2年後の「昭和3年〈1928〉」にそれは始まった。

レコード歌手第一号はビクターの「佐藤千夜子」。第一号は「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)である。

佐藤千夜子は、昭和4年〈1929〉から昭和5年〈1930〉にかけて、まだ一学生にすぎなかった古賀正男の作曲した「影を慕いて」など7曲をビクタ―に吹き込み、
直後イタリアに渡った。

翌、昭和6年〈1931〉3月彗星のごとく登場したのが「古賀政男」だった。

世は「大学はでたけれど」、世界恐慌の真っただ中だった。今から86年前のことだった。

まだ日本が草深く、農村主体のまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かな時代だったことでしょう。

最近の歌はギスギスして何を言ってるのかわからない。このころの歌には心を打たれるものがある。

そっと寄り添う優しい歌、やさしいメロディ、優しい詩。

第一級の詩人、第一級の作曲家、第一級の歌手が心を込めて作り上げ歌い上げた名曲である。




61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/08(Wed) 20:08
☆古賀メロディの戦後

戦後の主な古賀メロディ(1947〜1977)
 1949までについては、別に「古賀メロディと映画主題歌」参照。

古賀メロディの「古賀メロディ」らしさは、西條八十との黄金コンビの映画主題歌「三百六十五夜」〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)などや、「湯の町エレジー」(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)など、名曲が謳歌した昭和20年代前半あたりまでだろう。

それ以後、日本が豊かになりアメリカナイズして、世の中がハッピーになっていくにつれ歌も変わっていく。昭和23年には、ミス・コロムビア(松原操)は、「三百六十五夜」を最後に歌手を引退。以後、昭和54年に亡くなるまで、家庭に入り歌うことはなかった。家庭の人として、夫・霧島昇をささえ、育児に専念し、その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。

藤山一郎は、昭和29年(1954)に、レコード会社専属(コロムビア)を引退、NHK嘱託となり23年間にわたる歌手生活に終止符を打った。そして、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した事で知られる。

一方、昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもしない歌謡界の『大御所』になっていた。指には大きなダイヤを付け、『日本の名士』だった。

「うたマネ読本」とかの審査員となって「よかったね!、よかったね!」と言う言葉で知られるはか、「黄金(きん)の椅子」などのなつかしの歌番組によくでることがあった。

昭和33年(1958)には、日本作曲家協会を設立、自ら会長となり作曲家の待遇改善に尽くしたり、「レコード大賞」などを作るなど、昭和30年代の役割は[大御所]としての役割に移っていく。

また「去りゆく影」(昭和8年(1933)1月)に始まる「西條八十」との黄金コンビは戦後も続き、西條八十最晩年の作品でもある「銀座音頭」「若いい銀座」(1968いずれ美空ひばり歌)まで、35年も続いたことになる。

・西條八十作詞、古賀政男作曲 初期の作品
去りゆく影  1933,1 西條八十作詞、古賀政男作曲 関種子 歌
恋ごころ   1933.1 西條八十作詞、古賀政男作曲 長谷川一郎歌
サーカスの唄 1933.5 西條八十作詞、古賀政男作曲 松平晃 歌

しかし、昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。

代々木上原の広大な屋敷の中に7か所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。





62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/08(Wed) 20:20
◇戦後の主な古賀メロディ・・

圧倒的に西條八十が多い!。


麗人の歌     1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/08(Wed) 20:33
続き・・

青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)


*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃




64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:37
☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)

昭和4年(1929)の菊池寛原作の日活映画『東京行進曲』の主題歌「東京行進曲」(西條八十作詩、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、わが国の「映画主題歌第一号」とされています。トーキ‐の最初は、昭和6年6月、松竹蒲田、田中絹代主演、五所平之助監督「マダムと女房」と言われる。

今映画館はどんどんなくなってきて大都市以外殆ど見かけなくなった。昭和の初め1930年代から1950年代にかけて、まだ日本が貧しかった時代、日本映画黄金時代だった。

茶の間にまだテレビもなかった時代、どんな小さな街にも小さな映画館があって、人々の娯楽の主体はラジオと映画だった。人々はそれを心待ちしたのだ。

一世を風靡した川口松太郎原作[愛染かつら](昭和13〜14年)などたくさんある。溢れるような「古賀メロディー」、それは映画主題歌とともに、映画とともにあって、無声映画時代から戦後に至るまで、しかもとぎれなく人々の心を慰め生きる力を与えてきた。

「古賀メロディ」の特徴は、まずヒット曲が多いことである。作曲家は数多く出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものは無いのです。

そして実は、「古賀メロディ」には映画主題歌が圧倒的に多のだ。

《東京ラプソディ》も、《緑の地平線》、《女の階級》、《人生の並木路》(日活「検事とその妹」)も《目ン無い千鳥》(日活[新妻鏡])などみんな映画主題歌。


昭和6年、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」に始まる映画主題歌には、この無声映画に始まり、戦後まで続くのは「古賀メロディ」しかない。(なお、「チャッカリしてるわね」は、関種子の「乙女心」と表裏にある。)

古賀政男は昭和53年に王貞治選手に次いで「国民栄誉賞」を与えられた。存命の人に与えられる「国民栄誉賞」が亡き後に贈られたのだが、古賀の人生が、まさに日本に「歌謡曲」というものができて、それが確立する歴史そのものであるということからも、それに値するといえるだろう。

昭和12年、テイチク時代、映画も40編を超えているのだが「映画主題歌にみる主な古賀メロディ」などを、まとめてみました。



主な古賀メロディーの映画主題歌・・以下参照




65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:47
■ 主な古賀メロディーの映画主題歌。・・


・松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声  映画)
 主題歌 チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞 天野喜久代歌)
(映画と関係ないが、片面が関種子「乙女心」♪朧月夜のその頃に・・)

・松竹映画1931.10 「想い出多き女」 (無声映画)
 主題歌 酒は涙か溜息か〈高橋掬太郎作詞 藤山一郎歌〉
 挿入歌 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞 淡谷のり子歌)

・松竹 1931.11清水宏監督「青春図絵」(菊池寛 原作)
 主題歌 青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛詩、関種子歌)

・入江プロ 1936「白衣(びゃくえ)の佳人」
 主題歌「白衣の佳人の唄」 (佐藤惣之助作詞 デックミネ歌)

・新興キネマ1931「姉」
 主題歌 丘を越えて(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 窓に凭れて(島田芳文作詞 関 種子歌)

・松竹映画1932.1野村芳亭監督「金色夜叉」(無声映画)
 主題歌 お宮の唄(佐藤惣之助作詩、関 種子歌)

・松竹映画1932.3 島津保次郎監督「勝敗」
 主題歌 町子姉妹の唄(菊地寛詩、河原喜久恵歌)

・日活映画1932.7「鳩笛を吹く女の唄」(無声映画)
 主題歌 鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、井上静雄(藤山一郎)歌)

・大衆文芸プロ映画社1932「佳人よ何処へ」
 主題歌 あけみの歌〈原阿佐緒作詞、関種子歌〉
 挿入歌 佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞 淡谷のり子歌)

・日活映画1932「上海」
 主題歌 さらば上海(時雨音羽作詞 関種子歌)

・新興キネマ1932「スキーの唄」
 主題歌. スキーの唄(島田芳文作詞 藤山一郎歌)

・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
 主題歌 白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)

・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子.歌)


66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:50
・日活映画1935阿部豊監督「緑の地平線」
 主題歌 緑の地平線(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
 挿入歌 ゆかりの唄(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
 挿入歌 夕べ仄かに (島田芳作詩、デックミネ歌)

・日活映画1936島耕二監督「情熱の詩人啄木」
 主題歌 啄木の唄(島田磬也作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 春まだ浅く〈石川啄木作詩 有島通夫歌〉

・テイチク提携東宝映画(PCL映画)1936東京ラプソディ」
 主題歌 東京ラプソディ(門田ゆたか作詩 藤山一郎歌)
 挿入歌 東京娘(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 青春の謝肉祭(カーニバル)(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)

・日活映画1936渡辺邦男監督「慈悲心鳥」
 主題歌 慈悲心鳥の唄(佐藤惣之助作詩 楠木繁夫歌)
 挿入歌 さらば青春(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)

・日活映画1936渡辺邦男監督「魂」
 主題歌 男の純情(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
  挿入歌 愛の小窓(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)

・日活映画1936千葉泰樹監督「女の階級」(吉屋信子原作)
 主題歌 女の階級(村瀬まゆみ作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 回想譜(今城靖児作詞 藤山一郎歌)

・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞 美ち奴歌)

・日活映画1937.1.14渡辺邦男監督「検事とその妹」〈竹田敏彦原作『検事の妹』〉
 主題歌 人生の並木路(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)(テイチク1200)
 挿入歌 聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)

・日活1937「真実一路」(山本有三原作)
 主題歌「真実一路の唄」(佐藤惣之助作詞 楠木繁夫歌)

・東宝映画1937.7西條八十原作、「白薔薇は咲けど」
 主題歌 白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 緑の月(佐藤惣之助作詩、奥田瑛子歌)

・日活映画1938「人生劇場―残侠編」(尾崎士郎原作)
 主題歌 人生劇場(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)

・東宝映画1940「春よいづこ」(川口松太郎原作)
主題歌 春よいづこ(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
  挿入歌 なつかしの歌声(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)

・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌)
  挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)

・松竹映画1940「愛の暴風」
 主題歌 相呼ぶ歌(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)

・東宝映画1940「蛇姫絵巻」
 主題歌 蛇姫絵巻(西條八十作詩、志村道夫、奥山彩子歌)

・新興キネマ1940「誰か故郷を想わざる」
 主題歌 誰か故郷を想わざる(西条八十作詞 霧島 昇歌)

・東宝映画1940.10渡辺邦男監督「熱砂の誓い」
 主題歌 熱砂の誓い〈建設の歌〉〈西條八十作詩 伊藤久男歌〉
 挿入歌 紅い睡蓮(西條八十作詞 李香蘭歌)

・東宝映画1941山本嘉次郎監督「馬」
 主題歌 馬(佐藤惣之助作詞 伊藤久男、菊池章子歌)
(「めんこい仔馬」は、この映画のために作られたのがだが映画には入らなかった。)

・東宝映画1941「歌えば天国」
 主題歌 歌えば天国(西條八十作詩、藤山一郎、古川ロッパ、二葉あき子歌)
   (古賀メロディーらしからぬジャズ調の曲です。)
挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
挿入歌 働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詩、藤山一郎歌)

・日活映画1941「海の豪族」
 主題歌 海の豪族(佐藤惣之助作詩 伊藤久男歌)

・松竹・満映合作映画1942「迎春花」(インチュンホウ)
 主題歌 迎春花(西條八十作詞 李香蘭歌)

・映画「蘭花扇(らんかせん)」(1942 5月)
 主題歌 花白蘭の唄(李香蘭、楠木繁夫歌)

・大映映画1942「歌う狸御殿」
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原じゅん子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)


67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:52
・松竹映画1943清水宏. 監督:「サヨンの鐘」
 主題歌 サヨンの鐘(西條八十作詞、渡辺はま子歌)(台湾名 月光小夜曲)
 挿入歌 サヨンの歌(西條八十作詞、李香蘭歌)
 挿入歌 なつかしの蕃社(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)

・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)

・東宝映画1944「あの旗を撃て」
 挿入歌「雲のふるさと」(大木惇夫作詩、伊藤久男歌)(1946年NHK「ラジオ歌謡」)

・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原じゅん子歌 )

・東宝映画1946渡辺邦男監督「麗人」(佐藤紅緑原作『麗人』再映画化)
 主題歌 麗人の歌(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉

・大映映画1946「或る夜の接吻」
 主題歌 悲しき竹笛(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉

・東宝映画1947「こころ月の如く」
 主題歌 こころ月の如く〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
 挿入歌 旅の舞姫(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉

・新東宝映画1948渡辺邦男監督「あの夢この歌」(西條八十「唄の自敍傳」より)
 主題歌 あの夢この歌〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉

・東宝映画1948市川崑監督「三百六十五夜」(小島政二郎原作)
 主題歌 三百六十五夜〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
 挿入歌 恋の曼珠沙華〈西條八十作詞 二葉あき子歌)

・新東宝映画1948 「湯の町悲歌」
 主題歌 湯の町エレジー(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)

・新東宝映画1949野村浩将監督「影を慕いて」(古賀政男原案)
 主題歌 影を慕いて(古賀政男作詞、藤山一郎歌)

・新東宝映画1949 「夢よもう一度」
 主題歌 夢よもう一度(西條八十作詩 二葉あき子歌)
 挿入歌 愛の灯かげ(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)


玉川英二、星野貞志はサトウハチロ‐の変名。


・新東宝映画 1949「影を慕いて」(古賀政男作曲生活20周年記念制作映画)
 主題歌 希望に燃えて(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)


★「希望に燃えて」(伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・高倉敏・二葉あき子・奈良光枝)ー新東宝が古賀政男作曲生活二十年を記念して上原謙・山根寿子主演、野村浩
 将監督で制作した「影を慕ひて」のラストシーンを飾る主題歌となったが、もともとこれは映画のためではなく、NHKの視聴者リクエストによる「希望音楽会」のテーマーソングとして制作されたもの。

東日本大震災の被害にあわれた方々にぜひ聞かせてあげたい曲。



★ 希望音楽会(1945年、NHK)
 主題歌:「希望に燃えて」
  音源:「思い出のラジオ・テレビ主題歌集」(GES-31299)より
  敗戦後初の歌謡曲番組。

  1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の大詔」を放送、日本は事実上敗戦し、無条件降伏した。
  そんな時世の中、国民に希望を与えるため、10月3日に本番組は開始された。
  リスナーからのリクエスト曲を出演歌手が生で歌うといった内容のもので、資料によれば戦後初の
  大ヒット曲「リンゴの唄」も、この番組で初めて電波に乗ったそうである。

  番組最後に出演者全員によって歌われるのが「希望に燃えて」であり、サトウハチロー作詞、古賀政男
  作曲によるこの曲は、後半のメジャーに転調する展開と一気に希望を歌う歌詞と一体になって、当時の
  国民に大きな希望を与えたであろう名曲である。
  (但しレコード化されたのは昭和24年〈1949〉のこと。)





68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 10:56
・新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 

You Tubeのほか、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。


「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942 COL100542  




・松竹映画 1955萩原徳三監督「娘船頭さん」
 主題歌 娘船頭さん (西條八十作詞、古賀政男作曲)美空ひばり

日本の映画は昭和35年(1960年)に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えました。
ちょうど、テレビの普及が進んだころで観客動員数は1958年の11億強を最高に、ゆるやかに下降し、3年後の1963年には半分以下の5億人強になりました

・日活映画 1956小林桂三郎監督「乙女心の十三夜」
 主題歌 乙女心の十三夜(西條八十作詞 古賀政男作曲)島倉千代子


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 11:36
・大映映画1963市川崑監督「雪之丞変化」(西條八十作詞、美空ひばり歌)

70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/09(Thu) 11:44
・東宝映画1958稲垣浩監督「無法松の一生」(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
・大映映画1963市川崑監督「雪之丞変化」(西條八十作詞、美空ひばり歌)


71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:39
古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)
坪井賢一:ダイヤモンド社論説委員


「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
 「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
?詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。
「そんなある日、ギターの性能を活かすことによって、解決の端緒が得られるのではないか、というアイデアが私にひらめいた。それから、毎日ギターで三味線の曲を弾いてみたり、古い民謡や義太夫というようなものまで弾いたりしてみた。そして、突然あのメロディーが浮かんできたのだった」(古賀政男、前掲書、2001)。
「酒は涙か溜息か」はニ短調(Dm)で、基本的にヨナ抜き短音階で書かれているが、サビの冒頭は第4音のG(ソ)で始まり、日本の民謡の音階を感じさせる。日本音楽を西洋のギターで繋いだ意図がわかる。
?ちなみに「影を慕いて」はニ短調の完全なヨナ抜き短音階で、中山晋平のように和洋折衷の感覚を出している。唱歌や童謡に近い。
「酒は涙か溜息か」は第4音を入れて民謡音階の感覚を混ぜ、義太夫や都々逸のような伝統的な邦楽のようでいて、しかし楽譜には西洋音階以外の音程は使わない。譜割りも厳密に書かれ、小節線を無視するようなアドリブは許さない、という意思が見える。こうすることによって大都会で洋楽を聴く若者にも共感されたい、ということだろう。
?藍川由美さんによると、中後期の演歌の原型的作品になっても、コブシや日本的な節回しでさえすべて楽譜に書いているというから、楽譜を見れば作曲者の意図はすべて理解できるわけだ。発想はクラシックの作曲家と同じである。
?古賀がコロムビアに入社した1931年、この年4作目の「丘を越えて」ではまったく曲想が変わる。これは次回に。この年に発売した4曲は、合計200万枚を超える売上だったという。コロムビアは月給以外に、1枚1銭の印税を支払うことにした。あっという間にヒット・メイカーとして流行歌(レコード歌謡)を牽引する作曲家となった。

72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:47
東京・代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。
本田美奈子「アマリア」のマンドリン

「決定盤?古賀政男?心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤
?ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。
?明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。
?年1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが(後述)、あまり売れた形跡はない。
?−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。
?本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある(連載第8回)。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
?萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。
?本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
?本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。

73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:54
「トレモロ寂し?身は悲し」

?古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
?ギターをとりて?爪弾けば
?どこまで時雨?ゆく秋ぞ
?振音(トレモロ)寂し?身は悲し

?という一節がある。
?トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。
?マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。
?連載前回、「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。
?どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。
?この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。
 毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。


74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 18:59
「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

?古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。
?コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。
?けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。
?月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやとおうと言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している(連載第43回)。
?古賀の入社は1931年3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。関種子(1907−90)も東京音楽学校を卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。

75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 19:05
作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。/昭和五年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)
?この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年4月、「乙女心」は5月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
?コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。
西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために
?古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。
?藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。
「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲≪影を慕いて≫≪酒は涙か溜息か≫≪丘を越えて≫は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)
「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。

76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 19:10
古賀作品の音域は広く、1オクターブ半からときには2オクターブに及ぶ。跳躍も多い。藤山一郎はこう語っている。
「(略)マンドリンなどのプレクトラム族は、楽器を見ながら指を飛ばして演奏できるという特質を持っています。だから、作曲に当たっても、ギターを弾き、その指を見ながら曲を書いていける、ということが可能となります。いわば、音を手でさわりながら見ているわけです。さらにいえば、視覚で曲を作れる、ということになりましょうか。そこに意表をつく曲の展開も出て来るというわけです」(藤山一郎「デッサンの確かな作品群」『古賀政男――昭和の日本のこころ』所収、平凡出版、1978)
?ギターを弾きながら作曲するのならば、後年のシンガーソング・ライターと同じではないか、と言われそうだが、フォークソングなどは旋律を弾きながら作曲するのではなく、和音(コード)鳴らしながら横へ流れていく旋律を作る。古賀政男はコードではなく、旋律を目で縦に見ながら作曲したのではないか、というのである。


★参考文献★
比留間賢八『マンドリン教科書:独習用』(共益商社書店、1903)
比留間賢八『マンドリン独習』(共益商社書店、1910)
『日蓄(コロムビア)三十年史』(日本蓄音器商会、1940)
コロムビア五十年史編集委員会編『コロムビア五十年史』(日本コロムビア、1961)
日本ビクター50年史編集委員会編『日本ビクター50年史』(日本ビクター、1977)
『古賀政男――昭和の日本のこころ』(平凡出版、1978)
高橋功『評伝・古賀政男』(全音楽譜出版社、1984)
古賀政男「「私の履歴書」(『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
飯島國男『比留間賢八の生涯――明治西洋音楽揺籃時代の隠れたる先駆者』(全音楽譜出版社、1989)
倉田喜弘『日本レコード文化史』(東京書籍、1992)
藤山一郎『藤山一郎自伝――歌声よひびけ南の空へ』(光人社NF文庫、1993)
下嶋哲朗『謎の森に住む古賀政男』(講談社、1998)
團伊玖磨『私の日本音楽史』(NHKライブラリー、1999)
古賀政男『自伝わが心の歌』(新装増補、展望社、2001)
藍川由美『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)
菊池清麿『評伝・古賀政男』(アテネ書房、2004)
佐高信『酒は涙か溜息か――古賀政男の人生とメロディ』(角川文庫、2008)
和田登『唄の旅人?中山晋平』(岩波書店、2010)
竹内貴久雄『ギターと出会った日本人たち――近代日本の西洋音楽受容史』(ヤマハミュージックメディア、2011)


77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/03/10(Fri) 19:23
おわび、?は文字化けによるものです。

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