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【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 17:53)]
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。



[2:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 17:55)]
古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。



なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。


[3:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 17:58)]
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発」。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、86年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。


『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
h ttp://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY



 


[4:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 17:58)]
毎朝、玄関でお金の音がする。

 これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。


[5:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 18:15)]
1931年(昭和6年),ちょうど古賀政男が作曲家メジャーデビューした年、ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲという人物が、ヨーロッパの主な著作権団体の代理人として、日本での著作権の使用許諾・使用料請求などの活動を開始しました。
これがいわゆるプラーゲ旋風で、これに慌てた日本政府は、1939年(昭和14年)仲介業務法を制定し、社団法人大日本音楽著作権協会に仲介業務の許可を独占的に与え、他の者は仲介業務ができなくなったのです。
 このためプラーゲはあきらめて1941年、日本を去ったのでした。これ以来、大日本音楽著作権協会、のちのJASRACがわが国の音楽著作権管理を一手に引き受けてきた。


[6:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 18:18)]
現在、一般社団法人日本音楽著作権協会(Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。英称を略し、「JASRAC(ジャスラック)」と呼ばれることも多い。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。

概要
音楽(楽曲、歌詞)の著作権を持つ作詞者・作曲者・音楽出版者から録音権・演奏権などの著作権の信託を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、著作権侵害の監視、著作権侵害者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。社団法人であるため一般社団・財団法人法に基づいて非営利目的の運営が法律により定められている。
本部は東京都渋谷区の古賀政男音楽文化記念財団が所有するビル内に設置され、22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは、現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、1939年(昭和14年)に設立された大日本音楽著作権協会をその前身とする。


[7:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 18:36)]
?日本音楽著作権協会(JASRAC)はヤマハや河合楽器などの音楽教室での演奏にも著作権料を徴収する方針を固めた
?JASRACは現在、コンサートや演奏会、カラオケにも著作権料を徴収している
?来年1月から徴収を始めたい考えだといい、徴収額は年間10?億円と推計。教室側は反対しており訴訟になる可能性も

これに対し反発も多い。


[8:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 18:41)]
?は点の文字化けです。


[9:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 18:49)]
JASRACに対する反発として巷では、このようなことも巷では言われています。
それほど古賀政男はJASRACに著作権料で貢献しているといえる。
またコロンビアの顔でもあり、最大の著作権者たる「日本の名士」たる古賀政男は、JASRACの設立にも関与した。


JASRACなんて単なる古賀政男先生の版権に群がった乞食のなれの果てでしょ?

JASRACって必要か?

JASRACっていうのは古賀政男という作曲家がはじめた著作権管理団体です。

古賀政男の曲使用料をとるだけの団体だったのが、横文字の社名にして分かりにくくしてる。


[10:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/02/14(Tue) 19:44)]
明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、
代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRACのビル。

当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。(ちなみに「目白御殿」が2750坪)

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」に残っている。

代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。

古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。

戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。

これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。

ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。

また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。

また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。


西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、代々木上原の古賀邸跡の「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、平成6年に古賀財団(財団法人古賀政男音楽文化振興財団)のビルに移転。

「古賀政男音楽博物館」と一体で、その隣にそびえ立つこのビル(古賀財団のビル)にテナントとして移転。

JASRACをテナントとしてそびえたつその威容は、まさにそこが大衆音楽文化の聖地たる象徴にふさわしい。



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