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『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/12(Wed) 13:49)]
テレビの歌番組では、一番多く出てくる言葉が『名曲』、何でも名曲!?なのです。

「名曲」って、どういう意味?。

何でも「名曲」とは、何でも「名曲」ではないということでは?。

みんな同じ最近の歌、どうおもいますか?

消えてほしい歌は?


[170:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/26(Tue) 12:43)]
「短歌」とは「意味」だけでなく、それ自身が歌であり、「意味」だけでなく「調べ(リズム)」について意識して「詠む」もの。


[171:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/26(Tue) 12:48)]
「詠む」べき短歌を何と間違えてるだろうか!?。


[172:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/27(Wed) 22:27)]
「短歌は人の体温に一番近い表現形式」といわれるもの。
 侵すべからず!
 わけもわからず、この視点が欠けてはだめ!。


[173:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/28(Thu) 07:25)]
戦後草創、まだだった東京が焼け野原だった昭和20年代早々は、音楽暗黒時代。
そこに取り込まれてしまったのが藤山一郎。
藤山一郎は昭和18年に慰問に東南アジアに慰問に駆り出された藤山一郎は、抑留されてしまって、長い抑留生活を続けて、昭和22年に帰国。
右も左もわからない浦島太郎で日本に帰ってきた藤山一郎。
最初に嗅ぎつけたのがNHKで、そこで「音楽五人男」など戦後ラジオ番組に出演。うまく使われた感はある。


[174:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/28(Thu) 20:36)]
昭和20年、30年代は童謡黄金時代でした。
優れた童謡歌手がたくさん出て、名作童謡を聞かせてくれました。
頭には大きなリボンをつけ、今のクラッシック歌手でこれほどまでに歌えない、そんな童謡歌手が輩出した時代でした。

でも、それは突然、崩壊してしまったのです。
戦後自由主義の名のもとに、芸術の名のもとに数々のおかしなことが、戦後の音楽暗黒時代を代表する出来事、それが「ロバの会」による童謡排斥運動でした。

「青い山脈」がでた昭和24年、NHKラジオ放送で「歌のおばさん」が主体となっている、出来事。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは。
、でした。NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。

当時は童謡黄金時代であったがこれはレコードであなくラジオである。
磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直ら若手二世五人の作曲家グループは、
昭和三十年「ろばの会」を作って、(レコードでなく)新しいラジオ番組「歌のおばさん」で
「あたらしいこどものうた」をつくろうとした。

そしてこれまでの(レコード)「童謡」の「排斥運動」を展開したのだ。
自らと競合する『童謡』を排斥したのだ。(「童謡排斥運動」という。)

昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。

しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。


「ぞうさん」「サッちゃん」「おなかのへるうた」。。こうしたたあいないへんな歌は童謡黄金時代、「童謡」に対抗して、昭和30年に作られた「ロバの会」による「新しいこどものうた」というものです。対象就学期前の幼児でした。

そしてなんと、「童謡排斥運動」を起こしたのです。「ロバの会」自体が童謡排斥のためで、5人の若手二世音楽家によって作られたものでした。

「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた”を作って行こう」ということで、“童謡”を“こどものうた”と言いあらためたと言うのだが、結局こどものうたにすぎなかった。そして排斥に依って自分たちの世はこなかった。

名もなきたった4人の若手二世で、大正時代からの『童謡』を変えるなどとても無理な事だった。 宇賀神光利、中田喜直らが相次いで亡くなり、2000年には解散となった。


<「ろばの会」について>
磯部俶(いそべとし)の提案で、“こどものうた”の作曲家グループとして、昭和三十年(1955年)に 中田喜直、磯部俶、中田一次(、宇賀神光利(昭和42年(1967年)に死亡)、大中恩の5人で結成。 まどみちおなど詩に加わる。

童謡をさんざん排斥した中田喜直は、その後、その「童謡」をそのままかすめ取って
『童謡協会』を作り、会長に収まった。

動機不純そのもので、さすがに最初から会長では露骨すぎとかんがえたのだろうか、初代はサトウハチロー、仲田は二代目として入った。
これいったいどういうこと。

日本童謡史における最大の汚点として、中田喜直ら、ロバの会の悪行は記録されるでしょう。

「童謡の聖人」・・実は戦後童謡排斥運動の最右翼・・だったのでした。・・


童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50


[175:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/28(Thu) 20:46)]
戦後草創のラジオ放送はいいものもたくさんあるが、おかしなことがいろいろある。
戦後復員であった藤山一郎は本当にこれから何をしていいのか途方に暮れていた。
古賀政男と「酒は涙か溜息か」を吹き込んだのは、まだ25歳の若さだったが、すでに40歳を超えていた。
そうした藤山を引き込んだのはNHKだった。



[176:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/30(Sat) 07:16)]


藍川由美「古関裕而を歌う」
――戦後六十年に響く『長崎の鐘』――
2005年8月6日(土)19:00開演/東京文化会館小ホール
敗戦から60年――とはいえ、自ら体験していない時代について思いを馳せることは難しい。 所詮、想像の世界を越えることはできないと思われるからだ。 しかし、だからといってそれを避けていては、前世紀どころか数世紀前の音楽を研究したり演奏したりする意味も稀薄になってしまう。 音楽作品が命を永らえるためには演奏が不可欠であり、演奏家の仕事は楽譜を通して創作者の意想を酌み取り、再現することに他ならない。 そこで今回のコンサートでは、古関の代表作を演奏することで、激動の時代を見つめてみたいと思う。
 邦人作曲家として初めて国際的に認められた古関裕而は、紛れもなく昭和を代表する作曲家であった。 それゆえ、彼には戦前・戦中・戦後を通して創作依頼が相次いだ。
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、日本音楽界の情況からオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭され、留学を断念して昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。
h ttp://www.jade.dti.ne.jp/~onodera/koseki_yuuji.html


[177:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/31(Sun) 11:22)]
>昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、日本音楽界の情況からオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭され、留学を断念して昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。
h ttp://www.jade.dti.ne.jp/~onodera/koseki_yuuji.html

古関裕而が正式にコロムビア専属になったのは昭和6年10月。

このあたりが、食い違っているのだが、これは古関サイドが専すら専すら隠匿している山田からの強いダメ押し・・日本音楽界の情況からオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭された・・ことによるもの。


[178:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/31(Sun) 22:36)]
昭和24年(1949)「青い山脈」に象徴される、戦後自由主義(自由奔放主義)。それはまさに、戦後「自由」の名のもとに今までの重石であったルール(正義)が解き放たれた自由奔放な時代の産物であって、今殆ど顧みられない。
音楽の世界も童謡排斥とか・・大きく変えることとなった。

「青い山脈」と同じ昭和24年に焦点を当てると、同じ年、同じ服部良一作曲「東京ブギウギ」という訳の分からないアチラの、対局の歌がはやった。
これを境に日本の歌の世界は大きく変わってしまった。

また、「人の体温に一番近い表現形式」、それが「短歌」、人が詠み、それ自身リズムを持つ音楽でもある「短歌」。
同年、その名だたる「短歌」を、そのまま「歌」(白鳥の歌)にしてしまった(「音楽五人男」))。
作曲以前に、戦後自由奔放主義が招いた、聞いたことがない困ったことにしかみえないだろう。

何でも作くりゃいいってもんじゃない、詩は歌になるが、短歌自体がすでに歌である短歌は「歌」にならない。 それは決して「名曲」にもならないもの。歌以前のことだが、藤山一郎によって歌われると隠れてしまう。
「短歌」とは「意味」だけでなく、それ自身が歌であり、「意味」だけでなく「調べ(リズム)」について意識して「詠む」もの。

また、同年NHKラジオ放送では「歌のおばさん」が主体となって「あたらしいこどものうた」なるものをつくろうとした。
これは昭和30年に作られた中田喜直ら若手二世五人の作曲家グループは、対抗する「童謡」を排斥する運動を起こすのです。

これらは、「戦後自由主義(自由奔放主義)」という混乱の時代の産物でしょう。

残念なことは、戦後のこうしたラジオ音楽番組に、ちょうど長い抑留生活から解放され、浦島太郎そのままに焼け野原に帰ってきた藤山一郎、されて40を過ぎて、これからどうしたらいいのかわからない藤山一郎が、丁度よくそのまま取り込まれ、「音楽番組」に格好のお助け効果となって利用されてしまったことだろう。


[179:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/01(Mon) 08:46)]
何といっても、「詩」を超えるものはない。
曲は「詩」を超えることはできない。

誰が歌おうと!。


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