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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:43)]
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


[2:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:45)]
小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、長い石畳のなだらかな坂道。

そこに、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。

古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。

古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

のとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。


[3:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:48)]
毎朝、玄関でお金の音がする。
これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRAC本部のビル。

−私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。

私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。


[4:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:53)]
その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。

代々木上原駅前3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。

古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や、数十台が留められる広い駐車場。大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。


[5:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:58)]
日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のテナントとして、「古賀政男音楽博物館」に一体隣接して、そびえ立つ威容はまさしく大衆音楽の聖地。

「古賀政男音楽博物館」には、滝廉太郎、野口雨情、本居長世、山田耕作、中山晋平、西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎・・美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・など明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で併せて現在246名が顕彰している。

入館料だけでその中で7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)は無料開館日。www.koga.or.jp/



[6:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 09:05)]
(参 考)
・藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県)、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
 古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

・「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


☆有名人の邸宅(参考)
古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)     1500坪
孫正義邸 (港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪





[7:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 09:10)]
古賀政男と『七人の侍』

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまで数多出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。

「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。 同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和3年、人生の、青春の苦悩から始まった古賀メロディ・・戦後、30年代青春歌謡と言われるものがはやったが、古賀メロディは元祖青春歌謡といえます。

戦前から戦後にかけて、まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、 唯一の娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があって、そして映画公開を楽しみに待った。

その映画には主題歌があって、レコード全盛時代で映画とともに人々は、それを愛唱し
口ずさんだ、それが今に残る多くの名曲だった。

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(同、西岡水朗作詞、天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女。 高橋掬太郎作詞)、 「丘を越えて」(姉、島田芳文作詞)、「鳩笛を吹く女の歌」(佐藤惣之助作詞)(いずれも藤山一郎歌、1931)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。

人は古賀政男を大作曲家、歌謡界の大御所とよんだ。

五千曲に及ぶ作曲生活の中で、数多い名曲、ヒット曲を生み、それが築いた富は数十億円とも言われている。

広大な邸宅に住み、晩年に到るまで名声と富に囲まれて暮らしていた古賀政男。死後は国民栄誉賞に輝き、彼が生んだ古賀メロディーは、今後とも日本人の心の中に生き続けるだろう。

人間として、作曲家として文句のつけようのない生涯であったと誰しもが考える。

だが、この華やかさとはうらはらに、古賀政男は心を許した親しいものに「ぼくは寂しいのよ」と、よく打ちあけたことは知られている。

少年時代から死ぬまで古賀政男にとって、確かなものは、音楽への情熱しかなかった。

その心を歌に託せば、“哀しみ”と“寂しさ”になり、人々の心をうつのであろう。

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ わが想い

古賀政男を作曲家としてスタートさせた処女作『影を慕いて』のあの“哀しみ”と“寂しさ”。

そして晩年に到るまで古賀政男の心に宿り、いつの時代の作曲活動にも活力となった
“寂しさ”と“哀しみ”とはなんだったのだろうか。・・

貧困の中での生い立ち,父の死、母と兄の確執、自殺未遂・・、
暗い青春にある日突然訪れた栄光。
古賀作品の本質と彼の青春は深くかかわりあっているのだ。
( 流転の旅 人間古賀政男 その青春
  「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978)))
 
昭和9年(1934)2月、大阪に創立されたテイチク(帝国蓄音機)は、昭和の初め外国資本で設立された日本コロムビアやビクターなどのレコード会社に追いつこうと、<重役兼、文芸部長兼、作曲家>として新進のヒット・メイカー古賀政男を招聘し制作の全権を委ねた。

古賀政男邸はこの「テイチク黄金時代」と言われたテイチク時代の昭和12年から13年にかけて作られた。

古賀は、マンクラの「7人の侍」と呼ばれる側近を呼び寄せ、昭和9年5月15日、銀座にテイチク東京文芸部《古賀文芸部》を組織し、仕事をスタートさせる。

このとき、淡谷のり子の紹介で専属契約したのがディック・ミネである。テイチク文芸部が反対するのを古賀のツルのひと声で昭和9年11月に録音、翌年1月に発売された「ダイナ」と「黒い瞳」は空前の大ヒット。

このことに味をしめて、以後、テイチクはジャズに力を入れていく。また楠木繁夫や、昭和11年には、ビクタ―の契約期間を過ぎた藤山一郎を呼び寄せた。



[8:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 09:24)]
古賀政男と『七人の侍』

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。

作曲家はこれまで数多出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。

「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。 同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和3年、人生の、青春の苦悩から始まった古賀メロディ・・戦後、30年代青春歌謡と言われるものがはやったが、古賀メロディは元祖青春歌謡といえます。

戦前から戦後にかけて、まだ日本が草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、 唯一の娯楽は「映画」だった。

どんな小さな街にも、ちいさな映画館があって、そして映画公開を楽しみに待った。


[9:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 09:25)]
古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。

いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。

古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりした人。 

古賀政男邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。

そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。

3000坪の広大な古賀政男邸、坂を登った左側には大きな車庫が3つあって、幅2mもあるリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。

右側に和洋折衷の洋館、その大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。

あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカード、フォードや、リンカーン、ベンツを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。

戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。

古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」(銀座)発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。(また古賀メロディの多くに明大マンドリンクラブ演奏が多い、明大マンドリンクラブ演奏以外にも、古賀政男オーケストラ、古賀政男サロンオーケストラ等の名前もそうである。)

 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。

さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。

『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。

このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

53年8月4日、独自の曲調「古賀メロディー」作曲による業績により、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られ、王選手に次いで二番目。

生存者に贈る賞で、亡くなった人に贈ることに異論があったが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった。博物館に展示されている。

☆古賀政男とその主な人脈
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・


[10:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 09:32)]
「古賀政男音楽博物館」  <大衆音楽の殿堂顕彰者>

「古賀政男音楽博物館」には明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で顕彰している。

滝廉太郎、野口雨情、、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎・・から西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎、・・から、美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・までほとんどをカバ―している。

大衆音楽の殿堂顕彰者には明治以降、明治、大正、昭和、これまでのほとんどの大衆音楽に尽くした 作曲家、詩人・作詞家、歌手・演奏家併せて246名が顕彰展示されており、入館料だけで7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。

最近の歌は、なんでも「名曲」、しかも60年以上の長い「昭和」の歴史になかで、ほんの昭和の最末期飽食の時代の歌だけで、昭和歌謡と言ってますが、これを見ると,聞くともっと深いことが分かります。昭和の本当の名曲を堪能することができるでしょう。

昔は大衆音楽というのは民謡くらいしかなかった。多くの音楽家のすぐれた才能や、たゆまぬ努力によって、大衆音楽の名曲は生まれました。
古賀政男音楽博物館では、日本大衆音楽の歴史を振り返り、その発展に貢献された方々の功績を顕彰する「大衆音楽の殿堂」,この殿堂ホールには、顕彰者のレリーフが掲げられているほかに、その年の顕彰者ゆかりの品々を展示さえている。

顕彰者の代表曲などは、地下1階「音楽情報室」の検索システムで入館料だけで何曲でも聞ける。 他に、作詞者名、歌手名、もちろん題名でも検索できる。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

<大衆音楽の殿堂 顕彰者>  作曲家(抜粋) 75人

滝廉太郎、岡野貞一、田村虎蔵、下總壯一、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎、
成田為三、草川 信、梁田 貞、杉山長谷夫、河村光陽、海沼 實、佐々木すぐる、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、竹岡信行、町田佳声、佐々木俊一、万城目正、仁木田喜雄、池田不二夫、古関裕而、服部良一、大村能章、阿部武雄,長津義司、上原げんと、団 伊久磨、中田義直、飯田三郎、中村八大,大久保徳次郎、いずみたく、倉若春生、吉田矢健治、利根一郎、市川昭介、八州秀章、細川潤一、宮川 泰、田村しげる、富田 勲、米山正夫、吉田正、猪俣公章、船村徹、遠藤実、・・



<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 歌手(抜粋)100人
松井須磨子、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、関 種子、徳山 l(たまき)、田谷力三、淡谷のり子、松平 晃、楠木繁夫、中野忠晴、上原 敏、東海林(しょうじ)太郎、ミス・コロムビア(松原操)、二葉あき子、霧島 昇、ディックミネ、山口淑子(李香蘭)、伊藤久男、高峰三枝子、松島詩子、渡辺はま子、塩まさる,市丸、小唄勝太郎、高田幸吉、川田正子・孝子、河村順子、平井英子、安西愛子、松田トシ、灰田勝彦、岡晴夫,神楽坂はん子、美空ひばり、笠置しず子、小畑実、近江俊郎、竹山逸郎、榎本健一、高 英男、森繁久彌、奈良光枝、並木路子、宮城まり子、織井茂子、菊池章子、宮城まり子、三波春夫、村田英雄、、田端義男、三橋美智也、初代コロムビアローズ、ペギー葉山、橋幸夫、坂本 九、島倉千代子、こまどり姉妹、神戸一郎、菅原洋一、三浦光一、テレサテン、岸 洋子、小坂和也、フランク永井、ザ・ピーナッツ・・・



<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 詩人・作詞家(抜粋)71人

吉丸 一昌、井上 赳、大和田建樹、高野公男、井上 赳、近藤朔風、林 柳波、武島羽衣、中村雨紅、清水かつら、加藤省吾、久保田宵二、斎藤信夫、加藤省吾,武内俊子、東くめ、

野口雨情、西條 八十、佐藤惣之助、島田芳文、サトウハチロー、藤浦 洸、菊田一夫、高橋 掬太郎、佐伯 孝夫、長田幹彦、門田ゆたか、藤田 まさと、野村俊夫、島田欣也、清水みのる、寺山修司、横井 弘、西沢爽、宮川哲夫、石本美由樹、矢野亮、星野哲郎、やなせたかし・・・

(平成30年4月現在)


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