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グラマン戦闘機の機銃掃射、敵兵が見えた…そこら中に弾が跳ね返る音が2020 8/13(木) 10:00配信

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/13(Thu) 12:58
グラマン戦闘機の機銃掃射、敵兵が見えた…そこら中に弾が跳ね返る音が
8/13(木) 10:00配信

神戸新聞NEXT
「この辺りまで空襲で焼けた」。当時の記憶を語る松本ヤスさん=明石市

■市街地の自宅で空襲体験 兵庫県明石市の松本ヤスさん(88)

 1945(昭和20)年6月の終わりぐらいやったと思う。当時の食料は国の配給。でも配給切符は10軒に3、4枚しかなかった。くじで勝って切符を手に入れた。銀座通りに面する角の家が配給所で、20人ぐらい並んでいた時だった。

【写真】散らさず済んだ命、新しい生きがい見つけた

 「バラッバラバラ」と音がした。警報がないのに何やと空を見上げると、南の民家のすぐ上を飛ぶ焦げ茶色のグラマン戦闘機。1人が操縦し、もう1人が銃を構えていた。

 これはあかんと向かいの家の戸を開けて「すんません。機銃掃射やから入れて」。家の人はすぐ入れてくれた。そこら中に機銃掃射の弾が跳ね返る音がする。怖くて家の奥にいた。配給の列は一斉にばらけたけど、中には負傷した人がいたと聞いた。あんなに近くに戦闘機を見たのはあの時だけ。一番怖かった。


 米軍は攻撃対象を焼き払うために焼夷(しょうい)弾を使用した。明石に初めて焼夷弾が投下されたのが7月7日。975トンが市民を襲った。


 深夜にB29の波状攻撃があった。「ガサガサガサ」。爆弾とは違う音がした。油脂焼夷弾が落ち、市街地のあちこちで火の手が上がった。壕(ごう)の中から真っ赤な空が見えた。地獄の空みたいやった。目と耳を手で押さえ、口を開けてじっとしていた。爆風で内臓が飛び出さんようにと、そう教えられていたんよ。

 何回も飛行機がきたんよ。3べんぐらい済んで、もう終わりかなと思ったら、2分もすると、「ウワー」と飛行機の降下音と爆音が聞こえてくる。その度に今度はあかんかなと思った。

 外に出ると油の臭いがして近所の家が燃えていた。やけどをしないよう、家の前にあった防火用水に防空頭巾を漬け、頭に巻いた。初めは水道が出て消火栓をつないだけど、すぐあかんようになった。各家でセメントの入れ物に用意していた防火用水程度では消せず、うちの井戸からバケツリレーで消し止めた。自宅から東と南方向のいずれも4軒目まで燃えた。うちは当時わら屋根の古い家だったので、よく残ったと思う。

 翌日、駅前通りから見ると、明石川の向こうまで見渡せるぐらい。見渡す限りの焼け野原。大きな蔵や警察署、銀行がぽつん、ぽつんとあるぐらい。明石全滅みたいなものやった。ショックやった。

 人丸山のそばに住んでいた同級生の女の子は、自宅の防空壕の入り口に焼夷弾が直撃。家族全員が亡くなった。終戦の直前ぐらいに聞いたけど、家族がいないので弔問にも行けない。思い出がよみがえってつらかった。

 戦後20年以上たって偶然出会った女性が、その友人のお姉さんだった。結婚で家を出ており、助かったらしい。卒業写真のコピーなどを送った。「何も残っていなかったから」と泣く姿に熱いものがこみ上げた。


 日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終わった。45年8月15日。昭和天皇が戦争終結を告げる「玉音放送」が流れた。


 天皇陛下のお言葉があると聞き、自宅のラジオ前に座って待っていた。雑音で聞き取りにくく、何が起きたのかよく分からなかった。父が「負けたということやな」と。父は明治生まれで戦争に負けた日本を知らなかった。私はただあぜんとしていたと思う。

 戦後、焼け跡の整理は大変やった。うちは家が残ったから新聞を売って暮らした。古新聞を1枚1円で魚店さんが買ってくれた。必死に数えて持って行った。

 食べ物がなく、栄養失調にもなった。医者は「心臓かっけです」。心臓が腫れたみたいになって数カ月、学校を休んだ。

 戦時中、私が通っていた明石高等女学校には敵国語の英語の授業はなかった。いま考えると米国のこともよく分からずに神風が吹くからとか、あほな話やったと思うわ。

 戦争はたとえ勝ったとしてもろくなことはない。たくさんの犠牲が出る。どんなことがあっても二度と戦争はしたらあかん。戦争は百害あって一利なしや。(長沢伸一)

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最終更新:8/13(木) 10:10
神戸新聞NEXT

2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/13(Thu) 13:18
「工員が機銃掃射で腹に風穴をあけられ危篤」14歳がつづった戦争の日常
2020 8/13(木) 10:10配信

西日本新聞
米軍機がまいたとみられる空襲予告ビラの裏面。旧ソ連の参戦や「ヒトラーの末路」を書き連ね、降伏を促している。竹村さんが久留米で拾ったもの

 福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。

【写真】ノートにびっしりつづられた日記

七月二十八日(土)曇
 七時頃、小型機十數(すう)機、久留米を北進し少し機銃掃射した。高射砲を少し射(う)った。
 八時二十分頃、小型數十機北進。機銃掃射す。空襲警報は長引いて十五時半解除となる。それで工場には行かなくてよかった。空襲警報中に、敵の小型・中型が通過し、小型機は機銃掃射した。父の話によれば、日本ゴムのロールの事務所(?)の横五六間(けん)の所に小型爆彈(ばくだん)二発が落ちたとのこと。又(また)工員一名が機銃掃射で腹に風穴をあけられて危篤とのこと。

 十六時頃空襲警報となりたるも、直ちに解除となる。

 ペン字のくづし方を少々けいこした。

 日暮れに泉・居本君があそびに來(き)たので、一時間ばかり話をし、試驗管(しけんかん)一本づゝと海軍生徒志願者心得を一枚やった。

 二十三時空襲警報

 七時空襲警報

 八時十五分空襲警報

 十五時半解除

 十六時空襲警報

七月二十九日(日)
 今日は休み。今朝も空襲警報があったが、何事もなかった。

 物をうめるための穴を、門柱の右にほった。又(また)そのひまに「岩窟王」をよんだ。

 今日は日曜だけれど、工場に行ったものがあったさうだ。僕は岩熊先生が父に今日は休みとおっしゃったと、父がいったので行かなかったが、行ったものは普通通り働いて、じゃがいもの配給があったさうだ。二十時、猪口さんがきたが、すぐ歸(かえ)った。

 眞夜中警戒警報

 九時空襲警報

 十一時半空襲警報

七月三十日(月)曇
 作業は益永君と二階の台車押しをした。

 空襲警報中は場内待避をした。

 腹少々痛み、工場にて一度便所に行く。うちへかへってからも數(すう)回行く。のどかはく。

 第二ロールの工場に爆彈(ばくだん)が一発落ちてゐるが、被害は全くなし。

 夜中空襲警報

 九時空襲警報

 十一時空襲警報

 十四時半警戒警報

 十六時警戒警報

3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/13(Thu) 15:00
銃で撃ち抜かれる仲間、炎を浴びる人々…戦後75年 羽生の男性、東京大空襲を語る 記憶に残る黒焦げ死体
2020 8/11(火) 10:14配信

埼玉新聞
東部10部隊に配属されたころの田沼杵太郎さん

 「B29爆撃機が上空約1万メートルから計36本に束ねた焼夷弾(しょういだん)を落下。上空約700メートルで分解され、散らばった無数の子爆弾が家屋に突き刺さり、瞬く間に炎が上がった」。埼玉県羽生市の田沼杵太郎さん(96)は、東京を襲った空襲の中で最も被害が大きかった1945年3月10日の東京大空襲の惨状を目の当たりにした。地元の小学生に戦争体験を伝えており、「命のある限り、戦争の恐ろしさを伝えていく」と力を込める。

飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師 戦後72年…激戦地で生き、戦後は助産師で赤子抱く

(写真:戦争体験の授業を行い、新郷第一小学校の生徒にもらったお礼の色紙を手にする田沼杵太郎さん=羽生市の自宅)

 44年9月に徴兵検査に合格した田沼さん。習志野練兵場で3カ月間の演習訓練を積んだ後、東京都本所区(現墨田区)の東部10部隊に配属された。

 当時は、血気盛んで食欲旺盛な20歳。上官の厳しい指導に従い、敵機の襲来に備えていたが、「常に腹が減って、戦どころではない。こんな状況で果たして日本は勝てるのか」と不安を拭えなかった。息抜きであるはずの食事は、モロコシの一種「コーリャン」を手のひらにいっぱいだけ。まるで鳥のえさを食べている感覚だった。

 11月下旬から、米軍の大規模な戦略爆撃が東京で始まった。キーンキーンと鋭い金属音とともに何機ものB29が現れる。「あんなのに勝てるわけがない」と思いながらも、拳銃を握り、敵機に向かって射撃した。目の前には、機銃掃射で打ち抜かれる仲間や、炎を全身に浴びながら懸命に逃げ回る住民たちの姿があった。

 45年3月10日の無残な光景は、今でも頭から離れない。木造家屋が密集する本所地区に容赦なく無数の焼夷弾が投下される。炎が四方から迫り、逃げ場を失った住民は、水を求め、次々と川に飛び込んだ。「3月中の真夜中で水も冷たかった。みんな凍えていた」と振り返る。

 戦況の悪化とともに、靖国神社付近の大通りには、兵士や都民らの無残な黒焦げの死体が並ばれていった。「一体、いつまでこの状況が続くのか」。田沼さんの終戦を願う気持ちは日に日に高まっていった。

 8月15日。田沼さんは玉音放送を都内で聞いた。ラジオから流れる天皇の声は聞き取りづらく、最初は「軍隊も苦戦しているが、頑張って日本を守ってほしい」という激励の言葉だと思っていた。あとで日本が負けたのだと知り、「これで、人間らしく生きられる」と安堵(あんど)した。

 田沼さんは現在、羽生市立新郷第一小学校の6年生たちに戦争体験の授業を行い、戦争の恐ろしさを伝えている。生徒たちは、田沼さんへの感謝の気持ちと、「ごはんを残さずに食べないと、昔の人に申し訳ないと思った」「私たちは平和な世界、争いのない世の中にしていきたい」などと思いをつづった色紙を田沼さんに贈っている。

 戦争体験の授業を続けて20年以上が経過。田沼さんは「自分の命のある限り、若者たちに戦争の恐ろしさを伝えていく」と目を輝かせた。

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最終更新:8/11(火) 10:54
埼玉新聞

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/13(Thu) 21:45
登下校中のたくさんの小学生がグラマンの機銃掃射ので打ち抜かれ死んだという話を良く聴いた。
機銃掃射されると、はらわたが飛び出る悲惨なものだったらしい。

朝鮮戦争でも北朝鮮は米軍の絨毯爆撃や、機銃掃射を浴びせられ。残った建物がなくなってしまtっということ。
来たが一番恐れをなしているのかこれだという。


5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/17(Mon) 21:16
朝鮮戦争で、北朝鮮はアメリカ軍の爆撃を受けた。B29による絨毯爆撃、戦闘機による機銃掃射。

絨毯爆撃で、北朝鮮は建物が一つしか残らなかった。


北挑戦がアメリカを恐れるのは、B52によるこの絨毯爆撃の再来。

これを防ごうとロケットに力を入れたのだ。

6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/17(Mon) 21:32
硫黄島陥落以後P51が来るようになると、日本もベテラン操縦士もが少なくなって応戦も困難になり、本土決戦のために温存ということで迎撃もほとんだしなかった。そのため米軍では地上の動くものは何でも銃撃せよという命令を出しています。
そのため子供が逃げ惑う姿がガンカメラにも映っています。ひどいものです鬼畜です。

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/17(Mon) 21:35
戦争末期になると機銃掃射なんて日常茶飯事だった……と、大伯母から聞いた事がある。
機銃掃射どころか、昭和20年7月14日から8月9日の間に、東日本の太平洋側沿岸部の都市に大規模なものだけでも6回艦砲射撃を行い、合計で三千人以上の民間人を虐殺してる……戦争中活躍出来なかった戦艦乗りに活躍の場を与えるためだった……とも言われてる。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/18(Tue) 09:08
今、敵地攻撃能力とか戦争の何たるかも知る由もない戦後の飽食の時代を満喫した
バカ政治家たちによって行われている。

真珠湾攻撃・・適地先制攻撃・・その結果がこれ。

都市の無差別絨毯爆撃 一夜にして10万人がなくなった東京大空襲だけでなく、全国の主要都市や中島飛行機など軍需工場が無差別爆撃を受けた、

日本本土のほとんど、屋根すれすれに飛んでくる、日本近海の空母から飛び立ったグラマン、P51戦闘機による飛行機も撃ち落とす搭載15.7ミリ機関砲による
無差別機銃掃射、昼間動くものは何でも攻撃対象となり、という下校中のランドセルの小学生も
撃たれてハラワタモも飛び出し、ばらばらになって死んでいった。


沿岸都市や軍需産業工場を狙った艦砲射撃・・

これが適地先制攻撃・・真珠湾攻撃・・の結果であった!!。



9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 10:07
自民党の政治家もほとんどは昭和30年以降、戦後、飽食の時代生まれです。
戦争のことなど知りません。
石破ナニガシにしても、特別強硬派で、「徴兵制」を主張している最右翼です。
徴兵拒否は死刑です。




10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 10:54

2020年 8月 21日 (金)



J-CASTニュース
ニュース
社会
「戦争に行かない人は、死刑にする」 石破幹事長はこんなバカな発言をしたのか
2013年07月17日18時12分

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自民党の石破茂幹事長が、「戦争に行かない人は、死刑にする」と発言――参院選も後半にさしかかる中、新聞の報道をきっかけに、こんな情報が飛び交い始めた。

「徴兵逃れには死刑か懲役300年という話、本当に怖い。選挙でねじれがなくなったら一体どうなるのか?」
「徴兵されて戦死したくない若者は選挙に行って自民党を潰すしかないよ」
などと、一部有権者は蜂の巣を突いたような騒ぎだ。実は、石破幹事長はそんな短絡的な発言はしていない。どうしてこんな話になったのか。

7年以下の懲役・禁錮では甘すぎると主張
発端となったのは、東京新聞の2013年7月15日付朝刊だ。



11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 10:56
「石破自民幹事長もくろむ『軍法会議』」
「平和憲法に真っ向背反」
連載「こちら特報部」のコーナーへ、いかにも軍靴の音が聞こえそうなおどろおどろしい見出しとともに掲載されたのは、石破幹事長の顔写真だ。

記事は、テレビ番組「週刊BS-TBS編集部」で4月21日放映された石破幹事長のインタビューをいわば蒸し返す形で構成されている。石破幹事長はその中で、「国防軍に『審判所』という現行憲法では禁じられている軍法会議(軍事法廷)」の設置を強く主張、「死刑」「懲役300年」など不穏な単語を連発させたという。

実際に、問題のVTRを見てみよう。石破幹事長は自民党の代表者として、自民の改憲草案を、いつもの口調で解説していく。そして話題は「9条」にさしかかった。石破幹事長は憲法への自衛隊(国防軍)の明記を改めて強調した上で、改憲後の具体的な変更点として、「軍事裁判所的なもの」(自民草案では「審判所」)を設置すると解説する。

ここから、問題の箇所だ。まずは、現状について、自衛隊員が一般法によって裁かれていることに触れ、その罰則が甘すぎると主張する。

「今の自衛隊員の方々が、『私はそんな命令は聞きたくないのであります。私は今日を限りに自衛隊員を辞めるのであります』といわれたら、ああそうですか、という話になるのですよ。『私はそのような命令にはとてもではないが従えないのであります』といったら、目一杯行って懲役7年なんです(編注:自衛隊法の刑罰の上限は『7年以下の懲役・禁錮』)」
「死刑になるくらいなら出撃しようということに…」
続けて、「これは気をつけて物を言わなければいけないんだけど」と前置きし、

「人間ってやっぱり死にたくないし、ケガもしたくないし、『国家の独立を守るためだ! 出動せよ!』というときに、『でも行くと死ぬかもしれないし、行きたくないな』という人はいない、という保証はどこにもない」
と、自衛隊にもいざとなると「出撃拒否」が起こる可能性があると話す。そしてこうした事態を防ぎ、自衛隊の規律を維持するためには、軍法会議設置による命令違反への厳罰化が必要だと説く。

「だからそのときに、それに『従え! それに従わなければその国における最高刑である』――死刑がある国は死刑、無期懲役なら無期懲役、懲役300年なら300年(と決まっていれば)――『そんな目に遭うくらいだったらば、出動命令に従おう』という(ようになる)」
確かに石破幹事長は、軍事法廷の設置と、その最高刑として死刑もありうる、との見解を示している。ただし一部の人々が誤解しているように、これは「兵役拒否=死刑」という話ではない。すでに自衛隊(国防軍)に入った人のみが対象だ。

ちなみに石破幹事長は、2010年のブログで、自衛隊がいずれも「複雑かつ精密なコンピューターの塊のような装備・システムで運用されて」いることなどを理由に、「玉石混交」の人材を集める徴兵制にははっきり反対を明言している。

「敵前逃亡」は米陸軍では「最高で死刑」
また軍隊を持つ大半の諸外国では、なんらかの形で軍法会議を設置している国が大半で、罰として死刑など刑法上の最高刑を科している国は少なくない。

防衛省防衛研究所の奥平穣治氏が記すところによれば、たとえば「敵前逃亡」は米陸軍では「最高で死刑」、「命令拒否・不服従」や「部隊不法指揮」「秘密漏洩」なども戦時中は死刑の対象となりうる(ただし適用例は第二次大戦以来ない)。英、独など死刑制度が廃止されている国でも、石破幹事長の言うようにそれ相応の厳しい刑罰が設けられており、それと比べれば、日本の自衛隊の刑罰は「全般的に、主要国の軍(刑)法より軽い傾向がある」という(「防衛司法制度検討の現代的意義」より、2011年1月)。「軍法会議」の設置には賛否両論があるが、石破幹事長の発言はこうした議論を踏まえたもののようだ。



石破茂

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/22(Sat) 21:48
石破大センセは昭和32年生まれ、軍事オタクと言われる人、目は口ほどにものをいうと
いうが、軍事オタクであって軍事専門家にあらず。
戦闘機とか戦車のモデル(模型)を収集して応接間とかに展示してあり。
性能とかに詳しい。

あの眼付きそのままに自民党一の過激な要注意人物。


13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 16:26
平和が続く日本で高まる「敵地攻撃論」の想像以上の危うさ
田岡俊次 2020/08/27 06:00
国民皆保険維持へ自民議連
永井真理子 シソンヌじろうのモノマネに「見た目はどうであれ嬉しい」

日本のミサイル防衛は、弾道ミサイルに対して、イージス艦の「SM3」ミサイルや航空自衛隊の「ペトリオットPAC3」(写真)で迎撃する体制 出典:航空自衛隊ホームページ(h ttps://www.mod.go.jp/asdf/equipment/all_equipment/Patriot/index.html)? ダイヤモンド・オンライン 提供 日本のミサイル防衛は、弾道ミサイルに対して、イージス艦の「SM3」ミサイルや航空自衛隊の「ペトリオットPAC3」(写真)で迎撃する体制 出典:航空自衛隊ホームページ…
 8月15日の全国戦没者追悼式で天皇陛下は「終戦以来75年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき誠に感慨深いものがあります」と述べられた。

 第2次世界大戦以後の75年間、世界各地で戦争、内乱、軍のクーデターなどが絶えず、ほとんどの国が戦争をしてきたことを思えば、日本が平和を維持してきたのは例外的で慶賀すべきことだ。

 だが一方でそのために、戦争を現実に起こり得るものとして、具体的に考える能力を欠き戦争の危険を軽視する「楽観的防衛論」が台頭する要因にもなっている。

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戦後75年間、平和を謳歌

直接戦闘を回避できてきた日本

 米国は1950年に始まった朝鮮戦争以後、戦争をしなかった年はまれだ。アジア、中南米、中東・北アフリカ、バルカン半島に出兵して戦い続け、その同盟国、友好国も協調出兵を迫られた。

 朝鮮戦争では米軍、韓国軍側を支援して英、仏、カナダ、豪州など15カ国も参戦、北朝鮮軍、中国軍と激戦し、ソ連も技術者、教官などを派遣した。米国の占領下にあった日本からは海上保安庁の掃海艇が米軍の上陸地点で機雷除去を行い、1隻が爆沈した。

 ベトナム戦争では1964年から本格的に南ベトナムに出兵した米軍側に韓国、豪州、タイ、フィリピン、ニュージーランド軍が加わり、北ベトナム側には中国、ソ連は対空部隊や多数の技術者などを送り込んだ。

 1991年の湾岸戦争では米軍主体の多国籍軍に英、仏、伊、カナダやエジプト、シリアなど14カ国軍が加わり、他にソ連を含む18カ国が多国籍軍への非戦闘支援を行い、日本も停戦後にペルシャ湾に掃海艇を派遣した。

 2001年に米、英が行ったアフガニスタン攻撃は長期のゲリラ戦となり、米軍主導の国際治安維持部隊(ISAF)には北大西洋条約機構(NATO)の28カ国の他に、非加盟国のスウェーデン、フィンランドなど15カ国も加わった。日本は補給艦、護衛艦を派遣、8年間米国などの艦艇に給油を行った。

 2003年に始まったイラク戦争では米、英、豪、ポーランド軍が侵攻したが、その後の治安維持に42カ国が参加。日本も陸上自衛隊約600人、C130輸送機を出し、学校、道路の補修や医療支援を行い、輸送機は米兵の輸送も行った。

 補給や占領地での民衆の懐柔も戦争で重要な要素だから日本もその一端を担ったが、直接の戦闘は辛うじて避けられたから、日本は「75年間平和を保った」と言うこともできなくはない。

陸上国境、人種や宗教対立なく

一方で「楽天的な防衛論」

 世界で大多数の国が近隣諸国との武力紛争や独立戦争、内戦、海外派兵などで、多数の死傷者、難民を出し、経済、財政に重大な損失を招いてきた中、日本がほぼ3世代戦禍を免れてきたのは、いくつかの要因が考えられる。

(1)島国で陸上国境がないため紛争が起こりにくいこと

(2)世界的制海権を持つ米国に占領され、その同盟国となったため他の国の侵攻を受けにくいこと

(3)人種、宗教間の対立が少ないこと

(4)憲法による規制があり、第2次世界大戦での惨敗、それを招いた軍の横暴の経験から、国民に戦争、軍事問題に対する忌避感が強かったこと――などだ。

 日本が平和を謳歌し繁栄したのは結構この上ないが、その結果、戦争はめったに起きないように感じ、戦争の危険を軽視した楽天的な防衛論が台頭することは寒心に堪えない。

 その一つは北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に対処するため、敵のミサイル基地を攻撃する能力を持つべきだとする「敵基地攻撃論」だ。



14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 16:42
「敵地攻撃論」の非合理

ミサイル「発射」の把握困難

 敵ミサイル基地攻撃を唱える人々の主張には、軍事知識や戦争の現実についての認識の「欠落」がある。

 小銃射撃や砲撃でも、攻撃をするには目標の位置を知ることが不可欠であるのは自明のことだが、敵基地攻撃を唱える人々は「どのようにして相手のミサイルを探知するのか」を考えていない様子だ。

 偵察衛星は地球をほぼ南北方向に約90分で周回する。地球は東西方向に自転するからおよそ1日に1回、世界各地の上空を高度200キロ程度、時速約2万9000キロで通過する。

 カメラの首振り機能を生かしても北朝鮮を撮影できるのは1日に数分でしかない。夜間や雲がある場合には光学カメラは使えないから、精密レーダー衛星があるが、解像度は劣る。

 偵察衛星は飛行場や造船所など、固定目標を撮影するには有効だが、移動目標を探知し、監視するにはほとんど役に立たないのだ。

 米軍は光学カメラを搭載した光学衛星5機、レーダー衛星7機(他に実験中の小型衛星5機)を持つ。日本は光学衛星2機、レーダー衛星5機を持つが、故障しているものもあり、実質的には計5機と思われる。

 常時監視をしようとすれば偵察衛星が数分置きに1地点上空を通るよう、百数十機を上げておく必要がある。

「静止衛星で見張れるのではないか」と言う人も少なくないが、それも不可能だ。

 静止衛星は地球の直径の3倍に近い高度約3万6000キロで赤道上空を周回する。この高度だと衛星の速度と地球の自転の速度が釣り合って、地球から見て止まっているように見える。だから電波の中継などには活用されるが、この距離からはミサイルのような小さい物体を撮影することは不可能だ。

 弾道ミサイル発射の際に出る大量の赤外線は探知できるから、「発射」の第一報を出し、ミサイル防衛(迎撃)には有効だが、敵基地攻撃の役には立たないのだ。

ミサイルの「破壊」も難しい



15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 16:50
移動式や即時発射能力向上

 北朝鮮の弾道ミサイルは移動発射機に搭載し、北部の山岳地帯などのトンネルに隠され、燃料を注入したまま待機できる「貯蔵可能液体燃料」を使用、新しい物はさらに即時発射が可能で、移動も楽な固体燃料になってきている。

 これはトンネルから出てきて、ミサイルを立て、発射まで15分程との推定もあるから、ジェットエンジン付きの大型グライダーのような「グローバル・ホーク」など無人偵察機を北朝鮮上空で常に旋回させてもトンネルから出て来たところを攻撃することも困難になっている。

 しかも北朝鮮は、旧ソ連製の「S200」や国産の「ボンゲ(稲妻)5」など高度3万メートルに達する対空ミサイルを持っているから、偵察機が上空で旋回していれば撃墜される公算が大きい。

 隠れている弾道ミサイルを発見、破壊するのは米軍にも容易ではない。

 1991年の湾岸戦争ではイラク軍の「アル・フセイン」(スカッド改)弾道ミサイルに対し、米軍は1日平均64機を「スカッド・ハント」に投入、発射地域の上空で監視、攻撃させたが、イラクは停戦の2日前までイスラエルや米軍基地にミサイル発射を続けた。

 停戦後に米軍が調べると、空軍機が破壊したと報告したのは、実はカラのミサイル発射機やトラックなどだったことが分かった。

 発射前に破壊できたのは、夜間に特殊部隊を運んでいたヘリコプターが偶然ミサイル発射の火柱を目撃、そちらに向かってみると、もう一発が発射準備中だったため、ヘリコプターのドアからの機銃射撃で壊した例だけだった。

 その後、約30年間で対地攻撃用の精密レーダーや赤外線探知装置の性能は進歩したが、他方で弾道ミサイルの機動性や即時発射能力も飛躍的に向上したから、その破壊は容易ではない。

 日頃の偵察衛星の画像や通信傍受で弾道ミサイルの展開地域は分かっても、攻撃するには精密な地点の緯度、経度のデータが必要だ。

 特に山腹のトンネルに隠されると、出入り口は分かってもダミーも多いし、トンネルが地下でどちらに曲がったり、枝分かれしたりしているかは分からない。地中貫通用の大型爆弾でも数十メートルの深さにしか届かないから、山の上空から攻撃するのは困難だ。

 敵基地攻撃を唱える人々は、北朝鮮の「テポドン」の発射のテレビ映像などを見て、それをミサイル基地だと思っている人も少なくないようだ。

「テポドン」は高さ65メートルもある巨大な櫓の側で、何週間もかけて組み立てられ、北朝鮮はその発射を事前に公表している。

 2012年12月と16年2月の2回、人工衛星と称する物体を周回軌道に乗せることに成功したが、衛星は故障したのか電波は出ていない。

「弾道ミサイルと人工衛星打ち上げ用のロケットは技術的には同じ」と言われることが多いが、これは「大型旅客機と戦闘機は基本的には同じ」と言うような粗雑な論だ。

 1957年にソ連が初の人工衛星を打ち上げ、翌年に米国もそれに続いて競い合った時代には、双方とも軍用のミサイルを転用した。だがそれ以来60年以上の歳月に、弾道ミサイルと人工衛星用ミサイルは別の方向に進化した。

 弾道ミサイルはたて穴に入れるか、潜水艦や車両に積んで移動するからなるべく小型にすることが望ましく、即時発射機能が必要だ。米国の主力ICBM「ミニットマン」は固体燃料を使い全長18メートル、重量35トンになった。

 一方、人工衛星は大型の反射望遠鏡やレーダー、送信機など多くの電子装備を搭載、寿命を長くするため大量の姿勢制御用燃料も積みたいからどんどん大型化し、「スペース・シャトル」は2000トンを超す大型となった。人工衛星を打ち上げる場合は、即時発射の必要はないから推力の強い液体燃料が使われた。

「テポドン」のように全長が10階建てのビル並みの30メートル、重さは80トンもあり、移動も即時発射もできないものは、戦時では簡単に破壊されるから弾道ミサイルの適性を欠く。現実にいまは人工衛星の打ち上げに使用されている。



16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 17:04
日米韓の連携どこまで

北朝鮮への抑止効果は疑問

 米軍、韓国軍との密接な情報交換で、移動発射のミサイルが山腹のトンネルなどから出て来た位置をつかんで攻撃できるようなことを言う自衛隊幹部もいる。

 だが、もし米、韓国軍がその情報を得れば、1分1秒を争うからただちに自分が攻撃するはずだ。日本に教えて手柄を譲ることはないだろう。

 また自衛隊が巡航ミサイルによる攻撃を朝鮮半島で行う場合には、味方討ちや誤爆を避けるために米韓合同司令本部の許可が必要だ。韓国軍がそれを歓迎することも考えにくい。

 また敵基地攻撃を唱える人々は「外国がいままさに日本に向けてミサイルを発射しようとしている際には、それを攻撃するのは自衛権の行使に当たる」と言う。

 法的にはそれにも一理はあるが、仮にミサイルの発射準備が行われていることを知っても、それが日本に向けて発射されるのか、単なる日常の訓練か、海に向かって試射するのか、他の国を狙うのかは、まず分からない。

 日本がミサイル攻撃を受けた後に、平壌などの固定目標に巡航ミサイルを発射するなら可能だが、核ミサイル攻撃の能力を持つ相手に、火薬弾頭の巡航ミサイルなどで対抗するのは破壊力が段違い。大砲に対して弓矢で立ち向かうようで抑止効果は無きに等しい。



17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 21:03

前記の下から3〜4行目、「まず分からない。」と記述していますが、
分かる人もいます。

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/31(Mon) 08:00
>>11

>「石破自民幹事長もくろむ『軍法会議』」
「平和憲法に真っ向背反」

石破茂ほど過激な人物を知らない!。
石破茂ほど行ってることとやってることに違いのあるものは知らない!。

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