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戦争ってどういうことですか!

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/12/29(Fri) 18:43)]
憲法改正すると日本が戦争できる国となります。
あなたも徴兵制で18歳になったら戦争に駆り出されます。
戦争って!?


[2:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/12/29(Fri) 18:45)]
戦争すのるのはる「自衛隊「」じゃないよ、18歳以上の日本国籍を持つすべての男子!

そう、あなたです!。

これを徴兵制といいます。


[3:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/12/29(Fri) 18:46)]
戦争すのは「自衛隊」じゃないよ、18歳以上の日本国籍を持つすべての男子!


[4:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/01/02(Tue) 09:35)]
石破センセによると、軍法会議をと。「国防軍」に作って
徴兵拒否に死刑または懲役300年と。


[5:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/01/07(Sun) 23:30)]
よし!それじゃあこのスレは終了だな!!
終わり終わり!解散!


[6:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/01/12(Fri) 11:02)]
今、憲法改正、「国防軍」を作るなんて、妄想に駆られている奴らは、
戦後の平和、高度成長の時代に生まれ、物の有り余る「昭和元禄」の時代に
青春を過ごした。

戦中戦後の食糧難の時代も、空襲や機銃掃射に逃げまわった
事も全く知る由もない世代。

戦争で死ぬっていうことも、死ぬっていうことがどういうことかも知る由もない。

北のチャンソンテクの公開処刑に使われたのは対空や、落下傘部隊攻撃用の14ミリ4連装高射機関銃の水平射撃。

体は一瞬でバラバラミンチになる。

日本全国を空襲機銃掃射して回った艦載機P51ムスタング、昭和20年にはいると、20ミリ機関砲4門搭載して、
屋根すれすれに縦横無尽に機銃掃射して回った。

ガンカメラが搭載され、報告されていたので打たねばならなかった。

あまり伝えられていないようだが、敵基地攻撃の反撃は、すさまじいもので、動くものすべて、漁船も、農夫も、ランドセルの子供も、飛行場も、軍需工場も、、列車も・・

戦争も何たるかも知らず、「国防軍」を目指し、アメリカに敵基地攻撃用の高価な武器を買わされる、戦争を知らない、戦争を「平和」と騙って国民を欺くようだが、自公、希望、維新改憲勢力に

危機を抱かざるをえない。



[7:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/01/12(Fri) 11:05)]
なお、今年2018年の新成人は1970年の丁度半分になったという。
人口減少が確実。
 
  1970年ー 246万人
  2018年ー 123万人

これ以上「自衛隊」で員数確保など無理!

敵基地攻撃=戦争そのもの・・・


戦うのは「自衛隊」ではないでよ・・・!。

戦うのは18歳以上の日本男子よりなる『国防軍』!、あなたです!。


[8:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/10(Sat) 22:12)]
戦争を知らない子供たち世代・・(アベ・石破、・)に・・

私は実際に友人(大戦中戦闘機のパイロット)の操縦するCOIN機に同乗して

模擬対地射撃を経験しましたが、よく見えますよ大人と子供の区別はつきます

また、戦闘機の速度といっても常時最高速で飛んでたらすぐに燃料がなくなってしまいますし

旋回したら大回りになりすぎて目標を見失います

大体、200キロ前後で対地射撃を行っていたそうです、新幹線の窓から見た景色ぐらいで人の顔の表現まで見えましたね

あれだけ見えると避難場所や遮蔽物が無いと逃げるのは難しいですね

当時はもう日本軍からの対空砲火は無い状態で自由に飛んでいられたらしいです

戦争という異常事態なので動くものは何でも撃ってたらしいです>帰るとき機体を軽くする為に弾を減らすそうで

戦争犯罪というのは戦勝国の一方的な言い分です、ジュネーブ協定で民間人の殺害は禁止されても守られたことなんか無いでしょ?

戦争を犯罪と考える段階で戦争を理解していないとも言えます。



[9:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/10(Sat) 22:13)]
4日前の東京・八王子空襲で不通になっていた中央本線が20年8月5日、運転を再開した。
この日の午後0時20分ごろ、浅川駅(現・高尾駅)を発車した新宿発長野行きの下り列車(8両編成)は乗客を満載していた。八王子市の湯の花トンネル付近にさしかかったところで、アメリカ軍戦闘機P-51が上空から機銃掃射を浴びせる。「湯の花トンネル襲撃事件」で犠牲になったのは60人以上と言われる。
後ろから3両目に乗っていた降旗昭次さんは、窓の外にP-51戦闘機が飛んできたのを見ていた。



「敵機だ」
その人が叫んだ。私も目を向けた。まさしくP51であった。裏高尾の狭い谷あいを列車に並行して飛んでいる。まさかと思っていた私たちは驚き、大きなどよめきと動揺が車内全般に起こった。間もなくP51が右旋回して、第一回の銃撃が行われた。列車は少し蛇行して止まった。
「機関車がやられたらしい」という声が聞こえた。
つかの間のことだった。P51が窓いっぱいにこちらに向かって突進してくる。。操縦士の顔まではっきり見える。私はとっさに通路の床に伏せた。と同時に「ダダダ……」と機銃音と共に、列車の窓より下の側板から弾が入ってくる。悲鳴があちこちから聞こえてくる。しばらくすると、伏せた私の背中に人が乗りかかってきた。「伏せるならばもっと低いところにすればよいのに」と思ったが、無我夢中だった私には、それをよける余裕がなかった。そのままの姿勢でじっと堪えていた。何回か銃撃が繰り返されていたが、その途中で飛行機の間隔が長く感じられてきた。「今だ」私は車内より脱出するため、起き上がった。そのとたん、私の背に伏せていた人がゴロンと転がった。男の人だった。もう息はなかった。思わず、「ぎょっ」としたが、それにかまう余裕もなく列車の窓から飛び降りた。(*1)



トンネル近くには現在、慰霊碑が建っている。
この当時、夜中に爆弾を投下するアメリカ軍の空襲とともに、白昼に列車を襲う機銃掃射も、一般市民にとって脅威だった。
『ガラスのうさぎ』がベストセラーになった高木敏子さんは女学校1年生(現在の中学1年)。この日、神奈川県の国鉄二宮駅で機銃掃射に遭い、父を亡くしている。3月10日の東京大空襲で母と妹を失ってから2カ月後のことだった。


[10:名無しさん@お腹いっぱい。 (2018/02/11(Sun) 09:14)]
逃げ惑う児童を校舎に追い詰め機銃掃射
 1945年(昭和20年)7月9日、第二次世界大戦におけるアメリカ軍最強の戦闘機P-51ムスタング(写真↓)約50機が、大阪へ侵入しました。主として豊中飛行場を攻撃し、そのほか周辺町村ならびに三島郡(味生村、玉島村、三箇牧村)、北河内郡、中河内郡の一部を攻撃しました。これが、茨木を襲った2回目の空襲ですが、白昼、逃げ惑う児童を追いかけ回し、逃げ込んだ先が校舎と分かっていながら、猛烈な機銃掃射を浴びせて殺す残虐さは言葉に出来ません。


 この日は、夏の太陽がギラギラ照りつけるとても暑い日でした。小学6年生児童は、早朝から新聞を各家庭に配達するのが、銃後の守りとしての役割でした。そのあと、水筒と防空頭巾を肩に掛け、腰に弁当をくくりつけて学校に登校します。学校では、勉強らしい勉強はほとんどなく、荒れ地や堤防を開墾しサツマイモや大豆を植えたりして、食糧増産に一役かうことが小学生の大きな仕事でした。

 この日も、朝から6年生約60名は開墾に出かけていきました。午前中の作業を終え、野々宮のお宮さんで、ほんのひとときの楽しみであった昼食をとっていました。


〔児童達が昼食をとっていた野々宮神社-現・乙神社)

 その時、敵機の襲来を告げる警戒警報のサイレンがお宮の森に鳴り響きました。みんな「学校なら米軍が来ても安全」と思ったのでしょうか?あわてて学校へ向かって走りました。空襲警報のサイレンと同時に飛行機の爆音も聞こえ、学校をめがけて飛んでくる5,6機の編隊がはっきりと分かりました。米軍機にとっては、児童の動きは手に取るように見渡せるので、まるでウサギ狩りゲームでも楽しむかのように、どんどん後ろから追い立てるように迫ってくる。・・学校までわずか300m位の距離が、ずいぶん長く感じられました。校門をくぐり運動場を走っているとき、頭上に戦闘機が飛び交い機体の星のマークがやけに大きく見えるくらい低空飛行していました。

(当時の玉島国民学校=小学校↑)

 やっとの思いで教室に入り、机の下にもぐり親指で耳を残りの指で目をしっかり押さえました(爆風で鼓膜が破れたり、目玉が飛び出さないように身を守るための処置)。また、極度の危機感の中で「もう助からない」と観念したのか、お経を唱える児童もいました(6月の空襲が激しかったときに、学校に行けず村のお寺で勉強したときに、お坊さんがお経を教えたくれた)。

 しかし米軍機は、児童が校舎に逃げ込んだのを見届けたかのように、今度は機首をさらに下げて、校舎の屋根すれすれに急降下しながら機銃掃射を浴びせてきました。激しい爆音と、キャーッという悲鳴が教室中に響き、バリバリバリと耳をつんざくような銃撃の音が続きました。



 一瞬、教室が静まりかえったかと思うと、そのうちあちこちから「痛い!」「助けて!」という悲鳴や鳴き声が聞こえ騒然となりました。米軍機が放った機銃の弾丸が、木造校舎の屋根を撃ち抜き、その下に身を隠していた児童に命中したのです。この朝、いつもの顔ぶれで元気よく登校した同級生の中から、2人の犠牲者と5名の重軽傷者が出ました。

◇仲ヤエさん(犠牲者の母)の話

 7月9日昼過ぎ、壕のなかで心配していた。敵機が学校を襲ってきたからである。先生の連絡を受けて驚いた私は、裸足で家を飛び出した。学校に入ると定子はオルガンの傍に寝かせてあり、おしりに座布団が掛けてあった。(定子は)重傷であった。私は戸板に乗せて、家に連れて帰ることにした。しかし家にたどり着く前に、定子は息を引き取った。

 息を引き取る前に定子は、口を開いて何か話しかけるようにもぐもぐさせていたので、私は水筒の水を注いでやった。するとそれを一口ゴクンと飲んだ後息絶えてしまった。哀れなかわいそうな、何とも言えない淋しい死であった。私は誰はばかることなく道の真ん中に座り込み、定子にしがみついて大声を張り上げて泣き叫んだ。

(参照:聞き取り集「茨木の空襲」/玉島小創立50周年記念誌/「茨木に埋もれた日本史」東


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