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日本の童謡と日本童謡学会の創設

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/01(Mon) 20:57)]

2018年は童謡が生まれて100周年。

日本童謡学会が設立されました。


[11:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/06(Sat) 21:46)]
日本童謡協会や、中田喜直らの言うところの「童謡」とは戦後、NHKラジオで放送された「新しいこどもの歌」というもので、
いわゆる『童謡』とは似て非なるものでした。


[12:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/06(Sat) 21:54)]
昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。

しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。



[13:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/06(Sat) 22:00)]
「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは。
、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。

当時は童謡黄金時代であったがこれはレコードであなくラジオである。
磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直ら若手二世五人の作曲家グループは、
昭和三十年「ろばの会」を作って、(レコードでなく)新しいラジオ番組「歌のおばさん」で
「あたらしいこどものうた」をつくろうとした。

そしてこれまでの(レコード)「童謡」の「排斥運動」を展開したのだ。
自らと競合する『童謡』を排斥したのだ。(「童謡排斥運動」という。)


[14:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/06(Sat) 22:09)]
「ぞうさん」「サッちゃん」「おなかのへるうた」。。こうしたたあいないへんな歌は童謡黄金時代、「童謡」に対抗して、昭和30年に作られた「ロバの会」による「新しいこどものうた」というものです。対象就学期前の幼児でした。

そしてなんと、「童謡排斥運動」を起こしたのです。「ロバの会」自体が童謡排斥のためで、5人の若手二世音楽家によって作られたものでした。

「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた”を作って行こう」ということで、“童謡”を“こどものうた”と言いあらためたと言うのだが、結局こどものうたにすぎなかった。そして排斥に依って自分たちの世はこなかった。

名もなきたった4人の若手二世で、大正時代からの『童謡』を変えるなどとても無理な事だった。 宇賀神光利、中田喜直らが相次いで亡くなり、2000年には解散となった。


童謡を歌っている児童合唱団なども見向きもしていない。


[15:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/06(Sat) 22:16)]
童謡をさんざん排斥した中田喜直は、その後、その「童謡」をそのままかすめ取って
『童謡協会』を作り、会長に収まった。

動機不純そのもので、さすがに最初から会長では露骨すぎとかんがえたのだろうか、初代はサトウハチロー、仲田は二代目として入った。
これいったいどういうこと。

日本童謡史における最大の汚点として、中田喜直ら、ロバの会の悪行は記録されるでしょう。

従って『童謡協会』に童謡を語る資格は無い。

また『童謡協会』は、『童謡』には関心がなさそうだ。

童謡を語れる人材も入っていないし、童謡を実際歌っている児童合唱団も見向きもしない。


[16:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/09(Tue) 00:17)]
生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌でもあった。 晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平、信州中野出身の晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として賞を獲得したり栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
その28日後、今から67年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。 晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。




[17:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/09(Tue) 19:54)]
シャボンだま

作詞 野口雨情
作曲 中山晋平



シャボンだま とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた
シャボンだま きえた
とばずに きえた
うまれて すぐに
こわれて きえた
かぜ かぜ ふくな
シャボンだま とばそ


シャボンだま とんだ
やねより たかく
ふわり ふわり
つづいて とんだ
シャボンだま いいな
おそらに あがる
さがって いって
かえってこない
ふわり ふわり
シャボンだま とんだ  


シャボンだま とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた
シャボンだま きえた
とばずに きえた
うまれて すぐに
こわれて きえた
かぜ かぜ ふくな
シャボンだま とばそ





[18:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/13(Sat) 09:44)]
※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。
CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536



[19:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/17(Wed) 11:15)]
日本の童謡と日本童謡学会の創設

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561982228&ls=50


[20:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/07/17(Wed) 11:34)]
十五夜お月さん

作詞:野口雨情
作曲:本居長世

1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
  婆(ばあ)やは お暇(いとま)とりました

2 十五夜お月さん 妹は
  田舎へ 貰(も)られてゆきました

3 十五夜お月さん 母(かか)さんに
  も一度 わたしは逢いたいな

大正9年(1920)9月号仏教系児童文学誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に発表されました。

一家離散の憂き目にあった女の子の月に寄せる悲しみ。 


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