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日本の歌こころの歌

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/20(Mon) 18:25
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。



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