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ラジオ放送について

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/26(Sun) 23:06
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した?古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。

留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと・・と思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

彼には思いこみがいっぱいあったようなのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるもの・・でなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえることになるのだ。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。

そのことを教えてくれる。

作曲数5000曲というのはl古賀のことで、それは置いとくとしても、彼の多くの人に知られた曲は数えるほどしかないのが実態!。


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