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ラジオ放送について

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:24
ラジオ放送について、番組や放送について、
取り上げてほしいことや、やめてほしいこと、その他なんでも
どうぞ!!。

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/27(Mon) 21:02
>>24
「詩はお姉さん、曲は弟」と,詩を大切にし、自らも詩を作る古賀政男と違って、古関裕而は詩にあまり関心がないようで、
詩に曲をつけるのはあまり得意ではないようだ。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/01(Fri) 21:13
『六甲颪』(ろっこうおろし)(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。


戦前から歌われたかのように思ってしまうが間違い。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。
 そもそも、
1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』改題は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』 朝日放送アナウンサー



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/01(Fri) 22:14
今度の朝ドラ「エール」というのは、震災後の福島県へのエールという意味だそうで、
だいぶ働きかけをしたようだが軽い。

31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 14:57
この話は、クラッシックと「クラッシック紛い」・・クラッシックの香り?・の違いに気ずかず、
交響楽の権威の作曲家に見透かされ、クラッシックの作曲家になる野望が
挫かれてしまったということで、あまりたいした話ではないのだが、その話を話題にしたら、とてもいい話なのだが、おしまいになってしまう話!。


32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/02(Sat) 16:43
信州、中野出身の中山晋平は、東京中野に居を構えていた。(現在、熱海梅園にある中山晋平記念館はこれをそのまま移築したもの。
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海、西山町の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海〕、その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の「節」(「晋平節」)にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。

大正から昭和の初めにかけて活躍した晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

当時、まだラジオもレコード歌謡もなく、誰でも歌える歌がなかったのだ。

大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれ自らそう評していた。

この時、別荘を建てた時、作曲に使うピアノも一緒に送ってしまったのだ。

「古賀メロディ」が怒涛の如く大衆の中に受け入れられていく中で、昭和8年の「東京音頭」、9年の童謡「皇太子様お生まれなった」(北原白秋作詞)を最後に、晋平は戦後までほぼ虚ろな毎日を送る。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。


昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、その28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。


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