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日本の歴史における「男色」について

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・

100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 14:19
【会津藩家世実紀】
会津藩初代藩主保科正之から7代藩主容衆(かたひろ)に至る歴代の正史。藩の編集方役場が4年を費やし1815年(文化12)に完成。277巻。広く旧記類を集め参考としているので,藩の行政,財政,民政等はもちろんのこと,村々のできごと,人々の生活に至るまで記述されており,藩政全般を知りうる唯一の史料である。全15巻として刊行中。(歴史春秋社発行)



101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 15:49
>>96
什の掟、破ったもんにはいくつか罰があり、火あぶりならぬ手あぶりというのもあったという。
掌を火にかざさせたり、雪中に閉じ込めるなどというもの。

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 13:48
「戊辰戦争」では、会津藩だけでなく二本松藩を始め東北諸藩が参加。

この「戊辰戦争」には、多くの少年兵が参加していることが分かる。
主に戦った相手は、「男色」の盛んな薩摩であった。

それぞれ数え年で

・会津藩では・・
白虎隊(15(のちに16歳)から17歳の武家の男子によって構成された部隊。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた。)
年小隊(13〜15歳の少年有志で編成)100名
護衛隊(14〜15歳の少年有志で編成。)50名

・二本松藩では・・
二本松少年隊(12歳から17歳の幼い少年62名で結成された少年隊)

薩摩の軍勢が,ちょうど「男色」における「二才(にせ)」の齢であるのに対し、
ほんの12,3〜4の「稚児」にあたる少年兵たちが活躍した会津や二本松藩・・

戊辰戦争の時代はまだ会津でも薩摩でも男色は盛んにおこなわれていたこと、
男色では、他の男に体を許すことは少年武士として死ぬほどの恥辱屈辱であったろう。

生け捕りにされたりした少年兵もいただろうが哀れ





103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:22
西南戦争にも、少年兵も数多く参加していた。
その少年兵が田原坂で戦う様子を歌ったもので、ここに「美少年」というフレーズが登場する。
馬上ゆたかな美少年

つまり、どうもここから熊本(特に植木界隈)では「美少年」という言い回しがよく使われるようになったようだ。(おそらく)
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年


104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:24
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。



105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:28
明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。

「私学校」は軍事訓練学校で主に「二才」たちだったようだが、それより低い「稚児」さんも
いたのだろう。

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:31
「私学校」とは[若者宿](若衆宿)で「郷中」だから、「二才」だけではなりたたず「稚児」も必要だったろう。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:32
参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002



108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:34
西郷は幕末の風雲期に、京都で革命外交を旋回させていたころ、その幕僚のほとんどは自分が郷中頭だったころの下加冶屋町の旧二才たちだった。西郷にすればかれらなら気心が知れているし、安んじて追い使うこともできたのであろう。
維新が成立すると、それらの旧二才衆が新政府の官僚になり、明治六年に西郷が征韓論にやぶれて鹿児島に帰山したときも、ともに辞職はしなかった。むしろ他の方限の出身者が西郷を慕って下野した。

やがて西郷とかれらが、鹿児島士族の二才衆を組織して在校一万余人という私学校をおこすが、私学校組織は巨細(こさい)に見ると、もとの郷中組織であるにすぎない。
かれら薩摩の若衆組が反政府反乱に立ちあがったとき、桐野利秋(きりのとしあき〜人切り半兵衛)でさえ、はじめその気分をおさえようとした。しかしおさえきれなかった。西郷がこの武装決起に反対だったことは明瞭な証拠がいくつもあるが、しかし西郷は事実上起ちあがってしまったときに、おさえることをあきらめ、「自分の体をあげよう」といって、かつがれてしまった。
ttp://hachi-style.jugem.jp/?eid=431


109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:49
顕彰館というのは南洲公が下野後につくった私学校の記念館のことなのだが、私学校は現代の学校とは違う。郷中(ごうちゅう)の本部のことである。郷中は、西日本に古くからみられる地域社会の青年団のようなもので若衆宿ともよばれていた。

 明治10年、西郷隆盛はこの私学校を率いて西南戦争を闘ったのである。

 ところで西南戦争はなんだったのだろうか。西郷隆盛の想いはどのようなものだったのだろうか。

 西南戦争は、一言でいえば、西郷隆盛と大久保利通の国家建設ビジョンをめぐる闘いだったと思う。

 たしかに西南戦争の直接の原因は「征韓論」だったかもしれないが、本質的には「廃藩置県」とその後の中央集権体制のあり方が争点だったのではなかろうか。

 大久保利通は廃藩置県を西欧文明国家へのキャッチ・アップ体制構築のためには必要不可欠な手段と考えたはずである。確かに、日本を列強並の先進資本主義国家に変身させるためには封建制を解体する必要があった。廃藩置県による中央集権国家の建設である。

 しかし廃藩置県と中央集権体制構築という行財政の構造大転換は、結果的に士族社会及び地域社会の独自の伝統文化・風土を犠牲にすることによって断行されたといってよい。

 西郷隆盛は封建制、幕藩体制を維持したまま、徳川家400万石・幕府のみの行財政革命で日本を再建しようと考えていたのではなかろうか。腐敗堕落した徳川官僚士族を静岡藩の一地方官士族に再配置し、全国の各藩より選抜された地方官僚を新しい幕府に投入して、武士道精神に満ちた新幕藩体制建設を夢見ていたように思えてならない。



110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 08:36
西南の役 

 明治9年に政府は廃藩置県以来の諸般の改革を行っていたが政治的危機に直面していた。明治初年以来年々はげしく起こっていた農民一揆が明治9年の地租の改革に関連し、茨城県全県、三重、愛知、岐阜、奈良(堺)の4県にわたる大一揆となり、各府県で施行中であった地租改正作業に対する農民の不満は大きかった。反政府派士族は自由民権運動に結集するものと、佐賀(江藤晋平1874.2)、熊本(神風連1876.10)、秋月(1876.10)、萩(前原一誠1876.10)とつぎつぎに反政府暴動を起こした。

 西郷隆盛は明治6年(1873.10.24)征韓論に破れ辞表を提出し、11月10日に鹿児島へ帰った。明治7年6月には鹿児島私学校を設立し子弟の養成に努めた。
西郷隆盛は反政府暴動の挙兵のすすめに応ぜず、薩摩、大隈の自派勢力を保持することに専念していた。



111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:31
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.r.ribbon.to/books/yamato.htm


112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:47
薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。
この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。


郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。


113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:53
同時に「郷中制度」(若衆宿)は、いまでもいくつかある[学舎」に引き継がれたようだ。

森鴎外の小説「イタセクスアリス]に出てくる、元旦に「賤のおだまき」という「少年」の事を書いた写本をまわし読みする事が日課となっているという「鹿児島の塾」である。

114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:34
薩軍の中には15歳(数え)位の少年兵も多くいたらしい。この美少年像のモデルは5人いると言われている。薩軍二番大隊長村田新八の長男の村田岩熊、人吉隊の三宅伝八郎、熊本共同隊の高田露、熊本隊の高橋長次。そして、束野孝之丞。植木駅近くの萩迫柿木台場に薩軍美少年の墓があり、「束野孝之丞戦歿碑」がある。「君八日州庄内ノ人 西南役僅年十五才ニシテ薩軍ニ投ジ奮戦此地ニ没ス 時ニ明治十年二月二八日義軍遂ニ敗レシモ君カ英霊ハ永ク此地ニ眠ラン」と刻まれているそうだ。彼もまた美少年のモデルの一人と言われている。




115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:42
薩摩藩の武士の多くは、農業を営んでいたのあり、完全にに兵農分離をとらず、藩内の郷村を単位に、各地に武士集落である麓をつくったのが特徴である。麓集落は、郷村の中心地として、外城制度のなかでの仮屋を置いた。この麓集落では、武士の若者組である郷中教育が行われたのである。農民的な年齢階梯制である若者組と武士の若者教育が結合されたのである。薩摩藩ばかりではなく、兵農分離が十分に進んでいなかった藩には、薩摩藩と同様な郷中教育が行われていたのである。
 若者制度の研究のなかで、武士の若者組として、薩摩藩のことが典型として記されているが、それは、薩摩藩だけではなく、その他の藩でみられたのである。
 「鹿児島の武士階級の若者制度は所謂郷中の制で、城下が幾つかの方限に分かれ、この方限なる地域毎に団結せる自治修養警備の組織であったのである。従って昔は之を郷中又は方限と云う明治初年に於ては三十有余の郷中があった。
 この郷中の後進は「学舎」と称して現在十七学舎存在し、昔ながらの厳しい訓育が行われている。(学舎は謂はば青年団の倶楽部又は会館であるが、昔は特にかようなものはなく、組内の誰彼の家に月番に集まったものであると云う)。この郷中の制は鹿児島城下のみならず、百二外城もそれぞれ一つの方限を以て郷中の制があり、士族の自治的な青年教育が行われていた」。


116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:46
 1924(大正十三年)大日本連合青年団創立の準備委員長として奔走した田沢義鋪は、青年団の使命のなかでも、同じように若者組と郷中教育の関係を次のようにのべている。
 「鹿児島の武士階級の青年団は、頼山陽が詩に詠じた、いわゆる健児の社であるが、鹿児島では、方限(ほうぎり)または郷中(ごうちゅう)といっていた。庶民階級の青年団が、部屋または宿を持ってように、「舎」と称するクラブまたは会館をもっていた。今はこれを学舎といっている。この武士階級の青年団は、武士階級の青年団が、社交娯楽の方面を主としていたのに対して、その方面を軽視するのではないが、修養方面において非常な好成績をあげている。
 もっと正確にいえば修養と社交娯楽が、渾然(こんぜん)として融合調和し、青年達が、その行事によって、大いなる喜びを与えられる点からいえば、立派な娯楽であるが、そん心身に対する効果をいえば、極めて高級の修養であった。即ち修養即娯楽の青年団の真諦は、すでにこの方限の中に最もよく現われているといってよろしい。


117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:51
出水の郷中教育
 出水地方は、薩摩藩の北部国境の守りとして、重要な外城であった。麓集落では郷中教育が活発に展開された。そこでの修養で強調されたのは、節操を守り、正道を行うことであった。その正道とは、偽りを言わず、自己中心的な考えにならず、うえにへつらわず、目下の人を馬鹿にしないで、困っている人がいたら、助け、約束をまもり、骨身をおしまず期待がもてるような仕事をすること、人を困らせるような話をせず、恥を知りて首をはねられようと、強い心をもって信念をとおす人になれとのべている。また、温和慈愛、物の哀れみを知る情ある人になることを強調している。これらの精神を身につけてもらうために、次のように兵児修養の掟として朝夕、常に朗読をしているのである。
出水兵児修養之掟
 「士は節義を嗜み申すべく候。節義の嗜みと申すものは口に偽りを言はず、身に私を構へず、心直にして作法が乱れず、礼儀正しくして上にへつらわず、下をあなどらず、人の患難を見捨てず、己が約諾を違ヘず、甲斐かいしく頼母しく、かりそめにも下様の賤しき物語り悪口など話の端にも出さず、譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。」(24)
 麓以外の集落の農民は、庚申講として60日周期で、15歳から30歳までのすべての青年を講の構成員となっている。会合では、ニセ頭が「この60日間の生活を振り返って何か意見はないか」ということからはじまると出水郷土誌に書かれている。60日間に若者組の掟に違反したものや非行を働いたもんはないかと、それぞれに反省を促しているのである。
 出水郷土誌では「この講は日常の礼儀作法は勿論、公役や農事などの村の生活全般にわたって、こまごまと決議し実行したので、風紀秩序の反省自治会。あるいは村の若者会議といってよいものであった。もし決議事項を守らず、また村の掟に違反する者に対しては厳しい制裁が行われた。制裁には村八分、打首、ヤカン(仲間外し)の極刑をはじめ、打ち回し、座転がしころがし、おどし、寒中水浴、打ち上げ落とし、三間振り回し(高い所から振り落とすと三間先まで飛んだ)。道普請、橋かけ、縄ない、草履つくり等々、その違約の程度に応じて厳しく行われた。そして庚申講は、これらの村吟味がすべて終わったところで、会食となったものだ」。
 農民の若者組では農業の共同性や村の秩序のニセ組の取り締まりという性格から村の掟の実行が厳しく行われていたのである。


118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 11:00
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 11:29
「美少年暮」 で知られる 束野孝之丞の墓・・

15,16才の少年兵が戦い死んだことを示す墓碑は民謡田原坂に唄われた美少年の一人の墓として知られる。

碑の側面に「君ハ日州庄内ノ人 西南の役僅十五才ニシテ薩軍ニ投シ奮戦、此ノ地ニ没ス 時ニ明治十年二月廿八日 
義軍遂ニ破レシモ 君カ英魂ハ永ク此地ニ眠ラン」
      昭和七年盡日   再建
とある。

15歳とは数えだから、今でいえば13歳何カ月である。

120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 00:00
・戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった

・西南戦争 西南の役(えき)
1877年(明治10年)
西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱。征韓論により下野した西郷は帰郷して私学校を興したが、その生徒が西郷を擁して挙兵。ともに下野していた桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介らが率い薩摩軍は北上、東京を目指した。その途上で熊本鎮台(熊本城)を包囲したが、稚拙な作戦により陥落させることができず徴兵による政府陸軍に鎮圧され、最後は西郷ら薩摩軍幹部らは鹿児島に敗走、城山に陣地を築き立てこもったが政府軍の集中砲火にあい、多く自刃した。明治初年の士族反乱の最大で最後のものとなった。以後の反政府運動の中心は自由民権運動に移る。


121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/27(Mon) 22:02
会津戦争:哀れ、埋もれた存在の少年達発掘

白虎隊の他にも、もっと沢山の少年達が埋もれています。隊の名が不明ながら、
明らかに年少者が集まった隊が、皆の記憶に、存在。原因は苦戦による混乱情報錯綜の他、
悲しいことに、身分差別なども絡んでいます。後の世、弔いを心掛けた者さえも挫折。
その訳は、姓を持たぬ者の情報整理が不可能だった。

雑用係(俗事係)として、幽閉同然の扱いを受けた少年二人
雑役係として、拘束された2人
■抜井将八、
■土井類吉
この2人の戦時詳細不詳(?15歳以下)


新政府は、明治2年1月皆の東京謹慎護送の際に、幼年少年を2人連れて行った。
この2人が解放されるは、明治3年春。
幼いので人畜無害だから使役した!薩長の腹黒さ!と文章は完全に怒っている。

将来国家有望の少年をして空しく一年有半幽窓の下に繋ぎたる
薩長の暴政是を以て知るに足る 。



122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/28(Tue) 12:18
>>121
新政府は、明治2年1月皆の東京謹慎護送の際に、幼年少年を2人連れて行った。
この2人が解放されるは、明治3年春。
幼いので人畜無害だから使役した!薩長の腹黒さ!と文章は完全に怒っている。


>>102
>生け捕りにされたりした少年兵もいただろうが哀れ・・・

123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/28(Tue) 12:23
>>122
たぶん戦利品として薩摩につれていかれたのだろう。
まだ、[男色]盛んな頃
盛んな土地へ

この会津の少年は15歳未満
つまり「稚児」の年齢・・
可愛がってもらったのだろうか

124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/29(Wed) 08:25
明治維新における日本の内戦であり明治維新を決定ず桁「戊辰戦争](明治元年)、
明治における日本の最後の内戦、「西南戦争](明治10年)。

いずれも10代の少年兵がたくさん参戦した。

これは戦う兵が不足していたからだけではなく別の深い意味が有る。

当時はまだ「男色」(少年愛)が「武士道」の中心にあった時代。
しかも男色の盛んな藩である。



125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/11(Tue) 23:51
「西南戦争」(明治10年)は、明治以降日本で最初で最後の内戦、これ以降日本は自由民権運動に移っていくきっかけとなった。

西南戦争は「征韓論」に敗れ下野した西郷が鹿児島に作った「若者宿」つまり「郷中」である「私学校]生徒の蜂起に端を発したもの。

西南戦争に「少年兵」が多く参戦したというのも、こうした背景による。

男色組織でもある「郷中」はその後、「舎」と呼ぶ塾で行われる。

鴎外の「イタセクスアリス」に出てくる、鹿児島の塾なんぞでは元旦には「少年の事を書いた写本」(「賤のおだまき」)を回し読むことが慣行になっているとあるが、
その「塾」である。



126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:00
森鴎外の小説[イタセクスアリス」は、1909年(明治42年)に発表された。




127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/15(Sat) 17:14
ヰタ・セクスアリス
森鴎外



ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html

128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/16(Sun) 23:46
森鴎外 ヰタ・セクスアリス

十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃(や)めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益(やく)に立った。
 僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。

中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴(ばちびんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬(しっと)がある。鞘当(さやあて)がある。末段には二人が相踵(あいつ)いで戦死することになっていたかと思う。
 軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。 僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生(はにゅう)庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
 学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆずる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ている 教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
 僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐(ふところ)に隠していた。
 
 盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起(た)った。鰐口も一しょに出てしまった。
 僕は最中にも食い厭(あ)きて、本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀のをしっかり握った。
 寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明(あかり)がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
 逸見の声である。僕は息を屏(つ)めていた。暫(しばら)くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
 短刀は幸に用足たずに済んだ。


129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/14(Tue) 14:49
日本の歴史における「男色」について
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347427116&ls=50

130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/18(Fri) 07:55
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。



131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/18(Fri) 07:58
【郷中教育】

「胴上げで高く放り上げ、そのまま落とし絶息させる。
倒して数枚の畳を重ね、その上に多人数で乗り苦しめる。
木に釣るし手足を縛り、メッタ打ちにする・・」
(出典:薩摩見聞記)

薩摩の郷中ではこのような、教育という名の壮絶なイジメが日常でした。
理由は上級者や年長者への批判を封じ、絶対服従を強制すること
なんでしょうが・・・「議を言うな」の一言ですべてが正当化されていたみたいですね。

132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/18(Fri) 08:01
戊辰戦争で捕虜になった幕府軍の少年兵は、薩摩兵に
やられまくったとか。



133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/18(Fri) 08:04
「西南戦争」(明治10年)は、明治以降日本で最初で最後の内戦、これ以降日本は自由民権運動に移っていくきっかけとなった。

西南戦争は「征韓論」に敗れ下野した西郷が鹿児島に作った「若者宿」つまり「郷中」である「私学校]生徒の蜂起に端を発したもの。

西南戦争に「少年兵」が多く参戦したというのも、こうした背景による。

男色組織でもある「郷中」はその後、「舎」と呼ぶ「塾」で行われる。

鴎外の「イタセクスアリス」に出てくる、鹿児島の塾なんぞでは元旦には「少年の事を書いた写本」(「賤のおだまき」)を回し読むことが慣行になっているとあるが、
その「塾」である。

森鴎外の小説[イタセクスアリス」は、1909年(明治42年)に発表された。




134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/18(Fri) 09:35
鹿児島の小中学校で必ず先生がドヤ顔で披露する豆知識

・イギリスのボーイスカウト制度は、薩摩の郷中制度を真似して出来た
・醤油の英語ソイソースは、薩摩弁のソイ(しょうゆ)が起源

ちなみにすべてウソです



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この投稿は削除されました

136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/03(Mon) 14:35
1877年(明治10年)の西南戦争にも、少年兵も数多く参加していた。
その少年兵が田原坂で戦う様子を歌ったもので、ここに「美少年」というフレーズが登場する。「馬上ゆたかな美少年」という歌詞がある。
熊本では、島原の乱の天草四郎(1621−1638)も紅顔の美少年であった。
歴史・文化的な意味合いが込められているようだ。
西南戦争の後を残す田原坂公園には、資料館もある。そこの田原坂側の奥の入り口には、その馬にまたがる美少年のモニュメント像がある。
また、西南戦争の激戦地田原坂のある植木町には、美少年酒造が、美少年という日本酒を製造し、昭和時代には、よく熊本では呑まれていて、名が通っている。




郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

(西郷隆盛は、「安政の大獄」で追われる身になった、恋仲の清水寺の月照を鹿児島に匿い、最後は鹿児島湾に2人で身を投げ心中した。西郷だけが助けられたようです。薩摩藩の立場上迷惑状態にも終止符が打たれた結末でした。)

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといわれている。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたと記している。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる鶏姦が広まっていたという。


137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/03(Mon) 14:38
1872年(明治5年)〜1880年(明治13年)まで、鶏姦条例が施行された。
この8年間(処罰記録40件)は、日本で初めて同性愛行為の刑事罰の対象とされた唯一の時期である。しかし、陰での行為は当然自然に行われ続けていた。西洋フランスでは、鶏姦でも双方の同意があれば罰しないことに習い廃止となる。
西洋文化の受け入れ化と西南戦争などの内乱を防ぐ、結束を弛める政策のようでもあったようだ。
江戸までの同性愛に対し自然で寛容も明治から西洋化傾向となり、西洋は逆に同性愛に寛容化だ進んだようだ。欧米などでは法的同性婚も進んでいる現代がある。





日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた男色。
男色=同性愛と言うのが有ります。弘法大師を起源にする説もあります。
これを無視して武家社会=日本史・国文学などを正しく語ることはできません。

養子縁組は、同性同士の結婚も意味し、宮本武蔵は2度の養子縁組をしている。ヤクザの世界の兄弟の盃も同様なことのようである。
熊本では、酒席で目上の盃を、身分下がおこぼれ頂戴しますという成り立ちで、空けた盃を受け取り酒(ビールなども)をついで頂き、飲み干して盃をお返しし、酒をつぎ返すという習わしがあります。しかし、普通は肉体関係を結ぶ訳でもないはずです。しかし、親密行為にサインを送ってるとも云えると思います。本当に嫌であれば盃を交わさないはずですから・・・。信頼関係が一度で深まる間接口付けです・・・・。




138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/03(Mon) 14:43
福島(21歳)は、三島由紀夫の「仮面の告白」の実在すると思った興味の湧いたゲイバーの場所を聞くため三島邸を訪ねその日から、三島(26歳)に気に入られ2人で外出した。そして書生名目の愛人として、三島邸の出入りや玄関横の4.5畳部屋に宿泊もしていた。三島は、ちょうどゲイバーの若い悠一にフラれた直後の失恋状態であった。

徳川時代で有名なのは 徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。

堀田正盛は 少年時代に3代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り 「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に 毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で 丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。

下って 5代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は 小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし 12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で 直ぐに「お座直し」となる。「お座直し」になった美童の小姓は 夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために 帯も下帯も解かれる。今と同じで 体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも 勿論逆らうことはできない。そして菊門に 将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を 菊門深く受け止めて契り合うのである。

福島は体格がよく、いい男でと評されている。しかし、受けという三島に対し、複数の関係で勃起しない現状であった。三島は正常機能の欲望の処理がメインの関係であった。三島が最初に福島に指摘した通り、福島の性には大きな岩が乗っていたのである。

福島は教員の免許取得後、再度、東洋大学の今度は国文学科に入っていて、卒業論文(井原西鶴)だけ残し、全て単位がとれ、性の悩みや食べるために落ち延びるように、東北の山間部の学校(阿武隈山地の頂上近くにある鮫川村の農業高校の昼間の定時制)の一時的な臨時教師となり、残りの卒業論文にも取り組んでいる。滞在する下宿先は、鉱泉湯の湧く大きな宿屋であった。
そこには、父からも次に駆け落ちする母からも見捨てられた中学生の少年が、ご主人の好意で面倒みられていたのである。そこで福島は、25歳(大学6年生)になり初めて夢精から解放された。自慰の方法をその中学生に初めて教えられたのである。福島のものは小さくインポテンツ気味のようであったが、中学生を胡座(あぐら)の中に受け入れ、机に向かい頬同士をふれあい勉強をみている福島に初めての性的興奮からの股間の勃起が、相手に対しての反応変化があったのである。
その後、深夜、少年の部屋に性行為関係を結びに忍び込んでいる。大変な晩生の性の芽生え、小児愛やわずかな性的対称があることに気づいていった。

三島は、そんな福島との関係は、三島事件の4年前までは、音信・精神的にも接点的な間をおいた肉体的にも良好な関係であった。三島に対して福島は、勃起しないまでも三島を全身キスなどの嵐で性的に口や身体などで満足させるなどし、本人も三島との密会には抵抗はないようであった。三島は初めから受けタイプであろうと福島は暴露している。


139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/03(Mon) 14:48
(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」(河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002

140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/05(Wed) 20:58
賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
 南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社


141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/05(Wed) 21:13
白洲 正子[両性具有の美] (新潮文庫)



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/07(Fri) 18:26
(参考)
上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)


143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/11(Fri) 21:54

賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂,    明20.8

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
礫川全次「男色の民俗学」歴史民俗学資料叢書・第二期 (批評社 2003年)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
樋口清之「史実 江戸」         芳賀書店 1967
『稲垣足穂全集 第四巻 少年愛の美学』 筑摩書房 2001年1月15日
稲垣足穂「少年愛の美学」 河出文庫 河出書房新社1991
南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
白洲 正子[両性具有の美] (新潮文庫)



144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/11(Fri) 22:05
森鴎外 ヰタ・セクスアリス

十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃(や)めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益(やく)に立った。
 僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。

中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴(ばちびんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬(しっと)がある。鞘当(さやあて)がある。末段には二人が相踵(あいつ)いで戦死することになっていたかと思う。
 軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。 僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生(はにゅう)庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
 学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆずる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ている 教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
 僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐(ふところ)に隠していた。
 
 盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起(た)った。鰐口も一しょに出てしまった。
 僕は最中にも食い厭(あ)きて、本を見ていると、梯子(はしご)を忍足(しのびあし)で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゅうど)を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀のをしっかり握った。
 寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明(あかり)がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
 逸見の声である。僕は息を屏(つ)めていた。暫(しばら)くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
 短刀は幸に用足たずに済んだ。



145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:31
>>139-143

上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)

146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/27(Fri) 16:27
年齢的にそういう菊の強制を社会システムとして受け入れた人らって、今何歳くらいの長老達だろうか?自分の見当では現在90歳半ばで、高学歴で社会的身分の結構高い人たちに見える。敗戦後、アメリカ合衆国のいいなりになって、おとなしく、正常愛の仮面をつけて暮らしてきたわけだ。なんか、からくりがさらけ出されると、笑っちゃうな。

147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/03(Fri) 21:15
笑った

148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 23:01
日本の歴史における「男色」について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347427116&ls=50

149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/30(Tue) 13:16
新薩藩叢書 第3巻
頼山陽 [賤のおだまき]
鹿児島県立図書館

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