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日本の歴史における「男色」について

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:41
【超高税の農民虐め】
薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)
そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。
明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/21(Fri) 00:49
森鴎外「イタセクスアリス」に出てくる、明治時代、寮で硬派の学生が毎年、正月には
第一に読むという男色読み物,[賤(しず)のおだまき」という島津、薩摩藩の稚児と二才(にせ)の男色物語です。「男色」とは美童愛のこと。



20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 22:10
「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。

まさに[郷中(ごじゅう)制度]の根幹部分です。

「郷中制度」は、ちょうどこのころの島津で作られたものです。

数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)大蔵との
男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1,2くらいでしょうか。



21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 22:54
鹿児島には、『郷中教育』という薩摩藩の伝統的な縦割り教育がありました(『ごじゅうきょういく』、または『ごうじゅうきょういく』とも呼ばれます)。郷中とは、町内の区画や集落単位の自治会組織のことで、今でいう町内会と考えればいいでしょう。当時、鹿児島の城下には数十戸を単位として、およそ30の郷中があったと言われます。


郷中は、青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。


稚児は年齢によってさらに、6・7歳〜10歳の小稚児(こちご)と11歳〜14・15歳の長稚児(おせちご)に分けられ、稚児のリーダーとして稚児頭(ちごがしら)がいました。また、二才(15・16歳〜24・25歳)のリーダーとして二才頭(にせがしら)がいて、二才と稚児の面倒をみていました。




22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/22(Sat) 23:01
稚児と呼ばれる武士の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ走っていって本読みを習い、家に帰って朝食後その復習をしたのち今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛えます。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、槍、弓、馬術など、武芸の稽古です。


長稚児たちは、夕方から二才たちが集まっている家に行って、郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を反省したりします。武士の子としてよくない行いがあれば注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けることもありました。このように、武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾(しつけ)・武芸を身につけ、勉学に勤(いそ)しみました。


年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなどを、人として生きていくために最も必要なこととして教えました。この郷中教育は、文禄・慶長の役(1592〜98年)のとき、残された子どもたちの風紀が乱れないように始められたと言われます。・・

という事だが、肝心の「稚児」と「二才」との「男色](少年愛)の結びつきの事や、蛮行教育については触れられていないのだ・・

【郷中教育】 >>17
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。




23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/23(Sun) 09:22
ボーイスカウトの「郷中起源説」について。

少子化が進み、子供たちの異年齢交流の減少や地域との結びつきの低下が叫ばれるなかで、異年齢集団活動(縦割り活動)による青少年育成の試みが全国各地で行われています。
次世代育成支援事業は、国の政策の重要課題の1つです。
異年齢集団活動という点では「スカウティング」はそれを実践しています。

ドラマ「篤姫」の中に登場する下級武士の集まりは、この「郷中」の集団だったと言えます。

郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法です。似たものに会津藩の「什」があります。
教育の内容は
?武士道の義を実践せよ
?心身を鍛錬せよ
?嘘を言うな
?負けるな
?弱いものいじめをするな
?質実剛健たれ
?たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
?金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる。
4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を
?小稚児(こちご、6-10歳)
?長稚児(おせちご、11-15歳)
?二才(にせ、15-25歳)
?長老(おせんし、妻帯した先輩)
の4つのグループに編成したもの。
それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだようです。
郷中の起源は島津義弘によるとされています。
また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。 薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名です。
明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。
現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっています。
なお、イギリスで郷中が研究され、ボーイスカウト制度のもとになったという俗説もあるが、そのような事実はない(会津藩の什や白虎隊がボーイスカウトの起源とする同様の俗説もあるが、これも誤りである)。

ボーイスカウト連盟が無関係であるとの声明を出している。



24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/26(Wed) 19:58
・徳川時代で有名なのは 徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。

・堀田正盛は 少年時代に3代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り 「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に 毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で 丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。

・下って 5代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は 小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし 12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で 直ぐに「お座直し」となる。「お座直し」になった美童の小姓は 夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために 帯も下帯も解かれる。今と同じで 体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも 勿論逆らうことはできない。そして菊門に 将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を 菊門深く受け止めて契り合うのである。



25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/26(Wed) 20:01
・薩摩には戦国時代から続く 武士道的男色が残っていた。
藩士となる若者達は 地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。
二才は稚児を指導する立場で 稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。
女性との接触は以ての外で 「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。
二才と稚児が男色の関係になったのは ごく当然の成り行きと云える。
幕末の英雄である西郷隆盛も ある僧と関係を持っていたと云う。「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが 確かに当時の薩摩は男らしかった。

・その薩摩に負けず‥男色が一般的だった と云われるのが土佐である。
武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。
もし男色を拒む少年がいると 年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえて その場で強引に侵した。それには 隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も 見て見ぬ振りをした。恐ろしい 話である。

・明治維新が起きて 薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校 特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。
それは盛ん且つ 公然化したものであったようで、市井には 実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が大人気となった。
内容は 薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。
当時から 異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛を好む生徒は硬派と云った。入学してきた美少年は 早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。

・もう一つ男色が流行したのは 軍隊であった。明治後期に ある政治家が書いた手記には、「男子同性愛が 兵士や士官の間に非常に蔓延している」ことが記され、多くの兵士達が腕を組み手を握り合って 通りを歩いて行く姿を見掛けたと云う。

・昭和に入ってからの 軍隊での男同士の「契り」では、例えば‥陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では 70年の伝統として男色行為が行われていた。
その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。
寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。
3年生は1年生を稚児とし 契を結ぶ権利を持つ。2年生は 2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で 精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。



26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/13(Sun) 23:35
薩摩の「郷中教育」というものの実態は実は男色の結びつきであったのだ、もちろん
戦国時代当時、それは当たり前なことであったのだ、

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:09
習俗としての男色は、はるか縄文の昔から、脈々と日本列島で生き続け、中世から近世初頭にかけては、数多くの男色物語も生まれました。
 「安寿と厨子王」のお話が、実は、厨子王のシンデレラ物語であることをご存じでしょうか。
 明治になって書かれた森鴎外の「山椒大夫」では省かれていますが、姉のおかげで山椒大夫一族の迫害の手から逃れた厨子王は、天王寺の童子となり、百人の稚児の中から都の貴族に選ばれて、養子となります。
 中世の稚児が男色の対象であり、養子とは、男同士の結婚の形であったことは、いうまでもありません。


28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:15
土佐というところは、郷士、つまり土着の武士と、上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士の対立が激しくて、郷士たちは勤王党を結成し、脱藩して倒幕を志したのです。土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。
 ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
 この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」でも取り上げられています。
 事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
 酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
 これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の「竜馬がゆく」では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、決めつけています。
 しかしこれは、司馬氏らしくもない認識不足といいますか、いかにも娯楽小説らしい表現、というべきでしょう。
 忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の「流離譚」(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
 安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
 親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
 喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
 宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
 つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。


29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 09:18
薩摩士族の男色というのも有名なのですが、薩摩、土佐という土地柄は、士族の勇猛で知られますので、これは戦士の集団における同性愛、ととることもできるでしょう。
 氏家幹人氏の「武士道とエロス」(講談社現代新書)によりますと、
「性愛を伴う義兄弟の関係は、戦国から江戸初期の武士社会において、ほとんど習俗といえるほど日常的に観察されたらしい。とりわけ西南日本では、この風潮が遅くまで残ったようである」
ということなのですが、またそれは、「けっして薩摩と土佐に特有なものではない」という氏家氏のお話です。
 その例としてあげられておりますのが、会津藩の正史「家政実紀」に記された、天明元年(1782)、江戸時代後期の事件です。
 会津藩士の青年5人が、藩の勘定頭の自宅を訪れ、仲間の一人がその家の息子とちぎりを結びたいと申し込みます。それに父親は、丁寧に応対して、「息子はまだ若いから」と断ったというだけの事件なのですが、現代の感覚からすれば、?????な話です。



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:05
江戸時代でも薩摩の稚児趣味というのは有名だったようで、男色趣味を薩摩趣味と言い替えた事もあったとか。
郷中教育というのは今でいう青少年団体です。
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。

薩摩では社会的な身分関係が
1)男、2)馬、3)女

という順番で、女性と触れ合うこと(話しかけるというライトな関係を含めて)を極端に忌避したといいますので、そういったこともあったかもしれません。
女性と目が合っただけで切腹した人もいたそうです。怖い。

それはとにかく、薩摩であると尚武の風が特に強く、それだけに戦場を想定した集団の連帯感や結束が求められたというのも男色がさかんであったひとつではないですかね。
出水だったかと思いますが、稚児の中でも特別に美しい少年を「稚児様」とか「○○様(名前の様付け)」と呼び、薄化粧をさせて周囲の人間が日の掛からないように傘をさし、他郷の人間に攫われないように集団で護衛して歩いたという話も残っています。
ここには男色という一言で終わらない何かがあるような気がします。
上記した集団の結束というのも当たるでしょうし…



31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:13
稚児に日傘を差したり、他郷からの襲撃を阻止するための寝ずの番などは「稚児請」(ちごもうし)の現象だと思います。
これは稚児を主君に見立てるものですから、この稚児を衆道の対象にするのは畏れ多い行為になりますね。

ただ、薩摩藩の「郷中教育」は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい『稚児』(美童)への憧憬が「衆道」とある程度重なってくるのは致し方ないですし、[二才(にせ)] と[稚児]では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。

32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:31
「郷中」や「什」の掟にかいてあることを現代風に解釈してはならない・・

江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。




33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:45
薩摩の人口25〜30パーセントが武士。維新の中心的な担い手。薩摩藩のみ江戸時代末期まで郷中学校という武士の息子たちのための学校教育が実施されていた。漢文と武道(と男色!)をそこで学ぶ。

郷中では、「うそを言うな」、「負けるな」、「弱い者をいじめるな」の3原則があったといわれています。
郷中制度のような優れた組織には、優良企業にすばらしい経営理念があるように、すぐれた教育理念があったのでしょうね。それが上記の3原則を包括した、島津日新公「いろは歌」であるといわれています。
「いろは歌」は、稚児の頃から全員合唱して暗誦させられ、薩摩武士の魂の奥底まで深くしみこんだものとなっていたようです。・・

このように、たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の男色制度といえるでしょう。
今で言えばJr.に於ける《セクハラ、児童虐待》と同じなのです。



三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))


34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:52
鹿児島県人でない人が薩摩を見た記録に「薩摩見聞記」がある。明治22(1889)年から3年間、宮之城に教員として赴任した旧長岡藩士・本富(ほんぶ)安四郎が書いたもの。
そのなかで、明治中期の薩摩人の風俗として「美少年の事」が書かれている。いわゆる男色、衆道のことである。
 「美少年の事は是れ封建時代の蛮風」としながら、美少年の稚児が振り袖を着せられて二才(にせ)たちに護衛され、彼のために二才たちが日中は日傘を差し、夜は寝ずの番をするさまが描かれている。これが明治中期の出来事だというから驚きである。薩摩武士の間で衆道がいかに根強かったかがうかがわれる。
 また同書には、二才たちの間で「賤(しず)のおだまき」が愛読されていることも書かれている。琵琶法師のつま弾きが平田三五郎の名を呼ぶくだりでは、聴く者みな一斉に「チェストー」と叫んだとある。
 それほど二才たちを興奮させる平田三五郎とは何者か。年配の方はご存じかもしれない。
 「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と、文武両道に秀でた吉田大蔵(おおくら)清家(清盛ともいう)の男同士の愛の契りの物語


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 14:58
薩摩には鎌倉、室町から続く武士道的男色が残っていた。藩士となる若者達は地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。稚児を指導するのが二才の立場であり、稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。女性についてはもってのほかで、「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けるべき」という教えが普及していた。二才と稚児が男色の関係になったのは、ごく当然の成り行きと言えるだろう。幕末の英雄である西郷隆盛も、とある僧と関係を持っていたらしい。「九州男児」といえば男らしい事の代名詞だが、確かに当時の薩摩は男らしかった。
この薩摩に負けず男色が一般的だった、といわれるのが土佐である。武士の少年であれば、男色の契りの意味を知らぬ者はいなかったという。もし男色を拒む少年がいたとすると、年上の者が徒党を組んで家に押しかけ、少年を捕まえて強引に犯した。隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も見て見ぬふりをした。恐ろしい話である。


明治維新が起きて薩摩の人間が東京へと流れ込むと、一部で男色ブームが吹き荒れる。それは学校。特に全寮制の男子校で盛んであったようだ。大人気となったのが『三五郎物語(しずのおだまき)』という本。薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルであった。異性の事で頭がいっぱいの生徒は軟派、少年愛を好む生徒は硬派。入学してきた美少年は、硬派に体を狙われる運命にあった。その影響は学校の外にも現れ、街で容姿の良い少年が姿を消すと、真っ先に疑われたのが「男色好きの書生による誘惑拉致」であったという。そういった事を体験したり見聞した事は森鴎外『ヰタ・セクスアリス』をはじめ、徳富蘆花『蘆花日記』、川端康成の記録に見られる。また里見クは「少年時代、志賀直哉に惚れていた」と後に述懐している。


なお、「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
実在の人物で財部町に「平田三五郎の墓」があって町の記念物になっているようだ。



36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 22:30
薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは男同士の契りを結ぶことでもあった。」

と語っています。

西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。

薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。

薩摩の甲突川の貧乏士族が作っていた郷中の長は西郷隆盛で、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎たち日露戦争を戦った男たちは、その郷中で西郷の薫陶を受け、人格的な影響を受けたといわれています。

大久保利通は明治の元勲で、西郷隆盛の弟の西郷従道は海軍大臣、大山巌は陸軍大臣を務め、東郷平八郎は日本海海戦でロシアのバルティック艦隊を破った日露戦争の英雄、東郷元帥です。

この人達は全員、男色の経験者だったのです!


37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:38
薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。

稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。

どくとるマンボウ青春記
北杜夫
新潮社 ¥540 完読
2007/02/21 17:09


詩人・斎藤茂吉の息子であり精神科医・作家である北杜夫氏の自伝小説。

一番おもしろかったのは旧制高等学校の回想。ストームといわれる野蛮きわまる大騒動、惰眠をむさぼる、罪もない下級生を集団で布団蒸しにする、「ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ!」という唄声が寮内にこだまする、なんともいえない哀愁(???)がある

「ああ、青春(せいしゅーん)!」
「セー」
「アイン、ツヴァイ、ドライ!」

…なんだこのバカ騒ぎ(^^)
あと、旧制高校の先生達もチャーミングv 試験の採点基準さえもまったくチャランポランだったとか。たとえば物理の試験、答案に詩とかラクガキを描くだけで点がもらえたりしたそうな。何とうらやましい…。

旧制高校では殆どの生徒が寮に入っており、もちろん寮では男色横行、(『ヰタ・セクスアリス』森鴎外や『少年』川端康成を思い出します。)
それから夜更けまでまったく意味のないような、観念的な議論に没頭したり…こうして少年たちは知性に目覚めていくのだ。
デカンショって、デカルト+カント+ショーペンハウエル のことだったんですね…
 ttp://www.hon-pro.com/cgi-bin/hon-pro.cgi?room=mental&num_q=36&mode2=list


薩摩武士の青少年教育は[郷中](学舎)で行われた。 徳育・知育・体育を大事にした。 その中の一つ、体育は主に武道(剣術)である。 秘武道”影之流”の師範家の川上四郎兵衛家は四方学舎に所属した。 四方学舎での剣術鍛錬は薬丸家の自顕流と川上家の影之流に分かれて厳しく鍛えられた。 薬丸家もまた四方学舎の舎生である。


-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を

小稚児(こちご、6-10歳)
長稚児(おせちご、11-14歳)
二才(にせ、15-25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩)

の4つのグループに編成したもの。

それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。

郷中の起源は島津義弘によるとされている。また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。

明治維新で武士階級は消滅したが、[舎]は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。


38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:43
日本社会において同性愛は学生たちの間で流行した。寄宿舎や校舎など閉鎖的な制度をがかつての衆道の要素が強い「男色」を継承していた。森鴎外は、自分自身の性的経歴を書き記した作品『ウィタ・セクスアリス』(1909年)のでこう述べている。
   
   学校には寄宿舎がある。授業が済んでから寄ってみた。ここで初めて男色
  ということを聞いた。僕なんぞ同級で、毎日馬に乗って通ってくる蔭小路と
  いう少年が、彼ら寄宿生たちの及ばぬ恋の対象物である。蔭小路はあまり課
  業はよくできない。薄赤いほっぺたがふっくりとふくらんでいて、かわいら
  しい少年であった。その少年という言葉が、男色の受け身という意味に用い
  られているのも、僕のためには、新知識であった。僕に帰りがけに寄ってけ
  と言った男も、僕を少年視していたのである[森1935年]。
 ttp://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhistory9.htm


39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:44
出水兵児の「兵児(へこ)」とは青少年のことで,数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び,それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」,30歳までを「中老」と,三つに区分していました。
 兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/umagami55163/28217859.html
 ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/okite/okite.html


実際にありましたよ。「菊華の契り」と称します。
特に薩摩藩で男色が盛んであったのは民俗学的分野からも朗かになっております。
中沢新一の著書にもあったのですが、武士集団を「兵児(へこ)」と呼び、幼少の者は「兵児山」少年期は「兵児二才」そして二十歳を過ぎると「中老」と言う風に組織だっていて、中老は少年達に、武芸や勉学、そして作法を伝授していました。その中で「菊華の契り」は行われ、契りを結べぬ者は一人前の「男」として扱われなかったそうです。

<(菊の契り)という言葉は、少年の***の形から出ており、「菊華の契り」とか「菊契」といえば、同性愛のことを意味した。その一方では、菊の華の穢れを知らぬ美しさと清冽な芳香と、寒さにもめげず咲くけなげさに、少年に純粋な心を見たからで、何事につけ光と影の両面がなくては面白くない。自然に発生した同性愛を、両性具有の思想に高めるか、ただ一過性の経験に終わるかは、それぞれに人間の器量による。
> ttp://www001.upp.so-net.ne.jp/rena/new_page_4.htm




40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:47
明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童 一五歳以下ノ者ハ坐(連座)セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である。


明治5年(1872年)に「鶏姦条例」が制定され、ホモ行為は違法になっていた。
明治の鶏姦罪規定の経緯は、次のような経緯だ。
明治5(1872年)年白川県(現熊本県)より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせがあった。
その答えとしての指令が、明治5年11月に「鶏姦条例」となり、明治6年(1873年)7月の新刑法中に追加挿入される。
実際に「鶏姦条例」により記録に残る処罰総数は約40件。
しかしながら、明治9年(1876年)フランス法律学者ボアソナアドが来日し「フランスでは、鶏姦であっても、双方の承諾があれば、罰したりはしない」とし、鶏姦罪は廃止に向かい、現在では述べるまでもなく、全くの個人の自由である。


「鶏姦」規定とは何か
『1873年(明治6)6月13日「改定律例」第266条「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス。其鶏姦セラルルノ幼童一五歳以下ノ者ハ坐セス。モシ強姦スル者ハ懲役十年。未ダ成ラサル者ハ一等を減ス。」(三橋順子『女装と日本人』pp.136-137.)』
『「鶏姦」の「鶏」は本来「男をもって女となす」という意味の「(田かんむりに女)」という字だったが、同音の「鶏」に置き換えられた(瀧川1943)。明治日本は清律の「ケイ姦」条を継受して肛門性交を法的に禁じる鶏姦罪を規定したのだが、そのきっかけは、当時南九州(熊本・鹿児島県など)の学校や私塾で盛んに行われ,問題化していた学生間の男色行為を抑えるためだった(古川1997)。(三橋順子『女装と日本人』p.137.)』
『参考資料:瀧川政次郎「男姦」「鶏姦事例」『法史零篇』五星書林、1943』
『瀧川政次郎:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/瀧川政次郎「1897年5月26日 - 1992年1月29日、日本の法学者。専門は法制史。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。」』
『参考資料:古川誠「近代日本の同性愛認識の変遷:男色文化から「変態性欲」への転落まで」『季刊女子教育もんだい(多様なセクシュアリティ)』70(1997), pp.31-36.』
『ttp://www.harikatsu.com/nikka2/calen.cgi?mode=view&YMD=20040421&w=3杏野丈(針間克己)サイト掲示板『独語徘徊記録』「鶏姦罪-施行八年半の軌跡」:「明治の鶏姦罪規定の経緯/・ 明治5年某県より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせる。/・ その答えとしての指令が、明治5年11月に鶏姦条例となり、明治6年7月の新刑法中に追加挿入されることとなる。」』
 ttp://queeringme.g.hatena.ne.jp/task/3/4




41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:49
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです


薩摩藩家臣

薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[3]。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女や女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。後代まで鹿児島で男尊女卑の伝統が守られ続いているのはその影響であると考えられている。




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:54
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。 つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。

明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。

今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。

昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。

全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。

寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。

そして、可愛い中学生の「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の旧制中学(5年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。

(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002


薩摩(今の鹿児島県と宮崎県)の「郷中制度」は、「男色」によって稚児と二才(にせ)ががったいしたものだが、
西郷隆盛の明治7年に私学校に引き継がれたが、明治10年の西南の役に
破れて後、明治10年以降は、戦前を含め「学舎」と呼ばれるところに移った。
現在でも鹿児島、宮崎県に「学舎」は10位あるようだ。現在は男色は無いのではないかと思うが。


戦前の鹿児島では、曽我どんの傘焼きの日が近づくと健児の舎を中心に稚児(ちご)たちは大人の力を借りることなく、長稚児(おせちご)や二才(にせ)たちの指導の下に傘焼きの準備に立ち働く。
この間に若者たちは、社会生活のしきたりや事に当たるときの礼儀作法、集団生活や共同作業のルールなどを身をもって体験する。
そして「議を言うな」という不言実行の郷中教育の伝統精神が涵養(かんよう)されていくのである。
『曽我どんの傘焼き』行事で、今日まで受け継がれるものがここにある。今、郷中教育が見直されつつある所以であろう。




43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:56
薩摩の男色(美童愛)の中心的なものは、郷中(ごちゅう)制度にあるが、明治に入って
西郷隆盛が明治7年に作った私学校に移った。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人
いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったという。
これが、西南の役(明治10年)の主な薩摩軍の戦士となった。

まだ少年の兵士がたくさんいて「田原坂の美少年」の像があるように
今の中学生くらいの少年がたくさんいたようだ。

なお、明治5年には、鶏姦律条例ができた、鶏姦とは少年相手の肛交のことだがかなり行われていたそうだ。
これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんたいして15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、可愛がって
いたのだろう。

男色の二大秘儀は肛交と「一節切」(ひとよぎり)である。「一節切」とは、一回り小さい稚児のものを吹くこと。つまり今流にいえばフェラ。
こういうことが、学校の寄宿舎などでもおこなわれていたようだ。
寄宿舎における男色については、森鴎外の「イタセクスアリス」にもでてくる。




44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 21:59
薩摩の男色の一番強固なところとして、出水(いずみ)地方があげられる。現在の出水市のあたりである。そして、強いものとして天下に知れ渡った「出水兵児」(いずみへこ)がある。
出水を中心とした薩摩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織で、兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。
  ttp://www.hpmix.com/home/eishin7dan/index.htm

 「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。

「出水兵児」の「兵児(へこ)」とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」、30歳までを「中老」と、3つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。

ttp://www.amazon.co.jp/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E6%98%A5%E7%94%BB%E3%81%A8%E7%94%B7%E8%89%B2-%E6%97%A9%E5%B7%9D-%E8%81%9E%E5%A4%9A/dp/4309902855/ref=pd_sim_b_img_2
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/10/post_bd73.html


賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8




45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:05
「小姓」といって映画で殿様の側で刀をささげ持つ前髪の少年、今では薹のたった男だったり、ひどいのは女がやっていたり、たいてい前髪でも無いが、昭和40年代位 までのテレビでは、12、3のそれはほれぼれするくらい美しく凛々しい中学1年か小学6年生位 の少年(「美童」という)の前髪姿だった。これも「男色」といって少年性愛の形で少なくとも肛門性交は欠かせない。このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は小姓組みを組織し沢山の美童を抱ていた。美童は最大の賄賂のようなものだったようだ。役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。 男の子のからだを捧げるまさしく花嫁みたいなもの。
3代家光、5代綱吉などは特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の小姓、数え13歳でお座直しとなる。この時、家光17歳。丁度、旧制中学1年生と5年生の年頃。5代将軍にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、一節切りもどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして契りあう。
 柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
 南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社

「五代将軍」など南條範男はこうした男色小説を沢山書いているので見られたい。明治時代森鴎外の小説「イタセクスアリス」に、鹿児島の熟などでは、平田三五郎という「少年」のことを書いた写 本をまわし読みする事が、元旦の習わしになっているという、男色という。平田三五郎という13歳の美童のことを書いた「賎(しず)のおだまき」という本で、 明治20年精文社版、大正5年文教社版がある。(「賎(しず)のだまき考」1998) 平田三五郎のことは、山田美妙の新体詩「少年姿」でも取り上げられている。
慶長時代、信長の時代の薩摩の島津家。襲われる藩一の美童の危難。

46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:08
この時代の「男色」を描いた「五代将軍」の南條範夫によると、五代将軍吉宗は、何十人も抱えていた12,3〜4の小姓たちのために専用の御殿・桐御殿というのを
造ってそこに集めて夜の勤め・「夜伽」の待機をさせた。

「桐御殿」にはいることを「お座直し」といった。「小姓」が「夜伽」の命をおし使って「寵童」となる、つまり殿様の「閨房」に侍し肉体を捧げること、寵童となることを
「お座直し」というようになった。



47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 22:11
西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。

薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。
話を学生に戻しますと、旧制高校の寮では下級生をチゴ、上級生をニセと呼んでいたことから、薩摩武士の影響が指摘されたみたいです。

実際、旧制高校の寮というのは、エリート向けの若衆宿ともいうべきもので、上級生たちはしばしばストームと称して下級生を襲って犯したりしたそうですが、
この旧制高校における男色又は同性愛については、森鴎外、谷崎潤一郎、徳富蘆花、里見ク、志賀直哉、川端康成など錚々たる作家が、小説や晩年になっからの回想録に書いていますが、
 ttp://mblog.excite.co.jp/user/jack4afric/entry/detail/?id=9082213




48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/21(Mon) 17:05
「三品彰英論文集」, 2003/6/22

いづれも興味深江い研究文集ですが、とりわけ第六巻の「新羅花郎の研究」が優れた内容で推奨に値します。  古代新羅で貴族の美少年を「花郎」と称して美々しく粧飾させ、彼に男性戦士団が奉仕していたことは、『三国史記』や『三国遺事』などの記述から夙に周知の通り。その新羅花郎の制度について詳細に研究し、さらに日本の薩摩地方に見られた稚児様に仕える士族青年たちの「兵児二才」制度や、対馬の男子盆踊り組合集団、台湾先住民諸族の男子年齢階級組織、北米先住民たちの戦士組合と成年加入式などとも比較考究してあるので、世界各地の男性ばかりの集会組織や加入儀礼に関して、かなり「面白い」考察と論考とが楽しく読めます。ttp://www.amazon.co.jp/review/R1FQEU8XV9O539


49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/21(Mon) 17:08
きの淵に流離(さすら)うる身は―――――西郷とあのひとの真の関係を? まさかな。

 だがどうしても分からなくて、私は井上に問うてみた。・・

『じゃーさ、こっちから聞くけど、え〜と伊藤先生、稚児って言ったらなんでしょう?』
『…は?』『だから稚児だよ。稚児趣味の稚ー児ー』『こっちも真面目なんだよ伊藤センセー。…稚児ってなぁに?』『そりゃ……つまりそういうことだろう』
『そーそー、よく分かってるじゃん。十三歳の秋説が有名だね、我々の間では』
『十三歳の秋って……ちょっと早すぎない?!それともまだからかってンの?』
『からかってなんかないし、早くなんかないよ。陰間は早ければ早いほどいいんだ。慣れるのが早いから』『か、陰間……』
『確かさ〜僕の知ってるところでは、薩摩藩では、十歳から十四歳までを長稚児(おせちご)って言って、元服した二才(にせ)から直接監督されるらしいよ。あれとかこれとか』
 言いながら井上は自分の頬の前でひらひら掌を返したり、拳を作った手から指を出したりしている。私はそれを呆然とみている。
『あれとかこれ…』
『薩摩藩は男女関係が厳しいところなんだってー。少なくとも、長州みたく、すれ違って「お久しぶりです」「まぁ御機嫌よう」なんてことは言ったりしないわけ。でも男は餓えまくり。でー、例の巨人とあのひとは同じ町内で、郷中も同じだった。郷中は知ってるよね』
 地域別に設置された少年教育制度のようなものだ。
『知ってるけどさ…』
『で、巨人が元服した時点であのひとはまだ長稚児だった。元服は成人の証ということで、めでたしめでたし』『って、えー………』
  ttp://balsamicmoon.net/lc-nov-nageki.html



50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/21(Mon) 17:20
戊辰戦争では、官軍薩摩と賊軍・合津が戦った。いずれも男色の盛んな土地。
合津では、薩摩の郷中に相当する「什」があった。

合津では。「白虎隊」や「二本松少年隊」など少年兵が活躍した。これに対し薩摩のむくつけき「男色」におぼれた「兵児二才」の兵たち。

会津の中学生くらいの紅顔の少年兵たち。彼らにつかまった三五郎と同じくらいの美童の少年兵。
彼らがどんなめにあうのか・・!?。




51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/22(Tue) 08:04
「郷中」制度とは、男色が制度化されたものということができるだろう。
薩摩では男色が制度化していた他、若者たちは夕方、(灯明とともに)油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し
運悪く捕まった少年は輪姦された。

明治以降も男色の少年狩りが頻発したようだ・・


「白袴隊」
 
「白袴隊とその時代 ―世紀転換期の不良学生集団と美少年騒動」
「びゃっこたい」と言っても、戊辰戦争の華と散った会津「白虎隊」ではなく、明治30〜36年(1897〜1903)の東京で、美少年を襲ってレイプしたり、美少年を奪い合って決闘事件を起こした、娘をもつ親だけでなく、息子をもつ親をも恐怖させた硬派(=男色)の不良学生集団。

仲間の目印として白い袴を着けたことから「白袴隊」と呼ばれた。

おもしろいのは、「白袴隊」の活動を盛んに紹介して厳しく批判したのが、反藩閥政府を方針とする「万朝報」だったこと。
どうも「万朝報」は、「白袴隊」の少年襲撃(男色)を、薩摩藩の男色風俗と重ね合わせて、「白袴隊」に代表される不良学生による「風俗壊乱」を、政府要人の道徳腐敗に結び付けようとしていたらしい。
そのせいか、記事を詳細に読むと、どうも実に乏しく(レイプも未遂が多い)、「白袴隊」の活動がフレームアップされている感がある。

それはともかく、「白袴隊」は男色(少年愛)を堂々と表看板にした青年集団が明治30年代の東京に存在したという点で興味深い。
古川さんの分析によると、「白袴隊」の「事件」では、年上の青年(18〜23歳が多い)が、年少の少年(13〜17歳が多い)に性愛関係を迫るという形、つまり前近代に地方の「だ」などに見られた年齢階悌制の色彩が濃厚な男色文化の影響が見て取れるという。

しかも、記事を詳細に見ると、「白袴隊」の構成員は、判明する限り、地方出身者ばかり(やはり鹿児島県が多い)で、東京(江戸)本籍の者は見当たらない。
地方に残存していた近世的な男色文化が、上京学生によって東京にもたらされたと、見ることができる。

20世紀に入ると、男女の恋愛だけが賛美されるようになり、こうした男色集団は衰退し、アンダーグラウンド化していく。
「白袴隊」は、歪んだ形ではあるが、近世的な男色文化の最後の光芒だったのかもしれない。




52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:15
森鴎外「ヰタ・セクスアリス」にでてくる「賤のおだまき」というのは「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と文武両道に秀でた吉田大蔵清家の、郷中に関わる稚児と二才の男色の契りの物語だ。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。
数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)、大蔵との男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

関ヶ原の戦い前頃の物語で、薩摩に実在した無双の美童・平田三五郎と吉田大蔵清家が「義兄弟の契り」を結び、生死をともにする内容。平田三五郎は、庄内合戦(1599)の折、財部で十六歳の若さで戦死したことになっており、実際に曽於郡財部町(現在は市町村合併で曽於市となりまた)には、お墓が残っています。

薩摩藩の「郷中教育」は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。
郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上妻帯前の20代の年長の「二才」(にせ)が、男色という肉体の絆(義兄弟の契り)で深く結び合っていたのだろう。



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:27
「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
実在の人物で財部町に「平田三五郎の墓」があって町の記念物になっているようだ。

ほかにもたくさんあったことでしょう。


平田三五郎の墓(財部町史跡28)
鹿児島県曽於郡財部町古井(曽於市財部)にある。
 (古井(こい)は、JR日豊本線北俣駅より「中間トンネル」を抜けて大峰川を越えて「馬立」バス停、南郵便局に行く途中の十字路あたり。
  ただし交通は観光課に確認のこと。)
  
  実在の人物で、それぞれ子孫が墓参りしているという。

  財部郷土館には、平田三五郎の掛軸(絵)が展示されている。




54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:29
財部郷土館HPより

 平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において戦死した人で、相当の美少年であったらしい。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられた事件である。庄内地方を領有していた北郷時久は、宮之城へ移封となり、代わりに肝属地方を領有していた伊集院幸侃(こうかん)が入庄して来た。伊集院方の勢力拡張に危機感を持った島津と伊集院の戦いは結局、島津方が鎮圧した。
 財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。三五郎は「赤き鉢巻きに女郎花(おみなえし)を折て笄(こうがい:かんざしの意)にした」とあり、目立つ出で立ちであった。三五郎と兄貴分の吉田清家のことを記した「賎(しず)之麻玉記」という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。

 桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。



55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:34
男色の盛んな薩摩は、明治に入ってから新政府軍と戦った、これを「西南の役」という。明治10年に起こった、日本最大最後の内戦だ。熊本の激戦地田原坂に「田原坂の美少年」の像があるが、薩摩は今の中学生くらいのたくさんの少年が参戦した。当然、「男色の契り」があったのだろう。
また、これら少年が捕虜にされたりした場合、美童がどういう目に合うか想像に難くない。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:34
『男色四十八手』については、『男色山路露』、『弘法大師一巻之書』などがあるほか、夢中庵魯鈍作『男色四十八手指南』(文化6年) がある。(東○大学図書館などでみられる。)
これらは図版があるようだが、稲垣足穂「少年愛の美学」や今東光「稚児」などの本が分かりやすい。

稲垣足穂「少年愛の美学」(徳間書店1968)
「稲垣足穂大全」第3巻? (現代思潮社 (1969) 1〜6巻)
「稲垣足穂全集第4巻」筑摩書房2001
ちくま文庫、河出文庫、角川文庫などになっている。

今東光「稚児」(鳳書房2005)
稚児『今東光代表作選集』第五巻(読売新聞社1973)
「定本稚児」防長史料出版社 (1977/03)
自身、天台宗の僧侶であった今東光が、それまでベールに包まれていた僧侶の性生活=男色(美童愛・稚児愛)の実態を小説の形で公表したことにあります。




57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 07:26
庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあったのだそうだ。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。

明治になってからも、薩摩出身の塾の書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたという「賎のおだまき」とは・・当時の男色の実態、郷中制度が作られた時代の稚児、二才の男色の実態について窺い知る手掛かりともなる。

「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位かの美童の誉れの高い三五郎、今で言えばJr.あたりか。野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、
その頃は少年武士は誰かの稚児・若衆となって肉体を捧げ契りをする。したがって処女(生童)を守らねばならない。

三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に適うはずもない。すぐその細腕を押さえられ、いよいよ帯を解かれ押し倒されいよいよ強姦の辱め・・というときに馬に打ち乗った大蔵さんに助けられる。危うく強姦されるところきわどいところを助けられる場面がある。その後三五郎は、互いに想い焦がれ、自宅に訪ねてきた大蔵さんに春雨の音だけが聞こえる寝静まった夜中、生童のすべてを捧げ、硬く抱きしめられ、刀を抜いて守ろうとした帯に手がかかるのを受け容れ、
・・春の宵、寝静まった雨音のみのぞする御座の内、二才・大蔵に抱きしめられ、刀を抜こうと身を守った体をすべてを捧げ、花嫁のように、愛撫に身を任せ肉体を一つにして、硬い「男色の契り・義兄弟の契り」を交わした。

その後の藩の二才たちは競ってまわし読みし、その後明治になってからも、薩摩出身の塾のむくつけき書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたとある。当時美童狩りも盛んだったようだ。
400年前のどこかこのあたりの広大な一部で実際起こったと思えばいいだろう。

・「賎のおだまき」
ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/NewFiles/NT60.html
・ぱぱずきっちん 男色文学の世界・    男色文学多数あり
  ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/Top.html


《平田三五郎の墓(三五郎塚)》
 鹿児島県曽於市財部町古井8164地先


58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 08:02
庄内の乱(慶長4年:1599年)は、豊臣vs徳川の「天下分け目の合戦」として知られる関ヶ原の戦い(1600年(慶長五年)〉の前年戦国時代際末期だ。1603年3月24日(慶長8年2月12日)徳川幕府開城となる4年前だ。従って江戸時代の薩摩の「郷中」その他武家の「男色」も似た激しいものだったでしょう・.
小姓もまさに男色、会津の「什」も男色による少年育成組織。でもこうした重要な事が、大河ドラマなどを含めどこにもでてこないのは不思議なこと。


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 08:12
礫川 全次「歴史民俗学叢書 男色の民俗学」批評社2003


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 08:18
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.hp.infoseek.co.jp/books/yamato.htm




61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 12:20
日本の戦国時代から江戸時代の初期にかけて武士階級の間で男色が流行したことはよく知られていますが、この時代、武士の家に生まれた少年が年長の武士と義兄弟と呼ばれる男色関係をもつのはごく一般的にみられる、ほとんど制度化された習俗でした。

このような「義兄弟」の関係は少年の家族にも公認されるフォーマルな関係で、少年の父親がこれはと思う青年を見込んで自分の息子の兄分になってくれるように頼むことも珍しくなかったといいます。

このような少年と男色関係をもつ武士には女嫌いの傾向が強くみられ、周囲が結婚を勧めてもなかなか結婚しようとせず、40過ぎになってようやく子供を作るために結婚するというケースが多かったそうです。

また民族学者の赤松啓介氏によると、男色が盛んであった九州地方では、少年がフンドシを締めて成人男子の仲間入りをする「フンドシ祝い」で、熟年の男や壮年の男が「フンドシ親」となり、少年にフンドシを贈った夜に少年と性関係をもち、義理の親子になる習慣があったそうです。

これなんか、まさに前述したニューギニアの部族でみられる「尻穴親子」の関係そのものです。

さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」と呼び、郷中のメンバーは7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

この「若衆宿」の制度は、ニューギニアの部族の少年が通過儀礼のために入る「男の家」によく似ていますが、若衆宿が西日本に普及していた事実からみて、この若衆宿の制度がニューギニアなど南太平洋の島々から日本に伝わった可能性は十分に考えられます。
   ttp://jack4afric.exblog.jp/8986743


かっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
これは戦後昭和30年代初めごろまで網本制度の強い一部漁村にあったようです。その若衆宿では「義兄弟の契り」の儀式が全員の面前で行ったそうです。

薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」(ごちゅう)と呼び、郷中のメンバーは数え7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。・・・強い絆とは、「義兄弟の契り」といって
肛交に依る肉体的少年性愛・・これを男色(美童愛)という。

   「賤のおだまき」は、この稚児と二才の男色関係の話です。

薩摩の「郷中制度」とは
この稚児と二才の男色関係に依って成り立つもので、
「賤のおだまき」の世界そのものです。



62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 13:08
俺が育ったところは昔は漁村で男子は15歳になると若衆宿に入らされた。
新人はひとりずつ先輩と義兄弟の契りを結んで漁業の技術からセックスの指導まで全部その先輩に叩き込まれた。
義兄弟の契りを結ぶ時は宿の全員の前で先輩が新人の尻を掘る儀式があったらしい。
尻を掘るといっても、新人が先輩に絶対服従を誓う儀式だから、
実際には先輩が勃起させたペニスを新人の尻の穴に当てるだけで、
ペニス全体を挿入したり射精したりはなかったらしい。


昔って大ざっぱに言うと戦前の話だから15歳は数えだよ。
ほとんどの子供は小学校までしか行かなかったから何年生とかない。
昼間は家の仕事手伝って、夕食が終ると宿へ集まった。
昔は数えで正月に一才歳をとるわけですね、15歳と言えば満13,4歳。
若衆宿にはいらされるのは、みんないっしょですか、それともばらばらですか。
若衆宿というのは、ずっとですか、それとも日数がきまってるのですか。
義兄弟の契りを結ぶということは、いつごろ知るのでしょうか?。


数えだとほんとは正月に歳をとるけど、うちの方では
数えの15の誕生日(だからほんとは満14歳の誕生日)過ぎると
宿に連れてかれたって聞いた。
若衆宿は結婚するか24歳くらいになると退会して大人の寄り合いの方に出た。
新入りがいつ入ってくるかは前からわかってるから、
宿の幹部が誰を新入りの義兄弟にするか事前に決めてたが、
大体は家が近くて子供のころから顔なじみの先輩と組まされたらしい。
新入りは先輩と義兄弟の契り結ぶことは知ってるが、
まねごととは言え尻掘られる儀式があることはその場で初めて知らされるから
緊張してびびるやつ多かったみたいだよ。




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:08
大昔は知らないが、俺が聞いたのは戦前から戦後しばらくまでで、
高度成長の前の頃までの話だから、着物ではなくズボンが普通だったと思う。
契りの儀式は義兄弟のお披露目だから、当然若衆宿のメンバー全員の前でやるんだよ。

契りの儀式は全裸だよ。
三三九度みたいなことやったあと義兄弟の2人が服脱いで全裸で正座する。
あるいは全裸になってから三三九度やるのかもしれない。
新入りが宿のメンバーに向かって土下座みたいなかっこしてお礼の口上言うと
先輩がうしろに回って新入りの尻をつかんでペニス挿入する真似する。
新入りはずっと顔を上げてなきゃいけないから、先輩のペニスが尻に当たった時は
どんな威勢のいい新入りも目つぶっちゃったりおびえたような顔になるって言ってたよ。




64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:13
大昔は義兄弟になる時は例外なく必ず本式の儀式を行ったということなので、
いざ挿入となって本気で逃げようとしたり泣き喚いたりする新入りも多かったのかもしれない。
ただ真似ごとの方が当たり前になってからは、本式の儀式をやるのは本人が希望したり、納得している場合に限られたから、
弟分が先輩のペニスを受け入れて男にしてもらう儀式だということは理解していたと思う。
実際に網元や有力者の場合は家の体面もあって息子に本式の儀式を受けるよう事実上強制していたから、
事前に兄貴分を呼んだり、息子に張り形を渡して練習させて、本番で見苦しいことがないよう気を使っていたようだ。
もちろんそれでも本番で耐えきれなくなる新入りもいたと思うが、そこのところは介添え人がうまく按配していたと思う。
儀式を奥の間の薄暗い所で行い、一般の団員と少し距離を置いたのもその辺の配慮だったのかもしれない。
むしろ本式の儀式の時は兄貴分の方が責任重大だったかもしれない。
ペニスを勃起させて弟分が動かないよう尻をしっかり掴んで優しく挿入し、あまり時間をかけずに射精するのは
口で言うほど簡単なことではなかったと思う。
いざ本番という時兄貴分が勃起しなかったりしたら論外だが、、逆に本物の同性愛者のように
快楽をむさぼってほしいままに往復運動をすればいいわけではなくて、あくまで儀式として行うのだから、
体力とともに精神力もまさに兄貴分にふさわしい所を幹部や他の先輩たちに見せなければならなかった。
弟分は自分が男になるためと家の名誉のために本式の儀式に耐えたが、
兄貴分にとっても自分が幹部になるためには避けて通れない試練だったと思う。

ペニスを勃起させて弟分が動かないよう尻をしっかり掴んで優しく挿入し、あまり時間をかけずに射精するのは
口で言うほど簡単なことではなかったと思う。・・こういうことが、だだっぴろい部屋の敷物を敷かれた狭いリングのような
中で繰り広げられたわけですね。
この儀式は集落のみんなにこうかいすることでなりたったようですね。介添人はプロレスのレフリーのようなもので、敷物がリングかな。
残酷なのは、本式の儀式をやることを自身が希望したり、納得しているのに、いざ
いざ本番になって、いざ挿入となって本気で逃げようとしたり泣き喚いたりしても、勃起させたペニスをあてられ、動かないよう尻をしっかり掴んで優しく挿入し・・ということかもしれませんね。、

契りの儀式そのものは宿のメンバー以外に公開したわけではないが、
新入りがいつ宿入りしてどんな儀式を行うかは家族にも地区の人全員にも知れ渡っていた。
家を出る時にも宿に着くまでの間にも「がんばれ」、「しっかり耐え抜け」と励まされたろうから、
新入りはどんな辛くても耐えることができたんだと思う。
残酷といえば残酷だが、兄貴分が自分をしっかり支えて一体になってくれ、熱いものを注ぎ入れてくれたことも
思い切り体で感じとれたと思うし、新入りにとっては誇りになったと思う。




65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:14
宿入りの歳を迎えた少年は宿に呼ばれて幹部の面接を受ける。
その際宿のしきたりや義兄弟のこと、契りの儀式のことなどを教えられる。
契りの儀式に本式と真似ごとがあることもそれとなく伝えられるが、
網元の息子のように親も本人も最初から本式を希望するような場合は
「どんなことにも耐えるから先輩たちの前で男にしてほしい」旨その場ではっきり言った。
そうでない場合は宿入りまでにどちらを選ぶか決めるよう言われた。
体格もよく度胸もあるような少年の場合は、将来の幹部になるためにも
暗に本式の契りを結ぶよう勧められたらしい。
そのあと何日かして、少年の家に宿の幹部が赴いて何月何日に宿入りさせたいと親と少年に伝える。
その際、どこのだれが少年の兄貴分になるかも伝える。
近隣の地区にも漁村であればそれぞれ若衆宿はあった。
昔は漁場争いなどで若衆宿同士のけんかなどもよくあったと聞いてる。
ただ宿のしきたりや契りの儀式のやり方などはみんなそれぞれだったと思う。




66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:18
地区に残って一人前の漁師になりたいと思ってる若者だったら、また息子を一人前の漁師にさせたいと思ってる親だったら
宿入りを拒否することはまずありえなかった。
もし仮に何らかの理由で拒否するとしたら、事前の面接やその前の親との接触の段階で拒否していたはずだよ。
特に誰が義兄弟の兄貴分になるかが決まってから拒否したら、その兄貴分が「俺が兄貴分になるのが気に食わないのか」って
その家に殴りこみに行きかねない。
だから幹部が宿入りの期日を伝達しに行った時は、本人や親は「たしかに承りました」と答えるだけだった。
もちろんその時点では本人も親も契りの儀式でどういうことをするのかは当然知っていたはずだよ。
宿のしきたりは宿によってみんな違っていたが、義兄弟の契りはどこでも大事にしていたと聞いている。
ただ契りの儀式は兄貴分と弟分で杯を交わすだけのところが多かったと思う。


「どんなことにも耐えるから先輩たちの前で男にしてほしい」旨その場ではっきり言った。
そうでない場合は宿入りまでにどちらを選ぶか決めるよう言われた。・・

いずれにしても、「たしかに承りました」と答えると、その日を境に大人の男になるわけですね。

今のように成人になるのは生易しいものではなかったようですね。

本式の儀式を希望する新入りとそうでない新入りがいる時は、
本式の儀式の日取りをまず先に決め、数日間なり数週間なり間をおいてから他の新入りの儀式を行ったと聞いた。
本式の儀式をあとにすると、真似ごとの儀式で契りの儀式を終えた新入りも本式の儀式に立ちあうことになり、
ショックが強すぎるということだったようだ。
大昔、本式の儀式が当たり前だった頃は新入りが何人かいてもまとめて儀式を行い、
介添え人の合図で一斉に挿入し、介添え人の拍子に合わせて同じリズムで往復運動したというから、
それはそれで壮観だったと思う。

いずれにせよ本式の儀式を受けることを選んで宿入りの期日を告げられた若者は
もうすぐ男になれるという期待と不安で胸がいっぱいだったと思う。
本番当日になるまで、兄貴分になる先輩が来たり張り形を渡されて儀式の練習をしたらしいが、
兄貴分は暗黙の了解で挿入までは練習することが認められていたが、
弟分の体内で射精することは本番の儀式まで厳しく禁じられていたらしい。
たしかに新入りにとって練習も本番の儀式も辛くて苦しいものだったと思うが、
最後の最後に兄貴分の熱い思いを体で受け止めた時には自分も男になれたと
実感できたんだろうと思う。




67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:22
新入りは大体は中学の同級生だったわけだから、自分は真似ごとで入団して、
その直後に友人が本式の儀式を必死で耐える姿を見たらショックだったろうし、
また本式の儀式を受ける新入りも涙を流して耐える姿を同級生には見られたくなかったと思う。
逆に本式の儀式を受けたあとだったら、同級生の真似ごとの儀式も落ち着いて見ていられたと思う。
期日を告げてからその期日までは大体1週間か10日くらいだったはずだが、
大安とか友引とかもあるからもっと間があいていたこともあったと思う。
その間も家の仕事とかは当然あったから、何もしないで宿入りを待つということはなかったはずだよ。
特に本式の儀式を行う場合は、周囲が心配して兄貴分と引き合わせたりして練習させるようにしていたと思う。
新入りの方だけでなく兄貴分になる方にとっても男の尻に勃起したペニスを挿入するのは初めての経験だから
周囲は2人で練習するよう仕向けていたと思う。
本式の儀式で兄貴分になる先輩は宿入りの際本式の儀式を受けた若者がなるのがふつうとされていたから、
儀式を前にした新入りの気持ちも十分わかっていたはずだよ。

契りの儀式の練習は兄貴分と弟分2人だけの練習だから、
張り形を使ったり、指を使ったり、いろいろなやり方があったと思う。
ただ本番の儀式ではペニスを挿入する前に指を挿入することは禁じられていた。
兄貴分がペニスをしごいて勃起させた時、我慢汁が十分亀頭を潤していないような場合は
介添え役が潤滑剤としてワセリンのような軟膏をペニスに塗らせたこともあったらしい。
その場合も弟分の尻の穴に指で軟膏を塗るということはなかったらしい。
理由はわからないが、弟分が兄貴分のペニスを無垢のまま受け入れるのが契りの儀式だから、
その大事な場所を指などを挿入して汚すのは邪道とされたということだと思う。
本式の契りの儀式は昭和30年代の前半までは行われていたと聞いている。
最後の頃は網元の息子などごく一部に限られていたようだが、
逆に兄貴分も弟分も他の団員たちに男らしさを見せるという部分を意識しすぎて、
最初から兄貴分が一気にペニスの根元まで挿入してぐいぐい往復運動を繰り返し
弟分が失神しそうになるなどかなり壮絶な儀式もあったらしい。



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