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日本における飢饉の歴史

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/14(Fri) 19:28)]
日本の歴史は飢饉の歴史、日本人が食料を満促に食べれるようになったのは、つい40年前。
コメが余るようになったのは、戦後も20年以上過ぎた昭和46年でした。
それは農家と農業関係者のたゆまぬ努力の賜です。

「飽食の時代」と言われて久しくなった今、またTPPなどと言うのが騒がしくなった今、
日本における食料の歴史、飢饉の歴史をふりかえってみましょう。


[38:名無しさん@お腹いっぱい。 (2013/07/29(Mon) 22:50)]
兵糧攻めにあった城は、戦わずして陥落が戦略の常識。
一度、包囲されて飢餓地獄におちてみればわかるだろう。
ゴキブリも平気で食うようになるし、
人の吐いたものでも平気で食うようになるし、
最後には、餓死の死人の肉も食うようになる。
それが恐ろしいから、どこの国でも自給率は手離さないんだよ。
百姓がいなければ、国の独立も主権もありえないんだよ。




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[40:名無しさん@お腹いっぱい。 (2015/08/06(Thu) 19:50)]
「飽食の時代」と言われ久しい、今若者は日本に「飢饉」の歴史があったこと、食糧難の時代が有ったことすら知らない。
農家や農業関係者のたゆまぬ努力の賜である、そうした歴史の上に今日の繁栄が有ることを忘れてはならない。


[41:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/16(Fri) 10:54)]
日本における飢饉の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50


[42:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/16(Fri) 11:02)]
>>35
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして

「9月18日未明、満州事変勃発。」


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
  岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
  など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
[写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)


[43:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/16(Fri) 11:12)]
昭和になっても、日本では東北地方は冷害凶作に見舞われ飢饉が続いた。そして、娘の身売りが行われた。
・山下文男著「昭和東北大凶作」
 h ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 h ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
h ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html

(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)


直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。


[44:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/16(Fri) 11:17)]
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50


[45:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/18(Sun) 14:49)]
>>42-43
(参考)

仙台市に司令部を置いた旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」の解読が、在仙の歴史研究者らによって終了した。「みやぎの近現代史を考える会」が、14年かけて取り組んだ。部隊が参戦した満州事変(1931年9月18日)の戦闘状況や、兵営の生活が記されている。旧陸軍は敗戦時に記録の処分を指示し、公的記録が残っているのは珍しい。軍の実情を知る上で貴重な資料になる。

 解読されたのは、第2師団野砲兵第2連隊第1大隊本部(約360人)の日誌。第2師団は満州事変当時、約5000人が駐屯し、主力として最前線に投入された。事変直後の9月21日から翌32年末までの日誌が残されている。

 作戦命令や関東軍司令官の訓示、兵営での慰霊祭を克明に記録。中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)から遠く離れた満州北部での作戦では「敵の銃声熾烈(しれつ)」「両翼を包囲され死傷者続出」と生々しく記されている。

 厳寒による凍傷患者は、事変全体を通じ約1800人に上ったとされる。日誌は将来への参考意見として「防寒具の整備、給養の良否、兵卒の休眠状況に配慮することが必要。今回の戦闘では、全てがこれらの条件に合致しなかった」と指摘していた。

 このほか、少ない食糧や弾薬補給、靴の破損など粗末な兵站(へいたん)が浮き彫りになった。衛生面も貧弱で、コレラに似た症状で多数の死者が出たり、列車内に救護所を開設したりした。

 考える会の一戸富士雄会長(85)は「戦況を楽観視して防寒服の備えを考えず、(日本がロシア革命に軍事干渉した)シベリア出兵の教訓を学んでいない。装備の近代化の遅れも甚だしい。戦闘史にとどまらず、日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」と話す。

 日誌は、復員業務に当たった旧陸軍関係者の遺族が1999年に仙台市歴史民俗資料館に寄贈した。資料館と共同で同会が解読に当たった。2011〜16年の資料館の年次調査報告書に分けて掲載された。連絡先は資料館022(295)3956。

[満州事変と第2師団]1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。「中国軍の謀略」と主張して軍事行動を開始し、事変が勃発した。中国東北地方を占領、1932年3月に満州国として独立させた。宮城、福島、新潟3県を徴兵管区とした第2師団は事変当時、満州に駐屯し、奉天やチチハルなどに出兵した。

h ttp://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160731_13024.html


[46:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/18(Sun) 15:12)]
昭和六年九月十八日の夜、奉天郊外で日本が経営する南満州鉄道会社、満鉄の線路が爆破されたのです。
現場は奉天駅から北へ約七`の柳条湖で、「張作霖の後を継いだ息子の張学良の軍隊の犯行で、日本の鉄道守備隊との間で戦闘になった」。
これが陸軍当局の発表でした。この柳条湖は、戦後も長いこと「柳条溝事件」と溝と云う字が使われてきましたが、これは陸軍省が発表の際に間違えてしまったためで、正しくは湖と書いた柳条湖です。この発表では「暴戻なる支那軍隊」と云う言葉が使われました。乱暴で非道なという意味ですが、それからの新聞には連日、まるで枕言葉のように「暴戻支那」の大見出しが躍り、「暴支膺懲」、「乱暴な支那を懲らしめよ」。こう云った国民の声に押され、関東軍はそれこそ電光石火、三か月半後には全満州を占領してしまったのです。
日本本土の三倍半に当たる面積です。
 
 軍部も国民も、この大成功に酔いました。何しろ昭和大恐慌の真っ只中です。空前の不景気で、町には失業者が溢れ、大学を出ても就職口がありません。農村は米価暴落で欠食児童、学校へお弁当を持っていけない子供や、娘の身売りが激増していました。八方塞がりで全く先が見えず、国中が暗澹とした気分になっているところへ、この満州事変の赫々たる戦果です。満州事変で先陣を切って活躍したのが第二師団でした。郷土師団が凱旋した時、仙台市民は総出で手に手に日の丸の旗を持って出迎えたと云われますが、敗戦後もなお「凱旋道路」として、かつての栄光の象徴である多門師団長の名前が残っていたのです。
 
 


[47:名無しさん@お腹いっぱい。 (2016/12/18(Sun) 17:17)]
現代は飽食の時代と言われている。ファミリーレストランやファーストフード店などに行くと、より取り見取りの食べ物がところ狭しと並び、注文しさえすれば、どんなものでもすぐに食べることが出来る便利な時代である。

 しかし、客の中には、半分も食べないで席を立つ者もいるし、中には、注文しながら、ほとんど手もつけずに食べ残して去る者さえいる。彼らの頭の中では、食べ物のありがたさに感謝する気持ちなど微塵もないように思える。


 しかし、ほんの百年かそこら前には、一片の食べ物もなかったばかりに多くの人間が死んでいかねばならない悲しくて長い過去があったのである。江戸時代の日本は、そうした犠牲者を数多く出した経験を何度もしているのである。大飢饉は江戸時代だけでも6回もあり、そのうち亨保、天明、天保と呼ばれるものは江戸の三大飢饉とまで呼ばれ、全国的な規模で各地に甚大な被害を持たらしたとされている。

 とりわけ、東北地方の被害は最も深刻で、冷害が続くと、間違いなく凶作となりたちまち飢饉になった。今でこそ米の品種改良などで一大収穫地となっているが、東北地方は、その頃は決定的に食えない地域であったのだ。
 大飢饉の状況下では、人間の心理というものはいかに変化するのであろうか? ある記録では、飢えゆえに餓鬼に成り果てた身の毛のよだつ地獄の世界がこの地上に現出したと述べているものもある。


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