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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:17
☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5





120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:22
☆古賀メロディと霧島昇


日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952








121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:36
5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年から53年に亡くなるまでの半世紀にわたる作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。

その中に、昭和17年の「荒城の月」編曲があり、李香蘭のSPレコードが、You Tube やCD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]〈CD16枚〉などで聴くことができます。

「荒城の月」といえば、藤原義江や三浦環、山田耕筰。古賀政男自伝『わが心の歌』〈展望社1965初版〉には、藤原義江は古賀政男が昭和13年11月、外務省音楽親善文化使節としてアメリカに派遣されるにあたって見送るなど、三浦環や藤原義江と古賀政男とは信頼と親交が有ったことが、写真とともにあります。

また、山田耕筰は外国人に日本の音楽を紹介するのに、よく古賀政男の「丘を越えて」を紹介していたといいます。

以下一見関係がなさそうで深い関係が有る、古賀政男と「荒城の月」について参考に。


※古賀政男と「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:37
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  tp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/



123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:38
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  tp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/



124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:33
☆三浦環と古賀政男

日本が生んだ世界的プリマドナ三浦環が、その63歳の生涯を終えたのは66年前、終戦直後の昭和21年5月26日のことで、東京渋谷の病院で死去。

環が亡くなった時、東大病院で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ たという。
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちがとかく西洋かぶれして日本の文化を見失っていたのと違って、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。また、三浦環と古賀政男には深い関係が有る。

なお、古賀メロディを支えた歌手に、三浦環に師事した李香蘭(山口淑子)、白光や、東京音楽学校を出て、『蝶々夫人』で三浦環と共演した由利あけみなどがいる。


「私は貴方の歌に恋してるのよ」・・古賀政男自伝『我が心の歌』(展望社刊1965) には二人のスナップ写真などが載っている。

古賀政男と三浦環(1884〜1946)この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環は昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せている、古賀政男の芸術を高く評価していたようである。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。

そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。

そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

昭和11年(1936年)(『蝶々夫人』出演2000回達成後の帰朝で、昭和11年6月16日の「日本青年館」で行われた「第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会」で、三浦環が古賀メロディ『忘れなの花束』(野村俊夫作詩)と、『乙女心』(鹿山鶯村作詩)を歌ったという。

三浦環(柴田環)は、明治37年(1904年)に東京音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。

夏はテニス姿の若者があふれる山中湖村、この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌姫、三浦環がその晩年を過したことを知る人はあまりいない。
戦争中、戦火を避けて山中湖畔に疎開した三浦環と、もうひとり河口湖畔に疎開した古賀政男、二人はサツマイモ一つも分け合う仲だったという。



125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:34
環が山中湖村平野で過ごしたのは、昭和18年2月14日、旅館三国荘別館に疎開。してから病を得て入院のため上京した20年の暮れまでの2年10カ月ほど。
後に87歳の母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったという。

夜中に母の湯タンポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話は今に語り伝えられている。 .・

しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和20年の暮、病を患って入院のため上京、翌21年5月28日、渋谷の病院で死去。

遂に生きて再び平野の土を踏むことはなかった。同年6月7日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希望で今、平野の寿徳寺の奥津城(おくつき)に母堂、登枝と共に眠っている。

祖国愛に満ちた信念と自尊の明治の女だった環は、平野疎開中も、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけたという。


今、平野寿徳寺の墓碑面には、環自筆の

《「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ   環」》

との文が刻まれている。

ロンドンのロイヤルアルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演以来、ニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とし、「蝶々夫人」2000回公演を果たした三浦環。

世紀のテノール、エンリコ・カルーゾーと共演した三浦環、プッチーニをして「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と言わせた三浦環、その言葉である。

昭和20年12月、日比谷公会堂で自らの訳詩による「冬の旅」をうたうが、発病、上京して、渋谷の友人の病院に入院。昭和21年5月26日午前5時20分、渋谷の大東学園病院で死亡しました。

昭和21年入院中に放送と録音を行うも、5月26日死去。6月7日、日比谷公会堂で音楽葬。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という環の遺言により、母堂・登枝の眠る山梨県山中湖村平野、寿徳寺に葬る。

環が愛用したピアノは、環の住んだ部屋共々、今、平野の三国荘別館に保存されているという。(公開されていない。)

   ttp://www.nakash.jp/opera/kikou05/18fuji/4miura.htm
   ttp://yamanakako.info/sisetsu.php?id=157
なお、三浦環の「募石」はもうひとつ、上野の寛永寺第一霊廟の入口近くにもある。「Madam  Butterfly」と刻まれている蝶の形をしていて、傍らの碑には、次の詩が書いてある。

    葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな





126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:38
一方、[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、昭和20年3月から8月まで。

今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。

こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。

自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html

(参考)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)
・「人間の記録27 三浦環―お蝶夫人」 (日本図書センター (1997)


・三浦環−古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
  ttp://25877386.at.webry.info/
・三浦環と李香蘭   ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835

・流行歌曲について  萩原朔太郎
  ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html





127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:04
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。




128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:08
関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。

彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。


自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。


その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。

・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5  VIC 50321@
當世銀座節   (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7  VIC50371@
東京行進曲    (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6  VIC50755A
愛して頂戴      (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8  VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌)  1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇) (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2  VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2  VIC 51093A
この太陽       (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6  VIC 51240A



129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:09
西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。

そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターン調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。

また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。

*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)

去りゆく影  (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.1
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
椿姫の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) 淡谷のり子1933.3
浮草の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄    (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲) 淡谷のり子1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴  1933..6
十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア  1933.6
気まぐれ涙     (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅     (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   193310



130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:10
「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。




なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」

古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。

新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html

1940 .2 誰か故郷を想わざる      霧島昇
1940 .2 あの花この花          二葉あき子
1940.5 春よいづこ            藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声         藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻        志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌   霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い          伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮           李香蘭
1941.7  そうだその意気         霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7  夜霧の馬車       李香蘭
1941.7  歌えば天国       藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘       渡辺はま子
1942.7  夕月乙女        李香蘭
1943.3  若き日の夢       李香蘭
1943,5  サヨンの歌       李香蘭



131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:11
なお、昭和15年に佐藤惣之助は、コロムビア専属になっている。「新妻鏡」「馬」などはこの時期の作品。

戦後の西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。

 ♪おさない日 かなしい日
  聞いた歌 懐かしメロディー
  君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・

映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。

次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・

なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。


(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)

吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)






132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:15
>>127
>藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。


訂正

藤山一郎、関種子など゙東京音楽学校首席の名歌手との出会い。




133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:21
☆古賀政男 二つの「思い出の記」

古賀政男には「思い出の記」という人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。

「思い出の記」は、作曲は古賀政男だが、作詩は古賀政男作詩と、大木惇夫作詩の二つがあります。

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲は陸海軍の礼式歌ともなった。


・古賀政男作詞  今、古賀政男歌と大川栄作歌もある。(昭和42年)

ああ思い出は 懐かしくふるさと恋て 訪ぬれば親同胞は すでに逝き誓いし友の 面影も今は虚しき 菜の花よああ人生は 夢の夢幾年変わらぬ 山川も流れる雲か 風に散る人の心は 山吹の花はほろほろ 散るばかり


・大木惇夫作詩(徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化)霧島昇歌(コロムビア100374@)


ああ馬の背に 涙してふるさと出でて 幾歳ぞ高倉山の 白雲にちかいし言葉 あだならず飾る錦は 誰ゆえにああ山河は 変わらねど人の心は 今いかに思い出の谷 夢の丘幼な馴染みの おもかげも今は虚しき 菜の花よ





134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:39
☆昭和戦前の作曲家


日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家などによるものと言えるでしょう。


作曲家(昭和・戦前)

中山晋平(1887〜1952)(*)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952) 野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(*)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八        道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(*)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉 十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉 高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(*)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉 流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉すみだ川

*日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)



135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:41
☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970) 酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)     二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946) 名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))


136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:46
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。



137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:47
彼が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。

その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。

この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。

酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わだつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。

そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。

昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。

今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後70年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。




138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:50
☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・

金色夜叉(お宮の唄)             1932.2 関種子
鳩笛を吹く女の唄               1932.2 井上静雄(藤山一郎)
秘めたる恋           1932.3 関種子
武雄の唄      1932.5 中野忠晴
春の唄      1932.6 淡谷のり子
月夜の恋   1932.6 丸山和歌子
朝顔の唄    1932.6 関種子
笛は冴ゆれど       1932.7 関種子
不如帰    1932.8 淡谷のり子
放浪の唄                  1932.9 長谷川一郎
アリランの唄(朝鮮民謡)    1932.9 淡谷のり子、長谷川一郎
愛は紅い       1932.9 関種子

「緑の地平線」や「人生の並木路」など、その後の主な映画主題歌については、「古賀メロディ−と映画主題歌」参照。



・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
   ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
・阪神タイガースファンなら誰でも知ってる☆詩人・佐藤惣之助          
  テーマ:馬込文士村
   ttp://ameblo.jp/mocchann314/entry-10769706865.html
・六甲颪(ろっこうおろし)の歌詞から
   ttp://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10736372304.html
・萩原朔太郎と佐藤惣之助
   ttp://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2008/02/post_4273.html
・二木紘三のうた物語
   ttp://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html




139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:13
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90




140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:23
☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。



141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:25
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の?(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:26
藤山一郎は昭和18年2月に、南方慰問に出かけ、一度帰国後すぐ再び南方慰問の要請を受け、ジャワ島で終戦を迎え、約1年間の抑留生活を送ることとなり、昭和21年(1946)7月帰国。

戦中であることを感じさせない、爽やかな童謡調の「青い牧場」(サトウハチロー作詞、1943.2、大映映画「青空交響楽」主題歌)は古賀・藤山コンビの戦前戦中の最後となった。


昭和21年7月25日、日本に帰国した藤山は、8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、日本での歌手活動を再開させ、ラジオとの関係を深める。

帰国後もコロムビア専属歌手として活躍し、NHKの連続ラジオドラマの映画化、菊田一男作、東宝映画「音楽五人男」に出演し、その主題歌である「夢淡き東京」をヒットさせた。五人男とは藤山一郎のほかに古川ロッパ、渡辺篤、高田稔、相原巨介のこと。

昭和29年9月にはレコード会社専属を止め、NHK(芸能局音楽部)の嘱託として、ラジオ番組に出演し、クラシックの香りのするホームソングの普及に努めるなど、ラジオ放送で本格的に活躍することとなった。

古賀政男が真に「古賀政男」たる真価を発揮するピークは、佐藤惣之助とコンビをくんで、作曲の醍醐味を思う存分に味わっていた昭和初年から戦中あたりだろう。もちろん戦後もいい曲はたくさんあるが。
 ttp://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990725

世の中が急速に変貌し豊かになって行くにつれ、昭和20年代半ばごろから歌の世界も大きく変わってゆく。そんななかで、古賀政男は曲を付けたくなる詩が無くてねえと盛んに嘆く。



戦後の古賀政男は、もはや一介の作曲家ではなく、すでに「歌謡界の大御所」という社会的存在になっていたのだ。

特に昭和30年代の「古賀政男」と言えば押しも押されもせぬ『日本の名士』だった。

指には大きなダイヤをつけ、その著作権料も他を圧倒していた。

昭和13年、「古賀音楽村」を作ろうと移り住んだ代々木上原の広大な旧古賀邸、多くの歌手たちが通ったという旧古賀邸は、現在「古賀政男音楽博物館」と、それと一体となったJASRAC本部ビル、いずれも古賀財団所有。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容、それは、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。

(現在、小田急線代々木上原駅と、すぐ駅前の井の頭通りに面した「古賀政男音楽博物館」を繋ぐ代々木上原駅沿いの短い通りは「音楽村通り」となっている。)

島倉千代子が、門から玄関までの路のなんと長く感じられた事かといったように、広大な古賀邸には大きな車庫がいくつもあり、何台もの外車を持ち、あちこちに観音様が祭ってあった。(その路が博物館内に再現されている。)

歌謡界の大御所・古賀政男は昭和33年12月、自ら「日本作曲家協会」を作って初代会長となり、作曲家達の権利擁護などに力を注ぐほか、「日本レコード大賞」を創設している。

藤山一郎は、昭和47年に初代東海林太郎(しょうじたろう)に次いで「日本歌手協会」の会長となった。なお、古賀政男、藤山一郎は、いずれも「国民栄誉賞」の栄誉に浴している。

昭和29年は「演歌歌手」のはしりとされる「春日八郎」の「お富さん」が流行した。「藤山一郎」のNHK嘱託は節目となる象徴的な出来事である。

(「春日八郎」は、浅草で藤山一郎のステージを見て歌手に憧れ、歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、1948年キングレコードの準専属歌手となった。)


「夜の湖」など古賀作品以外の戦後の藤山一郎の歌唱になるもの・・、

「夢淡き東京」 (サトウハチロー作詞、古関裕而作曲 1947)
「長崎の鐘 」 〈サトウハチロー作詞 古関裕而作曲 1949〉
「ニコライの鐘」(門田ゆたか作詞、古関裕而作曲  1951)
「青い山脈」 (西條八十作詞、服部良一作曲 1951)
などがある。



143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:31
☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ

歌謡曲(流行歌)は日本の貴重な文化であり、後世に継承してゆくべきものです。

ところが過去の音楽は放送もされず聞く機会も失われ、名曲の数々が埋もれてしまっているので、このままいくと、将来「名曲」を誰も知らないという事態に発展しかねないのは残念なことです。。



昭和9年(1934)5月15日、コロムビアを退社した古賀政男によって、テイチク東京文芸部(古賀文芸部)が発足、ここにテイチク黄金時代がスタートする。

テイチク黄金時代の立役者は、楠木繁夫、ディックミネ、杉狂児(東京音楽学校)など、それに昭和11からビクターから移った藤山一郎が加わる。

日活と提携して沢山の映画主題歌も作られ、昭和12年だけでも40曲以上もの映画主題歌が作られたという。


デックミネ(本名、三根 徳一)、は、立教大学商学部卒。昭和9年(1934年)タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを、淡谷のり子に見出されレコード歌手の道を歩むこととなる。

同年、テイチクの重役だった古賀政男の推薦で「ダイナ」をレコーディング。「ダイナ」では自ら訳詞と編曲、演奏を担当。テイチクの重役だった古賀政男の推薦で,昭和9年「ダイナ」をレコーディングしデビュー、和製ジャズ歌手の草分けとなる。

二村定一を日本のジャズ・ポピュラーの始まりとするなら、ディックミネはその路線の継承者ともいえる存在で、彼は生涯に500曲以上ものジャズ・レコードを吹き込み、その普及に大きく貢献している。

サトウハチロー原作、日活多摩川、渡辺邦男監督1935『うら街の交響楽』(音楽、福田宗吉・古賀 政男)の、[恋は荷物と同じよ] (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1935.6(川畑文子、ディックミネ)、(東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクール1等入選作。)が古賀作品との最初となる。


昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。

古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。




144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:31
おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。

ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。


☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938









145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:35
☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫

昭和6年(1931)3月にコロンビア専属作曲家となった古賀政男は、その後専属レコード会社を

@ コロムビア(昭和6 〜9年) 第一期黄金時代
A テイチク (昭和9〜13年)  第二期黄金時代(テイチク黄金時代)
B コロムビア(昭和13年〜戦後) 第三期黄金時代、戦後第四期黄金時代

と変わった。そして変わった先でそれぞれ時代を築き、「黄金時代」を築いた。

古賀政男には、戦後の黄金時代を含めて、4つの「黄金時代」が有る。

古賀政男は多くの歌手を呼寄せ発掘し、育てたことで知られる。その一人テイチク、コロムビアにおける楠木繁夫は、早生したためあまり知られていないようだが、藤山一郎、ディックミネと並ぶ「古賀メロディ」テイチク黄金時代を築いた立役者の一人。

大正13年(1924)、東京音楽学校師範科に入学、本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家梁田貞に師事。しかし学生運動で校則などに抗議したことから、同級の高木東六とともに除籍処分となった。

昭和9年(1934)5月に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属に迎えられ、昭和10年(1935)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。

古賀政男が抜けた後の江口夜詩―松平晃のコロムビア、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う「古賀メロディー」のテイチク、佐々木俊一が台頭するビクターと三つの構図で激しいヒット競争が展開し、世にいう「テイチク黄金時代」が出現。

古賀政男は重役として迎えられ、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など多くの映画主題歌が作られた。

昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社すると、楠木もビクターに移籍。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。

現在の古賀政男音楽博物館のある代々木上原は、古賀政男が昭和13年に移り住んだ街。古賀政男は、この代々木上原の地に、音楽創造に邁進する同志を集めて「音楽村」をつくろうという構想を持っていた。

古賀政男を初期には自信がなく、洋楽傾向を持っていて世界の音楽を取り入れていた。

その後、特に昭和14年8月、一分間1万ドルと言われたアメリカNBC放送の「世界の電波」に乗って以降、古賀政男はますます自信を深め、自身に満ち溢れたものであったという。

そして、作曲の傾向も洋楽傾向から邦楽の傾向を強めて行く。

古賀政男はコロムビアで第三期黄金時代を迎えるのだが、「古賀政男藝術大観」が出版されたこの昭和13、14年ごろと言うのは、このように自信に満ち溢れ、脂の乗りきった、絶頂期にでもあったのだ。

その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。

昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属となっていた西條八十、昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。

昭和15年(1940)にコロムビア専属とていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである

そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。第3期黄金時代を迎えた。

「花白蘭の唄」(1942.8)以降はコロムビアでの作品である。




146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:36
☆楠木繁夫の代表曲

国境を越えて  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ    (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲)      1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段    (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄  (佐藤惣之助作詞、 楠木繁夫歌) 1937.1
スキ‐の唄   (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲    (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴)    1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1937.8
時代の霧   (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)        1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1938.6
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲)(李香蘭)    1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11











147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:41
☆古賀メロディと霧島昇

日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952







148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:49
☆古賀政男 二つの「思い出の記」 2 

昭和53年8月に古賀政男が亡くなって今年、平成25年で35年になる。


昭和歌謡の黎明期、一苦学生だった昭和4,5年から、昭和6年コロムビア専属そして、テイチク、コロムビアとレコード会社を移りながら、日本がまだ貧しかった時代から高度成長の真っ盛り戦後の昭和40年代末ごろまで,古賀政男ほど長きに亘って広範に思う中心でありえたものもいない。



「人生の並木路」そのままに、貧しい故郷を捨てて兄を頼りに「韓国」に亘った古賀メロディに大きな影響を及ぼしたとされる韓国で過ごした少年時代。

また、明治大学学生として日本に帰って来て、一苦学生に過ぎなかった「古賀正男」が「古賀政男」として歌謡界の頂点に昇りつめる半生、それは日本の昭和の歴史を象徴するかのよう。

それはまさに半世紀に亘る昭和歌謡の歴史そのものだった。


古賀政男には「思い出の記」という自身の人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。



「思い出の記」は二つあって、いずれも古賀政男作曲の秀作だが、昭和16年の作品(大木惇夫作詩)と、晩年自らの「思い出」を辿る自伝的作品として作った昭和43年(1978)の古賀政男作詩があります。

大木惇夫作詩が徳富蘆花の自伝的文学作品の歌謡化作品であるのに対し、歌謡界の大御所で、「日本の名士」になっていた古賀政男晩年の自らを顧み語る自伝的作品と言えます。

古賀政男作詞作曲「思い出の記」(昭和43年)は、ちょうど、美空ひばりの
「悲しい酒 (1966 石本美由起作詞、美空ひばり歌)
「銀座音頭」(1968 西條八十作詞、美空ひばり歌)
「若い銀座」(1968 西條八十作詞、美空ひばり歌)
などが作られた頃の巨匠・古賀政男集大成ともいえる作品。

思ひ出の記(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)霧島昇1941.12 (陸海軍礼式歌)
思い出の記(古賀政男作詞、古賀政男作曲)    1968

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲で陸海軍の礼式歌ともなった。

・大木惇夫作詩「思ひ出の記」は、徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化で、霧島昇歌(コロムビア100374@)

作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

ああ馬の背に涙して
故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に
誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに

ああ山河は変わらねど
人の心は今いかに
思い出の谷夢の丘
幼馴染の面影も
今は空しき菜の花よ



・古賀政男作詞「思い出の記」
作詞 古賀政男
作曲 古賀政男

ああ思い出は 懐かしく
ふるさと恋て 訪ぬれば
親同朋は すでに逝き
誓いし友の 面影も
今は虚しき 菜の花よ

ああ人生は 夢の夢
幾年変わらぬ 山川も
流れる雲か 風に散る
人の心は 山吹の
花はほろほろ 散るばかり


他に、大木惇夫作詞に、
崑崙越えて  1941(大木惇夫作詞、藤山一郎歌)
雲のふるさと1944(大木惇夫作詞、伊藤久男歌)陸海軍礼式歌、NHKラジオ歌謡
苺の雲の燃える時(大木惇夫作詞、霧島昇、松原操歌)などがある、

(参 考)
森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)
ttp://www.nihonbashi.ac.jp/nihonbashiology/pdf/nihonbashigaku_3-1.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%81%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7'




149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:59
☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手



昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者だった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身。四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)などは首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。

昭和3年,「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになる。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。その歌はさらに若い優れた歌手によって引き継がれていくのだ。

あの誰もマネのできない底辺に一種独特の哀調を帯びたその一連のメロディ、それが「古賀メロディ」と呼ばれるようになるのは昭和の初めである。

その「古賀メロディ」を世に広めた大きな功績は、佐藤千夜子とその後、それを引き継いだ藤山一郎や関種子などをはじめとした若き名歌手たちだった。

そういう意味で、後に「古賀メロディ」と呼ばれることになる「晋平節」とは異なる新しい新鮮な「歌謡曲」の分野で核となる古賀正男という一苦学生を世に送り出す上で決定的役割を果たした佐藤千夜子。

同時に、佐藤は自分が外国に勉強に行くことで結果的に、実際そうであったように古賀を中心に「歌謡曲」という新分野で若い後進声学家たちに、広く活躍の場を与え、結集させることに大きな功績があったと考えられる。

佐藤の昭和歌謡史上に果たした役割と功績は誠に大きいと言わなければならないといえるだろう。

関種子は、黎明期の日本の歌謡の歴史の中で、藤山一郎とともに佐藤千夜子に始まる古賀メロディを支え発展させた歌手として、藤山一郎とともに忘れてはならない名歌手でしょう。



150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:00
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、ビクターの佐藤千夜子の後、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手・声学家によって支えられたといえるでしょう。

藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビュー(昭和6年)そのものです。

関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディングしている、藤山一郎と共に『古賀メロディ』を語る上で無くてはならないかけがえのない歌手である。

・昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

音楽学校出身の方々が「歌謡曲」を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば音楽評論家・伊庭孝は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない。」と猛烈に批判した。

そういう中で、関種子は、東洋音楽学校声楽科教授だった昭和12年(1937年)に、コロムビアから日本ポリドール専属となる。以後もずっとポリドールで活躍、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディングしている。


昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」・影を慕いて、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号であり、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子といえるだろう。

1. ・古賀政男(正男)初期のレコード  佐藤千夜子歌唱(ビクター)
以下の作曲家となる前の古賀作品7曲がビクターレコードで、昭和4年(1929)12月23日(5曲)から、昭和5年(1930)10月28日(影を慕いて、日本橋から、2曲)までの間に、佐藤千夜子によって吹込まれた。

文のかをり  古賀正男   佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も     浜田広介   同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳     同       1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男   同       1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介   同      1931年1月 ビクター 51519
片想い     浜田広介   同       1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介   同      1931年6月 ビクター 51689

佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し、昭和9年に再び日本に帰朝した。

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・

『文のかをり』→1933年9月 『来る来るサーカス』(西条八十作詩、古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』   →1932年6月 『月夜の恋』(西岡水朗作詩、古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月 『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲編曲・関種子歌)。



151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:00
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、昭和7年、コロムビアで藤山一郎、関種子によって吹き込まれ、歌い継がれた。なお、 「風の鈴蘭」も You Tube で聞ける。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子


影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月
影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月
日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月
かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月


日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月

かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月

影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月
影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月

・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村 関種子   1931年6月 コロムビア 26275〈関種子専属第一作〉
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺    島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年7月 コロムビア 26325 (藤山一郎第一作)




152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:07
☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」


昔、メロディを付けて呼ぶのは「古賀メロディ」しかなかった。

当たり前(三要素の一つ)のものにとりわけメロデーを付けて呼ぶことはしない。

(いつのまにか、リズム系などを含め、作曲家の名前の後ろに、何でも一律に「メロディ」を付けて、「メロディ」で呼ぶようになったようだ。だが、リズム(系)とメロデーはそれぞれ別物。)


“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)


誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、それを「古賀メロディ」と呼んで称えた。


彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、「丘を越えて」にしても、「酒は涙か溜息か」にしても、「影を慕いて」についても・・・

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。

その古賀作品を称えるため、新聞などが与えたものだろう、その「古賀メロディ」と言う言葉はいつごろ確立されたものだろうか。

昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成25年(2013)から82年前の昭和6年(1931)3月だから、その7年後だ。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。


したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究  ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)




153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:35
☆佐藤千夜子と古賀政男

佐藤千夜子(1897〜1968)は、山形県天童市に生まれ、わが国のレコード歌手の草分けといわれる。

佐藤千夜子は、中山晋平の弟子で、大正から昭和の初めにかけて、晋平の歌を世に広めた歌手である。

その生涯は、決してなだらかなものではないが、昭和53年NHKTV朝の連続テレビ小説[いちばん星]で紹介された。その中には、野口雨情、中山晋平、西条八十、学生時代の古賀政男〈正男〉などがでてくる。

ちょうど80年以上前、昭和3年に始まる坪井栄の小説「二十四の瞳」の世界、草深い貧しい時代と重なる。このころ、現在たくさんある様々な歌の殆どは唱歌・童謡、新民謡など以外まだなく、これからつくられていくのだった。


まさにそれは日本における初期の、黎明期・草創期の大衆音楽の歴史そのものである。NHKアーカイブでも、その一部が見れる。

13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校に入学。ここでクリスチャンでもある山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。

日本の本格的なレコードの時代は、「昭和」と共に始まったのでした。昭和元年(大正15年)は、1週間しかなかった。前年、大正14年3月にラジオ放送が始まった。

それまでは主に演歌歌手によって歌い広められてきた大衆歌がレコードによって聞くことが出来るようになり、多くの歌が作られるようになった。

明治時代からレコードは無いわけではなかったのだが、高価で普及しておらず、主に浪花節(浪曲)などに使われ、録音も外国で行っていた。それが昭和にはいって外国レコード産業が日本に上陸し勃興した。

昭和2年(1927)
5月  日本ポリドール蓄音器商会設立
      9月 日本ビクター蓄音器株式会社創立
昭和3年(1928)
日本コロンビア蓄音器株式会社設立

まだラジオもレコード普及も無かった大正時代に始まった童話・童謡運動は、その後童謡・新民謡運動となって今日の歌謡曲へと向かっていく。そして童謡や、新民謡運動に参加した西條八十、佐藤惣之助などの詩人や中山晋平など作曲家、佐藤千夜子などがレコード文化によって「歌謡曲」と言われる新しい大衆音楽分野が形作られる。

東京音楽学校でオペラを学んでいた千夜子が、レコード歌手に転身していくきっかけは、作曲家中山晋平との出会いがきっかけである。当時、中山らは大衆向けの新しい音楽運動に情熱を燃やしており、それに千夜子が共鳴、行動をともにするようになったのだ。その後、歌手としての本格的な活動を開始した千夜子は、まもなくラジオ放送にも出演するようになる。

大正10年頃から中山晋平、野口雨情らと「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に参加、ラジオやレコードのない時代に全国津々浦々で歌謡、童謡・新民謡を広めた。千夜子も東京音楽学校を中退して、この運動に参加した。
  ttp://blogs.yahoo.co.jp/gulliverbros/53130700.html

この運動から、1928年日本ビクターから歌謡レコード1号の「波浮の港」が発売され人気爆発、千夜子31歳。



154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:36
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング、古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、このあとイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。天童市に「佐藤千夜子の生家」が残されている。

ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年、イタリアにオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そしてまだ学生だった古賀政男を作曲家としてメジャーデビューさせ今日の大衆音楽の隆盛に繋げた、忘れてはならない陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、「古賀政男音楽博物館」や、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。〈当ブログ参照〉



155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:38
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング



156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:40
※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536



157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:45
[参考書]
結城亮一 著 『あゝ東京行進曲』河出書房新社 1977
結城亮一著『あゝ東京行進曲』〈河出文庫〉河出書房新社
菊池清麿著『永遠の歌姫 佐藤千夜子』(東北出版企画)
古賀政男著「我が心の歌」〈展望社〉
塩澤実信 著[昭和の流行歌物語―佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ] 〈展望社2011〉
別冊一億人の昭和史・昭和の流行歌手―佐藤千夜子からピンク・レディーまで (1978年) 毎日新聞社





158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:47
☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ


詩人・サトウハチロー(1903〜1973)は、古賀政男が自伝『わが心の歌』に三人の詩人として書いてある佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロ‐の一人l。古賀政男との最初の出会いとなる作品は、他の二人とはちがって、日本のミュージカル映画の魁ともいえる、一連の映画で、昭和10年5月公開の日活映画、渡辺邦男監督「うら街の交響樂」です。

1935年(昭和10年)5月公開、渡辺邦男監督による日本最初のミュージカル映画とも言えるもので、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)主催、同年の第1回「全日本映画コンクール」(毎日映画コンクールの前身)において、最高賞の「東日コンクール賞」を受賞した。
「うら街の交響樂」は、サトウハチローの原作を渡辺邦男が脚色したもの、サトウハチローは瀬川与志名で、監督・渡辺邦男、音楽監督 : 福田宗吉、編曲・音楽指揮 : 古賀政男、日活多摩川撮影所です。

この映画作品の主題歌「戀は荷物と同じよ」を瀬川与志名で作詞していて、川畑文子とディック・ミネが歌っている。ディック・ミネにとっても、古賀政男との出会いの曲となるもの。

渡辺邦男監督 「うら街の交響樂」(サトウハチロー原作)のほかにも、次の原作と主題歌が有る。

・大映映画1943.1千葉泰樹監督 「青空交響楽」(サトウハチロー原作)
・日活映画、伊賀山正徳監督1937、『ジャズ忠臣蔵』(原作サトウ・ハチロー、音楽古賀政
 男)、主演杉狂児、共演美ち奴、日活多摩川 ミュジカル映画
 主題歌 道行シャンソン(杉狂児、作詞)杉狂児、美ち奴。嬉しい仲(美ち奴,楠木繁夫歌)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)

大映映画「青空交響楽」は東京国立近代美術館京橋フィルムセンターで見られる。
ttp://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2012-4/kaisetsu_1.html

昭和18年の「青空交響楽」では、戦時中とは思えない、戦時色を感じさせないさわやかな作品です。
「青い牧場」は、童謡風の作品。
主題歌 「青い牧場」  (藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 「故郷の白百合」(霧島昇、ミス・コロムビア歌)

      「青い牧場」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
        ttp://www.youtube.com/watch?v=McgjoKvYnGY

      「故郷の白百合」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
    ttp://www.geocities.jp/abm168/OMOIDE/furusato_no_sirayuri.html

サトウハチローは、1930年代からは沢山の映画音楽をやっている。サトウハチローの初期の頃には次のものなどが有る。

 麗人の唄 1930.5 ( サトウハチロー作詞、 堀内敬三作曲)
 有憂華の歌 1931  (サトウハチロー作詞、堀内敬三作曲)
 マダムと女房1931.6 (スピードホイ) ( サトウハチロー作詞、 島田晴誉作曲)

「マダムと女房」は、1931年(昭和6年8月)公開の五所平之助監督の松竹映画。日本初の本格的なトーキー映画」(田中絹代主演)。



159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:49
これらに続いて
・二人は若い  (玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子歌)1935.8
・のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞 杉狂児歌)1935.8

1938年テイチクをはなれて、日本コロムビアと専属契約。


目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

『新妻鏡』は、小島政次郎原作の東宝映画で、失明した薄倖な美女がたどる数奇な運命と美しい愛の物語、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話。

主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、霧島昇、二葉あき子歌。)と、挿入歌「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)がある。「目ン無い千鳥」とは、目隠し鬼ごっこのこと。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

「目ン無い千鳥」は、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻によって歌われた。 いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。

・目ン無い千鳥 (「新妻鏡」より)
 サトウハチロー作詞 古賀政男作曲
 ttp://www.fukuchan.ac/music/j-senzen/mennaichidori.html


「勝利の日まで」・・♪丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる吾等がいのり いつかあふるる感謝の涙・・は、勝利の日まででというよりは、敗色濃くなって日本が敗戦への坂道をころげ落ちてゆくなかで、この歌は映画とは関係無いが、昭和19年に始まり、あちこち散らばった何百万の疎開学童によって歌われたといいます。

・勝利の日まで(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、仁木他喜雄編曲)
「勝利の日まで」は、太平洋戦争最末期の混乱状態のなかで作られた東宝映画の主題歌であり、 「古賀メロデー」の隠れた名曲だとおもいます。
  ttp://www.geocities.jp/abm168/GUNKA/syori.html

東宝映画『勝利の日まで』は、昭和20年1月25日大戦最末期公開の、サトウハチロー脚本の円谷英二が関与した東宝の特撮SF映画第1号で、前線の海軍将兵の慰問映画として作られたオールスター映画。「勝利の日まで」と書いてあるロケット式慰問爆弾で送られた榎本健一とか、広沢虎造、岸井明、横山エンタツと花菱アチャコなど慰問者が歌ったりするという、どうみても時極とは関係なさそうな荒唐無稽でコミカルなSF映画。

しかし、この映画の主題歌『勝利の日まで』(20年、合唱版という)は、映画の内容とは違って、哀調漂う行進曲調で、前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値するような名曲。サトウハチローの詩の良さとともに、「勝利の日まで」は、日本の歴史上もっとも困難な時局の中で生れた古賀メロディの隠れた名曲とされる。

サトウハチロ−の「勝利の日まで」は、ごく普通の日常の動作のみで、「我等はみんな 力の限り」、「勝利の日まで 勝利の日まで」と結び、しかも説得力が有る。

この歌はラジオでも放送され、あちこちに散らばった何百万人もの疎開学童によって歌われたという。

親と別れ、疎開学童たちは、ひもじさ、寂しさを紛らわすために、みんなで知ってる限り、あらん限りの歌を合唱したと言う。でもこの歌だけは歌っていてなぜか涙がでてきて、途中で歌えなくなってしまうという。

 勝利の日まで (サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 仁木他 喜雄編曲 )レコード
・19年 霧島昇版  霧島昇、合唱団歌  (昭和19年3月10日発売、日蓄)
 NHK委嘱、映画に先立ち発表されたもの。COL100843(赤版スダレ)
・20年 合唱版  日蓄歌手8人合唱  (昭和20年1 月25日公開映画)
 COL100912(赤版スダレ)
 ・歌:波平暁男、近江俊郎、志村道夫、高倉敏、菅沼ゆき子、奈良光枝、池真理子、渡辺一恵  (昭和20年1月25日公開。前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような緊張感を持 つ哀調を帯びた名曲。)霧島盤にあった三番は歌われておらず、代わりに1曲に値する間奏が入 っている、

なお、サトウ ハチローは、昭和46年から亡くなる昭和48年まで、日本音楽著作権協会会長を勤めた。





160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:50
※サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)

・日活映画 渡辺邦男監督1935.6「うら街の交響樂」(サトウハチロー原作)
 主題歌 戀は荷物と同じよ/川畑文子、ディック・ミネ歌(瀬川与志作詞 - 古賀政男作曲 )  50033 @
 挿入歌 あなたとならば (瀬川与志作詞 - 古賀政男作曲 )バートン・クレーン・川畑文子 (瀬川与志=サトウハチロー)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」(小国英雄原作)
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子歌)
・日活映画1936「純情一座」
 主題歌 純情一座の唄(玉川英二作詩、千早俶子〈松島詩子〉歌)
 挿入歌 風に吹かれて(玉川英二作詩、木村肇歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞、美ち奴歌)
・日活映画、伊賀山正徳監督1037、『ジャズ忠臣蔵』(原作サトウ・ハチロー、音楽古賀政
 男)、主演杉狂児、共演美ち奴、日活多摩川
 主題歌 「道行シャンソン」(杉狂児、作詞)杉狂児、美ち奴、「嬉しい仲」(美ち奴,楠木繁 夫歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
 (主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌))
 挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・誰も知らない(サトウ ハチロー作詞、古賀政男作曲、奥山貞吉編曲、ミス コロムビア(松 原操))1939.9
・松竹映画1940「新妻問答」(野田高梧原作)
 挿入歌 波を越えて(サトウハチロー作詞、伊藤久男歌)
・東宝映画1941「歌えば天国」(古川緑波原作)
 挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」(木村恵吾原作)
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原純子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロー原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・いさをを胸に1944(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲,楠木繁夫、松原操)(国民合唱・陸・海軍礼式歌)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原純子歌
・大映映画 「今宵妻となりぬ」(田中重雄監督)  1947.3
 主題歌 今宵妻となりぬ(サトウハチロー 作詞、 高峰三枝子歌) 1947
・希望に燃えて (1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング)(サトウハチロー作詞、伊藤 久男、霧島昇、近江俊郎・二葉あき子・奈良光枝)・




161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:52
☆サトウハチローと「童謡」


童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。

その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・
   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。

ハチローが書いた「うれしいひなまつり」に翌年に、作曲家河村光陽が曲を付けた。光陽の長女河村順子が歌ってレコードになりヒットした。 戦後になっても多くの優れた童謡歌手によって歌い継がれた。

寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
  ttp://www.0108.tv/history2.htm

中田喜直ら若手は、後にその批判した「童謡」の名をそっくりそのまま戴いて、「童謡協会」を作って、会長(初代、サトウハチロー、二代目中田喜直))に収まり童謡を推進する!というのだがいかにも動機不純なのは否めずすっきりしない。

昭和30年代後半から40年代にかけて、「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」、「ぞうさん」が盛んに歌われることもあった。



162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:52
しかし、今から考えればそれは、あくまでもちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。 現在保育園とか幼稚園位で歌われる位でほとんど耳にすることはなくなった。

しかも中田喜直、宇賀神光利など相次いで亡くなると、「ろばの会」は解散してしまう。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、所詮就学前のたあいもない幼児の歌が、大きくなって顧みられるとは思えないこと。

毎年、節分を迎える頃、どこからともなく流れてくるのは、・・・あかりをつけましょ ぼんぼりに おはなをあげましょ もものはな・・

時代を超え世代を超えて歌われるのは、あたらしいものではなかった。今でもYou Tubeには多くの童謡が載せられている。

なお、この歌は平成19年(2007年)に「日本の歌百選」に選出されている。

藤田圭雄 編.『サトウハチロー童謡集』(1977・弥生書房)
『サトウハチロー・ユーモア小説選』全20巻(1976〜79・岩崎書店)
サトウ・ハチロー随筆集―昨日も今日も明日も (草原書房 1947年











163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 23:06
歌は心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 23:54
☆佐藤惣之助没後70年

今年、平成24年の5月15日は、大正から昭和戦前に活躍した稀有な詩人であって、古賀政男と多くの名曲を世に送り出した佐藤惣之助が、昭和17年(1942)にこの世を去って70年になる。

古賀メロディーの「名曲」と言われる歌に「佐藤惣之助作詞」というのがなんと多いことか。佐藤惣之助の詞にもいろいろあるが、青春を謳いあげ、あるいは青春の苦悩をテーマとしたものが多い。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって特に「詩」を大切にした人として知られる。

古賀メロディーのヒット、特にテイチク黄金時代といわれる昭和10年代のそれには、「佐藤惣之助」の日本人の心の琴線に触れる名詞があったことを否定できないでしょう。

まだ日本が草深い、貧しかった昭和の初めから昭和10年代、日本人の古き良き哀歓を謳いあげたその歌は“簡潔にして適切”。

大正から昭和初期の詩壇にて活躍した詩人にして殊玉の作品を世に送り、「詩の家」を主宰して多くの後進の指導にあたったと言われている。

短い文字数や文節で多くのことを伝えるのに長けている。無駄が無く、詞だけでもその歌の境地を存分に堪能することができる、幸いYou−Tubeが発達し、そのオリジナル音源も聞くことができる。

佐藤惣之助は、萩原朔太郎はじめ、島崎藤村、野口雨情、佐藤紅禄、与謝野晶子など当代随一の詩人や、川端康成、尾崎士郎、小島政二郎、広津和郎、山本有三、吉屋信子、宇野千代などの作家、川端龍子など画家、俳人など様々な分野で活躍し交友のあった文士仲間は多い。

惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた、そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平の偉大なところ、それは自らがコンクールで賞をとったり栄誉に浴することではなく、ひたすら《誰にでも歌える歌》を作ることにあったこと。

実際、数多くの童謡や新民謡などを世に送り出し、現在でも歌われており、その中で「レコード歌謡」と言うものが勃興する。

その歴史の上に日本に「歌謡曲」と言う大衆音楽分野が確立されて、それが一般大衆の中に普及していく。「昭和」の半世紀にわたる「古賀メロディ」の歴史とは、まさにその歴史そのものと言われる。

その「古賀メロディ」の歴史の中で、実際に一般庶民の生活を題材とし、無駄のない簡潔で平易な馴染みやすい言葉によって、誰でも歌える身近な音楽とした佐藤惣之助の功績は大きいのではないでしょうか。




165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 23:55
・佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手

藤山一郎・・・・「鳩笛を吹く女の唄」「男の純情」「青春日記」「青い背広で」
        「東京娘」「青春の謝肉祭」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」
        「青春旅情」聖処女(きよおとめ)の唄」「大洋の寵児」「旅の?」

関種子・・・・・「青春図絵の唄」「お宮の唄」「秘めたる恋」「朝顔の唄」
        「笛は冴ゆれど」「愛は紅い」

淡谷のり子・・・「春の唄」「不如帰」「アリランの唄(朝鮮民謡)」

楠木繁夫・・・・「国境を越えて」「緑の地平線」「白い椿の唄」「慈悲心鳥の唄」
        「真実一路の唄」「男のまごころ」「人生劇場」

ディックミネ・・「愛の小窓」「ゆかりの唄」「「白衣の佳人の唄」「人生の並木路」
        「波止場がらす」「黄河の月」

奥田瑛子・・・・「緑の月」「浜辺の哀唱」

霧島 昇・・・・「新妻鏡」
二葉あき子・・・「新妻鏡」

伊藤久男・・・・「海の豪族」「馬」
(以上「古賀メロディ」)

東海林太郎・・・「赤城の子守唄」「お夏清十郎」「むらさき小唄」「すみだ川」
上原敏・・・・・「上海だより」
高峰三枝子・・・「湖畔の宿」



・「佐藤惣之助」生誕120周年記念展 〜日々の出来事〜 2010/12/02 〜05
  ttp://kanaminami.asablo.jp/blog/2010/12/02/5551383

2010年12月に 「アートガーデンかわさき」で開催された、「「佐藤惣之助」生誕120周年記念展」の模様・・
訃報を伝える当時の新聞報道や新聞に掲載された西條八十の悼文、古賀政男とのパリ旅行でのスナップなど展示。

佐藤惣之助に関する常設展は、川崎市中原区等々力の川崎市市民ミュージアムでやっています。
また、川崎には、佐藤惣之助の記念碑などが多くあります。

・詩人「佐藤惣之助」をご存知ですか?川崎36景
 第28景 佐藤惣之助の碑
 ttp://www.miyamae-portal.net/mp/kyosho/

・琉文21  佐藤惣之助
 ttp://ryubun21.net/?itemid=3298

・荒磯の興味 佐藤惣之助 (「日本の名随筆4 釣」作品社)
 ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000577/files/43743_17418.html




166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 00:12
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに36年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。









167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 00:21
☆古賀メロディの戦後

戦後の主な古賀メロディ(1947〜1977)
 1949までについては、別に「古賀メロディと映画主題歌」参照。

古賀メロディの「古賀メロディ」らしさは、西條八十との黄金コンビの映画主題歌「三百六十五夜」〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)などや、「湯の町エレジー」(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)など、名曲が謳歌した昭和20年代前半あたりまでだろう。

それ以後、日本が豊かになりアメリカナイズして、世の中がハッピーになっていくにつれ歌も変わっていく。昭和23年には、ミス・コロムビア(松原操)は、「三百六十五夜」を最後に歌手を引退。以後、昭和54年に亡くなるまで、家庭に入り歌うことはなかった。家庭の人として、夫・霧島昇をささえ、育児に専念し、その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。

藤山一郎は、昭和29年(1954)に、レコード会社専属(コロムビア)を引退、NHK嘱託となり23年間にわたる歌手生活に終止符を打った。そして、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した事で知られる。

一方、昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもしない歌謡界の『大御所』になっていた。指には大きなダイヤを付け、『日本の名士』だった。

「うたマネ読本」とかの審査員となって「よかったね!、よかったね!」と言う言葉で知られるはか、「黄金(きん)の椅子」などのなつかしの歌番組によくでることがあった。

昭和33年(1958)には、日本作曲家協会を設立、自ら会長となり作曲家の待遇改善に尽くしたり、「レコード大賞」などを作るなど、昭和30年代の役割は[大御所]としての役割に移っていく。

また「去りゆく影」(昭和8年(1933)1月)に始まる「西條八十」との黄金コンビは戦後も続き、西條八十最晩年の作品でもある「銀座音頭」「若いい銀座」(1968いずれ美空ひばり歌)まで、35年も続いたことになる。

・西條八十作詞、古賀政男作曲 初期の作品
去りゆく影  1933,1 西條八十作詞、古賀政男作曲 関種子 歌
恋ごころ   1933.1 西條八十作詞、古賀政男作曲 長谷川一郎歌
サーカスの唄 1933.5 西條八十作詞、古賀政男作曲 松平晃 歌

しかし、昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。

代々木上原の広大な屋敷の中に7か所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。




168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:12
◇戦後の主な古賀メロディ・・

圧倒的に西條八十が多い!。


麗人の歌     1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)


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