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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 21:47
昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。
そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。
・古賀政男(正男)初期のレコード 
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の作品

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌)。


70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:21
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子
  

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:54
『文のかおり(古賀正男作詩作曲編曲)』、『娘心も(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『青い小鳥(作詩者不詳・古賀正男編曲)』、『風の鈴蘭(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『片思い(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』ら5曲がビクターレコードで佐藤千夜子によって吹込まれたのは昭和4年(1929)12月23日。
続いて、昭和5年(1930)10月20日、『日本橋から(浜田広介作詩)』、『影を慕いて (古賀正男作詩作曲編曲) 』2曲が、佐藤千夜子の歌唱でビクターレコードで吹込まれた。
佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し たのだ。昭和9年に再び日本に。


72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 23:00
・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村 関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺   島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年6月 コロムビア 26325


73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:08
>>70

日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月

かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月



74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:22
影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月



75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 10:29
色々な歌手がカバーしている「影を慕いて」、絶望の中から生まれたとされる「影を慕いて」は、今から80年以上前の昭和3年(1928)、まだ学生時代の古賀政男(正男)によって、昭和3年(1928)の秋、秋雨そぼ降る下宿で作曲されたという。

そして「明治大学マンドリン倶楽部」のるギター合奏による《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月22日の第14回定期演奏会(赤坂溜池三會堂)だそうです。

これを最初にレコードにしたのは、ビクターのスタ−歌手で、日本における「レコード歌手第一号」とされる佐藤千夜子。昭和5年10月20日だそうです。(発売は昭和6年1月)

佐藤千夜子は、この8日後にイタリアに渡って、昭和9年に帰国するのですが、当然行われるべき宣伝・バックアップもできずこれが広く歌われるまでには至らなかったようですが、このレコードに依って、一苦学生・古賀正男は「コロムビア」の専属作曲家として迎えられることになるのです。
なお、古賀政男は後に自伝『我が心の唄』〈展望社)で、佐藤につい『[私に作曲家としての道を与えてくださった終生の恩人』とかいている。


これを歌ったのは、同じく古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を歌った増永丈夫(藤山一郎)でこれが「流行歌手」としての初デビューでした。
これ以後、古賀政男、藤山一郎のコンビはレコード会社が何度か変わるも、今に残る数々のの殊玉の名曲を世に送り出すことになる。

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手によって支えられたのです。(藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビューで、昭和6年。)

今の東京芸術大学音楽学部の前進『東京音楽学校』首席卒業である藤山一郎は、本名・増永丈夫(たけお)の名では、主にクラッシックを歌っていた。




76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/13(Wed) 18:51
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html


77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 13:37
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。



78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 15:43
戦前の歌手がステレオで再吹込みした録音盤があるけど、
やはり最初の録音がいちばんいい、声も若々しくきちんと歌っている。
再録音は声も衰え、編曲もヘンな風にアレンジしてあり違和感を覚える。


編曲…確かにオリジナルの前奏や間奏が変にアレンジされてて違和感ありますね。




79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:12
(参 考)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」           ウェッジ選書 2005
吉川潮 「流行歌 西條八十物語」           新潮社、ちくま文庫
佐高信 [悲歌 古賀政男の人生とメロディ]      毎日新聞社)
松井義弘「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」 石風社2007)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13 年/復刻 昭和53年10月)
寺山修司 [日本唱歌集]〈カッパブックス30−17〉  光文社1972

菊池清麿「評伝・古賀政男―青春よ永遠に」 アテネ書房 (2004/07)
菊池清麿「藤山一郎 歌唱の精神」 春秋社 (1996/06)
菊池清麿「永遠の歌姫 佐藤千夜子」 東北出版企画 (2008/12)
菊池清麿「中山晋平伝―近代日本流行歌の父」 郷土出版社(松本) (2007/06)
菊池清麿「さすらいのメロディー鳥取春陽伝―日本流行歌史の一断面・演歌とジャズを駆け抜けた
男」                  郁朋社 (1998/12)
菊池清麿「国境の町―東海林太郎とその時代」 北方新社 (2006/12)
菊池清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」論創社 (2008/04)
菊池清麿「私の青空 二村定一  ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代」論創社(2012/01)
菊池清麿「評伝古関裕而 国民音楽樹立の途」 彩流社 (2012/8/23


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:19
松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)
 主な曲・・

『キャンプ小唄』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『月の浜辺』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:河原喜久恵]
『丘を越えて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『窓に凭れて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:関種子]
『スキーの唄』(昭和6年12月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『山は招く』(昭和7年5月)[佐藤吉五郎作曲、歌:中野忠晴]
『恋の大島』(昭和8年7月)[佐々紅華作曲、歌:藤本二三吉]
『急げ幌馬車』(昭和9年1月)[江口夜詩作曲、歌:松平晃]
『ハイキングの唄』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫]
『夕べ仄かに』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:松島詩子]
『歓喜の丘』(昭和13年5月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『青春の丘』(昭和14年5月)[陸奥明作曲、歌:北廉太郎]
『雪の満州里』(昭和16年11月)[陸奥明作曲、歌:ディック・ミネ]

その他



81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:16
HKまたたび日記 〜☆きよ友何人できるかな☆ 『人生の並木路』。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/horse_shoejp/4914483.html


82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:58
氷川きよし節(木曜日・演歌名曲)人生の並木道

ttp://blogs.yahoo.co.jp/hkpure1218/30084096.html



83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:07
日本歌謡曲を支えた名作曲家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/sakkyokuka.html


84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:16
日本歌謡曲を支えた名作詞家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/index.html


85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 11:13
昭和初期〜20年代の歌謡曲の良さは異常。

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:27
改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:32
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。

88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:50
ステレオ再録音は編曲も悪いし旧録音には到底及ばない

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:11
NHK様、どうかド演歌歌手に懐メロを歌わさないでください。イメージがまるつぶれになります。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:44
やはり、懐メロはSPオリジナル原盤で聴かないとないと絶対ダメ!!


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/22(Fri) 16:40
昭和前半のの歌謡は、第一級の詩人・作詞家が心をこめて作った詩に、当代随一の第一級作曲家が心をこめて曲を付け、第一級の歌手が心をこめて録音したもので、
貴重な文化遺産と言えます。

大切に歌い継ぎ、大切に残して行かねばなりません。

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/25(Thu) 09:36
昔は作詞にしても、作曲にしても、演奏にしても、歌うにしても、それぞれそれに人生を掛けた、勉強したそれぞれプロのやることだった。
そしてレコード会社がプロデュースするものだった。

その後、素人作詞・作曲の歌を競う番組ができたりして、素人音楽がもてはやされていく。

「シンガーソングライター」と言って、何でも一人の、ド素人が作って演奏して歌うというとんでもない悪夢のようなことが
当たり前になっていく・・・

歌の文句さえ、『ボク・・』だとか、詩にもならないような他愛も無い、わけもわからないものがほとんど。
歌うというかわけもわからない文句を喚き立て、がなりたて、一人で悦にはいってるかのようなものがなんと多い事か!。


[飽食の時代]といわれて久しい、物があり余る時代、半世紀以上前、まだ日本が貧しかった時代・その時代の主流だったSPレコード、レコードやCDさえほとんどみうけられないが、幸い、You Tubeがあり、名歌手が歌うSPオリジナルが聞けるので、これをぜひ聞いてみよう。

その素晴らしい詞、すばらしいメロディ、すばらしい歌声・・これを聴いたことが無い今の若者は不幸です・。

日本のこの文化遺産を聴いてみれば、心が癒され人はいつでも原点に帰ることができるでしょう。



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:06
今、レコード店では最近の若者ののばかりで、昔のレコードはもちろん、CDは非常に少なくなっているようです。
一方、You tube ではSPオリジナルが聴けることがあり注目です。



94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:08
なお、SPを含むレコードの蒐集・保存・公開については、小田急線代々木上原駅前にある日本唯一の音楽博物館「古賀政男音楽博物館」や、九段下、靖国神社前の「昭和館」、「国会図書館」(国立国会図書館デジタル化資料(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源(1900〜1949))で聴ける他、各図書館にもCDがあります。



95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:40
古賀政男アメリカへ
昭和13年〜14年の訪米記録
古賀政男音楽博物館 2013年4月2日(火)〜2013年7月31日(水)

古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、外務省音楽親善使節としてアメリカを訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。今回の企画展では、この訪米についてその道のりをたどりながらご紹介します。
ttp://www.koga.or.jp/plan/plan_19.html

古賀政男音楽博物館
東京都渋谷区上原三丁目6−12
Tel:03-3460-9051 / Fax:03-3460-9052

?新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
?京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:43
新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

小田急線代々木上原駅ホームすぐ前です。



97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:48
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。



古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/22(Sat) 19:06
日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。



99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 22:33
毎日新聞社「写真 昭和30年史」には、昭和6年の扉に世相と「古賀メロデー」のことが有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』の楽譜の絵と共に出ている。満州事変(9月18日)が起こった昭和六年は、歴史に残る「東北大凶作」だった。なお、日本の歴史は「凶作」の歴史でもあり、コメが余るなどと言われるのは戦後も40年代後半のことだったのだ。)

「・・東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」がはんらんしていった。」・・と。

東北大凶作やそれに伴う娘や身売りなど農村の疲弊は、その後の太平洋戦争に至る遠因のひとつとも言われる。「古賀メロデー」の時代、昭和前半の時代は、まだ日本が豊かになる前の苦難の歴史でもあった。その中でも、「古賀メロデー」が彗星のように登場し、多くの大衆に迎え入れられ、やがて「古賀メロデー」として称えられるようになった「古賀メロデー」の歴史的重みがひしと伝わってくる。


100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 23:16
「飽食の時代」と言われ久しくなった今、物が在り余る時代、日本の大衆音楽も様変わりしてしまったのは残念なことです。作曲家の名前の後ろにただ「メロディ」を付けただけのたくさんのナントカメロディが氾濫し、そして、重い言葉であるべき『名曲』というものさえ大量生産され、軽い意味で頻繁に使われるようになったのには違和感を感ずるものも少なくないことでしょう。
最初に「メロディ」を付けて呼ばれるようになったのが「古賀メロディ」だが、まず最初にあげられるべきは何と言っても、昭和歌謡の歴史に燦然と輝く「古賀メロディ」です。以下「古賀メロディ」とその歴史についてです。

昭和の歴史の中で彗星のように出現した作曲家・古賀政男(1904〜1978)は、昭和レコード歌謡の黎明期、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えによって誕生したといえる。
佐藤千夜子は、中山晋平(1887〜1952)の弟子で、まだレコードの普及も、ラジオもない頃から、東京音楽学校を中退して、詩人野口雨情や作曲家中山晋平とともに「全国歌の旅」に参加、晋平の歌を世に広めた歌手である


この運動の中で作られた新民謡『波浮の港』は日本における最初の商業レコードとされる。レコード歌手第一号と言われる「佐藤千夜子」のことについては、昭和53年NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』でも取り上げられた。『いちばん星』では、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫(政男)などまさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する
レコード音楽は昭和と共に始まった。日本ビクター、日本ポリドール、日本コロムビアなど、日本に本格的なレコード会社ができたのは、昭和2年(1927)から3年にかけてである。そして古賀政男が『影を慕いて』を作曲したのがまだ明治大学学生だった昭和3年(1928)秋とされる。

作曲家・古賀政男が誕生したのは、3年後の昭和6年3月だった。レコード作曲家とその歌としては中山晋平の「波浮の港」などの他、「君恋し」の佐々紅華(1907〜1961)、「道頓堀行進曲」、「女給の唄」の塩尻精八、「沓掛小唄」の奥山貞吉(1887〜1956)などまさにレコード歌謡の黎明期といえるだろう。



101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:49
日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家




102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:53
昭和14年(1939)、著作権に悩まされていた日本は、「仲介業務法」施行に伴い内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十など詩人や作曲家など作家が会長となっている。知る人ぞ知る、錚々たる昭和時代の歴代会長。

参考までに、現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。「古賀政男音楽博物館」とともに、「古賀政男音楽文化振興財団」が所有管理する。

多くの歌手たちが通った広大な旧古賀政男邸の面影は今は無い。島倉千代子が玄関までの路の長かったことといった門からの石畳の坂道が音楽博物館の2F通路に再現されている。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/12(Mon) 11:12
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。






104 名前:¢ 投稿日:2013/08/18(Sun) 23:13
(°д° )
(|y |)

105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/30(Fri) 21:17
SP歌謡・回顧と展望

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:08
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:40
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。

古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。


108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:42
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:48
苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。


110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:51
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。


111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 09:22
作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなはずだ。

コロムビアの中でずっとヒット曲に恵まれず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。だが30年代に日本の歌が大きく変わるまでの一時期だった。

1936年(昭和11年)に「蘇州夜曲」の服部良一、昭和13年には、映画「愛染かつら」 三部作などの万城目正がコロムビアレコード専属となった。

また、昭和9年にコロムビアを退職し、テイチク専務として、「テイチク黄金時代」を築き、昭和13年に退職した古賀政男が、テイチクを退社。

昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカを訪問。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流などをこなして、日本に凱旋した古賀政男が、昭和14年にコロムビア専属に復帰している。
そして昭和8年以来の西條八十とのコンビを復活させ、第四期黄金時代を築く。



112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:46
☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文

「酒は涙か溜息か」(1931)、「丘を越えて」(1931)、『影を慕いて』(1931/1932)、・・満州事変が始まった昭和6年(1931)デビューから、翌昭和7年にかけての、このコロムビアに置ける彗星のようなビッグな三曲の登場によって、歴史的な「古賀メロディ」というものが確立してゆくこととなる。

このことは、毎日新聞社[写真 昭和30年史](毎日新聞社1956)の記述にも窺える。


古賀政男が自伝『わが心の歌』に、三人の詩人としてあげている佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉などの名詞との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。


なお「酒は涙か溜息か」(1931)の高橋掬太郎(1901−1970)は北海道根室市出身。1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら文芸同人誌に参加。詩や小説、脚本などを手がけ、昭和6年、酒は涙か溜息か」で作詩家デビュー。これは自身が日本コロムビア文芸部宛に直接投稿したもので、当時新進作曲家として注目されはじめていた古賀政男の作曲、藤山一郎の歌唱でメガヒットした。

作曲家古賀政男が作曲の醍醐味を味わうのは、詩人・佐藤惣之助と出会ってからだと自伝にある。


昭和6,7年頃の、最初期の古賀メロディを支えた詩人に、「乙女心」(1931.6)の鹿山 鶯村をはじめ、「丘を越えて」(1931)の島田芳文(1898〜1973)、「チャッカリしてるわね」(1931.6)、「嘆きの夜曲」(1932)の西岡水朗(にしおかすいろう)がいる。

なかでも島田芳文の「丘を越えて」(1931)は決定的に大きなインパクトを持つ。



島田芳文(1898〜1973)

島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「丘を越えて」を初め 多くの大衆歌謡を手がけた

昭和6年の「キャンプ小唄」でレコードデビューしてコロムビアの専属となる。古賀政男とのコンビでは数々のヒットを生み、後にポリドール、テイチク等に籍を移して活躍した。


なお、島田芳文には、「霰やこんこ」、 「旅の鳥」、「仲よし小よし」(島田芳文作詞 佐々木英作曲)、「てんてん手毬」(島田芳文作詞 河村光陽作曲 )「よいよい横丁」(島田芳文作詞 佐々木英作曲)、「大寒小寒」(島田芳文作詞.平岡均之作曲)など童謡多数や、「昼の月」(島田芳文作詞 大中寅二作曲)、「みづすまし」(島田芳文作詞 大中寅二作曲)などの作品もある。



前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、音のキャンバスいっぱいを使った、「三分間の芸術」の極致を行く「古賀メロディ」・・『丘を越えて』は、その典型的で顕著な初期の名曲です。


島田芳文は北軽井沢をこよなく愛し、戦後は浅間高原の近くの山荘に住み自然を友として悠々自適の生活に生きた、そこと豊前市の生家に「丘を越えて」の碑がある。

松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)


主な曲(古賀メロディ)・・

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1931.7
月の浜辺   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  河原喜久恵 1931.7
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1931.12
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  関種子 1931.12
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1932.1
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  関種子 1932.1
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)   楠木繁夫 1937.3
夕べ仄かに  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) ディックミネ 1935.1
ハイキングの唄(島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 楠木繁夫   1935.5
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)   藤山一郎 1938.3




113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:46
(参考) 島田芳文詩集

大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

島田芳文「郵便船 民謡集」詩人会1923
島田芳文 処女詩集「農土思慕」抒情詩社1927
島田芳文「萱野の雨 民謡集」秀芳閣 1928
島田芳文「現代新民謡選集」 第1輯 1929
島田芳文「日蔭花」秀芳閣1929
島田芳文「紅殻とんぼ(童謡集)」秀芳閣1930
島田芳文「雀の唱歌(童謡集)」 秀芳閣1932
島田芳文「どろどろ坂(童謡集)」秀芳閣1934
島田芳文「曠野に歌ふ(歌謡集)」秀芳閣1935
島田芳文 [どんどろ坂 第四童謡集] (日本レコード協会 1935)
島田芳文「桃栗三年」1937
島田芳文「東方の鷲 : 国民歌謡集」 (国民歌謡作家協会1939)
島田芳文「心のふるさと : 島田芳文詩集」富士出版社
島田芳文「心のともしび : 島田芳文詩集」富士出版社
島田芳文「心のやすらぎ : 島田芳文詩集」富士出版社





114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:49
☆西岡水朗と初期古賀メロディ

西岡水朗(にしおかすいろう)は、長崎の民謡詩人から出発した詩人。昭和5年に「雲仙音頭」と「長崎小唄」が認められ、作曲家の杉山長谷夫と声楽家の四家文子に招かれて上京、多くの作品を生んだ。

「ニャンニャン踊り」 (西岡水朗/佐々木英 )、「狸の茶釜」 (西岡水朗/佐々木英 )、「関取人形」(西岡水朗/佐々木英 )などの童謡作品もある。

古賀メロディ、古賀政男コロムビア専属第一作、昭和6年6月、「乙女心」〈鹿山鶯村作詞、関種子歌)と裏表の「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌 )の作詞者。

『嘆きの夜曲』は、昭和7年(1932)の関種子が歌った大ヒット古賀作品で、『影を慕いて』などと並ぶ古賀政男作品の名曲。初期古賀作品の中でも、とてもセンチメンタルな雰囲気が伝わる作品。



チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 天野喜久代 1931.8
博多小夜曲 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)  関種子 1931.8
風も吹きよで   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 丸山和歌子 1932.4
嘆きの夜曲    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子 1932.7
二見情話    〈西岡水朗作詞、照屋朝保補作詞、古賀政男作曲、佐々永治編曲〉1932.7
歓喜(よろこび)の歌(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 中野忠晴  1933.1
男ごころ     (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫   1934.8


「チャッカリしてるわね」は、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声映画)の主題歌で、天野喜久代(1897〜1945?)は. 大正2年に帝劇歌劇部二期生として入部。二村定一と初期のジャズソングの多くを歌って人気歌手となったが、昭和20年の東京大空襲で亡くなったといわれる。


古賀政男初期の隠れた名曲『二見情話』〈1932コロムビア〉は、『嘆きの夜曲』と一体で『嘆きの夜曲』として、JASRACに著作権信託されている。(作品コード 059-0343-2  嘆きの夜曲)

沖縄民謡『二見情話』は、まだ誰も沖縄、二見など注目しなかった時代の作品で、哀調を帯びた、「古賀メロディ」と沖縄民謡が融合したような、東北民謡のような、沖縄民謡であって沖縄民謡らしからぬところがたいへんいい歌です。


この歌は、沖縄民謡の大家の間でも「古賀メロディ」と酷似したメロディライン〈DNA〉を持つとされる。

特に、「嘆きの夜曲」〈西岡水朗作詞、昭和7年、関種子)とのメロディラインの酷似が指摘され、古賀メロディのアレンジ(パクリ)と言われています。


民謡と言うのはそういうものかもしれないが、収容所で突然出てくるものではない。デタラメだった旧著作権法下でのまさしく「嘆きの夜曲」の西岡水朗作品そのものがある。


西岡水朗はもともと長崎民謡からスタートした民謡詩人で、かつ沖縄民謡の大家の補作詞や編曲を受けている本格的なもの。

(沖縄ウチナ‐の有力者で合った照屋朝敏氏が沖縄戦の二見に有った収容所で作詞・作曲とされていて、平成二年に沖縄民謡「二見情話」の「石碑」が建てられ、そう書いてあるようですが、突然古賀メロディのDNAを持つ曲がができるとは考えられない。)


(参  考)
決定盤 古賀政男全集(上) 国民的名曲のすべて 〜丘を越えて〜 (日本コロムビア COCP-37091-3)
DISC1 06 二見情話 / 知名定男、大城美佐子(1975ステレオ録音版)
ttp://store.shopping.yahoo.co.jp/toemifc/88092.html

なお、鹿山 鶯村(かやま おうそん、1897-1961)は、いくつかの民謡詩集を持ち、昭和5年11月、佐藤千夜子の「太平小唄」を作詞している。古賀政男のコロムビア専属第一作であるとともに、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた関種子のコロムビア専属第一作でもある。

太平小唄 (鹿山鴬村作詞、 小松平五郎作曲) 佐藤千夜子1930.11 ビクター
乙女心  (鹿山鴬村作詞、 古賀 政男作曲) 関種子   1931.6  コロムビア
♪朧月夜のその頃に・・





115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:51
(参考)民謡詩集

◇明治38年 野口雨情『枯草』水戸:高木知新堂。
◇大正8年  竹久夢二『たそやあんど 民謡』東京:玄文社。
◇大正10年 野口雨情『別後』東京:尚文堂。
◇大正11年 北原白秋『日本の笛 民謡集』東京:アルス。
◇大正12年 島田芳文『郵便船 民謡集』詩人会。
◇大正13年 時雨音羽『うり家札 民謡集』米本書店。
◇大正15年 佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和3年  鹿山鶯村『野良の娘 民謡』東京:誠志堂書店。
◇昭和3年  野口雨情『野口雨情民謡叢書 第一篇』西巣鴨町:民謡詩人社。
◇昭和3年  島田芳文『萱野の雨 民謡集』秀芳閣。
◇昭和4年  佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。
◇昭和4年  西岡水朗 『片しぶき 民謡集』秀英閣。
◇昭和4年  北原白秋『作曲白秋民謡集』東京:改造社。
◇昭和4年  島田芳文『現代新民謡選集』 第1巻秀芳閣出版部 1929
◇昭和6年 鹿山鶯村『嵐の夜』東京國民書院1931
◇昭和10年 西條八十『西條八十詩謡全集6(民謡篇)』東京:千代田書院。
◇昭和10年 島田芳文 [どんどろ坂 第四童謡集] 日本レコード協会 1935

(その他)
西條八十「民謡の旅」(朝日新聞社1930)
鹿山鶯村 [明け行く満蒙の透視]( 岡村書店 1933)
岐阜戦前詩誌 「夕陽ただる」 3 新年号 1928/1/1 (岐阜女子大学所蔵)
井崎進(大垣市石切町) 秀芳閣印刷部(東京市本郷区追分町) 民謡・詩・研究会(大垣市石切町)
執筆者: 島田芳文 塚本篤夫 吉堂芳明 西岡水朗 坪井憧三 井崎すすむ 野田欣三 北原紫之介






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116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:54
SP歌謡は、今危機にあると思います。昭和も遠くなりにけりとなって、「SP歌謡」を知る人も少なくなっていると思います。歌もハッピーなものばかり。テレビの歌番組で「昭和」とは、昭和の末、50年代以降のようですし、歌える歌手も居なくなった。

今こそ、このSP歌謡文化遺産を正しく残して行くことが大切です。


さて今、この状況を象徴するかのように、時々[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。地震直後から放影されていたものですが、でもこの歌には何か大切なものが抜けているのではないだろうか。


花が無くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、ハッピ−な軽い文句ばかり、何の歌なのかもよくわからない。

遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」で、解説にはこうあります。・・

嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    (*)
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・


80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予期したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。(検索は*で)

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感にさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。


憂い,哀しみを歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。



117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 12:00
古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた歌手

関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)   1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア  東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞)    1936
奥田英子          別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く   (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ   (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*     紅い睡蓮  (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌   〈西岡水朗作詞〉  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場    (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校  b月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで  (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。






118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:16
李香蘭と古賀メロディ
李香蘭?山口淑子?は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)






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