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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:49

戦前の流行歌〈1928−1943)

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/25(Thu) 07:59
「昭和」という激動の時代、レコード歌謡は生まれ激動の時代を生きてきた。

レコード歌謡の黎明期から、戦前・戦後までたくさんの「作曲家」が生まれた。そして多くの曲が世に出た。>>524

でも、この激動の時代を通して一貫してヒット曲を生み出し得たのは、古賀政男の「古賀メロディー」しかない。

昭和の初めから「古賀メロディー」と呼ばれ愛された理由もここにある。



「古賀メロディー」とは昭和の歴史とともにあった「時代性」の重みと「普遍性」を持つ。

526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/28(Sun) 23:30
>>256-258 索 引 (主なもの)

>>269-270 昭和SP歌謡 主要歌手(戦前・戦中)


527 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/29(Mon) 17:04
>>434 ☆古賀政男に関する文献☆


528 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/08/20(Thu) 09:47
古賀政男総合スレ  2Ch BBS(懐メロ邦楽)

 h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

529 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/06(Tue) 08:34

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=35

530 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/30(Fri) 21:43

・新東宝映画 1949「影を慕いて」(古賀政男作曲生活20周年記念制作映画)
 主題歌 希望に燃えて(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)


★「希望に燃えて」(伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・高倉敏・二葉あき子・奈良光枝)ー新東宝が古賀政男作曲生活二十年を記念して上原謙・山根寿子主演、野村浩
 将監督で制作した「影を慕ひて」のラストシーンを飾る主題歌となったが、もともとこれは映画のためではなく、NHKの視聴者リクエストによる「希望音楽会」のテーマーソングとして制作されたもの。


★ 希望音楽会(1945年、NHK)
 主題歌:「希望に燃えて」
  音源:「思い出のラジオ・テレビ主題歌集」(GES-31299)より
  敗戦後初の歌謡曲番組。

  1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の大詔」を放送、日本は事実上敗戦し、無条件降伏した。
  そんな時世の中、国民に希望を与えるため、10月3日に本番組は開始された。
  リスナーからのリクエスト曲を出演歌手が生で歌うといった内容のもので、資料によれば戦後初の
  大ヒット曲「リンゴの唄」も、この番組で初めて電波に乗ったそうである。

  番組最後に出演者全員によって歌われるのが「希望に燃えて」であり、サトウハチロー作詞、古賀政男
  作曲によるこの曲は、後半のメジャーに転調する展開と一気に希望を歌う歌詞と一体になって、当時の
  国民に大きな希望を与えたであろう名曲である。
  (但しレコード化されたのは昭和24年〈1949〉のこと。)

東日本大震災の被害に遭われた方々にぜひ聞かせてあげたい曲です。




531 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/31(Sat) 13:05
>>530

希望音楽会(昭和20年10月?)

NHKラジオ放送 戦後最初の歌番組
「リンゴの唄」もこの番組から世に出た。

主題歌 希望に燃えて(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
  
   ♪ あなたも私も いつも心は春よ・・

532 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 18:42
【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
.

Himatsubushi Channel

2015/01/10 に公開 You Tube


美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活­躍された作曲家の古賀政男(こがまさお)さんや、作詞家の佐藤惣之助(さとうそうのす­け)さん、歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られ­ています。古賀政男さんの曲は歌い手が困っていたという裏話が面白かったです。

※曲は省略していますm(__)m

美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より


533 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 21:33
【美輪明宏】作曲家・古賀政男について
Thepleiadian2012

2014/06/01 に公開 You Tube
(上の表題で検索のこと)


美輪明宏さんが昭和の国民的な作曲家・古賀政男さんについて語っています。
(TBSラジオ『岡村仁美 プレシャスサンデー』 薔薇色の日曜日2014,6.1より。)



534 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/19(Tue) 10:56
古賀政男総合スレ  2Ch BBS(懐メロ邦楽)


h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

535 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/19(Tue) 22:47
作曲家・古賀政男 You Tube

・・これで検索(コピーして)してください。




536 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/23(Sat) 11:50
古賀政男との思い出〜りんどう峠(島倉千代子)
.

2015/09/25 に公開 You Tube

(この表題で検索のこと)



537 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/25(Mon) 11:28
>>536

昭和54年 古賀政男追悼3時間ドラマ >>179

 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』 (全編・後編)

      (1979年4月14日、NHK総合TV)

でのインタビューです。

538 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/27(Wed) 22:10

作曲家古賀政男〈1904−1978〉がその73歳の生涯を閉じ昭和53年〈1978〉7月25日の夜、

訃報を伝えるNHKは、すべてのラジオ放送を停止し、一斉に古賀メロデフィーを

長し続けた。



539 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/27(Wed) 22:27
なお、同年8月4日、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。

540 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:23
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


541 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:38
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50



542 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 23:54


543 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/01(Tue) 15:01
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50



544 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 20:51
歌謡曲の歴史

日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲を指していた。藤山一郎、淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。歌謡曲の基礎とされる古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲であった。


〜NHKラジオ放送『国民歌謡』〜


 「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である『国民歌謡』は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった。


 読売新聞昭和8年7月7日記事には「『歌謡曲』というから、シューベルトやブラームスのリード(リート、歌曲)を放送するのかと早合点すると、そうではない。渋谷の姐さんが歌う流行歌であり、AK(現在のNHK東京)の当事者に理由を聞くと、何故か放送ではなるべく流行歌なる語を使いたくないそうだ」と書かれており、当時、「歌謡曲」がクラシック音楽の歌曲を意味していたこと、そしてNHK側も「流行歌」という言葉を使用しなかった事情の一端が伺える。

 

 その後、日本が戦争に邁進し軍国主義が台頭するようになると、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれた。これらの戦中時代の歴史については一部では現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。




545 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 21:42
>>544

殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。

歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

参考までに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。





546 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/07(Mon) 22:36
歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。

歌はテクニックでなく、本当の作曲家は「詩人」でなければならない。

「文のかをり」「影を慕いて」・・【詩はお姉さん、曲は弟】と言って古賀は「詩」を大切にした人。

古賀自身「生来の詩人」であった。

佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー・・、詩を大切にし多くの詩人とまみえた半世紀にわたる古賀の作曲生活。

「古賀メロディー」の魅力、それは曲はもちろん、その優れた第一級の詩人。その今に生きる優れた「青春」を、「青春の苦悩」を謳った第一級の詩、その簡潔な詩の中に「優しさと憂い」・・、

時代を超えた真実が端端に秘められている。他の作曲家には真似のできないことであろう。


547 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/08(Tue) 22:32

「西條八十作詞、古賀政男作曲」「佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲」「サトウハチロー作詞、古賀政男作曲」・・といえば、それだけで歌謡の歴史の中でも最高・至高のネームバリュウを与える。

「サーカスの唄」「誰か故郷を想はざる」「青い背広で」「人生の並木路」「目ン無い千鳥」・・歴史上にも、第一級の詩人と深く結びついた作曲家古賀政男の数限りない名曲、

その半世紀にわたる昭和の歌謡史、昭和の世相史、社会史に燦然と輝くその重みは偉大です。



548 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/10(Thu) 20:09

コガミュージアムコンサート ご案内
東京大衆歌謡楽団
永遠の古賀メロディーコンサート

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ
戦後生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート

昭和時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら古賀メロディーの世界をお楽しみください。


2016年5月28日(土)14:00−16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)ケヤキホール
指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051

小田急線代々木上原駅
南口 井之頭通り 駅前交番前



☆5月18日 国際博物館の日 は 無料開館となります。



549 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/12(Sat) 20:53

生誕110年・・・古賀政男

(これで検索)You Tube

2014/11/07 に公開


550 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/23(Wed) 21:47
古賀政男は長引く日中戦争によって悪化する日米関係を改善するため、外務省の依頼で昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけて、音楽親善使節としてアメリカへ向けて旅立つ。
ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。


NBC放送から「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」など5曲が世界に向けて15分間にわたって放送される。

差所に到着したロサンゼルスでの歓迎会で披露した演奏は、招待された文化人やマスコミから大きな喝采を受けました。


「古賀メロディーはコスモポリタンである。つぎのような世界のリズムを取り入れている。ルンバ、タンゴ、ワルツ、速度のあるマーチ、スクウェアーダンスなど。だが、その一方ではまちがいなく東洋歌曲の軽快さも持ち合わせている。言い換えれば、彼は、伝統的な日本人の心情を近代音楽で粉飾している」
(1938年12月6日・ロサンゼルス・タイムズ紙)



551 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/05/28(Sat) 11:37
飽食の時代と言われ久しくなったこのかたテレビで日本の詩情的な歌はほとんど耳にしなくなり、殺伐とした時代になり身内の殺傷が眼に余るのは物欲の成れの果てなり、食べる事が喜びの頃は皆助け合って生きていた。情けもやさしさもあった。昭和は遠くなりにけり。

552 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/17(Wed) 21:17
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。



もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えた!。


553 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/27(Sat) 18:39
歌というものは聞く人の心に安らぎを与え、心に響くもの、感動を与えるものでなければならない。
クラッシクの香りだとかは歌に求められるものとは違うもの。

554 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 12:25
新年があけました、今年、平成29年〈2017〉は「昭和」で数えると92年目。

「昭和」は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで62年と14日となる。

「昭和」は、日本の歴史、いや世界の歴史の上で最も長く続いた元号であり、元年と64年は共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。
なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

元号の【昭和】は『書経』堯典の「百姓昭明、万邦協和」によるもので、すべての国民の安寧のもとに国際社会の平和の実現を目指すものだった。
実際は、「昭和」の時代は、30年代半ば、高度成長時代くらいまで、今では考えられないほど貧しい時代、食料難の時代で、しかも戦争に明け暮れたのでした。

最近テレビで「昭和歌謡」とか言って若い下手な歌手しか出てこないが、その歌は昭和最末期、昭和50年代、飽食の時代。
明治と大正を合わせた60年より長い。60年をはるかに越える「昭和」。

その昭和の「名」だけいいとこどりした、退屈なモノトーンの歌、下手を競い合うような歌ばかり!。
「レコード歌謡」が始まった「昭和」、昭和改元して実2年後の「昭和3年〈1928〉」にそれは始まった。

レコード歌手第一号はビクターの「佐藤千夜子」。第一号は「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)である。

佐藤千夜子は、昭和4年〈1929〉から昭和5年〈1930〉にかけて、まだ一学生にすぎなかった古賀正男の作曲した「影を慕いて」など7曲をビクタ―に吹き込み、
直後イタリアに渡った。

翌、昭和6年〈1931〉3月彗星のごとく登場したのが「古賀政男」だった。

世は「大学はでたけれど」、世界恐慌の真っただ中だった。今から86年前のことだった。

まだ日本が草深く、農村主体のまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かな時代だったことでしょう。

最近の歌はギスギスして何を言ってるのかわからない。このころの歌には心を打たれるものがある。

そっと寄り添う優しい歌、やさしいメロディ、優しい詩。

第一級の詩人、第一級の作曲家、第一級の歌手が心を込めて作り上げ歌い上げた名曲である。


555 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 13:06
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀愁漂う旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、数十億といわれる群を抜いた著作権料。外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。


556 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 13:14
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発」。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、86年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。


『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
h ttp://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY




557 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/03(Tue) 22:50
NHKアーカイブス・スペシャル

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
 1979年(昭和54年)4月14日放送
 90分×2本(二部構成)

前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。
後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。

【出演】
渥美 清
柳生 博
水谷良重
ハナ 肇
山内 賢
森 光子
 ・・・ほか


【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒

【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。

*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。

古賀政男音楽博物館
 〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12

*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。

古賀政男記念館
 福岡県大川市大字三丸兼木844

558 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/13(Mon) 00:15
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

559 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 22:20
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50

560 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/07(Fri) 01:00
>>222,>>356-357
>>362-366,>>369

郷土の先達G古賀政男―大川の人、歌謡界の巨人(福岡県人会会報「東京と福岡」2005年05月号)
h ttp://net.a.la9.jp/fu/fu-kaiho/fu-2005/2005-05/p-15.html
佐高 信「酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ 」(角川文庫)
伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971


561 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 23:12
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。


562 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:30
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。


563 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/13(Thu) 11:51
第79回 常設展示 流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで― 平成9年3月25日〜4月25日 国立国会図書館

歌は世につれ、世は歌につれ…。 流行歌には、それぞれの時代の息吹が背景に見え、私たちは流行歌の中に、それぞれの 時代の世相やそこに生きる人々のこころをかいま見ることができるのです。 今回の展示は、日本が敗戦を経て復興し、空前の経済成長をとげるまでの激動の時代、
昭和のはじめから復興の象徴である東京オリンピックまで、昭和の激動の時代に流行った 歌に的を絞りました。 この展示を通して、過ぎ去った時代の息吹、そして誰でも知っている、誰もが思わず口 ずさんでしまう歌と共に生きた人々のこころを感じて頂けたら幸いです。

展示資料一覧 < >内は請求記号

4.上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

5.別冊 1億人の昭和史 昭和流行歌史 ’85 新増補版 永井康雄ほか編 <KD841-311> 東京
毎日新聞社 昭和59年〈1984〉



564 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/14(Fri) 20:35
「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開 -日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察-
The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi

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著者 森田 哲至
Noriyuki MORITA
三井住友海上火災保険株式会社
Mitsui Sumitomo Insurance Co.,Ltd.

抄録
第一部では、「昭和歌謡」が誕生するまでの系譜を論じた。明治・大正時代から「西洋音楽の普及」「演歌の誕生」「口語自由詩の発展」の三つの文化的流れがあり、この流れに詩人野口雨情と作曲家中山晋平が深く関わったことにより、口語詩と曲が融合した「童謡」「新民謡」が数多く創作され、「昭和歌謡」第一号の『波浮の港』が誕生した。「昭和歌謡」は偶然の産物ではなく、明治維新以降の日本近代文学の成立過程とほぼ同じ文化的営みがあり、早稲田文学の文人たちの関わりを考えると、「昭和歌謡」は日本近代文学の側面とも言える。第二部では、昭和の時代と共に六十年近く続いた「昭和歌謡」の黎明期の経緯と発展の理由を論じた。『波浮の港』の歌手佐藤千夜子は、古賀政男が率いる明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演し、彼をレコード会社に紹介した。古賀は幼い頃から貧しく、兄たちを頼って十代後半まで朝鮮で慎ましく過ごし、朝鮮民謡や朝鮮にいた宮城道雄による筝曲ブームの影響を受けて独学で音楽を学んだ。彼が作曲した『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』等は、日本橋の商家育ちで東京音楽学校出身の歌手藤山一郎と組んだことによって超メガヒットを放った。これらの作品は、二人に境遇の違いによる精神的緊張関係があったからこそ、俗っぽさを排して気品ある楽曲に仕上がり、都会と地方の断層を超越した真に民衆の心を捉える名曲となって「昭和歌謡」発展の文化的基礎を築いた。
The first part describes how Showa kayoh was born in Japan. During the Meiji and Taisho eras before the Showa era, western music spread among people, the so-called enka (Japanese ballad) sprang up and free verses in colloquial style developed. Reflecting these trends, poet Ujoh NOGUCHI and composer Shinpei NAKAYAMA wrote a lot of new songs using colloquial verses. Their work Habu no Minato is generally regarded as the first of the Showa kayoh. Showa kayoh thus evolved along with the development of modern Japanese literature from the Meiji Restoration in 1868.The second part covers the subsequent early days of these songs and describes how they gained popularity. Chiyako SATOH, the singer of Habu no Minato , once appeared in a regular concert of the Meiji University Mandolin Club and introduced its leader MasaoKOGA to a recording company. KOGA was from an underprivileged family and spent his young days in Korea under the wing of his brothers. He acquired knowledge of music through self-education and was influenced by Korean music in the middle of Japanese music boom there. The musician later met singer Ichiroh FUJIYAMA, who was raised in a well-off merchant family in Nihonbashi and graduated from a famous music school. Suchcontrasting backgrounds caused tensions between the two of them but contributed to the birth of Sake wa Namida ka Tameiki ka and Kage wo Shitaite. These very popular songs built the foundation for Showa kayoh, which were to entertain people for many yearsafterwards.

収録刊行物
日本橋学研究   [巻号一覧]
日本橋学研究 3(1), 5-24, 2010-03-31  [この号の目次]
日本橋学館大学

565 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(Wed) 23:57
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2



【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50


566 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:38
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

567 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:45
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50


☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50





568 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/29(Sat) 23:11

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27


569 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/03(Wed) 10:41
>>560-564

>4.上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-。

「古賀メロディ」とは中山晋平の「晋平節」に代わる「昭和歌謡史」に永く記憶されるべき「記念碑」でもある。

「古賀メロディ」とは歌謡界の歴史的視点からは、ビッグエポックであって、その後に出てくる作曲家などの時代と単に一緒にせべきものでなく、それまでの主流であった中山晋平時代に始まる初期の、
「晋平節」の時代に変革をもたらし、その後の人の心を癒す歌謡曲の源流となった記念すべき「文化財」としてこれからも永く生き続けるものであろう。


570 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/08(Mon) 11:36

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年(1928) ー平成5年(1993))

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



571 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/22(Thu) 09:35
「東京行進曲」を作ったときは、八十はまだ契約もしていないし、社員でもなかったからとはいえ、この差別はあまりに大きすぎるのではないか。まもなくビクターと契約して正式社員となったものの、その印税は中山晋平が五銭だったのに対し、西條八十は二銭五厘と晋平の半額だった。散々ごねたけれど会社は首を縦に振らなかった。しだいに西條の人気があがり、ヒットを次々と飛ばすようになっても、次の契約更改で三銭にするのがやっとだった。
その次の契約更改のとき西條は粘りに粘って交渉を重ねたが、印税の値上げは認められず、その代わりとして会社側が出してきた条件が妙なものだった。ビクター以外の会社からも、作詞依頼を受けてよいというものである。その結果コロムビアにいた古賀政男と組んで出来たのが「サーカスの唄」であった。そのコロムビアから印税六銭にするからという好条件で、入社の誘いを受けた。これを親友であった中山晋平に相談し、ビクターとも話し合ったが、さらにコロムビアから十万円のプレミアムを付けるという条件が追加されて、結局コロムビアへ移ることになった。戦時下に作った「旅の夜風」は百三十万枚を売り上げているので、八万円あまりの印税収入になっている。
この辺ではとりあえず八十も納得できただろう。ところが敗戦となって、収入の道が一時期絶たれ、妻が洋服を売り歩くということになったとき、巷では八十の唄の大洪水だった。なのに八十のところには一銭も入ってこない。唄の使用料を支払うように働きかけることを、音楽著作権協会はしていない、これでは意味がないと脱退を決意して、その話をしに行った。すると逆に説得されて、協会の会長を引き受けてくれないかということになって、ついにそれを引き受けてしまった。


572 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/22(Thu) 09:38
西條八十は流行歌があまりに有名なので、それが本命と思われがちだが、それは全くの誤解である。彼の作品の中では、流行歌はその一部に過ぎない。図書館でその全集を手に取って、見ているうちに寒気がしてきた。その作のあまりの多さに、ただ驚くばかりだった。ずっしりと重い分厚い七百ページもある本が、なんと十七巻もあるのだ。ほかに別冊が一巻ある。そのなかで詩集が四巻、童謡が二巻、訳詩が一巻、歌謡・民謡・社歌・校歌が三巻、童話、少女小説、ランボウ研究が各一巻、小説・随筆が二巻その他となっている。つまり歌謡・民謡・社歌・校歌は全体の一七分の三に過ぎないのである。

573 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/11(Tue) 19:46
☆古賀政男とその主な人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環
淡谷のり子、楠木繁夫、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、ディックミネ・・
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香  蘭)、徳川無声、森繁久弥、美空ひばり、村田英雄・・


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