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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




540 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:23
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


541 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:38
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50



542 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 23:54


543 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/01(Tue) 15:01
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50



544 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 20:51
歌謡曲の歴史

日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲を指していた。藤山一郎、淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。歌謡曲の基礎とされる古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲であった。


〜NHKラジオ放送『国民歌謡』〜


 「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である『国民歌謡』は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった。


 読売新聞昭和8年7月7日記事には「『歌謡曲』というから、シューベルトやブラームスのリード(リート、歌曲)を放送するのかと早合点すると、そうではない。渋谷の姐さんが歌う流行歌であり、AK(現在のNHK東京)の当事者に理由を聞くと、何故か放送ではなるべく流行歌なる語を使いたくないそうだ」と書かれており、当時、「歌謡曲」がクラシック音楽の歌曲を意味していたこと、そしてNHK側も「流行歌」という言葉を使用しなかった事情の一端が伺える。

 

 その後、日本が戦争に邁進し軍国主義が台頭するようになると、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれた。これらの戦中時代の歴史については一部では現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。




545 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 21:42
>>544

殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。

歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

参考までに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。





546 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/07(Mon) 22:36
歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。

歌はテクニックでなく、本当の作曲家は「詩人」でなければならない。

「文のかをり」「影を慕いて」・・【詩はお姉さん、曲は弟】と言って古賀は「詩」を大切にした人。

古賀自身「生来の詩人」であった。

佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー・・、詩を大切にし多くの詩人とまみえた半世紀にわたる古賀の作曲生活。

「古賀メロディー」の魅力、それは曲はもちろん、その優れた第一級の詩人。その今に生きる優れた「青春」を、「青春の苦悩」を謳った第一級の詩、その簡潔な詩の中に「優しさと憂い」・・、

時代を超えた真実が端端に秘められている。他の作曲家には真似のできないことであろう。


547 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/08(Tue) 22:32

「西條八十作詞、古賀政男作曲」「佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲」「サトウハチロー作詞、古賀政男作曲」・・といえば、それだけで歌謡の歴史の中でも最高・至高のネームバリュウを与える。

「サーカスの唄」「誰か故郷を想はざる」「青い背広で」「人生の並木路」「目ン無い千鳥」・・歴史上にも、第一級の詩人と深く結びついた作曲家古賀政男の数限りない名曲、

その半世紀にわたる昭和の歌謡史、昭和の世相史、社会史に燦然と輝くその重みは偉大です。



548 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/10(Thu) 20:09

コガミュージアムコンサート ご案内
東京大衆歌謡楽団
永遠の古賀メロディーコンサート

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ
戦後生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート

昭和時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら古賀メロディーの世界をお楽しみください。


2016年5月28日(土)14:00−16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)ケヤキホール
指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051

小田急線代々木上原駅
南口 井之頭通り 駅前交番前



☆5月18日 国際博物館の日 は 無料開館となります。



549 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/12(Sat) 20:53

生誕110年・・・古賀政男

(これで検索)You Tube

2014/11/07 に公開


550 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/23(Wed) 21:47
古賀政男は長引く日中戦争によって悪化する日米関係を改善するため、外務省の依頼で昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけて、音楽親善使節としてアメリカへ向けて旅立つ。
ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。


NBC放送から「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」など5曲が世界に向けて15分間にわたって放送される。

差所に到着したロサンゼルスでの歓迎会で披露した演奏は、招待された文化人やマスコミから大きな喝采を受けました。


「古賀メロディーはコスモポリタンである。つぎのような世界のリズムを取り入れている。ルンバ、タンゴ、ワルツ、速度のあるマーチ、スクウェアーダンスなど。だが、その一方ではまちがいなく東洋歌曲の軽快さも持ち合わせている。言い換えれば、彼は、伝統的な日本人の心情を近代音楽で粉飾している」
(1938年12月6日・ロサンゼルス・タイムズ紙)



551 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/05/28(Sat) 11:37
飽食の時代と言われ久しくなったこのかたテレビで日本の詩情的な歌はほとんど耳にしなくなり、殺伐とした時代になり身内の殺傷が眼に余るのは物欲の成れの果てなり、食べる事が喜びの頃は皆助け合って生きていた。情けもやさしさもあった。昭和は遠くなりにけり。

552 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/17(Wed) 21:17
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。



もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えた!。


553 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/27(Sat) 18:39
歌というものは聞く人の心に安らぎを与え、心に響くもの、感動を与えるものでなければならない。
クラッシクの香りだとかは歌に求められるものとは違うもの。

554 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 12:25
新年があけました、今年、平成29年〈2017〉は「昭和」で数えると92年目。

「昭和」は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで62年と14日となる。

「昭和」は、日本の歴史、いや世界の歴史の上で最も長く続いた元号であり、元年と64年は共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。
なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

元号の【昭和】は『書経』堯典の「百姓昭明、万邦協和」によるもので、すべての国民の安寧のもとに国際社会の平和の実現を目指すものだった。
実際は、「昭和」の時代は、30年代半ば、高度成長時代くらいまで、今では考えられないほど貧しい時代、食料難の時代で、しかも戦争に明け暮れたのでした。

最近テレビで「昭和歌謡」とか言って若い下手な歌手しか出てこないが、その歌は昭和最末期、昭和50年代、飽食の時代。
明治と大正を合わせた60年より長い。60年をはるかに越える「昭和」。

その昭和の「名」だけいいとこどりした、退屈なモノトーンの歌、下手を競い合うような歌ばかり!。
「レコード歌謡」が始まった「昭和」、昭和改元して実2年後の「昭和3年〈1928〉」にそれは始まった。

レコード歌手第一号はビクターの「佐藤千夜子」。第一号は「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)である。

佐藤千夜子は、昭和4年〈1929〉から昭和5年〈1930〉にかけて、まだ一学生にすぎなかった古賀正男の作曲した「影を慕いて」など7曲をビクタ―に吹き込み、
直後イタリアに渡った。

翌、昭和6年〈1931〉3月彗星のごとく登場したのが「古賀政男」だった。

世は「大学はでたけれど」、世界恐慌の真っただ中だった。今から86年前のことだった。

まだ日本が草深く、農村主体のまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かな時代だったことでしょう。

最近の歌はギスギスして何を言ってるのかわからない。このころの歌には心を打たれるものがある。

そっと寄り添う優しい歌、やさしいメロディ、優しい詩。

第一級の詩人、第一級の作曲家、第一級の歌手が心を込めて作り上げ歌い上げた名曲である。


555 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 13:06
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀愁漂う旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、数十億といわれる群を抜いた著作権料。外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。


556 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 13:14
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発」。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、86年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。


『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
h ttp://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY




557 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/03(Tue) 22:50
NHKアーカイブス・スペシャル

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
 1979年(昭和54年)4月14日放送
 90分×2本(二部構成)

前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。
後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。

【出演】
渥美 清
柳生 博
水谷良重
ハナ 肇
山内 賢
森 光子
 ・・・ほか


【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒

【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。

*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。

古賀政男音楽博物館
 〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12

*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。

古賀政男記念館
 福岡県大川市大字三丸兼木844

558 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/13(Mon) 00:15
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

559 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 22:20
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50

560 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/07(Fri) 01:00
>>222,>>356-357
>>362-366,>>369

郷土の先達G古賀政男―大川の人、歌謡界の巨人(福岡県人会会報「東京と福岡」2005年05月号)
h ttp://net.a.la9.jp/fu/fu-kaiho/fu-2005/2005-05/p-15.html
佐高 信「酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ 」(角川文庫)
伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971


561 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 23:12
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。


562 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:30
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。


563 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/13(Thu) 11:51
第79回 常設展示 流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで― 平成9年3月25日〜4月25日 国立国会図書館

歌は世につれ、世は歌につれ…。 流行歌には、それぞれの時代の息吹が背景に見え、私たちは流行歌の中に、それぞれの 時代の世相やそこに生きる人々のこころをかいま見ることができるのです。 今回の展示は、日本が敗戦を経て復興し、空前の経済成長をとげるまでの激動の時代、
昭和のはじめから復興の象徴である東京オリンピックまで、昭和の激動の時代に流行った 歌に的を絞りました。 この展示を通して、過ぎ去った時代の息吹、そして誰でも知っている、誰もが思わず口 ずさんでしまう歌と共に生きた人々のこころを感じて頂けたら幸いです。

展示資料一覧 < >内は請求記号

4.上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

5.別冊 1億人の昭和史 昭和流行歌史 ’85 新増補版 永井康雄ほか編 <KD841-311> 東京
毎日新聞社 昭和59年〈1984〉



564 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/14(Fri) 20:35
「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開 -日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察-
The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi

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著者 森田 哲至
Noriyuki MORITA
三井住友海上火災保険株式会社
Mitsui Sumitomo Insurance Co.,Ltd.

抄録
第一部では、「昭和歌謡」が誕生するまでの系譜を論じた。明治・大正時代から「西洋音楽の普及」「演歌の誕生」「口語自由詩の発展」の三つの文化的流れがあり、この流れに詩人野口雨情と作曲家中山晋平が深く関わったことにより、口語詩と曲が融合した「童謡」「新民謡」が数多く創作され、「昭和歌謡」第一号の『波浮の港』が誕生した。「昭和歌謡」は偶然の産物ではなく、明治維新以降の日本近代文学の成立過程とほぼ同じ文化的営みがあり、早稲田文学の文人たちの関わりを考えると、「昭和歌謡」は日本近代文学の側面とも言える。第二部では、昭和の時代と共に六十年近く続いた「昭和歌謡」の黎明期の経緯と発展の理由を論じた。『波浮の港』の歌手佐藤千夜子は、古賀政男が率いる明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演し、彼をレコード会社に紹介した。古賀は幼い頃から貧しく、兄たちを頼って十代後半まで朝鮮で慎ましく過ごし、朝鮮民謡や朝鮮にいた宮城道雄による筝曲ブームの影響を受けて独学で音楽を学んだ。彼が作曲した『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』等は、日本橋の商家育ちで東京音楽学校出身の歌手藤山一郎と組んだことによって超メガヒットを放った。これらの作品は、二人に境遇の違いによる精神的緊張関係があったからこそ、俗っぽさを排して気品ある楽曲に仕上がり、都会と地方の断層を超越した真に民衆の心を捉える名曲となって「昭和歌謡」発展の文化的基礎を築いた。
The first part describes how Showa kayoh was born in Japan. During the Meiji and Taisho eras before the Showa era, western music spread among people, the so-called enka (Japanese ballad) sprang up and free verses in colloquial style developed. Reflecting these trends, poet Ujoh NOGUCHI and composer Shinpei NAKAYAMA wrote a lot of new songs using colloquial verses. Their work Habu no Minato is generally regarded as the first of the Showa kayoh. Showa kayoh thus evolved along with the development of modern Japanese literature from the Meiji Restoration in 1868.The second part covers the subsequent early days of these songs and describes how they gained popularity. Chiyako SATOH, the singer of Habu no Minato , once appeared in a regular concert of the Meiji University Mandolin Club and introduced its leader MasaoKOGA to a recording company. KOGA was from an underprivileged family and spent his young days in Korea under the wing of his brothers. He acquired knowledge of music through self-education and was influenced by Korean music in the middle of Japanese music boom there. The musician later met singer Ichiroh FUJIYAMA, who was raised in a well-off merchant family in Nihonbashi and graduated from a famous music school. Suchcontrasting backgrounds caused tensions between the two of them but contributed to the birth of Sake wa Namida ka Tameiki ka and Kage wo Shitaite. These very popular songs built the foundation for Showa kayoh, which were to entertain people for many yearsafterwards.

収録刊行物
日本橋学研究   [巻号一覧]
日本橋学研究 3(1), 5-24, 2010-03-31  [この号の目次]
日本橋学館大学

565 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(Wed) 23:57
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2



【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50


566 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:38
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

567 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:45
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50


☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50





568 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/29(Sat) 23:11

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27


569 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/03(Wed) 10:41
>>560-564

>4.上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-。

「古賀メロディ」とは中山晋平の「晋平節」に代わる「昭和歌謡史」に永く記憶されるべき「記念碑」でもある。

「古賀メロディ」とは歌謡界の歴史的視点からは、ビッグエポックであって、その後に出てくる作曲家などの時代と単に一緒にせべきものでなく、それまでの主流であった中山晋平時代に始まる初期の、
「晋平節」の時代に変革をもたらし、その後の人の心を癒す歌謡曲の源流となった記念すべき「文化財」としてこれからも永く生き続けるものであろう。


570 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/08(Mon) 11:36

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年(1928) ー平成5年(1993))

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



571 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/22(Thu) 09:35
「東京行進曲」を作ったときは、八十はまだ契約もしていないし、社員でもなかったからとはいえ、この差別はあまりに大きすぎるのではないか。まもなくビクターと契約して正式社員となったものの、その印税は中山晋平が五銭だったのに対し、西條八十は二銭五厘と晋平の半額だった。散々ごねたけれど会社は首を縦に振らなかった。しだいに西條の人気があがり、ヒットを次々と飛ばすようになっても、次の契約更改で三銭にするのがやっとだった。
その次の契約更改のとき西條は粘りに粘って交渉を重ねたが、印税の値上げは認められず、その代わりとして会社側が出してきた条件が妙なものだった。ビクター以外の会社からも、作詞依頼を受けてよいというものである。その結果コロムビアにいた古賀政男と組んで出来たのが「サーカスの唄」であった。そのコロムビアから印税六銭にするからという好条件で、入社の誘いを受けた。これを親友であった中山晋平に相談し、ビクターとも話し合ったが、さらにコロムビアから十万円のプレミアムを付けるという条件が追加されて、結局コロムビアへ移ることになった。戦時下に作った「旅の夜風」は百三十万枚を売り上げているので、八万円あまりの印税収入になっている。
この辺ではとりあえず八十も納得できただろう。ところが敗戦となって、収入の道が一時期絶たれ、妻が洋服を売り歩くということになったとき、巷では八十の唄の大洪水だった。なのに八十のところには一銭も入ってこない。唄の使用料を支払うように働きかけることを、音楽著作権協会はしていない、これでは意味がないと脱退を決意して、その話をしに行った。すると逆に説得されて、協会の会長を引き受けてくれないかということになって、ついにそれを引き受けてしまった。


572 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/22(Thu) 09:38
西條八十は流行歌があまりに有名なので、それが本命と思われがちだが、それは全くの誤解である。彼の作品の中では、流行歌はその一部に過ぎない。図書館でその全集を手に取って、見ているうちに寒気がしてきた。その作のあまりの多さに、ただ驚くばかりだった。ずっしりと重い分厚い七百ページもある本が、なんと十七巻もあるのだ。ほかに別冊が一巻ある。そのなかで詩集が四巻、童謡が二巻、訳詩が一巻、歌謡・民謡・社歌・校歌が三巻、童話、少女小説、ランボウ研究が各一巻、小説・随筆が二巻その他となっている。つまり歌謡・民謡・社歌・校歌は全体の一七分の三に過ぎないのである。

573 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/11(Tue) 19:46
☆古賀政男とその主な人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環
淡谷のり子、楠木繁夫、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、ディックミネ・・
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香  蘭)、徳川無声、森繁久弥、美空ひばり、村田英雄・・


574 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/21(Mon) 13:41
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

昭和の流行歌(レコード歌謡)



 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



昭和歌謡大全目次
戦前戦中編 (目録)

h ttp://music.geocities.jp/hanatori1119/kayoudaizenn/kayoudaizenn.html


575 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 13:11
日本の豪邸
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


576 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/09(Sat) 11:34
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2

577 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/10(Sun) 21:39
訂正

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

578 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/13(Wed) 12:53
昭和歌謡が好きな人集まれ!

579 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 13:13

昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS

580 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:25
>>579

昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

581 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/10(Fri) 11:08

 <<11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日>>




史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。


582 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 23:01
 以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。
詩人・西條八十(1892〜1970)は、「やさしさ」ということで定評があり、昭和45年亡くなる直前まで息長く活動をしていた。童謡その他を含め、広く日本の大衆歌を考える上で忘れてはならない人の一人。もし彼が出なかったら、日本の大衆歌ももっとさびしいものだったことでしょう。

   一口に詩人と呼んでいるが、彼ほど多彩な顔を持つ詩人はいない。『かなりや』などの童謡詩人。『砂金』『巴里小曲集』など、フランス象徴詩の影響が濃い純粋詩人。そして『東京行進曲』に始まる流行歌の作詞家。歌謡を含めて、作った歌も他を圧して巨大で、中山晋平に続き、JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟会長・・などを務めてもいる。又、童謡協会の童謡作詞賞にも今でも彼の名を冠した賞がある。

   さらに、八十は、詩人・歌謡曲作詞家という顔と、もうひとつ忘れてならないのが、仏文学者・芸術院会員・早稲田大学教授としての顔。大正13年、ソルボンヌ大学留学帰国後、早大仏文科教授になった。アルチュール・ランボーの研究でも有名。「西條八十全集」(国書刊行会刊1991)という本は、16巻まである大作である。

   明治25年に東京牛込(新宿)に生まれた八十の生家は石鹸製造業を営んで隆盛であったが、中学3年生の時に父が亡くなり、一家は没落してしまう。八十は早稲田中学校卒業後、同大学英文科を主席で卒業した。鈴木三重吉の主唱する童謡運動に参加し、大正7年27歳で「赤い鳥」に「カナリヤ」を発表して一躍有名になった。翌大正8年処女詩集「砂金」を発表して、たちまち象徴派詩人としての名声を高めたとされる。こうして、丁度「金の船」(大正8年)で野口雨情の才能が一気に花を開くように、「唄をわすれたカナリヤ・・八十」は、一気に花開く。(ついでに、日本でも30数万人が死んだという「スペイン風邪」のウイルスは、鳥のウイルス由来だったことが米ハーバード大などの研究で分かったそうですが、丁度この頃大流行したという。)



583 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 23:05
   西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四谷文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

   「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいずこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

   当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

   古賀政男音楽博物館地下1階「音楽情報室」のコンピュータで「西條八十」で検索すると、600曲くらい出てきて、一部の音源の準備の無いものを除き選んで試聴できる。

   なお、映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。また、キンダーブックのフレーベル館のHPによると、過去75年の歴史の中では、北原白秋、西條八十など一流の画家や作家、童謡詩人らを相談役に迎えてきました。・・とある。

<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
・八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      

584 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/30(Thu) 20:46
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 上 1868~1937』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 中 1938~1959』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 下 1960~1994』社会思想社1966年。


585 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 18:26
明治大正時代、このころは文部省唱歌や民謡などを除き大衆が歌える歌がなかった。
大正に入って童謡が生まれ、対大正末期から昭和にかけて新民謡運動がおこる。
こんな中で、誰でも歌える歌作りを目指した作曲家がいた、それが中山晋平。東京音楽学校を卒業すると、
音楽教師をしながら劇中歌や童謡運動に加わった。大正半ばごろから詩人野口雨情、歌手の佐藤千夜子とともに
全国に飛びして民謡の採譜や新民謡の普及活動をしていた。
この運動の中で生まれた新民謡『波浮の港』(昭和3年、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、日本における最初の
日本で最初のレコード歌謡と言われ、これを歌った佐藤千夜子が日本で最初のレコード歌手とされる。

昭和3年、無名の学生に過ぎなかった古賀政男(正男)作曲の「影を慕いて」をビクタ―で吹き込んだのが佐藤。
昭和6年1月にビクター、昭和7年3月に藤山一郎でコロムビア。

古賀政男の「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」の一連の歌は「古賀メロディ」と言われた。

古賀政男はいまや「○〇節」の時代ではなく「メロディ」の時代だと語っていた。





これを新聞が大きく書いた。
  
  【晋平節から古賀メロディの時代へ】 と

古賀の自伝によると、これを見た古賀は驚いて大先輩「中山晋平先生」のところに
謝りに行った。

ところが中山晋平先生は、いいですよ、あなたは私にないいいところを持っています、頑張ってくださいと逆に励まされた。

「古賀メロディ」が大きく認知された歴史的瞬間である。

同時に昭和8年の「東京音頭」を最後に晋平の「晋平節」は影を潜め、

以後、新聞が書いたようにこれまでの主流とされた「晋平<節>」に代わって「古賀<メロディ>」が主流になっていった。

晋平のビクタ―黄金時代は「古賀<メロディ>」のコロムビアにとってかわられた。

なお、何とかメロディとか,リズム系を含めて作曲家すべてに、「古賀メロディ」のようにいきなり「メロディ」をつけてしまうのは、
昭和40年代の懐メロブーム時代からで、
「古賀メロディ」は世に出た昭和の初めから、それを称える唯一許された歴史的価値を持つものとして、
たくさんの作曲家の中で戦後に至るまで特別なハイランクのものだった。

すでに押しも押されもせぬ「日本の名士」でもあった大御所・古賀政男は、昭和33年に「日本作曲家協会」を設立、自ら会長となる。
レコード大賞など知られている。

また戦後、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウーハチローに次ぎ、JASRAC「日本音楽著作権協会会長」。
その著作権における偉大な功績と実績を讃えるように、JASRAC設立にも関わったJASRACは古賀財団のビルに本拠を構える威容。
またその死後、野球に王貞治選手に次ぎ二番目の国民栄誉賞。

586 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 12:33
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




587 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/26(Tue) 11:07
コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前



588 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/29(Fri) 14:30
にゃむ

589 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/02(Tue) 22:35
日本作曲家協会歴代会長

初代 古賀政男 1958 - 1978
2  服部良一 1978 - 1993
3  吉田正  1993 - 1997
4  船村徹  1997 - 2005
5 .遠藤実  2005 - 2008
6  服部克久 2008 - 2013
7  叶弦大  2013 - 2017
8  弦哲也  2017 -

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