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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/12/01(Sat) 20:25)]
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。



[687:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/12(Tue) 09:20)]
このあたりのことがスルーされてはならない!。


[688:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/12(Tue) 09:28)]
■「昭和の流行歌掲示板」・・

h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231

→→ ここの「日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史」の主な項目(索引)がまとめられています。


[689:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/15(Fri) 15:42)]
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。

古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。

「晋平“節”」の時代から、これからの主流としての「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。


[690:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/16(Sat) 22:56)]
明治41年、東京音楽学校を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。洋楽にしても、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。大切なことは長世はこうして、日本的なるものを外国にではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄と「新日本音楽」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会に大きな影響を及ぼしたといわれます。
1920(大正9)年には,宮城と作曲家本居長世の作品発表会が,「新日本音楽大演奏会」と名付けられ,ここで発表された「十五夜お月さん」 が大きな反響を呼び、人気童謡作家として知られるようになる。

 ついでに、こうした童謡運動と並ぶ新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)があげられる。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。

 新民謡運動に集まった野口雨情、中山晋平、本居長世、藤井清水(きよみ)、佐藤惣之助、北原白秋、西条八十、・・歌手の佐藤千夜子、藤本二三吉、・・・はその後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」( 野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。

 (昭和3年[波浮の港]を歌った佐藤千夜子・・中山晋平の弟子で、晋平の歌を世に広めた歌手・・は、レコード歌手第一号と言われ、また、同年、まだ明治大学学生だった古賀政男の[影を慕いて]を始めて歌い、今までとはまったく系列の異なる作曲家古賀政男を世に出すきっかけとなった。



作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。;

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」


[691:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/16(Sat) 22:59)]
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。;

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」


[692:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/17(Sun) 21:11)]
日本・アラブ通信



【第4夜】

古賀政男邸にアラブ諸国の大使ら50名が集まる
●アラブ人は日本の演歌が大好き

 1983年の夏、バグダ−ドの超一流のラシ−ド・ホテルのホ−ルに、『奥飛弾慕情』 など日本の演歌が流されているのにはびっくりした。
 早速、フロントで尋ね、担当のムスッタファ氏(以前、日本でテレビの操作技術の 研修のため来日した)に会ったところ、『日本の流行歌のように静かでメロデイアス な音楽こそ、このラシ−ド・ホテルのような超一流の雰囲気にぴったりだ』という返 事であった。

 もう20年も昔のことだが、かって日本に来ていたエジプトの外交官は、江利ちえみ の『さのさ』の大フアンであった。
 クルディ現サウジアラビア駐日大使は10年程前、参事官として日本に滞在していた 頃は、畠山みどりの大ファンであったそうな。

 アラブの大使の中には、美空ひばりの好きな方によくお会いする。帰国の時にひば りのビデオとカセットを持ち帰られた大使もいたほどである。  これほどに、アラブ・中東の人々は、日本の歌謡、演歌が好きである。

●古賀政男邸にアラブ諸国の大使ら50名が集まる

 日本とアラブの音楽交流の中で、私が関与したなかで最も思い出深い出来事の一つ は、代々木上原の古賀政男先生のお宅で開かれたアラブ諸国大使夫妻、文化担当官50 名程を招待した大交歓パ−ティがある。

 このパ−ティ開催の契機となったのは、1964年の暮、私が在日エジプト大使館文化 部に勤務していたときのことであった。

 古賀先生がヨ−ロッパ旅行の帰路、憧がれていたアラブの国、カイロを訪れるの で、アラブの代表的作曲家に紹介状を大使館から書いて貰えないかという申出があっ た。古賀先生は、1965年1月、カイロでエジプト作曲界の第一人者、モハメド・アブ デル・ワッハ−ブ氏に会い、おおいに交歓の実をあげてこられたのであった。

 その後、1974年5月17日、代々木の古賀御殿で、9組のアラブ諸国の大使夫妻と文 化参事官夫妻ら約40名と、日本側からも森繁久弥、服部良一、吉田正、松山善三、高 峰秀子、ペギ−葉山、猪俣公章氏ら約50名が出席した。

 当日はあいにくの土砂降りだったが、古賀先生の家を全部開放して、庭のテントで 明治大学マンドリン・クラブの演奏や、銀座のマキシムから料理人を呼んで、模擬店 まででる豪華さであった。  私人の家に、これだけの大使が参加したことはかつてなかったであろう。古賀先生 の上気されていた顔が未だに目に浮かぶ(写真あり)。

 しかし、その後、アラブとの音楽交流を夢見ておられた古賀先生が病に倒れ 、3年ほどして逝くなられたのは痛恨の至りであった。古賀先生は、明大マンドリン・ク ラブのメンバ−を連れて、カイロに演奏旅行されるのを楽しみにしていらっしゃった のだが…。

 古賀先生がその時、『自分は、若い頃から、韓国メロデーに次いで、アラブのメロ デーが大好きだった』とよくおっしゃり、『アラブの音楽が日本人に愛される日が きっときますよ』と断言されたのは忘れ難い。古賀氏は、亡くなる前にアラブ風組曲 『夕日の砂漠』を作曲発表されている。


[693:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/17(Sun) 21:30)]
●日本の歌手はアラブふうの歌唱法をもっている

 日本の歌謡の源流に仏教の声明(しょうみょう)があるといわれている。経文を 「ナームーアーミ ダーブーツゥー」と唱えるように、「マーボーロシーノー カー ゲヲ シターイテー」と歌うのは、“ゆり”、つまり“小節”をいかした歌謡の歌い 方に引き継がれているという。それによって、歌詞にこもる深い意味を情感を込めて 伝える事ができるのだ。  アラブの音楽が、余韻嫋嫋たるコーランの朗誦の伝統を受け継いでいるのと似てい る。

 アラブの代表的歌手、オム・カルス−ムは、幼少のころから農村でコ−ランの朗誦 と宗教歌を学び、歌ってきた。彼女の声には、永く余韻を引くコ−ランにこもるイス ラム音楽の響きがあり、その珠玉をちりばめたような美しいアラビア語によってエジ プトだけでなく、全アラブの聴衆の心を陶酔させてきたという。

 また、彼女の歌がアラブの民衆に愛されている理由の一つに、作曲家のリヤド・ズ ンバティの美しい曲に恵まれたせいもあるが、アハマッド・ラーミーらの著明な詩人 が書いた歌詞のせいでもあるという。

 日本にやってくるアラブの音楽家も、「日本ではテレビも見ましたが、日本の歌手 が、東洋的なアラブふうの歌唱法をもっているのに驚きました」と語っている。  アラブとの音楽の交流を、真剣に考えておれた古賀政男先生が亡くなられたことも 残念であるが、世界の民族音楽の紹介に精力的な活動をされた故小泉文夫教授も、ア ラブと日本の艶歌の比較を提唱されていたのをよく思い出す。

 筆者は、一昨年のバビロン音楽祭で、日本の歌謡「波浮の港」、「三日月娘」、 「影を慕いて」、「月の砂漠」、「荒城の月」など5曲程歌ったが、小生の歌をウー ドで伴奏して下さったバグダード音楽大学のサーミー教授は、「影を慕いて」は最高 傑作だと絶賛された。筆者はその時、古賀先生がアラブと日本のメロデーの共通性を 強調されていた意味に開眼した思いがした。

 私は、バグダ−ドに滞在していた頃、真夜中に宿舎のベッドの中でラジオを聴いた ものだ。バグダ−ドはじめ、カイロ、アンマン、クウェ−ト、リアドなどの放送局か らアラブの伝統音楽、民族音楽、流行歌が絶えまなく流れてくる。それらのメロディ −は、スペイン音楽の旋律、ロシアの大地から涌き起ってくる民謡をおもわせるもの など、驚ろくほどバラエティに富んでいた。

 なかには、日本の民謡にそっくりなものもあった。かつて、駐日ス−ダン大使は2 代続けて、「夜、ラジオやテレビで日本の民謡を聞いていると、メロディ−がスーダ ンの歌にあまりに似ているために、急にス−ダンに帰ったような気持ちに襲われた」 と語っていたことを思い出す。スーダンなどの音楽は、日本の伝統的音階の「ヨナ抜 き」5音階であることと深く関連するようだ。

…………………………………………………………………………………
本稿は、マイクロソフトの『MSNジャーナル』 h ttp://journal.jp.msn.com/default.asp に、
1999年4月27日付で掲載された内容とほぼ同文のもの h ttp://journal.jp.msn.com/worldreport.asp?id=990427abe&vf=1
をご参照下さい。
…………………………………………………………………………………


[694:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/18(Mon) 22:55)]
>>691
>そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」

>>692-693

>日本の歌謡の源流に仏教の声明(しょうみょう)があるといわれている。経文を 「ナームーアーミ ダーブーツゥー」と唱えるように、「マーボーロシーノー カー ゲヲ シターイテー」と歌うのは、“ゆり”、つまり“小節”をいかした歌謡の歌い 方に引き継がれているという。それによって、歌詞にこもる深い意味を情感を込めて 伝える事ができるのだ。  アラブの音楽が、余韻嫋嫋たるコーランの朗誦の伝統を受け継いでいるのと似てい る。

大正末期から昭和初期にかけて登場したラジオやレコードによって、マス・メディア時代が訪れます。巷には、まるで大正12年の関東大震災や昭和2年の金融恐慌、さらに軍国化への息詰まるような社会情勢に反発するかのように、エロ・グロ・ナンセンス的な歌や、新民謡・ご当地ソング等による集団的狂舞が溢れかえりました。『證城寺の狸囃子』や『蛙の夜まはり』といった童謡への振り付けや、昭和3年にレコード発売された『道頓堀行進曲』の和製スウィング・バンドの演奏からは、当時の尋常ならざる空気が感じられます。民衆は本能的に現実逃避へと向かっていたのかも知れません。
 古賀政男は、そんな狂騒的な音楽が好まれた時代に登場したのです。ですから、今では「古賀メロ」の代名詞ともなっている『影を慕ひて』ですら、昭和4年6月に明大マンドリン倶楽部第14回定期演奏会で初演(ギター合奏)した際には不評で、周囲からは「今の時代はジャズ調のもっと派手な曲でないと駄目だ」との声があがったそうです。それで、ビクターでの最初のレコードが佐藤千夜子吹き込みの『文のかをり』(昭和5年2月発売)になったらしいのですが、昭和5年12月発売の佐藤千夜子の『影を慕ひて』に続き、昭和7年2月には再度、自らのギター伴奏でコロムビアから藤山一郎の『影を慕ひて』を発売して大ヒットさせました。古賀は、世の風潮に媚びず、自分のスタイルを貫くことで、時代を引き寄せたのです。
 「古賀メロ」は、こうして、確かな歌唱力を身につけた音楽学校出身の歌手・藤山一郎や関種子らによって、当時、流行歌を敬遠していた新たなファン層まで獲得しました。そして、その後は、圧倒的な声と人気を誇る美空ひばりの登場で、大衆音楽の雄としての地位を不動のものとしていったのです。
 当時は、若者たちがギター片手に「古賀メロ」を歌うことが、一種のブームのようになっていました。「古賀メロ」は、現在でもカラオケで愛唱されていますが、まさに鑑賞するもよし、自ら歌って愉しむもよしといった音楽であることがわかります。
 


[695:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/18(Mon) 23:13)]
ブームのようになっていました。
「古賀メロ」は、現在でもカラオケで愛唱されていますが、まさに鑑賞するもよし、自ら歌って愉しむもよしといった音楽であることがわかります。


本講座では、そんな「古賀メロ」の魅力を実感して頂くために、皆様ご一緒にギター伴奏で実際に歌って頂こうと考えております。一般に、「古賀メロ」は音域も広く、表現が難しいと言われていますが、曲を分析し、それぞれの作品にふさわしいテクニックを身につければ、演奏効果も上がります。
 さて、古賀政男の創作は、初期の作品にこそ欧米のさまざまな音楽の影響が見られますが、昭和6年秋に「彦根高等商業学校偲聖寮歌」として作曲し、昭和11年3月封切りの日活映画『情熱の詩人啄木』の挿入歌として転用した『春まだ淺く』や、昭和12年7月発売の『眞實一路の唄』は、いわゆる寮歌や書生節の手法で作曲されています。中でも、歌い始めの言葉の2音節を続けて発音してから音を長く延ばしたり、飾りをつけていくという書法は、山田耕筰も大正期に看破していた伝統的な日本語作曲法です。
 また、昭和十年代から多用されるようになった「ユリ」「アタリ」「スカシ」などは、もともと仏教声明の手法で、千年にもわたり、わが国の民謡や邦楽などに影響を与えてきたものです。
 このように、古賀の感性は日本の伝統的な音楽の土壤に根差したものでした。だからこそ「古賀メロ」は、近代日本の歌の歴史の中で確固たる地位を築き得たのです。もし、「古賀メロ」が単なる西洋音楽の物真似や、借り物であったとしたら、おそらくほかの「流行り歌」同様、すぐに飽きられてしまったことでしょう。
 近代日本の歌の歴史は、まだ百年あまりに過ぎません。ですが、「古賀メロディー」は千年以上にもわたって日本人が培ってきた美意識に立脚した音楽なのです。これを日本の財産としてきちんと継承していくことこそ、日本の歌を愛する者の使命といえましょう。
                                                                        (藍川 由美)

(参考)
)   
「演歌」のススメ (文春新書) 藍川 由美(著)

第1章 伝説好きの日本人(松井須磨子「悪女伝説」
三浦環「世界のプリマ伝説」
童謡ブーム伝説 ほか)

第2章 日本の音階とリズム(東西二洋の音楽取調
本居長世と日本の音階
野口雨情の民謡と童謡 ほか)

第3章 「古賀メロ」解剖(古賀メロディーと仏教声明
古賀メロディーの音階
古賀メロディーのテンポとリズム ほか)



[696:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/18(Mon) 23:16)]
>>694

このように、古賀の感性は日本の伝統的な音楽の土壤に根差したものでした。だからこそ「古賀メロ」は、近代日本の歌の歴史の中で確固たる地位を築き得たのです。もし、「古賀メロ」が単なる西洋音楽の物真似や、借り物であったとしたら、おそらくほかの「流行り歌」同様、すぐに飽きられてしまったことでしょう。
 近代日本の歌の歴史は、まだ百年あまりに過ぎません。ですが、「古賀メロディー」は千年以上にもわたって日本人が培ってきた美意識に立脚した音楽なのです。これを日本の財産としてきちんと継承していくことこそ、日本の歌を愛する者の使命といえましょう。
                               


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