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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:40
古賀政男アメリカへ
昭和13年〜14年の訪米記録
古賀政男音楽博物館 2013年4月2日(火)〜2013年7月31日(水)

古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、外務省音楽親善使節としてアメリカを訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。今回の企画展では、この訪米についてその道のりをたどりながらご紹介します。
ttp://www.koga.or.jp/plan/plan_19.html

古賀政男音楽博物館
東京都渋谷区上原三丁目6−12
Tel:03-3460-9051 / Fax:03-3460-9052

?新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
?京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:43
新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

小田急線代々木上原駅ホームすぐ前です。



97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:48
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。



古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/22(Sat) 19:06
日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。



99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 22:33
毎日新聞社「写真 昭和30年史」には、昭和6年の扉に世相と「古賀メロデー」のことが有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』の楽譜の絵と共に出ている。満州事変(9月18日)が起こった昭和六年は、歴史に残る「東北大凶作」だった。なお、日本の歴史は「凶作」の歴史でもあり、コメが余るなどと言われるのは戦後も40年代後半のことだったのだ。)

「・・東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」がはんらんしていった。」・・と。

東北大凶作やそれに伴う娘や身売りなど農村の疲弊は、その後の太平洋戦争に至る遠因のひとつとも言われる。「古賀メロデー」の時代、昭和前半の時代は、まだ日本が豊かになる前の苦難の歴史でもあった。その中でも、「古賀メロデー」が彗星のように登場し、多くの大衆に迎え入れられ、やがて「古賀メロデー」として称えられるようになった「古賀メロデー」の歴史的重みがひしと伝わってくる。


100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 23:16
「飽食の時代」と言われ久しくなった今、物が在り余る時代、日本の大衆音楽も様変わりしてしまったのは残念なことです。作曲家の名前の後ろにただ「メロディ」を付けただけのたくさんのナントカメロディが氾濫し、そして、重い言葉であるべき『名曲』というものさえ大量生産され、軽い意味で頻繁に使われるようになったのには違和感を感ずるものも少なくないことでしょう。
最初に「メロディ」を付けて呼ばれるようになったのが「古賀メロディ」だが、まず最初にあげられるべきは何と言っても、昭和歌謡の歴史に燦然と輝く「古賀メロディ」です。以下「古賀メロディ」とその歴史についてです。

昭和の歴史の中で彗星のように出現した作曲家・古賀政男(1904〜1978)は、昭和レコード歌謡の黎明期、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えによって誕生したといえる。
佐藤千夜子は、中山晋平(1887〜1952)の弟子で、まだレコードの普及も、ラジオもない頃から、東京音楽学校を中退して、詩人野口雨情や作曲家中山晋平とともに「全国歌の旅」に参加、晋平の歌を世に広めた歌手である


この運動の中で作られた新民謡『波浮の港』は日本における最初の商業レコードとされる。レコード歌手第一号と言われる「佐藤千夜子」のことについては、昭和53年NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』でも取り上げられた。『いちばん星』では、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫(政男)などまさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する
レコード音楽は昭和と共に始まった。日本ビクター、日本ポリドール、日本コロムビアなど、日本に本格的なレコード会社ができたのは、昭和2年(1927)から3年にかけてである。そして古賀政男が『影を慕いて』を作曲したのがまだ明治大学学生だった昭和3年(1928)秋とされる。

作曲家・古賀政男が誕生したのは、3年後の昭和6年3月だった。レコード作曲家とその歌としては中山晋平の「波浮の港」などの他、「君恋し」の佐々紅華(1907〜1961)、「道頓堀行進曲」、「女給の唄」の塩尻精八、「沓掛小唄」の奥山貞吉(1887〜1956)などまさにレコード歌謡の黎明期といえるだろう。



101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:49
日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家




102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:53
昭和14年(1939)、著作権に悩まされていた日本は、「仲介業務法」施行に伴い内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十など詩人や作曲家など作家が会長となっている。知る人ぞ知る、錚々たる昭和時代の歴代会長。

参考までに、現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。「古賀政男音楽博物館」とともに、「古賀政男音楽文化振興財団」が所有管理する。

多くの歌手たちが通った広大な旧古賀政男邸の面影は今は無い。島倉千代子が玄関までの路の長かったことといった門からの石畳の坂道が音楽博物館の2F通路に再現されている。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/12(Mon) 11:12
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。






104 名前:¢ 投稿日:2013/08/18(Sun) 23:13
(°д° )
(|y |)

105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/30(Fri) 21:17
SP歌謡・回顧と展望

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:08
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:40
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。

古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。


108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:42
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:48
苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。


110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:51
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。


111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 09:22
作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなはずだ。

コロムビアの中でずっとヒット曲に恵まれず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。だが30年代に日本の歌が大きく変わるまでの一時期だった。

1936年(昭和11年)に「蘇州夜曲」の服部良一、昭和13年には、映画「愛染かつら」 三部作などの万城目正がコロムビアレコード専属となった。

また、昭和9年にコロムビアを退職し、テイチク専務として、「テイチク黄金時代」を築き、昭和13年に退職した古賀政男が、テイチクを退社。

昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカを訪問。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流などをこなして、日本に凱旋した古賀政男が、昭和14年にコロムビア専属に復帰している。
そして昭和8年以来の西條八十とのコンビを復活させ、第四期黄金時代を築く。



112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:46
☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文

「酒は涙か溜息か」(1931)、「丘を越えて」(1931)、『影を慕いて』(1931/1932)、・・満州事変が始まった昭和6年(1931)デビューから、翌昭和7年にかけての、このコロムビアに置ける彗星のようなビッグな三曲の登場によって、歴史的な「古賀メロディ」というものが確立してゆくこととなる。

このことは、毎日新聞社[写真 昭和30年史](毎日新聞社1956)の記述にも窺える。


古賀政男が自伝『わが心の歌』に、三人の詩人としてあげている佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉などの名詞との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。


なお「酒は涙か溜息か」(1931)の高橋掬太郎(1901−1970)は北海道根室市出身。1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら文芸同人誌に参加。詩や小説、脚本などを手がけ、昭和6年、酒は涙か溜息か」で作詩家デビュー。これは自身が日本コロムビア文芸部宛に直接投稿したもので、当時新進作曲家として注目されはじめていた古賀政男の作曲、藤山一郎の歌唱でメガヒットした。

作曲家古賀政男が作曲の醍醐味を味わうのは、詩人・佐藤惣之助と出会ってからだと自伝にある。


昭和6,7年頃の、最初期の古賀メロディを支えた詩人に、「乙女心」(1931.6)の鹿山 鶯村をはじめ、「丘を越えて」(1931)の島田芳文(1898〜1973)、「チャッカリしてるわね」(1931.6)、「嘆きの夜曲」(1932)の西岡水朗(にしおかすいろう)がいる。

なかでも島田芳文の「丘を越えて」(1931)は決定的に大きなインパクトを持つ。



島田芳文(1898〜1973)

島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「丘を越えて」を初め 多くの大衆歌謡を手がけた

昭和6年の「キャンプ小唄」でレコードデビューしてコロムビアの専属となる。古賀政男とのコンビでは数々のヒットを生み、後にポリドール、テイチク等に籍を移して活躍した。


なお、島田芳文には、「霰やこんこ」、 「旅の鳥」、「仲よし小よし」(島田芳文作詞 佐々木英作曲)、「てんてん手毬」(島田芳文作詞 河村光陽作曲 )「よいよい横丁」(島田芳文作詞 佐々木英作曲)、「大寒小寒」(島田芳文作詞.平岡均之作曲)など童謡多数や、「昼の月」(島田芳文作詞 大中寅二作曲)、「みづすまし」(島田芳文作詞 大中寅二作曲)などの作品もある。



前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、音のキャンバスいっぱいを使った、「三分間の芸術」の極致を行く「古賀メロディ」・・『丘を越えて』は、その典型的で顕著な初期の名曲です。


島田芳文は北軽井沢をこよなく愛し、戦後は浅間高原の近くの山荘に住み自然を友として悠々自適の生活に生きた、そこと豊前市の生家に「丘を越えて」の碑がある。

松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)


主な曲(古賀メロディ)・・

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1931.7
月の浜辺   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  河原喜久恵 1931.7
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1931.12
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  関種子 1931.12
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1932.1
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  関種子 1932.1
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)   楠木繁夫 1937.3
夕べ仄かに  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) ディックミネ 1935.1
ハイキングの唄(島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 楠木繁夫   1935.5
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)   藤山一郎 1938.3




113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:46
(参考) 島田芳文詩集

大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

島田芳文「郵便船 民謡集」詩人会1923
島田芳文 処女詩集「農土思慕」抒情詩社1927
島田芳文「萱野の雨 民謡集」秀芳閣 1928
島田芳文「現代新民謡選集」 第1輯 1929
島田芳文「日蔭花」秀芳閣1929
島田芳文「紅殻とんぼ(童謡集)」秀芳閣1930
島田芳文「雀の唱歌(童謡集)」 秀芳閣1932
島田芳文「どろどろ坂(童謡集)」秀芳閣1934
島田芳文「曠野に歌ふ(歌謡集)」秀芳閣1935
島田芳文 [どんどろ坂 第四童謡集] (日本レコード協会 1935)
島田芳文「桃栗三年」1937
島田芳文「東方の鷲 : 国民歌謡集」 (国民歌謡作家協会1939)
島田芳文「心のふるさと : 島田芳文詩集」富士出版社
島田芳文「心のともしび : 島田芳文詩集」富士出版社
島田芳文「心のやすらぎ : 島田芳文詩集」富士出版社





114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:49
☆西岡水朗と初期古賀メロディ

西岡水朗(にしおかすいろう)は、長崎の民謡詩人から出発した詩人。昭和5年に「雲仙音頭」と「長崎小唄」が認められ、作曲家の杉山長谷夫と声楽家の四家文子に招かれて上京、多くの作品を生んだ。

「ニャンニャン踊り」 (西岡水朗/佐々木英 )、「狸の茶釜」 (西岡水朗/佐々木英 )、「関取人形」(西岡水朗/佐々木英 )などの童謡作品もある。

古賀メロディ、古賀政男コロムビア専属第一作、昭和6年6月、「乙女心」〈鹿山鶯村作詞、関種子歌)と裏表の「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌 )の作詞者。

『嘆きの夜曲』は、昭和7年(1932)の関種子が歌った大ヒット古賀作品で、『影を慕いて』などと並ぶ古賀政男作品の名曲。初期古賀作品の中でも、とてもセンチメンタルな雰囲気が伝わる作品。



チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 天野喜久代 1931.8
博多小夜曲 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)  関種子 1931.8
風も吹きよで   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 丸山和歌子 1932.4
嘆きの夜曲    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子 1932.7
二見情話    〈西岡水朗作詞、照屋朝保補作詞、古賀政男作曲、佐々永治編曲〉1932.7
歓喜(よろこび)の歌(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 中野忠晴  1933.1
男ごころ     (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫   1934.8


「チャッカリしてるわね」は、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声映画)の主題歌で、天野喜久代(1897〜1945?)は. 大正2年に帝劇歌劇部二期生として入部。二村定一と初期のジャズソングの多くを歌って人気歌手となったが、昭和20年の東京大空襲で亡くなったといわれる。


古賀政男初期の隠れた名曲『二見情話』〈1932コロムビア〉は、『嘆きの夜曲』と一体で『嘆きの夜曲』として、JASRACに著作権信託されている。(作品コード 059-0343-2  嘆きの夜曲)

沖縄民謡『二見情話』は、まだ誰も沖縄、二見など注目しなかった時代の作品で、哀調を帯びた、「古賀メロディ」と沖縄民謡が融合したような、東北民謡のような、沖縄民謡であって沖縄民謡らしからぬところがたいへんいい歌です。


この歌は、沖縄民謡の大家の間でも「古賀メロディ」と酷似したメロディライン〈DNA〉を持つとされる。

特に、「嘆きの夜曲」〈西岡水朗作詞、昭和7年、関種子)とのメロディラインの酷似が指摘され、古賀メロディのアレンジ(パクリ)と言われています。


民謡と言うのはそういうものかもしれないが、収容所で突然出てくるものではない。デタラメだった旧著作権法下でのまさしく「嘆きの夜曲」の西岡水朗作品そのものがある。


西岡水朗はもともと長崎民謡からスタートした民謡詩人で、かつ沖縄民謡の大家の補作詞や編曲を受けている本格的なもの。

(沖縄ウチナ‐の有力者で合った照屋朝敏氏が沖縄戦の二見に有った収容所で作詞・作曲とされていて、平成二年に沖縄民謡「二見情話」の「石碑」が建てられ、そう書いてあるようですが、突然古賀メロディのDNAを持つ曲がができるとは考えられない。)


(参  考)
決定盤 古賀政男全集(上) 国民的名曲のすべて 〜丘を越えて〜 (日本コロムビア COCP-37091-3)
DISC1 06 二見情話 / 知名定男、大城美佐子(1975ステレオ録音版)
ttp://store.shopping.yahoo.co.jp/toemifc/88092.html

なお、鹿山 鶯村(かやま おうそん、1897-1961)は、いくつかの民謡詩集を持ち、昭和5年11月、佐藤千夜子の「太平小唄」を作詞している。古賀政男のコロムビア専属第一作であるとともに、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた関種子のコロムビア専属第一作でもある。

太平小唄 (鹿山鴬村作詞、 小松平五郎作曲) 佐藤千夜子1930.11 ビクター
乙女心  (鹿山鴬村作詞、 古賀 政男作曲) 関種子   1931.6  コロムビア
♪朧月夜のその頃に・・





115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:51
(参考)民謡詩集

◇明治38年 野口雨情『枯草』水戸:高木知新堂。
◇大正8年  竹久夢二『たそやあんど 民謡』東京:玄文社。
◇大正10年 野口雨情『別後』東京:尚文堂。
◇大正11年 北原白秋『日本の笛 民謡集』東京:アルス。
◇大正12年 島田芳文『郵便船 民謡集』詩人会。
◇大正13年 時雨音羽『うり家札 民謡集』米本書店。
◇大正15年 佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和3年  鹿山鶯村『野良の娘 民謡』東京:誠志堂書店。
◇昭和3年  野口雨情『野口雨情民謡叢書 第一篇』西巣鴨町:民謡詩人社。
◇昭和3年  島田芳文『萱野の雨 民謡集』秀芳閣。
◇昭和4年  佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。
◇昭和4年  西岡水朗 『片しぶき 民謡集』秀英閣。
◇昭和4年  北原白秋『作曲白秋民謡集』東京:改造社。
◇昭和4年  島田芳文『現代新民謡選集』 第1巻秀芳閣出版部 1929
◇昭和6年 鹿山鶯村『嵐の夜』東京國民書院1931
◇昭和10年 西條八十『西條八十詩謡全集6(民謡篇)』東京:千代田書院。
◇昭和10年 島田芳文 [どんどろ坂 第四童謡集] 日本レコード協会 1935

(その他)
西條八十「民謡の旅」(朝日新聞社1930)
鹿山鶯村 [明け行く満蒙の透視]( 岡村書店 1933)
岐阜戦前詩誌 「夕陽ただる」 3 新年号 1928/1/1 (岐阜女子大学所蔵)
井崎進(大垣市石切町) 秀芳閣印刷部(東京市本郷区追分町) 民謡・詩・研究会(大垣市石切町)
執筆者: 島田芳文 塚本篤夫 吉堂芳明 西岡水朗 坪井憧三 井崎すすむ 野田欣三 北原紫之介






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116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:54
SP歌謡は、今危機にあると思います。昭和も遠くなりにけりとなって、「SP歌謡」を知る人も少なくなっていると思います。歌もハッピーなものばかり。テレビの歌番組で「昭和」とは、昭和の末、50年代以降のようですし、歌える歌手も居なくなった。

今こそ、このSP歌謡文化遺産を正しく残して行くことが大切です。


さて今、この状況を象徴するかのように、時々[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。地震直後から放影されていたものですが、でもこの歌には何か大切なものが抜けているのではないだろうか。


花が無くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、ハッピ−な軽い文句ばかり、何の歌なのかもよくわからない。

遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」で、解説にはこうあります。・・

嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    (*)
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・


80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予期したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。(検索は*で)

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感にさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。


憂い,哀しみを歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。



117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 12:00
古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた歌手

関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)   1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア  東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞)    1936
奥田英子          別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く   (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ   (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*     紅い睡蓮  (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌   〈西岡水朗作詞〉  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場    (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校  b月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで  (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。






118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:16
李香蘭と古賀メロディ
李香蘭?山口淑子?は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)






119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:17
☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5





120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:22
☆古賀メロディと霧島昇


日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952








121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:36
5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年から53年に亡くなるまでの半世紀にわたる作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。

その中に、昭和17年の「荒城の月」編曲があり、李香蘭のSPレコードが、You Tube やCD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]〈CD16枚〉などで聴くことができます。

「荒城の月」といえば、藤原義江や三浦環、山田耕筰。古賀政男自伝『わが心の歌』〈展望社1965初版〉には、藤原義江は古賀政男が昭和13年11月、外務省音楽親善文化使節としてアメリカに派遣されるにあたって見送るなど、三浦環や藤原義江と古賀政男とは信頼と親交が有ったことが、写真とともにあります。

また、山田耕筰は外国人に日本の音楽を紹介するのに、よく古賀政男の「丘を越えて」を紹介していたといいます。

以下一見関係がなさそうで深い関係が有る、古賀政男と「荒城の月」について参考に。


※古賀政男と「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:37
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  tp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/



123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:38
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  tp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/



124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:33
☆三浦環と古賀政男

日本が生んだ世界的プリマドナ三浦環が、その63歳の生涯を終えたのは66年前、終戦直後の昭和21年5月26日のことで、東京渋谷の病院で死去。

環が亡くなった時、東大病院で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ たという。
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちがとかく西洋かぶれして日本の文化を見失っていたのと違って、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。また、三浦環と古賀政男には深い関係が有る。

なお、古賀メロディを支えた歌手に、三浦環に師事した李香蘭(山口淑子)、白光や、東京音楽学校を出て、『蝶々夫人』で三浦環と共演した由利あけみなどがいる。


「私は貴方の歌に恋してるのよ」・・古賀政男自伝『我が心の歌』(展望社刊1965) には二人のスナップ写真などが載っている。

古賀政男と三浦環(1884〜1946)この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環は昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せている、古賀政男の芸術を高く評価していたようである。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。

そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。

そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

昭和11年(1936年)(『蝶々夫人』出演2000回達成後の帰朝で、昭和11年6月16日の「日本青年館」で行われた「第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会」で、三浦環が古賀メロディ『忘れなの花束』(野村俊夫作詩)と、『乙女心』(鹿山鶯村作詩)を歌ったという。

三浦環(柴田環)は、明治37年(1904年)に東京音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。

夏はテニス姿の若者があふれる山中湖村、この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌姫、三浦環がその晩年を過したことを知る人はあまりいない。
戦争中、戦火を避けて山中湖畔に疎開した三浦環と、もうひとり河口湖畔に疎開した古賀政男、二人はサツマイモ一つも分け合う仲だったという。



125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:34
環が山中湖村平野で過ごしたのは、昭和18年2月14日、旅館三国荘別館に疎開。してから病を得て入院のため上京した20年の暮れまでの2年10カ月ほど。
後に87歳の母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったという。

夜中に母の湯タンポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話は今に語り伝えられている。 .・

しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和20年の暮、病を患って入院のため上京、翌21年5月28日、渋谷の病院で死去。

遂に生きて再び平野の土を踏むことはなかった。同年6月7日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希望で今、平野の寿徳寺の奥津城(おくつき)に母堂、登枝と共に眠っている。

祖国愛に満ちた信念と自尊の明治の女だった環は、平野疎開中も、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけたという。


今、平野寿徳寺の墓碑面には、環自筆の

《「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ   環」》

との文が刻まれている。

ロンドンのロイヤルアルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演以来、ニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とし、「蝶々夫人」2000回公演を果たした三浦環。

世紀のテノール、エンリコ・カルーゾーと共演した三浦環、プッチーニをして「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と言わせた三浦環、その言葉である。

昭和20年12月、日比谷公会堂で自らの訳詩による「冬の旅」をうたうが、発病、上京して、渋谷の友人の病院に入院。昭和21年5月26日午前5時20分、渋谷の大東学園病院で死亡しました。

昭和21年入院中に放送と録音を行うも、5月26日死去。6月7日、日比谷公会堂で音楽葬。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という環の遺言により、母堂・登枝の眠る山梨県山中湖村平野、寿徳寺に葬る。

環が愛用したピアノは、環の住んだ部屋共々、今、平野の三国荘別館に保存されているという。(公開されていない。)

   ttp://www.nakash.jp/opera/kikou05/18fuji/4miura.htm
   ttp://yamanakako.info/sisetsu.php?id=157
なお、三浦環の「募石」はもうひとつ、上野の寛永寺第一霊廟の入口近くにもある。「Madam  Butterfly」と刻まれている蝶の形をしていて、傍らの碑には、次の詩が書いてある。

    葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな





126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:38
一方、[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、昭和20年3月から8月まで。

今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。

こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。

自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html

(参考)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)
・「人間の記録27 三浦環―お蝶夫人」 (日本図書センター (1997)


・三浦環−古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
  ttp://25877386.at.webry.info/
・三浦環と李香蘭   ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835

・流行歌曲について  萩原朔太郎
  ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html





127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:04
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。




128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:08
関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。

彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。


自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。


その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。

・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5  VIC 50321@
當世銀座節   (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7  VIC50371@
東京行進曲    (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6  VIC50755A
愛して頂戴      (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8  VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌)  1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇) (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2  VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2  VIC 51093A
この太陽       (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6  VIC 51240A



129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:09
西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。

そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターン調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。

また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。

*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)

去りゆく影  (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.1
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
椿姫の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) 淡谷のり子1933.3
浮草の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄    (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲) 淡谷のり子1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴  1933..6
十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア  1933.6
気まぐれ涙     (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅     (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   193310



130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:10
「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。




なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」

古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。

新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html

1940 .2 誰か故郷を想わざる      霧島昇
1940 .2 あの花この花          二葉あき子
1940.5 春よいづこ            藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声         藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻        志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌   霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い          伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮           李香蘭
1941.7  そうだその意気         霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7  夜霧の馬車       李香蘭
1941.7  歌えば天国       藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘       渡辺はま子
1942.7  夕月乙女        李香蘭
1943.3  若き日の夢       李香蘭
1943,5  サヨンの歌       李香蘭



131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:11
なお、昭和15年に佐藤惣之助は、コロムビア専属になっている。「新妻鏡」「馬」などはこの時期の作品。

戦後の西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。

 ♪おさない日 かなしい日
  聞いた歌 懐かしメロディー
  君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・

映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。

次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・

なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。


(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)

吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)






132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:15
>>127
>藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。


訂正

藤山一郎、関種子など゙東京音楽学校首席の名歌手との出会い。




133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:21
☆古賀政男 二つの「思い出の記」

古賀政男には「思い出の記」という人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。

「思い出の記」は、作曲は古賀政男だが、作詩は古賀政男作詩と、大木惇夫作詩の二つがあります。

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲は陸海軍の礼式歌ともなった。


・古賀政男作詞  今、古賀政男歌と大川栄作歌もある。(昭和42年)

ああ思い出は 懐かしくふるさと恋て 訪ぬれば親同胞は すでに逝き誓いし友の 面影も今は虚しき 菜の花よああ人生は 夢の夢幾年変わらぬ 山川も流れる雲か 風に散る人の心は 山吹の花はほろほろ 散るばかり


・大木惇夫作詩(徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化)霧島昇歌(コロムビア100374@)


ああ馬の背に 涙してふるさと出でて 幾歳ぞ高倉山の 白雲にちかいし言葉 あだならず飾る錦は 誰ゆえにああ山河は 変わらねど人の心は 今いかに思い出の谷 夢の丘幼な馴染みの おもかげも今は虚しき 菜の花よ





134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:39
☆昭和戦前の作曲家


日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家などによるものと言えるでしょう。


作曲家(昭和・戦前)

中山晋平(1887〜1952)(*)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952) 野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(*)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八        道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(*)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉 十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉 高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(*)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉 流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉すみだ川

*日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)



135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:41
☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970) 酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)     二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946) 名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))


136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:46
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。



137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:47
彼が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。

その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。

この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。

酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わだつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。

そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。

昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。

今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後70年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。




138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:50
☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・

金色夜叉(お宮の唄)             1932.2 関種子
鳩笛を吹く女の唄               1932.2 井上静雄(藤山一郎)
秘めたる恋           1932.3 関種子
武雄の唄      1932.5 中野忠晴
春の唄      1932.6 淡谷のり子
月夜の恋   1932.6 丸山和歌子
朝顔の唄    1932.6 関種子
笛は冴ゆれど       1932.7 関種子
不如帰    1932.8 淡谷のり子
放浪の唄                  1932.9 長谷川一郎
アリランの唄(朝鮮民謡)    1932.9 淡谷のり子、長谷川一郎
愛は紅い       1932.9 関種子

「緑の地平線」や「人生の並木路」など、その後の主な映画主題歌については、「古賀メロディ−と映画主題歌」参照。



・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
   ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
・阪神タイガースファンなら誰でも知ってる☆詩人・佐藤惣之助          
  テーマ:馬込文士村
   ttp://ameblo.jp/mocchann314/entry-10769706865.html
・六甲颪(ろっこうおろし)の歌詞から
   ttp://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10736372304.html
・萩原朔太郎と佐藤惣之助
   ttp://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2008/02/post_4273.html
・二木紘三のうた物語
   ttp://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html




139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:13
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90




140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:23
☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。



141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:25
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の?(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:26
藤山一郎は昭和18年2月に、南方慰問に出かけ、一度帰国後すぐ再び南方慰問の要請を受け、ジャワ島で終戦を迎え、約1年間の抑留生活を送ることとなり、昭和21年(1946)7月帰国。

戦中であることを感じさせない、爽やかな童謡調の「青い牧場」(サトウハチロー作詞、1943.2、大映映画「青空交響楽」主題歌)は古賀・藤山コンビの戦前戦中の最後となった。


昭和21年7月25日、日本に帰国した藤山は、8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、日本での歌手活動を再開させ、ラジオとの関係を深める。

帰国後もコロムビア専属歌手として活躍し、NHKの連続ラジオドラマの映画化、菊田一男作、東宝映画「音楽五人男」に出演し、その主題歌である「夢淡き東京」をヒットさせた。五人男とは藤山一郎のほかに古川ロッパ、渡辺篤、高田稔、相原巨介のこと。

昭和29年9月にはレコード会社専属を止め、NHK(芸能局音楽部)の嘱託として、ラジオ番組に出演し、クラシックの香りのするホームソングの普及に努めるなど、ラジオ放送で本格的に活躍することとなった。

古賀政男が真に「古賀政男」たる真価を発揮するピークは、佐藤惣之助とコンビをくんで、作曲の醍醐味を思う存分に味わっていた昭和初年から戦中あたりだろう。もちろん戦後もいい曲はたくさんあるが。
 ttp://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990725

世の中が急速に変貌し豊かになって行くにつれ、昭和20年代半ばごろから歌の世界も大きく変わってゆく。そんななかで、古賀政男は曲を付けたくなる詩が無くてねえと盛んに嘆く。



戦後の古賀政男は、もはや一介の作曲家ではなく、すでに「歌謡界の大御所」という社会的存在になっていたのだ。

特に昭和30年代の「古賀政男」と言えば押しも押されもせぬ『日本の名士』だった。

指には大きなダイヤをつけ、その著作権料も他を圧倒していた。

昭和13年、「古賀音楽村」を作ろうと移り住んだ代々木上原の広大な旧古賀邸、多くの歌手たちが通ったという旧古賀邸は、現在「古賀政男音楽博物館」と、それと一体となったJASRAC本部ビル、いずれも古賀財団所有。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容、それは、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。

(現在、小田急線代々木上原駅と、すぐ駅前の井の頭通りに面した「古賀政男音楽博物館」を繋ぐ代々木上原駅沿いの短い通りは「音楽村通り」となっている。)

島倉千代子が、門から玄関までの路のなんと長く感じられた事かといったように、広大な古賀邸には大きな車庫がいくつもあり、何台もの外車を持ち、あちこちに観音様が祭ってあった。(その路が博物館内に再現されている。)

歌謡界の大御所・古賀政男は昭和33年12月、自ら「日本作曲家協会」を作って初代会長となり、作曲家達の権利擁護などに力を注ぐほか、「日本レコード大賞」を創設している。

藤山一郎は、昭和47年に初代東海林太郎(しょうじたろう)に次いで「日本歌手協会」の会長となった。なお、古賀政男、藤山一郎は、いずれも「国民栄誉賞」の栄誉に浴している。

昭和29年は「演歌歌手」のはしりとされる「春日八郎」の「お富さん」が流行した。「藤山一郎」のNHK嘱託は節目となる象徴的な出来事である。

(「春日八郎」は、浅草で藤山一郎のステージを見て歌手に憧れ、歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、1948年キングレコードの準専属歌手となった。)


「夜の湖」など古賀作品以外の戦後の藤山一郎の歌唱になるもの・・、

「夢淡き東京」 (サトウハチロー作詞、古関裕而作曲 1947)
「長崎の鐘 」 〈サトウハチロー作詞 古関裕而作曲 1949〉
「ニコライの鐘」(門田ゆたか作詞、古関裕而作曲  1951)
「青い山脈」 (西條八十作詞、服部良一作曲 1951)
などがある。



143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:31
☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ

歌謡曲(流行歌)は日本の貴重な文化であり、後世に継承してゆくべきものです。

ところが過去の音楽は放送もされず聞く機会も失われ、名曲の数々が埋もれてしまっているので、このままいくと、将来「名曲」を誰も知らないという事態に発展しかねないのは残念なことです。。



昭和9年(1934)5月15日、コロムビアを退社した古賀政男によって、テイチク東京文芸部(古賀文芸部)が発足、ここにテイチク黄金時代がスタートする。

テイチク黄金時代の立役者は、楠木繁夫、ディックミネ、杉狂児(東京音楽学校)など、それに昭和11からビクターから移った藤山一郎が加わる。

日活と提携して沢山の映画主題歌も作られ、昭和12年だけでも40曲以上もの映画主題歌が作られたという。


デックミネ(本名、三根 徳一)、は、立教大学商学部卒。昭和9年(1934年)タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを、淡谷のり子に見出されレコード歌手の道を歩むこととなる。

同年、テイチクの重役だった古賀政男の推薦で「ダイナ」をレコーディング。「ダイナ」では自ら訳詞と編曲、演奏を担当。テイチクの重役だった古賀政男の推薦で,昭和9年「ダイナ」をレコーディングしデビュー、和製ジャズ歌手の草分けとなる。

二村定一を日本のジャズ・ポピュラーの始まりとするなら、ディックミネはその路線の継承者ともいえる存在で、彼は生涯に500曲以上ものジャズ・レコードを吹き込み、その普及に大きく貢献している。

サトウハチロー原作、日活多摩川、渡辺邦男監督1935『うら街の交響楽』(音楽、福田宗吉・古賀 政男)の、[恋は荷物と同じよ] (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1935.6(川畑文子、ディックミネ)、(東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクール1等入選作。)が古賀作品との最初となる。


昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。

古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。




144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:31
おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。

ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。


☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938









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