山本八重は、凄い
[1:り (2013/01/07(Mon) 13:43)]
この女性は、日本の鏡
[51:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/10/24(Tue) 21:32)]
○作者は徴兵された若者の見聞を骨格として、明治戊辰戦争における越後国での会津藩の動きを克明に検証しつつ、内戦の悲惨さを詳細にわたって説き来たり、説き去る。読む者をして惓きさせない。そして史眼の視点にぶれがない。
薩摩、長州を筆頭とする官軍兵の略奪、窃盗、強奪、強姦、放火、死体損壊、侮辱、それに人肉嗜食(Cannibalism)が平気で行なわれていたことが記載されている。人肉嗜食が兵糧の欠乏ではなく、敵に対する憎悪と侮蔑、それに士気鼓舞が目的であったという記載はすさまじい。
魚沼の小出島守備の隊長町野源之助は17歳の弟久吉を同行していた。久吉は槍の名手で18人を倒したが、官軍の一斉射撃で死んだ。兄は弟の遺体を取り戻そうとしたが果たせなかった。
久吉の首は切り取られ、7日間晒され、四肢は兵隊が争って肉をそぎ取って食いちぎり、骨、皮は四散された。(『町野久吉戦死の真相』小出町歴史資料集)
安田町(現・阿賀野市)で腕を切り落とされた会津兵を人夫が引き倒し、薩長兵が肉を切り取り、人夫に食わせ、残りは地面にふり撒いた。
「これは何といふものにやと尋ねければ、会津烏と言ふものなりと仰せありしとや」と言い、あぶらが強かったとまで書いてある(『佐藤長太郎乱語聞書集』安田町史に詳しい)。
○会津藩兵も退却する時に、民家に放火したりすることが多かったので、越後国内では次第に領民から疎まれるようになってゆくのが平太の日記から伝わってくる。会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。「いずれに用するや」と聞くと、「食するなり」と言って飲みこんだと、5月9日の日記に書いてある。
会津領旧上川村(現・阿賀町)の会津藩郷医江川元逸も徴集された時の従軍日記『旧記集録』のなかで、官軍方密偵(高田藩)が捕えられ斬首された時、肝臓を切り出して、酒の肴に醤油をつけて食べたことを書き残している(15年ほど前県医師会報に報告)。現在では信じられない様な凄惨な史実だ。両軍ともにCannibalismが行なわれていた。日光口でもあったと記録にある。この様な、内戦における憎悪の激しい狂気が記述されている。佐野常民の「博愛社」が生まれる西南戦争以前の日本の内戦の狂気はすさまじいものであった。
○内戦における農民、商人、人足、女郎のたくましさ、狡猾さ、名主、村役人らの行動など、この日記を通して作者は人間の利害、得失による動きを巧みに描出してくれていて面白い。
また戦争難民の昔も今も変らぬ悲惨な様子をこの日記の原文を引用してリアルに描写しているところは圧巻である。対外戦は言うに及ばず、内戦の悲惨さを越後国内の平太の足跡を実地踏査して仕上げた作品は、今回の増訂、加筆によって、河井継之助、小林虎三郎などを中心とした、いわゆる長岡物、戊辰戦争本を補う貴重な作品の一つといえる。要を得た明治戊辰戦争ものの白眉。診療の合間にいかが。
星 亮一『平太の戊辰戦争─少年兵が見た会津藩の落日─』ベスト新書
本体800円(税別)
read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)