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日本における児童労働・児童虐待の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/04(Sun) 12:21
明治以降急速に欧米化を目指して突き進んだ日本の歴史、その中で
貧富の差は激しかった。その中で人の人生は12歳、小学校卒業で決まってしまった。
教育の機会均等も戦後御昭和24年位までなかった。
多くは幼くして奉公とかに出されたのだった。


2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/04(Sun) 13:57
童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、
口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、
ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。

3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/05(Mon) 09:45
壺井 栄原作『二十四の瞳』が有る。昭和3年から戦後早々までの僻地の分校の物語。
ここで小学校卒業を待たず子守奉公に出される子などがでてくる・・・。
昭和戦前はまだ日本全体が貧しい時代で、それは昭和20年代あたりまで同じだった。、

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/06(Tue) 14:30
「二十四の瞳」 1954 
ttp://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8&feature=endscreen&NR=1


5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/21(Wed) 22:54
童謡には残酷で不可解なものが沢山あります。特に戦前は、差別を差別とは思わなかったり、残酷の概念も違っていましたので、<お母さんが帰って来ないので金魚を一匹突き殺す>などといったものすらあります。今の考え方を以ってそれらを責めるわけにもいきませんが、それにしてもこの「叱られて」は聞けば聞くほど分からないところばかりです。先ず、<叱った>人ですが、これが判然としません。これがはっきりすることは、歌にも大きな影響がありますので、詩人としては、わざと曖昧にしたとしか思われません。あるいは当時の人なら一目瞭然なことかもしれませんが。どうも、両親ではないように思われます。両親だったら普通は日が暮れたら<帰っておいで>でしょう。それを暗い、キツネがコンと鳴くような夜道を、街までお使いに行かせる(親もいるでしょうが一般概念として行かせる)でしょうか。また、子守りする<ぼうや>が弟とも思われません。それに<あの子>と<この子>は兄弟姉妹のように思われますが、本当にそうなのでしょうか。
二番はもっと不可解です。<口にはださねど目に涙>とは、口惜しい怒りの涙か、悲しい絶望的な涙か、お互いを思いやる哀れみの涙か、不甲斐ない自分への涙か、<叱った人>が誰かで全く違ってきます。<二人のお里はあの山を越えて彼方の花の村>、二人には里があって、彼方の花の山里から山を越えて町まで出て来ているのですから、ここに至って<叱った人>が実の両親でないことははっきりしましたが、他は曖昧模糊としています。<ほんに花見は何時のこと>に至っては、過去のことなのか、これからのことなのか、お手上げです。以下は私の解釈となります。
江戸時代から見習い奉公というのがありました。5〜6歳の頃から、食事とスズメの涙ほどの僅かな給金のみでお店奉公に上がり、一心に働いて、その中で行儀・世渡り・世間常識を獲得して、一人前となって世間に通用するようにする、という制度です。それが職人の徒弟制度のように、戦前の社会には残っていました。貧困な家から口減らしのために裕福な家に奉公に上がるのです。<食べられればよい>身分制度から貧富の差が拡大した時代でした。そのため、戦前の作品には、じいや・ばあや・にいや・ねえや・下男・下女・女中・書生・作男・作女・婢など、いまでは差別用語とされている言葉がポンポン出てきます。この「叱られて」はそうした、<山を越えた彼方の花の村>の貧しい家から町の裕福な家に子守り・使い走りとして奉公に来ている、10歳前後の少年少女のことを歌った歌です。<叱った人>はその家の主人ではなく、執事だとか女中頭などお家大事一筋な人たちを思わせ、きついこともいうので、それが<口にはださねど目に涙>に繋がるのです。最後の<ほんに花見は何時のこと>は、「こんな遠くに来て長い間帰っていないが、前に桜を見たのは何時のことだったろう」とも「何時になったら里へ帰って桜がみれるのだろうか」、といずれにも解釈できます。
清水かつらは4歳の時に実母と悲しい別れをし、継母の里に引き取られて(現在の和光市)、この歌と同じような経験をした、実体験に基づくもののようです。「あした」同様、弘田龍太郎の作曲ですが、弘田龍太郎はこういう曲を作らせたら天下一品です。

6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/21(Wed) 23:17
童謡を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった事に想いをいたさねばならないだろう。

昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者、親が大正から昭和のはじめに子供だった人は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。

映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。
あの紡績工場ではたらく女子工員の生活を書いた「女工哀史」という本が出たのは、大正14年のことだが、女工とは、12,3〜4の、小学校を出たばかりの女の子。

昭和30年代でさえ、田舎では高校進学率は30%くらいだった。童謡が作られた80年以上前の大正時代ともなれば、今では想像もできない貧しい時代だったに違いない。
「野麦峠」という映画にもなり、過酷な労働条件や虐待のありさまを描いてるが、それでも家よりも良かったのだそうだ。当時は、どんなに成績が良くても、進学(中学)させてもらえない、あるいは、高等小学校に行かせてもらえたら幸せというのは普通だったのだ。

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/22(Thu) 10:49
新聞の連載[私の履歴書」に、自らの栄光の学歴と出世が書かれている。
なんとか高校(旧制)をでて、なんとか帝国大学をでて・・・

でも、その陰で、小学校を出たばかりで奉公に出されたもの、中学に進めず涙を飲んで高等小学校〈二年制)に進み世に出たものもたくさんいたでしょう。
昔はどんなに優秀でも、勉強がしたくても進学できなかったり、無理解で進学させてもらえなかったものはたくさんいたはず。

有名高校(旧制)、大学に進学できたものも、頭がよく勉強もしたでしょう。でもことによると、もっと勉強ができて、もっと学びたい者も沢山いたでしょう。
バンカラ衣装に、いい歳をした老人が集まって寮歌祭とかばか騒ぎをしているが、そうした青春を謳歌する陰に沢山の埋もれた有能な才能があったことでしょう。

日本がまだ貧しかった時代、そうして幼くして世に出た沢山の有能な才能の人たちがいて、そうした名もなき底辺の人々の支えの中に今日の日本の繁栄の基礎がある、そうした事に想いを致す事も意義が有るでしょう。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/11/23(Fri) 11:41
明治〜大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所、標高1672mの野麦峠。かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かいました。故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多いという。
明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として働きに行きました。そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。


9 名前:& ◆0nA5S/nk 投稿日:2012/11/23(Fri) 15:09
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11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 19:23
昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保障が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 19:30
昔も学校ではいじめがあった。

以下は、貧しい時代背景がよくでていて涙を禁じ得ない・・


 昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。

貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。




13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:33
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また「影を慕いて」はこの昭和3年に作られたものである。

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:40
この時代と重なる代表的な歌に「人生の並木路」がある。昭和12年日活映画「検事とその妹」の主題歌である。

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。



古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路



15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 20:46
>>14
日活映画1937.1渡辺邦男監督「検事とその妹」は昭和10年竹田敏彦原作「検事の妹」の映画化作品。
幼くして親を亡くした幼き兄弟が支え合って生きていく姿をえがいたもの。

人生の並木路


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。

 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽

 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 00:04
江戸時代から見習い奉公というのがありました。
5〜6歳の頃から、食事とスズメの涙ほどの僅かな給金のみでお店奉公に上がり、一心に働いて、その中で行儀・世渡り・世間常識を獲得して、一人前となって世間に通用するようにする、という制度です。
それが職人の徒弟制度のように、戦前の社会には残っていました。貧困な家から口減らしのために裕福な家に奉公に上がるのです。<食べられればよい>身分制度から貧富の差が拡大した時代でした。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 00:14

大正時代に作られた多くの童謡、その一つ「叱られて」はそうした、<山を越えた彼方の花の村>の貧しい家から町の裕福な家に子守り・使い走りとして奉公に来ている、10歳前後の少年少女のことを歌った歌です。

「叱られて」

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎


(一)
 叱られて 叱られて
 あの子は町まで お使いに
 この子は坊やを 寝んねしな
 夕べさみしい 村はずれ
 コンと狐が 鳴きゃあせぬか

(二)
 叱られて 叱られて
 口にはださねど 目に涙
 二人のお里は あの山を
 超えて彼方の 花の村
 ほんに花見は 何時のこと


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 21:30
昔、子供たちは10歳前後、尋常小学校や高等小学校の卒業を契機に奉公に出るのが通常で、奉公にあがれば、まず丁稚の修行からで、はじめは主人のお供や子守、掃除などの雑用を受け持ち、少し長じると商用の使い走りなどをしました。
商家では、こうした丁稚奉公を4〜5年勤めた後、17〜8歳頃になれば手代に昇格します。
こうした「奉公」が無くなるのは戦後のことで、田舎では昭和も30年代くらいまでありました。

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:44
日本における児童労働・児童虐待の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=351999297&ls=50

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:51
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/21(Fri) 22:04
>>17-18

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第23回 弘田龍太郎


第23回は作曲家弘田龍太郎を取り上げます。
懐かしのレコードとゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で
「叱られて」や「雨」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2019月年2月17日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (指定席制 要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

東京メトロ・小田急線代々木上原駅
南口1 右側、駅舎に沿った「音楽村通り」を歩いて 井之頭通り 駅前交番前



22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/09(Fri) 10:46
漢方

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