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【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/06/19(Sun) 18:45

唱歌・童謡、新民謡、歌曲・歌謡曲、多くの詩人、作曲家が生まれ、明治以来たくさんの「日本の歌」が生まれました。

その歌は多くの詩人や作曲家の人一倍の歌にかけるたゆまぬ情熱と努力の賜物であり結晶であり、かけがえのない文化遺産です。

日本の音楽文化遺産、日本の名歌・名曲・名盤を語りましょう。


196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/30(Sun) 00:02
>>195

ほかに


宵待草 ベラトラメリ能子 竹久夢二 多 忠亮 1008 COL35471 青盤

四家文子(1928)、関種子(1934)などの盤がある。





197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/30(Sun) 00:15
>>193
古賀政男音楽博物館
h ttp://www.koga.or.jp/

198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/02(Wed) 20:36
この道
北原白秋作詞 山田耕作作曲 

藤原義江    0311 COL35005@ 青盤
ブカナン    0511 COL26015  黒盤 
宮川美子    0611 COL35215  青盤
柴田秀子    0902 COL35410  青盤
内木 実    0904 COL35423  青盤
奥田良三    1002 POL2140   黒番
松原 操    1407 COL30253@ 黒番 
藤山一郎    1612 COL100305  赤盤スダレ
         

 
  






199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/03(Thu) 23:34
古賀メロディは「名曲の宝庫」

「嘆きの夜曲」(関種子)昭和7年

呼んでみたとて かえらぬ人よ 
なぜに儚い 夢じゃやら
  
想いつかれて 心に秘めて 
暮れりゃ寂しい 雪ばかり 

泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
なぜに尽きせぬ 涙やら

灯影つめたく 愁いはながく
絃(いと)のすさびも 嘆(な)くばかり

「昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。¬」・・ttp://youtube/giaWCvjmsoY

初期の「古賀メロディ」を支えた関種子が歌う、80年前に作られた古賀メロディ「嘆きの夜曲」、・・

この歌が、この簡潔な歌が、80年後に起きた「東日本大震災」の「哀しみ」さえをも予期していたかのように。ぴったり合って、しっかり包みこんでしまう。

これぞ時代を超え、世代を超える『名曲』というものでしょう。

80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予見
したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。

同じ時期の藤山一郎「影を慕いて」とともに古賀政男初期の名歌の一つだと思います。関種子の歌唱力も最高。

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感じさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。
憂い,哀しみ、苦悩を歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/04(Fri) 11:42
荒城の月
作詩 土井晩翠  作曲 滝廉太郎

藤原義江 0302 VIC1175 赤盤
藤原義江  0310 ORI30012
ブカナン  0511 COL26015
奥田良三  0602 POL631
荻野綾子  0601 VIC13109 赤盤
黒田進   0606 TAI3034
牧 嗣人  0701 COL35221
藤山一郎 0800 VIC52756
内本 実   0801 COL35336
四家文子 0805 VIC52673
藤山一郎 0907 VIC53108
永田絃次郎 1110 KIN10002
関屋敏子 1101 VIC13452 赤盤
奥田良三 1104 POL2268@
藤原義江 1210 VIC J54098
藤原義江 1211 VIC13527 赤盤
藤山一郎、女声合唱団1501 COL30467@
井口小夜子 1704 KIN67025
李 香蘭 1709 COL100542@
帝国合唱団 1803 TEI T3418

0302;昭和3年2月発売

201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 13:15
>>9
信田の藪 (しのだのやぶ)    

   作詞:野口雨情
   作曲:藤井清水(ふじいきよみ)
   

  お背戸のお背戸の
  赤とんぼ
  狐のお噺 聞かせませう
  聞かせませう

  糸機(いとはた)七年
  織りました
  信田の狐は 親ぎつね
  親ぎつね

  信田のお背戸の
  ふるさとで
  子供にこがれた 親ぎつね
  親ぎつね

お背戸のお背戸の
  赤とんぼ
  あしたもお藪に 来てとまれ
  来てとまれ





202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 13:27
>>200

荒城の月:滝廉太郎作曲「荒城月」は無伴奏で、歌われている「荒城の月」は編曲版。

戦前、SP盤は山田耕作編曲版、本居長世編曲版、橋本国彦編曲版、古賀政男編曲版(李香蘭)がある。



203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 21:53
「旅人の唄」

大正12年(1923年)2月 発表「旅人の唄」作詞 野口雨情/作曲 中山晋平

レコード:昭和3年12月発売『旅人の唄』ビクター/佐藤千夜子 歌 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲 伴奏

昭和3年(1928)に野口雨情、作曲家の中山晋平らが行っていた「新民謡運動」で佐藤千夜子が「旅人の唄」を歌う。ちなみに、佐藤千夜子は日本初のレコード歌手と言われる。

佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは日本全国に限らず台湾、蒙古まで出掛けています。

旅人の唄 (野口雨情作詞 中山晋平作曲 佐藤千夜子歌)

 山は高いし 野はただ広し
 一人とぼとぼ 旅路の長さ

 乾く暇なく 涙は落ちて
 恋しきものは 故郷の空よ

 今日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国やら 果てさえ知れず

 水の流れよ 浮き寝の鳥よ
 遠い故郷の 恋しき空よ

 明日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国かよ 果てさえ知れず
 
 ・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 h ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536

旅人の唄 歌碑
茨城県北茨城市磯原町磯原1-240 JR常磐線 磯原駅西口広場にある。。。


204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 22:01
☆野口雨情作詞、佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品のうち,野口雨情作詞の代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲) 大正13年(内外蓄音機)
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922)ビクター53876
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター50385
青い芒  1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
港おどり 1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
紅屋の娘 1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクタ‐50755
船頭小唄 1932.6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 22:03
野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。
詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 

野口雨情は、放浪の詩人、土の詩人などとも言われる。野口雨情(英吉)の青春時代・明治時代は、まだ開拓と移民の歴史でもあった。
日本でも北海道開拓のために、多くの人が北海道の原野に入殖した。あの「赤い靴」の話も、厳しい寒冷地だった北海道入殖に伴う悲話といえる。雨情は北海道での生活の中で、そのことと出会う。

雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。
明治35年(1902)3月、文芸雑誌「小柴舟」によって詩壇に登場するが著名の域までにはいたらなかった。 同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ひろと結婚。
同38年3月、処女詩集「枯草」を自費出版した。 
父の残した借財整理の煩わしさから逃げたかったのか、同39年(1906)当時日本領であった樺太に渡ったものの事業は失敗、
帰郷後、月刊詩集「朝花夜花」の刊行も詩壇の一部で注目されただけだったが・・「七つの子」の原型が「山がらす」♪烏なぜなく 烏は山に 可愛い七つの子があれば・・としてここに載っている。



206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/05(Sat) 22:07
広大な山林田畑を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。
雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。
明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。
そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。
雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。
雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。

昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。
そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。

雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。


207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:09
☆サトウハチローと「童謡」
童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。
その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・

   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。
寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
  ttp://www.0108.tv/history2.htm

中田喜直ら若手は、後にその批判した「童謡」の名をそっくりそのまま戴いて、「童謡協会」を作って、会長(初代、サトウハチロー、二代目中田喜直))に収まり童謡を推進する!というのだがいかにも動機不純なのは否めずすっきりしない。

ここに大正時代に始まった『童謡運動』はここに終焉を迎えることとなった。

昭和30年代後半から40年代にかけて、「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」、「ぞうさん」などが盛んに歌われることもあった。しかし、いま殆ど聞かれない。



208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:23
>>207

「うれしいひな祭り」

サトウハチロー作詞  
河村光陽作曲




あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
今日はたのしい ひな祭り

お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔(がお)
お嫁(よめ)にいらした 姉(ねえ)様に
よく似(に)た官女(かんじょ)の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒(しろざけ) めされたか
あかいお顔の 右大臣(うだいじん)

着物をきかえて 帯(おび)しめて
今日はわたしも はれ姿(すがた)
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り



寒い冬がようやく終わり春の訪れが感じられるきょうこの頃、
どこからか聞こえるのはこの歌 うれしいひな祭り

昭和11年(1936)山野三郎名義

やはり日本の歌はいい、やさしくほっとする温かさがある名作
やはりまだ日本が貧しく、草深かった戦前の唄はいい!。


童謡歌手桑名貞子盤がいい。


209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/12(Tue) 18:54
■殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


■ たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。



■ 歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

因みに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。






210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 18:48
   
   「さすらいの唄」

北原白秋作詞・中山晋平作曲


行(ゆ)こか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を
露西亜(ロシア)は北国 果てしらず
西は夕焼 東は夜明
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に

泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠い灯(あかり)も チラチラと
とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(アオ)よ
明日(あす)の旅路が ないじゃなし

燃ゆる思いを 荒野にさらし
馬は氷の 上を踏む
人はつめたし 我が身はいとし
町の酒場は まだ遠し

わたしゃ水草(みずぐさ) 風吹くままに
流れ流れて 果てしらず
昼は旅して 夜(よ)は夜で踊り
末はいずくで 果てるやら

大正6年(1917)松井須磨子
昭和9年(1934)佐藤千夜子

佐藤千夜子盤絶品!

211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 18:55
『ゴンドラの唄』

吉井勇作詩 中山晋平作曲 

1.いのち短し恋せよ乙女
紅き唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

2.いのち短し恋せよ乙女
いざ手をとりてかの舟に
いざ燃ゆる頬を君が頬に
こヽには誰も来ぬものを

3いのち短し恋せよ乙女
黒髪の色褪せぬ間に
心のほのほ消えぬ間に
今日はふたたび来ぬものを


『ゴンドラの唄』は、1915年(大正4年)芸術座公演『その前夜』における劇中歌として作曲され松井須磨子が歌った。昭和9年(1934)、佐藤千夜子が吹き込んでいる。


212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/20(Wed) 22:46
>>211

生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌でもあった。 晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平、信州中野出身の晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として賞を獲得したり栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
その28日後、今から67年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。 晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。



213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/02(Sat) 00:36
古賀政男総合スレ 2CH


h ttp://2chb.net/r/natsumeloj/1320231349/


ここのyou Tube で李香蘭歌う「荒城の月」(土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲 1942)が聴けます。

李香蘭が戦地慰問でいつも最初に歌ったのが、この「荒城の月」です。


214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/02(Sat) 23:22

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)

そして、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていくのが古賀政男の【古賀メロディ】。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそことによる。

今年、平成31年は『古賀メロディ 88年』

影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・

もうすぐ90年!


戦前の「古賀メロディ」のたくさんある名曲のほとんどが80年を超えた、名実ともに【日本のクラッシック】といえるもの。



215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/12(Tue) 13:39

童謡を次世代へ、学会創設 雨情の作曲コンクール開催
2019 3/5(火) 16:49配信 共同




日本童謡学会の会見に出席した松尾一彦さん(後列左)、野口不二子さん(前列中央左)、海沼実さん(同右)ら=東京都内
 童謡を次世代へ歌い継ごうと、歌手や研究者らが昨年、日本童謡学会(東京都新宿区)を創設。今春から詩人野口雨情の詩に曲をつける作曲コンクールを開催するなど、普及や研究に向けた活動を本格化させた。

 同学会理事長で、長年合唱団などで童謡の指導をしてきた音楽教育家の海沼実さんは「童謡は想像力をかき立てる作品が多い。心にとっておやつのような、栄養を満たしてくれるもの。子どもたちに、創作当時に込められた思いを大切にしながら、伝承していきたい」と話す。
同学会は、北原白秋らが童謡を発表した雑誌「赤い鳥」の創刊100年に当たる昨年7月に創設された。昨今、幼稚園や保育園などの教育現場以外では童謡を歌う機会が激減しており、海沼さんは「風前のともしび」と危機的状況を訴える。

 「七つの子」や「シャボン玉」を生み出した雨情の詩に曲をつける作曲コンクールは、プロ・アマ問わず、8月末まで作品を募集している。審査員を務めるのは、雨情の孫野口不二子さんや、NHK「みんなのうた」で放送された童謡の作曲も手掛けた元「オフコース」の作曲家松尾一彦さんらと、力が入る。
 今後は、童謡を使った音楽療法で高齢者の心身ケアをする「童謡セラピスト」の養成や、童謡に関するデータベース構築なども計画している。
名誉理事に就任した、落語家の故初代林家三平さんの妻でエッセイスト海老名香葉子さんは1月、都内で開かれた会見で、戦災孤児となった自身の経験を踏まえて思いを語った。「私は童謡や唱歌によって生き永らえました。歌は人の心を優しくしてくれます。(雨情ら)先生方がつくった童謡を永遠に歌い継がなくてはいけない」



216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 18:14
「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。
明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。
当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。
哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。
世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。
三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれば」に通ずることだ。
他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。
武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。

「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)
※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。
幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。
そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。
戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 22:55
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 13:21
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」

好評 発売中!

オリジナル原盤を使っているので良い。


219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:25
流行歌の世紀―近代日本の大衆音楽(菊池清麿)
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html

流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。



220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:44
苦闘の時代―作曲家・古関裕而誕生
コロムビア入社



221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:44
昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア

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