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【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 17:53
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。




83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/01(Sat) 15:31
関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。


84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/01(Sat) 17:58
>>78-80
テイチク株式会社社史編纂委員会 企画・編集
「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)昭和館所蔵

85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/02(Sun) 09:53
>>84

(参考)

テイチク50年史・・

テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
142ページ

昭和9年(1934)2月設立したテイチクレコード50年史

コロムビア社を退社し、同社に重役待遇で招聘された古賀政男は同9年5月テイチク東京文芸部(古賀文芸部)発足させ、
いわゆる「テイチク黄金時代」を築いた、


南口重太郎が奈良で蓄音機、レコード事業に進出したのは昭和六年である。三年間、浪花節で事業基盤を作ってきた。古賀政男を迎えて東京に進出し、正式に帝国蓄音器株式会社を創立したのは昭和9年2月11日である。
帝蓄は創立間もないころ日活と映画主題歌獲得のためのタイアップをまとめていた。音楽制作費を帝蓄が負担する条件で提携したのである。

古賀政男は帝蓄に入ってから藤山一郎のビクターの契約切れを待っていた。古賀は茂木了次を説得にあたらせた。古賀は一作家ではなく、帝蓄専務の立場だったから、条件交渉もその場で決着をつけられたから話は早かった。
古賀、藤山の第一作「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞)は、コロムビア文芸部首脳が青ざめるほどの大ヒットになった。創業まもない小さなレコード会社だった帝蓄は、古賀のお陰でレコードメーカーとしての基盤を築き、驚くほど短期間に黄金時代を築いてしまった。


・1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
・1934年5月、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役(専務取締役)とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
・東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、年末にはディック・ミネも専属とした。
・1934年(昭和9年)7月、古賀政男テイチク専属第1回発売新譜4曲のひとつ佐藤惣之助作詞、楠木繁夫『国境を越えて』。
・1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
・1938年、古賀政男退職。
・ 1944年5月25日 帝蓄工業株式会社と改称。
・1953年4月1日 社名をテイチク株式会社に変更


コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠木繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠木繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。


86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/02(Sun) 19:43
☆古賀政男と主な人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、藤原義江、三浦環
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香蘭)、森繁久弥



87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/03(Mon) 22:07
☆萩原朔太郎と古賀メロディ


『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。

 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...



・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫

・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)


詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。




88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/04(Tue) 22:53
昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。

マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。

なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、古賀邸のある代々木上原から二つ目、三つ目。

朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半月後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、

4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。

朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。

(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について  
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977


 


89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/04(Tue) 23:39
代々木上原の3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。
古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。
それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/04(Tue) 23:48
>>88
(参考)世田谷散策記 せたがや地域風景資産 No.2-3
代田の丘の61号鉄塔


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/05(Wed) 11:33
>>90
せたがや地域風景資産 No.2-3
代田の丘の61号鉄塔
東京電力の鉄塔のひとつである代田の丘の61号鉄塔のすぐ下には、昭和8年頃、詩人の萩原朔太郎が家を建てて住んでいたということです。その娘葉子の小説にも鉄塔が描写されるなど、文学にゆかりのある貴重な資産となっています。(紹介文の引用)
・場所 : 世田谷区代田2丁目4−11
・登録団体など : 北沢川文化遺産保存の会
・備考 : ーーー
・サイト内関連項目 : ーーー
・関連サイト(外部) : 東京荏原都市物語資料館

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:00
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。



古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。


日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。




93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:10
☆三浦環と古賀政男

日本が生んだ世界的プリマドナ三浦環が、その63歳の生涯を終えたのは66年前、終戦直後の昭和21年5月26日のことで、東京渋谷の病院で死去。

環が亡くなった時、東大病院で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ たという。
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちがとかく西洋かぶれして日本の文化を見失っていたのと違って、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。また、三浦環と古賀政男には深い関係が有る。

なお、古賀メロディを支えた歌手に、三浦環に師事した李香蘭(山口淑子)、白光や、東京音楽学校を出て、『蝶々夫人』で三浦環と共演した由利あけみなどがいる。


「私は貴方の歌に恋してるのよ」・・古賀政男自伝『我が心の歌』(展望社刊1965) には二人のスナップ写真などが載っている。

古賀政男と三浦環(1884〜1946)この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環は昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せている、古賀政男の芸術を高く評価していたようである。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。

そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。

そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

昭和11年(1936年)(『蝶々夫人』出演2000回達成後の帰朝で、昭和11年6月16日の「日本青年館」で行われた「第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会」で、三浦環が古賀メロディ『忘れなの花束』(野村俊夫作詩)と、『乙女心』(鹿山鶯村作詩)を歌ったという。

三浦環(柴田環)は、明治37年(1904年)に東京音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。

夏はテニス姿の若者があふれる山中湖村、この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌姫、三浦環がその晩年を過したことを知る人はあまりいない。
戦争中、戦火を避けて山中湖畔に疎開した三浦環と、もうひとり河口湖畔に疎開した古賀政男、二人はサツマイモ一つも分け合う仲だったという。






94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:12
環が山中湖村平野で過ごしたのは、昭和18年2月14日、旅館三国荘別館に疎開。してから病を得て入院のため上京した20年の暮れまでの2年10カ月ほど。
後に87歳の母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったという。

夜中に母の湯タンポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話は今に語り伝えられている。 .・

しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和20年の暮、病を患って入院のため上京、翌21年5月28日、渋谷の病院で死去。

遂に生きて再び平野の土を踏むことはなかった。同年6月7日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希望で今、平野の寿徳寺の奥津城(おくつき)に母堂、登枝と共に眠っている。

祖国愛に満ちた信念と自尊の明治の女だった環は、平野疎開中も、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけたという。


今、平野寿徳寺の墓碑面には、環自筆の

《「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ   環」》

との文が刻まれている。

ロンドンのロイヤルアルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演以来、ニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とし、「蝶々夫人」2000回公演を果たした三浦環。

世紀のテノール、エンリコ・カルーゾーと共演した三浦環、プッチーニをして「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と言わせた三浦環、その言葉である。

昭和20年12月、日比谷公会堂で自らの訳詩による「冬の旅」をうたうが、発病、上京して、渋谷の友人の病院に入院。昭和21年5月26日午前5時20分、渋谷の大東学園病院で死亡しました。

昭和21年入院中に放送と録音を行うも、5月26日死去。6月7日、日比谷公会堂で音楽葬。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という環の遺言により、母堂・登枝の眠る山梨県山中湖村平野、寿徳寺に葬る。

環が愛用したピアノは、環の住んだ部屋共々、今、平野の三国荘別館に保存されているという。(公開されていない。)

   ttp://www.nakash.jp/opera/kikou05/18fuji/4miura.htm
   ttp://yamanakako.info/sisetsu.php?id=157
なお、三浦環の「募石」はもうひとつ、上野の寛永寺第一霊廟の入口近くにもある。「Madam  Butterfly」と刻まれている蝶の形をしていて、傍らの碑には、次の詩が書いてある。

    葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな





95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 12:20
一方、[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、昭和20年3月から8月まで。

今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。

こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。

自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html

(参考)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)
・「人間の記録27 三浦環―お蝶夫人」 (日本図書センター (1997)


・三浦環−古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
  ttp://25877386.at.webry.info/
・三浦環と李香蘭   ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835

・流行歌曲について  萩原朔太郎
  ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html






96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:11
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。





97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:14
彼が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。

その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。

この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。

酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わだつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。

そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。

昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。

今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後75年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。





98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:29
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。






99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:31
関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。

彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。


自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。


その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。

・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5  VIC 50321@
當世銀座節   (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7  VIC50371@
東京行進曲    (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6  VIC50755A
愛して頂戴    (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8  VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌)  1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇 (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2  VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2  VIC 51093A
この太陽        (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6  VIC 51240A



100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 16:36

西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。

そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。

また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。

*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)

去りゆく影  (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.1
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
椿姫の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) 淡谷のり子1933.3
浮草の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄    (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲) 淡谷のり子1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴  1933..6
十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア  1933.6
気まぐれ涙     (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅     (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   193310



「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。






101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/06(Thu) 17:20
「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。




なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」

古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。

新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html

1940 .2 誰か故郷を想わざる      霧島昇
1940 .2 あの花この花          二葉あき子
1940.5 春よいづこ            藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声         藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻        志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌   霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い          伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮           李香蘭
1941.7  そうだその意気         霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7  夜霧の馬車       李香蘭
1941.7  歌えば天国       藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘       渡辺はま子
1942.7  夕月乙女        李香蘭
1943.3  若き日の夢       李香蘭
1943,5  サヨンの歌       李香蘭




102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 00:08
山田耕筰は、「日本の代表的な歌」として、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し、外国に紹介していた。

☆農村婦人の唄 山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード 昭和7年
ttp://www.garitto.com/product/14389470
山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌。

桑田登志子作詞 山田耕筰作曲 オリオンコール女声合唱団 0709 COL27067
北部善良作詞  古賀政男作曲 淡谷のり子        0710 COL27067
 



専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式。28歳の時である。
相手は松竹少女歌劇スター、コロンビア専属歌手だった中村千代子。だが結婚は一年も続かなかった。翌、昭和8年10月離婚。離婚については、古賀は多くを語らない。それから一生古賀が結婚することはなかった。

この一連のごたごたで体調を崩して肺浸透で入院、伊東温泉に別荘を借りて転地療養。古賀政男がスランプで作曲を停滞させたのは長い作曲家人生でただこの期間だけだった。
その間、帝国蓄音機と言う小さなできたばかりの会社の社長南口重太郎氏の見舞いを受ける。この間、コロムビアの冷たい対応で、古賀は昭和8年5月1日、コロムビアを退社。だが、コロムビアは契約をたてに、退社を受け入れなかった。

この争いに救いの手を差し伸べたのが弘田龍太郎だった。
契約条件をはるかに超える作品を作っているという言い分が通って解決。

そして、昭和8年5月15日、古賀政男はテイチク入社、専務取締役としてである。南口社長は、古賀に重役待遇で,レコード企画と吹き込みにつき、一切の権限と責任を持つと言う破格の条件を示して熱心に招請していたのだった。


そして古賀は、銀座にテイチク東京文芸部、通称古賀文芸部を発足させ明大マンドリンクラブの後輩7人を呼び寄せ、11年にはビクターとの3年契約の終えた藤山一郎を呼び寄せる。ここに、世にいう「テイチク黄金時代」(古賀政男第二期黄金時代)が始まる。

山田耕筰は、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し「日本の代表的な歌」として紹介していた。

なお、中村千代子との結婚の前、昭和7年6月には、山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌「農村婦人の唄」である。

その後、昭和13年,古賀政男はテイチクを退社。1年間の「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカや南米各地を回り、世界の古賀として凱旋、昭和14年にコロムビアに復帰。

コロムビアに移籍していた西條八十との黄金コンビも復活。古賀政男第三期黄金時代を築く。

弘田龍太郎は、国民合唱・陸海軍礼式歌「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲。楠木繁夫・松原操歌。1944年10月・日畜=コロムビア)の編曲を行っている。





103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 14:27
☆《丘を越えて》と山田耕筰

古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。
(引用)流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)    
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html




「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなで当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽だす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。
歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。


104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 14:33
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 14:40

<<「日本の名曲」 影を慕いて>>

影を慕いて
 詩・曲 古賀政男


まぼろしの 影を慕いて
雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ しのび泣く

昭和歌謡の最高傑作と言われる。
古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。

平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10」として、「荒城の月」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。

昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。

翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。

「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。

492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/01(Wed) 18:45

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 23:16
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&to=50

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:42
丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.


2012/10/29 に公開
昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/12(Wed) 22:58
        <「古賀政男」の出てくるドラマ>

昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ

昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
若尾哲平   

昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
      (1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)

昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十) 
NTVテレビ

平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/15(Sat) 19:15
上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)

「影を慕いて」 昭7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。


110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(Wed) 23:58
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2



111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/08(Mon) 11:37
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27


112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/12(Mon) 17:28
☆古賀政男と主な人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、奥田良三、藤原義江、三浦環
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香蘭)、森繁久弥


113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:47

<「影を慕いて」の曲碑>

 古賀メロデーの原点といえば、「影を慕いて」・・朝鮮のメロデーと同じ三拍子・・で、この曲碑は宮城県の蔵王に近い「青根温泉」(自然の森公園内)と、「古賀政男記念館・生家」のある家具の町、福岡県・大川市・大川公園内、そして戦時中疎開していた河口湖畔にもあります。
 この歌が作られた、昭和3年には、演歌や「さすらいの歌」などを除けば、「出船」「波浮の港」「出船の港」や、「青空」「アラビアの歌」などあちらの歌を除いて現在ある歌はまだ存在しなかった。

青根温泉「影を慕いて」曲碑   h ttp://ww5.et.tiki.ne.jp/~kawsaki2/koga.htm
古賀政男記念館    h ttp://www.city.okawa.fukuoka.jp/kogakinen/hall.html

河口湖畔 古賀政男記念公園「影を慕いて」音楽碑
h ttp://www.mt-fuji.gr.jp/spot-manabu/koga/
「影を慕ひて」の歌詞と楽譜が刻まれていて、実際にセンサーで音楽が流れるようにもなっています。
外国人の方も多く訪れていて、ガイドさんが熱心に日本の有名な音楽家であることを解説されていた光景が印象的でした。




114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:48
山梨きまぐれ歴史散歩「古賀政男記念碑」(2008年11月)

ここは河口湖の北岸ということになりましょうか、河口湖円形ホールの前です。
新聞で紅葉回廊という言葉を見て、まいりました。10月24日から11月16日まで、富士河口湖紅葉まつりも行われております。
紅葉回廊は辻が花染めで知られる久保田一竹美術館の前入ったところです。
紅葉を愛でながら河口湖に沿って歩いておりましたら、古賀政男の碑がございました。
大変立派な石碑です。横幅が3メートルほど、縦が2メートルくらいの自然石に黒御影がはめ込まれておりまして、左側には「影を慕いて」の楽譜が、右側にはその歌詞が、そして歌詞の上部に古賀政男氏のレリーフが刻まれております。
下の台が、70センチほどもありましょうか、大変大きな石碑です。
お散歩中のご近所の方にお話を伺いました。
「対岸に見えているのが鳴沢です」
「あの下あたりに、大きなゴルフ場が3つくらい・・・河口湖カントリーとか富士桜カントリーとかね」
「ここから見る富士は素晴らしいです」
「ドレスのようになだらかに裾をひいていますでしょ、女富士っていうのです」
「あそこの橋の向こうに、太宰治が書いた「かちかち山」の舞台になったところです」
うっとりとした表情でお話くださいました。
碑の裏側に回ってみましょう。






115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:50

「昭和の大作曲家として日本歌謡史に燦然と輝く音楽家として、国民栄誉賞を受賞した古賀政男、その生涯で数々の名曲を生み出した古賀が、昭和20年3月から8月まで過ごしてのがここ富士河口湖町、当寺の河口村であった。きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった私の故郷河口村に疎開することとなったのである。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごした。8月15日、古賀の安否を気遣って駆けつけてきた青年達と共に、終戦の日を迎えた。古賀は青年達一人一人に石鹸を手渡し、これからは新しい時代が来る。間違いなく来る。皆で古い時代の垢を洗い流し、新生日本に向って第一歩を踏み出そうと激をとばし、一斉に河口湖に飛び込んで心身共に清め、霊峰富士に向って新たな誓いをたてたのである。今年は古賀政男生誕百年。」この記念すべき年に、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようという富士河口湖町の人々の古賀に対する熱い思いが結実し、歌碑を設置していただき、多くの方々に古賀の意思と歌の心に触れていただけることとなり、心より深く感謝申し上げる次第である。」
平成16年11月
     財団法人古賀政男音楽文化振興財団理事長山本丈晴




116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/16(Fri) 12:53
山本丈晴といえば、女優の山本富士子と結婚なさった方ですよね。古賀政男の内弟子だったのですね。
山本丈晴は本名を古屋武治といい、ここ富士河口湖町の出身です。
昭和20年2月に古賀政男に入門して、ギターと作曲を学びました。
そして3月に古賀政男は、当時古屋武治であった山本丈晴の出身地河口村に疎開したということなのですね。
その後、ハワイ、北米、ブラジル、アルゼンチンなどへ古賀政男と共に演奏旅行をしています。
昭和37年に女優の山本富士子と結婚して、山本丈晴となるのですね。
古賀政男が作曲した作品の数は4000とも5000とも言われているようで、正確な数は判りません。それほだ多くの曲を作ったということなのでしょう。
その中からいくつかの作品をご紹介いたしましょう。
  丘を越えて 歌 藤山一郎
  酒は涙か溜息か 歌 藤山一郎
  影を慕いて 歌 藤山一郎
  緑の地平線 歌 楠木繁夫
  ああそれなのに 歌 美ち奴
  人生の並木道 歌 ディック・ミネ
  人生劇場(1938年・1959年)楠木繁夫、村田英雄
  誰か故郷を思わざる 歌 霧島昇
  湯の町エレジー 歌 近江俊郎
  赤い靴のタンゴ 歌 奈良光枝
  トンコ節 歌 久保幸江・加藤雅夫
  ゲイシャ・ワルツ 歌 神楽坂はん子
  白虎隊 歌  霧島昇
  りんどう峠 歌 島倉千代子
  青春サイクリング 歌 小坂一也
  無法松の一生 歌 村田英雄
  東京五輪音頭 歌 三波春夫
  柔 歌 美空ひばり 
  悲しい酒 歌 美空ひばり

数の多いのにも驚きますが、その巾の広さも凄いですね。

この碑の正面に立ちますと、「影を慕いて」と「丘を越えて」が交互に演奏されます。
こちらにおいでの節は、おためしくださいませ。
 




117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/20(Thu) 19:20
☆古賀政男とその主な人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香  蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・


118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 08:44
日本の洋館 第6巻 昭和篇2
 ISBN-13: 9784062614863
▼目次(日本の洋館 第6巻 昭和篇2)
はじめに 藤森照信 増田彰久

岩崎小彌太別邸(静岡県) 三菱解体を見届けた財閥最後の館
三井家別邸(北海道) 迷路か迷宮か、三井家の屋敷の数々 国登録文化財
乾新兵衛邸(兵庫県) 乾汽船はジャコビアン様式の館
日向利兵衛別邸(静岡県) 世にも不思議な竹と絹の地下空間
刑部人邸(東京都) 画家の家は国会議事堂と兄弟!?
アントニン・レーモンド別邸(長野県) 日米の狭間に生きた建築家の夏の家
徳川義親邸(長野県) 熊彫りと葵の御紋、尾張徳川家の館 長野県指定文化財
土浦亀城邸(東京都) バウハウス流モダニズムの旗手の家 東京都指定文化財
細川護立邸(東京都) 現地解説つき細川家の大型西洋館 東京都指定文化財
杵屋六左衛門別邸(静岡県) “新興数寄屋”の代表作に残る一つの謎
遠山元一別邸(埼玉県) 日興証券創業者の親孝行の家 国登録文化財
福本貞喜邸(東京都) いぶし銀のような経営者の終の住み家
原邦造邸(東京都) 御殿山に出現した白いモダニズムの家
師岡和賀邸(現存せず) 名女将の隠れ家的小住宅「歓帰荘」
渋沢信雄邸(長野県) 哲学青年が望んだイギリス田舎屋風
林芙美子邸(東京都) 放浪の末たどり着いた女流作家の館
古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ
新津恒吉邸(新潟県) 石油王が造ったヨーロッパ重箱詰めの館 国登録文化財

掲載邸一覧(施主/竣工地/竣工年/設計者/現状および公開・非公開/現住所および問い合わせ先電話番号)
◆歴史遺産 日本の洋館 全6巻
◆背景ビジュアル資料5 洋館・洋風建築



119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 08:51

・・古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ

私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。昭和13年完成。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。。「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


代々木上原三丁目 古賀政男邸
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,

古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違い。

因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。

古賀メロディーを愛したというあの角さん(田中角栄)の、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)。

参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。
ついでに赤穂浪士が討ち入りしたという本所松坂町(現在の両國3)の吉良邸
の屋敷は2550坪という。



120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 11:48
殆どの有名人の豪邸というのが、土地がせいぜい100坪位、道路に面してすぐ車庫や玄関があり、そこに外車があったりするが、そんなものではなかった。 代々木上原駅前、井之頭通りに面した3000坪の土地に構える豪邸、古賀政男邸、現在は「古賀政男音楽博物館」とJASRACビルが入るビルになっているが、

当時、その門から60メートルお石畳の先に和洋折衷の洋館の玄関があた。
玄関前は約20台の車を停められる広場がって、そこには二三台の車が入る大きな車庫が二つ、三つあった。

ベンツ2台に、大きなリンカーン、キャディラックが見える。



121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/23(Sun) 12:00
よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。
私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、
車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
h ttp://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html


師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。

 古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
 そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。
 坂を登った左側には車庫があって車幅2mもあるリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。




122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/25(Tue) 11:35
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。



123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 17:40

☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)  1500坪
孫正義邸(港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪



124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/29(Sat) 18:48

『知ってるつもり?!』は、1989年10月8日から2002年3月24日まで、日本テレビ系列にて、毎週日曜日21:00〜21:54に放送された。

1990年の一部/
·7月29日 カーネギー
·8月5日 棟方志功
·8月12日 古賀政男
·8月19日 バロン西(西竹一)
·8月26日 湯川秀樹

横浜情報文化センター放送ライブラリーで視聴可。

横浜情報文化センター放送ライブラリーは、NHK以外の民法の記録されているラジオやTV放送を無料でみることができる施設。
NHKについてはNHKアーカイブスや各放送局、放送博物館。




125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/08(Fri) 21:17
白虎隊

作詞 島田欣也 作曲 古賀政男
歌 藤山一郎


(一)
戦雲暗く 陽は落ちて

弧城(こじょう)に月の 影(かげ)悲し

誰(た)が吹く笛が 知らねども

今宵名残の 白虎隊


(二)
紅顔可憐の 少年が

死をもて守る この保寒(とりで)

滝沢村の 血の雨に

濡らす白刃の 白虎隊



詩吟

「南鶴ヶ城を望めば 砲煙あがる

痛哭(つうこく)涙を飲んで

且つ彷徨(ほうこう)す

宗社(そうしゃ)亡び 我事終る

十有九人(じゅうゆうくにん) 屠腹(とふく)してたおる」


(三)
飯盛山の 山頂(いただき)に

秋吹く風は 寒けれど

忠烈今も 香に残す

花も会津の 白虎隊

126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/08(Fri) 21:20
>>125

[白虎隊]は昭和12年(1937)藤山一郎、昭和27年(1952)霧島昇。

日本舞踊でもよく踊られ歌われる有名な作品です。

白虎隊
島田欣也作詞 古賀政男作曲
昭和12年 藤山一郎  詩吟 鈴木吟亮  テイチク
昭和27年 霧島昇   詩吟 荒国誠   コロムビア



吟亮流吟風会
·
初代が琵琶から詩吟に転向したのが昭和5年。その5年後に古賀政男先生に認められて「白虎隊」(テイチク)が大ヒットしました。運も実力のうち?。戦後の霧島昇さんとの共演版(コロンビア)と続けて入れてありますので聴き比べて下さい。
h ttps://www.youtube.com/watch?v=POxCDFUGIGM


鈴木吟亮「白虎隊」詩吟(戦前版と戦後版比較)
昭和12年の藤山一郎さんVir.と、戦後の霧島昇さんVirを詩吟部分のみ比較しました。大きな違いは詩が異なります。戦前版は「十有六人」。戦後版は「十有九人」。大ヒットしただけに反響や論議が活発だった…
youtube.com


127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/08(Fri) 21:25

日本の豪邸

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50

128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/11(Mon) 22:49
昭和歌謡が好きな人集まれ!

129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 15:37
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 20:54
昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS 10cH


131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:27
>>130
昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 18:02

   11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日




史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。


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