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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/30(Sat) 21:51
本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。
同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(同、西岡水朗作詞、天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女。 高橋掬太郎作詞)、
「丘を越えて」(姉,島田芳文作詞)、「鳩笛を吹く女の歌」(同、佐藤惣之助作詞)(いずれも藤山一郎歌、1931)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/05(Thu) 23:02
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27

これぞ名曲!、昭和初期から、戦後昭和20年代のレコードに注目!

これ以後、日本がだんだん豊かになるにつれ和製POPだとか外国曲の影響を強くうけたものや、
素人歌手にむしばまれてゆく。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/11(Wed) 10:51
日本の豪邸

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


世界の名車
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=410079389&ls=

104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/12(Thu) 22:08
昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/music/index2.html#2


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:18
(訂正)

昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/15(Sun) 22:35
世界の名車

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=410079389&ls=50

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/27(Fri) 20:51
湯 の 町 エ レ ジ ー

作詩 野村俊夫  作曲 古賀政男
昭和23年   歌 近江敏郎

1 伊豆の山々 月淡く
  灯りにむせぶ 湯の煙
  ああ 初恋の
  君を尋ねて 今宵また
  ギターつまびく 旅の鳥


2 風の便りに 聞く君は
  出湯の町の ひとの妻
  ああ 相見ても
  晴れて語れぬ この思い
  せめて届けよ 流し歌


3 淡い湯の香も 路地裏も
  君住むゆえに 懐かしや
  ああ 忘られぬ
  夢を慕いて 散る涙
  今宵ギターも むせび泣く 

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/27(Fri) 21:02

この「サーカスの唄」は昭和8年来日したドイツのハーゲンベック・サーカスの来日を記念したもの、サーカスも大変な人気を博し、その時から<曲馬団>が<サーカス>と呼ばれるようになった。
     
  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌唱:松平晃
  
  昭和8年(1933年)

  (一)
  旅のつばくら*1 淋しかないか
  おれもさみしい サーカスぐらし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た
 
  (二)
  昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘は うす情

  (三)
  あの娘住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ
 
  (四)
  朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で


詩人・芸術院会員、早大教授、仏文学者西條八十と古賀政男コンビの最初期の作品、
この名コンビは戦後までたくさんの名曲を残した。

109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/28(Sat) 00:32
美空ひばり 娘船頭さん

西條八十作詞 古賀政男作曲
1955 映画「娘船頭さん」主題歌





娘十八 口紅させど

わたしゃ淋しい 船頭むすめ

燕来るのに 便りも無くて

見るはあやめの ヨウ 花ばかり



想いそめたは 鹿島のまつり

おまえゆかたで わたしは島田

祭太鼓に 櫓拍子あわせ

漕いだあの夜の ヨウ 天の川



鐘が鳴ります 潮来の空で

月に墨絵の 十二の橋を

漕いで戻れど 別れたひとと

水のながれはヨウ 返りゃせぬ



110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/28(Sat) 00:51
美空ひばり 柔

関沢新一作詞 古賀政男作曲





勝つと思うな 思えば負けよ

負けてもともと この胸の

奥に生きてる 柔の夢が

一生一度を

一生一度を 待っている



人は人なり のぞみもあるが

捨てて立つ瀬を 越えもする

せめて今宵は 人間らしく

恋の涙を

恋の涙を 噛みしめる



口で言うより 手の方が早い

馬鹿を相手の 時じゃない

行くも住(とま)るも 座るもふすも

柔一すじ

柔一すじ 夜が明ける




111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/30(Mon) 11:52
三百六十五夜

西條八十作詞 古賀政男作曲

昭和23年(1948)


歌、霧島昇/松原操


(一)
みどりの風に おくれ毛が

やさしくゆれた 恋の夜

初めて逢うた あの夜の君が

今は生命を 賭ける君


(二)
たそがれ窓に 浮ぶのは

いとしき人の 旅すがた

われゆえ歩む 道頓堀の

水の夕陽が 悲しかろ


(三)
鈴蘭匂う 春の夜

灯火うるむ 秋の夜

泣いた 三百六十五夜の

愛の二人に 朝が来る



昭和23年、小島政二郎原作、映画「三百六十五夜」主題歌
歌手松原操はこの歌を最後に引退し、その後再び歌うことはなかった。


112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 19:10
青 春 サ イ ク リ ン グ
 
作詩 田中喜久子  作曲 古賀政男

昭和32年(1957) 

1  みどりの風も さわやかに
  にぎるハンドル 心も軽く
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  青い峠も 花咲く丘も
  ちょいとペダルで 一越えすれば
  旅のつばめも ついてくる ついてくる 
  ヤッホー ヤッホー ヤッホー ヤッホー

 
2 行こうよ君と どこまでも
  はずむ銀輪 リズムに乗って
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  波もささやく 浜辺の道を
  若い歌声 合わせて走りゃ
  潮のかおりが 夢を呼ぶ 夢を呼ぶ
  ヤッホー ヤッホー ヤッホー ヤッホー

 
3 夕焼け空の あかね雲
  風にマフラーを なびかせながら
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  走り疲れて 野ばらの花を
  摘んで見返りゃ 地平の果てに
  あすも日和の 虹が立つ 虹が立つ
  ヤッホー ヤッホー ヤッホー ヤッホー



113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 19:50
悲しき竹笛

西条八十作詞 古賀政男作曲

昭和21年(1946年)

歌 近江俊郎/奈良光枝


(一)
ひとり都の たそがれに
思い哀しく 笛を吹く
ああ 細くはかなき 竹笛なれど
こめし願いを 君知るや

(二)
そぞろ歩きの たわむれに
書いてわかちし 思い出よ
ああ 花の笑顔も やさしく浮かび
われを泣かせる 歌のふし

(三)
雲は流れて 返れども
鳥は塒(ねぐら)に 急げども
ああ誰にあかさん 唇燃ゆる
こよい男の 純情を

(四)
花の都は たそがれて
窓にさみしき 銀の星
ああ 想いせまりて 吹き吹く調べ
風よ伝えよ かの君に

114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 20:00
美空ひばりは昭和24年8月12歳のときに、『踊る竜宮城』に出演して『河童ブギウギ』(藤浦洸作詞、浅井挙曄作曲)を歌い、レコード(ただしB面)になりました。これがひばりのレコードデビューとされています。
(この歌はひばり全集に入っていますけど、まあフツウの歌だと思います)
 そのあと『悲しき口笛』で主役を演じ、その主題歌『悲しき口笛』(藤浦洸作詞、万城目正作曲)が大ヒットして、実質的なデビューを果たします。
 レコードの発売は同年9月だったようです。
 そしてコロンビアと契約し、翌昭和25年からヒットを連発するのですが、昭和24年より前の数年間は、母親があちこち連れて歩いて、何とかデビューさせようと必死で運動していました。

 その運動の一つに、古賀政男との面会があります。
 昭和22年の春、横浜桜木町の焼けビルでのど自慢大会があり、そこに古賀政男が審査員として来ていました。
 ひばりを連れた母親は古賀政男の楽屋に強引に入り込み、娘の歌をぜひ聴いてくれ――と頼んだそうです。

 古賀は想像する以上に包容力のある人だったらしく、無名の少女が大人の歌を歌うのを聴いてくれました。
 歌ったのは『悲しき竹笛』。
 伝えられるところでは、古賀政男はひばりの歌を褒めてくれたそうです。
 しかしデビューには直接は結びつきませんでした。
 当時の社会のモラルは厳しいものがあって、少女が大人の歌を歌うことへの反発が大きかった事も原因でしょう。

 この話はこれでお終いなのですが、じつはこの件について異論があるらしいのです。
 この時ひばりが古賀政男の前で歌ったのは『悲しき竹笛』一曲だけではない、二曲か三曲歌っていた。
 ――という説です。いくつかの伝記で読みました。
 ひばり母の性格からいっても、その可能性は十分にあると思います。
 私の疑問というのは、もし仮にそうだったとしたら、『悲しき竹笛』以外の歌は何だったのか――という事なのです。
 当時盛んに歌われていて、ひばりの十八番だった『長崎物語』では?
 ――という人もいるらしいのですが、これは古賀メロディではありません。

 無理矢理考えますと、そのころひばりの両親が好きだったという古賀メロディが候補に浮かびます。
 伝記によりますと、父親は『裏町セレナーデ』が好きでよくギターを弾きながら歌っていたそうです。
 とても良い歌です。
 一方母親が好きだったのは、戦前の『女の階級』だったとか。
 これもとても良い歌です。
(この二曲とも後にひばりは吹き込んでおり、『ひばりの古賀メロディ』のどれかで聴くことができる筈です)

115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 23:29
麗人の歌

西條八十作詞 古賀政男作曲

霧島昇 歌

昭和21年(1946)



(一)

夢はやぶれて 花嫁人形

華美(はで)な袂が 恥かしや

覚めて浮世の 窓見れば

みんな泣いてる ああ人ばかり


(二)

告ぬ想いを さみしくこらえ

君とゆく夜の 小糠雨

いとしお方の 肩たたく

雨がわたしで あああったなら


(三)

籠に飼われた 緋総(ひぶさ)の鳥が

強い女と なる朝は

こころ筑紫の 波の上

うかぶ白帆に ああ虹が立つ


*1946映画「麗人」主題歌、ギタ―は古賀政男


116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/05(Sun) 09:04
島倉千代子「りんどう峠」1955


西条八十作詞 古賀政男作曲


(一)
りんりん りんどうの花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
りんりん りんどうは 濃むらさき
姉サの小袖も 濃むらさき 濃むらさき
ハイの ハイの ハイ

(二)
りんりん りんどうの花咲く峠
姉サは馬コで あとふりかえる
姉サに行かれて なんとしよう
いっしょに柴刈る ひとも無い ひとも無い
ハイの ハイの ハイ

(三)
りんりん りんどうは小雨にぬれる
わたしゃ別れの 涙でぬれる
りんりん鳴るのは 馬の鈴
姉サは峠に 消えてゆく 消えてゆく
ハイの ハイの ハイ


昭和30年(1955)、高田幸吉主演映画「りんどう鴎」挿入歌
島倉千代子17歳の時の作品。


作詞の西条八十は、詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授、童謡「カナリア」でも知られる偉大な詩人であり作詞家。

昭和の初めから歌謡曲、歌曲、新民謡などにも多くの作品を残した。
古賀政男とのコンビは黄金コンビと言われ、昭和の初めから戦後に至るまで数知れない多くの名曲を世に送り出した。

117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 17:57

 11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日



史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。

118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/21(Tue) 23:11
心を打つ本当の「名曲」、それはまだ日本が貧しかった時代、苦しかった時代、昭和SP歌謡にあり!。

119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/23(Thu) 22:34
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。


『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。



「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html




120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/23(Thu) 22:44
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない詩。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。


以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。





人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。

若きディックミネの歌う 昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。






121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 20:20
詩人・西條八十・・「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「銀座の柳」「お菓子と娘」「愛染かつら」「誰か故郷を想わざる」「春よいずこ」「サヨンの鐘」「青い山脈」「三百六十五夜」「王将」などの歌謡、
「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・・、日本人なら誰でも一度は聞いたことがある、そのやさしい歌は、日本人の心の中に深く根ざすもので、これからも歌い継がれるにちがいありません。
詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっ
かけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。皆さん、西條八十の歌をいくつしってますか・、中でも黄金コンビとされる、たくさんある「西條八十作詞、古賀政男作曲」、いくつ知ってますか。

122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 20:45
西條八十と関東大震災

 その話のなかで「西條八十が関東大震災に遭遇して上野の山に避難したおり、少年の吹くハ−モニカを聞いたその時の感激が、歌謡作詩家になっていった」という話に、とくに興味をそそられた。
 そこでその出典となった本や西條八十の経歴を調べてみた。
 西條八十に関する資料をみると「フランス象徴派の影響を受けた近代詩人、童謡詩人、歌謡作詩家の三つの顔を持つ」と書かれている。

 歌謡作詞家の顔を出すきっかけは、中央公論社、昭和50年4月10日発行の西條嫩子著「父 西條八十」のなかに書かれている。
 「大正12年、母がお産で入院中、大震災がおきた。私はまだ、四歳で、妹の慧子と盲目の祖母をかかえるようにして、琴という名の保母兼家政婦が中庭につれだすと同時に、目の前の物置が大震動で瞬時にくずれてめちゃめちゃになってしまった。

 
 余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。

 ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。それは思いがけぬ美しく優しい音であった。激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、こんなつまらない歌でも人々の心を慰めることができる。
それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。この時の得もいわれぬ深い感銘が父をして歌う唄、大衆への歌、レコ−ドへ向かう機縁となったようである」と、「父西条八十は私の白鳥だった(集英社文庫)」などの著作の八十の娘さんが書いている。

こんなつまらない歌でも人々の心を慰めることができる。自分も大衆のために役立つことができればと、大衆歌謡への思いを決めたと自伝「唄の自叙伝」にある。

西條八十と船頭小唄

 この話を聞いたのは、阪神大震災のあった年、平成7年の5月頃だった。その年の暮れの日曜日、車の中でNHKラジオから野口雨情を話題にした歌謡漫談を聞いた。その中で西條八十が遭遇した関東大震災とハ−モニカの話が出てきた。

 内容は上記とほぼ同じだったが、その時少年が吹いた曲は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」だったという。それを漫談風にしゃべっていたところでは、八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。

 ちなみに、ハ−モニカが初めて日本に伝えられたのは明治中ごろらしい。当初はドイツ製が優勢だった。その輸入が第一次世界大戦で止まっていた間の大正5、6年に国産品が相次いで現れ、急激な普及の糸口になった。(世界大百科事典・平凡社)

 この「船頭小唄」は大正10年に発表され、その前年からの恐慌で民衆の生活が窮迫化し、それまでの楽天的な曲調が影をひそめていった時代である。関東大震災が起こった大正12年当時には、庶民のあいだで歌われていたのだろう。


123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 20:54

フランス留学後発表した「東京行進曲」

 「関東大震災の翌年の早春、愛児慧子への深い傷心をいだきながら、父は早大の留学生として渡仏することになった」と、上記「父 西條八十」の次の章に書いている。

 昭和2年フランスから帰国したときにすっかり復興した東京の姿を見て作ったのが「当世銀座節」(昭和3年)だった。西條が雑誌に発表した詩に中山晋平が作曲し、佐藤千夜子がレコ−ドに吹き込んだが、あまり流行らなかった。

 昭和4年に発表した「東京行進曲」は、同名の映画主題歌として日活が八十に依頼したもので、関東大震災後の復興で面目を一新した東京の風物を軽快な曲で描いて25万枚売れたという。
 「生まれてはじめて、当てようとして思い切り調子をおろして書いたものだけにこの『東京行進曲』の成功、不成功は私の重大な関心事だった」と自叙伝に書いている。

 この『東京行進曲』の大成功によって、ビクタ−専属の作詞家となって歌謡作詞家としての顔が見ることができる。
 
    

124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 22:48
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇が いわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。大変立派なものであります。 西條八十は「芸術とは人生に対する真剣な感動が盛り込まれていなければならぬ」と言っ ていまして、この歌謡の中でも例えば「旅のつばくら淋しかないか」(サーカスの唄)ですが、これはフラ ンスの女流詩人の「旅の燕は私の心の夢で、あなたについていく」がヒントになっていて 私だったら「旅のつばくろ淋しくないか」となってしまうところ、「 ― つばくら淋しか ― 」となるのは、さすがです。らとかの明るいはずのあ音が、歌うと(古賀政男作曲) 深く澄んだ寂蓼となって響きます。

125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/26(Sun) 17:07
「お山の大将」
西條八十作詞・本居長世作曲




お山の大将 俺ひとり
あとから来るもの つき落とせ

ころげて 落ちて またのぼる
あかい夕日の 丘の上

子供四人が 青草に
遊びつかれて 散りゆけば

お山の大将 月ひとつ
あとから来るもの 夜ばかり


126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/27(Mon) 22:46
「お菓子と娘」
西條八十作詞・橋本国彦作曲




お菓子の好きな 巴里(パリ)娘
二人そろえば いそいそと
角の菓子屋へ 「ボンジュール」

選(よ)る間(ま)も遅し(注) エクレール
腰もかけずに むしゃむしゃと
食べて口拭く 巴里娘

残るなかばは 手に持って
行くは並木か 公園か
空は五月の みずあさぎ

人が見ようと 笑おうと
小唄まじりで かじり行く
ラマルチーヌの 銅像の
肩で燕(つばめ)の 宙がえり


127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/29(Wed) 20:14
サ ヨ ン の 鐘

作詩 西条八十  作曲 古賀政男

歌 渡辺はま子

1 嵐吹きまく 峰ふもと
  流れ危ふき 丸木橋
  渡るは誰ぞ 麗(うるわ)し 乙女 
  紅き くちびる あぁ サヨン


2 晴れの戦に 出でたまう
  雄々し師の君 懐かしや
  担う荷物に 歌さえほがら
  雨は降る降る あぁ サヨン


3 散るや嵐に 花一枝(ひとえ)
  消えて哀しき 水けむり
  蕃社の森に 小鳥は鳴けど
  何故に帰らぬ あぁ サヨン


4 清き乙女の 真心を
  誰か涙に 偲ばざる
  南の島の  たそがれ深く
  鐘は鳴る鳴る あぁ サヨン
 
昭和18年7月、李香蘭主演、松竹映画「サヨンの鐘」主題歌、

日本統治下の台湾、高砂族の愛国娘サヨン、実在の物語を西條八十が詩に。
出世兵士を送って行く途中で、丸木橋から転落死した台湾の少女の話。
現在でも「月光小夜曲」として台湾では広く歌われている。

128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/29(Wed) 22:33
日本と中国の間では戦時中、双方から愛された歌があった。『何日君再来』や『夜来花』が最も有名な例かもしれない。この二曲は今でも日 中両国で歌われる数少ない戦時歌謡だ。敵味方双方に愛されたという『リリー・マルレーン』を思わせる『何日君再来』は同様の歌手を巡るドラマがある。 台 湾においては『サヨンの鐘』が今も『月光小夜曲』として歌い継がれている。
『サヨンの鐘』の物語は、1938年の史実に基づく。台湾の高山 地帯、台湾原住民タイヤル族の蕃社で勤務していた教師兼警官の山田巡査に召集令状が届く。出征する恩師の下山を手伝うために悪天候下、同行して濁流に呑ま れ一命を落としたタイヤルの娘サヨン。この物語を忠君愛国の物語として歌謡曲にされた。歌唱は渡辺はま子で発売は1942年。実際のサヨンの遭難事件から 4年も経ていたが、1941年に勃発した太平洋戦争のために日本と台湾の連携、および皇民意識の強化が不可欠だったためのプロパガンダである。
 

おそらく日本では全く忘れ去られてしまったこの西條八十作詞、古賀政男作曲による名曲『サヨンの鐘』は台湾では今でもスタンダード曲あるいは老歌(懐メロ)として好んで歌われている。
『月光小夜曲』の復活は1960年代、諸説があって誰が歌い始めたのかは定かではない。ただ、この頃から、台湾での人気歌手、鳳飛飛、蔡琴、費玉清らがレコーディングして発売している。
台 湾では原住民(高山民族)、内省人(台湾語を母語とする漢族)、外省人(北京語を言語とする蒋介石と落延びた漢族)の3つのグループに分けられる。歌謡曲 では公用語の国語(グオユィー、中国の北京語にあたる)言葉で歌われる国語歌と、台湾語で歌われる台歌に分けられる。最新のヒット曲でもこの二つの住み分 けは行われている。
『月光小夜曲』は国語歌である。タイトルも内容も『サヨンの鐘』とは違う。メロディーのみが古賀政男のものであるというだけである。歌詞は中華民国の作曲家、周藍萍が1963年頃書いたものらしい。この辺も判然としておらず、謎が多い。
周藍萍の作曲作品リストに『月光小夜曲』が入っているのを見かけることがある。作詞・作曲:周藍萍となっている場合や、古賀政男の名を記さず、日語原曲となっている場合もある。周藍萍の作曲とする記述は、意図的なものか誤記なのかは分からない。
周藍萍が大陸から台湾に来たのが民国三十八年(1949年)だから、周藍萍の作曲であったとは考えられない。
『サヨンの鐘』は1942年に台湾では繁盛に歌われていたのだし、この歌の作曲者は古賀政男であろう。
ただ、考慮に入れなければいれないことがある。古賀政男は満州に取材に行った際に満州での流行歌を持ち帰りでレコード化している。(任光作曲:『南の花嫁さん』)この際、作曲が古賀政男とされることが多かった。本来は編曲とすべきだろう。
 

129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/29(Wed) 22:44
南の花嫁さん

作詞:藤浦 洸 編曲:古賀政男
原曲:任光「彩雲追月」*1
歌唱:高峰三枝子


(一)
ねむの並木を お馬のせなに 
ゆらゆらゆらと
花なら赤い かんなの花か
散りそで散らぬ 花びら風情(ふぜい)
隣の村へ お嫁入り
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
言葉もたったひとつ いついつまでも

(二)
椰子の葉かげに 真赤な夕陽が 
くるくるくると
まわるよ赤い ひまわりの花
たのしい歌に ほほえむ風情
心はおどる お嫁入り
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
言葉もたったひとつ いついつまでも


(三)
小川のほとり お馬をとめて
さらさらさらと
流れにうつす 花嫁すがた
こぼれる花の 花かんざしに
にっこり笑う お月さま
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
言葉もたったひとつ いついつまでも



   
 【*1】
この「南の花嫁さん」の作曲者は全音などでは古賀政男となっています。原曲は中国の<任光(Guang Ren、
1900〜1941年)>作曲の<彩雲追月>であるとされています。この曲の昭和18年日中間は戦闘状態で著作権関係
も曖昧だったでしょうし、任光も没後70年近いですから、日本の著作権上は、【編曲古賀政男、原曲:任光】
が妥当なのではないでしょうか。

130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/30(Thu) 20:44
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 上 1868~1937』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 中 1938~1959』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 下 1960~1994』社会思想社1966年。


131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/01(Fri) 22:58
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。

132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/03(Sun) 12:59
>>124

サーカスの唄
   
  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌唱:松平晃
  昭和8年(1933)
 
  (一)
  旅のつばくら  淋しかないか
  おれもさみしい サーカスぐらし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た
 
  (二)
  昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘は うす情

  (三)
  あの娘住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ
 
  (四)
  朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で



133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 11:32
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。





134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:22
関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。

彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。


自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。


その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。

・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5  VIC 50321@
當世銀座節   (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7  VIC50371@
東京行進曲    (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6  VIC50755A
愛して頂戴      (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8  VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌)  1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇) (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2  VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2  VIC 51093A
この太陽       (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6  VIC 51240A



135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:26


西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。

そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターン調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。

また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。

*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)

去りゆく影  (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.1
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄    (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴  1933.十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア  1933.6
気まぐれ涙     (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅     (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   193310



「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。




なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」



136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:29
古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。

新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html

1940 .2 誰か故郷を想わざる       霧島昇
1940 .2 あの花この花          二葉あき子
1940.5 春よいづこ           藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声         藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻            志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌   霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い          伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮           李香蘭
1941.7 そうだその意気        霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7  夜霧の馬車       李香蘭
1941.7  歌えば天国       藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘       渡辺はま子
1942.7  夕月乙女        李香蘭
1943.3  若き日の夢       李香蘭
1943,5   サヨンの歌       李香蘭




137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:33
>>133
訂正

藤山一郎、関種子など東京音楽学校首席の名歌手との出会い。

東洋音楽学校首席・・(正)東京音楽学校主席
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)


138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:55
☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」


昔、メロディを付けて呼ぶのは「古賀メロディ」しかなかった。

当たり前(三要素の一つ)のものにとりわけメロデーを付けて呼ぶことはしない。

(いつのまにか、リズム系などを含め、作曲家の名前の後ろに、何でも一律に「メロディ」を付けて、「メロディ」で呼ぶようになったようだ。だが、リズム(系)とメロデーはそれぞれ別物。)


“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)


誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、それを「古賀メロディ」と呼んで称えた。


彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、「丘を越えて」にしても、「酒は涙か溜息か」にしても、「影を慕いて」についても・・・

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。

その古賀作品を称えるため、新聞などが与えたものだろう、その「古賀メロディ」と言う言葉はいつごろ確立されたものだろうか。

昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成25年(2013)から82年前の昭和6年(1931)3月だから、その7年後だ。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。


したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究  ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)





139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 11:32
明治大正時代、このころは文部省唱歌や民謡などを除き大衆が歌える歌がなかった。
大正に入って童謡が生まれ、対大正末期から昭和にかけて新民謡運動がおこる。
こんな中で、誰でも歌える歌作りを目指した作曲家がいた、それが中山晋平。東京音楽学校を卒業すると、
音楽教師をしながら劇中歌や童謡運動に加わった。大正半ばごろから詩人野口雨情、歌手の佐藤千夜子とともに
全国に飛びして民謡の採譜や新民謡の普及活動をしていた。
この運動の中で生まれた新民謡『波浮の港』(昭和3年、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、日本における最初の
日本で最初のレコード歌謡と言われ、これを歌った佐藤千夜子が日本で最初のレコード歌手とされる。

昭和3年、無名の学生に過ぎなかった古賀政男(正男)作曲の「影を慕いて」をビクタ―で吹き込んだのが佐藤。
昭和6年1月にビクター、昭和7年3月に藤山一郎でコロムビア。

古賀政男の「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」の一連の歌は「古賀メロディ」と言われた。

古賀政男はいまや「○〇節」の時代ではなく「メロディ」の時代だと語っていた。





140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 12:07
これを新聞が大きく書いた。
  
  【晋平節から古賀メロディの時代へ】 と

古賀の自伝によると、これを見た古賀は驚いて大先輩「中山晋平先生」のところに
謝りに行った。

ところが中山晋平先生は、いいですよ、あなたは私にないいいところを持っています、頑張ってくださいと逆に励まされた。

「古賀メロディ」が大きく認知された歴史的瞬間である。

同時に昭和8年の「東京音頭」を最後に晋平の「晋平節」は影を潜め、

以後、新聞が書いたようにこれまでの主流とされた「晋平<節>」に代わって「古賀<メロディ>」が主流になっていった。

晋平のビクタ―黄金時代は「古賀<メロディ>」のコロムビアにとってかわられた。

なお、何とかメロディとか作曲家に「メロディ」をつけるのは、昭和40年代の懐メロブーム時代からで、
「古賀メロディ」は世に出た昭和の初めから、それを称える唯一許された歴史的価値を持つものとして、
たくさんの作曲家の中で戦後に至るまで特別なハイランクのものだった。

すでに押しも押されもせぬ「日本の名士」でもあった大御所・古賀政男は、昭和33年に「日本作曲家協会」を設立、自ら会長となる。
レコード大賞など知られている。

また戦後、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウーハチローに次ぎ、JASRAC「日本音楽著作権協会会長」。
その著作権における偉大な功績と実績を讃えるように、JASRAC設立にも関わったJASRACは古賀財団のビルに本拠を構える威容。
またその死後、野球に王貞治選手に次ぎ二番目の国民栄誉賞。

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 09:19
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 12:31
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 09:33
昭和の初め、主流だった「晋平節」は「古賀メロディ」にとってかわられた。

昭和8年の「東京音頭」を境に、晋平は戦後に至るまで虚ろな日々を送る。
ビクタ―の顔だった中山晋平の代わりになったのは佐々木俊一だった。
西條八十、中山晋平コンビは戦後に至るまで佐伯孝夫、佐々木俊一に代わった。

ビクタ―専属西條八十は、ビクターに対し、コロムビアの古賀政男とは申し出、ビクターも八十ーも専属を超えた提携の希望を1年間の条件で受け容れた。
で昭和8年から西條八十・古賀政男黄金コンビがここに成立。
「去り行く影」(関種子)、「サーカスの唄」(松平晃)・・などがそうである。

その後、古賀政男はテイチクへ、西條八十はコロンビアへ変わった。
古賀政男はテイチクを経て、「外務省音楽文化親善使節「」として」1年間の渡米後、昭和14年から再びコロムビアに。

昭和13年からコロムビアに代わっていた西條八十とともにとともに、西條八十・古賀政男黄金コンビが戦後に至るまで続き、「誰か故郷を想わざる」などなど数多くの【古賀メロディ】名曲を世に送り出した。


144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 09:39
訂正

ビクタ―専属・西條八十は、ビクターに対し、コロムビアの古賀政男と連携することを申し出、ビクターも八十の専属を超えた、、コロンビアの古賀政男との提携の希望を1年間の条件で受け容れた。

145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 22:31

昭和27年も押し迫った12月2日、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、ある恩人,その名は野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、この28日後、今から65年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。


しかし、その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、中山晋平(晋平節)ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。






146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 23:01

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口 井之頭通り 駅前交番前




147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/26(Tue) 21:00
日本の名曲 「影を慕いて」


影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月




かって平成の初め頃、NHKTVで、「日本の名曲10曲」(歌謡曲の名曲で無く)の一つとして、「影を慕いて」(古賀政男作詞・作曲)が1年間ずっと流されていました。

「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」・・など日本の名曲10曲が「日本の名曲10」として、毎夜8時の番組の後の時間を使って1週間ずつ、交代で1年間ずっと流され続けました。


<「影を慕いて」の曲碑>
 古賀メロデーの原点といえば、「影を慕いて」・・朝鮮のメロデーと同じ三拍子・・で、この曲碑は宮城県の蔵王に近い「青根温泉」(自然の森公園内)と、「古賀政男記念館・生家」のある家具の町、福岡県・大川市・大川公園内にもあります。
 この歌が作られた、昭和3年には、演歌や「さすらいの歌」などを除けば、「出船」「波浮の港」「出船の港」や、「青空」「アラビアの歌」などあちらの歌を除いて現在ある歌はまだ存在しなかった。

青根温泉「影を慕いて」曲碑   h ttp://ww5.et.tiki.ne.jp/~kawsaki2/koga.htm
古賀政男記念館    h ttp://www.city.okawa.fukuoka.jp/kogakinen/hall.html


河口湖畔 古賀政男記念公園「影を慕いて」音楽碑

作曲家古賀政男が疎開していた富士五湖の一つ河口湖畔 古賀政男記念公園にも「影を慕いて」音楽碑があります。 

「影を慕ひて」の歌詞と楽譜が刻まれていて、実際にセンサーで音楽が流れるようにもなっています。
外国人の方も多く訪れていて、ガイドさんが熱心に日本の有名な音楽家であることを解説されていた光景が印象的でした。



148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/29(Fri) 08:44
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/02(Tue) 20:38
■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校  あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校  蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。





150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 00:13
公益社団法人 日本作曲家協会歴代会長

初代 古賀政男 1958 - 1978  (昭和33年−53年)
2  服部良一 1978 - 1993
3  吉田正  1993 - 1997
4  船村徹  1997 - 2005
5 .遠藤実  2005 - 2008
6  服部克久 2008 - 2013
7  叶弦大  2013 - 2017
8  弦哲也  2017 -

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