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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:07
丘を越えて

人生の並木路

3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:18
影を慕いて

4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:19
誰か故郷を想わざる
新妻鏡
目ン無い千鳥

5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:21
サーカスの唄

6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:30
東京ラプソディー

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:31
湯の町エレジー

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/17(Wed) 00:01
りんどう峠

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/17(Wed) 00:03
娘船頭さん

10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/17(Wed) 14:11
いい歌がたくさんあるね、

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/17(Wed) 14:15
人生劇場

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/17(Wed) 14:22
緑の地平線

13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/18(Thu) 09:18
今のギスギスした歌とちがって昔の歌は優しいね、優しい詩に優しい曲

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/18(Thu) 23:05

☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50


☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50





15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/20(Sat) 00:50
昭和の時代に数多の歌はできたが、哀調を帯びた古賀メロディ、その青春を、青春の苦悩を謳った哀調を帯びた一連のメロディ−は貴重で、傷ついた心の癒しとして人に勇気を与え、歴史を超えて長く愛され記憶され歌われている。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/20(Sat) 22:37

「人生の並木路」がある。80年前昭和12年〈1937)日活映画「検事とその妹」の主題歌である。

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。



古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路




日活映画1937.1渡辺邦男監督「検事とその妹」は昭和10年竹田敏彦原作「検事の妹」の映画化作品。
幼くして親を亡くした幼き兄弟が支え合って生きていく姿をえがいたもの。


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。

 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽

 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。



17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/20(Sat) 22:57

坪井栄原作の映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まリ戦後昭和24年まで得開かれている。この中で小学校中途で奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。
あの紡績工場ではたらく女子工員の生活を書いた「女工哀史」という本が出たのは、大正14年のことだが、女工とは、12,3〜4の、小学校を出たばかりの女の子。

昭和30年代でさえ、田舎では高校進学率は30%くらいだった。童謡が作られた80年以上前の大正時代ともなれば、今では想像もできない貧しい時代だったに違いない。
「野麦峠」という映画にもなり、過酷な労働条件や虐待のありさまを描いてるが、それでも家よりも良かったのだそうだ。当時は、どんなに成績が良くても、進学(中学)させてもらえない、あるいは、高等小学校に行かせてもらえたら幸せというのは普通だったのだ。


かって新聞の連載[私の履歴書」に、自らの栄光の学歴と出世が書かれている。
なんとか高校(旧制)をでて、なんとか帝国大学をでて・・・

でも、その陰で、小学校を出たばかりで奉公に出されたもの、中学に進めず涙を飲んで高等小学校〈二年制)に進み世に出たものもたくさんいたでしょう。
昔はどんなに優秀でも、勉強がしたくても進学できなかったり、無理解で進学させてもらえなかったものはたくさんいたはず。

有名高校(旧制)、大学に進学できたものも、頭がよく勉強もしたでしょう。でもことによると、もっと勉強ができて、もっと学びたい者も沢山いたでしょう。
バンカラ衣装に、いい歳をした老人が集まって寮歌祭とかばか騒ぎをしているが、そうした青春を謳歌する陰に沢山の埋もれた有能な才能があったことでしょう。

日本がまだ貧しかった時代、そうして幼くして世に出た沢山の有能な才能の人たちがいて、そうした名もなき底辺の人々の支えの中に今日の日本の繁栄の基礎がある、そうした事に想いを致す事も意義が有るでしょう。

「検事とその妹」は幼くして両親を失った、検事を目指す兄と支え合うその妹の物語。


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/20(Sat) 23:13
「人生の並木路」は、日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。

  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子

映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、80年前昭和12年1月、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。

最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

  
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。

h ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm



19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/21(Sun) 12:47
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html



昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。


以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。



20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/21(Sun) 15:52
古賀政男代表曲

h ttp://www.jrt.co.jp/radio/natsumero/bangumi/kogamasao.htm

21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/23(Tue) 09:27
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 12:49
【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】

 h ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/



23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 23:19
☆戦前の流行歌〈1928−1943〉 主なもの

 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 23:34
【美輪明宏】作曲家・古賀政男について
 Thepleiadian2012

 2014/06/01 に公開 You Tube
 (上の表題で検索のこと)


 美輪明宏さんが昭和の国民的な作曲家・古賀政男さんについて語っています。
 (TBSラジオ『岡村仁美 プレシャスサンデー』 薔薇色の日曜日2014,6.1より。)


【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
 .

 Himatsubushi Channel

 2015/01/10 に公開 You Tube
 (上の表題で検索のこと)



 美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活­躍された作曲家の古賀政男さんや、作詞家の佐藤惣之助さん、
 歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られ­ています。

 ※曲は省略していますm(__)m

 美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より


25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 23:37
作曲家・古賀政男 You Tube

  2015/10/14 に公開


作曲家・古賀政男 You Tube

  ・・で検索(コピーして貼り付け)してください。

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 23:47
古賀政男との思い出〜りんどう峠(島倉千代子)
 .

 2015/09/25 に公開 You Tube

 (この表題で検索のこと)




 昭和54年 古賀政男追悼3時間ドラマ

  渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』 (前編・後編)

       (1979年4月14日、NHK総合TV)

 でのインタビューです。

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/31(Wed) 23:34
☆古賀政男生誕100年記念CD テイチク

平成16年12月に古賀政男生誕100年記念以下の当時のオリジナル原盤によるCDが出ましたので、参考のためここに紹介しておきます。

古賀政男生誕100年記念のCDは、最近の歌手ので、いくつもでてますが、やはりSP原盤によるものが聞けるのは、貴重です。

『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』(各20曲)
テイチクTECE 2445925460

<上>
 国境を越えて  (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・古賀政男テイチク第一作(昭和9年7月) 
 影を慕いて   (古賀政男)   楠木繁夫・・・(編集したような作曲)
 スキーの唄   (島田芳文)   楠木繁夫
 白い椿の唄   (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値する。
                    菊池寛原作「貞操問答」映画化主題歌
 ハイキングの唄 (島田芳文)    楠木繁夫
 望郷の唄    (島田欣也)   デイックミネ
 のぞかれた花嫁 (玉川映二/サトウハチロー)   杉狂児
 二人は若い   (玉川映二/サトウハチロー)  デイックミネ・星玲子
 波止場がらす  (佐藤惣之助)  デイックミネ
 男のまごころ  (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 夕べ仄かに   (島田芳文)   デイックミネ
 緑の地平線   (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 ゆかりの唄   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 白衣の佳人   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 啄木の歌    (島田欣也)   楠木繁夫
 春まだ浅く   (石川啄木)   有島通男
 東京ラプソデイー(門田ゆたか)   藤山一郎
 東京娘     (佐藤惣之助)  藤山一郎
 慈悲心鳥    (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 さらば青春   (佐藤惣之助)  藤山一郎
              




<下>
男の純情    (佐藤惣之助)  藤山一郎
愛の小窓    (佐藤惣之助)  デイックミネ
女の階級    (村瀬まゆみ)  楠木繁夫
回想譜     (今城靖児)   藤山一郎
青春の謝肉祭(カーニバル )(島田欣也) 藤山一郎
南国の乙女   (水島洋)    奥田英子
あゝそれなのに (星野貞志/サトウハチロー)    美ち奴
うちの女房にゃ髭がある (星野貞志/サトウハチロー) 杉狂児、美ち奴
聖処女の唄      (佐藤惣之助)   藤山一郎
人生の並木路     (佐藤惣之助)  デイックミネ・・・・(オリジナルレコード)
青い背広で      (佐藤惣之助)  藤山一郎
青春日記       (佐藤惣之助)  藤山一郎
緑の月        (佐藤惣之助)  奥田英子 
のばせばのびる    (江川真夫)   楠木繁夫
真実一路の唄     (佐藤惣之助)   楠木繁夫
軍国の母       (島田欣也)   美ち奴
黒いパイプ      (倉仲住人)・・  由利あけみ・・三浦環と「蝶々夫人」にも出演。
白虎隊        (島田欣也)   藤山一郎
人生劇場       (佐藤惣之助)  楠木繁夫
弥次喜多道中記    (古賀政男)    楠木繁夫






28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/01(Thu) 16:57
[昭和]は明治・大正を合わせた60年より長い62年余りの長さです。

大正15年(昭和元年、1926)12月25日から昭和64年(1989)
1月7日まで、62年余り。

昭和歌謡と言っても最近のテレビでは昭和末期の昭和50年代を言うようです。

それでは昭和を代表するものではありません。

昭和の初めから、昭和20年代、30年代までの昭和の歌を聞こう。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/02(Fri) 23:26
「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

「新妻鏡」・・昭和15年、東宝映画『新妻鏡』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)は、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)も挿入歌。

 佐藤惣之助の歌には人生の苦悩を歌った歌が多いですが、人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

強くなろうよ強くなれ
母となる身は幼児(おさなご)の
愛の揺籠花の籠
なんで嵐にあてらりょう

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの人生を
熱い涙で 謳うおうよ

「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式には不向きかもしれぬが、一語一語味わいに満ちた詩で、「強くなろうよ 強くなれ母となる身は幼児(おさなご)の」
・・今の歌とは決定的に違います。まだ日本が貧しかった時代が生んだ、すごい、人生・青春の応援歌ではないでしょうか!。
この歌は、すごい重みのある歌といえ、男女・年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

三番は歌にはない
強くなろうよ強くなれ ・・
こうした重い歌詞が
簡潔な言葉が
さりげなくちりばめられている
名曲である

戦後、島倉千代子によって歌われた。



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/04(Sun) 10:40
訂正 泣いて踊るも 生計(くらし)なら

31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/04(Sun) 10:42
昭和前半のの歌謡は、第一級の詩人・作詞家が心をこめて作った詩に、当代随一の第一級作曲家が心をこめて曲を付け、第一級の歌手が心をこめて録音したもので、
貴重な文化遺産と言えます。

大切に歌い継ぎ、大切に残して行かねばなりません。



32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/04(Sun) 11:05
>29

古賀政男氏が、生前あるテレビ番組で、この曲について語っていたことが印象に残っています。佐藤惣之助氏から歌詞をはじめて見せられたとき、古賀氏は感動で打ち震えたと言って「僕が心の夫なら 君は心の・・・」とつぶやいたあと、感極まってしばし絶句。そして口をついて出たのが、次の言葉でした。
  「私はね、歌謡曲というものはね、『詩』がお姉さんで、『曲』は妹だと思います。」
後日、この発言に対し、某作曲家が「古賀さんはああ言われたけれども、私は詩と曲とは『双子の姉妹』だと思います。」と異を唱えていました。
歌謡曲にとって詩と曲とは、お互いに、言わば、車の両輪という関係ですから、論理的には某氏の説のほうが正しいように思われます。しかし、古賀氏の言う「姉」と「妹」とは、ひとつのの作品が誕生するまでに至る順序を指しているのであって、「上下」や「優劣」とはまた別の話だと思います。時には愚姉賢妹という例だってありますから。
 「詩はお姉さん」という言葉が「作曲家」、しかも古賀政男という大家から発せられたところに、却って氏の誠実で謙虚な人柄が偲ばれるように思います。




33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/04(Sun) 11:08

目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩   古賀政男作曲
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。





34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/04(Sun) 11:14
今のギスギスした歌とちがって昔の歌は優しい、優しい詩に優しいメロディ
とても癒される!


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/08(Thu) 22:14
丘を越えて
 
 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
 歌唱:藤山一郎
 
 (一)
 丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

(二)
 丘を越えて行こうよ
 小春の空は麗らかに
 澄みて嬉しいこころ
 湧くは胸の泉よ
 讃えよわが青春を
 いざ聞け遠く希望の
 鐘は鳴るよ


   

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後72年、昭和92年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。
昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。



36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/09(Fri) 20:42
<<「日本の名曲」 影を慕いて>>

藤山一郎独唱・「影を慕いて」。声楽技術を駆使した歌唱芸術で古賀政男の名曲を歌いあげます。明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏でした。その後、佐藤千夜子がビクターで吹込みましたが、レコードは売れませんでした。藤山一郎の登場をまたなければなりませんでした。
佐藤盤は終止ギター・ソロが伴奏ですが、藤山盤は1番がギター・ソロの伴奏、2番は2つのギター、3番はオーケストラとギターという編成になっています。どこにもクレジットされていませんが、佐藤盤も藤山盤も演奏もギター伴奏は古賀政男本人ではないかと思っています。

影を慕いて
 詩・曲 古賀政男

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ

昭和歌謡の最高傑作と言われる。
古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。

平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10曲」として、「荒城の月」「波浮の港」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。

昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。

翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。

「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。



37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/12(Mon) 08:22
参考

・【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
  ttp://unkar.org/r/natsumeloj/1122559619

・【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1162563164/

・【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1154785781/

・【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎2
  ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/



(古いBBSで終了移転されていて広告などが入っています。)


38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/12(Mon) 08:24
(参考)

古茂田信男「日本流行歌史・戦前編」(社会思想社1981)

数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられている。



時雨音羽編『日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌』(現代教養文庫)(社会思想社1963)

ASIN: B000JAHOT6
書誌ID 000001285505 

454ぺージの文庫本、数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられていて貴重。
国立国会図書館ディジタル化資料。



39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/13(Tue) 12:54
<「影を慕いて」の曲碑>

 古賀メロデーの原点といえば、「影を慕いて」・・朝鮮のメロデーと同じ三拍子・・で、この曲碑は宮城県の蔵王に近い「青根温泉」(自然の森公園内)と、「古賀政男記念館・生家」のある家具の町、福岡県・大川市・大川公園内、そして戦時中疎開していた河口湖畔にもあります。
 この歌が作られた、昭和3年には、演歌や「さすらいの歌」などを除けば、「出船」「波浮の港」「出船の港」や、「青空」「アラビアの歌」などあちらの歌を除いて現在ある歌はまだ存在しなかった。

青根温泉「影を慕いて」曲碑   h ttp://ww5.et.tiki.ne.jp/~kawsaki2/koga.htm
古賀政男記念館    h ttp://www.city.okawa.fukuoka.jp/kogakinen/hall.html

河口湖畔 古賀政男記念公園「影を慕いて」音楽碑
h ttp://www.mt-fuji.gr.jp/spot-manabu/koga/
「影を慕ひて」の歌詞と楽譜が刻まれていて、実際にセンサーで音楽が流れるようにもなっています。
外国人の方も多く訪れていて、ガイドさんが熱心に日本の有名な音楽家であることを解説されていた光景が印象的でした。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/15(Thu) 15:09
2008年12月23日

山梨きまぐれ歴史散歩「古賀政男記念碑」(2008年11月)
ここは河口湖の北岸ということになりましょうか、河口湖円形ホールの前です。
新聞で紅葉回廊という言葉を見て、まいりました。10月24日から11月16日まで、富士河口湖紅葉まつりも行われております。
紅葉回廊は辻が花染めで知られる久保田一竹美術館の前入ったところです。
紅葉を愛でながら河口湖に沿って歩いておりましたら、古賀政男の碑がございました。
大変立派な石碑です。横幅が3メートルほど、縦が2メートルくらいの自然石に黒御影がはめ込まれておりまして、左側には「影を慕いて」の楽譜が、右側にはその歌詞が、そして歌詞の上部に古賀政男氏のレリーフが刻まれております。
下の台が、70センチほどもありましょうか、大変大きな石碑です。
お散歩中のご近所の方にお話を伺いました。
「対岸に見えているのが鳴沢です」
「あの下あたりに、大きなゴルフ場が3つくらい・・・河口湖カントリーとか富士桜カントリーとかね」
「ここから見る富士は素晴らしいです」
「ドレスのようになだらかに裾をひいていますでしょ、女富士っていうのです」
「あそこの橋の向こうに、太宰治が書いた「かちかち山」の舞台になったところです」
うっとりとした表情でお話くださいました。
碑の裏側に回ってみましょう。




41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/15(Thu) 15:10

「昭和の大作曲家として日本歌謡史に燦然と輝く音楽家として、国民栄誉賞を受賞した古賀政男、その生涯で数々の名曲を生み出した古賀が、昭和20年3月から8月まで過ごしてのがここ富士河口湖町、当寺の河口村であった。きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった私の故郷河口村に疎開することとなったのである。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごした。8月15日、古賀の安否を気遣って駆けつけてきた青年達と共に、終戦の日を迎えた。古賀は青年達一人一人に石鹸を手渡し、これからは新しい時代が来る。間違いなく来る。皆で古い時代の垢を洗い流し、新生日本に向って第一歩を踏み出そうと激をとばし、一斉に河口湖に飛び込んで心身共に清め、霊峰富士に向って新たな誓いをたてたのである。今年は古賀政男生誕百年。」この記念すべき年に、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようという富士河口湖町の人々の古賀に対する熱い思いが結実し、歌碑を設置していただき、多くの方々に古賀の意思と歌の心に触れていただけることとなり、心より深く感謝申し上げる次第である。」
平成16年11月
     財団法人古賀政男音楽文化振興財団理事長山本丈晴


山本丈晴といえば、女優の山本富士子と結婚なさった方ですよね。古賀政男の内弟子だったのですね。
山本丈晴は本名を古屋武治といい、ここ富士河口湖町の出身です。
昭和20年2月に古賀政男に入門して、ギターと作曲を学びました。
そして3月に古賀政男は、当時古屋武治であった山本丈晴の出身地河口村に疎開したということなのですね。
その後、ハワイ、北米、ブラジル、アルゼンチンなどへ古賀政男と共に演奏旅行をしています。
昭和37年に女優の山本富士子と結婚して、山本丈晴となるのですね。
古賀政男が作曲した作品の数は4000とも5000とも言われているようで、正確な数は判りません。それほだ多くの曲を作ったということなのでしょう。
その中からいくつかの作品をご紹介いたしましょう。
  丘を越えて 歌 藤山一郎
  酒は涙か溜息か 歌 藤山一郎
  影を慕いて 歌 藤山一郎
  緑の地平線 歌 楠木繁夫
  ああそれなのに 歌 美ち奴
  人生の並木道 歌 ディック・ミネ
  人生劇場(1938年・1959年)楠木繁夫、村田英雄
  誰か故郷を思わざる 歌 霧島昇
  湯の町エレジー 歌 近江俊郎
  赤い靴のタンゴ 歌 奈良光枝
  トンコ節 歌 久保幸江・加藤雅夫
  ゲイシャ・ワルツ 歌 神楽坂はん子
  白虎隊 歌  霧島昇
  りんどう峠 歌 島倉千代子
  青春サイクリング 歌 小坂一也
  無法松の一生 歌 村田英雄
  東京五輪音頭 歌 三波春夫
  柔 歌 美空ひばり 
  悲しい酒 歌 美空ひばり

数の多いのにも驚きますが、その巾の広さも凄いですね。

この碑の正面に立ちますと、「影を慕いて」と「丘を越えて」が交互に演奏されます。
こちらにおいでの節は、おためしくださいませ。
 



42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/20(Tue) 06:59
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに36年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。










43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/20(Tue) 07:02
古賀政男音楽博物館

「古賀政男音楽博物館」には、平成25年度までに、大衆音楽に貢献した歌手、作曲家、詩人・作詞家、演奏家、編曲家など、山田耕筰、弘田竜太郎など含め、殆どすべて221人が顕彰されています。
地下一階の「音楽情報室」では、顕彰者の作品をパソコンで計7000曲選んで聞くことが出来ます。(入館料500円だけ。)

古賀政男については、別にパソコンで1000曲以上選んで聴くことができます。
新宿駅より小田急線・東京メトロ代々木上原駅前です。行ってみましょう。

大衆音楽の殿堂 顕彰者一覧
h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/sanctuary_h25.html
h ttp://www.koga.or.jp/


☆大衆音楽の殿堂 主な顕彰者(参考) (平成25年現在)

△歌手
藤原義江、佐藤千夜子、徳山 l(たまき)、関種子、藤山一郎、松原操、楠木繁夫、淡谷のり子、二葉あき子、東海林(しょうじ)太郎、上原敏、霧島昇、ディックミネ、松平晃、伊藤久男、
渡辺はま子、中野忠晴、榎本健一、菊池章子、灰田勝彦、
安西愛子、松田トシ、近江俊郎、小畑実、岡本敦郎、坂本九、森繁久弥、美空ひばり、ペギ‐葉山、初代コロムビアローズ、三橋美智也、島倉千代子、三波春夫、春日八郎、村田英男、北島三郎、・・・

△詩人・作詞家
野口雨情、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチロー、島田芳文、藤浦洸、長田幹彦、高橋掬太郎、島田欣也、佐伯孝夫、野村俊夫、藤田まさと、菊田一男、星野哲郎、なかにし礼・・

△作曲家
滝廉太郎、岡野貞一、本居長世、山田耕筰、中山晋平、弘田竜太郎、梁田貞、杉山長谷夫、堀内敬三、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、佐々木俊一、仁木他喜雄、万城目正、竹岡信行、服部良一、古関祐而、
仲田喜直、米山正夫、長津義司、大村能章、八洲秀章、吉田正、中村八大、宮川泰、船村徹、遠藤実・・・
その他(計221名)




44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/20(Tue) 07:39
コガミュージアムコンサート ご案内

東京大衆歌謡楽団
-永遠の古賀メロディーコンサート-

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ、戦後生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート
昭和の時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら古賀メロディの世界をお楽しみください。

2017年8月19日(土)14:00−16:00
古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
h ttp://www.koga.or.jp/

指定席制 (税込)2000円 (要予約)
参加ご希望の方は電話でご予約ください。
開場 13:30.開演 14:00 終了予定 16:00
*入場券で博物館も御覧いただけます。開演前にご見学ください。

東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
小田急線,(地)千代田線 代々木上原駅
南口(@出口) 井之頭通り 駅前交番前 (駅と交差する井之頭通理に面した駅すぐ前です。)

パソコンで顕彰者多数の作品を聞くことができます。
古賀作品(古賀メロディ)1000曲をパソコンで聞くことができます。



☆5月18日 国際博物館の日 は 無料開館となります。

☆古賀政男生誕記念 明治大学マンドリン倶楽部演奏会
2017年9月17日(日)


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/14(Fri) 11:07
>>42-44

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)

・・小田急線・千代田線代々木上原駅前には、渋谷駅西口ハチ公前から

渋谷区コミュニティバス (丘を越えてルート)(循環 運航:京王バス)が利用できます。
松涛美術館など博物館めぐりにも便利です。

渋谷区コミュニティバス「ハチ公バス」案内
h ttps://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/
運賃100円(大人・子ども同額)
出発・終点(循環) 渋谷駅西口ハチ公口

丘を越えてルート(上原・富ヶ谷ルート)/循環
【問い合わせ】京王バス 電話:03-5300-6011)

古賀政男音楽博物館:「丘を越えてルート」を語るうえで、この停留所は見過ごすことができない。
古賀音楽博物館は、昭和期の日本歌謡界を支えた作曲家・古賀政男氏の遺志を引き継ぎ、平成9年に開設された大衆音楽博物館だ。けやきホール、JASRAC本部といった方が聞き覚えがあるかもしれない。古賀氏が作曲した「丘を越えて」という歌が、このルート名の由来となっている。代々木上原は、古賀氏が昭和13年から住んだ土地。代々木上原駅前にあるこのシンボリックな建物は、渋谷という谷を越えた証なのだ。
h ttps://www.shibuyabunka.com/blog.php?id=741

[ハチ公バス]

渋谷駅西口ハチ公口
丘を越えてルート〔上原方面〕(渋谷駅西口―古賀政男音楽博物館−代々木上原駅循環)

渋谷駅西口ハチ公口−東急百貨店本店前―松涛美術館入口―東大前―東大裏―
富ヶ谷二丁目―富ヶ谷交差点―上原一丁目―上原二丁目―古賀政男音楽博物館―代々木上原駅―(循環)―渋谷駅西口ハチ公口終点


@渋谷駅西口 A東急百貨店本店前 B松濤美術館入口 C東大前 D東大裏 E富ヶ谷二丁目 F富ヶ谷交差点 G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口) H上原二丁目(上原出張所入口) I古賀音楽博物館 J代々木上原駅 K古賀音楽博物館 L上原小学校 M上原二丁目南 Nはつらつセンター富ヶ谷(東海大学) O望星高校 P富ヶ谷 Q富ヶ谷一丁目 R神 山 S東急百貨店本店前 ○渋谷駅西口 終点



46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/14(Fri) 22:12
>>45

[ハチ公バス] 時刻表

渋谷駅西口ハチ公口
丘を越えてルート〔上原方面〕(渋谷駅西口―古賀政男音楽博物館−代々木上原駅循環)


h ttps://www.navitime.co.jp/diagram/bus/00020301/00006658/1/

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/14(Fri) 22:50
「古賀政男記念博物館」

受付で会員登録すると「会員証」がもらえ、ポイントが付与され入館料とかに使えます。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/31(Mon) 07:20
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50


49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/05(Sat) 10:08
@Lymsleia_rain 4月17日

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/16(Wed) 19:01
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

昭和の流行歌(レコード歌謡)



 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27


51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/19(Sat) 13:08
昭和歌謡大全目次
戦前戦中編 (目録)

h ttp://music.geocities.jp/hanatori1119/kayoudaizenn/kayoudaizenn.html


52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/19(Sat) 19:12
テレビ番組で、よく「昭和歌謡」とかやってるが、最近のは「昭和」といても、
昭和の最末期昭和50年代のどうしようもない歌を、どうしようもないへたくそな
歌い手がよってたかって騒いでいるのをいうようだ。

「昭和」とは昭和元年(1926)から昭和64年まで、実質62年余りで「明治」と「大正」を合わせた60年より長い、世界の歴史でも最長の元号です。

「レコード歌謡」は昭和3年『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲)が最初。

今や何でもかんでも「名曲」という
しかし、本当の「名曲」とは昭和の「SPレコード」で世に出た
昭和の時代のものの中にしかない。



「昭和歌謡」といった場合は、もとが「SPレコード」としてでたもの。

昭和の初めから昭和30年代ごろまで。


SPレコードは昭和37年まであった、78rpmのレコード。
3分少々の録音で、レコード歌謡(流行歌)はその3分の限界を
いかに使うか、「3分間の芸術」と言われた。
作曲家はここに全力を傾けたのだ。

第一級の「詩人」が心を込めて作った詩を、第一級の「作曲家」が心を込めた作曲した曲を、東京音楽学校はじめ音楽学校出身の第一級の「名歌手」が心を込めて歌った文化遺産、それが昭和の名曲です。

それを聞けばきっと心を慰められ洗われ生きる勇気をあたえらえることでしょう。

53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/25(Fri) 17:46
最近殆どCDも出ていないようだ。昭和の歌謡はYou TUBEで聴けるほか、
図書館でもあるものは聞ける。

小田急線・地下鉄 代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」>>43-45 では、パソコンで選んで「古賀メロディ」1000曲や、
博物館に顕彰されている作曲家、詩人、歌手の曲ほとんど7000曲の中からパソコンで選んで自由に聞くことができる。録音は不可。
いずれも入館料500円だけ。

また自分の歌をCDにすることも可能。

また会員登録してポイントカードとしても使える会員証ももらえる。
また図書室で資料を見ることもできる。

54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 13:06
日本の豪邸
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 11:37
酒は涙か溜息か

作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
昭和6年9月

1 酒は涙か溜息か
  心のうさの捨てどころ

2 遠いえにしのかの人に
  夜毎の夢の切なさよ

3 酒は涙か溜息か
  かなしい恋の捨てどころ

4 忘れた筈のかの人に
  のこる心をなんとしょう

これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた。

「晋平“節”」に対して、古賀政男の音楽は「古賀“メロディ―”」と呼ばれるようになった。

同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。


満州事変の勃発と東北大凶作、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。

このあたり、「写真・昭和三十年史」(毎日新聞社1951)に詳しい。

歌手「藤山一郎」というのは、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部の学生だった増永丈夫がアルバイトに
この「酒は涙か溜息か」(1931.9)を吹き込むためであった。

なお、正確にはその前に「キャンプ小唄」(同、1931.6)がある。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 19:37
言葉というものは、長くなればなるほど、言ってることは狭くなるもの。
逆に簡潔であればあるほど、自分で思い描ける部分が広く、共通部分が広くなり、味わい深くなるもの。

年末の特集番組でもやっていたが、最近の歌はみな歌詞が長く、テンポが早く、しゃべってしまっている。
ほとんどその中に重ね合わさることはすくない。



「泣くな妹よ妹よ泣くな・・・生きて行こうよ、希望にもえて・・」(人生の並木路)
 ・・まずしくとも、まじめにいきていればきっといいことがある・・

豊かさとともに失ってはいけない大切なものがある。
日本がまだ貧しかった時代、「兄弟の絆・兄弟愛」を適切に歌いあげている。

「人生の並木路」、それは味わえば味わうほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

今の豊かな世ではありえない詩人・佐藤惣之助の傑作だと思います。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。




57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 19:42
「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

「新妻鏡」・・昭和15年、東宝映画『新妻鏡』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)は、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)も挿入歌。

 佐藤惣之助の歌には人生の苦悩を歌った歌が多いですが、人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

強くなろうよ強くなれ
母となる身は幼児(おさなご)の
愛の揺籠花の籠
なんで嵐にあてらりょう

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの人生を
熱い涙で 謳うおうよ

「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式には不向きかもしれぬが、一語一語味わいに満ちた詩で、「強くなろうよ 強くなれ母となる身は幼児(おさなご)の」
・・今の歌とは決定的に違います。まだ日本が貧しかった時代が生んだ、すごい、人生・青春の応援歌ではないでしょうか!。
この歌は、すごい重みのある歌といえ、男女・年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

三番は歌にはない
強くなろうよ強くなれ ・・
こうした重い歌詞が
簡潔な言葉が
さりげなくちりばめられている
名曲である

戦後、島倉千代子によって歌われた。



58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 20:13
目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩   古賀政男作曲
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/25(Fri) 18:25
目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 20:19
緑 の 地 平 線

作詩 佐藤惣之助  
作曲 古賀政男
歌  楠木繁夫

昭和10年

1 なぜか忘れぬ 人故に
  涙かくして 踊る夜は
  ぬれし瞳に すすり泣く
  リラの花さえ 懐かしや


2 わざと気強く ふりすてて
  無理に注がして 飲む酒も
  霧の都の 夜は更けて
  夢もはかなく 散りてゆく


3 山の煙を 慕いつつ
  いとし小鳩の 声聞けば
  遠き前途(ゆくて)に ほのぼのと
  緑うれしや 地平線




231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/13(Sun) 21:32
夕べ仄かに

   作詞:島田芳文
   作曲:古賀政男
   歌唱:ディック・ミネ
   
    (一)
    夕べ仄かに 窓辺に立てば
    山のかなたの 空の色
    遠いあの日の 夢に似て
    かいなき君の 偲ばれる

    (二)
    夕べ彩なす あかねの空よ
    何故に思いを こがすやら
    山の遠さよ 過ぎし日の
    儚なき君の 想い出よ
    

    (三)
    夕べ仄かに またたく光
    星になりたや 一つ星
    黒い瞳に うつる影
    誰故流す わが涙

 
これも昭和10年(1935)、日活映画「緑の地平線」の挿入歌です。松島詩子のもある。



60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 20:29
影を慕いて
 詩・曲 古賀政男


まぼろしの 影を慕いて
雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ しのび泣く

昭和歌謡の最高傑作と言われる。

古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。

平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10」として、「荒城の月」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。

昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。

翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。

「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。


丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 20:38
「影を慕いて」

古賀政男作詞・作曲
歌 佐藤千夜子(1930)、藤山一郎(1932)

(一)
まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

(二)
わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

(三)
君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 21:14
「十九の春」(西條八十作詞、江口夜詩作曲)

「十九の春」という歌があります。沖縄民謡にも同じ名前のがあるが、もっと名曲があります。
それは、映画主題歌「十九の春」(西條八十作詞、江口夜詩作詞)

ながす涙も 輝きみちし
あわれ十九の 春よ春
すみれつみつつ 散る白露に
泣きし十九の 春よ春

この歌にぴったりな、やさしい歌声のミス・コロムビアがすばらしい歌唱をきかせてくれます。

「SP盤復刻による懐かしのメロデイ ミス・コロムビア(松原操)」コロムビアCOCA−10761



63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 21:17
>>56
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html



64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 21:21
昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。

65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/05(Tue) 21:38
誰 か 故 郷 を 想 わ ざ る
作詩 西条八十  作曲 古賀政男
歌 霧島昇

昭和15年(1940)
 
1  花摘む野辺に 日は落ちて
  みんなで肩を 組みながら
  唄をうたった 帰りみち
  幼馴染みの あの友この友
  あゝ誰か故郷を想わざる


2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
  小川の岸で さみしさに
  泣いた涙の なつかしさ
  幼馴染みの あの山この川
  あゝ誰か故郷を想わざる


3 都に雨の 降る夜は
  涙に胸も しめりがち
  遠く呼ぶのは 誰の声
  幼馴染みの あの夢この夢
  あゝ誰か故郷を想わざる

66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 08:18

サーカスの唄
   
  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌唱:松平晃
  昭和8年(1933)
 
  (一)
  旅のつばくら  淋しかないか
  おれもさみしい サーカスぐらし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た
 
  (二)
  昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘は うす情

  (三)
  あの娘住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ
 
  (四)
  朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で


67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 08:30

「東京ラプソディ」
門田ゆたか作詞 古賀政男作曲
歌 藤山一郎
昭和11年(1936)


1.
花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2.
現(うつ)つに夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの かねも鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3.
明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4.
夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あのこはダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5.
花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 08:36

男 の 純 情

作詩 佐藤惣之助  作曲  古賀政男
昭和11年(1936)


1 男いのちの 純情は 
  燃えてかがやく 金の星 
  夜の都の 大空に 
  曇る涙を 誰が知ろ


2 影はやくざに やつれても 
  訊いてくれるな この胸を 
  所詮男の ゆく道は 
  なんで女が 知るものか


3 暗い夜空が 明けたなら 
  若いみどりの 朝風に 
  金もいらなきゃ 名もいらぬ 
  愛の古巣へ 帰ろうよ  

日活「魂」主題歌


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 08:50
人生劇場
昭和13年(1938年)         
作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
歌唱:楠木繁夫
 
(一)
やると思えば どこまでやるさ
それが男の 魂じゃないか
義理がすたれば この夜はやみだ
なまじとめるな 夜の雨 


(二)
あんな女に 未練はないが
なぜか涙が 流れてならぬ
男ごころは 男でなけりゃ
分かるものかと あきらめた 

(三)
時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界 


早稲田の第二校歌   
 
  


  
 
 









   
 

70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 09:00

湯 の 町 エ レ ジ ー

作詩 野村俊夫  作曲 古賀政男
歌 近江敏郎
昭和23年(1948)


1 伊豆の山々 月淡く
  灯りにむせぶ 湯の煙
  ああ 初恋の
  君を尋ねて 今宵また
  ギターつまびく 旅の鳥


2 風の便りに 聞く君は
  出湯の町の ひとの妻
  ああ 相見ても
  晴れて語れぬ この思い
  せめて届けよ 流し歌


3 淡い湯の香も 路地裏も
  君住むゆえに 懐かしや
  ああ 忘られぬ
  夢を慕いて 散る涙
  今宵ギターも むせび泣く
 

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 22:42
女の階級
作詞 村瀬まゆみ(島田欣也)作曲 古賀政男
歌 楠木繁夫

(一)
君に捧げた 純情(まごころ)の
愛が女の 生命なら
弱い涙は 今日かぎり
捨てて荊刺(いばら)の 径を行く

(二)
こころ砕けど ままならぬ
辛い浮世の 小夜嵐
愛の船路を 祈るごと
星もまたたく この夕べ

(三)
想い乱れて 咲く花は
女ごころか 月草よ
なみだ誘うな 秋風に
散るは彼の日の 夢ばかり

(四)
君を信濃の 高原に
涙かくして 見送れば
靡く煙りも 一すじに
燃えて火を噴く 浅間山

吉屋信子原作 昭和11年日活「女の階級」主題歌
挿入歌 回想譜 (加壽子のうたへる) 作詞:今城靖児 作曲:古賀政男


72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 22:45
>>69

人生劇場 角さんこと田中角栄総理大臣が愛した歌

73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/06(Wed) 23:29
白虎隊

作詞 島田欣也 作曲 古賀政男
歌 藤山一郎


(一)
戦雲暗く 陽は落ちて

弧城(こじょう)に月の 影(かげ)悲し

誰(た)が吹く笛が 知らねども

今宵名残の 白虎隊


(二)
紅顔可憐の 少年が

死をもて守る この保寒(とりで)

滝沢村の 血の雨に

濡らす白刃の 白虎隊



詩吟

「南鶴ヶ城を望めば 砲煙あがる

痛哭(つうこく)涙を飲んで

且つ彷徨(ほうこう)す

宗社(そうしゃ)亡び 我事終る

十有九人(じゅうゆうくにん) 屠腹(とふく)してたおる」


(三)
飯盛山の 山頂(いただき)に

秋吹く風は 寒けれど

忠烈今も 香に残す

花も会津の 白虎隊

74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/07(Thu) 08:20
>>73

[白虎隊]は昭和12年(1937)藤山一郎、昭和27年(1952)霧島昇。

日本舞踊でもよく歌われる有名な作品です。

白虎隊
島田欣也作詞 古賀政男作曲
昭和12年 藤山一郎  詩吟 鈴木吟亮  テイチク
昭和27年 霧島昇   詩吟 荒国誠   コロムビア


75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/07(Thu) 22:15

吟亮流吟風会
·
初代が琵琶から詩吟に転向したのが昭和5年。その5年後に古賀政男先生に認められて「白虎隊」(テイチク)が大ヒットしました。運も実力のうち?。戦後の霧島昇さんとの共演版(コロンビア)と続けて入れてありますので聴き比べて下さい。
h ttps://www.youtube.com/watch?v=POxCDFUGIGM


鈴木吟亮「白虎隊」詩吟(戦前版と戦後版比較)
昭和12年の藤山一郎さんVir.と、戦後の霧島昇さんVirを詩吟部分のみ比較しました。大きな違いは詩が異なります。戦前版は「十有六人」。戦後版は「十有九人」。大ヒットしただけに反響や論議が活発だった…
youtube.com





76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/09(Sat) 11:25

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=35

77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/09(Sat) 11:32
訂正
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2

78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/09(Sat) 17:09
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/10(Sun) 19:04
>>42-46

古賀政男音楽博物館(一般財団法人古賀政男音楽文化振興財団)
所在地
〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12
小田急線・地下鉄代々木上原駅 南口1 右、音楽村通り、井之頭通り駅前交番前
TEL.03−3460−9051
開館:10:00〜17:00
休館:月曜日

料金
大 人:525円
大学生:420円
高校生:420円
中学生:210円
小学生:210円

バリアフリー設備
車椅子対応トイレ:○
車椅子対応スロープ:○
車椅子対応客室:○


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/11(Mon) 09:05
小田急線代々木上原駅は新宿駅から4つ目です。
他に、渋谷駅ハチ公前から小田急線代々木上原駅循環バス「丘を越えてルート」があり交通に至便です。

81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/11(Mon) 22:50
昭和歌謡が好きな人集まれ!

82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/16(Sat) 20:45
>>79-81

コガ・ミュージアム ミュージアム講座
蓄音機とSPレコードで楽しむ日本の流行歌

第五回 ゲスト 里見浩太朗

開催日 2017年11月23日(木、祝)
場 所 古賀政男音楽博物館 けやきホール
開 場 13:30
入場料 2000円 (指定席制) 事前予約要

入場券で館内入場見学等可(古賀政男の楽曲1000曲、顕彰者の曲計7000曲を聞くことができます。
詳細はホームページで。


83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/16(Sat) 20:49
>>79-82

古賀政男音楽博物館
h ttp://www.koga.or.jp/

84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 15:48
昭和歌謡が好きな人集まれ!
http://www.10ch.tv/bbs/music/index2.html#2


85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 21:18
古賀作品を聴くことができます
小田急&東京メトロ代々木上原駅から徒歩数分。歌謡曲を中心に多くを作曲した古賀政男に関する博物館。試聴コーナーがあり、数多くのデータベースからCD化された音楽を聴くことができます。

代々木上原駅付近にあります
古賀政男音楽博物館は代々木上原駅付近にあります。昭和時代の懐かしい音楽を聴くことができます。また、模型で実家を復元をいたしました。また、コレクション展などもこの場所にあります。



懐かしい曲に出会えます
古賀政男邸が音楽博物館になって私達を楽しませてくれています。
昔は、私の散歩コースに古賀政男邸があって、広い日本庭園のある素敵な御宅の前をよく通ったものです。古賀さんがお亡くなりになって寂しい気持ちでおりましたら、新しい形で私達を楽しませてくれています。昭和の名曲の数々に出会えますので、どうぞお出かけしてみてください。


86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 21:20

古賀メロディは永遠に・・
古賀政男音楽博物館に行って来ました。レコードから流れてきた昭和の懐かしい音楽と音楽会に貢献された方々のレリーフを観ながら時の流れを感じつつノスタルジックな気分になりました!日本で二人目の国民栄誉賞受賞。生前に受賞していたら・・

古賀政男や大衆音楽の世界を楽しむことができる。
小田急線代々木上原駅の南にある。
週末午後、前には観光バスが数台止まっていた。館内は、意外に多くの訪問者で賑わっていた。
古賀政男や当時の大衆音楽に関する写真や資料等が展示され、視聴コーナーやショップなどもあり、古賀政男や大衆音楽の世界を楽しむことができる。


87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/19(Tue) 21:28
古賀メロディーを楽しむ
どなたでも簡単な操作で1,000曲以上の古賀メロディーを試聴することができます。
「影を慕いて」や「酒は涙か溜息か」などの古賀政男の代表曲をはじめ、ここでしか聴くことのできない隠れた名曲もあります。
ごゆっくりお楽しみください。

小企画展示
音楽に関する様々なテーマを扱った小企画展示を行っています。博物館入館料でご覧いただけます。
企画展情報

地下1階
音楽情報室
「大衆音楽の殿堂」の情報検索システムをはじめ、音楽関係の書籍や雑誌、楽譜などが閲覧できます。
また古賀メロディーが主題歌に使用された懐かしの映画なども視聴できます。

「大衆音楽の殿堂」検索システム
館内2階の「大衆音楽の殿堂」に顕彰されております顕彰者について調べることができる検索機です。
顕彰者の作品 約7000曲を簡単に視聴することができます。また、顕彰者の写真やレコードジャケットの写真などもご覧いただけます。

カラオケスタジオ
古賀メロディーをはじめ、通信カラオケで色々な曲をお楽しみいただけます。また、ご自分で歌った曲をCDに録音してお持ち帰りいただくことも出来ます。来館記念にお作りになってはいかがですか?
【カラオケスタジオ30分 / 200円】
録音用CDを1枚1,000円で販売いたします。(録音出来ない曲もございます)
CD録音について
録音専用CDを1枚1,000円で販売いたします。
録音用CD
1枚 1,000円
(オリジナルラベル、ケース付き)
録音可能曲数
CD1枚に、1〜3曲の録音が可能です。
録音料
かかりません。カラオケスタジオの使用料および、 録音用CDをお求めいただければ、オリジナルCDの録音が可能です。

88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 18:46
@Digital_Mind447

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 19:31
代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。

90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 19:36
代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。

91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 19:40
日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラックの横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることができます。

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 19:46
歌謡曲の大作曲家として知られる古賀政男を中心に日本の歌謡史について展示されている博物館。小田急線の代々木上原駅から歩いて3分とアクセスはよいです。行ってみたら隣がJASRACのビルだったのには驚きました。

93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 19:55
音楽に関する情報をこの博物館にて展示をしております。
また、各線代々木上原駅より徒歩ですぐの場所にあります。
東京ぐるっとパスを利用すれば無料で見学をすることが
できます。代々木上原駅徒歩すぐです。


1月下旬ころにお一人でこの場所へ行きました。小田急線代々木上原駅からは徒歩ですぐの場所にこのような施設がございます。建物自体もとっても立派で古賀政男の音楽の世界などをこの場所で知ることができました。また、行ってみたいです。

94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 20:10
懐かしい古賀音楽を堪能
入り口は1階、展示室は2階で、階段を上がると目に入ってくるのは、懐かしいレコードのカバーやポスター。懐メロにさほど詳しくない私でも、思わず『懐かしい!!』と声を出してしまうほどの品々が並んでいます。
古賀政男の仕事部屋を再現した展示の奥に、試聴コーナーがあり、ヘッドホンを使用して好きな曲を好きなだけ聞くことが可能です。入場料だけで、別料金はかかりません。
懐かしの歌を数曲聞いてから帰りました。
懐かしの音楽を聴いて、亡き父をふと思い出させてきれた博物館でした。

95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/20(Wed) 20:32
懐かしい曲に出会えます
古賀政男邸が音楽博物館になって私達を楽しませてくれています。
昔は、私の散歩コースに古賀政男邸があって、広い日本庭園のある素敵な御宅の前をよく通ったものです。古賀さんがお亡くなりになって寂しい気持ちでおりましたら、新しい形で私達を楽しませてくれています。昭和の名曲の数々に出会えますので、どうぞお出かけしてみてください。

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/22(Fri) 12:18
白 い 椿 の 唄

作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
昭和10年 歌 楠木繁夫

1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

昭和10年菊池寛原作「貞操問答」主題歌

97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/23(Sat) 23:17
哀調を帯びた、前奏・間奏・後奏が独立した1曲にも値するような哀調を帯びた
古賀メロディの代表的な曲。

菊池寛原作「貞操問答」主題歌。

椿(ツバキ)赤の花言葉は、「控えめな素晴らしさ」「気どらない優美さ」「謙虚な美徳」。
「控えめな」という花言葉のピンク、赤の椿に対し、白の椿は「完全なる」という花言葉を持っています。
これは、白い花は美しいという風習からきた花言葉とも言えます。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 13:16
昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS 10CH

99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/30(Sat) 19:30
「古賀メロディ」の代表的な曲の一つに楠木繁夫の歌う「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詩)がある。・・これは菊池寛原作 映画「貞操問答」(昭和10年)の主題歌で、古賀政男がテイチクに移籍した第一作です。前奏・間奏・後奏が独立した一曲に相当するようなすばらしい古賀メロディの代表的な曲です。

前奏・間奏・後奏だけで一つのドラマ、聴いていると、その人をそっと優しく包みドラマの人を中に引き込むメロディ、その哀調を帯びた静かな中にも怒涛のようなメロディの中に、どんどん引き込まれ、そこに秘められたメッセージを感じ取らないわけにはいかない。

・・まじめに頑張ればきっといいことがあるって、そんな青春の息吹と励ましのメッセージを感じないわけにいかない気がします。
そこが「古賀メロディ」のたまらない魅力でもあり、それは時代を越えたテーマなので、世代を越えて生き続けられるのです。

東京へ母を呼んで暮らすのが夢だったという古賀政男の母が亡くなった(昭和9年8月)のは、この映画の企画をしてるときで、この歌ができたときは母がなくなってたとき。佐藤惣之助作詞の「白い椿の唄」三番目に「呼べど帰らぬ面影は、消えて遥かな山の上・・」 と歌われてますが、これは母を失った古賀政男の心境そのもので、彼のその後に創作意欲を大いにかきたてたといわれる。

NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男」では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。
そのなかで、上記「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。参考に一部を書く。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。
古賀メロディの歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根ずいた歴史でもあること。「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった。でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。
古賀政男は貧乏だったが、その後成功に次ぐ成功だった。でも心の底には消すことのできない、しこりのようなものがあった、それが何であるか自分でもわからない。 そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、体をおして昭和53年再び朝鮮に渡ることにしたのだった。 (TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る」で放映。)

そして古賀政男を迎えたのは、朝鮮の女性たちが演奏する子供のころに、聞いた懐かしい朝鮮メロデーとであった。

そしてうつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。 家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶしでもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989)


100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/30(Sat) 19:44
1934(昭和9)年、5月15日に古賀文芸部ともいうべきテイチクの東京文芸部が発足した。古賀は、まず歌手の発掘に力を注いだ。古賀がやはり最初に目をつけたのは藤山一郎に似せた芸名の藤村一郎という歌手だった。藤村一郎とは、3年前の1931(昭和6)年、《キャムプ小唄》を誰に歌わせるか、「上野」の期待の逸材・増永丈夫(藤山一郎)と最後まで人選に残った大阪コロムビアの黒田進である。
1935(昭和10)年2月15日、古賀・楠木コンビの最初の大ヒット曲《白い椿の唄》が発売された。楠木繁夫は<雪もかがやけ 青春の 花は涙のおくりもの>と感傷的な哀愁を切実に歌っている。菊池寛の小説『貞操問答』が入江プロ、新興キネマによって映画化され、その主題歌が古賀に依頼されたのだった。 

ミスターテイチク・楠木繁夫の名前を決定的にしたのが、日活映画『緑の地平線』の主題歌《緑の地平線》のヒットである。1935(昭和10)年10月新譜。まるで、テイチクのこの世の春を呼ぶかのように絹のような肌ざわりのある楠木繁夫の美声がこの曲にのった。《緑の地平線》は、楠木繁夫の生涯最大のヒット曲であった。


101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/30(Sat) 21:51
本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。
同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(同、西岡水朗作詞、天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女。 高橋掬太郎作詞)、
「丘を越えて」(姉,島田芳文作詞)、「鳩笛を吹く女の歌」(同、佐藤惣之助作詞)(いずれも藤山一郎歌、1931)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/05(Thu) 23:02
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27

これぞ名曲!、昭和初期から、戦後昭和20年代のレコードに注目!

これ以後、日本がだんだん豊かになるにつれ和製POPだとか外国曲の影響を強くうけたものや、
素人歌手にむしばまれてゆく。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/11(Wed) 10:51
日本の豪邸

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


世界の名車
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=410079389&ls=

104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/12(Thu) 22:08
昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/music/index2.html#2


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:18
(訂正)

昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/15(Sun) 22:35
世界の名車

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=410079389&ls=50

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/27(Fri) 20:51
湯 の 町 エ レ ジ ー

作詩 野村俊夫  作曲 古賀政男
昭和23年   歌 近江敏郎

1 伊豆の山々 月淡く
  灯りにむせぶ 湯の煙
  ああ 初恋の
  君を尋ねて 今宵また
  ギターつまびく 旅の鳥


2 風の便りに 聞く君は
  出湯の町の ひとの妻
  ああ 相見ても
  晴れて語れぬ この思い
  せめて届けよ 流し歌


3 淡い湯の香も 路地裏も
  君住むゆえに 懐かしや
  ああ 忘られぬ
  夢を慕いて 散る涙
  今宵ギターも むせび泣く 

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/27(Fri) 21:02

この「サーカスの唄」は昭和8年来日したドイツのハーゲンベック・サーカスの来日を記念したもの、サーカスも大変な人気を博し、その時から<曲馬団>が<サーカス>と呼ばれるようになった。
     
  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌唱:松平晃
  
  昭和8年(1933年)

  (一)
  旅のつばくら*1 淋しかないか
  おれもさみしい サーカスぐらし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た
 
  (二)
  昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘は うす情

  (三)
  あの娘住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ
 
  (四)
  朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で


詩人・芸術院会員、早大教授、仏文学者西條八十と古賀政男コンビの最初期の作品、
この名コンビは戦後までたくさんの名曲を残した。

109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/28(Sat) 00:32
美空ひばり 娘船頭さん

西條八十作詞 古賀政男作曲
1955 映画「娘船頭さん」主題歌





娘十八 口紅させど

わたしゃ淋しい 船頭むすめ

燕来るのに 便りも無くて

見るはあやめの ヨウ 花ばかり



想いそめたは 鹿島のまつり

おまえゆかたで わたしは島田

祭太鼓に 櫓拍子あわせ

漕いだあの夜の ヨウ 天の川



鐘が鳴ります 潮来の空で

月に墨絵の 十二の橋を

漕いで戻れど 別れたひとと

水のながれはヨウ 返りゃせぬ



110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/28(Sat) 00:51
美空ひばり 柔

関沢新一作詞 古賀政男作曲





勝つと思うな 思えば負けよ

負けてもともと この胸の

奥に生きてる 柔の夢が

一生一度を

一生一度を 待っている



人は人なり のぞみもあるが

捨てて立つ瀬を 越えもする

せめて今宵は 人間らしく

恋の涙を

恋の涙を 噛みしめる



口で言うより 手の方が早い

馬鹿を相手の 時じゃない

行くも住(とま)るも 座るもふすも

柔一すじ

柔一すじ 夜が明ける




111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/30(Mon) 11:52
三百六十五夜

西條八十作詞 古賀政男作曲

昭和23年(1948)


歌、霧島昇/松原操


(一)
みどりの風に おくれ毛が

やさしくゆれた 恋の夜

初めて逢うた あの夜の君が

今は生命を 賭ける君


(二)
たそがれ窓に 浮ぶのは

いとしき人の 旅すがた

われゆえ歩む 道頓堀の

水の夕陽が 悲しかろ


(三)
鈴蘭匂う 春の夜

灯火うるむ 秋の夜

泣いた 三百六十五夜の

愛の二人に 朝が来る



昭和23年、小島政二郎原作、映画「三百六十五夜」主題歌
歌手松原操はこの歌を最後に引退し、その後再び歌うことはなかった。


112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 19:10
青 春 サ イ ク リ ン グ
 
作詩 田中喜久子  作曲 古賀政男

昭和32年(1957) 

1  みどりの風も さわやかに
  にぎるハンドル 心も軽く
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  青い峠も 花咲く丘も
  ちょいとペダルで 一越えすれば
  旅のつばめも ついてくる ついてくる 
  ヤッホー ヤッホー ヤッホー ヤッホー

 
2 行こうよ君と どこまでも
  はずむ銀輪 リズムに乗って
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  波もささやく 浜辺の道を
  若い歌声 合わせて走りゃ
  潮のかおりが 夢を呼ぶ 夢を呼ぶ
  ヤッホー ヤッホー ヤッホー ヤッホー

 
3 夕焼け空の あかね雲
  風にマフラーを なびかせながら
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  走り疲れて 野ばらの花を
  摘んで見返りゃ 地平の果てに
  あすも日和の 虹が立つ 虹が立つ
  ヤッホー ヤッホー ヤッホー ヤッホー



113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 19:50
悲しき竹笛

西条八十作詞 古賀政男作曲

昭和21年(1946年)

歌 近江俊郎/奈良光枝


(一)
ひとり都の たそがれに
思い哀しく 笛を吹く
ああ 細くはかなき 竹笛なれど
こめし願いを 君知るや

(二)
そぞろ歩きの たわむれに
書いてわかちし 思い出よ
ああ 花の笑顔も やさしく浮かび
われを泣かせる 歌のふし

(三)
雲は流れて 返れども
鳥は塒(ねぐら)に 急げども
ああ誰にあかさん 唇燃ゆる
こよい男の 純情を

(四)
花の都は たそがれて
窓にさみしき 銀の星
ああ 想いせまりて 吹き吹く調べ
風よ伝えよ かの君に

114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 20:00
美空ひばりは昭和24年8月12歳のときに、『踊る竜宮城』に出演して『河童ブギウギ』(藤浦洸作詞、浅井挙曄作曲)を歌い、レコード(ただしB面)になりました。これがひばりのレコードデビューとされています。
(この歌はひばり全集に入っていますけど、まあフツウの歌だと思います)
 そのあと『悲しき口笛』で主役を演じ、その主題歌『悲しき口笛』(藤浦洸作詞、万城目正作曲)が大ヒットして、実質的なデビューを果たします。
 レコードの発売は同年9月だったようです。
 そしてコロンビアと契約し、翌昭和25年からヒットを連発するのですが、昭和24年より前の数年間は、母親があちこち連れて歩いて、何とかデビューさせようと必死で運動していました。

 その運動の一つに、古賀政男との面会があります。
 昭和22年の春、横浜桜木町の焼けビルでのど自慢大会があり、そこに古賀政男が審査員として来ていました。
 ひばりを連れた母親は古賀政男の楽屋に強引に入り込み、娘の歌をぜひ聴いてくれ――と頼んだそうです。

 古賀は想像する以上に包容力のある人だったらしく、無名の少女が大人の歌を歌うのを聴いてくれました。
 歌ったのは『悲しき竹笛』。
 伝えられるところでは、古賀政男はひばりの歌を褒めてくれたそうです。
 しかしデビューには直接は結びつきませんでした。
 当時の社会のモラルは厳しいものがあって、少女が大人の歌を歌うことへの反発が大きかった事も原因でしょう。

 この話はこれでお終いなのですが、じつはこの件について異論があるらしいのです。
 この時ひばりが古賀政男の前で歌ったのは『悲しき竹笛』一曲だけではない、二曲か三曲歌っていた。
 ――という説です。いくつかの伝記で読みました。
 ひばり母の性格からいっても、その可能性は十分にあると思います。
 私の疑問というのは、もし仮にそうだったとしたら、『悲しき竹笛』以外の歌は何だったのか――という事なのです。
 当時盛んに歌われていて、ひばりの十八番だった『長崎物語』では?
 ――という人もいるらしいのですが、これは古賀メロディではありません。

 無理矢理考えますと、そのころひばりの両親が好きだったという古賀メロディが候補に浮かびます。
 伝記によりますと、父親は『裏町セレナーデ』が好きでよくギターを弾きながら歌っていたそうです。
 とても良い歌です。
 一方母親が好きだったのは、戦前の『女の階級』だったとか。
 これもとても良い歌です。
(この二曲とも後にひばりは吹き込んでおり、『ひばりの古賀メロディ』のどれかで聴くことができる筈です)

115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/31(Tue) 23:29
麗人の歌

西條八十作詞 古賀政男作曲

霧島昇 歌

昭和21年(1946)



(一)

夢はやぶれて 花嫁人形

華美(はで)な袂が 恥かしや

覚めて浮世の 窓見れば

みんな泣いてる ああ人ばかり


(二)

告ぬ想いを さみしくこらえ

君とゆく夜の 小糠雨

いとしお方の 肩たたく

雨がわたしで あああったなら


(三)

籠に飼われた 緋総(ひぶさ)の鳥が

強い女と なる朝は

こころ筑紫の 波の上

うかぶ白帆に ああ虹が立つ


*1946映画「麗人」主題歌、ギタ―は古賀政男


116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/05(Sun) 09:04
島倉千代子「りんどう峠」1955


西条八十作詞 古賀政男作曲


(一)
りんりん りんどうの花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
りんりん りんどうは 濃むらさき
姉サの小袖も 濃むらさき 濃むらさき
ハイの ハイの ハイ

(二)
りんりん りんどうの花咲く峠
姉サは馬コで あとふりかえる
姉サに行かれて なんとしよう
いっしょに柴刈る ひとも無い ひとも無い
ハイの ハイの ハイ

(三)
りんりん りんどうは小雨にぬれる
わたしゃ別れの 涙でぬれる
りんりん鳴るのは 馬の鈴
姉サは峠に 消えてゆく 消えてゆく
ハイの ハイの ハイ


昭和30年(1955)、高田幸吉主演映画「りんどう鴎」挿入歌
島倉千代子17歳の時の作品。


作詞の西条八十は、詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授、童謡「カナリア」でも知られる偉大な詩人であり作詞家。

昭和の初めから歌謡曲、歌曲、新民謡などにも多くの作品を残した。
古賀政男とのコンビは黄金コンビと言われ、昭和の初めから戦後に至るまで数知れない多くの名曲を世に送り出した。

117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 17:57

 11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日



史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。

118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/21(Tue) 23:11
心を打つ本当の「名曲」、それはまだ日本が貧しかった時代、苦しかった時代、昭和SP歌謡にあり!。

119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/23(Thu) 22:34
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。


『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。



「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html




120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/23(Thu) 22:44
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない詩。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。


以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。





人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。

若きディックミネの歌う 昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。






121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 20:20
詩人・西條八十・・「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「銀座の柳」「お菓子と娘」「愛染かつら」「誰か故郷を想わざる」「春よいずこ」「サヨンの鐘」「青い山脈」「三百六十五夜」「王将」などの歌謡、
「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・・、日本人なら誰でも一度は聞いたことがある、そのやさしい歌は、日本人の心の中に深く根ざすもので、これからも歌い継がれるにちがいありません。
詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっ
かけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。皆さん、西條八十の歌をいくつしってますか・、中でも黄金コンビとされる、たくさんある「西條八十作詞、古賀政男作曲」、いくつ知ってますか。

122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 20:45
西條八十と関東大震災

 その話のなかで「西條八十が関東大震災に遭遇して上野の山に避難したおり、少年の吹くハ−モニカを聞いたその時の感激が、歌謡作詩家になっていった」という話に、とくに興味をそそられた。
 そこでその出典となった本や西條八十の経歴を調べてみた。
 西條八十に関する資料をみると「フランス象徴派の影響を受けた近代詩人、童謡詩人、歌謡作詩家の三つの顔を持つ」と書かれている。

 歌謡作詞家の顔を出すきっかけは、中央公論社、昭和50年4月10日発行の西條嫩子著「父 西條八十」のなかに書かれている。
 「大正12年、母がお産で入院中、大震災がおきた。私はまだ、四歳で、妹の慧子と盲目の祖母をかかえるようにして、琴という名の保母兼家政婦が中庭につれだすと同時に、目の前の物置が大震動で瞬時にくずれてめちゃめちゃになってしまった。

 
 余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。

 ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。それは思いがけぬ美しく優しい音であった。激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、こんなつまらない歌でも人々の心を慰めることができる。
それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。この時の得もいわれぬ深い感銘が父をして歌う唄、大衆への歌、レコ−ドへ向かう機縁となったようである」と、「父西条八十は私の白鳥だった(集英社文庫)」などの著作の八十の娘さんが書いている。

こんなつまらない歌でも人々の心を慰めることができる。自分も大衆のために役立つことができればと、大衆歌謡への思いを決めたと自伝「唄の自叙伝」にある。

西條八十と船頭小唄

 この話を聞いたのは、阪神大震災のあった年、平成7年の5月頃だった。その年の暮れの日曜日、車の中でNHKラジオから野口雨情を話題にした歌謡漫談を聞いた。その中で西條八十が遭遇した関東大震災とハ−モニカの話が出てきた。

 内容は上記とほぼ同じだったが、その時少年が吹いた曲は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」だったという。それを漫談風にしゃべっていたところでは、八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。

 ちなみに、ハ−モニカが初めて日本に伝えられたのは明治中ごろらしい。当初はドイツ製が優勢だった。その輸入が第一次世界大戦で止まっていた間の大正5、6年に国産品が相次いで現れ、急激な普及の糸口になった。(世界大百科事典・平凡社)

 この「船頭小唄」は大正10年に発表され、その前年からの恐慌で民衆の生活が窮迫化し、それまでの楽天的な曲調が影をひそめていった時代である。関東大震災が起こった大正12年当時には、庶民のあいだで歌われていたのだろう。


123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 20:54

フランス留学後発表した「東京行進曲」

 「関東大震災の翌年の早春、愛児慧子への深い傷心をいだきながら、父は早大の留学生として渡仏することになった」と、上記「父 西條八十」の次の章に書いている。

 昭和2年フランスから帰国したときにすっかり復興した東京の姿を見て作ったのが「当世銀座節」(昭和3年)だった。西條が雑誌に発表した詩に中山晋平が作曲し、佐藤千夜子がレコ−ドに吹き込んだが、あまり流行らなかった。

 昭和4年に発表した「東京行進曲」は、同名の映画主題歌として日活が八十に依頼したもので、関東大震災後の復興で面目を一新した東京の風物を軽快な曲で描いて25万枚売れたという。
 「生まれてはじめて、当てようとして思い切り調子をおろして書いたものだけにこの『東京行進曲』の成功、不成功は私の重大な関心事だった」と自叙伝に書いている。

 この『東京行進曲』の大成功によって、ビクタ−専属の作詞家となって歌謡作詞家としての顔が見ることができる。
 
    

124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 22:48
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇が いわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。大変立派なものであります。 西條八十は「芸術とは人生に対する真剣な感動が盛り込まれていなければならぬ」と言っ ていまして、この歌謡の中でも例えば「旅のつばくら淋しかないか」(サーカスの唄)ですが、これはフラ ンスの女流詩人の「旅の燕は私の心の夢で、あなたについていく」がヒントになっていて 私だったら「旅のつばくろ淋しくないか」となってしまうところ、「 ― つばくら淋しか ― 」となるのは、さすがです。らとかの明るいはずのあ音が、歌うと(古賀政男作曲) 深く澄んだ寂蓼となって響きます。

125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/26(Sun) 17:07
「お山の大将」
西條八十作詞・本居長世作曲




お山の大将 俺ひとり
あとから来るもの つき落とせ

ころげて 落ちて またのぼる
あかい夕日の 丘の上

子供四人が 青草に
遊びつかれて 散りゆけば

お山の大将 月ひとつ
あとから来るもの 夜ばかり


126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/27(Mon) 22:46
「お菓子と娘」
西條八十作詞・橋本国彦作曲




お菓子の好きな 巴里(パリ)娘
二人そろえば いそいそと
角の菓子屋へ 「ボンジュール」

選(よ)る間(ま)も遅し(注) エクレール
腰もかけずに むしゃむしゃと
食べて口拭く 巴里娘

残るなかばは 手に持って
行くは並木か 公園か
空は五月の みずあさぎ

人が見ようと 笑おうと
小唄まじりで かじり行く
ラマルチーヌの 銅像の
肩で燕(つばめ)の 宙がえり


127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/29(Wed) 20:14
サ ヨ ン の 鐘

作詩 西条八十  作曲 古賀政男

歌 渡辺はま子

1 嵐吹きまく 峰ふもと
  流れ危ふき 丸木橋
  渡るは誰ぞ 麗(うるわ)し 乙女 
  紅き くちびる あぁ サヨン


2 晴れの戦に 出でたまう
  雄々し師の君 懐かしや
  担う荷物に 歌さえほがら
  雨は降る降る あぁ サヨン


3 散るや嵐に 花一枝(ひとえ)
  消えて哀しき 水けむり
  蕃社の森に 小鳥は鳴けど
  何故に帰らぬ あぁ サヨン


4 清き乙女の 真心を
  誰か涙に 偲ばざる
  南の島の  たそがれ深く
  鐘は鳴る鳴る あぁ サヨン
 
昭和18年7月、李香蘭主演、松竹映画「サヨンの鐘」主題歌、

日本統治下の台湾、高砂族の愛国娘サヨン、実在の物語を西條八十が詩に。
出世兵士を送って行く途中で、丸木橋から転落死した台湾の少女の話。
現在でも「月光小夜曲」として台湾では広く歌われている。

128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/29(Wed) 22:33
日本と中国の間では戦時中、双方から愛された歌があった。『何日君再来』や『夜来花』が最も有名な例かもしれない。この二曲は今でも日 中両国で歌われる数少ない戦時歌謡だ。敵味方双方に愛されたという『リリー・マルレーン』を思わせる『何日君再来』は同様の歌手を巡るドラマがある。 台 湾においては『サヨンの鐘』が今も『月光小夜曲』として歌い継がれている。
『サヨンの鐘』の物語は、1938年の史実に基づく。台湾の高山 地帯、台湾原住民タイヤル族の蕃社で勤務していた教師兼警官の山田巡査に召集令状が届く。出征する恩師の下山を手伝うために悪天候下、同行して濁流に呑ま れ一命を落としたタイヤルの娘サヨン。この物語を忠君愛国の物語として歌謡曲にされた。歌唱は渡辺はま子で発売は1942年。実際のサヨンの遭難事件から 4年も経ていたが、1941年に勃発した太平洋戦争のために日本と台湾の連携、および皇民意識の強化が不可欠だったためのプロパガンダである。
 

おそらく日本では全く忘れ去られてしまったこの西條八十作詞、古賀政男作曲による名曲『サヨンの鐘』は台湾では今でもスタンダード曲あるいは老歌(懐メロ)として好んで歌われている。
『月光小夜曲』の復活は1960年代、諸説があって誰が歌い始めたのかは定かではない。ただ、この頃から、台湾での人気歌手、鳳飛飛、蔡琴、費玉清らがレコーディングして発売している。
台 湾では原住民(高山民族)、内省人(台湾語を母語とする漢族)、外省人(北京語を言語とする蒋介石と落延びた漢族)の3つのグループに分けられる。歌謡曲 では公用語の国語(グオユィー、中国の北京語にあたる)言葉で歌われる国語歌と、台湾語で歌われる台歌に分けられる。最新のヒット曲でもこの二つの住み分 けは行われている。
『月光小夜曲』は国語歌である。タイトルも内容も『サヨンの鐘』とは違う。メロディーのみが古賀政男のものであるというだけである。歌詞は中華民国の作曲家、周藍萍が1963年頃書いたものらしい。この辺も判然としておらず、謎が多い。
周藍萍の作曲作品リストに『月光小夜曲』が入っているのを見かけることがある。作詞・作曲:周藍萍となっている場合や、古賀政男の名を記さず、日語原曲となっている場合もある。周藍萍の作曲とする記述は、意図的なものか誤記なのかは分からない。
周藍萍が大陸から台湾に来たのが民国三十八年(1949年)だから、周藍萍の作曲であったとは考えられない。
『サヨンの鐘』は1942年に台湾では繁盛に歌われていたのだし、この歌の作曲者は古賀政男であろう。
ただ、考慮に入れなければいれないことがある。古賀政男は満州に取材に行った際に満州での流行歌を持ち帰りでレコード化している。(任光作曲:『南の花嫁さん』)この際、作曲が古賀政男とされることが多かった。本来は編曲とすべきだろう。
 

129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/29(Wed) 22:44
南の花嫁さん

作詞:藤浦 洸 編曲:古賀政男
原曲:任光「彩雲追月」*1
歌唱:高峰三枝子


(一)
ねむの並木を お馬のせなに 
ゆらゆらゆらと
花なら赤い かんなの花か
散りそで散らぬ 花びら風情(ふぜい)
隣の村へ お嫁入り
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
言葉もたったひとつ いついつまでも

(二)
椰子の葉かげに 真赤な夕陽が 
くるくるくると
まわるよ赤い ひまわりの花
たのしい歌に ほほえむ風情
心はおどる お嫁入り
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
言葉もたったひとつ いついつまでも


(三)
小川のほとり お馬をとめて
さらさらさらと
流れにうつす 花嫁すがた
こぼれる花の 花かんざしに
にっこり笑う お月さま
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
言葉もたったひとつ いついつまでも



   
 【*1】
この「南の花嫁さん」の作曲者は全音などでは古賀政男となっています。原曲は中国の<任光(Guang Ren、
1900〜1941年)>作曲の<彩雲追月>であるとされています。この曲の昭和18年日中間は戦闘状態で著作権関係
も曖昧だったでしょうし、任光も没後70年近いですから、日本の著作権上は、【編曲古賀政男、原曲:任光】
が妥当なのではないでしょうか。

130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/30(Thu) 20:44
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 上 1868~1937』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 中 1938~1959』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 下 1960~1994』社会思想社1966年。


131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/01(Fri) 22:58
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。

132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/03(Sun) 12:59
>>124

サーカスの唄
   
  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌唱:松平晃
  昭和8年(1933)
 
  (一)
  旅のつばくら  淋しかないか
  おれもさみしい サーカスぐらし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た
 
  (二)
  昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘は うす情

  (三)
  あの娘住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ
 
  (四)
  朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で



133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 11:32
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。





134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:22
関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。

彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。


自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。


その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。

・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5  VIC 50321@
當世銀座節   (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7  VIC50371@
東京行進曲    (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6  VIC50755A
愛して頂戴      (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8  VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌)  1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇) (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2  VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2  VIC 51093A
この太陽       (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6  VIC 51240A



135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:26


西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。

そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターン調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。

また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。

*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)

去りゆく影  (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.1
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄    (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴  1933.十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア  1933.6
気まぐれ涙     (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅     (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   193310



「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。




なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」



136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:29
古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。

新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html

1940 .2 誰か故郷を想わざる       霧島昇
1940 .2 あの花この花          二葉あき子
1940.5 春よいづこ           藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声         藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻            志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌   霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い          伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮           李香蘭
1941.7 そうだその意気        霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7  夜霧の馬車       李香蘭
1941.7  歌えば天国       藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘       渡辺はま子
1942.7  夕月乙女        李香蘭
1943.3  若き日の夢       李香蘭
1943,5   サヨンの歌       李香蘭




137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:33
>>133
訂正

藤山一郎、関種子など東京音楽学校首席の名歌手との出会い。

東洋音楽学校首席・・(正)東京音楽学校主席
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)


138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/05(Tue) 12:55
☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」


昔、メロディを付けて呼ぶのは「古賀メロディ」しかなかった。

当たり前(三要素の一つ)のものにとりわけメロデーを付けて呼ぶことはしない。

(いつのまにか、リズム系などを含め、作曲家の名前の後ろに、何でも一律に「メロディ」を付けて、「メロディ」で呼ぶようになったようだ。だが、リズム(系)とメロデーはそれぞれ別物。)


“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)


誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、それを「古賀メロディ」と呼んで称えた。


彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、「丘を越えて」にしても、「酒は涙か溜息か」にしても、「影を慕いて」についても・・・

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。

その古賀作品を称えるため、新聞などが与えたものだろう、その「古賀メロディ」と言う言葉はいつごろ確立されたものだろうか。

昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成25年(2013)から82年前の昭和6年(1931)3月だから、その7年後だ。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。


したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究  ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)





139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 11:32
明治大正時代、このころは文部省唱歌や民謡などを除き大衆が歌える歌がなかった。
大正に入って童謡が生まれ、対大正末期から昭和にかけて新民謡運動がおこる。
こんな中で、誰でも歌える歌作りを目指した作曲家がいた、それが中山晋平。東京音楽学校を卒業すると、
音楽教師をしながら劇中歌や童謡運動に加わった。大正半ばごろから詩人野口雨情、歌手の佐藤千夜子とともに
全国に飛びして民謡の採譜や新民謡の普及活動をしていた。
この運動の中で生まれた新民謡『波浮の港』(昭和3年、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、日本における最初の
日本で最初のレコード歌謡と言われ、これを歌った佐藤千夜子が日本で最初のレコード歌手とされる。

昭和3年、無名の学生に過ぎなかった古賀政男(正男)作曲の「影を慕いて」をビクタ―で吹き込んだのが佐藤。
昭和6年1月にビクター、昭和7年3月に藤山一郎でコロムビア。

古賀政男の「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」の一連の歌は「古賀メロディ」と言われた。

古賀政男はいまや「○〇節」の時代ではなく「メロディ」の時代だと語っていた。





140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 12:07
これを新聞が大きく書いた。
  
  【晋平節から古賀メロディの時代へ】 と

古賀の自伝によると、これを見た古賀は驚いて大先輩「中山晋平先生」のところに
謝りに行った。

ところが中山晋平先生は、いいですよ、あなたは私にないいいところを持っています、頑張ってくださいと逆に励まされた。

「古賀メロディ」が大きく認知された歴史的瞬間である。

同時に昭和8年の「東京音頭」を最後に晋平の「晋平節」は影を潜め、

以後、新聞が書いたようにこれまでの主流とされた「晋平<節>」に代わって「古賀<メロディ>」が主流になっていった。

晋平のビクタ―黄金時代は「古賀<メロディ>」のコロムビアにとってかわられた。

なお、何とかメロディとか作曲家に「メロディ」をつけるのは、昭和40年代の懐メロブーム時代からで、
「古賀メロディ」は世に出た昭和の初めから、それを称える唯一許された歴史的価値を持つものとして、
たくさんの作曲家の中で戦後に至るまで特別なハイランクのものだった。

すでに押しも押されもせぬ「日本の名士」でもあった大御所・古賀政男は、昭和33年に「日本作曲家協会」を設立、自ら会長となる。
レコード大賞など知られている。

また戦後、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウーハチローに次ぎ、JASRAC「日本音楽著作権協会会長」。
その著作権における偉大な功績と実績を讃えるように、JASRAC設立にも関わったJASRACは古賀財団のビルに本拠を構える威容。
またその死後、野球に王貞治選手に次ぎ二番目の国民栄誉賞。

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 09:19
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 12:31
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 09:33
昭和の初め、主流だった「晋平節」は「古賀メロディ」にとってかわられた。

昭和8年の「東京音頭」を境に、晋平は戦後に至るまで虚ろな日々を送る。
ビクタ―の顔だった中山晋平の代わりになったのは佐々木俊一だった。
西條八十、中山晋平コンビは戦後に至るまで佐伯孝夫、佐々木俊一に代わった。

ビクタ―専属西條八十は、ビクターに対し、コロムビアの古賀政男とは申し出、ビクターも八十ーも専属を超えた提携の希望を1年間の条件で受け容れた。
で昭和8年から西條八十・古賀政男黄金コンビがここに成立。
「去り行く影」(関種子)、「サーカスの唄」(松平晃)・・などがそうである。

その後、古賀政男はテイチクへ、西條八十はコロンビアへ変わった。
古賀政男はテイチクを経て、「外務省音楽文化親善使節「」として」1年間の渡米後、昭和14年から再びコロムビアに。

昭和13年からコロムビアに代わっていた西條八十とともにとともに、西條八十・古賀政男黄金コンビが戦後に至るまで続き、「誰か故郷を想わざる」などなど数多くの【古賀メロディ】名曲を世に送り出した。


144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 09:39
訂正

ビクタ―専属・西條八十は、ビクターに対し、コロムビアの古賀政男と連携することを申し出、ビクターも八十の専属を超えた、、コロンビアの古賀政男との提携の希望を1年間の条件で受け容れた。

145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 22:31

昭和27年も押し迫った12月2日、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、ある恩人,その名は野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、この28日後、今から65年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。


しかし、その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、中山晋平(晋平節)ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。






146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 23:01

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口 井之頭通り 駅前交番前




147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/26(Tue) 21:00
日本の名曲 「影を慕いて」


影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月




かって平成の初め頃、NHKTVで、「日本の名曲10曲」(歌謡曲の名曲で無く)の一つとして、「影を慕いて」(古賀政男作詞・作曲)が1年間ずっと流されていました。

「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」・・など日本の名曲10曲が「日本の名曲10」として、毎夜8時の番組の後の時間を使って1週間ずつ、交代で1年間ずっと流され続けました。


<「影を慕いて」の曲碑>
 古賀メロデーの原点といえば、「影を慕いて」・・朝鮮のメロデーと同じ三拍子・・で、この曲碑は宮城県の蔵王に近い「青根温泉」(自然の森公園内)と、「古賀政男記念館・生家」のある家具の町、福岡県・大川市・大川公園内にもあります。
 この歌が作られた、昭和3年には、演歌や「さすらいの歌」などを除けば、「出船」「波浮の港」「出船の港」や、「青空」「アラビアの歌」などあちらの歌を除いて現在ある歌はまだ存在しなかった。

青根温泉「影を慕いて」曲碑   h ttp://ww5.et.tiki.ne.jp/~kawsaki2/koga.htm
古賀政男記念館    h ttp://www.city.okawa.fukuoka.jp/kogakinen/hall.html


河口湖畔 古賀政男記念公園「影を慕いて」音楽碑

作曲家古賀政男が疎開していた富士五湖の一つ河口湖畔 古賀政男記念公園にも「影を慕いて」音楽碑があります。 

「影を慕ひて」の歌詞と楽譜が刻まれていて、実際にセンサーで音楽が流れるようにもなっています。
外国人の方も多く訪れていて、ガイドさんが熱心に日本の有名な音楽家であることを解説されていた光景が印象的でした。



148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/29(Fri) 08:44
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/02(Tue) 20:38
■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校  あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校  蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。





150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 00:13
公益社団法人 日本作曲家協会歴代会長

初代 古賀政男 1958 - 1978  (昭和33年−53年)
2  服部良一 1978 - 1993
3  吉田正  1993 - 1997
4  船村徹  1997 - 2005
5 .遠藤実  2005 - 2008
6  服部克久 2008 - 2013
7  叶弦大  2013 - 2017
8  弦哲也  2017 -

151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/04(Thu) 11:04
昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもしない歌謡界の『大御所』というだけでなく、『日本の名士』になっていた。

指には大きなダイヤを付け、き、テレビが家庭に普及する中で、「うたマネ読本」とかの審査員となって「よかったね!、よかったね!」と言う言葉で知られる。
このころ、昭和33年(1958)には、日本作曲家協会を設立、自ら会長となり作曲家の待遇改善に尽くしたり、「レコード大賞」などを作るなど、昭和30年代の役割は[大御所]としての役割に移っていく。

日本作曲家協会会長は彼が亡くなるまで続き、作曲家の著作権や待遇改善に尽くしたり、[大御所]としての役割に移っていく。


152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/04(Thu) 11:26
設立目的 日本作曲家協会


昭和33年(1958年)11月30日に「作曲活動を振興し日本の音楽や芸術文化の向上を図り作曲家の社会的地位と著作権を守る」ことを目的に初代古賀政男氏(昭和53年・1978年没)を会長に発足しました。そして平成24年4月1日に公益社団法人日本作曲家協会として再出発しあらためて「作曲活動の振興を通じて音楽の普及を図り、もってわが国の芸術文化の発展に寄与することを目的とする」を定款に掲げ活動を続けております。


153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/08(Mon) 01:44
「都はるみ 古賀メロディーを歌う」
nanaironokinunouta.seesaa.net
でやってる

154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/09(Tue) 13:05
>>153
ありがとう。

155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/13(Sat) 07:58
NHKホームページより

NHKアーカイブス・スペシャル
幾山河は越えたれど 〜昭和の心 古賀政男〜
放送:前編 12月29日(日)23:10〜翌0:55(105分)
   後編 12月30日(月)23:25〜翌1:10(105分)

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
 1979年(昭和54年)4月14日放送
 90分×2本(二部構成)
前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。

後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。

【スタッフ】
脚本:早坂 暁/たなべまもる
音楽:山本丈晴
制作:萩原具佳
演出:岡崎 栄
美術:青柳敏郎
技術:高尾禮充
効果:高橋美紀
撮影:山下政人
VTR技術:松岡住夫
照明:宮本省二
音声:服部己喜男

【出演】
渥美 清

柳生 博

水谷良重

ハナ 肇

山内 賢

森 光子
 ・・・ほか

藤山一郎 
 ディック・ミネ
霧島 昇 
 近江俊郎
村田英雄 
 島倉千代子
美空ひばり 
 森 進一
さとう宗幸 
 八神純子
ツイスト 
 原田真二
さだまさし 
 矢野顕子

【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒

【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。

*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。

古賀政男音楽博物館
 〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12

*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。

古賀政男記念館
 福岡県大川市大字三丸兼木844

156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/20(Sat) 19:57
>>149

昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。

直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。

古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。

古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。

古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を切り拓いてくださった終生の恩人」と書いている。

「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)

このうち音楽学校卒業が22人。

藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。

22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。

関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。

今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・の理由だ!。


・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・古賀メロディ・・・

大切に歌おう!

157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 09:06
戦後大きく変わったのは恋愛の自由、恋愛は昔も今も小説、映画のテーマであることように変わりないのだが、それまでの恋愛表現は奥ゆかしさがあったのが、戦後自由奔放になってくる。
その先駆けみたいなものが石坂洋二郎作品だろう。

「青い山脈」というのは石坂洋二郎作品。その新聞連載の昭和24年映画化作品とその主題歌(西條八十作詞、服部良一作曲)。
でもなにか「平和」を願うみたいなっているが気になる、東北地方の港町を舞台に、封建的な田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動、それと戦う若い女教師の姿を描いたもの。未だに戦前の封建的な社会制度を引きずっており、女性は男性より低い立場にあるのが当たり前という封建制度と戦う姿。戦う陰にあるのは戦後の奔放な男女関係で平和そのものではない。

前年、まだ恋愛にも奥ゆかしさがあったころ、昭和23年の「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)とは、同じ恋愛小説の映画化作品であるが、まったく異なる。
西條八十は数えきれないほどの名作品を世に送り出したことで知られるが、特にその心情、苦悩を謳ったそれは他の追随を許さないものが有る。しかし、この「青い山脈」に限っては、奔放な男女交際とは思われない、心情が見えない、苦悩もない、何のことかわからない、平和を願った歌とであるように勘違いしてしまうような、西條八十にしてはありえないさらっとした一般的な表現。
だから、藤山一郎の名歌唱によって、一般的人気を集めている一方で、明るいが軽いとの辛口の批評も常に付きまとう理由と思われる。
同じ西條八十の戦後早々の作品である「三百六十五夜」「麗人の歌」などの重厚な作品と聞き比べればよくわかる。



158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 09:55
三百六十五夜

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操


 みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君


 たそがれ窓に 浮かぶのは
 いとしき人の 旅すがた
 我ゆえ歩む 道頓堀の
 水の夕陽が 悲しかろ


 気づよく無理に 別れたが
 想い出の道 恋の街
 背広に残る 移り香(が)かなし
 雨の銀座を ひとりゆく


 鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る


昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。映画は雑誌『ロマンス』に連載された小島政二郎の恋愛小説の映画化で、出演は上原謙、山根寿子、高峰秀子、堀雄二など。
 古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなりました。

159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 12:36
青い山脈・・・、明るいより軽く聞こえる残念。

160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 16:02
藤山一郎が「青い山脈」を歌うとき、手拍子で歌う。

161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 21:43
三百六十五夜 ・・日本語がきていですね!

みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君

鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る


162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 21:59
コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前



163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 22:45
>>161
三百六十五夜 ・・日本語がきれいですね!

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 09:44
>>162

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。

〔渋谷区コミュニティバス〕 (ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/

@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。

h ttp://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html




165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 10:17
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌 (音楽BBS)


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50


懐かしの銀座を歌った歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

名前を名にした歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50

166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/20(Tue) 22:00
>>158


みどりの風におくれ毛が
 やさしくゆれた恋の夜
・・・・・・・・・・・・・
こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ・・!といつも
思います。
・・・・・・・・・・・・
古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と
作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもか
と 討ちこんでくる・・・・・・・・・
正に この歌はその代表だと思っています。

167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/21(Wed) 01:12
川口松太郎原作「愛染かつら」、小島政二郎原作「三百六十五夜」、・・西條八十の作詞による作品が、同じ男女間がでも二人の間の深い恋愛なのに対し、
石坂洋二郎作品「青い山脈」の場合、学校内の奔放な集団的男女交際の話。

東北の田舎の港町を舞台に、男女間が封建的な田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動と、それと戦う若い女教師の姿を描いたもの。
愛染かつらでは・・すれ違いともう一つの大きなテーマは、親子・・生みの親・育ての親。

石坂作品「青い山脈」ではテーマというものがはっきりしない。
だから、どうしても一般的、全般的で平板にならざるをえない。
愛染かつら、三百六十五夜など西條八十の殊玉の名作品に比べると、、その分どうしても明るいけど軽さは否めない。
多数ある西條八十の作品故、どうしてもそう感じてしまうのは致し方ない。

168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/21(Wed) 01:21
西條八十の「愛染かつら」三部作6曲がある、すれ違いの映画で、そこには生みの親、育ての親の葛藤、
それを乗り越えて最後で結ばれる二人。
随所に出てくる言葉・・それは「子守歌」、第一部の主題歌「悲しき子守歌」もある。
その全般を通して優しい詩に、優しい歌声。


169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/22(Thu) 10:13
先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。『青い山脈』は原節子と吉永小百合という戦前戦後の永遠の美貌と輝きを持った女優の人気にのみに後押しされて、DVDで初作の東宝版と日活版が映画が視聴できるのみ。主題歌『青い山脈』 は藤山一郎のCDアルバムや日本コロムビアの日本映画主題歌集などで聴けるのみである。(廃盤になってないものでは東宝の1979年のリメイク版主題歌 だった、石川さゆりと潮哲也歌唱のものが『石川さゆり・アーリーアルバム』で聴くことができる)
「青い山脈」は藤山一郎と奈良光枝が歌った、奈良光枝が亡くなっ、現在藤山一郎の歌のようになってる。藤山一郎はよくこの歌を手拍子をもって歌っている。
肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊となり、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。


170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 23:03
>>35

丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
視聴回数 24万 回

2012/10/29 に公開

昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です。

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/01(Thu) 19:14
NHK放送ライブラリ
初めて戦争を知った〔2〕 幻の歌“サヨンの鐘”が聞こえる 台湾「高砂族」と太平洋戦争
テレビ番組
番組ID 007069
放送日  1993.08.03
分数   44
ジャンル ドキュメンタリー
放送局  NHK
製作者  NHK
出演者  山田太一、山口淑子、語り:内藤啓史
概要
戦争を知らない若者たちが、太平洋戦争を体験した人々と出会うことを通して戦争の悲惨さ、戦争の真実を発見し、伝えていくシリーズ。(8月4日終了、全3回)◆第2回は高校2年生の少女が台湾を訪ねる旅を通して、戦争中台湾で歌われていた「サヨンの鐘」(西條八十作詞、古賀政男作曲)に秘められた事実を追い、台湾の人々を戦争に巻き込んでいった日本の植民地政策を明らかにしていく。

NHK放送ライブラリ
横浜市中区日本大通11
横浜情報文化センター内 
TEL.045−222−2828


172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/01(Thu) 21:07
古賀メロディ代表曲

h ttp://www.jrt.co.jp/radio/natsumero/bangumi/kogamasao.htm

173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 09:52
■■コガ・ミュージアムコンサート 案内 ■■

  (近日の予定)

◇平成30年5月26日(土)
 永遠の古賀メロディコンサート 東京大衆歌謡劇団

開場13:30  開演14:00 終了予定16:00

◇平成30年6月23日(土)
 古賀政男没後40年 心を込めて古賀メロディを歌う!

昼の部 12:00開場 開演12:30
夕の部 15:30開場 開演16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール

入場料 指定席制 2000円(税込) (要電話予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051

主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口1を出て右側音楽村通りを進み、突き当り井之頭通り、 代々木上原駅南交差点駅前交番すぐ目の前
下りホームすぐ下に見えます。南口出口を出て2,3分です。

渋谷駅ハチ公口から循環バス(丘を越えてルート)がでています。

入場券で博物館をご覧いただけます、開場前にご見学ください。>>42-44,>>45-46

他の企画・演奏もあります、ホームページ参照。

■無料開館日のご案内 (通常入館料 500円)
 
 毎年5月18日 国際博物館の日

 毎年7月21日 古賀政男命日

 


174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 10:01

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。

〔渋谷区コミュニティバス〕 (ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/

@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。

h ttp://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html




175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 23:01
>>171

戦前、台湾コロムビアから「乙女の真心」という曲が出されました。通称「サヨンの鐘」です。渡辺はま子さんが唄っておりました。古賀政男作曲、西條八十作詞の名曲です。台湾では今もなお歌い継がれる名曲中の名曲です。


「サヨンの鐘」・・日本と台湾の間で、少数民族が顔を出すところがある。それは、残念ながら蜂起とか鎮圧とかという形だった。昭和5年、台湾総督府に山間で抵抗した高砂族、霧社藩暴動事件というのがあった。
 
 しかしこの話は、そん名歴史を考えると感激せざるを得ない、実際に起った日本と台湾との架け橋のような「美談」なんですね。「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまうんですね、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送るんですね。それを聞いた渡辺はま子が、この歌を歌う。これは昭和16年11月だそうで、太平洋戦争直前なんですね。
しかも、昭和18年に「李香蘭」・・山口淑子女史・・が主演、サヨン役で、映画「サヨンの鐘」が公開されるんですね。この話の碑が戦後倒されたり削り取られたりしたが、現在復活して大切にされてるというのはすばらしい話だと思います。


h ttp://home.so-net.net.tw/katakura/kyodo/0105.html

h ttp://urawa.cool.ne.jp/masakim/Taiwan/Trip/Hualien/hualien2.html

h ttp://nwotw.hp.infoseek.co.jp/nihon/iseki.htm#sayon

h ttp://taiwantokuso.hp.infoseek.co.jp/nihon/uta/sayon.htm



176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 23:13
サヨンの鐘
(西条八十作詞・古賀政男作曲)

 1.あらし吹き巻く 峯ふもと
   流れあやふき 丸木橋
   渡るは誰ぞ うるわし乙女
   紅きくちびる ああサヨン
 
2. 晴れの戦に 出てたまふ
   雄雄しき師の君 なつかしや
   担う荷物に 歌さえほがら
   雨は降る降る ああサヨン
 
3. 散るや嵐に 花ひとえ
   消えて哀しき 水けむり
   蕃社の森に 小鳥は鳴けど
   何故に帰らぬ ああサヨン
 
4. 清き乙女の 真心を
   誰か涙に 偲ばざる
   南の島の たそがれ深く
   鐘は鳴る鳴る ああサヨン

<CD紹介>
松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の挿入歌として次の歌がある。いずれも名曲。
「サヨンの歌」(西條八十)李香蘭、「なつかしの蕃社」(西條八十)霧島昇、菊池章子
CD「渡辺はま子 / シナの夜 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・サヨンの鐘
CD「李香蘭 / 蘇州夜曲 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・・・サヨンの歌
上記挿入歌2つは、CD「SP原盤復刻による日本映画主題歌集 5」にも入ってます。(「サヨンの鐘」は入ってない。いずれも現在の入手状態不明。)


「サヨンの鐘」の“鐘”と、『組曲 サヨンの鐘』
  h ttp://www1.ocn.ne.jp/~shoji/sayon.html






177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 22:00
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。

昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。

改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。




178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 22:15
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、代々木上原駅前の3000坪の広大な屋敷には、庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。







179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 22:28
>>173-174,>>178

古賀政男音楽博物館は、小田急線代々木上原駅南口から徒歩3分ほどの場所に位置しております。日本を代表する大作曲家の生前住んでいた所を公開している博物館です。館内には古賀氏が使っていた楽譜が展示されていました。数々の名曲を残した作曲家さんでしたので、凄く感動しました。ぜひ一度足を運んでみてください。

古賀政男が1938年から自邸を構えた渋谷区、小田急線代々木上原駅前3000坪の敷地に一般財団法人古賀政男音楽文化振興財団によって1997年に開設された。建物は日本音楽著作権協会(JASRAC)が本部を構えるオフィスビルと博物館付属のコンサートホール「けやきホール」と一体化している。館内には古賀の来歴紹介や自邸のモックが。


180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 23:06
日本の豪邸

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 23:16
世界の名車


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=410079389&ls=50

182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/17(Sat) 08:43
>>178
訂正
古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から丁度87年前の昭和6年(1931)3月。


183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/17(Sat) 10:35
>>173-174

古賀政男音楽博物館

これは、昭和12年、自宅兼「音楽村」を作りたいという、飛ぶ鳥を落とす勢いだった作曲家「古賀政男」
が、小田急線代々木上原駅前の松林3000坪を購入し邸宅を建てて昭和13年から住んだ邸宅。
代々木上原駅から古賀邸までの短い道は今、「音楽村通り」となずけられて表示されている。
現在、邸宅跡は「古賀政男音楽博物館」になっている。
「古賀政男音楽博物館」にはこのほか、東京渋谷区が渋谷区コミュニティバス(上原・富谷ルート循環;「丘を越えてルート」)を運行している。
(運用:京王バスTEL.03−5300−6011)

料金一律100円、8時から20時まで1時間3本循環。本数は多くはないが、東大等経由して博物館ルートなので
渋谷めぐりにはいい。

出発は渋谷駅西口バスターミナル、渋谷駅につながった、渋谷駅西口京王井之頭線渋谷駅5F渋谷マークシティから。

渋谷駅は現在大きく変わっていて、ハチ公口ではないので注意。でJR山手線、埼京線では玉川改札、地下鉄ではハチ公口が便利。

不明な点は運航の京王バスに。


184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 18:30
NHKは、NHKTVで「日本の名曲10曲」と題して日本の名曲10曲<<150を1年間にわたり流した。
ちょうどそのころ、NHKは「日本のうたふるさとのうた」を発表、いずれも「影を慕いて」が入っている。


>NHKが「日本のうたふるさとのうた」と題し、童謡とか愛唱歌などを主に100曲を選んでいて(1989年11月4日放送)、このなかに「赤い靴」などとともに、「影を慕いて」が同じようにはいってる。これを「童謡新聞」という童謡を主としたHPで紹介してます。「明日に残す心に残る歌」として、「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」など幾つかで、『唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる』とあります。明日に残す心に残る歌・・「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」他 日本のうた・ふるさとのうた(1989)


昭和が終わって平成の時代がはじまった1989(平成元)年に、忘れ去られつつある
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える文化遺産として集
大成して、記録にとどめようという趣旨のもと行なわれた企画で、明治・大正・昭和の
歌の中から次代へ残したい歌を一人一曲選び、ハガキなどで投票した結果が、応募総数
65万7千通あまり、総曲数は5千曲にものぼったという大調査です。

選定基準は得票数のみではなく、全国の十四団体(下記)で構成する全国実行委員会が
組織され、さらに各都道府県には地域実行委員会が設置されて、寄せられたハガキの中
から各地域実行委員会が地域の百曲を選び、これをもとにして全国実行委員会が全国版
をリストアップ、それを代表5名(下記)で構成された選定諮問委員にかけて最終的に
決定したという、大掛かりでものものしい調査でした。
はかなり妥当性の高いものです。

この結果については、全国33都市で発表コンサートが開かれ、その締めくくりとして
平成元年10月にNHKホールで行なわれた全国版の発表コンサートがテレビ放映され
ました。ここではその集計結果から一部をご紹介します。



「日本のうた・ふるさとのうた」全国実行委員会

全国実行委員会役員

委員長 三浦朱門(日本文芸家協会理事長)
副委員長 石本美由起(日本作詩家協会会長)
副委員長 服部良一(日本作曲家協会会長)
副委員長 川越宏樹(日本青年会議所会頭)
監事 星野雅春(日本青年団協議会会長)
監事 日野豊(全国地域婦人団体連絡協議会会長)
事務局長 勅使河原平八(NHK番組制作局次長)


構成団体

(社)日本PTA全国協議会
(社)日本青年会議所
 日本青年団協議会
(社)全国公民館連合会
 全国地域婦人団体連絡協議会
(社)日本作詩家協会
(社)日本作曲家協会
(社)日本作曲家協議会
(社)日本音楽著作権協会
(社)日本レコード協会
(財)地域活性化センター
 日本放送協会
(財)NHKサービスセンター
(財)NHK交響楽団

後援 文化庁、自治省、放送文化基金


選定諮問委員

小山内美江子(脚本家)
金田一春彦(国語学者)
三枝成章(作曲家)
平山郁夫(日本画家)
三国一朗(放送タレント)

(注)肩書き等は当時のまま。

以下の資料を参考にしました。

「日本のうた・ふるさとのうた」実行員会 「NHK日本のうた・ふるさとのうた」(1990 講談社)
「新版日本流行歌史」 古茂田信男、他(1995 社会思想社)


100曲については以下参照;

「NHK日本のうた・ふるさとのうた100曲」(講談社1990/12)



185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 18:50
>>184

NHK「日本のうた・ふるさとのうたNHK100曲」

h ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 18:51
NHK「日本のうた・ふるさとのうた100曲」

187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 19:58
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本の名曲、それは日本がまだ貧しかった時代、明治から大正、昭和の初めにかけて、多くの当代随一・第一級の大歌手・声楽家が歌い継いできた、80年を超える歴史を持つ。



NHKが「日本のうたふるさとのうた」と題し、童謡とか愛唱歌などを主に100曲を選んでいて(1989年11月4日放送)、このなかに「赤い靴」などとともに、「影を慕いて」が同じようにはいってる。これを「童謡新聞」という童謡を主としたHPで紹介してます。「明日に残す心に残る歌」として、「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」など幾つかで、『唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる』とあります。明日に残す心に残る歌・・「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」他

温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男
養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した
「明日に残す心に残るうた」唱歌童謡の中に「影を慕いて」含まれる
(童謡新聞 「心の故郷」)

歌は「童謡」の中に入ったとき、[愛唱歌]になると思うが、「影を慕いて」は、今や「古賀メロデー」を越えて,童謡その他の愛唱歌と渾然一体になって、[日本の愛唱歌][日本の名曲]「人生の主題歌」になっているのではないでしょうか。



寺山修司編「日本童謡集」(光文社1972)という本があって、その前書きには、『優れた「童謡」というものは、長い人生に二度あらわれる、一度目は子供時代の歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。』・・と。そして、『映画に主題歌があるように、人の一生にもそれぞれ主題歌があるのではないだろうか。そして、それを思い出して唄ってみるときに、人はいつでも原点に立ち戻り、人生のやり直しがきくようなカタルシスを味わうのではないだろうか。』・・として、広い分野の歌を集めてあるのが特徴。
『赤い靴』『青い眼の人形』から 、古賀メロデー『影を慕いて』『人生の並木路』・・など優れた童謡としてあげられている。


188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/19(Mon) 19:47
■[NHK日本のうた・ふるさとのうた100曲]1989年 (曲目リスト)■
 h ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka96.html

(年代別曲目リスト)h ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka97.html

■NHKTV 「日本の名曲10曲」■ >>187 

189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/19(Mon) 21:20
>>184-188

ISBN-10: 4069996621
「日本のうた・ふるさとのうた」実行委員会「NHK日本のうた・ふるさとのうた100曲」(講談社1990/12)

190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/20(Tue) 09:16
日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/27(Tue) 10:45
>>173-174

古賀政男音楽博物館は小田急線代々木上原駅前です。

小田急線代々木上原駅は新宿駅から5分、渋谷区循環コミュニティバス「ハチ公バス」【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)で、始発の渋谷駅西口バスターミナルより古賀音楽博物館停留所まで7分です。料金は大人も子供も一律100円で8時から20時まで、1時間に3循環です。次の渋谷109ビルを右に入った東急百貨店前本店前停留所らものれます。


192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/31(Sat) 23:45
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/01(Sun) 17:24
>>183-191

昔は大衆音楽というのは民謡くらいしかなかった。多くの音楽家のすぐれた才能や、歌にかけたたゆまぬ努力によって、今日ある大衆音楽の名曲は生まれた。
古賀政男音楽博物館では、日本大衆音楽のその歴史を振り返り、その発展に貢献された先人の功績を顕彰する「大衆音楽の殿堂」を設けている。この殿堂ホールには、顕彰者のレリーフが掲げられているほか、その年の顕彰者ゆかりの品々を展示している。
顕彰者の代表曲などは、地下1階「音楽情報室」の検索システムで聞ける。

顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

以下は抜粋につき、上記で確認のこと。SP時代のものはSPオリジナル歌手のオリジナル音源で聴ける。

<大衆音楽の殿堂 顕彰者>  作曲家  (抜粋)
滝廉太郎、岡野貞一、田村虎蔵、下總壯一、井上 武士、本居長世、山田耕作、中山晋平、弘田竜太郎、
成田為三、草川 信、梁田 貞、杉山長谷夫、河村光陽、海沼 實、佐々木すぐる、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、竹岡信行、町田佳声、佐々木俊一、万城目正、仁木田喜雄、池田不二夫、古関裕而、服部良一、大村能章、阿部武雄、長津義司、上原げんと、団 伊久磨、中田義直、飯田三郎、中村八大,大久保徳次郎、いずみたく、倉若春生、吉田矢健治、利根一郎、市川昭介、八州秀章、細川潤一、宮川 泰、田村しげる、富田 勲、米山正夫、吉田正、猪俣公章、船村徹、遠藤実、・・

<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 歌手(抜粋)
松井須磨子、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、関 種子、徳山 l(たまき)、田谷力三、淡谷のり子、松平 晃、楠木繁夫、中野忠晴、上原 敏、東海林(しょうじ)太郎、ミス・コロムビア(松原操)、二葉あき子、霧島 昇、ディックミネ、山口淑子(李香蘭)、伊藤久男、高峰三枝子、松島詩子、渡辺はま子、塩まさる,市丸、小唄勝太郎、高田幸吉、川田正子・孝子、河村順子、平井英子、安西愛子、松田トシ、灰田勝彦、岡晴夫,神楽坂はん子、美空ひばり、笠置しず子、小畑実、近江俊郎、竹山逸郎、榎本健一、高 英男、森繁久彌、奈良光枝、並木路子、宮城まり子、織井茂子、菊池章子、宮城まり子、三波春夫、村田英雄、、田端義男、三橋美智也、初代コロムビアローズ、ペギー葉山、橋幸夫、坂本 九、島倉千代子、こまどり姉妹、神戸一郎、菅原洋一、三浦光一、テレサテン、岸 洋子、小坂和也、フランク永井、ザ・ピーナッツ・・・

<大衆音楽の殿堂 顕彰者> 詩人・作詞家(抜粋)
吉丸 一昌、井上 赳、大和田建樹、高野公男、井上 赳、近藤朔風、林 柳波、武島羽衣、中村雨紅、清水かつら、加藤省吾、久保田宵二、斎藤信夫、加藤省吾,武内俊子、東くめ、
野口雨情、西條 八十、佐藤惣之助、島田芳文、サトウハチロー、藤浦 洸、菊田一夫、高橋 掬太郎、佐伯 孝夫、長田幹彦、門田ゆたか、藤田 まさと、野村俊夫、島田欣也、清水みのる、寺山修司、横井 弘、西沢爽、宮川哲夫、石本美由樹、矢野亮、星野哲郎、やなせたかし・・・
(平成30年4月現在)











194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/01(Sun) 21:24
古賀政男音楽博物館 企画展示情報 

古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

平成30年4月1日(日)〜7月31日(火)


古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

「歌は世につれ、世は歌につれ」とはよくいわれる言葉です。歌は世相を映す鏡といえるのではないでしょうか。遠く明治・大正・昭和の時代から現在に至るまで、多くの流行歌や歌謡曲などが時代とともに生まれ、そして時代の移り変わりとともに消えて行きました。心に残るあの歌やこの歌が流行した当時、日本はどのような時代だったのでしょうか。
今回は、平成30年に没後40年を迎える作曲家 古賀政男の作品と生涯を、日本の昭和史とともに追って行きたいと思います。



「影を慕いて」

「湯の町エレジー」

古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史


195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/04(Wed) 22:38
戦前の流行歌

h ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-senzenkayokyoku.html

196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/07(Sat) 22:33
古賀政男没後40年 心を込めて古賀メロディーを歌う!

開催日:平成30年6月23日(土)

昼の部 開場 12:00 開演 12:30
夕の部 開場 15:30 開演 16:00
入場料 2,000円(指定席制)

古賀政男音楽博物館 h ttp://www.koga.or.jp/ >>191,>>194
※昼の部、夕の部ともに、開催日朝10時から、座席指定券を配布します。
※参加をご希望のお客様はご予約下さい。

昭和を代表する作曲家 古賀政男先生は、昭和53年7月25日に73歳で亡くなられました。本年、没後40年を迎えます
古賀政男先生を偲んで、一般社団法人日本歌手協会に所属する名歌手の方々の出演による、古賀メロディーコンサートを開催します。

出演は、田辺靖雄さん、こまどり姉妹さん、アントニオ古賀さん、扇ひろ子さん、水田かおりさん、谷 龍介さんが心を込めて古賀メロディーの名曲を歌い上げます。構成・司会は、合田道人さんです。また、特別ゲストとして、菅原都々子さんを予定しています。ごゆっくりお楽しみください。





197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/09(Mon) 22:19
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/21(Sat) 18:04

古賀政男音楽博物館「国際博物館の日」記念 無料開館日

平成30年5月18日(金)

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」です。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)を無料開館日と致します。
ぜひご来館ください。


199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/19(Tue) 14:17
☆『東京ラプソディ』・・モダン東京のテーマソング

藤山一郎主演、PCL映画『東京ラプソディ』1936.12.1の主題歌(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)他に「東京娘」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)、「青春の謝肉祭(カーニバル)」がある。「50銭の入場料で藤山一郎の歌を聴きながら東京見物ができます」という宣伝、門田ゆたか作詞は西條八十の弟子。..

映画『東京ラプソディ』の制作には技師として、後にソニーの創業者の一人となる井深大が参加していた。井深と交流を持つようになった藤山は後にソニーに嘱託として勤務し、さらに社友となった。
古賀には音楽監督料として900円が支払われ、古賀は全額を(昭和9年1934)に死去した母親を祀るための仏壇の購入に充てたという。

昭和9年にテイチクに移った古賀政男は、他にも次々とヒット曲を生み出し「テイチク黄金時代」といわれる第二期黄金時代を築く。昭和11年、東京音楽学校を卒業した藤山一郎をテイチクに迎え入れた最初の曲で、《モダン東京のテーマ曲》ともいえるエポック曲。

作曲を担当した古賀政男は『東京ラプソディ』について、自身が「銀座、浅草、新宿という盛り場が見事に歌い込まれて心憎いばかり」と評価する『東京行進曲』(1929年(昭和4年)発売。
作詞・西条八十、作曲・中山晋平)を目標に、「もう少しモダンになった東京を書いてみたい」という考えのもとに制作したと述べている。古賀によるとフォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。

こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作ったという。門田が起用された時点ですでにレコード吹き込みの日程は決まっており、B面の『東京娘』は完成していた。西條八十の弟子でもある門田は重圧と闘いながら、3日間ほとんど寝ずに作業をして詞を完成させた。

歌唱を担当した藤山一郎はこの曲を、「銀座、神田、浅草、新宿と、東京の盛り場を楽しく歌いあげた清潔にして軽快なフォックストロット調の歌」と解説している。吹き込みにあたって門田や古賀から注文をつけられることはなく、自由に歌うことができたという。

東京音楽学校で「声楽の基礎を完全にマスターした」という自負からフォックストロット調の流行歌は容易に歌えるという自信のあった藤山は、声音を明瞭に保ちつつ、曲調に合わせて「ある時は歯切れよく、あるときはシットリと」歌うことに神経を使ったと回顧している。

藤山にとってこの曲は、ビクターからテイチクへの移籍後第1作であった。藤山に移籍の話を持ちかけたのはテイチクの重役を務めていた古賀で、藤山はテイチクをレコード会社としては二流だと感じながら、かつて『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』、『影を慕いて』でヒットを飛ばした古賀とのコンビに魅力を感じて移籍を決断した。
歴史家の今西英造は、『東京ラプソディ』の歌詞には戦時色が濃くなり、権力によって昭和モダンが抑圧され分解しつつあった世相にあっても消えることのなかった、モダニズムを追求する人々の心が表れていると分析し、『東京ラプソディ』を「モダニズムの残響」と評している。



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/19(Tue) 14:20
昭和の大作曲家・古賀政男。彼は敗戦の虚脱状態から、どう立ち直ったのかを、『自伝 我が心の歌』で、こう綴っている。

「無条件降伏を告げる玉音放送をつたえ聞いたのは、疎開先の山梨県のいなかであった。……終戦とともに、私はこれで自分たちの世代はすべてが終ったのだと思った。私が再び作曲を発表するような時代や、また、すでに発表した歌が、再び唄われる日も決してめぐって来ないのだと覚悟した。故郷に帰って僅かな土地を耕し、暇があればギターを手にする“晴耕雨唱”の生活を送ろうと、心にひそかに決めていたのである。」
「私たちが疎開していた素朴な田舎にも、飢えと貧困、悪徳と混乱の戦後がやってきた。犬畜生にも劣る激しい人間社会の変りようにただ驚きあきれた。心のささえのすべてを失い、絶望の日日が続いた。今後何をたよりになにを求めて生きていけばいいのだろうか。
 
終戦のあのとき、これからの身の処し方を決め、心の整理ができたはずであったが、あまりに激しい世相に再び虚脱状態に陥ってしまった。そんなある日のこと、村役場の女子事務員が私の許に血相を変え、息せききって駆けこんできた。「先生、大変です。アメリカ兵が来ました。先生をさがしているんです。いまのうちに早く裏山にでも逃げて下さい。」というのだ。その頃は、米軍がしきりに戦犯を逮捕して巣鴨に収容している頃であった。

お嬢さんの説明によると、ジープ二台に乗った米兵が村役場にやって来て、「ミスター・コガはどこにいるか」と村長を掴まえてしきりに尋ねているのだという。気をきかした村長が、時間を稼ぎながら、女子事務員をそっと裏口からは知らせて私に連絡してくれたのだった。私には逃げる理由はなかった。軍歌を多少つくったことがあっても、戦時中は被圧迫者の一人だったのだ。説明すればわかるはずである。「いや、ぼくは逃げないよ」と、心配する家人たちに私は答えたが、夜道にジープのヘッドライトがだんだん近づいて来るのを見たときは、さすがに不安であった。

 米軍の将兵たちは、私が探している当人だと知ると「オオ、ミスター・コガ」と、愛想よく、まるで百年の知己であるかのように握手を求めた。逮捕などという気配は全くない。いぶかる私に、一人が流暢な日本語で訪問の目的を説明してくれた。
 彼等は戦争中、日本進駐後の司令部要員として、米陸軍で日本語の教育を受け、テキストとして日本映画を見せられた。ところがそのとき、私がかつて作曲した東京ラプソディなどの歌をきき非常に感動したのだという。そして、日本に行くようなことがあれば、作曲した古賀政男という男に、是非とも会ってみようと相談していたのだったという。彼等は親切にも、食糧難で私も困っているだろうと、ジープに食糧を沢山積んで、私にプレゼントするためはるばる訪ねて来てくれたのだった。
 すでに夜となった。それに河口村は当時は電灯もない僻地の山村である。とにかく皆さん今夜は泊っていったらどうだと私が奨めると、彼等もそうしたいというので、私はなけなしのウイスキーを出して彼等の厚意に報いた。それから私の歌や外国の歌を唄いながら彼等と夜の明けるまで飲み明かし、朝になって私の歌を声一ぱい合唱して別れた。彼等の一人は別れ際に「ミスター・コガ、私たちの日本語が上達したのは、貴男のおかげです。心からお礼を申しあげたい」と、丁寧に頭を下げるのであった。……」
 
「それからしばらく後のこと、私は在日韓国人の代表らしい人たちの訪問を受けた。彼等は「古賀さん、絶対に他言はしませんから、ほんとうの名前を教えてください。そしてこんごわれわれの力になってください」というのだった。・・(略)・・
 この二つのできごとは、私にとって天啓であった。私はこれによって虚脱状態から立ち直る精神的糧を得たのだ。たとえ国はやぶれても、また私の築いた過去の基盤がうたかたのように消え去っても、私の歌は国境を越えて、人の心のなかに生き続けていることを私は改めて確認させられたのであった。私の歌だからということではない。それが歌というものなのだ。私はそのとき改めていのちのあるかぎり作曲を続けようと決意した。」
(古賀政男著『自伝 我が心の歌』(展望社、2001))



201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/19(Tue) 14:21
古賀政男は、昭和20年3月から20年8月まで河口湖畔に疎開。そして、戦後初の作品が「麗人の歌」(西條八十作詞 古賀政男作曲 霧島昇1946) 。
川口湖畔には、昭和20年に疎開のためにこの地を訪れた中で、地元中学校の校歌をはじめ、「河口湖おどり」「河口湖ワルツ」などの楽曲は、地域の音楽文化の礎となった。生誕100年を記念して平成16年に古賀政男記念公園として、「影を慕いて」音楽碑があって、懐かしいメロディーを奏でる。記念碑にはこの辺のことについて書かれている。

藤山一郎歌唱で、銀座を歌った戦後の歌に「夢淡き東京」(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)がある。「東京ラプソディ」(1936)に匹敵する、戦後の東京(銀座)の歌をということで、昭和22年(1947)につくられたもので、他にも戦後、銀座を歌った歌は山ほどある。

これらを含めて、あの青春の息吹溢れる、《モダン東京のテーマ曲》ともいえる「東京ラプソディ」(1936テイチク 門田ゆたか作詞)、や「なつかしの歌声」(1940コロムビア 西條八十作詞)。

これを超えるものはまだ出ていない、今後もでないだろう。


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110







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203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/11(Tue) 10:26

<コガミュージアムコンサート(案内)> 

古賀政男生誕記念明治大学マンドリン倶楽部演奏会

1904年11月18日、古賀政男先生は誕生いたしました。それを記念して、本年も古賀先生に大変かかわりの深い明治大学マンドリン倶楽部の演奏会を開催します。明治大学マンドリン倶楽部の皆さんの若々しい演奏で、古賀メロディーの世界をたっぷりとお楽しみください。
2018年10月20日(土)
開演 14:00  (13:30開場)
終了予定  16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
h ttp://www.koga.or.jp/
入場料 指定席制 税込2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団
小田急線・東京メトロ代々木上原駅
南口1出口 右折 徒歩3分井之頭通り駅前交番前(代々木上原駅南口交差点駅前交番前)

あお、渋谷駅から〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)・丘を越えてルート(上原・富ヶ谷ルート)・ I古賀音楽博物館前下車、一律100円、いずれも10数分で可能。

渋谷駅から〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)
〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス) 一律100円
【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、東大や美術館などの区施設を経由します。
渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
@渋谷駅西口 バスターミナル発
A東急百貨店本店前 ・・・渋谷109ビル横入る
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点




204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/11(Tue) 10:38
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110



205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/11(Tue) 11:09
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
☆名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50
☆懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

☆名前を名にした歌
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206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/14(Fri) 20:07
昭和流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1




207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/19(Wed) 13:05
万城目正 主な代表曲

「旅の夜風」 (西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌
「愛染夜曲」 (西條八十作詞; 1939年)
「愛染草紙」 (西條八十作詞; 1940年)
「純情二重奏」(西條八十作詞; 1939年)
「純情の丘」 (西條八十作詞; 1939年)(松竹大船映畫「新女性問答」主題歌)
「別れ路の歌」(高橋菊太郎作詞、1939年)(松竹大船映画「母の歌」主題歌)
「愛の紅椿」 (西條八十作詞; 1940年) 松竹「愛染椿」主題歌
[愛馬花嫁] (西條八十 作詞 1940年)征戦愛馬譜 暁に祈る(佐々木康監督)
「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞 1946年) 映画「そよかぜ」主題歌
「浅草の唄」 (西條八十作詞、1948年)「松竹映画 駒鳥婦人」主題歌
「悲しき口笛」(藤浦洸作詞; 1949年)
「別れのタンゴ」(藤浦洸作詞、高峰三枝子歌、1949年) 
「東京キッド」(藤浦洸作詞; 1950年)
「越後獅子の唄」(西條八十作詞; 1951年)
「情熱のルンバ」(藤浦洸作詞; 1951年)
「あの丘越えて」(菊田一夫作詞; 1951年)
「哀愁日記」 (西條八十作詞; 1954年)
「この世の花 」 (西條八十作詞; 1955年):
「しあわせはどこに」(西條八十作詞; 1956年)




208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/21(Fri) 19:10
樹木希林さんを悼む

樹木希林さんが亡くなった、かってテレビの番組で「人生の並木路」について語った・・


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。

いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。

昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年、若きディックミネが歌うオリジナル版、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。



209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/21(Fri) 19:14
以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。


古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。


210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/21(Fri) 22:31
人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。

211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/22(Sat) 14:59
音楽なんて個人の楽しみだしなあ〜。テレビとかランキングなんて関係ない。
自分の好きなジャンルの曲だけをおのおの楽しめばそれでいい。

212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/28(Fri) 22:36
懐メロをド演歌で歌わないでください
またまた、よもやま話とは関係ない記事です。
NHK様、どうかド演歌歌手に懐メロを歌わさないでください。イメージがまるつぶれになります。
40年代に三島敏夫が「人妻椿」を発売しましたが、松平晃の曲のイメージがまるつぶれで「なんだコリャー」とイカッタのはもう随分昔になりました。
それにまして、現代のド演歌女性歌手の声の太いこと、男性歌手のねちっこいこと、昔の歌手が美声で品良く歌った曲がガラリとイメージを変えられ頻繁に歌われて聴くに耐えません。
それなら見なきゃ良いではないかとおっしゃる?? でも気になるのです。
レコード会社さん、どうしてミスコロのような美声歌手を出してもらえないのですか??

懐メロはオリジナル原盤で聴いてこそ
ラジオで収集したい懐メロが放送されると期待して録音スタンバイ。これが再吹き込みのステレオ版でガッカリ。
こんな思いは皆さん体験済みだと思います。
NHKもどうしてこんな意地悪をするのでしょうね、オリジナル版はあるのにですよ、番組編成担当者が懐メロに興味ないか若い為なのでしょう。
ほんとうに最近の放送は腹立たしいことバッカリ、頻繁に間違えるし後で訂正もしない。事前に調査してるのかどうか疑わしい。 勝太郎の「伊豆の七島」を「イズノヒチトウ」と紹介して、歌詞の中にちゃんと「イズノナナシマ」とあるのにですよ、ちょっと流行歌に興味があれば 「イズノヒチトウ」なんて重箱読みはしないですよね。
20年前の場合、懐メロ解説者が一緒について放送していたので、色々勉強になりましたが、そういった懐メロに詳しい解説者は亡くなってしまったし 先がおもいやられます。もう少し懐メロファンに気を配った配慮を願いたいものです。
オリジナル原盤は少し針音がしても価値があります。最近ではノイズ除去技術が進んでわりと綺麗な音です。
田端義夫の「島の船唄」若い声ですねー19歳ですか。彼の声は昭和20年代も独特な哀愁があって良かった、しかし田端はミノルフォンに移った時、 歌唱法で遠藤実とケンケンガクガクの論争をして抵抗むなしく現代演歌調の歌唱法に変わってしまいました。変える必要なかったのに..時代には逆らえなかった??
二葉あき子の「あの夢この夢」とても可愛らしい声です。彼女は戦後「夜のプラットホーム」あたりから声が出なくなり低音に切り替えました。ご本人は 相当悩んで自殺まで考えたそうですが、お気の毒でした。
菊地章子の「相呼ぶ歌」の声も大変綺麗です。「星の流れに」に比べると随分違います。「なつかしの蕃社」あたりまでは美声です。
渡辺はま子も「長崎のお蝶さん」と「ああモンテンルパの夜は更けて」を比べると年齢を感じます。
東海林太郎、上原敏はできたらもっと速くデビューして20代の声を残してくれたらと思うと残念な気持ちです。
ミスコロのように若い声の時にサッパリと止めてしまった方が人々にはイメージとして良い記憶が残る気もしますが..
やはり、オリジナル原盤でないと絶対ダメ!!



213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/30(Sun) 15:19
最近の若者ソングの下手なこと!。歌は曲調が変わっていくのが歌というもの。
歌姫とか言ってるの、みな曲調が変化するとき、声量が無いのだろう、みな奇声を発する。
みな聞いてられない、聞くに堪えない、

耳を塞ぎたくなるような奇声ソングばかり、

昔は歌を歌うものは音楽学校で基本を習い、訓練するのだが、
今はシンガーソングライターとかいってすべて自分流。

やめてほしい!。


214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/30(Sun) 15:34
昭和7年(1932年)

あけみの唄
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ



「佳人よいずこへ」主題歌、歌人原阿佐緒作詞、関種子は東京音楽学校主席卒業、
初期の古賀メロディを支えた歌手。
もう一つの「佳人よいずこへ」は淡谷のり子歌。







☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。



昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。

映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。
聴いてください。



原阿佐緒は、明治40年(1909年)、新詩社に入って与謝野晶子に師事、『スバル』に短歌を発表。『スバル』終刊後は『アララギ』に移り、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と見なされるようになる。
アララギ派の女流歌人、美貌の持ち主であり若くからさまざまな恋愛問題を引き起こしてきた。
昭和7年( 1932年)、直木三十五の紹介で「大衆文芸映画社」に入社、阿佐緒が原作を書き女優として主演したサイレント映画『佳人よ何処へ』(監督福西譲治)が製作され、同年6月1日に新興キネマが配給して公開された[2]。

同作の公開に先行し、阿佐緒が作詞し古賀政男が作曲・編曲、淡谷のり子が歌った同名の主題歌「佳人よ何処へ」、および美貌のソプラノ歌手関種子が歌った『あけみの唄』を、日本コロムビアが同年5月に発売している。



・原阿佐緒歌集
涙痕 歌集 東雲堂 1913
白木槿 歌集 東雲堂書店 1916
うす雲 歌集 不二書房 1928
原阿佐緒抒情歌集 平凡社 1929
原阿佐緒全歌集 小野勝美編 至芸出版社 1978.6
死をみつめて 歌集 短歌新聞社 1995.9 (短歌新聞社文庫)
原阿佐緒自伝・黒い絵具 西田耕三編・制作 耕風社 1997.8 (みやぎ文学館ライブラリー)



・原阿佐緒作品
『恋人形の唄』: 作曲・編曲堀田公明、歌唱淡谷のり子、ポリドール、1931年3月
『浪花小唄』: 作曲山野芳作、編曲奥山貞吉、歌唱かね本幾松、タイヘイ、1933年12月
『あけみの唄』: 作曲・編曲古賀政男、歌唱関種子、コロムビア、1932年5月
『佳人よ何処へ』作曲・編曲古賀政男、歌唱淡谷のり子、コロムビア、1932年5月
『山の娘』: 作曲・編曲・演奏高倉彰、歌唱三浦環、コロムビア、1940年7月


『原阿佐緒の生涯 その恋と歌』、小野勝美、古川叢書、古川書房、1974年





215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/09(Tue) 17:01
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/13(Sat) 10:37
歌番組、歌謡番組に物申す!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=519398705&ls=50


217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/22(Thu) 08:54
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/22(Thu) 08:57
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:01
>>210
「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、80年を超えた日本のスタンダードですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

  
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。

h ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm


220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:05
新妻鏡

1940東宝映画 小島正二郎原作「新妻鏡』主題歌
作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀政男

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(くらし)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ


物が有り余る時代、最近の歌には、感動できる歌がめっきりすくない。一方昔の歌も歌われる機会が少なくなりつつある。

「新妻鏡」・・昭和15年、太平洋戦争開戦直前、東宝映画『新妻鏡』は、目の見えない薄幸の新妻が苦労の果てに結ばれると言う話(小島政二郎原作)で、霧島昇、二葉あき子(戦後、島倉千代子)歌。

まだテレビも無かった時代、昭和は「日本映画黄金時代」。どんな小さな街にも小さな映画館があって、人々は続編を心待ちにしていたのでした。

実は録音されていないが2番と3番の間にもうひとつあって、

  強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は 幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐に あてらりょう

この歌は、すごい重みのある。

男女年齢を問わず勇気ずけられる人生の応援歌です。

これを歌えば、今流行の育児放棄虐待などありえないことでしょう。

簡潔な詞のなかにわすれかけている大切なことが、さりげなくちりばめられた惣之助の詩。

時代を超えて、味わいのある歌だと思います。
ぜひ、オリジナルで聞いてください。

なお、挿入歌に「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (霧島昇、ミス・コロムビア歌) がある。



221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:26
とてもいい曲だと思います。いつまでも残しておきたいですね!。。
現代ではいろんな人が作詞、作曲されていますがこのように心に残る曲がないのが残念でなりません。  
このようなきれいで心に残る曲を後世に
これからも数少ない名曲を大切にみんなで歌い継がれるようにしたいですね!。





222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:35
 この時代の歌は人に寄り添い、やさしさに満ちていますね!


もうひとつ、「目ン無い千鳥」(サトウ・ハチロー作詞)は、日米開戦前年、昭和15年(1940)に公開された,小島政二郎原作、東宝映画「新妻鏡」の挿入歌です。 (主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)のB面)

戦前戦後2回映画化され、戦後テレビドラマでも3回放送されています。

映画化(1940,1956) 

TVドラマ化(1966,1869.1974) ・1969年挿入歌「目ン無い千鳥」 歌・大川栄策


♪目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら・.・

「目ン無い千鳥」とは、[目隠し鬼ごっこ]のこと。

子供の空気銃の誤射によって失明した薄幸の美女が辿る「数奇な運命と美しい愛の物語」。

詩人サトウ・ハチローは、 目が見えぬということを、一言も触れずに,それを短い言葉であらわしています。

多分、今ではこういう歌はできないでしょう。

この美しい歌が、放送禁止曲とかになったということはありません。



太平洋戦争前に、こうした[青春歌謡]ができていたことは驚きです。日本がまだまずしかった時代、貧しくもこころ豊かな時代だからこそ生まれた歌でしょう。

でもやはり、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌うからこその青春歌謡であって、大川栄策が歌うとド演歌になってしまうのは残念です。

歌いこなせる歌手がいなくなってきているのは残念なことです。

飽食の時代といわれ久しいですが、日本が豊かになるにつれ、こうした歌が歌われなくなっていると言うことは残念なことです。

また最近、なんでも「言葉狩り」がまかりどおっているようなのは残念なことでは有りますね。




目ン無い千鳥
作詞 サトウ・ハチロー  
作曲 古賀政男
昭和15年(1940)

1 目ン無い千鳥の 高島田
 見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちじ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
 まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨




223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:23
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年(1929)、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌,元祖「青春歌謡」である。

昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。

山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。


224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/14(Fri) 17:39
「影を慕いて」

古賀政男作詞・作曲




まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ

昭和3年、人生の、青春の苦悩から生まれた『古賀メロディ』の原点。

この歌が作られた頃、ほとんどの今の歌はまだなかった。

225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/14(Fri) 17:47
影を慕いて

古賀メロディーの原点と言われる名曲
古賀政男(正男)作詞作曲
昭和5年 ビクタ‐  佐藤千夜子 歌
昭和7年 コロムビア 藤山一郎  歌
(明治大学学生の時、昭和3年秋に作曲したとされる、完成まで2年かかっている)

226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/14(Fri) 19:58
誰か故郷を想わざる

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男
  歌 霧島昇 (昭和15年)
 
 1 花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   唄をうたった 帰りみち
   幼馴染みの あの友この友
   あゝ誰か故郷を想わざる

 2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
   小川の岸で さみしさに
   泣いた涙の なつかしさ
   幼馴染みの あの山この川
   あゝ誰か故郷を想わざる

 3 都に雨の 降る夜は
   涙に胸も しめりがち
   遠く呼ぶのは 誰の声
   幼馴染みの あの夢この夢
   あゝ誰か故郷を想わざる

227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/15(Sat) 20:03
サ ー カ ス の 唄

作詩 西条八十 作曲 古賀政男
歌 松平晃 (昭和8年) 

1 旅のつばくろ 淋しかないか
  おれもさみしい サーカス暮らし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た

2 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴(さ)えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ

3 朝は朝霧 夕べは夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で

228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/16(Sun) 10:18
慈悲心鳥の唄(愛の勝利)

作詩 佐藤惣之助  作曲 古賀政男
昭和12年

1 愛と泪に 流れ行く
  若きふたりの 思い出は
  海の真珠の 浪の色
  虹よ消ゆるな いつまでも


2 窓のともし火 ほのかにも
  母と呼ばれて 幼児(おさなご)に
  聞かす夜毎の 子守唄
  ゆめの千鳥よ 何を泣く


3 掟(おきて)きびしき 人の世に
  負けてこの身は 果つるとも
  愛の勝利の うるわしく
  花もかがやけ この胸に 
   (菊池寛原作 「慈悲心鳥」より)

229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/16(Sun) 10:31
男 の 純 情

作詩 佐藤惣之助  作曲  古賀政男
昭和11年 日活「魂」主題歌


1 男いのちの 純情は 
  燃えてかがやく 金の星 
  夜の都の 大空に 
  曇る涙を 誰が知ろ


2 影はやくざに やつれても 
  訊いてくれるな この胸を 
  所詮男の ゆく道は 
  なんで女が 知るものか


3 暗い夜空が 明けたなら 
  若いみどりの 朝風に 
  金もいらなきゃ 名もいらぬ 
  愛の古巣へ 帰ろうよ  




230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 22:12
白い椿の唄

作詩   佐藤惣之助
作曲   古賀政男

歌    楠木繁夫


雪もかがやけ青春の
花は涙のおくりもの
風にさびしく泣きぬれし
あわれ乙女の白つばき

宵の酒場に咲く花は 
燃えてほのぼの誰を待つ
ながきまつ毛の横顔も 
夢にやつれし白つばき

呼べど返らぬ面影は 
きえてはるかな山の上
月にささげてひとり泣く 
あわれ涙の白つばき


名曲の宝庫、80年を超える日本のクラッシック「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが元祖青春歌謡で、映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。

「白い椿の唄」、それは昭和10年、菊池寛原作「貞操問答」の映画化主題歌で、菊池寛の依頼で主題歌を作ったもの。

東京へ母を呼んで暮らすのが夢だったという古賀政男の母が亡くなった(昭和9年8月)のは、この映画の企画をしてるときだそうです。

この歌ができた時は母がなくなってた時で、佐藤惣之助作詞の三番目に「呼べど帰らぬ面影は、消えて遥かな山の上・・」と歌われてますが、これは母を失った古賀政男の心境そのもので、彼のその後に創作意欲を大いにかきたてたそうです。



231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/29(Tue) 18:09
緑の地平線

     作詞:佐藤惣之助
     作曲:古賀政男
     歌唱:楠木繁夫
  

(一)
   なぜか忘れぬ 人故に
   涙かくして 踊る夜は
   ぬれし瞳に すすり泣く
   リラの花さえ なつかしや

  (二)
   わざと気強く ふりすてて
   無理に注(つ)がして 飲む酒も
   霧の都の 夜は更けて
   夢もはかなく 散りて行く

  (三)
   山のけむりを 慕いつつ
   いとし小鳩の 声きけば
   遠き前途(ゆくて)に ほのぼのと
   緑うれしや 地平線


「緑の地平線」は、1935年(昭和10年)公開された安倍豊監督による日活映画の主題歌です。

佐藤惣之助は詩人であり作詞家、戦前の歌謡曲ではおそらく、西條八十とともに古賀政男との曲が最も多く、そして最も多くの多くの名曲をヒットをさせた。

映画「緑の地平線」のフィルムは戦災で行方不明になってしまい、現在ではスチール写真でしかその姿を偲ぶことができません。
また原作の小説(児童作家・横山美智子)も絶版の状態だそうです。

しかし、作曲家・古賀政男のこの楽曲は、84年たった今なお生き続け、歌い継がれています。

楠木繁夫が唄ったシングル盤は、軽快感のあるテンポで現代でも聴き応えある作品といえましょう。




232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/29(Tue) 20:22
「女の階級」 (日活『女の階級』主題歌)

 村瀬まゆみ作詩 古賀政男作曲

1 君に捧げた まごころの
愛が女の 命なら
  弱い涙は 今日かぎり
  捨てていばらの 径(みち)を行く

2 心砕(くだ)けど ままならぬ
辛い浮世の 小夜嵐
 愛の船路を 祈るごと
星もまたたく この夕べ

3 想い乱れて 咲く花は
女心か 月草よ
涙誘うな 秋風に
  散るは彼の日の 夢ばかり

4 君を信濃の 高原に
涙かくして 見送れば
  靡(なび)く煙りも 一すじに
燃えて火を吐く 浅間山


『女の階級』は、吉屋信子(1896〜1973)原作による昭和 11(1936)年 10 月封切 の日活映画であり、楠木繁夫(1905〜1956)の歌った同名の主題歌。楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B 面は、「回想譜」で、 藤山一郎が歌った。



233 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/02(Sat) 14:23
昭和は大正15年・昭和元年(1926)12月25日から、昭和64年(1989)1月7日まで62年14日、明治大正を合わせた60年より長い62年と2週間、世界的にも一番長い。

昭和元年は1週間しかなく、昭和は実質昭和2年から。

レコード歌謡は昭和2年から3年にかけて始まった。

「昭和」の由来は、書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」・・国民の安寧のもとに国際平和の実現を目指す・・ものだったが、実際は戦乱に明け暮れ貧しい民だった。

そんな昭和の幕開け、まだ「青空」とか「アラビアの唄」などまだあちらの歌くらいしかなかった時代だ。

「歌う昭和史!」と言われる「藤山一郎」、昭和6年からでさえ、「青い山脈」とか、戦後の歌しか知らない人が多い。

この「歌う昭和史」藤山一郎も戦後の歌手だと思っている人が少なくないのは残念な事。

「昭和」とは60年を超える明治大正を合わせたより長いのだ。

最近のテレビ歌番組で「昭和歌謡」という言葉がたびたび耳にするのだが、ほとんどが昭和も終わり、飽食の時代と言われた昭和40年代以降、最近では50年代のもの。

まだ日本が貧しかったころ、テレビもなかったころの昭和歌謡は詩もやさしく温かさがありホッとする。

234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/11(Mon) 19:57
「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩 古賀政男作曲
 昭和15年(1940)

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。






235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/13(Wed) 11:13
昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/16(Sat) 08:54
窓に凭れて


 島田芳文 作詞 古賀政男 作曲
 関種子(昭和6年12月)

(一)
行きて返らぬ 若き日を 
窓に凭れて 思いみる
夢多かりし かの頃の
雲にかからぬ 清らかさ
あゝ過ぎにし 
過ぎにし春の 思い出よ

(二) 
ただやすらけく ありし日の
胸のあこがれ 泡と消え
更けてこの日の この胸に
地上の愛の なやましさ
あゝ涙に
涙にくるる このこころ


関種子は、東京音音楽学校本科を首席で卒業、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
1931年12月発表の曲で、[丘を越えて」とともに新興キネマ映画「姉」の主題歌です。








237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/16(Sat) 11:10

名曲はいつ聞いても懐かしさで涙があふれてくる、そして、生きる喜びを感じさせます。

238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/23(Sat) 12:17
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。

昭和前半の歌は現在
のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。


改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。

歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。



239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/17(Wed) 21:15
あけみの唄

「古賀メロデー」には多くの名曲がある。特に人生の苦悩・青春の苦悩をテーマとしたものにより名曲がある。関種子が歌った「あけみの唄」(昭和7年)もそのひとつです。

「あけみの唄」は、古賀政男作曲の哀愁を帯びたメロディで、大衆文芸プロ 「佳人よ何処へ」(監督; 福西穣治) 7年6月封切 主題歌でもある。

作詞の原阿佐緒は女流歌人だが、波乱に富んだ人生を送り、当時愛人と破局をむかえて新聞紙上をさわがした才女である。

映画「佳人よ何処へ」の原作も原 阿佐緒、主演女優の島あけみ役も原 阿佐緒という才女ならではの異色作品でもある。B面では淡谷のり子がおなじ主題歌の「佳人よ何処へ」を歌っている。

 原阿佐緒記念館  h ttp://www.haraasao.jp/



昭和7年(1932年)

あけみの唄
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ



「佳人よ何処へ」主題歌、歌人原阿佐緒作詞、関種子は東京音楽学校本科主席卒業、
初期の古賀メロディを支えた歌手。
もう一つの「佳人よ何処へ」は淡谷のり子歌。





240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/17(Wed) 21:21

昔は、昭和の初めごろは、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。

今こうした本格的な歌手・声楽家が歌った歌を歌えるものがいない状況。


241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:24
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり(古賀正夫作詞)1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃  東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫  東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ  立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男  東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ 東京音楽学校  黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇  東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子  東洋音楽学校  蛇姫絵巻(西條八十作詞)1940
菊池章子 東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝  東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎  武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)東洋音楽学校(現東京音楽大学)武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。


242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:36
■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■  1990 NHKTV

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:48
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。


青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング



※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393




244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:50
※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)

さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536





245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:56
☆古賀政男とその主な人脈
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:14
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)   1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌    (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952

247 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:23
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

248 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:55

小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、長い石畳のなだらかな坂道。

そこに、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。

古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。

古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。



249 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:57
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

毎朝、玄関でお金の音がする。
これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRAC本部のビル。

−私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。

私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。

代々木上原駅前3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。

古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や、数十台が留められる広い駐車場。大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のテナントとして、「古賀政男音楽博物館」に一体隣接して、そびえ立つ威容はまさしく大衆音楽の聖地。

「古賀政男音楽博物館」には、滝廉太郎、野口雨情、本居長世、山田耕作、中山晋平、西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎・・美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・など明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で併せて現在246名が顕彰している。

入館料だけでその中で7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)は無料開館日。www.koga.or.jp/



250 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:01
参 考)
・藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県)、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
 古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

・「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)     1500坪
孫正義邸 (港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪




251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:29
古賀政男とJASRAC
古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会を作り自ら初代会長として日本レコード大賞を制定、作曲家の権利向上など、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることがで
きます。・・


古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きな屋敷に住み、指には大きなダイヤをつけ、幅2mもあるリンカーンなど大きな外車に乗り、テレビが家庭に普及していく中で、歌謡番組では審査委員長として「よかったね、よかったね」と。
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。
そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。
その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成したもの。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)




252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:35
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
復帰第一作が「誰か故郷を想わざる」と「あの花この花」、いずれも西條八十作詞。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。

同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。

第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。
古賀邸には毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。
西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。
財団法人古賀政男音楽文化振興財団の古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも、80年を超える、歴史の重み、昭和日本の著作権王としての、その偉大さをものがたるものといえるだろう。
多くの人が歌った聴いた、80年の歴史の重みをもつそれはもう「古賀メロディ」を越えた、「童謡」に匹敵する、名実ともに【日本のクラッシック】といえよう。

丘を越えて (藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺  (河原喜久恵)
乙女心   (関種子)
窓に凭れて (関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出す。
これまでの「晋平節」とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
「影を慕いて」は、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、知る人ぞ知る東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部の前身)首席卒業などクラッシック歌手だった。

今年平成最後の平成31年(2019)は昭和94年、古賀メロディ発祥88年。

もうすぐ90年を迎える古賀メロディ、それは飽食の時代の昨日今日できた最近の歌とは一線を画する。

「平成」も終わろうとしているが、「影を慕いて」は、昭和が終わった平成元年(1989)に、「荒城の月」「波浮の港」などとともに「日本の名曲10」として、1年間NHKTVで放送された。

当初、中山晋平のビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流はこれ以降、古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

昭和6年には、他に「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、ビクター、徳山 l(たまき))などがある。







253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:45
日本のクラシック「古賀メロディ」

影を慕いて(佐藤千夜子、藤山一郎)
日本橋から(佐藤千夜子)
丘を越えて(藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺 (河原喜久恵)
乙女心  (関種子)
窓に凭れて(関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの「晋平節」とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。

「影を慕いて」は、昭和7年3月藤山一郎に依って再び吹き込まれる。

「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業のクラシック歌手たちなどだった。

月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ
2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ



 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。

 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。作詞の島田芳文は、古賀政男
 がコロンビア専属初期のコンビですが、『丘を越えて』『キャンプ小唄』と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。

オリジナルのレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。


当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき)歌)などがある。

今年、平成最後の平成31年(2019)は「昭和94年」、古賀メロディ発祥88年。 もうすぐ90年になる。

まもなく、その殆どの名曲は80年を超える[古賀メロディ]、

それはもう【日本のクラッシック】そのものである。



254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:52
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄  (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに  (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938






255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 23:43
☆楠木繁夫代表曲(古賀メロディ)テイチク

国境を越えて   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1934
男のまごころ   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
白い椿の唄    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
ハイキングの唄  島田芳文作詞  古賀政男作曲 1935
緑の地平線    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
慈悲心鳥の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1936
女の階級     村瀬まゆみ作詞 古賀政男作曲 1936
啄木の歌     島田欣也作詞  古賀政男作曲 1936
のばせばのびる  江川貞夫作詞  古賀政男作曲 1937
真実一路の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1937
人生劇場     佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1938
いさおを胸に   野村俊夫作詞、 古賀政男作曲 弘田竜太郎編曲 1944 松原操





256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 00:21
☆霧島昇代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる 西條八十作詞 古賀政男作曲(1940):
新妻鏡       佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 霧島昇,二葉あき子 (1940)
目ン無い千鳥     サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア (1940)
相呼ぶ歌      西條八十作詞 古賀政男作曲     菊池明子    1940
そうだその意気   西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操・李香蘭 (1941)
勝利の日まで    サトウハチロー作詞 古賀政男作曲        (1944)
麗人の歌      西條八十作詞 古賀政男作曲                (1946)
旅役者の唄     西條八十作詞 古賀政男作曲                (1946)
旅の舞姫      西條八十作詞 古賀政男作曲     二葉あき子 (1948)
三百六十五夜  西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操 (1948)
あの夢この歌  西條八十作詞 古賀政男作曲     二葉あき子 (1948)
白虎隊 台詞:鈴木吟亮 島田欣也作詞 古賀政男作曲 (1952)
ギター月夜   西條八十作詞 古賀政男作曲(1952)
湖畔のギター b野村俊夫作詞 古賀政男作曲  (1954)



257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 07:04
一口に詩人と呼んでいるが、彼ほど多彩な顔を持つ詩人はいない。
八十は、詩人・歌謡曲作詞家という顔と、もうひとつ忘れてならないのが、仏文学者・芸術院会員・早稲田大学仏文科教授としての顔。大正13年、ソルボンヌ大学留学帰国後、早大仏文科教授になった。アルチュール・ランボーの研究でも有名。「西條八十全集」(国書刊行会刊1991)という本は、16巻まである大作である。

明治25年に東京牛込(新宿)に生まれた八十の生家は石鹸製造業を営んで隆盛であったが、中学3年生の時に父が亡くなり、一家は没落してしまう。八十は早稲田中学校卒業後、同大学英文科を主席で卒業した。鈴木三重吉の主唱する童謡運動に参加し、大正7年27歳で「赤い鳥」に「カナリヤ」を発表して一躍有名になった。翌大正8年処女詩集「砂金」を発表して、たちまち象徴派詩人としての名声を高めたとされる。こうして、丁度「金の船」(大正8年)で野口雨情の才能が一気に花を開くように、「唄をわすれたカナリヤ・・八十」は、一気に花開く。

西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四谷文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 07:10
「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいづこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

また、少女雑誌などに多くの著作を寄せるなど文筆活動も多い。映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。

<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
 八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・  
肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50) (中公文庫1978)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      

西条八十児童小説データ
  h ttp://sinsin2006.web.fc2.com/content12.html

「詩人 西條八十」
 h ttp://hac.cside.com/afcw/culture/96/kiyamado.htm



259 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:03

日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

 戦前・戦中は、「大日本音楽著作権協会」

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サトウハチロー(1903〜1973)詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家・演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人

戦後、これまでは、作曲家と詩人が交代だったが、詩人もいなくあった

昭和55〜63   服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家


260 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:21
古賀政男に関する文献 1


日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、 歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。
くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)



261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:51
古賀政男に関する文献 2

「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)
『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが
福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)

262 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:57
古賀政男に関する文献 3

古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)
宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他
長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
 「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他

他にも一般雑誌等に古賀政男に関する記述は多い。

263 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:11
<「古賀政男」の出てくるドラマ>

昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
若尾哲平   
昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
      (1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)

昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十) 
NTVテレビ
平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京

・NHK HPによると、NHKアーカイブスで以下が保存されてるとあります。(閲覧できないが)
西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男        1993年2月4日
この人と語ろう                 1977年11月21日
あの人あの芸 古賀政男             1997年5月5日
NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編 2002年12月29日
NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 後編 2002年12月30日
NHK映像ファイル あの人に会いたい 古賀政男 2006年4月29日 

・NHK連続テレビ小説「いちばん星」(最初と最終回と途中)は見れる。


264 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:26
古賀政男のことはTVでもいろいろ取り上げられた。

NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男」では、マンドリンを通して古賀メロデー
の曲のひみつ、古賀メロデーのルーツを探っていた。
そのなかで、上記「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り
明治大学に入るあたり、・・

古賀メロデーの歴史は、「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根ずいた歴史でもあること。
「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった。でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。


古賀政男は貧乏だったが、その後成功に次ぐ成功だった。でも心の底には消すことのできない
、しこりのようなものがあった、それが何であるか自分でもわからない。
そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、体をおして昭和53年再び朝鮮に渡ることにしたのだった。
(TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る」で放映。)
そしてそこで、驚いたことに子供のころに、聞いた懐かしい朝鮮メロデーとであった。

そしてうつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、底に自らの音楽の原点をみた。
家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロデーとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロデ‐のこぶしでもあるが、古賀少年のこころの震えであり、
それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989)



265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:29
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。古賀政男が活躍した昭和一桁時代から、
10年代そして20年代初めにかけて、日本はまだ貧しい時代だった。貧しくとも心豊かな時代だっのだ、そして昭和30年代はすでに歌謡界の「大御所」だった。
そして「古賀メロデー」は、たとえば「人生の並木路」や「新妻鏡」・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより名曲が多い。
古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ、
今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。と、そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、
人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている
 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版)

古賀政男(正男)初期のレコード
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年2月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年2月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年11月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同    1930年12月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1930年12月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年5月  ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年5月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の学生時代の作品

乙女心   鹿山鶯村  関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺  島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325




266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:32
昭和元年は大正15年、昭和は実質昭和2年から始まった。日本に本格的なレコード会社ができたのは昭和2年から3年にかけて。レコード音楽は昭和と共に始まった。古賀メロデーのルーツと言える「影を慕いて」が佐藤千夜子によって世に出るのは今から80年前の昭和5年だが、「影を慕いて」が作られた昭和3年、日本にはまだ、「波浮の港」、「アラビアの唄」、「君恋し」などしかなく、唱歌・童謡、民謡・新民謡など以外現在あるものはまだ殆どなかった。
「古賀メロデー」といわれるようになったのは、昭和10年代人々が敬意を込めて歌うようになったことからのようです。
古賀政男は独学で音楽を学んだもので、初期には「月の浜辺」などジプシー音楽やワルツな世界の音楽を広く取り入れている。このあたり、藍川由美が詳しく本に書いている。

古賀政男が亡くなる一月位前、女優のうつみみどりを伴って古賀は韓国に渡った。
TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る]。

韓国の女性がカヤキンという弦楽器を奏でるのをいすに座って聞いている。
古賀は自分のメロデーの「こぶし」は、カヤキンの弦の震えからとったものだと。
このとき、古賀はかってすごした善燐商業に「音楽和也」の時計塔を贈っているが、その前での生徒の演奏する「アリラン」を指揮している。
・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989)

古賀政男は昭和53年8月に亡くなった。同じ年の暮れに「平凡出版」から追悼本「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」が出版された。
その最初のあたりに「日本人と古賀メロデー」と題して歌人・楠本憲吉氏が追悼文を寄せている。古賀作品の真髄は決して「義理、人情」ではない。
人生に真面目に取り組む姿勢であると。以下抜き出して紹介してみる。
私(楠本憲吉氏)は、「古賀メロデー」という言葉には、二つの使い方があるのではないかと思っている。
ひとつは広く古賀政男作曲を意味するものと、もうひとつは古賀政男の書いた曲のうち、特に詩のテーマが人生の悩みや苦しみを表現しているもの。



267 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:39
【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/

【明治】演歌について語ろう【古賀政男】
h ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/396/1122014572/l50


古賀政男総合スレ
H TTPS://2CH.VET/RE_AI_NATSUMELOJ_1320231349_2_172




268 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 20:40
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正男)のレコード吹込みが先だった。

昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。

当時の最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのであるが、実はその前にもあった。、、



昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06

尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。

さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。

まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 


269 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 11:34
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩


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271 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:46
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 10:40
三百六十五夜 ・・日本語がきれいですね!

作詞 西條八十
作曲 古賀政男
霧島昇、松原操 
昭和23年(1948)


みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君

たそがれ窓に浮かぶのは
いとしき人の旅すがた
我ゆえ歩む道頓堀の
水の夕陽が悲しかろ

鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る


こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ・・!といつも思います。

何と素晴らしい名曲。

日本人に生まれて良かったと実感させてくれます。

日本語の美しさが際立つ名曲ですね。

ほのぼのと、そして切なく感じるのは何故だろうか?
日本の女性や男性に、まだ慎みと奥ゆかしさがあって、恋の道でも節度があったころの歌ですね。聞いていて風格がありますよ、抱いてとかいった露骨なんじゃなくて。

古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもかと 討ちこんでくる・・・・・・・・・
正に この歌はその代表だと思っています。

DVD「市川崑初期作品集・三百六十五夜総集編」THD−19931  B20209(株)フュチャークラッカー、レンタルあり

映画の内容は知らないけど、この歌は、大好きです。

西條八十・古賀政男、この二人の巨匠になるたくさんの美しい名曲最高。
霧島昇さんの甘くソフトな歌声がより引き立てています




273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 21:03
☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。
映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。


あけみの唄

1932
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関 種子


(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。


















274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:22
月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ

 2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ

 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。
 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。
作詞の島田芳文は、古賀政男がコロンビア専属初期のコンビですが、
『丘を越えて』『キャンプ小唄』と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。
オリジナルのレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。


275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 19:03
age

276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:47
古賀政男は李香蘭のために「荒城の月」「宵待草」の編曲を行った。山田耕筰、本居長世、橋本国彦に次ぐ編曲です。

「荒城の月/宵待草」(古賀政男編曲 明治大学マンドリン倶楽部演奏 李香蘭 1942コロムビア100542)

戦後5年を経たない1950年1月、山口淑子主演の東宝映画「暁の脱走」が公開された。

李香蘭として戦地慰問の姿を自ら再現したような映画です。

この中で、李香蘭が兵隊を前に「荒城の月」を歌うシーンが You Tubeで見られる。(検索;山口淑子・荒城の月)

澄んだソプラノ、歌唱のすばらしさ、繊細に、心を込めて、言葉をひとつひとつ大切に、兵隊さんを前に切々と歌う李香蘭・・


李香蘭には、「宵待草」盤もあります。

「宵待草」の最初のレコードは昭和3年(1928)、藤原義江によって日本ビクター蓄音機から出されました。

SP盤では、関屋敏子盤など、この昭和17年の李香蘭盤まで、戦前だけで15年間に少なくとも18枚のレコードが出されています。


現在のクラッシック歌手で、これほどまでに歌えるものを知りません。

《李香蘭・宵待草》で検索。

『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。

そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。

ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。

そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )


ソプラノで哀しみを歌うことができるーそんなクラッシック歌手はそういるものではない。

そんな繊細な歌唱、それができるのはドイツリートの傍ら、多くの初期の古賀メロディを支えた本格的クラッシックソプラノ歌手・関種子とかクラス。

なぜ李香蘭なのか、その優しい歌声を聞けばわかる。

映画「暁の脱走」それは、なぜ李香蘭なのか、その問いに、一つの解答を与えるものでもある。


「暁の脱走」
李香蘭が戦後、山口淑子と名を変えて出演した『暁の脱走』。昭和20年の中国戦線、上官にひたすら従順な兵士と、慰問歌手との禁じられた恋の行方。 昭和25年に製作された反戦映画の傑作。

「国立近代美術館フィルムセンター」で保管されており,同アートライブラリ(竹橋)、フィルムセンタ―図書室(京橋)で見ることができるほか、時々鑑賞会が開かれている。

またDVDも出ている。
DVD[暁の脱走」(東宝TDV−2926D)
谷口千吉監督作品、1950李香蘭、池辺良

荒城の月荒城の月、宵待ち草、両曲とも古賀政男編曲。





277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:53
主な李香蘭の作品29曲のうち、古賀作品が15曲で半数以上で一番多い。

この中には、「荒城の月」や「宵待草」(いずれも古賀政男編曲)があります。

三浦環に師事するなどクラッシックの修業を本格的に積んだ李香蘭、単なる美貌のスター、歌姫というだけでない、李香蘭の歌声が本格的なものであることは、この心に染み入る、心の琴線に触れるこの二曲を聞けばよくわかる。

今のクラッシック歌手でさえも、これほどのものは見当たらない。



伊藤久男盤であまり世間に受け入れらることができなかった名曲「雲のふるさと」への思い入れが強かっただろう古賀政男にとって、それは満たされないものがあったことででしょう。

そして、李香蘭の登場となるのでしょう。

上記二曲もはいってるようだが、李香蘭の「雲のふるさと」ぜひ聞きたいものです。



そういえば、李香蘭がテイチクでデビュー曲として吹き込んだ『さらば上海』は、もともとコロムビア時代に古賀政男が作曲した映画主題歌で関種子が吹き込んだ作品でしたね。

主要29曲のうち15曲が古賀作品…ですか。

『夜霧の馬車』などは流行歌テイストの曲調ですが、作り手と歌い手がとても息の合っている作品だと感じます。古賀は声楽の修業をしている魅惑の歌手・李香蘭に歌曲系メロディの『雲のふるさと』をうたわせたかったのではないかと思います。



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:58
「夜霧の馬車」は、代々木上原の古賀邸の応接間に西條八十、古賀政男、李香蘭が集まって歌いながら作曲を組み立てた傑作と言われます。

279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:59
古賀政男には、「熱砂の誓い(建設の歌)」(西條八十作詞、李香蘭出演「熱砂の誓い」主題歌)、「馬」(佐藤惣之助作詞)など、いずれも伊藤久男歌唱の優れた作品があります。

「建設の歌」など朗々と歌いあげるのもいいけど、李香蘭の歌う「雲のふるさと」、それがあまりにも「真摯」で、「真実」で、そこに嘘が無かったのではないでしょうか。

そこに嘘偽りがないとき、聞く人の心に響いて思わず涙が溢れる。

そのため、かえって戦時下で公にできなかった・・のではないかなとも思います。

戦地を多く慰問した李香蘭、慰問先で明日をも知れぬ兵隊さんを前にして必ず最初に歌ったという「荒城の月」や「宵待草」、それはいいかげんなものではなかったはず。

それを聞いて、そうおもわずにいられませんでした。


話は少々ずれますが、李香蘭出演映画の主題歌『熱砂の誓い(建設の歌)」』は個人的に結構好きな歌です。メロディも古賀政男らしい感じが致します。
それにしても、李香蘭(山口淑子)、人気がありますねぇ。

そうですね、「熱砂の誓い」いい歌ですね。

もう一つの主題歌・挿入歌に「赤い睡蓮」があって李香蘭ですがこちらも名曲ですね。




280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:08
「雲のふるさと」は伊藤久男が既に歌ってらしたんですねぇ。
SP盤を収集したての頃はこの時代前後にとくに関心がありました。
『雲のふるさと』は自分の持っている盤を含め何度か古物市場で目にしており、珍しくはないように思っていました。しかし後に李香蘭でテスト盤を吹き込んでいたということは、伊藤盤がヒットせず埋もれた状態だったのでしょうね。李香蘭盤発見の報道でオリジナルの伊藤盤について言及がなかったのは意外でした。


281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:17
雲のふるさと
作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

常夏の椰子の木陰に
戎衣を解きて憩いつ
返り見る雲の遥けさ
ますらおの我と言うとも
ゆえ知らず涙落つるを

誰ぞ叱る我も人の子
胸熱く思い出ずるは
旗薄靡く信濃路
河鹿鳴く清き河部に
あの雲は今も翳らん

皇国に捧げたる身の
死にてよと汝は言わずや
幻に見ゆる故郷
我強し汝のあればぞ
弾丸の中行かんと思え


海軍礼式歌で戦後、NHKラジオ歌謡にもなっている。
伊藤久男歌で、最近古賀政男音楽文化振興財団で李香蘭盤が発見された。

282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:27
「西条八十作詞・古賀政男作曲」の沢山ある名曲の一つに、松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の主題歌で格調高い「サヨンの鐘」(1941)他がある。
今ほとんど知られてないが、日台の架け橋のような歌で、現在も台湾で知らない人は無い歌だそうで参考までに、中国名「月光小夜曲」。

「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、
自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまう、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送る。それを聞いた渡辺はま子が
、太平洋戦争直前にこの歌を歌う。後昭和18年に映画が作られる。

平成10年9月7日NHK 特集で放送された。日本人の高校生の女の子が台湾に行き、「サヨン」のお姉さんや知り合いに、当時の様子を 取材して歩くというもの。
「サヨンの鐘」は、中国語では「月光小夜曲」というタイトルで歌われていますが、 サヨンの村では、日本の歌詞をそのまま中国語に訳して歌われてる。
台湾原住民(かつての高砂族)の小学生達が学校で合唱していました。




「サヨンの鐘」(西条八十)渡辺はま子・・中国名「月光小夜曲」
  ♪あらし吹き巻く 峯ふもと  流れあやふき 丸木橋・・

「サヨンの歌」(西條八十) 李香蘭(山口淑子)
  ♪花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜露に濡れる・・

283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 14:50
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50

284 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/30(Sun) 23:43
04/12 07:11 NHK総合 【おはよう日本】
“李香蘭”未発表の歌・2曲見つかる

戦時中日本人であることを伏せて李香蘭の名前で女優として活躍し去年亡くなった山口淑子が、戦時中に録音したとみられる未発表の歌2曲(「月のしずく」「雲のふるさと」)があることがわかった。
戦地に赴いた兵士の涙を描いたとみられる歌詞もあり、レコード会社は“戦時中にはそぐわない”として発売を自粛した可能性もあるとしている。
古賀政男音楽文化振興財団に言及。
この歌は今月29日に発売されるCDに収録されるという。
日本コロムビア・男性のコメント。
♪未発表の歌「月のしずく」、「雲のふるさと」/山口淑子(作詞・大木惇夫、作曲・古賀政男)。


285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/30(Sun) 23:50
荒城の月
作詩 土井晩翠  作曲 滝廉太郎

藤原義江 0302 VIC1175 赤盤
藤原義江  0310 ORI30012
ブカナン  0511 COL26015
荻野綾子  0601 VIC13109 赤盤
奥田良三  0602 POL631
黒田 進  0606 TAI3034
牧 嗣人  0701 COL35221
内本 実   0801 COL35336
四家文子 0805 VIC52673
藤山一郎 0800 VIC52756
藤山一郎 0907 VIC53108
関屋敏子 1101 VIC13452 赤盤
奥田良三 1104 POL2268@
永田絃次郎 1110 KIN10002
藤原義江 1210 VIC J54098
藤原義江 1211 VIC13527 赤盤
藤山一郎、女声合唱団1501 COL30467@
井口小夜子 1704 KIN67025
李 香蘭 1709 COL100542@
帝国合唱団 1803 TEI T3418




286 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 10:25
目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」(霧島昇、二葉あき子)の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 作詩  サトウハチロー
 作曲  古賀政男   
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨

目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、
目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。






287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/15(Thu) 16:43
age

288 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:10
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:30
新妻鏡、目ン無い千鳥・・昭和15年、太平洋戦争直前80年前に作られた歌、
簡潔な言葉に凝縮された詩人ならではのやさしい詩、やさしいメロディ、やさしい歌声、いま聴いても情景が浮かんでくる新鮮な名曲。



290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 15:14
「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

☆「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

この「酒は涙か溜息か」で、「古賀メロディー」の時代を決定ずけ、SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

なお、晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

【古賀 “メロディ” 】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平 “節” 】に対する言葉である。(上山恵三)

上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房  昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

昭和10年には熱海、西山町に別荘を建て、ピアノ も送ってしまいます。晋平の後のビクタ―の顔は佐々木俊一に、以後はほとんど作曲はしていない。

西條八十はビクタ―に談判、昭和8年の1年間、社を越えてコロムビアの古賀政男と提携、「サーカスの歌」など、その後もたくさんの名曲を送り出すことになる「西條八十・古賀政男」黄金コンビがこの時確立。

昭和14年にはその西條八十もビクターからコロムビアへ。西條八十の代わりは、弟子の佐伯孝夫。
[西條八十・古賀政男] 、コロムビアにおけるこの昭和歌謡史に残る圧倒的な黄金コンビは戦後に至るまで、昭和45年、八十が亡くなるまで続いた。

昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会長」等の要職を歴任します。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たち

・畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)

・上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)  



291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 15:19
☆酒は涙か溜息か

酒は涙か溜息か(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)
昭和6年(1931)9月、満州事変の勃発と東北大凶作、世界恐慌、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。

これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。
この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた、同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。

人々は、主流だった【晋平“節”】に対し、【古賀“メロディ”】と呼んだ、ここにメロディを大切にした「古賀メロディ」が確立した。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、あの前奏・間奏?後奏がそれぞれ独立した一曲にも値するような、音のキャンバスいっぱいにつかったような、これまでにない新鮮でしかも哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場、「酒は涙か溜息か」と「古賀メロディ」の登場・・それは昭和の歴史上で、社会的、歴史的にも大きな出来事だった。

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と東北大凶作での娘身売り相談所の写真、世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・

「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)




292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/14(Sat) 23:06
大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)

そして、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていくのが古賀政男の【古賀メロディ】。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそことによる。

令和2年(2020)は昭和95年、『古賀メロディ 89年』

影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・

もうすぐ90年!

昨日今日できたものではない・

80年を超える多くの戦前の「古賀メロディ」の名曲の重み!。

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【2:291】  昭和歌謡が好きな人集まれ!
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!


282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:27
「西条八十作詞・古賀政男作曲」の沢山ある名曲の一つに、松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の主題歌で格調高い「サヨンの鐘」(1941)他がある。
今ほとんど知られてないが、日台の架け橋のような歌で、現在も台湾で知らない人は無い歌だそうで参考までに、中国名「月光小夜曲」。

「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、
自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまう、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送る。それを聞いた渡辺は

293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/15(Sun) 20:02
誰か故郷を想わざる

作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌 :霧島昇


(一)
花摘む野辺に 日は落ちて
みんなで肩を くみながら
唄をうたった 帰り道
幼馴染の あの友この友
ああ 誰か故郷を想わざる

(二)
ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
小川の岸で さみしさに
泣いた涙の なつかしさ
幼馴染の あの山この川
ああ 誰か故郷を想わざる

(三)
都に雨の 降る夜は
涙に胸も しめりがち
遠く呼ぶのは 誰の声
幼馴染の あの夢この夢
ああ 誰か故郷を想わざる
     
80年前、太平洋戦争直前昭和15年(1940)発売、西條八十作詞・古賀政男作曲、そのたくさんある名曲のひとつ。


294 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/29(Sun) 22:17
昭和とは大正15年(1926)から、昭和64年(1989)まで、60年を越える。

詞というものは、長くなればなるほど、言ってることは狭くなるもの。
逆に簡潔であればあるほど、自分で思い描ける部分が広く、共通部分が広くなり、味わい深くなるもの。
年末の特集番組でもやっていたが、最近の歌はみな歌詞が長く、テンポが早く、しゃべってしまっている。
ほとんどその中に重ね合わさることはすくない。

「泣くな妹よ妹よ泣くな・・・生きて行こうよ、希望にもえて・・」(人生の並木路)

 ・・まずしくとも、まじめにいきていればきっといいことがある・・

豊かさとともに失ってはいけない大切なものがある。

日本がまだ貧しかった時代、「兄弟の絆・兄弟愛」を適切に歌いあげている。

「人生の並木路」、それは味わえば味わうほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。
今の豊かな世ではありえない詩人・佐藤惣之助の傑作だと思います。

日活映画 渡辺邦夫監督1937.1「検事とその妹」(武田敏彦原作「検事の妹」)主題歌

人生の並木路
(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 ) 昭和12年(1937)

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない

2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか

3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る

4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。





295 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/29(Sun) 22:26
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。


296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/29(Sun) 22:33
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。
以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。


297 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/29(Sun) 22:40
別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。


298 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/29(Sun) 22:47
>>294

訂正

正  竹田敏彦原作

299 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/01(Wed) 20:45
>>294

日活映画 渡辺邦夫監督1937.1.8「検事とその妹」(竹田敏彦原作「検事の妹」)主題歌

300 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/02(Thu) 14:59
情景が目に浮かぶ。

301 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/07(Tue) 09:48
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。





302 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/07(Tue) 09:55

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html



昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。


以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。



古賀政男は、映画会社と提携し多くの映画主題歌を世に送り出した。
特にテイチクでは日活と提携し、「緑の地平線「」や」「人生の並木路」など多くの名曲を送り出した。

初期の、「酒は涙か溜息か」「鳩笛を吹く女の唄」などはまだ無声映画だった。

303 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 08:40
☆藤山一郎と古賀メロディ

藤山一郎がラジオに登場したのは、昭和3年の慶応普通部時代で、それ以来、音楽放送の歴史とともに歩んできた。
『日本放送史』(日本放送協会編)には、「藤山は、《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」とある。

「藤山一郎」とは、昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」をはじめとする古賀作品をレコード吹き込みにあたっての名前で、これが昭和歌謡史に残る「藤山一郎」の実質的レコードデビュー。

「歌う昭和史・藤山一郎」の原点は昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」・・。

平成四年、国民栄誉賞受賞。愛宕山のNHK放送博物館には彼のコーナーがあり、業績や記念物の展示があり、ビデオが見れる。

ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ『古賀メロディー』ほどの大ヒット曲には恵まれなかった。

藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。

ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍して重役作曲家になっていた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。

1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。

PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。

藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画、国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。

1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」」の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・「藤山一郎」の代表的な曲を次にあげる。





304 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 08:53
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
*コロムビア
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月(井上静雄名)
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
*テイチク
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12   加寿子のうたえる…
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
*コロムビア
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。日本帰任後,最初にNHKラジオ番組に出たことから主にラジオとの付き合いになってゆく。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌   (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952






305 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 09:05
八十と惣之助

大正期の詩人として、西条八十(1892〜1968)と佐藤惣之助(1890〜1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもある。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。

306 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 19:14
大女優原節子(1920年6月生まれ))の映画初演は昭和10年、15歳の時で、
『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲 監督、1935年)節子 をはじめに戦後まで多くの映画に出演。

その中で、「古賀メロディ」を主題歌とする作品が多い。

『緑の地平線』前篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品)
『緑の地平線』後篇(阿部豊 監督、1935年)ゆかり(原初のトーキー作品)
『白衣の佳人』(阿部豊 監督、( 1936年)由紀子
『検事とその妹』(渡辺邦男 監督、1937年)明子
『蛇姫様』第一編(衣笠貞之助 監督、1940年)琴姫
『勝利の日まで』(成瀬巳喜男 監督、1945年)(冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品)
『麗人』    (渡辺邦男 監督、 1946年)菊小路圭子


307 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 19:29
日活映画1937 渡辺邦男監督「検事とその妹」

 原作 竹田敏彦「検事の妹」


竹田敏彦「検事の妹」;大衆文学大系20 (講談社 1972.)

308 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 19:36
人生の並木路


雪も降れ降れ 夜路のはても
 やがてかがやく あけぼのに
 わが世の春は きっと来る

3番目の詞と4番目の

 生きて行こうよ 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路

〜この詞に救われる思いがします。
 だれもがそう励まされて人生のたどって来た道すがら、人という物は道の末にあると思う我が世の春を、今も夢見て歩くようです。
 厳しい世は世の中や出逢う人々が辛くあたり意地悪をするわけではないのですね。
 『世の総ての厳しさこそ、幸福の手がかり』
 と、く二人の背にやがては登る太陽の暖かさに励まされて我が人生の並木道を行く姿の中に「常楽我浄」があると聖者は説いた。すなわち・・・
 諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽
 『常楽我浄偈』(じょうらくがじょうげ)として世の人々の火灯りとして智慧の灯りを点されていますね。
 この歌を聞くとき何時も、このように思うのですよ。
 これは、私の心の師「盲目の賢者」様から教え諭された事です。


309 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 19:44
「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、もうすぐ70年ですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。


310 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 19:50
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。

h ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm

311 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 19:55
愛染かつら


昭和13年〈1938)作品、松竹大船三部作。 ...-

『婦人倶楽部』に連載された川口松太郎原作の同名小説の映画化、川口松太郎のたっての希望で西條八十に作詞のすべてを依頼。

全編を通じて「子守歌」というい歌詞がいたるところにでてくる。
生みの親、育ての親、この親子の情をテーマとしている。

♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道♪、と歌う「旅の夜風」が有名な戦前の松竹メロドラマの傑作。子持ちの未亡人看護婦・高石かつ枝と、院長の息子で青年医師の津村が恋に落ち、身分の違いや子供の病気など様々なすれちがいを経てついに結ばれる・・・。同時に霧島昇とミス・コロムビアの二人も、この三部作の最後の「愛染夜曲」の最後で、歌詞そのままに結ばれる。


312 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 20:05
愛染かつら完結篇の主題歌「愛染夜曲」の最後四番目にこうある。

はろばろと はろばろと
愛の山河 今日旅終えて
結ぶ縁(えにし)の 愛染かつら
花よ降れ降れ より添う肩に


「愛染かつら」と共に結ばれる、霧島昇とミス・コロムビア(松原操)に対するはなむけの言葉であると、西條八十は自伝『唄の自叙伝』にかいている。
h ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-aizenzoshi.html

・愛染かつら 1938年(昭和13年)9月10日       
  主題歌 旅の夜風(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア
  挿入歌 悲しき子守唄(西條八十作詞、竹岡信行作曲)ミス・コロムビア

・続・愛染かつら 1939.5.5
  主題歌 愛染夜曲(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア
  挿入歌 朝月夕月(西條八十作詞、竹岡信行作曲) ミス・コロムビア

・愛染かつら・完結編 1939.11.16
  主題歌 愛染草紙(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア 
 挿入歌 荒野(あれの)の夜風(西條八十作詞、早乙女光作曲)ミス・コロムビア、二葉あき子



313 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 20:15
新妻鏡

1940東宝映画 小島正二郎原作「新妻鏡』主題歌
作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀政男

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(くらし)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ


314 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 20:34
物が有り余る時代、最近の歌には、感動できる歌がめっきりすくない。一方昔の歌も歌われる機会が少なくなりつつある。

「新妻鏡」・・昭和15年、太平洋戦争開戦直前、東宝映画『新妻鏡』は、目の見えない薄幸の新妻が苦労の果てに結ばれると言う話(小島政二郎原作)で、霧島昇、二葉あき子(戦後、島倉千代子)歌。

まだテレビも無かった時代、昭和は「日本映画黄金時代」。どんな小さな街にも小さな映画館があって、人々は続編を心待ちにしていたのでした。

実は録音されていないが2番と3番の間にもうひとつあって、

  強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は 幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐に あてらりょう

この歌は、すごい重みのある。


男女年齢を問わず勇気ずけられる人生の応援歌です。

これを歌えば、今流行の育児放棄虐待などありえないことでしょう。

簡潔な詞のなかにわすれかけている大切なことが、さりげなくちりばめられた惣之助の詩。

時代を超えて、味わいのある歌だと思います。
ぜひ、オリジナルで聞いてください。

なお、挿入歌に「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (霧島昇、ミス・コロムビア歌) がある。男女年齢を問わず勇気ずけられる人生の応援歌です。






315 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 20:41
とてもいい曲だと思います。いつまでも残しておきたいですね!。。
現代ではいろんな人が作詞、作曲されていますがこのように心に残る曲がないのが残念でなりません。  
このようなきれいで心に残る曲を後世に
これからも数少ない名曲を大切にみんなで歌い継がれるようにしたいですね!。


316 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 21:00
関種子(1907〜1990)
昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90



317 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 21:07
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ


318 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 21:38
☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。
映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。
聴いてください。


昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。




☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。
昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。
映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、90年近くたった今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。
初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。
子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。
聴いてください。






319 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 21:57
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6

320 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:05
☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952



321 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:18
☆楠木繁夫の代表曲

国境を越えて  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ    (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲)      1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段    (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄  (佐藤惣之助作詞、 楠木繁夫歌) 1937.1
スキ‐の唄   (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲    (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴)    1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1937.8
時代の霧   (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)        1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1938.6
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲)(李香蘭)    1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11




322 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:26
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938


323 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:34
☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5


324 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/08(Wed) 22:52
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品

童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)


325 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 08:13
>>303-304,>>311-319-324

改めて藤山一郎のさんの歌う[古賀メロディ]は、今のクラッシック歌手でも歌えない。
もちろん素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。


昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌、とても素人歌手には無理です・。
・。よく分かります。


ステレオ再録音は編曲も悪いし旧録音には到底及ばない


326 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 09:11
<古賀メロデーの抒情歌>

ほかにもたくさんあるが・・

影を慕いて(古賀政男)
丘を越えて(島田芳文)
月の浜辺 (島田芳文)
ハイキングの唄(島田芳文)
夕べ仄かに(島田芳文)
人生の並木路(佐藤惣之助)
白い椿の唄(佐藤惣之助)
さらば青春(佐藤惣之助)
誰か故郷を想わざる(西条八十)
あの花この花(西条八十)
青い牧場(サトウハチロー)
故郷の白百合(サトウハチロー)
雲のふるさと(大木敦夫) 国民歌謡
やすらいの歌(百田宗冶)  国民歌謡、ラジオ歌謡
ピレネーの山の男(西条八十)
りんどう峠(西条八十)


327 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 09:16
<古賀メロデー 青春・叙情歌>  藤山一郎歌

東京ラプソデイー (門田ゆたか)1936年6月(映画「東京ラプソデー」主題歌)
 ♪花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で・・
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
 ♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
回想譜(今城請児)1936年10月  (日活「女の階級」挿入歌)
 ♪星みれば はろかに遠く 雲見れば つきせぬ思い
青春カーニバル(青春の謝肉祭)(島田欣也・野村俊夫)  1936年11月
 ♪若き日の憧れを胸に抱き・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・
歓喜の丘 (島田芳文)1938年3月
 ♪あこがれの丘にきて 萌ゆる瞳に仰ぎ見る 空は青空 日はうらら・・
春よいずこ(西条八十)
 ♪おもいでは おもいでは 青い背広の・・


328 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 15:22
白 い 椿 の 唄
(作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )  (昭和10年) 
1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

呼べど返らぬ 面影は・・これは、古賀政男が母を亡くしたその思いと重なる。
この歌は菊池寛原作「貞操問答」主題歌、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にあたるようなうた。



329 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 15:41
◇戦後の主な古賀メロディ・・
圧倒的に西條八十が多い!。
麗人の歌     1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)


330 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 15:48
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)





331 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 22:45
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。

332 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/09(Thu) 22:57
古賀政男は大正から昭和の初めにかけて中山晋平の歌(晋平節といった)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。


333 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 10:19
古賀政男は初期の「影を慕いて」と裏表の【日本橋から】(1931)、今「お江戸日本橋」の代わりに日本橋の番組によく使われる日本初のアルゼンチンタンゴ【日本橋から】。

現在では。「お江戸日本橋」に代わり、日本橋の歌としてよく使われている。

「プレクトラム演奏家古賀正男(古賀政男)作曲、明治大学マンドリン倶楽部演奏、佐藤千夜子歌唱による「日本橋から」「影を慕いて」です。レコーディングは昭和5(1930)年10月20日。
この「影を慕いて」の演奏は明治大学マンドリン倶楽部から選抜された複数のギター奏者によるもので、メンバには「古賀正男」に後輩の竹岡信幸が加わっています。

日本橋から 佐藤千夜子 1930(浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)
日本橋から 関 種子  1932(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲)  コロムビアオーケストラ  コロムビアレコード26748-B
 
1 お江戸日本橋 師走も暮れる
  橋の上から あちらを見たりゃ
  あちら葭(よし)町 人形町で
  ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓


2 お江戸日本橋 今年も暮れる
  橋の上から こちらを見たりゃ
  ならぶ建物 ほこりの雲で
  ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)


3 お江戸日本橋 さいふが空で
  橋の上から 遠くを見ても
  どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
  ヤレサ お江戸の 思案橋





334 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 10:30
緑の地平線

作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、
唄:楠木繁夫

1 なぜか忘れぬ人ゆえに
  涙かくして踊る夜は
  濡れし瞳にすすり泣く
  リラの花さえなつかしや

2 わざと気強くふりすてて
  無理に注がして飲む酒も
  霧の都の夜は更けて
  夢もはかなく散りて行く

3 山のけむりを慕いつつ
  いとし小鳩の声きけば
  遠き前途(ゆくて)にほのぼのと
  緑うれしや地平線

緑の地平線は、 昭和10年(1935)に日活多摩川撮影所で制作された同名の映画の主題歌。
古賀メロディーの傑作の1つ。
映画は3人の女性が紆余曲折の末、真の愛に目覚めるといったストーリーで、ゆかり役の原節子、岡譲二などが出演しました。


335 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 10:47
ゆかりの唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)

都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命

(台詞)
あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。

高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命



1935年日活映画『緑の地平線』の挿入歌。(「緑の地平線」のB面)いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。

「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。

第1級の詩人の」すばらしい名詩を存分に味わえる「古賀メロディ」の魅力。古賀は「詩はお姉さん.曲は弟」と言って詩を大切にした。

詩人・佐藤惣之助の詩になる古賀メロディの名曲たる「緑の地平線」の挿入歌「ゆかりの唄」・・、その名詩と名曲を存分味存分わってください。


336 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 10:52
>>333

3番訂正

日 本 橋 か ら
作詩 浜田広介  作曲 古賀政男
昭和6年

1 お江戸日本橋 師走も暮れる
  橋の上から あちらを見たりゃ
  あちら葭(よし)町 人形町で
  ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓

2 お江戸日本橋 今年も暮れる
  橋の上から こちらを見たりゃ
  ならぶ建物 ほこりの雲で
  ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)

3 お江戸日本橋 さいふが空で
  橋の上から 遠くを見ても
  どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
  ヤレサ お江戸の 思案橋

337 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 10:57
昭和の歌・・・いいですね。
昨日息子が美空ひばりの古賀メロディーのCDを買ってくれました。私が生まれる前の曲と思います。
日本語が奇麗で今では味わえない曲の懐かしさ。
多分両親が口ずさんでたのでしょう。今聞いてるのは 「影を慕いて」 「目ン無い千鳥」 「湯の町エレジー」
知らない曲もあります。「女の階級」「日本橋から」・・・

338 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 11:29
【古賀メロディ】とは、レコード歌謡創世記、昭和6年(1931)頃から戦後に至る昭和の歌謡史を作った哀調を帯びたトップブランド。


昭和のはじめからの長い歌謡曲の歴史の中で実に多くの歌ができ、多くの作曲家もでた。
その中で、トップブランド「古賀メロディ」。

殆どの作曲家が戦後などある時期を中心として断片的で、メジャ―なヒット曲と言われるものも、せいぜい10曲程度であるのに対し圧倒的。

半世紀にわたる古賀政男の歴史は、昭和1桁から昭和53年に亡くなるまで、日本における大衆歌謡の歴史そのもの。

影を慕いて、丘を越えて、東京ラプソディなど、数えきれない名曲、文句なしのたくさんのヒット曲・名曲を世に送り出し、80年を超えた現在でも時代を超えた普遍性をもって歌われ演奏され続け
ているのは驚嘆に値する。

339 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 14:54
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/関種子

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」が約50万枚[1]を売り上げるヒット。この曲は日中戦争開戦後、歌詞が女々しいという理由で発禁処分となった[1]。1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋芸術大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
1974年(昭和49年)紫綬褒章を受章。1981年(昭和56年)には勲四等宝冠章を受章した。
1990年(平成2年)6月6日に腎不全で死去。満82歳没。娘は女優の関弘子である。


340 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/11(Sat) 17:45
悲しき子守唄

作詞:西条八十
作曲:竹岡信幸
歌唱:ミス・コロムビア(松原操)
昭和13年(1938年)

(一)
可愛いおまえが あればこそ
つらい浮世も なんのその
世間の口も なんのその
母は楽しく 生きるのよ

(二)
可愛いお目目よ 丸い手よ
見れば撫でれば 悲しみも
忘れていつか 夢の国
母は涙で 笑うのよ

(三)
つらい運命(さだめ)の 親子でも
吾が子は吾が子 母は母
神様だけが 知っている
たまに逢う日の 子守唄


「悲しき子守唄」は昭和13年に大ヒットした松竹映画<愛染かつら>の主題歌の一つ。
川口松太郎原作、生みの親、育ての親、親子の絆をテーマとしたもので、すべて
西条八十作詞、随所に「子守歌」という言葉が出てくる。
80年を超えた今でも普遍性を持って生きて行ける名曲である。、

<愛染かつら>三部作の主題歌

「旅の夜風」(西条八十作詞、万城目正作曲)、
「愛染夜曲」(西条八十作詞、万城目正作曲)、
「愛染草紙」(西条八十作詞、万城目正作曲)

「悲しき子守唄」は昭和13年に大ヒットした松竹映画<愛染かつら>の主題歌の一つです。
「朝月夕月」(西条八十作詞、竹岡信幸作曲)、
「荒野(あれの)の夜風」(西条八十作詞、早乙女光作曲)、



341 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/11(Sat) 22:54

   愛染草紙

     
   作詞:西条八十
   作曲:万城目正
   歌唱:霧島 昇  ミス・コロムビア
   

     (一) 
     流れくる 流れくる
     君がやさしの 歌声かなし
     男涙は ながさぬものを
     何で泣く泣く 荒野(あれの)の夜風

     (二) 
     ひとすじの ひとすじの
     愛の燈灯(ともしび) 君ゆえ聖い
     呼ぶな我が子よ 悲しい母を
     遠い故郷 夕日が落ちる

     (三)
おもいでの おもいでの 
加茂の柳よ 比叡の月よ 
離れ離れの ふたりの胸に
返れあの日の 見果てぬ夢よ              
  
 (四)  
はろばろと はろばろと
     愛の山河 今日旅終えて
     結ぶ縁(えにし)の 愛染かつら
     花よ降れ降れ より添う肩に


        

342 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/12(Sun) 23:31
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

343 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 14:26
丘を越えて
 
 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
 歌唱:藤山一郎
 
 (一)
 丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

(二)
 丘を越えて行こうよ
 小春の空は麗らかに
 澄みて嬉しいこころ
 湧くは胸の泉よ
 讃えよわが青春を
 いざ聞け遠く希望の
 鐘は鳴るよ


   

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、89年前の昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後75年、昭和95年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。




344 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 10:58
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231


345 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 13:01

h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌

好評 発売中!

オリジナル原盤を使っているので良い。


346 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/29(Wed) 00:29
(参考)

☆戦前の流行歌
 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt


347 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/29(Wed) 11:15
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)
昭和の流行歌(レコード歌謡)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



昭和歌謡大全目次
戦前戦中編 (目録)

h ttp://music.geocities.jp/hanatori1119/kayoudaizenn/kayoudaizenn.html



348 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/30(Thu) 08:19
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.


349 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/30(Thu) 08:39
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

350 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/31(Fri) 15:33
レコード草創期
h ttps://idol.ne.jp/record-creation-period


351 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/02(Sun) 00:08
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

352 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/06(Thu) 23:45
【東京】不滅の古賀メロディ【ラプソデフィ】

h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/184-205

353 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/06(Thu) 23:51
【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鑑】
h ttps://bubble5.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1162563164/


354 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/06(Thu) 23:57
【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
h ttps://life7.5ch.net/test/read.cgi/healing/1113312511/76,84-87


355 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 00:03
【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
h ttps://bubble4.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1154785781/


356 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 12:41
レコード草創期 日本流行歌の歩み
h ttps://idol.ne.jp/record-creation-period

関種子
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/関種子

藤山一郎
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/藤山一郎
藤山一郎 オフィシャルサイト
h ttp://www.fujiyamaichiro.jp/
藤山一郎 コロムビアオフィシャルサイト
h ttps://columbia.jp/artist-info/fujiyama/prof.html



(重要!)


357 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 13:54
古賀政男総合スレ
h ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50



358 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 14:07
歌う昭和史 藤山一郎1
h ttps://bubble4.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1011539806/
h ttp://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/l50
h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/



359 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 22:00
声楽の基礎の無い中途半端な声楽の技術を持った歌手が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌うと思わず耳を覆いたくなる、
これは私だけだろうか。




360 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 23:39
あゝ戦前の男性歌手!
h ttp://toki.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1118835187/
h ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1323212446/l50


361 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/07(Fri) 23:54
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231


362 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/08(Sat) 00:04
あゝ戦前の女性歌手!
h ttp://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1116771324
h ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1323212446/101-200
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1403174849/-100


363 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/08(Sat) 16:29
「詩人 西條八十」
h ttp://hac.cside.com/afcw/culture/96/kiyamado.htm


364 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/08(Sat) 21:21
>>33

思い出のラジオ・テレビ主題歌集
CD11枚組・全254曲
◎特製ケース入り ◎別冊解説書つき
◎制作/コロムビアミュージックエンタテインメント(株)

ラジオ・テレビの誕生から昭和50年までの貴重な音源を集大成した、「思い出のラジオ・テレビ主題歌集」!!  ・・入手可能かどうかは不明
      h ttp://store.yahoo.co.jp/cfc-co/d1965.html

目ン無い千鳥(霧島昇・ミス・コロムビア)
(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)昭和15年

これは、今からナツメロを聴いてみようかな、という人には絶対オススメの一曲。
あっ、でもリバイバルはだめです。

オリジナルの霧島&ミスコロのデュエットで聴くからこその青春歌謡であって、大川栄策では、なんか歌謡曲というよりベタベタの演歌みたいで、私はどうも好きになれない。

「目ン無い千鳥」というのは、もともと子供の「目かくし鬼ごっこ」のことらしいですが、ここではそういう意味ではなく、「新妻鏡」という映画の主人公である、目の見えない妻という設定に関連づけられているのでしょう。

映画の設定はともかくとして、それと切り離して聴いても、この歌は素晴らしい青春回想記です。
    h ttp://www1.neweb.ne.jp/wa/mayu/mennai.html


365 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/08(Sat) 21:25
>>364
>>33

目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩   古賀政男作曲
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。


366 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/08(Sat) 23:34
昭和8年1933年始め,藤山一郎と同期で上野の東京音楽学校を卒業して藤山はビクターレコードに行ってしまったが、松原操はコロムビアのテストを受けて合格したが会社は謎の覆面歌手ミスコロムビア として売り出されたのだった。
昭和8年3月にリリースされた?浮草の唄(作詞:久保田宵ニ 曲編:江口夜詩 COL .27293A)がデビュー曲だったが、綺麗なソプラノで節回しも上手く新しいタイプの新人歌手だった。
その後も近藤政二郎作曲のセミクラシック調?月光 田村三千三作曲の?麗わしの今宵
古賀政男作曲の映画主題歌?「お蝶夫人」の唄 ハワイアンミュージックにベテラン作詞家時雨音羽が詞を付けた?桃の花咲く そして初のブレイク作品?十九の春 (昭和8年1933年6月リリース 作詞:西条八十 作編曲:江口夜詩 COL .27409A)
この初のブレイク作品にはミュージシャンとしてドブロギターを弾くディックミネの音色もしっかり聞ける。
そのあと古賀政男作曲の曲を2曲立て続けにリリース後、ジャズソング調の近藤政二郎作曲の?咲かぬ花 ときて、昭和8年9月リリースの?夜風の旅 (作詞:佐藤惣之助 COL .27514B)で漸く佐々紅華の作品を歌う段になった。

367 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/08(Sat) 23:45
淡谷と同期で東京音楽学校出身の 関種子も同時期に松竹映画「勝敗」主題歌?鳥子の唄(作詞:菊池寛 編曲:奥山貞吉 昭和7年1932年2月 COL .26697B)を吹き込んだ。
淡谷と関のコロムビアの作曲家、ヒットメイカー古賀政男、新進作曲家の新人だった古関裕而、ジャズソングの大家だった井田一郎、そして佐々紅華。
昭和8年1933年始め藤山一郎と同期で上野の東京音楽学校を卒業して藤山はビクターレコードに行ってしまったが、松原操(ミス・コロムビア)はコロムビアのテストを受けて合格したが会社は謎の覆面歌手ミスコロムビア として売り出されたのだった。

368 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/09(Sun) 19:38
『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』 
テイチクTECE 24459,25460

<上>
 国境を越えて  (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・古賀政男テイチク第一作(昭和9年7月) 
 影を慕いて   (古賀政男)   楠木繁夫・・・(編集したような作曲)
 スキーの唄   (島田芳文)   楠木繁夫
 白い椿の唄   (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値する。
                    菊池寛原作「貞操問答」映画化主題歌
 ハイキングの唄 (島田芳文)    楠木繁夫
 望郷の唄    (島田欣也)   デイックミネ
 のぞかれた花嫁 (玉川映二/サトウハチロー)   杉狂児
 二人は若い   (玉川映二/サトウハチロー)  デイックミネ・星玲子
 波止場がらす  (佐藤惣之助)  デイックミネ
 男のまごころ  (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 夕べ仄かに   (島田芳文)   デイックミネ
 緑の地平線   (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 ゆかりの唄   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 白衣の佳人   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 啄木の歌    (島田欣也)   楠木繁夫
 春まだ浅く   (石川啄木)   有島通男
 東京ラプソデイー(門田ゆたか)   藤山一郎
 東京娘     (佐藤惣之助)  藤山一郎
 慈悲心鳥    (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 さらば青春   (佐藤惣之助)  藤山一郎
              






<下>
男の純情    (佐藤惣之助)  藤山一郎
愛の小窓    (佐藤惣之助)  デイックミネ
女の階級    (村瀬まゆみ)  楠木繁夫
回想譜     (今城靖児)   藤山一郎
青春の謝肉祭(カーニバル )(島田欣也) 藤山一郎
南国の乙女   (水島洋)    奥田英子
あゝそれなのに (星野貞志/サトウハチロー)    美ち奴
うちの女房にゃ髭がある (星野貞志/サトウハチロー) 杉狂児、美ち奴
聖処女の唄      (佐藤惣之助)   藤山一郎
人生の並木路     (佐藤惣之助)  デイックミネ・・・・(オリジナルレコード)
青い背広で      (佐藤惣之助)  藤山一郎
青春日記       (佐藤惣之助)  藤山一郎
緑の月        (佐藤惣之助)  奥田英子 
のばせばのびる    (江川真夫)   楠木繁夫
真実一路の唄     (佐藤惣之助)   楠木繁夫
軍国の母       (島田欣也)   美ち奴
黒いパイプ      (倉仲住人)・・  由利あけみ・・三浦環と「蝶々夫人」にも出演。
白虎隊        (島田欣也)   藤山一郎
人生劇場       (佐藤惣之助)  楠木繁夫
弥次喜多道中記    (古賀政男)    楠木繁夫



369 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/13(Thu) 15:14
サーカスの唄
   
  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌唱:松平晃
昭和8年(1933)
  


  (一)
  旅のつばくら 淋しかないか
  おれもさみしい サーカスぐらし
  とんぼがえりで 今年もくれて
  知らぬ他国の 花を見た
 
  (二)
  昨日市場で ちょいと見た娘
  色は色白 すんなり腰よ
  鞭の振りよで 獅子さえなびくに
  可愛いあの娘は うす情

  (三)
  あの娘住む町 恋しい町を
  遠くはなれて テントで暮らしゃ
  月も冴えます 心も冴える
  馬の寝息で ねむられぬ
 
  (四)
  朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
  泣いちゃいけない クラリオネット
  ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
  明日も咲きましょ あの町で



370 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 07:55
昭和歌謡の専門「東京大衆歌謡楽団」は、今、広くレコード歌謡草創期の昭和3年から、戦後昭和30年代まで、昭和SP歌謡
を街頭などで歌う少人数の楽団で、You Tubeでも見れる。

選曲も広く名曲と言われるもの、適正でよい。

今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。

「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。

371 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 09:15
東京大衆歌謡楽団

h ttp://www.tpmb.jp/

372 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 09:36
>>370

【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50

今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。

「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。

小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。

楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。
頑張ってくれるよう応援しよう!!。

373 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/16(Sun) 09:22
戦争中、国民の士気を高めたのは「露営の歌」「愛国行進曲」など勇ましい曲だと一般的には言われてるが、実際は貧しく戦争後期には空襲に脅える生活の中で、一般の国民、学童を含めた一般大衆が励まされた曲、それは「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)‥丘にはためく あの日の丸を・・です。


374 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/16(Sun) 09:52
(参考)

古茂田信男「日本流行歌史・戦前編」(社会思想社1981)

数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられている。



時雨音羽編『日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌』(現代教養文庫)(社会思想社1963)

ASIN: B000JAHOT6
書誌ID 000001285505 

454ぺージの文庫本、数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられていて貴重。
国立国会図書館ディジタル化資料。


375 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/16(Sun) 17:54
歌の力は、偉大で生きる力になります…。この年になって素晴らしいものに、出会えて感謝しています

376 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/18(Tue) 11:25
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


377 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/20(Thu) 21:10
「酒は涙か溜息か」

「中山晋平節」が主流だったが、この作品「酒は涙か溜息か」 の発表で
「古賀政男」時代になった。、同時に作詞家「高橋掬太郎」、そして流行歌歌手
「藤山一郎」の誕生という記念碑的な名作は型破りの「二行詩」で
昭和6年8月発売した。


378 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 22:39
☆ミス・コロムビア(松原操)の歌う「古賀メロディ」

「お蝶夫人」の唄 (西条八十作詞、古賀政男作曲)1933.3
気まぐれ涙  (西条八十作詞、古賀政男作曲)  1933.10
誰も知らない (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)1939.3
新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 1940.3
そうだその意気(西条八十作詞、古賀政男作曲) 霧島昇 李香蘭 1941・5
桜花に誓う  (西条八十作詞、古賀政男作曲) 奈良光江 三原純子 1945
目ン無い千鳥 (サトウハチロ−作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1940.4
故郷の白百合 (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)霧島昇 1943
いさおを胸に (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)楠木繁夫1944 広田竜太郎編曲
三百六十五夜 (西条八十作詞、古賀政男作曲)   霧島昇 1948.9



「お蝶夫人」の唄
  西条八十 作詞
  古賀政男 作曲  
  歌 ミス・コロムビア 
  昭和8年(1933)3月

一.
おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに 
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

二.
私しゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露にぬれたか 恥ずかしや

三.
ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねの人
ねんねおころり 謡(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

四.
来るか来るかの 頼りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


いくつかある「お蝶夫人の歌」のさきがけ。「浮草の歌」とともに、ミス・コロムビア最初期の歌声。。。
美貌と美声を兼ねた、清純で美しい歌姫ミスコロムビアの歌声。
「流浪の民」「この道」「我が家の歌」など松原操名の声楽曲も多い。
お蝶夫人、日本では世界的プリマドンナ三浦環が歌った。
東京音楽学校(現東京芸術大音楽部)を出るか出ないか頃のミス・コロムビ(松原操)のコロムビア最初期の歌。
けなげな日本娘にふさわしい清純で綺麗なすばらしい歌唱。、今のクラッシック標ぼうの歌手でもここまでは歌えない、すばらしい歌唱。


379 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 23:27
松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-kiji%20index.html


プロフォール、ミスコロムビア(松原操)
h ttps://columbia.jp/artist-info/miss-columbia/prof.html

380 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/27(Thu) 19:50
詩人であり,早大仏文科教授、西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。

昭和8年(1933年)末にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

つまり、昭和8年の1年間、コロムビアのドル箱、コロムビア専属、「古賀メロディー」の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。これはビクターの西条八十がビクタ―と談判してかちとったもの。

コンビの西条八十・古賀政男の最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」(西條八十作詞、古賀政男作曲)・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、その黄金コンビは戦後にいたるまで続いた。

まだ東京音楽学校の学生だった、若きミス・コロムビアとの「「お蝶夫人」の唄」もその中の一つ。

最後は、昭和43年の美空ひばり「銀座音頭」(西條八十作詞、古賀政男作曲)。


詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。

作曲家や歌手に比べ、詩人のギャラの少ないことに、ビクタ―と交渉する中で、コロンビアの顔・「古賀メロディ」の古賀政男と一緒に仕事したいとビクターに掛け合い、昭和8年の1年間について認めさせたもの。

関種子「去り行く影」(1933.1)をはじめ、松平晃「サーカスの唄」「はてなき旅」(1933.10)まで11曲。



381 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/08(Sun) 16:06
age

382 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/08(Sun) 16:17
古賀政男芸術大観

国立国会図書館デジタルコレクション  提携図書館で閲覧可
タイトル    古賀政男芸術大観(半生物語作品研究   古賀政男藝術大観)
著者      宮本旅人 著
出版者     シンフオニー楽譜出版社
出版年月日  昭13(1938)
請求記号  758-117
エイゾクテキシキベツシ info:ndljp/pid/1266477

復刻版
宮本 旅人 (編集)
古賀政男芸術大観 (1978年) ,新興楽譜出版社 (1978/10)
(半生物語作品研究   古賀政男藝術大観)
h ttps://ci.nii.ac.jp/ncid/BN15238613






テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。


383 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/08(Sun) 16:44
「萩原朔太郎全集」(筑摩書房)にもでている。

384 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/11(Wed) 18:27
・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

385 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/11(Wed) 20:19
(参考)

CD「思い出の戦前・戦中歌謡大全集」(明治〜昭和20年)SPオリジナル 全240曲 12CD/カセット
 (朝日2006.2.3広告に歌手の写真が)


 図書館等に



  h ttp://www.rakuten.co.jp/cfc-co/504839/504962/505073/
  h ttp://www.rakuten.co.jp/cfc-co/

386 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/11(Wed) 21:27
何にも言えず 靖国の・・ 国民総意の歌・そうだその意気(西條八十作詞 古賀政男作曲)霧島昇、松原操

日本の軍歌・軍国歌謡はなぜか哀調を帯びているのが多い・この歌も聴くと涙がでてくる。

 

387 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/11(Wed) 21:34
「詩人 西條八十」

h ttp://hac.cside.com/afcw/culture/96/kiyamado.htm
西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。
父十兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子になりました。・・
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。
八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。
喉頭ガンをわずらっていました。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。

「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員 西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知の皆様に御通知申し上げます。




西條八十作品

詩人、フランス文学者。日本の大衆歌謡史の中で欠かすことのできない作詞家でもある。
 東京・牛込の生まれ。早稲田中学に学び、同校で生涯の師となる吉江喬松(よしえたかまつ)と出会った。
吉江は農民文芸論の提唱者としても知られるフランス文学者で、早稲田大学文学部に仏文科を設けた人物。


h ttp://www.d-score.com/ar/A04061301.html



388 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/13(Fri) 07:49
>>379

我が家の唄  (国民歌謡・陸海軍礼式歌)

作詞 西條八十
作曲 山田耕作
歌  松原操


朝となれば群雀(むらすずめ)
軒端に吾児を呼ばうなり
起きよ起きよと呼ばうなり
炊の煙かそけくも
児等は手足の太やかに
三坪の庭にいじらしく
カンナの花も咲き出でぬ
楽し楽しああ我が家

夕べとなれば靴の音
優しく夫は帰るなり
襷外して迎うなり
ほれ土産ぞと投げ給う
空には白し天の川
笑まう我等の肩越えて歌唱嬉し嬉しああ我が家


松原操(ミス・コロムビア)のすばらしい歌唱。
昭和12年3月、国民歌謡。陸海軍礼式歌 コロムビア


ミス・コロムビア(松原操)は、クラシックをレコーディングする時は本名の松原操を使っていた。

ミス・コロンビア(松原 操)、彼女は昭和6年に東京音楽学校を卒業し、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。
彼女の歌を聴いていると、かつて存在したが今はもう失われた日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑といった要素をその歌唱の中に昇華し結晶化しているように思われる。
西洋音楽の歌唱において日本らしさ、日本的スタイルがここに確立しているとみることができる。
そして彼女以後、これ程、日本的な良さを感じさせる歌手は出なかった。



389 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/13(Fri) 08:01
流浪の民Zigeunerleben (Schumann)  日本発売:昭和11年1936)1月
石倉小三郎作詩、奥山貞吉編曲 独唱:関種子、松原操、内本実、青山薫 コロムビア合唱団、コロムビア・オーケストラ COL28642


流浪の民 Zigeunerleben (Schumann) - 井崎嘉代子, 四家文子, 藤山一郎, 徳山l (1933)




390 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/13(Fri) 08:11
この道 藤原義江 北原白秋 山田耕筰 0311 COL35005 @ 青盤51
この道パーシー・W・ブカナン  北原白秋 山田耕筰 0511 COL26015 黒番716
この道 宮川美子 北原白秋 山田耕筰 0611 COL35215 @ 青盤1636329
この道 柴田秀子 北原白秋 山田耕筰 0902 COL35410 @ 青盤5932
この道 内本 実 北原白秋 山田耕作 0904 COL35423 @ 青盤5936330
この道 奥田良三 北原白秋 山田耕筰 1002 POL2140 @ 黒盤7810
この道 松原 操 北原白秋 山田耕筰 1407 COL30253 @ 黒盤14715
この道 藤山一郎 北原白秋 山田耕筰 1612 COL100305 @ 赤盤(スダレ)17505


赤とんぼ 林田文雄 三木露風 山田耕筰 0603 HIK70441 1753
赤とんぼ 原 信子 三木露風 山田耕筰 0911 COL35448@ 青盤5961
赤とんぼ 松原 操 三木露風 山田耕筰 1312 COL29981@ 黒盤13241
赤とんぼ 二葉あき子三木露風 山田耕筰 1612 COL100306@赤(スダレ)17506
329



391 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/13(Fri) 21:23
「SP盤復刻による懐かしのメロディ  並木の雨 ミス・コロムビア (松原操) 」  
 コロムビア CORR-10723
 2011年09月22日発売

1. 浮草の唄 00:03:21
2. 桃の花咲く MAUI CHIMES 00:02:53
3. 十九の春 00:03:24
4. 秋の銀座 00:03:31
5. 並木の雨 00:03:03
6. 月のキャムプ
7. ジョスランの子守唄 00:02:56
8. 真白き富士の根 00:03:27
9. 乙女鳥 00:03:19
10.幌馬車の唄 00:02:53
11.我が家の唄 00:03:35
12.悲しき子守唄 00:03:29
13.兵隊さんよありがとう 00:03:04
14.一杯のコーヒーから 00:02:55
15.朝月夕月 00:03:04
16.今年の燕 00:03:01
17.故郷の白百合 00:03:09
18.三百六十五夜 00:03:24

図書館等で






392 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/15(Sun) 08:36
>>382

テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。



393 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/15(Sun) 21:06
古賀メロディ 聴き比べ17:三百六十五夜
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/752cc96327d550c1947400216ada267e

394 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/16(Mon) 10:31
私のメモ帳・・・作曲家・古賀政男

h ttps://blog.goo.ne.jp/utaski1930/e/7bd753198c8ed63170acf84f11b45741


395 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/17(Tue) 22:00
『検事とその妹』 惹句より


「検事とその妹」(1937年1月)は原節子の出世作「新しき土」(1937年2月)の直前の公開作品。宣伝チラシを入手した所、惹句には「新しき土により世界の舞台へ登場する節子。これは至純明眸可憐無比 原節子第一線への躍進篇」とあります。思いっきり原節子の話題性に飛びついた感がありますが狙いどおり、主題歌 「人生の並木路」とともにヒット作となります。



新しき土  

ストーリーは泉鏡花の「滝の白糸」のバリエーションで、検事を目指し学業を続けた兄を助けるために苦労した妹の結婚が決まるが、なんとその結婚相手が犯罪に関わっており、検事の兄が拘引する、、というもの。

惹句には「熾烈を謳われる検事の兄が裁きの庭に見出したものはなんだったのだろう? 幼少より苦楽をともにし、誰よりも愛している妹の幸福を約束する若者であろうとは! 検事の胸に絶え間なく吹きつける嵐の音よ!」と煽りたてます。それで「♪泣くな妹よ 妹よ泣くな〜」なんですね。それでも最後は「♪生きて行こうよ希望に燃えて 愛の口笛高らかに この人生の並木路」と妹は兄を許し、婚約者を待ちます。戦前の日本ってこういう苦労もの、お涙頂戴ものが好きだったんでしょうか。。でも是非、見てみたいですね。フィルムが現存するという話は聞いた事がありませんが、、。

****

■「検事とその妹」は1956年に丹波哲郎と日比野恵子主演で再映画化されており、あらすじ等の詳細は下記を参照ください。<h ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24817/>

■ちあきなおみが「緑の地平線」を歌った映像があります。
曲紹介では岡譲二、小杉勇、星玲子出演と紹介されていますが、せっかくだから原節子の星玲子と写ったスチール写真も使って欲しかった、、。(スチール写真は22点現存)

<h ttp://www.youtube.com/watch?v=AL1lixFc1C8>



「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937.1.14)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

396 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/17(Tue) 23:46
■「ビクター専属・西條八十」のコロムビア作品(昭和8年1933) ■

(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロムビア専属とした。西條八十と古賀政男の専属を超えた提携)。 [去りゆく影]は、 西條八十・古賀政男黄金コンビ最初の作品
なおこの時、ミス・コロムビアは「浮草の歌」(1933.3)でデビュー、古賀政男の最初のミス・コロムビア作品は「「お蝶夫人」の唄」(同)。

去りゆく影     (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子     1933.1 (*)
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎   1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲 関種子   1933.2
強くなってね    (西條八十作詩、古賀政男作曲 渡辺光子   1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄 (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミス・コロムヒア   1933.3
椿姫の唄   (西條八十作詩、江口夜詩作曲)淡谷のり子 1933.3
浮草の唄  (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミス・コロムヒア 1933.3
サーカスの唄   (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲 淡谷のり子 1933.5
須磨行進曲(新民謡 (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴 1933.6
十九の春   (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミス・コロムヒア  1933.6
気まぐれ涙  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミス・コロムヒア 1933.9
はてなき旅  (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃    1933.10


397 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/20(Fri) 21:26
『女の階級』

作詞:島田磬也
作曲:古賀政男

1.

君に捧げた 純情(まごころ)の

愛が女の 生命なら

弱い涙は 今日限り

捨てて荊刺の 径を行く

2.

心砕けど 侭ならぬ

つらい浮き世の 小夜嵐

愛の船路を 祈る毎

星も瞬く この夕べ

3.

想い乱れて 咲く花は

女心か 月草よ

涙誘うな 秋風に

散るは彼の日の 夢ばかり

4.

君を信濃の 高原に

涙隠して 見送れば

靡く煙も 一筋に

燃えて火を噴く 浅間山




昔の歌手は、男性も女性もすんなりと歌ってる感じが良くてどれも心に入ってくるのです。
今のと言ったら叱られるかもしれないけど、上手い人が更に上手く歌おうとすればくどくなるし、さりとて、力の無い人がそれ以上に歌おうとすれば歌がこわれるしね。
なので私は最近、昔の歌はどれも無条件で聴くようになりました。蓄音機からは特に魅せられます。




398 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/22(Sun) 22:40
詩人・西條八十・・「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「銀座の柳」「お菓子と娘」「愛染かつら」「誰か故郷を想わざる」「春よいずこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」「青い山脈」「王将」などの歌謡、
「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・・、日本人なら誰でも一度は聞いたことがある、そのやさしい歌は、日本人の心の中に深く根ざすもので、これからも歌い継がれるにちがいありません。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっ
かけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。西條八十の歌をいくつしってますか。


399 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 19:02
春よいづこ

作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌:藤山一郎、二葉あき子
昭和15年(1940)

(一)
おもいでは おもいでは
青い背広の 涙ににじむ 紅のあと
ああ 想い切ない 幻の
春はいずこぞ 雨が降る

(二)
あきらめて あきらめて
泣いて乙女が たどるは愛の 別れみち
ああ 小鳥啼け啼け わがこころ
春はいずこぞ 雨が降る

(三)
呼んだとて 呼んだとて
風はつめたい 涙をさそう 別れ風
ああ 夢は返らぬ 青草の
春はいずこぞ 雨が降る


古賀政男の映画主題歌の傑作「なつかしの歌声」(藤山一郎/二葉あき子・歌唱)と、「春よいづこ」(藤山一郎/二葉あき子・歌唱)。昭和15年東宝映画(渡辺邦男監督)「春よいづこ」の挿入歌と主題歌で、藤山一郎も出演し歌唱は勿論、ピアノ、ヴァイオリン、トランペット、指揮と多彩な音楽家として実力を披露しました。また、藤山一郎、二葉あき子、この東京音楽学校出身の二人が共演、他に徳川無声など。
この歌は、昭和14年に「あの夢この夢」でデビューした後の、二葉あき子の大ヒット曲で、彼女の戦後に亘る地位を築きました。






400 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 19:33
「なつかしの歌声」は、戦前昭和歌謡の名曲の一つではなかろうかと思います。
先ず、古賀メロディによる長い前奏が素晴らしく、聴き手は期待感を膨らませて、歌の世界の入口へと誘われます。そして、西條八十さんによる歌詞と合体して、詩情溢れる歌の世界が始まります。
勿論、歌全体が好きですが、殊更、各番の出だし部分(歌詞1番では、♪銀座の街 きょうも暮れて♪)が、心に響きます。
ついでながら、古賀メロディによる長い素晴らしい前奏の、他の例として、「丘を越えて」(S6)を思い起こします。


401 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 19:37
西条八十と関東大震災

 その話のなかで「西條八十が関東大震災に遭遇して上野の山に避難したおり、少年の吹くハ−モニカを聞いたその時の感激が、歌謡作詩家になっていった」という話に、とくに興味をそそられた。そこでその出典となった本や西條八十の経歴を調べてみた。
西條八十に関する資料をみると「フランス象徴派の影響を受けた近代詩人、童謡詩人、歌謡作詩家の三つの顔を持つ」と書かれている。

 歌謡作詞家の顔を出すきっかけは、中央公論社、昭和50年4月10日発行の西條嫩子著「父 西條八十」のなかに書かれている。

 「大正12年、母がお産で入院中、大震災がおきた。私はまだ、四歳で、妹の慧子と盲目の祖母をかかえるようにして、琴という名の保母兼家政婦が中庭につれだすと同時に、目の前の物置が大震動で瞬時にくずれてめちゃめちゃになってしまった。
すぐに父が駈けもどってきた。近くの髪床屋に行っていたのでエプロン姿のまま、落ちてきた屋根瓦にひたいを割られ血だらけであった。私共の無事な姿を見た時の父の顔を忘れることができない。家は壁が落ちた位だったのでひといきつくと父は双児を死産したばかりの母を案じて池袋の高橋病院へでかけていった。

 余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。
ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

 その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。それは思いがけぬ美しく優しい音であった。激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。この時の得もいわれぬ深い感銘が父をして歌う唄、大衆への歌、レコ−ドへ向かう機縁となったようである」と、「父西条八十は私の白鳥だった(集英社文庫)」などの著作の八十の娘さんが書いている。



402 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 19:54
西条八十と船頭小唄

 この話を聞いたのは、阪神大震災のあった年、平成7年の5月頃だった。その年の暮れの日曜日、車の中でNHKラジオから野口雨情を話題にした童謡漫談を聞いた。その中で西條八十が遭遇した関東大震災とハ−モニカの話が出てきた。

 内容は上記とほぼ同じだったが、その時少年が吹いた曲は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」だったという。それを漫談風にしゃべっていたところでは、八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。

 ちなみに、ハ−モニカが初めて日本に伝えられたのは明治中ごろらしい。当初はドイツ製が優勢だった。その輸入が第一次世界大戦で止まっていた間の大正5、6年に国産品が相次いで現れ、急激な普及の糸口になった。(世界大百科事典・平凡社)

 この「船頭小唄」は大正10年に発表され、その前年からの恐慌で民衆の生活が窮迫化し、それまでの楽天的な曲調が影をひそめていった時代である。関東大震災が起こった大正12年当時には、庶民のあいだで歌われていたのだろう。

   船頭小唄 
         野口雨情作詞、中山晋平作曲
   おれは河原の 枯れすすき
   同じお前も 枯れすすき
   どうせ二人は この世では
   花の咲かない 枯れすすき

 と、日本人特有の哀調を極度にゆりうごかしたこの歌は、空前の大ヒットとなったと歌謡史に書かれている。


403 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 20:20
フランス留学後発表した東京行進曲

  「関東大震災の翌年の早春、愛児慧子への深い傷心をいだきながら、父は早大の留学生として渡仏することになった」と、上記「父 西條八十」の次の章に書いている。
 昭和2年フランスから帰国したときにすっかり復興した東京の姿を見て作ったのが「当世銀座節」だった。西條が雑誌に発表した詩に中山晋平が作曲し、佐藤千夜子がレコ−ドに吹き込んだが、あまり流行らなかった。

 昭和4年に発表した「東京行進曲」は、同名の映画主題歌として日活が八十に依頼したもので、関東大震災後の復興で面目を一新した東京の風物を軽快な曲で描いて25万枚売れたという。




「東京行進曲」大ヒット


 「生まれてはじめて、当てようとして思い切り調子をおろして書いたものだけにこの『東京行進曲』の成功、不成功は私の重大な関心事だった」と自叙伝に書いている。

 この『東京行進曲』の大成功によって、ビクタ−専属の作詞家となって歌謡作詞家としての顔が見ることができる。
 
     東京行進曲
             西條八十作詞、中山晋平作曲
   昔恋しい銀座の柳
   婀娜(あだ)な年増を誰が知ろ
   ジャズで踊って リキュ−ルで更けて
   明けりゃダンサ−の涙雨




東京音頭大流行(西條八十作詞・中山晋平作曲)


404 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 21:55
なつかしの歌声

作詞:西條八十、
作曲:古賀政男、
歌 :藤山一郎・二葉あき子
昭和15年(1940)


一.
 銀座の街 きょうも暮れて
 赤き灯(ひ)燃ゆ 恋し東京
 恋し東京
 あの窓あの小道 やさしの柳
 あこがれは悲しき 乙女の涙
 風よ運べよ いとしの君へ

二.
 歎きの途(みち) ひとり行けば
 みどりの樹に 鳥はうたう
 鳥はうたう
 やさしく寄り添いし 姿よいずこ
 おもい出の窓辺に わすれな草が
 風に泣いてる 昨日も今日も

三.
 夕焼け空 君とながめ
 うたいし歌 たのしメロディー
 たのしメロディー
 うたえば涙ぐみ こころはむせぶ
 落葉ちる朝(あした)に 雪ふる宵に
 呼ぶよこの歌 返らぬ涙


90年前の昭和15年(1940)2月21日公開の東宝映画『春よいづこ』(渡辺邦男監督)の主題歌として作られ、同年4月にコロムビアからレコードのA面として発売されました。
B面は『春よいづこ』で、『なつかしの歌声』のほうが広く愛唱されました。

405 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 23:15
一口に詩人と呼んでいるが、彼ほど多彩な顔を持つ詩人はいない。『かなりや』などの童謡詩人。『砂金』『巴里小曲集』など、フランス象徴詩の影響が濃い純粋詩人。そして『東京行進曲』に始まる流行歌の作詞家。歌謡を含めて、作った歌も他を圧して巨大で、中山晋平に続き、JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟会長・・などを務めてもいる。又、童謡協会の童謡作詞賞にも今でも彼の名を冠した賞がある。

さらに、八十は、詩人・歌謡曲作詞家という顔と、もうひとつ忘れてならないのが、仏文学者・芸術院会員・早稲田大学教授としての顔。大正13年、ソルボンヌ大学留学帰国後、早大仏文科教授になった。アルチュール・ランボーの研究でも有名。「西條八十全集」(国書刊行会刊1991)という本は、16巻まである大作である。

明治25年に東京牛込(新宿)に生まれた八十の生家は石鹸製造業を営んで隆盛であったが、中学3年生の時に父が亡くなり、一家は没落してしまう。八十は早稲田中学校卒業後、同大学英文科を主席で卒業した。鈴木三重吉の主唱する童謡運動に参加し、大正7年27歳で「赤い鳥」に「カナリヤ」を発表して一躍有名になった。翌大正8年処女詩集「砂金」を発表して、たちまち象徴派詩人としての名声を高めたとされる。こうして、丁度「金の船」(大正8年)で野口雨情の才能が一気に花を開くように、「唄をわすれたカナリヤ・・八十」は、一気に花開く。(ついでに、日本でも30数万人が死んだという「スペイン風邪」のウイルスは、鳥のウイルス由来だったことが米ハーバード大などの研究で分かったそうですが、丁度この頃大流行したという。)


406 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/24(Tue) 00:00
>>399
>>404

今から80年前の昭和15年(1940年)3月、コロムビアレコード(株式会社日本蓄音器商会、現・日本コロムビア)から「なつかしの歌声」が発売された。カップリング曲は「春よいずこ」で、レコード発売直前の同年2月21日には東宝から映画『春よいづこ』が公開された。

「なつかしの歌声」
作詞:西條八十 / 作曲:古賀政男 / 歌:藤山一郎、二葉あき子

「春よいずこ」
作詞:西條八十 / 作曲:古賀政男 / 歌:藤山一郎、二葉あき子

407 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/24(Tue) 18:49
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。


408 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/24(Tue) 19:19
主な歌

歌謡曲の数々 恐ろしい数がある。  ←これで検索のこと

409 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/24(Tue) 20:22
『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』 
テイチクTECE 24459,25460

<上>
 国境を越えて  (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・古賀政男テイチク第一作(昭和9年7月) 
 影を慕いて   (古賀政男)   楠木繁夫・・・(編集したような作曲)
 スキーの唄   (島田芳文)   楠木繁夫
 白い椿の唄   (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値する。
                    菊池寛原作「貞操問答」映画化主題歌
 ハイキングの唄 (島田芳文)    楠木繁夫
 望郷の唄    (島田欣也)   デイックミネ
 のぞかれた花嫁 (玉川映二/サトウハチロー)   杉狂児
 二人は若い   (玉川映二/サトウハチロー)  デイックミネ・星玲子
 波止場がらす  (佐藤惣之助)  デイックミネ
 男のまごころ  (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 夕べ仄かに   (島田芳文)   デイックミネ
 緑の地平線   (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 ゆかりの唄   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 白衣の佳人   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 啄木の歌    (島田欣也)   楠木繁夫
 春まだ浅く   (石川啄木)   有島通男
 東京ラプソデイー(門田ゆたか)   藤山一郎
 東京娘     (佐藤惣之助)  藤山一郎
 慈悲心鳥    (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 さらば青春   (佐藤惣之助)  藤山一郎
              

<下>
男の純情    (佐藤惣之助)  藤山一郎
愛の小窓    (佐藤惣之助)  デイックミネ
女の階級    (村瀬まゆみ)  楠木繁夫
回想譜     (今城靖児)   藤山一郎
青春の謝肉祭(カーニバル )(島田欣也) 藤山一郎
南国の乙女   (水島洋)    奥田英子
あゝそれなのに (星野貞志/サトウハチロー)    美ち奴
うちの女房にゃ髭がある (星野貞志/サトウハチロー) 杉狂児、美ち奴
聖処女の唄      (佐藤惣之助)   藤山一郎
人生の並木路     (佐藤惣之助)  デイックミネ・・・・(オリジナルレコード)
青い背広で      (佐藤惣之助)  藤山一郎
青春日記       (佐藤惣之助)  藤山一郎
緑の月        (佐藤惣之助)  奥田英子 
のばせばのびる    (江川真夫)   楠木繁夫
真実一路の唄     (佐藤惣之助)   楠木繁夫
軍国の母       (島田欣也)   美ち奴
黒いパイプ      (倉仲住人)・・  由利あけみ・・三浦環と「蝶々夫人」にも出演。
白虎隊        (島田欣也)   藤山一郎
人生劇場       (佐藤惣之助)  楠木繁夫
弥次喜多道中記    (古賀政男)    楠木繁夫



410 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/25(Wed) 13:12
戦前の流行歌

塩尻精八
1928 道頓堀行進曲 詞:日比繁次郎 歌:筑波久仁子、内海一郎、海原千里・万里(1977)
1931 女給の唄   詞:西條八十  歌:羽衣歌子(前半)、二三吉(後半)

梁田貞 [やなだ ただし] (1885〜1959)
1932 城ヶ島の雨  詞:北原白秋 歌:奥田良三 [1913(T2)の作]

佐々紅華 (1886〜1961)
1929 君恋し    詞:時雨音羽 歌:二村定一、佐藤千夜子、フランク永井(1961)
1929 浪花小唄   詞:時雨音羽 歌:二村定一(前半)、二三吉(後半)、古都清乃(1969)
1930 祇園小唄   詞:長田幹彦 歌:二三吉

中山晋平 (1887〜1952)
1928 出船の港   詞:時雨音羽 歌:藤原義江、佐藤千夜子
1928 波浮の港   詞:野口雨情 歌:佐藤千夜子、藤原義江
1928 旅人の唄   詞:野口雨情 歌:佐藤千夜子 [1923(T12)の作]
1928 当世銀座節  詞:西條八十 歌:佐藤千夜子
1929 東京行進曲  詞:西條八十 歌:佐藤千夜子
1929 紅屋の娘   詞:野口雨情 歌:佐藤千夜子
1929 愛して頂戴  詞:西條八十 歌:佐藤千夜子
1932 銀座の柳   詞:西條八十 歌:四家文子
1933 東京音頭   詞:西條八十 歌:小唄勝太郎・三島一声
1933 天竜下れば  詞:長田幹彦 歌:市丸

奥山貞吉 (1887〜1956)
1929 沓掛小唄    詞:長谷川伸 歌:川崎豊・曽我直子
1940 お島千太郎旅唄 詞:西條八十 歌:伊藤久男・二葉あき子

杉山長谷夫 (1889〜1952)
1928 出船     詞:勝田香月 歌:藤原義江

松平信博 (1893〜1949) [別名:林純平]
1931 侍ニッポン  詞:西條八十 歌:徳山l
1932 夜の酒場に  詞:西條八十 歌:徳山l

大村能章 (1893〜1962)
1935 旅笠道中  詞:藤田まさと 歌:東海林太郎
1935 野崎小唄  詞:今中楓渓  歌:東海林太郎
1935 明治一代女 詞:藤田まさと 歌:喜代三

鈴木静一(1901〜1980)
1937 タバコやの娘      詞:薗ひさし 歌:岸井明・平井英子
1943 お使いは自転車に乗って 詞:上山雅輔 歌:轟夕起子

仁木他喜雄 (1901〜1958)
1941 蘇州の夜  詞:西條八十 歌:李香蘭
1942 高原の月  詞:西條八十 歌:霧島昇・二葉あき子

阿部武雄 (1902〜1968)
1935 むらさき小唄 詞:佐藤惣之助 歌:東海林太郎
1937 妻恋道中   詞:藤田まさと 歌:上原敏
1937 流転     詞:藤田まさと 歌:上原敏
1937 裏町人生   詞:島田馨也  歌:上原敏・結城道子
1938 鴛鴦道中   詞:藤田まさと 歌:上原敏・青葉笙子

江口夜詩 (1903〜1978)
1932 忘れられぬ花 詞:西岡水朗  歌:池上利夫(松平晃)
1933 十九の春   詞:西條八十  歌:松原操
1934 急げ幌馬車  詞:島田芳文  歌:松平晃
1935 夕日は落ちて 詞:久保田宵二 歌:松平晃・豆千代

細田義勝 (1904〜1966)
1936 忘れちゃいやヨ  詞:最上洋  歌:渡辺はま子

早乙女光 (1904〜1944)
1939 古き花園    詞:サトウハチロー 歌:二葉あき子
1943 湖畔の乙女   詞:西條八十    歌:菊池章子

長津義司 (1904〜1986)
1939 大利根月夜 詞:藤田まさと 歌:田端義夫
1941 十三夜   詞:石松秋二  歌:小笠原美都子、榎本美佐江(1965)

橋本國彦 (1904〜1949)
1928 お菓子と娘    詞:西條八十 歌:奥田良三(1929)、荻野綾子(1931)



411 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/25(Wed) 13:22
古賀政男 (1904〜1978)
1931 影を慕いて     詞:古賀政男  歌:佐藤千夜子、藤山一郎(1932)
1931 酒は涙か溜息か   詞:高橋掬太郎 歌:藤山一郎
1931 私此頃憂鬱よ    詞:高橋掬太郎 歌:淡谷のり子
1931 丘を越えて     詞:島田芳文  歌:藤山一郎、矢野顕子(1976)
1933 サーカスの唄    詞:西條八十  歌:松平晃
1933 緑の地平線     詞:佐藤惣之助 歌:楠木繁夫
1935 二人は若い     詞:玉川映二  歌:ディック・ミネ・星玲子
1936 東京ラプソディ   詞:門田ゆたか 歌:藤山一郎
1936 男の純情      詞:佐藤惣之助 歌:藤山一郎
1936 女の階級      詞:佐藤惣之助 歌:楠木繁夫
1936 ああそれなのに   詞:星野貞志  歌:美ち奴
1937 青い背広で     詞:佐藤惣之助 歌:藤山一郎
1937 人生の並木路    詞:佐藤惣之助 歌:ディック・ミネ
1937 青春日記      詞:佐藤惣之助 歌:藤山一郎
1937 白虎隊       詞:島田磬也  歌:藤山一郎、霧島昇(1952)
1938 人生劇場      詞:佐藤惣之助 歌:楠木繁夫、村田英雄(1959)
1940 誰か故郷を想わざる 詞:西條八十  歌:霧島昇
1940 なつかしの歌声   詞:西條八十  歌:藤山一郎・二葉あき子
1940 新妻鏡       詞:佐藤惣之助 歌:霧島昇・二葉あき子、島倉千代子(1965)
1940 目ン無い千鳥    詞:サトウハチロー 歌:霧島昇、島倉千代子(1965)

万城目正 (1905〜1968)
1938 旅の夜風  詞:西條八十 歌:霧島昇・松原操、高石かつ枝・藤原良(1962)
1939 純情二重奏 詞:西條八十 歌:高峰三枝子
1939 純情の丘  詞;西條八十 歌:二葉あき子、高石かつ枝(1963)

原野為二 (1905〜1943) [別名:池上敏夫、池田不二男]
1932 幌馬車の唄 詞:山田としを 歌:和田春子
1934 並木の雨  詞:高橋掬太郎 歌:松原操、井上ひろし(1961)
1935 雨に咲く花 詞:高橋掬太郎 歌:関種子、井上ひろし(1960)
1936 花言葉の唄 詞:西條八十  歌:松平晃・伏見信子、松平晃(愛のささやき,1937)

山田栄一 (1906〜1995)
1937 すみだ川  詞:佐藤惣之助 歌:東海林太郎(台詞:田中絹代)、島倉千代子(1969)



412 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/25(Wed) 13:27
竹岡信幸 (1907〜1985)
1934 赤城の子守唄 詞:佐藤惣之助 歌:東海林太郎
1938 悲しき子守唄 詞:西條八十  歌:松原操
1938 支那の夜   詞:西條八十  歌:渡辺はま子

菊池博
1939 名月赤城山  詞:矢島寵児  歌:東海林太郎
1941 琵琶湖哀歌  詞:奥野椰子夫 歌:東海林太郎・小笠原美都子

佐々木俊一 (1907〜1957)
1932 涙の渡り鳥   詞:西條八十 歌:小林千代子
1933 島の娘     詞:長田幹彦 歌:小唄勝太郎
1935 無情の夢    詞:佐伯孝夫 歌:児玉好雄、佐川満男(1961)
1939 長崎物語    詞:梅木三郎 歌:由利あけみ
1940 燦めく星座   詞:佐伯孝夫 歌:灰田勝彦
1942 新雪      詞:佐伯孝夫 歌:灰田勝彦
1942 明日はお立ちか 詞:佐伯孝夫 歌:小唄勝太郎、三沢あけみ(1964)

服部良一 (1907〜1993)
1936 別れのブルース   詞:藤浦洸     歌:淡谷のり子
1937 雨のブルース    詞:野川香文    歌:淡谷のり子
1939 一杯のコーヒーから 詞:藤浦洸     歌:霧島昇・松原操
1940 いとしあの星    詞:サトウハチロー 歌:渡辺はま子
1940 小雨の丘      詞:サトウハチロー 歌:小夜福子
1940 湖畔の宿      詞:佐藤惣之助   歌:高峰三枝子
1940 蘇州夜曲      詞:西條八十    歌:渡辺はま子・霧島昇

大久保徳二郎 (1908〜1974)
1939 或る雨の午後  詞:島田磬也  歌:ディック・ミネ

田村しげる (1908〜1980)
1934 女の友情の唄  詞:吉屋信子  歌:松島詩子・山野美和子

灰田晴彦 (1909〜1986) [別名:灰田有紀彦]
1940 森の小径    詞:佐伯孝夫  歌:灰田勝彦
1942 鈴懸の径    詞:佐伯孝夫  歌:灰田勝彦

古関裕而 (1909〜1989)
1935 船頭可愛いや  詞:高橋掬太郎 歌:音丸

清水保雄 (1910〜1980)
1942 婦系図の歌   詞:佐伯孝夫  歌:藤原亮子・小畑実
1943 勘太郎月夜唄  詞:佐伯孝夫  歌:小畑実・藤原亮子

倉若晴生 (1912〜1982)
1939 島の船唄    詞:清水みのる 歌:田端義夫
1939 旅のつばくろ  詞:清水みのる 歌:小林千代子

細川潤一 (1913〜1991)
1937 マロニエの木陰 詞:坂口淳   歌:松島詩子

八洲秀章 (1915〜1985) [別名:鈴木義章]
1940 高原の旅愁   詞:関沢潤一郎 歌:伊藤久男


413 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/25(Wed) 22:31
玉川映二,星野貞志は、サトウハチロ―の別名。
詩人サトウハチロ―(佐藤八郎)は西条八十の弟子で,他に山野三郎、倉中佳人,倉中房雄など多くの別名を持つ。

414 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/26(Thu) 15:43
昭和7年(1932年)

あけみの唄
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ



「佳人よいずこへ」主題歌、歌人原阿佐緒作詞、関種子は東京音楽学校主席卒業、
初期の古賀メロディを支えた歌手。
もう一つの「佳人よいずこへ」は淡谷のり子歌。





☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。

昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。

映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。
聴いてください。


原阿佐緒は、明治40年(1909年)、新詩社に入って与謝野晶子に師事、『スバル』に短歌を発表。『スバル』終刊後は『アララギ』に移り、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と見なされるようになる。
アララギ派の女流歌人、美貌の持ち主であり若くからさまざまな恋愛問題を引き起こしてきた。
昭和7年( 1932年)、直木三十五の紹介で「大衆文芸映画社」に入社、阿佐緒が原作を書き女優として主演したサイレント映画『佳人よ何処へ』(監督福西譲治)が製作され、同年6月1日に新興キネマが配給して公開された[2]。

同作の公開に先行し、阿佐緒が作詞し古賀政男が作曲・編曲、淡谷のり子が歌った同名の主題歌「佳人よ何処へ」、および美貌のソプラノ歌手関種子が歌った『あけみの唄』を、日本コロムビアが同年5月に発売している。



・原阿佐緒歌集
涙痕 歌集 東雲堂 1913
白木槿 歌集 東雲堂書店 1916
うす雲 歌集 不二書房 1928
原阿佐緒抒情歌集 平凡社 1929
原阿佐緒全歌集 小野勝美編 至芸出版社 1978.6
死をみつめて 歌集 短歌新聞社 1995.9 (短歌新聞社文庫)
原阿佐緒自伝・黒い絵具 西田耕三編・制作 耕風社 1997.8 (みやぎ文学館ライブラリー)



・原阿佐緒作品
『恋人形の唄』: 作曲・編曲堀田公明、歌唱淡谷のり子、ポリドール、1931年3月
『浪花小唄』: 作曲山野芳作、編曲奥山貞吉、歌唱かね本幾松、タイヘイ、1933年12月
『あけみの唄』: 作曲・編曲古賀政男、歌唱関種子、コロムビア、1932年5月
『佳人よ何処へ』作曲・編曲古賀政男、歌唱淡谷のり子、コロムビア、1932年5月
『山の娘』: 作曲・編曲・演奏高倉彰、歌唱三浦環、コロムビア、1940年7月


『原阿佐緒の生涯 その恋と歌』、小野勝美、古川叢書、古川書房、1974年




415 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/26(Thu) 18:49
昔は、昭和の初めごろは、大方、詩人が詩を作り、作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。

古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)の首席であった。

今こうした本格的な歌手・声楽家が歌った歌を歌えるものがいない状況。

416 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/26(Thu) 18:57
歌は「童謡」の中に入ったとき、[愛唱歌]になると思うが、「影を慕いて」は、今や「古賀メロデー」を越えて,童謡その他の愛唱歌と渾然一体になって、[日本の愛唱歌][日本の名曲]「人生の主題歌」になっているのではないでしょうか。


寺山修司編「日本童謡集」(光文社1972)という本がある。その前書きには、『優れた「童謡」というものは、長い人生に二度あらわれる、一度目は子供時代の歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。』・・と。そして、『映画に主題歌があるように、人の一生にもそれぞれ主題歌があるのではないだろうか。そして、それを思い出して唄ってみるときに、人はいつでも原点に立ち戻り、人生のやり直しがきくようなカタルシスを味わうのではないだろうか。』・・として、広い分野の歌を集めてあるのが特徴。『赤い靴』『青い眼の人形』から 、古賀メロデー『影を慕いて』『人生の並木路』・・など優れた童謡としてあげられている。

417 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/27(Fri) 21:19
八十と惣之助

  大正期の詩人として、西条八十(1892ー1968)と佐藤惣之助(1890ー1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあ らず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家とし て名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。


418 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/29(Sun) 17:45
「浮き草の唄」「十九の春」「気まぐれ涙」「秋の銀座」「並木の雨」「河原ススキ」「ヒュッテの一夜」「月のキャンプ」「峠の雨」「真白き富士の根」「乙女鳥」「「そんなのないわ」「旅の夜風」「悲しき子守唄」「母の歌」「一杯のコーヒーから」「港の歌」「愛染夜曲」「朝月夕月」「乙女七人」「日本よい国」「愛染草紙」「荒野の夜風」「新妻模様」「目ン無い千鳥」「楊柳芽をふく頃」「大空に祈る」「三百六十五夜」 コロンビアAL・5070〜1

ミス・コロンビア・松原 操の歌謡曲のSP録音を復刻したセットである。彼女は昭和6年に東京音楽学校を卒業し、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。
彼女の歌を聴いていると、かつて存在したが今はもう失われた日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑といった要素をその歌唱の中に昇華し結晶化しているように思われる。大げさな言い方になるかもしれないが、西洋音楽の歌唱において日本らしさ、日本的スタイルがここに確立しているとみることができる。そして彼女以後、これ程、日本的な良さを感じさせる歌手は出なかった。その意味でまことに貴重な記録がここにあるといえよう。
また、彼女のノンヴィヴラートの発声を聴いていると、ヴィヴィラートというのは、あってもいい場合もあるという程度に理解すべきことが痛感される。中世ルネッサンスの宗教曲等でヴィヴラートがあると困る場合はあっても、逆にヴィヴラートがなくてはならないという曲はないのではないかということである。

419 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 23:18
月の浜辺    

作詞:島田 芳文 作曲:古賀 政男
唄:河原 喜久惠
昭和6年(1931)

1.月影白き 波の上
  ただひとり聞く 調べ告げよ千鳥
  姿いずこ かの人
  ああ なやましの夏の夜
  こころなの 別れ

2.月 はやかげり 風立ちぬ
  われすすり泣く 浜辺語れ風よ
  姿いずこ かの人
  ああ 狂(くる)おしの夏の夜
  永久(とこしえ)の 別れ

3.月 永遠(とわ)に落ち 波立ちぬ
  胸あやしくも 乱る返れ心
  姿いずこ かの人
  ああ さびしやの夏の夜
  一人泣く 浜辺

島田芳文:作詞、古賀正男:作曲。昭和六年(1931),
古賀の好むジプシー短音階で作曲された。戦後もリバイバル発売され二代目コロムビア・ローズのステレオ盤でも聴くことができる。
この曲の、幻想的で誘うような官能的なメロディが好きです。でも、世間的にあまり知られた曲ではないですね。
89年も前の古い曲ですが、とてもいい曲です。コレ古賀さんの初期の作品だで、音はノイズが多いけどよく聴くと歌謡曲に収まらい格調の高さが見られる!詞も文語体ですね!。
河原喜久恵さんは上野の音楽学校、東京芸大出身、他にザッツ.オッケーなど歌って居られる! 。








420 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 00:12
古賀政男初期のレコード

乙女心         鹿山鶯村 関種子    1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 同

月の浜辺    島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年6月 コロムビア 同
 h ttp://www.koga.or.jp/melody/year01.html

河原喜久恵(1902-?)
東京出身。昭和2年に東京音楽学校本科卒業、4年に研究科卒業。「ザッツ・オーケー」「月の浜辺」などでヒット。
聖心女学院や中央音楽学校の講師などもしていたが、7年5月に松竹蒲田入りし、女優業のかたわら声楽指導なども行った。
しかし芸能活動は9年頃に引退、16年にベース歌手の阿部英雄との10年にわたる結婚生活に区切りをつけ、その後は大陸へ渡り実業家に転身、23年に帰国した。
戦後は歌手時代の思い出は「強いて忘れたい」と芸能界とは縁を切り、市井の人として暮らした。
h ttp://www.geocities.jp/showahistory/music/singer03.html


421 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 19:57
新民謡「波浮の港」は1923年(大正12年)に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲 です。 レコードは1928年(昭和3年)5月に「佐藤千夜子」が日本ビクターから、2ヶ月後の7月に「藤原義江」が米国ビクターから発売しています。
日本における商業レコード第一号とされる。


波浮の港
【作詞】野口 雨情
【作曲】中山 晋平

磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は
ヤレホンニサ 凪るやら

船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火ぐらし
なじょな心で
ヤレホンニサ いるのやら

島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは 郵便だより
下田港とは
ヤレホンニサ 風だより

風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱
ヤレホンニサ 泣いて解く

422 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 14:58
赤とんぼ 松原操 歌/三木露風 作詞/山田耕筰 作曲編曲【レコード】昭和13年11月、コロムビア
YouTube · 213 回の視聴 · 2019/05/15
制作者 童謡・唱歌・流行歌

423 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 21:37
国民歌謡・日本よい国。

歌手は松原操さん。

作詞・作曲;中央教化団体連合会



一、日本よい国 東の空に

  昇る朝日は

  日の御旗 日の御旗

  大和ごころを一つに染めて

  いつもほのぼの夜があける



二、上は万代 桜は万朶

  繁り栄える

  たみくさは たみくさは

  国の内外満ちたる潮の

  西に東に展びていく



三、晴れて美し みどりの海に

  映す姿も

  雪の富士 雪の富士

  産業日本の矜持を積んで

  船は世界の海を往く



四、鍬を持つ手を劔にかへて

  いざといや起つ

  意気で起つ 意気で起つ

  大和男子のこころを見よと

  今日も桜の花が咲く花が咲く

他に関種子盤、戦後版に西六郷少年少女合唱団がある。

424 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 22:01
歌謡曲の数々 恐ろしい数がある。
h ttp://ahokamone.jugem.jp/?eid=897

425 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 12:02
緑の地平線

作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:楠木繁夫

1 なぜか忘れぬ人ゆえに
  涙かくして踊る夜は
  濡れし瞳にすすり泣く
  リラの花さえなつかしや

2 わざと気強くふりすてて
  無理に注がして飲む酒も
  霧の都の夜は更けて
  夢もはかなく散りて行く

3 山のけむりを慕いつつ
  いとし小鳩の声きけば
  遠き前途(ゆくて)にほのぼのと
  緑うれしや地平線


昭和10年(1935)に日活多摩川撮影所で制作された同名の映画の主題歌で、古賀メロディーの傑作の1つ。
 映画は3人の女性が紆余曲折の末、真の愛に目覚めるといったストーリーで、原節子、岡譲二などが出演しました。
子供の頃から知っている歌です。(言うまでもなく、生まれる前の、映画「緑の地平線」は観ておりません。)
最近、カラオケで、たまたま、見知らぬ人がこの歌を謳っているのに出合い、懐かしく感じました。
私自身、古賀メロディが心地よく、調子よく歌えることもあって、ときどき、この歌を口遊んでおります。
歌詞1番の、♪リラの花さえなつかしや♪の、懐かしく思い起こす、リラ(ライラック)が咲いていた地はどこだろうか?ライラック祭りの、北海道みたいですが、
浅間山を望む浅間高原。


426 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 12:23
東京ラプソディ

作詞:門田ゆたか
作曲:古賀政男
歌 :藤山一郎


1.花咲き花散る宵も
  銀座の柳の下で
  待つは君ひとり 君ひとり
  逢えば行く 喫茶店(ティールーム)
  楽し都 恋の都
  夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京

2.うつつに夢見る君の
  神田は想い出の街
  いまもこの胸に この胸に
  ニコライの 鐘も鳴る
  楽し都 恋の都
  夢の楽園よ 花の東京

3.明けても暮れてもうたう
  ジャズの浅草行けば
  恋の踊り子の 踊り子の
  黒子(ほくろ)さえ 忘られぬ
  楽し都 恋の都
  夢の楽園よ 花の東京

4.夜更けにひと時寄せて
  なまめく新宿駅の
  あの娘はダンサーか ダンサーか
  気にかかる あの指輪
  楽し都 恋の都
  夢の楽園よ 花の東京

5.花咲く都に住んで
  変わらぬ誓ひを交わす
  変わる東京の 屋根の下
  咲く花も 赤い薔薇
  楽し都 恋の都
  夢の楽園よ 花の東京




427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 12:30
人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。


428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 12:45
目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩   古賀政男作曲
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨


429 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 15:41
白 い 椿 の 唄
(作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )  (昭和10年) 
1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

呼べど返らぬ 面影は・・これは、古賀政男が母を亡くしたその思いと重なる。
この歌は菊池寛原作「貞操問答」主題歌、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にあたるようなうた。




430 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 15:51
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ

431 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 15:59
>>428

目ン無い千鳥(霧島昇・ミスコロムビア)
サトウハチロー作詞 、古賀政男作曲

これは、今からナツメロを聴いてみようかな、という人には絶対オススメの一曲。
あっ、でもリバイバルはだめです。オリジナルの霧島&ミスコロのデュエットで聴くからこその青春歌謡であって、大川栄策では、なんか歌謡曲というよりベタベタの演歌みたいで、私はどうも好きになれない。
「目ン無い千鳥」というのは、もともと子供の「目かくし鬼ごっこ」のことらしいですが、ここではそういう意味ではなく、「新妻鏡」という映画の主人公である、目の見えない妻という設定に関連づけられているのでしょう。
映画の設定はともかくとして、それと切り離して聴いても、この歌は素晴らしい青春回想記です。
    h ttp://www1.neweb.ne.jp/wa/mayu/mennai.html



やはり日本の歌いいですね、特に日本がまだ貧しかった時代の歌は。
今、日本は豊かになり飽食の時代と言われ久しくなりましたが、昭和20
年代頃まで、日本は今では考えられない貧しい時代、貧しいけど心豊か
な時代だったと思います。
 
日本の歌にも、いろいろな分野の歌がありますが、この頃の歌の底流
に共通していえること、それは心温まるやさしさではないでしょうか。
今の日本人が忘れかけようとしている、何か大切なものを思い起こさせ
てくれます。詩も、歌も、歌い手も・・この頃の歌を聞くとなぜか涙が
出てきます。しみじみと聞く、究極の癒しといえないでしょうか。

 h ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~Minerva/nipponnouta/nipponnouta_kokoronouta.html

432 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 16:18
「女の階級」 (日活『女の階級』主題歌)

作詩 村瀬まゆみ 作曲 古賀政男


1 君に捧げた まごころの 愛が女の 命なら
弱い涙は 今日かぎり 捨てていばらの 径(みち)を行く

2 心砕(くだ)けど ままならぬ 辛い浮世の 小夜嵐
愛の船路を 祈るごと 星もまたたく この夕べ

3 想い乱れて 咲く花は 女心か 月草よ 涙誘うな 秋風に
散るは彼の日の 夢ばかり


4 君を信濃の 高原に 涙かくして 見送れば
靡(なび)く煙りも 一すじに 燃えて火を吐く 浅間山

433 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 18:25
昭和11年(1936年) TEICHIKU 日活「女の階級」主題歌



作詞:村瀬まゆみ
作編曲:古賀政男
歌唱:楠木繁夫
伴奏:古賀政男オーケストラ


1.君に捧げた 純情の
愛が女の 生命なら
弱い涙は 今日限り
捨てて荊刺の 径を行く

2.心砕けど 侭ならぬ
つらい浮き世の 小夜嵐
愛の船路を 祈る毎
星も瞬く この夕べ

3.想い乱れて 咲く花は
女心か 月草よ
涙誘うな 秋風に
散るは彼の日の 夢ばかり

4.君を信濃の 高原に
涙隠して 見送れば
靡く煙も 一筋に
燃えて火を噴く 浅間山

434 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 18:41


「回想譜(加壽子のうたへる)」

・作詞 今城靖児 / 作曲 古賀政男 / 編曲 古賀政男 ・歌 藤山一郎 / 演奏 古賀政男オーケストラ ・


・「回想譜(加壽子のうたへる)」 (日活『女の階級』主題歌)(作詞 今城靖児 作曲 古 賀政男)

1 星みれば はろかに遠く 雲みれば つきせぬ想い 離れゆきし 君は問わねど 御宿(おんじゅく)の ああ 海の恋しさ

2 風ふけば 風もさびしや 虫なけば 虫もわびしや ただひとり ロッジにあれば たえがたく ああ 涙ながるる

3 朝(あした)には あしたの祈り 夕べには 夕べのねがい 嫁(とつ)ぎゆく 妹にのみ いまはただ ああ 幸(さち)を請うのみ

435 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/10(Sun) 20:16
名曲とは・・

名曲とは、何といっても、詩が一番大切でしょう。

詩の内容が、誰でも、簡単にできない詩、短くも、簡潔なな中に、詩が重厚で凄みがあり、内容が薄っぺらで、ありきたりで一般的で、ただ受けの良いだけの、幸せだけの、美辞麗句を並べただけのものでなくて、青春の苦悩を秘めた、軽いものでないもの。
やはり、「叱られて」とか「影を慕いて」のような歴史の重みを、歴史を凝縮したような曲、「青い山脈」みたいなものでない、すばらしい!!。

436 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 00:13
丘を越えて
 
 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
 歌唱:藤山一郎
 
 (一)
 丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

(二)
 丘を越えて行こうよ
 小春の空は麗らかに
 澄みて嬉しいこころ
 湧くは胸の泉よ
 讃えよわが青春を
 いざ聞け遠く希望の
 鐘は鳴るよ


   

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、89年前の昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後75年、昭和95年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。





437 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 00:25
影を慕いて
 
  
  佐藤千夜子 (昭和6年1月 ビクター)
  藤山一郎   (昭和7年3月 コロムビア)

 作詞:古賀政男
 作曲:古賀政男
 

 (一)
 まぼろしの
 影を慕いて 雨に日に
 月にやるせぬ 我が想い
 つつめば燃ゆる 胸の火に
 身は焦がれつつ 忍び泣く
 
 (二)
 わびしさよ
 せめて傷心(いたみ)の慰めに
 ギターをとりて 爪びけば
 どこまで時雨 ゆく秋ぞ
 トレモロ淋し 身は悲し

 (三)
 君故に
 永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
 永遠に春見ぬ 我がさだめ
 永ろうべきか 空蝉(うつせみ)の
 儚き影よ 我が恋よ

90年の歴史、青春の苦悩から始まった古賀メロディの歴史、昭和歌謡史に残る最高傑作であるとともに、あちこちのクラッシック演奏会で、「丘を越えて」とともに、よく
演奏され、歌われる日本のクラッシックで、「日本の名曲」である。

昭和が終わった平成元年に、NHKTVで「日本の名曲10曲」として、1年間、1週間ごとに繰り返し放送された。


438 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:04
誰か故郷を想わざる

作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌唱:霧島昇
昭和15年(1940)

(一)
花摘む野辺に 日は落ちて
みんなで肩を くみながら
唄をうたった 帰り道
幼馴染の あの友この友
ああ 誰か故郷を想わざる

(二)
ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
小川の岸で さみしさに
泣いた涙の なつかしさ
幼馴染の あの山この川
ああ 誰か故郷を想わざる

(三)
都に雨の 降る夜は
涙に胸も しめりがち
遠く呼ぶのは 誰の声
幼馴染の あの夢この夢
ああ 誰か故郷を想わざる


439 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:11
「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)昭和15年194(1940)

「新妻鏡」・・昭和15年、東宝映画『新妻鏡』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)は、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)も挿入歌。

 佐藤惣之助の歌には人生の苦悩を歌った歌が多いですが、人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

強くなろうよ強くなれ
母となる身は幼児(おさなご)の
愛の揺籠花の籠
なんで嵐にあてらりょう

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの人生を
熱い涙で 謳うおうよ

「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式には不向きかもしれぬが、一語一語味わいに満ちた詩で、「強くなろうよ 強くなれ母となる身は幼児(おさなご)の」
・・今の歌とは決定的に違います。まだ日本が貧しかった時代が生んだ、すごい、人生・青春の応援歌ではないでしょうか!。
この歌は、すごい重みのある歌といえ、男女・年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

三番は歌にはない
強くなろうよ強くなれ ・・
こうした重い歌詞が
簡潔な言葉が
さりげなくちりばめられている
名曲である

戦後、島倉千代子によって歌われた。



440 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:27
ゆかりの唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)

都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命

あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。

高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命



1935日活映画『緑の地平線』の挿入歌。いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。

「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。



441 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:31
夕べ仄かに

   作詞:島田芳文
   作曲:古賀政男
   歌唱:ディック・ミネ
   
    (一)
    夕べ仄かに 窓辺に立てば
    山のかなたの 空の色
    遠いあの日の 夢に似て
    かいなき君の 偲ばれる

    (二)
    夕べ彩なす あかねの空よ
    何故に思いを こがすやら
    山の遠さよ 過ぎし日の
    儚なき君の 想い出よ
    

    (三)
    夕べ仄かに またたく光
    星になりたや 一つ星
    黒い瞳に うつる影
    誰故流す わが涙

 
これも昭和10年(1935)、日活映画「緑の地平線」の挿入歌です。松島詩子のもある。




442 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:40

「古賀メロディ」というのは、(単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく)、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられたもので、「メロディ」というのは、古賀作品のみに使われる特別の「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められているのです。


「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家、それがリズム系であっても、その名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるのではないでしょうか。
これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビ(12チャンネル等)に始まる「ナツメロブーム」の影響でしょうか。
使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初めから、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではないのです。


昭和の長い歌謡の歴史の中で「メロディ」をつけて実際にそう呼ばれてきたのは、たくさんある中で、「古賀メロディ」しかないのです。





443 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 13:49
昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア

444 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 15:01
「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア・歌)

おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

わたしゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露に濡れたか 恥ずかしや

ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねのひと
ねんねおころり 謳(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

来るか来るかの 便りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


戦後にいたるまで20曲以上ある「お蝶夫人」の歌のはじめとなる名曲。
同時に、東京音楽学校(研究科)をでたばかりのミス・コロムビア最初の古賀メロディでもある。
ミス・コロムビアの初々しい歌である。


445 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 15:07
日 本 橋 か ら
作詩 浜田広介  作曲 古賀政男
昭和6年(1931)

1 お江戸日本橋 師走も暮れる
  橋の上から あちらを見たりゃ
  あちら葭(よし)町 人形町で
  ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓

2 お江戸日本橋 今年も暮れる
  橋の上から こちらを見たりゃ
  ならぶ建物 ほこりの雲で
  ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)

3 お江戸日本橋 さいふが空で
  橋の上から 遠くを見ても
  どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
  ヤレサ お江戸の 思案橋

テレビで日本橋のことが取り上げられるとき、流される音楽。
それは江戸古謡「お江戸日本橋」に代わって、昭和のはじめ、80年以上前に作られた曲、
浜田広介作詞。古賀政男作曲「日本橋から」。日本におけるタンゴ第一号、タンゴの名曲でもある。
 
昭和6年1月 佐藤千夜子(ビクター)
昭和7年3月 関 種子 (コロムビア)


446 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/12(Tue) 08:41
人生劇場

作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:楠木繁夫
昭和13年(1938)

1 やると思えば どこまでやるさ
  それが男の 魂じゃないか
  義理がすたれば この世は闇だ
  なまじとめるな 夜の雨

2 あんな女に 未練はないが
  なぜか涙が 流れてならぬ
  男ごころは 男でなけりゃ
  わかるものかと 諦めた

3 時世時節(ときよじせつ)は 変ろとままよ
  吉良の仁吉(きらのにきち)は 男じゃないか
  おれも生きたや 仁吉のように
  義理と人情の この世界
  
尾崎士郎の同名の小説を下敷きにして作られた歌で、昭和13年(1938)発表。
早稲田の第二校歌。
田中角栄総理が愛した歌。昭和34年(1959)に村田英雄がリバイバル。


 

447 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 15:47
早稲田大学歌集 第二校歌『人生劇場』

早稲田を舞台に見立てた尾崎士郎の名作「人生劇場」と同じタイトルの歌謡曲です。
早稲田大学の第二校歌ということは恥ずかしながら最近まで知りませんでした。

『人生劇場』 昭和12年 作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀 政男

一. やると思えば どこまでやるさ
   それが男の 魂じゃないか
  義理がすたれば この世は闇だ
   なまじとめるな 夜の雨

二. あんな女に 未練はないが
   なぜか涙が 流れてならぬ
   男ごころは 男でなけりゃ
   わかるものかと あきらめた

三. 時よ時節は 変わろとままよ
   吉良の仁吉は 男じゃないか
   おれも生きたや 仁吉のように
   義理と人情の この世界

四. 端役者の 俺ではあるが
   早稲田に学んで 波風受けて
   行くぞ男の この花道を
   人生劇場 いざ序幕

h ttps://www.youtube.com/watch?v=04ZdYSUAW08


(参考)

1.『人生劇場』と尾崎士郎
―『早稲田大学と文学』NO.886 Nov.18,1999
h ttps://www.waseda.jp/student/weekly/tokusyu/tok886-2.html

早稲田大学 第二校歌「人生劇場」 2001年1月29日
h ttp://www2.fukuicanon.co.jp/tamaki/waseda/w010129B.html

448 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 15:51
窓に凭(もた)れて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子
新興キネマ「姉」主題歌

(一)
行きて返らぬ 若き日を
窓に凭れて 思いみる
夢多かりし かの頃の
雲のかからぬ 清らかさ
ああ 過ぎにし 過ぎにし春の
思い出よ

(二)
ただやすらけく ありし日の
胸のあこがれ 泡と消え
たけての今日の この胸に
地上の愛の なやましさ
ああ 涙に 涙にくるる
このこころ

昭和6年(1931年)12月に、関種子の歌でレコード発売された。「丘を越えて」(藤山一郎)のB面 いずれも東京音楽学校主席。終戦直後、進駐軍のリクエストNO.1だった曲だとか
「丘を越えて」(藤山一郎)とともに、映画「姉」の主題歌




449 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 16:03
(参考)
ステレオで聴く不滅の古賀メロディー大全集
12,100円(税込)訂正、 5,580円(税込)
作曲家活動90周年の90曲!
「影を慕いて」(昭和3年)を作曲してから90年
そして昭和53年にこの世を去るまで、半世紀にわたって第一線の作曲家として活躍した古賀政男。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「東京ラプソディ 」「人生劇場」「湯の町エレジー」など戦前SP時代の大ヒット曲も名歌手によるステレオ録音で、また「柔」「悲しい酒」など後期の代表曲も収録。
日本人の心のメロディーとなった名曲の数々をぜひご堪能ください。


●発売日 2018年05月18日
●CD5枚組(全90曲)
●別冊歌詞・解説書つき
●ボックスケース入り
h ttps://www.eroaniment.shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1349
会社名:株式会社toto・noel
-->店舗連絡先:free@emorimoto.com


450 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 20:05
青い背広で

  作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
  唄 藤山一郎 (昭和12年)

 1 青い背広で 心も軽く
   街へあの娘と 行こうじゃないか
   紅い椿で ひとみも濡れる
   若い僕らの 生命の春よ
 
 2 お茶を飲んでも ニュースを見ても
   純なあの娘は フランス人形
   夢を見るよな 泣きたいような
   長いまつげの 可愛い乙女
 
 3 今夜言おうか 打明けようか
   いっそこのまま 諦めましょか
   甘い夜風が とろりと吹いて
   月も青春 泣きたい心
 
 4 駅で別れて ひとりになって
   あとは僕らの 自由な天地
   涙ぐみつつ 朗らにうたう
   愛と恋との ひとよの愛か


451 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 06:47
 三百六十五夜

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 みどりの風に おくれ毛が
   やさしくゆれた 恋の夜
   初めて逢(お)うた あの夜の君が
   今は生命(いのち)を 賭ける君

 2 たそがれ窓に 浮かぶのは
   いとしき人の 旅すがた
   我ゆえ歩む 道頓堀の
   水の夕陽が 悲しかろ

 3 鈴蘭匂う 春の夜
   灯(ともしび)うるむ 秋の夜
   泣いた 三百六十五夜の
   愛の二人に 朝が来る



452 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 07:17
*【三百六十五夜】・・ 際立つ日本語の美しさ、奥ゆかしさ、しとやかさ!

昭和23年小島政二郎原作、新東宝「三百六十五夜」(1948年9月2日公開) 、雑誌「ロマンス」連載。

小島正二郎は慶応大卒業後、鈴木三重吉が主宰していた『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶大文学部講師となり、最終的には同学部教授へ昇格、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。

1927年の『緑の騎士』で大衆的人気を得る。以後多くの大衆小説を書き『花咲く樹』『人妻椿』『新妻鏡』など人気作を次々執筆。

戦後の社会が大きく変わってゆく中、男女関係にも奥ゆかしさがあった恋愛事情も大きく様変わりする…

「三百六十五夜」は、歌手も含め、歌におしとやかさがあった古き良き時代を象徴すを最後のすばらしい日本の歌、日本の名曲、日本の文化遺産である…。.

みどりの風におくれ毛が
 やさしくゆれた恋の夜
・・・・
こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ!といつも
思います。

何と素晴らしい名曲・・・日本語の美しさが際立つ名曲です、日本人に生まれて良 かったと実感させてくれます。

古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と
作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもか
と 討ちこんでくる


正に この歌はその代表だと思っています。
ほのぼのと、そして切なく感じるのは何故だろうか?、この日本の女性や男性に、まだ奥ゆかしさと慎みがあって、恋の道でも節度があったころの歌で聞いていて風格があります。

西條八十の名詩が古賀政男の曲と出会うことによって、日本語の美しさが際立つ、表情豊かで心の襞に滲みわたる不朽の名曲、日本人に生まれて良かったと実感させてくれる名曲となった。

ところが、昭和24年になると世の中の事情が急速に変化する、石坂洋二郎の登場は、恋愛小説も大きく変わってゆくはきっかけに。

川口松太郎原作「愛染かつら」、小島政二郎原作「三百六十五夜」、・・西條八十の作詞による作品が、同じ男女間二人の間の深い恋愛なのに対し、石坂洋二郎作品「青い山脈」は学園内の奔放な男女交際の話。。

東北の田舎の港町を舞台に、偽のラブレターに右往左往する人々をユーモラスに描いた青春映画。

「封建的」とされる田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動と、それと戦う若い女教師の姿を描いたたわいもないもの!。

「古い上着をさようなら」の「古い上着」の中身が、昔からの男女間の「しきたり」(貞俶)。

請けは良いけど、若く明るいだけでは軽い。

【愛染かつら】では・・すれ違いともう一つの大きなテーマは、『親子の絆』・・生みの親・育ての親・・時を超えて普遍のテーマ。

数ある西條八十の作品の中でも、日本人らしさ、奥ゆかしさ、恥じらいという普遍的な美徳が有った時代の数々の名作。

日本が急速に豊かになっていく中で、アメリカナイズが進む中で、「三百六十五夜」以後、こうした昔からの美徳とされたことが音を立てて崩れてゆくのは残念なことではある・・。

日本がまだ貧し勝った時代、貧しくも心豊かだった時代が生んだ、日本人が忘れかけてる大切なものを思い起こさせてくれる、今では決してできない不朽の名曲、それが「三百六十五夜」。

「三百六十五夜」とともに、歌手松原操はこの歌を最後に歌手を引退、家庭の人となり再び歌うことはなかった。

彼女は昭和8年(1933)に東京音楽学校を卒業、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。

彼女の引退後、日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑、これ程までに、日本的な良さ美しさを感じさせる歌手は出なかった。




453 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 07:30
・流浪の民Zigeunerleben (Schumann)  日本発売:昭和11年1936)1月
石倉小三郎作詩、奥山貞吉編曲 独唱:関種子、松原操、内本実、青山薫 コロムビア合唱団、コロムビア・オーケストラ COL28642

・国民歌謡 我が家の唄 松原 操  西條八十作詞 山田耕筰作曲 12年3月 col29241 @黒盤

・赤とんぼ 松原 操 三木露風作詞 山田耕筰作曲 13年12月 COL29981 @ 黒盤13241

・この道  松原 操  北原白秋作詞 山田耕筰作曲 14年07月 COL30253 @ 黒盤14715



454 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 21:34
>>450

☆惣之助「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』とは☆


「青い背広で」作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男。テイチク1280-A「青い背広で」 -B「青春日記」藤山一郎

昭和12年3月、青春の哀歓を歌って若い人たちに愛唱され後、日活によって同名の映画が作られた。

『青い背広で』 : 清瀬英次郎監督、日活多摩川、1937年4月8日公開

ビクターからテイチク専属となった昭和11年、5月新譜「東京ラプソディー」が大ヒットする。

翌年には「青い背広で」「青春日記」などがヒットし古賀政男と共にテイチクを大手に押し上げた。

しかし昭和14年後期には先にテイチクを退社した古賀政男の後を追ってコロムビアへ移籍してしまう。 

藤山一郎の「青い背広で」という歌。♪青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか・・

その歌で歌われているのは、それはまさしく当時からの銀座の一流企業、数寄屋橋にビルを建てているT社に勤務するサラリーマンそのものだというのがその社内の一応の都市伝説になっているそうだ。

藤山一郎が歌ってヒットした「青い背広で」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。

「青い背広で 心も軽く まちへあの娘と 行こうじゃないか」という歌詞、青い背広に心も軽くと流行歌のモデルになった可能性がような会社。

当時から憧れの一流企業の青春を謳歌する若きサラリーマン、憧れの銀座の街を心も軽く、まだ自由を謳歌し、

さっそうと歩く姿可能性は簡潔な言葉の中に見事にイメージされるような素晴らしさ。

藤山一郎が歌唱する「東京ラプソディー」「青い背広で」、昭和モダンを高らかに歌いあげます。

戦前の都市文化の象徴する流行歌としてヒット。

「東京ラプソディー」は原曲が「スペインの花」。

ビクターから藤山一郎を迎えるために古賀政男が作曲し門田ゆたかが作詞。「青い背広」は佐藤惣之助がダーググリーンの背広を見て「青い背広」を思いつく。・・

失業者が巷に溢れた昭和初期の時代から、ようやく景気も回復しサラリーマンの時代になった「ああそれなのに」(星野貞志=サトウハチロー 作詞、 古賀政男作曲 1937年1月発売)うちの女房にゃひげがある・・空にゃ今日も アドバルーンさぞかし会社で 今頃はおいそがしいと 思うたに)

大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大とともに、
この「青い背広で」が出来た。

その直後,盧溝橋事件(昭和12年7月7日)で中国との全面戦争(支那事変)、そして太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。

なぜ背広なのか、それには朔太郎の若き日の詩を読むと浮かんでくる。

 朔太郎の「旅上」(『純情小曲集』)が出来た大正14年から、惣之助の「青い背広で」が歌われた昭和12年頃は

丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火のごとく最後の輝きを放つよう
な時期でもある。


ようやくサラリーマンの時代が始まったばかりの昭和12年、背広を着るサラリーマン姿は、まだ珍しく憧れがあったでしょう。

地方では、勤め人自体がまだ多くなかったと思います。

背広を着る職業、新しい背広を着て外に出たい憧れ(旅情)があったとしてもおかしくない。

そんなあこがれで見られる新しき「背広」を着て・・・は文人ならずとも,あこがれの背広がまだ一般的でなかった時代、特別な思いもあったとしてもおかしくないようなのだ。

石川啄木 → 萩原朔太郎 → 佐藤惣之助

詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷〈馬込文士村〉
に越してきた。

これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。

この年、彼が作詞してヒットした曲が「青い背広で」作曲は古賀政男。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。
 


455 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 21:40
佐藤惣之助は、「馬込文士村の住人」の一人としてレリーフに刻まれている。

大正15年頃、南馬込の広津和カ邸に居候をしていた。雪ヶ谷には昭和12年から亡くなる17年まで居住した。

解説などでは「自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝」したと説明している。雪谷は馬込文学圏に入るらしい。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうです。

小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。

大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。

ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。

11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。

佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。


詩のモチーフの基底に朔太郎の『純情小曲集』にある「旅上ーの背広」が沈殿していた,かなり奥深いものがあるのではないか?と考えてもおかしくない。

456 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:48
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


457 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 12:10
「女の階級」

・『女の階級』は、吉屋信子(1896〜1973)原作による昭和 11(1936)年 10 月封切 の日活映画であり、楠木繁夫(1905~1956)の歌った同名の主題歌である。

・歌「女の階級」は、同年 12 月新譜で、上記吉屋信子原作『女の階級』の映画 主題歌であり、楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B 面は、「回想譜」で、 藤山一郎(1911~1993)が歌った。

小説『女の階級』
・昭和 11(1936)年 4 月 11 日~9 月 19 日『読売新聞』連載新聞小説 〈h ttp://sanpo-e.hp.infoseek.co.jp/retro/books/yoshiya/list-long2.htm〉
・昭和 12(1937)年 春陽堂(日本小説文庫)刊
・昭和 23 年 2 月 29 日 隆文堂刊
『吉屋信子全集』(朝日新聞社、昭和 50~51 年刊)には未収録

歌「女の階級」及び「回想譜(加壽子のうたへる。)」

「女の階級」
・作詞 島田磐也(きんや、1909〜1978、「村瀬まゆみ」名義で公表) / 作曲 古賀 政男(1904~1978) / 編曲 古賀政男 / 歌 楠木繁夫 / 演奏 古賀政男オーケスト ラ

「回想譜(加壽子のうたへる)」〈h ttp://www.tei3roh.com/kaisoufu.htm〉

・作詞 今城靖児 / 作曲 古賀政男 / 編曲 古賀政男 ・歌 藤山一郎 / 演奏 古賀政男オーケストラ
1 星みれば はろかに遠く 雲みれば つきせぬ想い 離れゆきし 君は問わねど 御宿(おんじゅく)の ああ 海の恋しさ
2 風ふけば 風もさびしや 虫なけば 虫もわびしや ただひとり ロッジにあれば たえがたく ああ 涙ながるる
3 朝(あした)には あしたの祈り 夕べには 夕べのねがい 嫁(とつ)ぎゆく 妹にのみ いまはただ ああ 幸(さち)を請うのみ




458 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 15:34


2 風ふけば 風もさびしや 虫なけば 虫もわびしや ただひとり ロッジにあれば たえがたく ああ 涙ながるる
3 朝(あした)には あしたの祈り 夕べには 夕べのねがい 嫁(とつ)ぎゆく 妹にのみ いまはただ ああ 幸(さち)を請うのみ


「短歌」は「寂しさ」で完結してもいいものだが、「歌(詩)」というものは寂しさだけではダメで、この詩のように寂しさを超えたその先が大切。

459 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/04(Thu) 11:20
白 い 椿 の 唄
(作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )楠木繁夫歌  (昭和10年) 

1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

呼べど返らぬ 面影は・・これは、古賀政男が母を亡くしたその思いと重なる。
この歌は菊池寛原作「貞操問答」主題歌、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にあたるようなうた。



460 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/04(Thu) 11:32
古賀政男の自伝などによると、仏教の「声明」(しょうみょう)や、義太夫など江戸文化の研究や自らも歌っていたとあります。

西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。

西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。

古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう

1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。

仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY

古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。

ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。

しかし、古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。


古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。

古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。

461 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 09:01
最近、歌番組で「名曲」という言葉が頻繁に飛ぶ。「昭和の名曲」というのは、今や昭和最末期、昭和50年代以降のをさすらしい。 テレビ「思い出のメロデー」は、今や昭和30年頃のロカビリーあたりから始る。日本が貧しくとも心豊かだったころ/昭和前半の歌はやはりいい。

人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 ) 昭和12年(1937)ディックミネ

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

渡辺邦夫監督日活『検事とその妹』(竹田敏彦原作『検事の妹』)主題歌




萩原朔太郎は、佐藤惣之助の義兄で、マンドリンをやっていた。萩原朔太郎は、古賀政男のファンであるとともに、古賀メロデーを高く評価していたことで知られている。



462 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 11:36
数え切れないほど多くのヒット曲を持つ「古賀メロディ」。「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものもありません。
そして、その多くは「映画主題歌」でもあります。    

「古賀メロディ」ほど、多くの映画主題歌を持つものもないのです。

「古賀メロディ」は、まだ無声映画の時代から多くの映画主題歌を世に送り出しています。
その多くは、今流に言えば「青春」を歌ったもの(青春歌謡)です。「古賀メロディ」というは、元祖青春歌謡ともいえるものでしょう。
その主題歌の多くは佐藤惣之助、西條八十、サトウハチローなどの珠玉の名詞によるものです。

酒は涙か溜息か(想い出多き女)、丘を越えて(姉)、あけみの唄(佳人よ何処へ)、さらば上海(上海)、緑の地平線(緑の地平線)、東京ラプソディー(東京ラプソディー)、
男の純情(魂)、二人は若い(のぞかれた花嫁)、ああそれなのに(うちの女房にゃ髭がある)、人生の並木路(検事とその妹)、
新妻鏡(新妻鏡)、目ン無い千鳥(新妻鏡)、熱砂の誓い(熱砂の誓い)、紅い睡蓮(熱砂の誓い)、・・麗人の歌(麗人)

昭和SP歌謡の時代、日本がまだ草深く、そして貧しかった時代、まだテレビも無かった時代、昭和の初めから30年代にかけては「日本映画黄金時代」。どんなちいさな街にも、小さな映画館があって、その映画を心待ちにしたことでしょう。
ヒット曲、それは、それだけ多くの人々に支持され愛され歌われたということです。


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

463 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 11:42
(参考)
つれづれ 萩原朔太郎
h ttp://higashinum.exblog.jp/16429910/

「父・萩原朔太郎」を読み終えた。
長女である作家萩原葉子の著である。

萩原朔太郎は詩人である事は知っていたが、作品を読んではいないし、どういう人物かも知らなかった。この著書を読んで、実に多くの著名人との交流を知った。
室生犀星、三好達治は無二の親友とある。他に朔太郎の家に出入りしていたとして次のような人物が上がる。
北原白秋、芥川龍之介、川端康成、横光利一、尾崎士郎、広津和郎、衣巻省三、志賀直哉、古賀政雄、佐藤惣之助(朔太郎の妹と結婚)宇野千代等々。
宇野千代は桜の着物で知られるが当時はひっつめの髪に洋装だった(モダンガール)とあるところが興味ふかい。
朔太郎設計の家の二階は洋間で、毎晩のようにダンスをしていたと書かれている。

マンドリン奏者でもあった詩人、萩原朔太郎は佐藤惣之助の義理の兄で、萩原葉子著「父・萩原朔太郎」に佐藤惣之助のこととして、朔太郎宅における惣之助、古賀政男との歓談の様子がうかがえます。
 h ttp://blog.goo.ne.jp/qazmandolin/e/cd6c77bc1d684f4e3c1d402cf3d7ceb1
また、朔太郎、惣之助が古賀政男邸に集まって詩の談義をしていた。

萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館
h ttp://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/

(参考)

"「影を慕いて」の前奏曲は父の得意中の得意で…指をギターに打ちつけるほど情熱的に感情をこめて弾いた(萩原葉子)"


・群馬マンドリン楽団(GMG) プロフィール
 h ttp://www.page.sannet.ne.jp/msw4681/gmg.htm


・群馬マンドリン楽団 過去のコンサート
 群馬マンドリン楽団 東京公演 演奏会
 h ttp://www.gunma-mandolin.com/concert.html

464 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 17:28
古賀政男総合スレ
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/


465 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 23:07
慈悲心鳥の唄(愛の勝利)
(菊池寛原作 日活「慈悲心鳥」1936主題歌)
  作詩 佐藤惣之助  作曲 古賀政男 
 歌 楠木繁夫

一.

愛と泪に流れ行く
若きふたりの 思い出は
海の真珠の浪の色
虹よ消ゆるないつまでも



窓のともし火ほのかにも
母とよばれて幼児(おさなご)に
聞かす夜毎の子守唄
ゆめの千鳥よ何を泣く



掟きびしき人の世に
負けてこの身は果つるとも
愛の勝利のうるわしく
花も輝けこの胸に



466 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 00:02
日活「慈悲心鳥」(愛の勝利)1936.7.1
  原作:菊池寛
  監督:渡辺邦男
  出演:江川宇礼雄 黒田記代 岡譲二
  主題歌「慈悲心鳥の唄」(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男 歌:楠木繁夫)

467 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 18:22
<古賀メロデーの抒情歌>

ほかにもたくさんあるが・・

影を慕いて(古賀政男)
丘を越えて(島田芳文)
月の浜辺 (島田芳文)
ハイキングの唄(島田芳文)
夕べ仄かに(島田芳文)
人生の並木路(佐藤惣之助)
白い椿の唄(佐藤惣之助)
さらば青春(佐藤惣之助)
誰か故郷を想わざる(西条八十)
あの花この花(西条八十)
青い牧場(サトウハチロー)
故郷の白百合(サトウハチロー)
雲のふるさと(大木敦夫) 国民歌謡
やすらいの歌(百田宗冶)  国民歌謡、ラジオ歌謡
ピレネーの山の男(西条八十)
りんどう峠(西条八十)





<古賀メロデー 青春・叙情歌>  藤山一郎歌

東京ラプソデイー (門田ゆたか)1936年6月(映画「東京ラプソデー」主題歌)
 ♪花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で・・
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
 ♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
回想譜(今城請児)1936年10月  (日活「女の階級」挿入歌)
 ♪星みれば はろかに遠く 雲見れば つきせぬ思い
青春カーニバル(青春の謝肉祭)(島田欣也・野村俊夫)  1936年11月
 ♪若き日の憧れを胸に抱き・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・
歓喜の丘 (島田芳文)1938年3月
 ♪あこがれの丘にきて 萌ゆる瞳に仰ぎ見る 空は青空 日はうらら・・
春よいずこ(西条八十)
 ♪おもいでは おもいでは 青い背広の・・


468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/07(Sun) 00:15
《白衣(びゃくえ)の佳人》
 作詞 佐藤惣之助  作曲 古賀政男 編曲 古賀政男 歌手 ディック・ミネ
昭和11年3月 入江プロ=日活 鞠小路泰子 昭和11年1月

すみれ花咲くむさしのに
きみと相見しその日より
乙女ごゝろはうす月の
かなし涙の春は逝く
 
泣いて流れる夕雲の
きみははるかな北の空
雪の広野の日は落ちて
わかき涙の春は逝く
 
鈴もさびしきあの橇は
きみと別れを告ぐれども
愛しこゝろは尽きもせず
さらば涙の春や春


日活映画 白衣の佳人 1936年公開]阿部豊監督 入江たか子 岡譲二 原節子 伊沢一郎
古賀政男はディック・ミネの高音の甘さを活かして作曲。演奏は「古賀政男サロンオーケストラ」となっていますが、実際は明治大学マンドリン倶楽部が演奏しています。軽快なマンドリンオーケストラにのて哀愁に満ちた古賀メロディーと


469 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/07(Sun) 13:39
霧島昇・松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-index.html


470 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 11:25
「馬」

陸軍省撰定 東映映画「馬」主題歌 昭和15年12月

作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男

伊藤久男、菊池章子、コロムビア合唱団
コロムビア・オーケストラ

1.
山は朝焼け青い空
さっと一鞭たてがみ振って
ホイノホイ
駈ける彼方に陽が昇る
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ

2.
明けて三年また三月
ともに暮せば心も通ふ
ホイノホイ
同じ思ひの親と子だ
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ

3.
月の夜道も雪空も
手綱片手に聞せたものを
ホイノホイ
馬よ忘るな故郷の唄
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ

4.
国のお召しで征く朝は
馬よ喜べ日の丸たてて
ホイノホイ
虹の襷もかけてやろ
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ


「めんこい仔馬」と軍馬哀歌
 昭和16年にサトウ・ハチロー作詞、仁木他喜雄作曲でつくられた「めんこい仔馬」は、東宝映画『馬』(監督:山本嘉次郎、助監督:黒澤明、主演:高峰秀子)の主題歌である。戦後改変された歌詞により現在は童謡であるが、何しろ日米開戦の年に作られた軍馬映画の主題歌なので、小国民向けの軍歌ともいえるものだった。戦後改詞されてしまったようだが、当時の歌詞は以下のようだった。馬に対する愛情と別れをやさしい言葉で描いた大変いい歌です。

作詞はサトウハチロー、作曲は仁木他喜雄。歌は二葉あき子、高橋祐子。陸軍省選定 東宝映画、「馬 」挿入歌として作られたが、映画には入らなかった、
「新妻鏡」の二葉あき子(東京音楽学校)と、「お山の杉の子」の童謡歌手高橋裕子がうたった。現在のクラッシック歌手で、これほどまでにやさしい、素晴らしい愛情のこもった歌唱はない。

 (一)ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露 
    呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道 
    ハイド ハイドウ 丘の道
 (二)藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる 
    お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ
    ハイド ハイドウ ないてみろ
 (三)紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を
    ハイド ハイドウ お話を
 (四)西のお空は夕焼けだ 仔馬かえろかおうちには
    お前のかあさん待っている オーラ 唱ってやろかよ山の唄
    ハイド ハイドウ 山の唄
 (五)明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
    軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ
    ハイド ハイドウ してやるぞ



471 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 11:37
映画の内容は、岩手山麓の農村の小野田一家と飼い馬を描いた物語で、馬の出産の喜び、その馬の成長と美しい農村の四季。そして馬の競買。軍馬として高額の値段がつき、売られて行く別れのシーン。馬と生きる貧しい農民の生活が描かれています。軍馬と農耕馬との価格や、扱いの違いがはっきりわかります。娘役の高峰秀子も話題になりました。高峰の馬を呼ぶ明るい声が、印象に残ります。
 山本嘉次郎監督が、農民が愛情を込めて育てた馬を軍馬として徴用され、犠牲にしてもよいのだろうか、ということを訴えて制作された映画です。
 映画『馬』のタイトルには、主題歌コロムビアレコード「馬」「めんこい子馬」とあります。主題歌が二つ作られた事になります。
 主題歌「馬」は、映画のタイトルバックに流れます。明るい、素朴な子どもたちの歌声です。次のような歌詞です。

   主題歌「馬」   作詞:佐藤惣之助   作曲:古賀政男

   一、みちのくの 山の尾影に 春来たり
    こぶし咲くよに 生まれいず 吾が子馬

   二、風澄ぬ 山の麓に 秋来たり
    すすき咲く日に 売られ行く 吾が子馬

 映画『馬』のタイトルに書かれた、主題歌として作られたはずの「めんこい子馬」の方は、使われませんでした。
 
  〈映画に「めんこい子馬」を使わなかった理由〉
  東北ロケの最中であった山本監督が、「めんこい子馬」が作られていることを知らなかったからと言われていますが、知らなかったとは思えません。なぜなら、独特の歯切れの良いこの歌と、素朴な農村の四季や生活を美しく画いたカメラワークとは、合わないからです。監督が映画の中に組み込まなかったのは当然でしょう。
 映画『馬』の中では、主題歌「馬」の他、三曲が歌われています。

 映画の封切りに先立ち、昭和十五年十二月一日にコロムビアよりレコードが発売されました。

▲サトウ・ハチロー自筆の仔馬画
 A面は「馬」、作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、歌:伊藤久男、菊池章子。
 B面は「めんこい子馬」、流行歌手の二葉あき子と童謡歌手の高橋祐子、コロムビア児童合唱団が歌いました。

  一番は、「コウマ」「ゆこかよ」と歌った(二葉あき子)。
  二番は、コロムビア児童合唱団が歌った。
  三番は、「オウマ」と歌った(高橋祐子)。
  四番は、「コンマ」「かえろう」と歌った(二葉あき子)。
  五番は、コロムビア児童合唱団が歌った。
 掛け声「オーラ」「ハイド ハイドウ」は、コロムビア児童合唱団が歌った。

  〈「オーラ」について〉
  足羽章によると、「歌詞各節に出てくる「オーラ」の掛け声は、『作曲者、仁木さんの発案だった』とサトウハチローさんが話されたのを覚えている」(季刊『どうよう』19号・チャイルド本社)。
  「オーラ」の掛け声は、サトウハチローの原作にはなく、作曲者の仁木他喜雄が入れたことになります。
  (註)オリジナルレコード番号:100151B、録音:昭和十五年十月三十一日。このレコードは、CD『生誕90年、没後20年記念 サトウハチロー記念館』≪童謡・コロムビア編≫で聴くことができます。

 【『国民歌謡』として放送された「めんこい小馬」】



472 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 12:02
「めんこい仔馬」。この歌は昭和16年封切の東宝映画「馬」の挿入歌だが、高峰秀子が娘役を初めて演じて評判になった。この唄は二葉あき子と童謡歌手・高橋裕子が歌い録音、同年1月からの「国民歌謡」のラジオでは松原操が唄って、幼児から老人まで幅広い層に愛唱された。
が、日中戦争開始1年で軍馬が不足し、原則牡馬だったのを増産のため、雌馬がたくさん配給されていたと石川達三の戦記文学「武漢作戦」に記されている。農耕馬も戦地へ送られた。
この歌の背景は、軍馬愛育の心情だ。さすが名曲なので、コロムビアでは戦後、仔馬と子どもの愛情交流の歌詞に変えて昭和26年、伴久美子の歌で再発売した。

473 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 20:23
【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/healing/1113312511/l50


474 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 20:28
【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】

h ttps://bubble5.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1162563164/


475 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/11(Thu) 11:16
めんこい仔馬
 本来は童謡でなく、流行歌として世に出た『めんこい仔馬』(1940年)が、子供の頃から大好きである。

めんこい小馬-陸軍省情報部撰定
     サトウ・ハチロー作詞/仁木他喜雄作曲

  一、ぬれた小馬の たて髪を
    撫でりや両手に 朝の露
    呼べば答へて めんこいぞ オーラ
    駆けて行こかよ 丘の道
    ハイド ハイドウ 丘の道
  二、藁の上から 育ててよ
    いまぢや毛並みも 光つてる
    お腹こわすな 風邪ひくな オーラ
    げんきに高く ないてみろ
    ハイド ハイドウ ないてみろ
  三、紅い着物(べべ)より 大好きな
    小馬のお話 してやろか
    遠い敵地で お仲間が オーラ
    手柄たてた お話を
    ハイド ハイドウ お話を
  四、西のお空は 夕やけだ
    小馬かへろか おうちには
    お前の母さん 待つてゐる オーラ
    唄つてやろかよ 山の唄
    ハイド ハイドウ 山の唄
  五、明日は市場か お別れか
    泣いちやいけない 泣かないぞ
    軍馬になつて 行く日には オーラ
    みんなで バンザイ してやるぞ
    ハイド ハイドウ してやるぞ

めんこい仔馬
 歌;二葉あき子、高橋祐子、日蓄児童合唱団

 映像のレーベル面にもあるとおり、もともと東宝映画『馬』(1941年3月公開)の主題歌として作られたにも係わらず、実際には使われなかったらしい。そうとも知らずレコード盤は、先行して1940年12月に発売されている。そのこととは無関係に、NHKが“国民歌謡”として採り上げ、松原操(ミス・コロムビア)の歌唱で1941年1月にラヂオ放送されている。
 映画は未見なれど、時節柄、戦時色が強いことは否めまい。したがって、該当歌詞(三番、五番)を改変乃至削除して戦後も歌い継がれている。
 それはともかく、この歌詞のキモは二番に収斂される。即ち、我国の家族主義的社会を否応なく想起させてくれる。祖父母・親兄弟・子孫等の血縁者はもちろん、使用人・飼犬猫・家禽畜に至るまで「家族」同然に遇する文化をいうのである。とりわけ、二番を児童合唱団が歌っているのが効いている。動物(この場合“小馬”)を世話することで、親が子を思う心情を理解しつつ自分が大人になったとき、我が子にも同じように受け継がせる、そういう日常生活全般が世渡りの道場(訓練場)になっていた、ということ。


戦後歌詞改変版(昭和20年代の録音?)
 歌;伴久美子(1942-1986)、コロムビア杉の子子ども会

476 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/12(Fri) 22:32
「めんこい仔馬」。この歌は昭和16年封切の東宝映画「馬」の挿入歌だが、高峰秀子が娘役を初めて演じて評判になった。この唄は二葉あき子と童謡歌手・高橋裕子が歌い録音、同年1月からの「国民歌謡」のラジオでは松原操が唄って、幼児から老人まで幅広い層に愛唱された。
が、日中戦争開始1年で軍馬が不足し、原則牡馬だったのを増産のため、雌馬がたくさん配給されていたと石川達三の戦記文学「武漢作戦」に記されている。農耕馬も戦地へ送られた。
この歌の背景は、軍馬愛育の心情だ。さすが名曲なので、コロムビアでは戦後、仔馬と子どもの愛情交流の歌詞に変えて昭和26年、伴久美子の歌で再発売した。

477 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 14:30
02/09: 1974年6月 沖縄の雑誌『青い海』34号「詩碑を訪ねてー佐藤惣之助」
h ttp://ryubun21.net/index.php?itemid=12069
佐藤惣之助詩碑。1959年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。

佐藤惣之助 さとう-そうのすけ
1890−1942 大正-昭和時代前期の詩人。
明治23年12月3日生まれ。佐藤紅緑(こうろく)に俳句をまなぶ。千家元麿(せんげ-もとまろ)らとまじわり,詩作に転じ,第1詩集「正義の兜(かぶと)」などを刊行。大正14年詩誌「詩之家」を創刊。また随筆,釣りの本をかき,歌謡曲「赤城(あかぎ)の子守唄(うた)」「人生劇場」などを作詞した。昭和17年5月15日死去。53歳。神奈川県出身。(→コトバンク)

佐藤惣之助年譜
1922年
3月ー詩誌『嵐』を千家元麿、陶山篤太郎、後藤大治らと創刊。
5月31日ー横浜より大洋丸で出帆、沖縄、台湾への旅にたつ。
6月1日ー神戸上陸、芦屋の富田砕花(不在)宅で百田宗治と会う。
6月3日ー長崎に下船、崇福寺、木蓮寺、丸山見物。
6月5日ー三角、熊本、鹿児島泊。
6月7日ー正吉丸、天候不良で出航延期。
6月8日ー鹿児島出帆。
6月9日ー奄美大島名瀬に上陸、夜、暴風をついて那覇へ向かう。那覇で3週間。その間、慶良間、石垣島へ渡る。帰路は基隆へ渡る。□1959年5月1日ー『琉球新報』山里永吉「沖縄の佐藤さんー古い風物につながる思い出ー佐藤惣之助さんが沖縄入りしたのは大正11年、たしか若夏の候だったと憶えている。当時佐藤さんは詩誌『嵐』を主宰し、詩集も矢つぎばや・・・と云っていいくらい出版されて、名声トミにあがっていたが、沖縄にはこれといった知人がなく、『嵐』の愛読者で、私の親しい友だった伊波普哲君(伊波普猷先生の甥)に連絡をとっての、未知の島訪問だった。




478 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 16:33
大衆音楽の殿堂

大衆音楽の殿堂は、古賀政男音楽文化振興財団が認定する日本の大衆音楽の発展に貢献した人物を顕彰するために設立された殿堂
東京都渋谷区の古賀政男音楽博物館内に設けられた殿堂ホールに展示されている。

古賀政男音楽博物館 h ttp://www.koga.or.jp/

殿堂入り受賞者の一覧 :
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大衆音楽の殿堂


479 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 19:18
流行歌(レコード歌謡)において、作曲家がメロディーを付け始めたのは、昭和3年、レコード産業が成立してからである。
日本では、昭和の時代と歩みをともにするが、まず作曲家の一番星になったのが中山晋平だった。

外資系のビクターから、西條八十作詞、佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」の作曲で世に知られるが、ついで、昭和6年、古賀政男がコロムビアから高橋掬太郎作詞の「酒は涙か溜息か」の作曲と、 詞も自ら書いた「影を慕いて」を、東京音楽学校(現東京藝大)最大の傑作≠フ折紙つきの ベルカント歌手・藤山一郎(本名・増永丈夫)に歌わせ、蓄音機が、植民地だった台湾・朝鮮 を含めて、日本全国にわずか二十万台といわれた時代に、それぞれ百万枚の大ヒットをさせた のだった。
中山晋平の曲が、民謡的な匂いのただよう素朴感のあるメロディーだったのに対し、古賀メロディーは、都会的な哀愁感が嫋々と流れ、そのやるせないひびきが大不況下の暗い世相に共鳴して、満州事変の勃発と、東北大凶作の中、狂乱に近い大ヒットになったのである。

古賀政男は、マンドリンの演奏からギターに転じ、独学で作曲を志していた。「影を慕いて」 と同時期に、「酒は涙か溜息か」を作曲しているが、短い二行詞にどう曲を付ければいいか苦しみ抜いた末に、「古賀メロディー」の原点となる、やるせない哀愁に彩られた曲調を生み出したのである。

古賀政男についで、昭和8年以降、10年代にかけて、江口夜詩 、佐々木俊一、万城目正、阿部武雄、服部良一、古関裕而・・らが続くのである。




480 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 19:26
そうだその意気(国民総意の歌)

作詞 西條八十、作曲 古賀政男
歌  霧島昇、松原操、李香蘭

(一)
何にも言えず靖国の
宮の階ひれ伏せば
熱い涙がこみ上げる
そうだ感謝のその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(ニ)
雁鳴き渡る月の空
今夜今頃戦地では
弾丸を浴びてる友がある
そうだ済まないその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(三)
戦に勝つにゃお互いが
持場職場に命懸け
こんな苦労じゃまだ足りぬ
そうだその意気その気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(四)
輝く勲皇軍に
負けず遅れずがっちりと
共に戦う銃後軍
そうだ進めば盛り上がる
凱歌凱歌明るい大アジア

「そうだその意氣」は、1941年(昭和16年)5月25日にコロムビアレコードから発売された。作詞は西條八十、作曲は古賀政男で、歌は霧島昇、松原操、李香蘭。「国民総意の歌」の副題がある。


481 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 20:49
国民歌謡:いざおを胸に

サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲
楠木 繁夫、松原 操、歌
日蓄合唱団1944-10


いろはのいの字は
命のいの字
誰も忘れぬこの文字よ
一番勇まし
勲を胸に
いの字で行こうか
その日 その日,

2.
鳶のとの字は
とんぼのとの字
仰ぎ眺めるその翼
飛んだぞ飛べ飛べ
轟く凱歌
との字で作ろうか
いつもいつも

3.
今年のこの字は
工場のこの字
この道通うて早や三年
小鳥の小唄は
小藪の陰に
この字で唄おうか
君も僕も


瑞穂のみの字は
皆のみの字
交わす言葉も朗らかに
見つめる見事な
実りの秋だ
みの字でやろうか
日毎 夜毎.



482 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/17(Wed) 21:55
夜霧の馬車 (陸・海軍礼式歌)

作詞 西條八十
作曲 古賀政男
歌  李香蘭
昭和16年7月

(一)
行け嘆きの馬車
赤い花散る港の夕
旅を行く我を送る
鐘の音さらばよ
愛しこの町君ゆえに
幾度振り返る

(二)
鳴け鴎の鳥
哀れ切なく夕陽は燃える
波の上浮かぶジャンク
寂しやはろばろ
誰が歌うか愛の歌
夜霧に流れ来る

(三)
行け嘆きの馬車
月に胡弓の流れる町を
いつか見ん母の待てる
故郷懐かし
窓の灯影を夢見つつ
果て無く旅を行く

夜霧の馬車(3番?後奏) 昭和歌謡に惹きつけられる要素のひとつに、前奏や間奏か?美しい曲か?多いことか?挙け?られます。この曲も当に美しい…?
かって多くの歌手や詩人、音楽関係者が通ったという代々木上原駅前3000坪の古賀政男邸。
古賀邸は美術館のようにあちこちに第一級の美術品が飾られ、玄関を入ると正面に、音楽・弁論の神、弁財天のふくよかな像を彫りこんだ額が、かかっている。萩原朔太郎、佐藤惣之助、古賀政男がたびたび詩の談義をはずませた応接間..そこに、西條八十、李香蘭、古賀政男が集まって「夜霧の馬車」の曲を練った。


483 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/17(Wed) 21:56
?は点(・)の文字化けです。

484 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 00:29
さらば上海

作詞:時雨音羽 作曲:古賀政男
関種子 1932、李香蘭 1838

胡弓ならせば ランタンゆれる
ゆれるランタン 小さく赤く
すえは夜霧で すえは夜霧で
絶えだえに

胸の白菊花の しおれる頃は
消える黄包車 二度とは 逢えぬ
今日も四馬路に 今日も四馬路に
けむる雨

糸がふるえる 胡弓の糸が
すすり泣く音の 悲しく細く
遠い夜霧の 遠い夜霧の
あの中で

わかれゆく身は 儚く淡し
霧の上海 さよならならば
明日ははるかの 明日ははるかの
空の涯



1938年に李香蘭の名で女優デビューした山口淑子,デビュー曲「さらば上海」。

関種子  昭和07年(1932)
李香蘭 昭和13年(1938)





485 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 10:31
歌謡曲の父・・・古賀政男物語 You Tube
2019/11/26
h ttps://www.youtube.com/watch?v=zagPzuXKPVE


486 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 11:40
『酒は泪か溜め息か』
作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男 歌 藤山一郎
 オリジナル Columbia-26486-A

1.
酒は泪か 溜め息か
心の憂さの 捨て所
遠い縁の 彼の人に
夜毎の夢の 切なさよ

2.
酒は泪か 溜め息か
悲しい恋の 捨て所
忘れた筈の 彼の人に
残る心を 何としょう


89年前、昭和6年(1931)9月、満州事変の勃発と、日本最後の飢饉と言われた東北大凶作の中、作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。また、日本で最初にクルーナー唱法を取り入れた作品としても知られる。当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生だった。 折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。歌のヒットにより、のちに松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された。

B面は、淡谷のり子「私此頃憂鬱よ」(作詞:高橋掬太カ 作曲:古賀政男)淡谷は東洋音楽学校主席。、

レコード袋(古賀春江) h ttps://ameblo.jp/kimokenblog/entry-11901366766.html



487 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 15:25
「影を慕いて」

古賀政男作詞・作曲
佐藤千夜子(ビクター) 昭和6年1月
藤山一郎(コロムビア) 昭和7年3月


まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ






不世出の国民的名歌手藤山一郎が独唱するギター歌曲・「影を慕いて」・美しき日本の歌です。
昭和モダンの陰影を象徴する古賀メロディーの傑作といえるでしょう。藤山一郎の声楽技術を解釈したクルーン唱法によって古賀政男のギター曲の魅力が伝わりました。
昭和4年6月 明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会初演(ギター合奏)昭和5年10月佐藤千夜子ビクターで吹込み(昭和6年1月新譜)。昭和7年1月藤山一郎再吹込み(昭和7年3月新譜発売)。
クラシック系歌謡曲の藤山一郎は現在の東京芸術大学を、昭和8年首席卒業であり、美空ひばり、森進一ら感情を濃く小節を回す演歌系歌謡曲の艶歌唱法とは対極にあるリートのベルカントによる歌唱芸術です。

昭和が終わった平成元年(1989)、NHKTVは「日本の名曲10曲」として、1年間にわたって1週間ずつ繰り返し放送。


488 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 15:35
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
 2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


489 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 16:35
◇戦後の主な古賀メロディ
「りんどう峠」を含めた戦後の主な古賀メロディの一端を
古賀作品には圧倒的に西條八十が多いのがわかる!。


麗人の歌     1946(西條八十作詞 霧島 昇歌)
悲しき竹笛    1946(西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌)
こころ月の如く  1947(西條八十作詞 二葉あき子歌)
旅の舞姫     1947(西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌)
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948 (西條八十作詞 霧島 昇、二葉あき子歌)
三百六十五夜   1948 (西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948 (西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詞 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう    1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節       1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詞 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詞 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)


490 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 16:47
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸作詞、 藤山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詞、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詞、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968 (古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)


491 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 18:40
いちうた ― 君の住む街・市原は
h ttp://music1930.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-469a.html
2012年7月20日 (金)

影を慕いて



492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 19:06
昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。
このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

493 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 19:19
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。
菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。

NHKの連続ドラマ「いちばん星」で紹介されたの覚えておられる方も多いかと思います。日本で最初のレコード・スター歌手・佐藤千夜子は1897年(明治30年)3月13日、山形県天童市で生まれました。
13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)に入学。東京音楽学校の社交場でもにもなっていた本郷中央教会で聖歌を歌った、ここで同じクリスチャンの山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。
中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)に、歌手として参加、この企画の中で生まれた新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)(ビクターからレコードとして発売。これが日本の商業レコード第一号とされている。
このレコード歌手第一号、晋平の唄(晋平節)そ世に広めた歌手「佐藤千夜子」の力添えで誕生することになるのが、「古賀政男」(正男)でした。
「いちばん星」にはこのあたりのことが描かれています。


494 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 20:21
age

495 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:03
古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)



東京・代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。
本田美奈子「アマリア」のマンドリン

「決定盤?古賀政男?心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤
?ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。
?明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。
?年1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが(後述)、あまり売れた形跡はない。
?−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。
?本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
?萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。
?本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
?本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。



496 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:04
?は点・の文字化けです。


497 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:13

「トレモロ寂し?身は悲し」
?古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
?ギターをとりて?爪弾けば
?どこまで時雨?ゆく秋ぞ
?振音(トレモロ)寂し?身は悲し
?という一節がある。

?トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。
?マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。
?「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。
?どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。
?この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。
毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。




498 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:26
作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。/昭和六年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)
?この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年7月、「乙女心」は6月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
?コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。

西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために
?古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。
?藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。
「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲≪影を慕いて≫≪酒は涙か溜息か≫≪丘を越えて≫は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)
「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。



499 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:35
「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

?古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。
?コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。
?けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。
?月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやとおうと言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している。




500 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:45
古賀の入社は昭和6年(1931年)3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。関種子(1907−90)も東京音楽学校を卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。
「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
?詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。


501 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 22:00
「そんなある日、ギターの性能を活かすことによって、解決の端緒が得られるのではないか、というアイデアが私にひらめいた。それから、毎日ギターで三味線の曲を弾いてみたり、古い民謡や義太夫というようなものまで弾いたりしてみた。そして、突然あのメロディーが浮かんできたのだった」(古賀政男、前掲書、2001)。
「酒は涙か溜息か」はニ短調(Dm)で、基本的にヨナ抜き短音階で書かれているが、サビの冒頭は第4音のG(ソ)で始まり、日本の民謡の音階を感じさせる。日本音楽を西洋のギターで繋いだ意図がわかる。
?ちなみに「影を慕いて」はニ短調の完全なヨナ抜き短音階で、中山晋平のように和洋折衷の感覚を出している。唱歌や童謡に近い。
「酒は涙か溜息か」は第4音を入れて民謡音階の感覚を混ぜ、義太夫や都々逸のような伝統的な邦楽のようでいて、しかし楽譜には西洋音階以外の音程は使わない。譜割りも厳密に書かれ、小節線を無視するようなアドリブは許さない、という意思が見える。こうすることによって大都会で洋楽を聴く若者にも共感されたい、ということだろう。
?藍川由美さんによると、中後期の演歌の原型的作品になっても、コブシや日本的な節回しでさえすべて楽譜に書いているというから、楽譜を見れば作曲者の意図はすべて理解できるわけだ。発想はクラシックの作曲家と同じである。
?古賀がコロムビアに入社した1931年、この年4作目の「丘を越えて」ではまったく曲想が変わる。これは次回に。この年に発売した4曲は、合計200万枚を超える売上だったという。コロムビアは月給以外に、1枚1銭の印税を支払うことにした。
あっという間にヒット・メイカーとして流行歌を牽引する作曲家となった。




502 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 07:26
古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)


東京・小田急線代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。

本田美奈子「アマリア」のマンドリン

「決定盤古賀政男心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤。
ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。

明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。

昭和6年(1931)1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。
31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが、あまり売れた形跡はない。
30−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。

本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。

本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。
筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。




503 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 07:40
「トレモロ寂し 身は悲し」

古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
ギターをとりて爪弾けば
どこまで時雨 ゆく秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し
という一節がある。

トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。
ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。

マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。

「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。

どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。

この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。

毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。

「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。



504 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 08:02
作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。
「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。
その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。 昭和六年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)

この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年7月、「乙女心」は6月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。

藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。
つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。

西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために

古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。

藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。

「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲《影を慕いて》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)

「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。




505 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 08:27
「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。
慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。

コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。

けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。
ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。
月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。

月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやると言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。
すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。
おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書 文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)

「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。
日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している。



506 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 08:49
古賀の入社は昭和6年(1931年)3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。
関種子(1907−90)も東京音楽学校を首席で卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。

「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。
1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。
どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。
この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。

詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。




507 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 09:16
「そんなある日、ギターの性能を活かすことによって、解決の端緒が得られるのではないか、というアイデアが私にひらめいた。それから、毎日ギターで三味線の曲を弾いてみたり、古い民謡や義太夫というようなものまで弾いたりしてみた。
そして、突然あのメロディーが浮かんできたのだった」(古賀政男、前掲書、2001)。

「酒は涙か溜息か」はニ短調(Dm)で、基本的にヨナ抜き短音階で書かれているが、サビの冒頭は第4音のG(ソ)で始まり、日本の民謡の音階を感じさせる。日本音楽を西洋のギターで繋いだ意図がわかる。
ちなみに「影を慕いて」はニ短調の完全なヨナ抜き短音階で、中山晋平のように和洋折衷の感覚を出している。唱歌や童謡に近い。

「酒は涙か溜息か」は第4音を入れて民謡音階の感覚を混ぜ、義太夫や都々逸のような伝統的な邦楽のようでいて、しかし楽譜には西洋音階以外の音程は使わない。譜割りも厳密に書かれ、小節線を無視するようなアドリブは許さない、という意思が見える。こうすることによって大都会で洋楽を聴く若者にも共感されたい、ということだろう。

藍川由美さんによると、中後期の演歌の原型的作品になっても、コブシや日本的な節回しでさえすべて楽譜に書いているというから、楽譜を見れば作曲者の意図はすべて理解できるわけだ。発想はクラシックの作曲家と同じである。

古賀がコロムビアに入社した1931年、この年4作目の「丘を越えて」ではまったく曲想が変わる。
この年に発売した4曲は、合計200万枚を超える売上だったという。
コロムビアは月給以外に、1枚1銭の印税を支払うことにした。あっという間にヒット・メイカーとして流行歌を牽引する作曲家となった。


508 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 11:06
■作曲家古賀政男 昭和6年から7年にかけての主な作品

影を慕いて     佐藤千夜子    ビクター  昭和6年1月
日本橋から     同                     日本初のタンゴ
乙女心       関種子      コロムビア 昭和6年6月
キャンプ小唄    藤山一郎               7月
月の浜邊      河原喜久恵              同  ジプシ―短音階
酒は涙か溜息か    藤山一郎               9月
丘を越えて     藤山一郎               12月
窓に凭れて     関種子                 同
影を慕いて     藤山一郎           昭和7年3月
日本橋から     関種子            同
(いずれも、東京音楽学校卒)。「影を慕いて」は1989年、「日本の名曲10曲」としてNHKテレビ放送で1年間繰り返し放送。



509 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 11:54
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・「古賀メロディ」と呼ばれる曲が
生まれ世に出て圧倒的に謳われたころ、90年前の日本に現在ある歌のほとんどは、童謡、民謡,唱歌などを除いてまだ存在しなかった。
映画「二十四の瞳」は、昭和3年から戦後草創までの瀬戸内の寒村の小学校を描いたものだが、日本は、昭和30年代まで貧しい時代だった。
小学校の卒業を待たずに奉公にだされる子、食いっぷちを稼ぐため可愛い子を奉公に出ささねばらなかった、飽食の時代には考えられない貧しい時代だったのだ。貧しくも心豊かな時代。
この「古賀メロディ」の出現は、こういう社会の中で新鮮なものであったろう。それは単なる歌謡曲の歴史としてではなく、日本の歴史的、文化的、社会的に、特筆されるべき、とても大きな出来事として記憶される。
大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。

昭和3年には、古賀政男の「影を慕いて」が作られ、そして3年後、今からもうすぐ90年前。東北大凶作、昭和大恐慌、の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社。
藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、今までにない「メロディ」を重んじた、新鮮で哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場・・それは人々の心をとらえ、主流だった【晋平“節”】が【古賀“メロディ”】にとって変わられることになった。
最近、なんでも作曲家の後ろにメロディをつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する戦後に至る唯一のトップブランド・敬称。それ以外で「古賀メロディ」のごとく、実際に「メロディ」をつけて使われ通用されたものではない。

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロディー」登場を、娘の身売り相談所の写真とともに大きく伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)












510 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 22:04
 “昭和歌謡の大御所”として、死してなおその名を轟かせる「古賀政男」が、「私は容易ならぬ強敵の出現に思わず身がまえた」「よき宿敵(ライバル)を得て、私の作曲意欲はますます激しく燃えた」とまで自伝に書いた作曲家がいる。
「東京音頭」の中山晋平でも、「リンゴの唄」の万城目正でも、今、朝ドラ「エール」で話題の古関裕而でもない。江口夜詩がその人である。
 その名を聞いて、ピンと来る人は今では少ないだろう。「月月火水木金金」や「憧れのハワイ航路」の作曲者と聞いて、そうかと思う人はかなり詳しいほうだ。とはいえ、かつての江口は、飛ぶ鳥を落とすヒットメーカーであり、コロムビアへの移籍に際して、売れっ子になる前の古関をその余波でクビにしかけたほどの勢いを誇っていた。

なお、コロムビアの顔・古賀政男の文芸部長を通した上層部への抗議によって、古関解雇は撤回となった。
 古賀もこう回想している。「コロムビアには、若き日の古関裕而君がいたが、私が活躍し始めた頃からスランプに陥ってしまった。会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出したのである」。

<朝ドラ「エール」と史実>「半額」どころか「クビ」になりかけた古関裕而。ピンチを救った金子の行動とは
 h ttps://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20200806-00190902/
 そんな江口の記念館が岐阜県大垣市に存在することは、あまり知られていない。
 大垣駅より南西へ、牧田川の流れに逆らうように車で走ること約40分。草木が生い茂る養老山脈の西腹を見ながら、こんな山間にそんなものがあるのかと疑わしくなってきたころ、その建物は突如としてダム湖畔に姿をあらわす。



511 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 22:19
江口夜詩記念館。水嶺湖は隣接するタ?ム湖の名称(2020年7月、筆者撮影)
 日本昭和音楽村。ここには、そんなやや形容過剰な名称がついている。1989年度に、旧上石津町のふるさと創生事業の一環として整備がはじまり、現在では、カフェレストラン、コテージ、音楽スタジオなどを擁する、ちょっとした複合施設となっている。江口夜詩記念館と呼ばれるのは、中核となる円形ドームのホールだ。
 江口の名を冠する理由は簡単で、ここが出身地だからである。
 江口夜詩(本名、源吾)は、1903年、上石津町の前身のひとつ、時村に生まれた。13年間、海軍軍楽隊に在籍してチェロや作曲を学んだのち、1931年、ポリドールの専属作曲家に転身。そこでヒット曲を連発して、1933年、コロムビアに迎えられた。先述のエピソードはこのときのものだ。なお、ペンネームは、早世した最初の妻・喜枝(よしえ)にちなむ。
 代表曲のひとつで、海軍の休み知らずの猛訓練を歌った「月月火水木金金」(正式には「艦隊勤務『月月火水木金金』」)は、ポリドールに復帰していた1940年に発表された。当初あまり受けなかったものの、翌年、アジア太平洋戦争が勃発すると大ヒット。「轟沈」と並んで、江口の代表的な軍歌となった。
 戦後は、もうひとつの代表曲「憧れのハワイ航路」などを発表したものの、1963年ギランバレー症候群と診断され、作曲活動が困難に。それでも、1978年の逝去まで、数多くの弟子を育て、4000曲ともいわれる作品を残した。晩年、医者から「何かアレルギーは」と聞かれて、古賀の「丘を越えて」を上げ、「俺はあれを聞くと蕁麻疹が出る」と答えたエピソードはあまりに有名。江口にとっても、古賀は永遠のライバルだった。
 こういうと、さぞや記念館の展示も立派なのだろうと思うかもしれないが、さにあらず。展示エリアは、ホールの一角にこぢんまりとあるにすぎなかった。資料点数は、100あるかどうか。受け付けに訊ねても、それ以上のものは保管していないという。昭和の音楽資料を広く集める構想もあったと聞いていたので、これには拍子抜けしてしまった。
 ただ、小粒ながら、よく見ると味わい深い。主要なレコードが小気味よく集められているだけではなく、その間を、必要十分な自筆譜や色紙などが埋めている。海軍の報道班員として、マレー半島北西岸沖のペナン島を訪れたときの身分証明書や腕章はいかにも珍しい。
 なかでも「校歌・社歌・町民歌・音頭」のプレートには唸らされた。その名のとおり、江口が作曲した団体歌の作品リストなのだが、これが1時間眺めていられるくらい、興味深いものなのである。
 たとえば、社歌。講談社、西濃運輸、山際電気、主婦と生活社、樺太新聞社、千葉製粉、ホンダモーター、中島飛行機製作所、九州飛行機などの名前が所狭しと並んでいる。普段関係なさそうな会社が、江口の名のもとでつながっていくところに、知的な愉悦を覚えないではおれない。
 官公署の関係では、「長浜警察の歌」「国鉄大船工場歌」「海上保安の歌」、さらには「玉川税務署の歌」も。税務署単位の歌とは、どんなものだったのだろう。これに加えて、「全逓歌」のように、労働組合の歌もあるのも興味をそそられる。h ttps://bungeishunju.com/n/ne451ad97863f

江口夜詩
岐阜県養老郡時村(現・岐阜県大垣市上石津町)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学してチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。



512 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 22:34
>>510

h ttps://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20200806-00190902/
<朝ドラ「エール」と史実>「半額」どころか「クビ」になりかけた古関裕而。ピンチを救った金子の行動とは
辻田真佐憲 | 近現代史研究者
2020 8/6(木) 8:30

(写真:アフロ)

契約から半年すぎても、いい作品ができない裕一。ついに契約金を半額にするとディレクターに言い渡されてしまいます。ドラマでは、音の機転でピンチを乗り越えましたが、実際の古関裕而は“クビ”になりかけた上、契約金を半額にされてしまいました。

事実関係を再確認しておきましょう。古関は、1930年10月、月額200円でコロムビアと契約しました。その後、ノルマの作曲を果たさなかったためか、契約途中の1931年5月に月額が90円に。そして1931年10月の契約更改では、月額が100円になってしまいます。

「こどもと一緒にヒットもかならず古関は産むから」
1931年の契約更改では、解約の危機もありました。なんとか契約を続けてもらおうと、古関は金子をともなって、文芸部長だった米山正(おそらく廿日市のモデル)の自宅に頼みに行ったそうです。

古関は、そのときのことをテレビで回想しています。一緒にいる作曲家の米山正夫は、米山正の息子です。

米山正夫 いきなり100円にね、値下げされた。それでね、生活がたいへんに苦しくなられて。それでご夫婦でね、ある晩、うちへ来られましてね。

司会 そのときも、奥様がお腹に赤ちゃんがいらっしゃったんですね。それで、「こどもと一緒にヒットもかならず古関は産むから」とおっしゃったという。

古関 ええ、「かならずコロムビアに恩返しします」と家内が……。まあ、恩返ししなかったら大変なことですよ。

司会 それはまさに内助の功もいいところで。それで延命したわけですね。契約解除にはなりそうだった?

古関 ええ、はじめ契約解除になりそうだったんですが、それで契約を続けてくださった。

司会 ただし半額になった?

古関 はい、そうです。

出典:「人に歴史あり」東京12チャンネル、1976年6月27日放送
この会話だけでは、時期がわからないのですが、1931年で間違いないと思われます。

というのも、第一子の雅子氏が1931年12月生まれで、ちょうど「お腹に赤ちゃん」という回想と辻褄が合うからです(公式には1932年1月生まれとなっていますが、長男の正裕氏によると、前月にずらしたとのこと)。

これにたいして、次女の紀子(みちこ)氏は1934年7月生まれなので、10月の契約更改時期に合いません。なお、正裕氏は戦後生まれです。

「会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出した」
古関はもういちど、契約解除の危機を迎えています。こちらは、古賀政男の自伝に出てきます。

コロムビアには、若き日の古関裕而君がいたが、私が活躍し始めた頃からスランプに陥ってしまった。会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出したのである。

私は憤慨した。芸術家にスランプはつきものだ。それを理由に契約を左右されたら、安心して作曲などできない。いくら私が順調にいっているとはいえ、私だっていつスランプになるかわからない。

私は断固抗議し、古関君は再契約にこぎつけた。

出典:『歌はわが友わが心』
「江口君」とは、前回取り上げた、江口夜詩のことです。江口がコロムビア入りしたのは1933年ですから、この年の10月、ふたたび古関は危機を迎えていたわけです。

以上から、古関は少なくとも2回“クビ”になりかけたことがわかります。1回としている文献もありますが、それは間違いだと思います。もちろん、今後新しい資料が発見されて見直される可能性はあります。

そんなわけで、同じ条件で契約を継続できたドラマの裕一は、かなり恵まれていたといえるでしょう。それにしても、現実の金子はかなり大胆ですね。その活躍がなければ、古関のヒットも世に出ていなかったかもしれません。



辻田真佐憲
近現代史研究者
1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『古関裕而の昭和史』『文部省の研究』(文春新書)、『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)などがある。

513 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 11:13
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
 2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


514 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 11:31
金子(古関裕而の妻)の通っていた学校は、かつて世田谷区代田にあった「帝国音楽学校」でした。「東京音楽学校(後の東京藝大)」とは別の学校でした。三浦環は東京音楽学校出身。ともあれ音大の授業の描き方や古関の提出した曲の楽譜が単旋律だったり、もう少し専門家も関わってほしいなぁ # エール

515 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 14:53
昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とされる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。

昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。

影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
昭和7年から8年にかけて主な作品

鳩笛を吹く女の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて   〈古賀政男作詞作曲〉      藤山一郎
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
あけみの唄   (原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲) 関種子
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子
二見情話    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵   (島田芳文作詞、古賀政男作曲) 関種子
去りゆく影   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃

「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、ビクター「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。



516 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 15:01
訂正

鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎

517 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 15:12
昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。
(新制東京芸術大学は、戦後学制改革によって、東京美術学校と東京音楽学校が合併してできた。)

関種子(1907〜1990)
昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90


藤山 一郎(1911〜1993)
日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家。バリトン歌手として活躍。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した。


藤山一郎、関種子のコロムビアでの歌謡デビューは、コロムビアの「古賀メロディー」のデビューの歌手としてであり、
その後も多くの「古賀メロディー」を支えることになった歌手である。






518 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:03
乙女心 (鹿山鴬村作詞、古賀政男作曲 関種子)
月の浜辺(島田芳文作詞、古賀政男作曲、河原喜久恵)


82年前、昭和六年(1931)7月発売。「月の浜辺」(島田芳文/作詞 古賀政男/作曲、河原喜久恵)とともに、
昭和6年3月、コロムビア専属作曲家となった若き古賀政男栄えの第一作「乙女心」。
ドイツリートの若きクラッシックソプラノ歌手、関種子の歌謡録音第一作でもある。関種子は藤山一郎とともに、
この後、「窓に凭れて」「朝顔の唄」「嘆きの夜曲」「美わしの宵」「去りゆく影」「あけみの唄」など多くの古賀メロディを支えた。


乙女心

朧月夜の その頃に
トンと踏まれた道の芝
燃ゆる想いに泣きぬれて
露の情の玉襷(たすき)
泣き泣き結ぶ玉襷
乙女心を知ろかいな


関種子出演オペラ
「カルメン」ミカエラ
「ファウスト」マルグリート
「ラ・ボエーム」ミミ
「椿姫」ヴィオレッタ
「ドン・ジョヴァンニ」ツェルリーナ
「トゥーランドット」トゥーランドット
「フィガロの結婚」スザンナ



519 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:21
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックソプラノ歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄 (貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄   (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女    (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋   (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938  松原操盤もあり。







520 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:40
☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。






521 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:02
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952


522 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:30
>>510

古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。

古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。


苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。それは、コロムビアの顔・古賀政男が昭和9年、テイチクに移っていなくなった後だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。





523 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:51
エールをみても、東京行進曲ならぬ「福島行進曲」それに「福島三羽烏」、どうでもよい、マイナーな者ばかしでメジャ―なものがでてこない。応援歌だとか本筋からはずれたことのみでは、おもしろくもない・・、
こうしたものをNHKに強く推したのが福島と豊橋。決しておもしろい などとはいえるものではないもの。

524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 07:53
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。





525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 08:16
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関 種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ

526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 09:42
ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。

古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。


古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。

作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。

81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。

527 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 20:38
昭和12年(1937)からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア

528 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 23:17
今、NHKテレビ本年度前期朝の連続テレビ小説「エール」をやってるが、本日8月25日夜8時のテレビを見ていたら、
突然、歌番組で「古賀メロディ」を紹介。エールでも紹介された古賀メロディ、名曲ばかりの古賀メロディとして最初に紹介。
故郷を歌った歌として、霧島昇の歌う映像を見た後、三山ひろしが、「誰か故郷を想わざる」を歌った。

「エール」の言葉から入ったので、古関の[船頭可愛や」とか歌うのかと思っていたが、古関の作品はなく、「古賀メロディ」の名と歌が最初に始まった。

・・今夜は歌で里帰り!ふるさとへの思いをはせる名曲特集▽“朝ドラ”「エール」でも話題!三山ひろし&山内惠介が歌う懐かしの古賀メロディー・・と。

いかに、古賀政男(木枯くん)・その存在がいかに大きく偉大か、その絶大さを、これが物語るもの・・

うたコン「わたしたちには歌がある!」(17)
NHKTV 8月25日 夜8時
うたコン「わたしたちには歌がある!」 (17) 字幕放送. 三山ひろし&山内惠介の古賀メロディー
今夜は歌で里帰り!ふるさとへの思いをはせる名曲特集▽“朝ドラ”「エール」でも話題!三山ひろし&山内惠介が歌う懐かしの古賀メロディー
▽三山ひろし&山内惠介の古賀メロディー
▽今年ドラマで大ブレイク!上白石萌音
▽嵐のあの曲も秘蔵映像で
▽大阪からも!矢井田瞳・NMB
▽ふるさとグルメ

出演
NMB48,上白石萌音,三山ひろし,MORISAKI WIN
矢井田瞳,山内惠介,フラッシュ金子,MUSIC CONCERTO
司会 谷原章介,赤木野々花
うたコン「わたしたちには歌がある!」(17)
h ttps://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1598313071/l50


529 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 20:47
昭和53年−日本の歌謡曲の父・古賀政男逝去
 
 昭和五三(一九七八)年、歌謡界の父、巨星古賀政男が逝去した。享年七三歳だった。古賀政男の人生は昭和の歴史そのものである。そして波瀾に満ちていた。五度にわたる黄金時代がそれを物語っている。古賀政男は明治三七(一九〇四)年一一月一八日、福岡県三潴郡田口村に生まれた。その故郷は詩人北原白秋の詩情豊かな柳川の近くで、その原風景は《誰か故郷を想わざる》という名曲を生み出した。古賀政男は村の鎮守にかかったサーカス小屋から聞こえてくるクラリネットの音や旅芸人が奏でる月琴の音などによって早くから音楽体験を育んだ。
 古賀政男は七歳のとき父を失い、思い出深き田口村を後にし朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の悲しみが《人生の並木路》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男/一九三七・一)となった。故郷を捨て渡った朝鮮半島の生活は古賀政男にとっては苦闘の時代であった。だが、善隣商業三年のとき、マンドリンとの出会いが後年の古賀政男の人生を決定づけた。長兄の命令で四兄の大阪の支店に勤務させられたが、音楽への情熱が止み難く上京を決意し出奔した。
 大正一二(一九二三)年の春、古賀政男は明治大学に入学しマンドリン倶楽部の創設に参画した。マンドリン・ギター、いわゆるプレクトラム音楽を独学で勉強した。明大マンドリン倶楽部のリーダーとなり当時の人気歌手佐藤千夜子に見いだされた。昭和五年から六年にかけて、佐藤千夜子の歌唱にマンドリン演奏・ギター演奏を加えた自作品をビクターから発売した。昭和六(一九三一)年、コロムビア入社。古賀は最初流行歌の作曲に自信がなく、社員を希望した。だが、藤山一郎との出会いで人生は大きく好転した。藤山一郎の歌唱で《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《影を慕いて》が次々とヒットしそのメロディーは一世風靡した。これが古賀メロディー第一期黄金時代である。その後、古賀政男はテイチクへ作曲家兼重役待遇で迎えられた。 
 テイチク時代の古賀政男は、「創作芸術」と「事業経営」に手腕を発揮した。作品の創作においては《二人は若い》《緑の地平線》《東京ラプソディー》《男の純情》《ああそれなのに》《青い背広で》《人生の並木路》などつぎつぎとヒットし、テイチク時代に古賀メロディー第二期黄金時代を形成した。歌手陣には、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴らを揃え、他社を圧倒した。また、テイチクの重役として経営陣の一翼を担い会社の発展に大きな功績を果たした。殊に文芸部において制作を一切任され手腕を発揮した。その後、外務省の音楽親善使節として、ハワイ、アメリカ、南米を外遊。NBC放送で《緑の月》《ああそれなのに》《男の純情》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》が流れた。

530 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 21:10
古賀政男は、コロムビア復帰後もつぎつぎと《誰か故郷を想わざる》《目ン無い千鳥》《新妻鏡》などのヒットを放ち、流行歌王としての地位を確立した。歌手もコロムビアに復帰した藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、二葉あき子、松原操らがいて充実し、第三期黄金時代を現出したのである。日中戦争以後、軍国歌謡が盛んになるが、古賀政男もテイチクからコロムビア時代にかけて多数の作品を生み出している。だが、戦意昂揚となるような作品が少ない。軍国主義を強力に推進する軍部からは軟弱な歌として徹底的に嫌われたようである。
 戦後の古賀政男は旺盛な創作活動を展開した。近江俊郎が熱唱した《湯の町エレジー》を始め、戦後の復興を背景に《トンコ節》《芸者ワルツ》などのヒットによって第四期黄金時代を形成したのである。昭和三〇年代、吉田正、船村徹、遠藤実、中村八大など戦後派の作曲家が歌謡界を席巻すると、古賀政男も新たなスタンスを構築しなければならなくなった。そこに美空ひばりへの接近が見られた。古賀政男は美空ひばりを得て《柔》《悲しい酒》をヒットさせるなど五度目の黄金時代を形成し歌謡界の巨匠として君臨した。  古賀政男の作品は、古賀メロディーと言われ、初期作品においてはマンドリン・ギターのクラシック作品の影響が強かった。この分野はプレクトラム音楽と言われているが、古賀政男のこの分野における造詣はかなり深いものがある。歌手には藤山一郎、関種子ら声楽家や、淡谷のり子、二葉あき子、松平晃、楠木繁夫らの音楽学校出身者が古賀メロディーを彩った。昭和恐慌、満州事変などの暗い世相を背景にしたセンチメンタルなメロディーに加え、昭和モダンを高らかに歌う作品などその音楽は豊饒なものであった。そして、テイチク時代の後半から日本情緒を基調にした邦楽的技巧表現に重点を置き、戦後の円熟期にかけては演歌の源流となるような作品を生み出した。
 古賀政男は日本人の哀しみによって流す涙や怨恨の根源を仏教に求めていた。つまり、演歌・艶歌の心情を声明にその源流を遡及したのである。仏教の典令音楽である声明から、平曲や謡曲、浄瑠璃、説教節、浪花節への流れと、和讚(国産声明)や御詠歌、子守唄、民謡、江戸小唄へという二つの系脈となり日本人の内面世界に浸透していった。その音楽は旋律型をつなぐことによって構成された。古賀は最後の黄金時代を迎えた後、敢えて自らの音楽遺産を矮小化することを覚悟して演歌の源流というスタンスを明確にし演歌系歌手である美空ひばり、島倉千代子、村田英雄、北島三郎、森進一、五木ひろし、都はるみらにそれぞれの個性をもって自由自在に古賀メロディーを崩させながらを歌わせたのである。多くの日本人を感動させた音楽人生だった。 



531 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 21:40
コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

三浦環の祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から日本的情緒を基本とした邦楽的技巧表現の傾向をますます強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和 15 年 に日本コロムビアから発売された唄で、日本国内よりも大陸に渡り激しい戦火の中にあった兵士たちのあいだで圧倒的に支持された。

大戦中に中国へ慰問に行った渡辺はま子が、この歌を歌ったところ、のちに元帥陸軍大将になられた畑俊六大将(支那派遣軍総指令官、後に元帥陸軍大将第二総軍司令官。終戦時.第一総軍司令官 杉山元元帥陸軍大将とともに天皇陛下に終戦を上奏した。)が「目の前で泣き出されて、わたしも涙声で歌ってしまった。」と古賀に話したということが古賀政男自伝「わが心の歌」に載っている。

自伝には支那事変が泥沼になってることを想わざるをえなかったという。

また、夜も光り輝くニューヨークなど太平洋戦争開戦直前の豊かなアメリカをつぶさに見てきた古賀にはアメリカとの戦争は無謀にしか見えなかったと自伝に書いている。

いくら国が見栄を張っていばって士気を高めようとしたころで、人の心は優しくもろいものなのだ。普遍的でそこに嘘偽りがない、だから人の心を打つ・・誰か故郷を思わざる。



作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、80年前の昭和15年、1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。


約1年間、「外務省音楽文化親善使節」として、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国した古賀政男。

昭和14年〈1939 〉8月31日、当時1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。


532 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 22:23
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇

1 花摘む野辺に日は落ちて
  みんなで肩を組みながら
  唄をうたった帰りみち
  幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
  ああ誰(たれ)か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
  小川の岸でさみしさに
  泣いた涙のなつかしさ
  幼馴染のあの山この川
  ああ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の降る夜は
  涙に胸もしめりがち
  遠く呼ぶのは誰の声
  幼馴染のあの夢この夢
  ああ誰か故郷を想わざる

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞 古賀政男作曲 昭和十五年(1940))

本当に、心の奥深くに染み入る、魂の歌ではないでしょうか。日本人の心の歌だと思います。

「一人の姉が嫁ぐ夜に 小川の岸で淋しさに」・・・深い姉弟愛を感じさせるフレーズですね。
決して軽くはない内容を織り込んだ歌でありながら、軽快なリズムが我々を惹き付けてやまない昭和の名曲です。

出だしの「花摘む野辺に 日は落ちて」の歌詞に、平易、簡潔この上ない表現で日本人の心をとらえていると思います。

「都に雨の降る夜は 涙に胸も湿りがち」に、私などはフランス文学者の西條八十を感じます。
それにもまして、古賀メロディーの前奏、間奏を含めた構成力の大きさに圧倒されます。

この歌は台湾、中国でも根強い人気があるそうです。田舎、村落共同体、そしてその地縁、人脈が息づいている国では受け入れられるでしょうね。日本の農村の衰退がさびしいです。
 
 昭和15年にこの曲を出す時、レコード会社の上層部には慎重論があったとか。「誰か故郷を想わざる」という反語表現は国民の知的水準では難しいのではないかという意見だ。失礼な奴らだ。同時に、軍部の上層部にも慎重論があったという。「四面楚歌」の例を出して望郷の念の高まりが戦意の低下を招くと心配したのだ。これまた日本人の情感、魂の根底を知らぬ輩だ。


霧島昇唄、作詞:西條八十、作曲:古賀政男「誰か故郷を想はざる」の歌碑が、茨城県日立市から車で約1時間の福島県いわき市大久町(霧島昇さんの生誕地)にあります。震災後の何年か前に、訪ねた事があります。

新興キネマより同名映画が製作された。 ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。
ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣きして、満場涙に暮れたというエピソードもある。

内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。





533 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 23:28
故郷を離れて生きる人にとってこの歌ほど普遍的で望郷の想いを歌った歌もないであろう。

〈花摘む野辺に日は落ちて〉と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

古賀メロディは今日本人が忘れかけている大切なことを思い起こさせてくれる。

《誰か故郷を想わざる》は古賀の少年時代の記憶に残った郷土の原始的郷愁の風景と重なるもの。

80年経た今でも延々と歌い続けられる、古さを感じさせない普遍性を持つ典型的な日本のスタンダードである。

「愛染かつら」三部作でスターダムに上った霧島昇が初めて歌う記念すべき古賀メロディー「誰か故郷を想わざる」。

「古賀メロディー」の原点・・それは『母(の愛)』と言われる。

苦学を強いられた明大時代幾度か年老いた母の待つ故郷に帰りたい衝動にかられた。

故郷への回帰は「忘れ難い物」への追慕である。

だが、古賀は、終生故郷田口村へもどることはなかった。故郷への想いは、古賀メロディーの原風景でもある。
 



534 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 12:10
☆古賀政男と『七人の侍』

古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。

いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。

古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりした人。 

古賀政男邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。

そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。

3000坪の広大な古賀政男邸、坂を登った左側には大きな車庫が3つあって、幅2mもあるリンカーンや、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。

右側に和洋折衷の洋館、その大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。

あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカード、フォードや、リンカーン、ベンツを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。

戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。

古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」(銀座)発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。(また古賀メロディの多くに明大マンドリンクラブ演奏が多い、明大マンドリンクラブ演奏以外にも、古賀政男オーケストラ、古賀政男サロンオーケストラ等の名前もそうである。)

 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。

さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。

『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。

このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

53年8月4日、独自の曲調「古賀メロディー」作曲による業績により、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られ、王選手に次いで二番目。

生存者に贈る賞で、亡くなった人に贈ることに異論があったが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった。博物館に展示されている。
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/fc680eb40403d8544cc667836dceca8a

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 b ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


535 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 12:31
☆古賀政男とその主な人脈

古賀メロディの隆盛を支えた広範な音楽家、詩人、文化人たち

歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・

詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウ・ハチロー 、島田芳文 ・・

作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・

その他、文化人
   ;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・


主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや・・、

美空ひばり、島倉千代子、畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子・・・



536 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 15:25
佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウ・ハチロー 、島田芳文
・・
中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・
美空ひばり、島倉千代子、畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子・・・

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校主席)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。
それは、出身地三羽烏・・みみっちい「○○三羽烏」とか、そんなものでは収まり切れない、スケールの大きな偉人、名士だったといえる。
多くの歌手や門下生を育成し、テイチク(帝国蓄音機)を全権を持って育て、大レコード会社に育て上げた。

537 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 15:53
朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3

日本の芸能界、歌謡界に偉大な足跡を残してきた方たち。
佐藤千夜子
藤山一郎
菅原都々子
渋谷のり子
ディック・ミネ
アントニオ古賀
美空ひばり
森進一
五木ひろし
小林幸子

一人も知らないという日本人はいないでしょう。
彼らにはある共通点があります。
半世紀かけて4000曲を手掛けた昭和歌謡の巨人・古賀政男――。
第2回国民栄誉賞を受賞した偉人であり、2020年の朝ドラ『エール』にも登場する「木枯正人」のモデルです。
ドラマでは人気ロックバンドRADWIMPSの野田洋次郎さんが演じていますが、この偉大なる作曲家とはどんな人物だったのか?
その足跡を追ってみましょう。・・



538 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 20:28
■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。

東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。

「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。

今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。

以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児    東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校  蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞) 1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞)1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)


関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、東京音楽学校本科主席卒業。


539 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 21:01
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 1989


「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった90年以上前、明治・大正から昭和の初め、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその日本の抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が愛して
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ「日本の名曲」です。

この10曲に、佐藤千夜子によって世に出た二曲、『波浮の港』と『影を慕いて』が入っています。

540 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 16:46
昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、まだ中山晋平の晋平節が華やかなりし昭和の初め、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。

・古賀政男(正男)最初期のレコード 

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の作品

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・

『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌)。

[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子
  
『文のかおり(古賀正男作詩作曲編曲)』、『娘心も(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『青い小鳥(作詩者不詳・古賀正男編曲)』、『風の鈴蘭(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『片思い(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』ら5曲がビクターレコードで佐藤千夜子によって吹込まれたのは昭和4年(1929)12月23日。

続いて、昭和5年(1930)10月20日、『日本橋から(浜田広介作詩)』、『影を慕いて (古賀正男作詩作曲編曲) 』2曲が、佐藤千夜子の歌唱でビクターレコードで吹込まれた。
佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し たのだ。昭和9年に再び日本に。

・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心      鹿山鶯村 関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺     島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄   島田芳文 藤山一郎  1931年6月 コロムビア 26325



541 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 20:02
■古賀メロディとは・・「花は咲く」と「嘆きの夜曲」


「嘆きの夜曲」(西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子)1932

呼んでみたとて かえらぬ人よ 
なぜに儚い 夢じゃやら
  
想いつかれて 心に秘めて 
暮れりゃ寂しい 雪ばかり 

泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
なぜに尽きせぬ 涙やら

灯影(ほかげ)つめたく 愁いはながく
絃(いと)のすさびも 嘆(な)くばかり




さて今、たまに[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。

地震直後から放影されていたものですが、何の歌なのかもよくわからない。
花が咲くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、小学生の合唱コンクールか顔見世ソングかといったところ。

遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、今ないが、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」がアップされていた。解説にはこうありました。・・



嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・

80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予見
したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。

同じ時期の藤山一郎「影を慕いて」とともに古賀政男初期の名歌の一つだと思います。関種子の歌唱力も最高。

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感じさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。

憂い、哀しみ、苦悩を歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。



542 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 20:33
色々な歌手がカバーしている「影を慕いて」、絶望の中から生まれたとされる「影を慕いて」は、今から90年以上前の昭和3年(1928)、まだ学生時代の古賀政男(正男)によって、昭和3年(1928)の秋、秋雨そぼ降る下宿で作曲されたといわれる。

そして「明治大学マンドリン倶楽部」のギター合奏による《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月22日の第14回定期演奏会(赤坂溜池三會堂)だそうです。

これを最初にレコードにしたのは、ビクターのスタ−歌手で、日本における「レコード歌手第一号」とされる佐藤千夜子。昭和5年10月20日だそうです。(発売は昭和6年1月)

佐藤千夜子は、この8日後にイタリアに渡って、昭和9年に帰国するのですが、当然行われるべき宣伝・バックアップもできずこれが広く歌われるまでには至らなかったようですが、このレコードに依って、一苦学生・古賀正男は「コロムビア」の専属作曲家として迎えられることになるのです。
なお、古賀政男は後に自伝『我が心の唄』〈展望社)で、佐藤について『[私に作曲家としての道を与えてくださった終生の恩人』とかいている。


これを歌ったのは、同じく古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を歌った増永丈夫(藤山一郎)でこれが「流行歌手」としての初デビューでした。
これ以後、古賀政男、藤山一郎のコンビはレコード会社が何度か変わるも、今に残る数々の殊玉の名曲を世に送り出すことになる。

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手によって支えられたのです。(藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビューで、昭和6年。)

今の東京芸術大学音楽学部の前進『東京音楽学校』昭和8年首席卒業である藤山一郎は、本名・増永丈夫(たけお)の名では、主にクラッシックを歌っていた。

また、中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。



543 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 21:01
戦前の歌手がステレオで再吹込みした録音盤があるけど、
やはり最初の録音がいちばんいい。声も若々しくきちんと歌っている。
再録音は声も衰え、編曲もヘンな風にアレンジしてあり違和感を覚える。



544 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 19:11
☆「古賀メロデー」とは

昭和53年(1978)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、古賀自身最後の公の姿となった。

それから約1か月後、昭和53年7月25日の午後1時15分、代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73歳。

その死から10日後の同年8月4日、前年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。

生前に贈ることが目的で、異論もでたが福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることを決めたのだ。・・

古賀政男は父の死後、7歳の時かから17歳まで一番多感な10年間、故郷・田口村を捨てて一家で朝鮮に渡り、10年間朝鮮で暮らすわけだが、この10年間の朝鮮での生活・・それは家族の中で居場所の無い筆舌に尽くしがたいものだったという。


「古賀メロデー」の原点になってるともいわれ、特にキーワードは「母(の愛)」といわれ、このあたりのことは『古賀政男物語』などの古賀政男のドラマに描かれている。

NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男」では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。

そのなかで、上記「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。参考に一部を書く。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。

古賀メロディの歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根ずいた歴史でもあること。

「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった。でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。

古賀政男は貧乏だったが、その後成功に次ぐ成功だった。

でも心の底には消すことのできない、しこりのようなものがあった、それが何であるか自分でもわからない。

そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、体をおして昭和53年再び朝鮮に渡ることにしたのだった。 (TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る」で放映。)

そして両脇を抱えられるようにしてタラップを降りた古賀政男を迎えたのは、朝鮮の民族衣装の女性たちが演奏する子供のころに、聞いた懐かしい朝鮮メロデーとであった。

そしてうつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。

家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶしでもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。
・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989) ・・

音楽の道に進みたい古賀は、商人になれとの長兄の反対を押し切り、そのかわり商学部の明治大学予科に大正12年に入学しました。ここで人生を変える二人の人物との出会いがあります。

古賀は入学と同時に有志とマンドリン倶楽部を創設しています。彼は、アルバイトで音楽教室「駿河台音楽院」でギターとマンドリン講師をして学費を稼いで生活をしていました。

古賀は、昭和3年(1928年)に音楽教室の生徒中島梅子という女性との恋愛関係にあり、身分の違いから別れなければならない辛さ、そして梅子の自殺を知ります。

「大学は出たけれど」という映画ができた程、大学を出ても就職できない厳しい環境の中、就職の目処がつかないという将来への不安から、蔵王の青根温泉で自殺を図ります。

このあたり、「古賀政男物語」に詳しい。

そして、古賀政男は、その自伝『わが心の唄』で、私を作曲家の道を切り開いてくださった「終生の恩人」と書いている、ある重要な人物、佐藤千夜子との出会いを果たします。



545 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 19:34
佐藤千夜子は、大正から昭和にかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手、日本初のレコード歌手で、その足跡は昭和52年NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインとしてドラマになった。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。


<「古賀政男」の出てくるドラマ>

・昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
・昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
 若尾哲平   
・昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
      (1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)
・昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十) 
 NTVテレビ
・平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京
・平成5年 西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男  NHK   1993年2月4日


参考までにこうしたテレビ、ラジオドラマ等は、NHKは、埼玉・川口のスキップシテイー
や、東京港区愛宕のNHK放送博物館や各県のNHK放送局で見れる。

民放等は、横浜の情報文化センター・放送ライブラリで見れる。多彩なコースでご要望に合わせたレッスンが可能で以下NHKは横浜の情報文化センター・放送ライブラリでみれます。
・NHK 幾山河は越えたれど・昭和のこころ・古賀政男(1979.04.14)
・テレビ大阪 古賀政男物語  1992.03.03
・ NHK 連続テレビ小説[いちばん星] 第一回目(1977.04.04)

NHK連続テレビ小説「いちばん星」は、川口のNHKアーカイブス、NHK放送博物館、NHK各放送局でみれます。(最初と最後と途中いくつか。)

・NHK HPによると、NHKアーカイブスで以下が保存されてるとあります。(閲覧できないが)

・西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男        1993年2月4日
・この人と語ろう                 1977年11月21日
・あの人あの芸 古賀政男             1997年5月5日
・NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男  前編 2002年12月29日
・NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男  後編 2002年12月30日
・NHK映像ファイル あの人に会いたい 古賀政男 2006年4月29日 

・NHK連続テレビ小説「いちばん星」(最初と最終回と途中)は見れる。



546 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 20:04
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。


547 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/30(Sun) 08:47
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩
123 :昔の名無しで出ています:2013/12/05(木) 22:36:49.27 ID:ZY20NSLm.net[3/3]
>>122
(参考)






548 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/30(Sun) 09:15
(参考)

☆「荒城の月」について


「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 戦後を除くSP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲

549 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/31(Mon) 15:07
>>548

「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。
当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。
三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。



「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。

550 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/31(Mon) 22:41
「片思い」(かた思い)昭和6年6月 佐藤千夜子
           昭和7年6月 関種子
          
(一)
ハーアー
山は山晴れ
野は野で晴れた
鳴くぞ ポーポーと
山鳩が

(二)
ハーアー
鳴いて 鳴かれて
雌鳩に 雄鳩
飛ぶぞ 並んで
ぱちぱちと

(三)
ハーアー
さても私は
あの娘を好いた
好いて逢わなきゃ
片思い

(四)
ハーアー
浜のアワビの
届かぬ思い
野良が晴れても 
気が塞ぐ



551 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 09:33
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)

552 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 12:26
昭06-02 風の鈴蘭. 佐藤 千夜子. 浜田 広介. 古賀 政男. 夜店の風に鈴. 蘭の. ビクター. /51698B. 風の鈴蘭(佐藤千夜子). ビクターで出た古賀作品7曲のひとつ。夜風にわびしげに揺れる鈴蘭と乙女心を歌った小品。

553 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 21:04
>>526,>>538

(参考)
放送オペラ 放送一覧

内山惣十郎著「浅草オペラの生活」(昭和42年 雄山閣)を基に構成しました。
h ttp://stokowski.web.fc2.com/jp/nattoku/opera_air.html


二村定一、徳山l(たまき)、天野喜久代、河原喜久恵、藤原義江、佐藤千夜子、奥田良三、川崎豊、四家文子、関種子、増永丈夫(藤山一郎の本名)・・

知る人ぞ知る錚々たる名がみられますね。







554 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 21:24
(参考)

◇徳山l追悼/青砥道雄(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.98-100)

内容:徳山l[とくやま・たまき]は1942(昭和17)年1月28日、慶応病院で死去したが、声楽家としての磨きをかけて本領を発揮するのは、これからという時だった。
/徳山が東京音楽学校を出たのは1928(昭和3)年で、ちょうどビクターやコロムビアが日本吹込みを開始したばかりの時だった。当時できたばかりの武蔵野音楽学校の先生になったが、生活の設計にはいろいろ苦しみ、周囲の猛烈な反対を押し切ってビクターの専属歌手となった。
そしてレコード歌手のレベルを一気に引き上げ、自分の仕事も軌道に乗せた。こうしてレコードのごく初期にこの世界に飛び込んで、しかも終始一貫一社の専属として他社に動かず、十何年間のレコード変遷とともに生きてきた。
/第1回の吹込みは1930(昭和5)年で松竹映画の主題歌《叩け太鼓》、次が《撃滅の歌》(堀内敬三作曲)、1931(昭和6)年の《さむらひ日本》《るんぺん節》(いずれも松平信博作曲)で全国的に有名になった。
満州事変の時には《満州行進曲》(堀内敬三作曲)を歌った。

日中戦争前に官能的な流行歌の時代となったが、この時期、徳山は《天国に結ぶ恋》(松平信博作曲)や、勝太郎といっしょに《櫻音頭》を歌った。この頃の徳山は、ロッパと組んで盛んに芝居をやった。
日中戦争が起こってからは、《愛国行進曲》《日の丸行進曲》《大陸行進曲》《太平洋行進曲》を歌い、晩年には「トントントンカラリ」の《隣組の歌》を歌った。指導振りは誰にでも親しまれていたので、亡くなった直後、あちこちの隣組常会で故人の話題がしきりに出たという。
/徳山の声は実にきれいだと言われるが、声の寿命を長く保持するために禁酒・禁煙をしていた。そうした努力があってこそ、ベートーヴェンの《第九交響曲》と流行歌を同時に歌うことができたのである。
/今度の病気は、1941(昭和16)年11月に発病したのだが、同年2月には痔で入院しているから、全体に身体が弱っていたのかもしれない。しかし死ぬ前日にも、日ごろの洒脱な調子を失わずに歌っていたそうである。なんでも頭が痛いといって頭を叩いたのがいけなかったらしい。
/徳山は、さいきん音楽芸術への自覚を深め、声楽家として本腰を入れようとしていた。その一つの現われが《冬の旅》独唱会であった。ポスターやプログラムも全部自分で図案を考えたが、それが黒一色で、死んで行く徳山を予感されるようで縁起が悪い図案だった。
1941(昭和16)年に痔で入院したときには首相から見舞をいただいたし、この度はまた首相から弔問を辱うしている。

メモ:p.99に「徳山l略年譜」が掲載されている。



徳山lは、代々木上原駅前の古賀政男音楽博物館にも顕彰されている。
パソコンで選んで顕彰者のレコードを聞くことができます。




555 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/02(Wed) 21:09
愛馬進軍歌(徳山 l・四家文子)              公開日:2011/11/24

昭和14年(1939年) (文部省検定済) 陸軍省選定 
作詞:記載無 
作曲:記載無 
編曲:深海善次 
歌唱:徳山 l・四家文子 
X-3(J-368)

556 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/02(Wed) 21:14
愛の子守唄(松村久男)                公開日:2013/03/07

昭和10年(1935年) テイチク 松竹鎌田特作川田芳子引退記念映画 「母の愛」主題歌 
作詞:高橋掬太郎 
作曲:清水保雄 
歌唱:松村久男 
伴奏:古賀政男サロンオーケストラ 
15092-A 
※レコード番号が同じ「スタンダードレコード」盤が存在、作詞・作曲者記載無、伴奏:OSオーケストラとなっている。

浮世の風の激しさに、翼は痛み傷つきて、はてなき旅に啼く鳥も、子故(ゆえ)に強き親ごころ♪♪
嘆きに暮れてあかす夜も、唄うは愛の子守唄、いとけき夢を見守りつ、涙で唄う子守唄
♪♪♪
茨の道の険しさに、心は痛み傷つきて、女は弱きものなれど、子故に強く生きてゆく
※にいちゃんの「なつめろダイアリー」に下き記述があり。
1935年(昭和10年)の歌謡曲。松竹映画「母の愛」主題歌。当時人気絶頂の川田芳子さん 
女優引退作品。テイチク清水保雄=古賀政男作曲。 歌唱の松村久男は翌年 
『酒の中から(玉川映二作詩・古賀政男作曲編曲)』が大ヒットの有島通男氏別名(有島氏 
最初のヒット『大楠公(島田磬也作詩・古賀政男作曲編曲)』と松村久男=赤尾松三の歌声は 同じ)。1937年、テイチク廉価レーベル「スタンダード」で再発売。

557 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/02(Wed) 21:33
朝顔の唄(關 種子)                       

昭和07年(1932年)  
作詞:佐藤惣之助 
作編曲:古賀政男 
歌唱:關 種子 
26967-B(36479)

558 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 21:53
「丘を越えて」と山田耕作

古賀政男は、昭和6年3月にコロムビア専属にになり、この一年でコロムビアの顔、コロムビアのドル箱になってゆく。

丘を越えて、
多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品、古賀メロディ。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴  く人の心を捉えて離さない。

『丘を越えて』、歌詞が出てくるまで、沢山の音符で構成された楽譜一枚分の前奏である。ひとの心をとらえないはずがないのだ。

これが当時の主流であった『晋平“節”』と一味違う、新鮮な『古賀“メロディー”』というものかと気ずかなければおかない楽譜である。

島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「キャンプ小唄」「丘を越えて」「月の浜辺」「窓に凭れて」などを初め 、童謡など多くの大衆歌謡を手がけた


昭和6年(1931)、まだ東京音楽学校の学生だった若き「藤山一郎」によって歌われた《丘を越えて》、いつの時代でも青春を謳歌する青春の息吹を感じさせる歌。今でもあちこちで演奏あれ歌われている名曲である。

なお、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。

山田耕作は「明朗性」を表す傑作として高く評価、ヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持ち歩き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。

日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、《古賀メロディー》を高く評価。

日本における交響楽団の雄たる山田耕筰がその最大の理解者であった事は特質に値する。

専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年(1932)12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、おなじくコロムビアの山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式、28歳の時である。

その前、昭和7年(1932)6月には、古賀政男と山田耕作、二人の作曲家の合作・競作企画、財団法人富民協会の当選歌「農村婦人の唄」の作曲がある。





559 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 22:12
《昭和・・「丘を越えて」・・古賀メロディの時代》

古賀メロディの時代・・・・、丘を越えて、酒は涙か溜息か、影を慕いて、‥の時代、それは日本の歴史の中でも最も苦難の時代でもあった・・


□昭和6年(1931)
金輸出再禁止。失業者300万人。東北・北海道大凶作、娘身売り。         
満州事変−柳条湖事件。溥儀擁立。       
歌; 「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」。        
□昭和7年(1932)
上海事変。満州国建国。五・一五事件、犬養首相射殺。ドイツ、ナチス第一党に。
歌; 「影を慕いて」「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」「涙の渡り鳥」 。    


昭和6年
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)



560 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 22:31
☆萩原朔太郎と古賀メロディ

『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。

 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...



・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫

・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)


詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。



561 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/12(Sat) 19:58
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵(ずえ)の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1932.1
南海小唄   (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 1932.1
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
曙に唄う (太田哲城作詞、 古賀政男作曲)1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
嵐の島 (西條八十作詞,  古賀政男作曲) 1933.2
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲)1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲)1933.3
処女よさらば (西條八十作詞 古賀政男作曲)1933.9


乳姉妹の唄   (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲)1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲) 1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90




562 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 10:32
>>561

「かた思い」(片思い)(浜田広助作詞、古賀政男作曲)26897 昭和7年6月


563 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 10:55
「かた思い」(片思い)
浜田広助作詞、古賀政男作曲  昭和7年6月

佐藤千夜子
関種子 (昭和7年6月)

1.
ハアー
山は 山晴れ
野は野で晴れた
鳴くぞ ポーポと
山鳩が

2.
ハアー
鳴いて 鳴かれて
雌鳩に 雄鳩
飛ぶぞ 並んで
パサパサと

3.
ハアー
さても わたしは
あの娘を 好いた
好いて 逢わなきゃ
かた思い

4.
ハアー
浜のアワビの
とどかぬ思い
野良が 晴れても
気が塞ぐ




564 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 11:37
窓に凭れて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一) 
行きて返らぬ 若き日を
窓に凭れて 思いみる
夢多かりし かの頃の
雲のかからぬ 清らかさ
ああ 過ぎにし 過ぎにし春の
思い出よ

(二)
ただやすらけく ありし日の
胸のあこがれ 泡と消え
たけての今日の この胸に
地上の愛の なやましさ
ああ 涙に 涙にくるる
このこころ


関種子はクラッシックソプラノ歌手で、佐藤千夜子、長門美保、佐藤美子、四家文子、松原操などと共に活躍し、初期の古賀メロディーを中心に、ヒット曲を出した人気歌手でしたが、短い芸能界でした。

関種子は、クラッシックのソプラノ歌手で、本格的な声楽家です。
明治40年9月18日、岡山県生まれで、小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京音楽学校に進学、在学中に結婚、本科を首席で卒業しました。
坪内逍遥原作、山田耕筰作曲の歌劇『墜ちたる天女』で楽壇デビュー、クラッシックのソプラノ歌手の活躍を始めました。
『墜ちたる天女』の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだ縁で、昭和6年に同社からデビュー、『窓に凭れて』『嘆きの夜曲』『あけみの唄』『日本橋から』など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせています。


私は国立音大で関先生に教えを受けました。ご自宅にもレッスンに行きました。また、軽井沢でのセミナーにも参加しました。とても素晴らしいコロラツゥーラソプラノでした。先生が本邦初演の「ランムールのルチア」のアリアを頂き、練習しました。大学3年の時でした。中田喜直の「霧と話した」も初演でした。有名で日本語もドイツ語もイタリア、フランスと造詣が深く、素晴らしい声楽家でした。この頃は歌謡曲が声楽と言われていたそうです。しかし今のような文化ではなく、日本歌曲をどのように浸透してゆくか、迷った時代でした。NHKのラジオでの多くの音大での声楽家、オペラ歌手が今で言う歌謡曲を歌いました。美しい発音と発声法でマイクに頼らず、心を歌いました。私が卒業の時『心と声』と直筆で書いてくださいました。今70歳を目前にその意味がやっと解ってきました。
心の歌を歌うのは声を大切にしなくてはなりません。関先生にもっともっとお習いしたかった今日この頃でした。



565 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 21:38
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。

82年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。

566 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/25(Fri) 21:25
>>564

関 種子(読み)セキ タネコ
20世紀日本人名事典の解説

昭和期の声楽家(ソプラノ) 国立音楽大学名誉教授;千種会主宰。



生年 明治40(1907)年9月18日
没年 平成2(1990)年6月6日
出生地 東京
本名 秋山 種子
学歴〔年〕 東京音楽学校本科〔昭和4年〕卒
主な受賞名〔年〕 紫綬褒章〔昭和49年〕,勲四等宝冠章〔昭和56年〕
経歴 昭和4年楽劇「墜ちたる天女」の主役として出演、以来第一線の歌手として活躍。31年「コンセールf」の結成に参加。また国立音大・名古屋音大各教授も務めた。著書に「音楽家になるには」。
出典  日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報



新撰 芸能人物事典 明治〜平成の解説

職業 声楽家
専門 ソプラノ
肩書 国立音楽大学名誉教授,千種会主宰
本名 秋山 種子
生年月日 明治40年 9月18日
学歴 東京音楽学校本科〔昭和4年〕卒
経歴 昭和4年楽劇「墜ちたる天女」の主役として出演、以来第一線の歌手として活躍。31年「コンセールf」の結成に参加。また国立音大・名古屋音大各教授も務めた。著書に「音楽家になるには」。
所属 団体日本演奏連盟(評議員),日伊音楽協会(理事)
受賞 紫綬褒章〔昭和49年〕,勲四等宝冠章〔昭和56年〕
没年月日 平成2年 6月6日 (1990年)
家族 姉=関 鑑子(ソプラノ歌手),弟=関 忠亮(バス歌手),娘=関 弘子(女優)
伝記 オペラ歌手奮闘物語―繰り返せない旅だから〈4(最終巻)〉 畑中 良輔 著(発行元 音楽之友社 ’09発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治〜平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治〜平成について 情報

567 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/25(Fri) 21:36
2009/9/18
「武岡鶴代 関種子」  今日のひと こと
 1895年・明治28年の今日、岡山県で後にソプラノ歌手となる武岡鶴代が生まれています。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ・レーベに師事し、1916年・大正5年東京音楽学校を卒業しました。
 1924年・大正13年に国立音楽学教授となり、1929年から3年間ドイツに留学しました。大正から昭和初期にかけてドラマチック・ソプラノとして活躍しました。
 1935年門下生の希望によりプロの音楽家を養成するための「鶴声会」を発足させました。その功績を称え「武岡鶴代賞」が設けられています。
 もう一人ソプラノ歌手の話題です。

 1907年・明治40年の今日、東京で関種子が生まれています。姉鑑子はソプラノ歌手としてうたごえ運動を起こしました。
 1924年東京音楽学校声楽科を卒業します。姉や武岡鶴代と同じネトケ・レーヴェの教えを受けました。
 卒業後も研鑽を積み、昭和4年に山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の初演で第七の天女でデビューしました。
 その後ソプラノ歌手として藤原歌劇団で「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌います。
 流行歌手としても、昭和6年に吹き込んだ「日本橋から」、「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」、「乙女の春」、「雨に咲く花」などのヒット曲も多くあります。
 戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍しました。オペラばかりではなく、コンサート歌手としても、歌曲のリサイタルなどでも幅広い活躍をしました。東京芸大や国立音大で後進の指導に当たり、多くの門下生を育てました。
1


568 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/26(Sat) 12:19
(参考)
h ttps://item.rakuten.co.jp/cfc-co/d6160/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_102_1_10001643

<古賀政男名曲大全集>
2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えます。その記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。出演者も、藤山一郎を初め、淡谷のり子、霧島 昇、二葉あき子、李 香蘭、近江俊郎、神楽坂はん子、村田英雄、美空ひばりなど、まさに綺羅星のごとき大スターたちによる夢の饗宴盤となっています。
過ぎ去りし昭和を振り返りながら、もう二度と現れないであろう大作曲家の音楽の真髄に触れていただく、まさにコロムビア創立記念に相応しいBOXセットです。

CD10枚組
全200曲収録
別冊歌詞集付
専用ケース入り
古賀政男 名曲大全集
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商品番号 D6160 コロムビア創立100周年記念特別企画!
選びに選び抜かれた「古賀メロディー」の名曲200曲!!
【演歌・歌謡曲 CD】
古賀政男 名曲大全集 商品番号D6160


569 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/26(Sat) 21:23
>>559

日本の歴史は飢饉の歴史ともいえる。昭和に入っても飢饉はあった。
東北の大凶作による飢饉と社会不安、それは太平洋戦争に到る遠因ともいわれる。
日本は農業国家でまだ草深い、まだ貧しい時代だった。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。




570 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/26(Sat) 21:51
昭和大飢饉(大凶作)について
おしんみました。東北で飢饉が起こり、身売りでおしんの元に養女となる初子がやってくる場面など窮乏さががよくわかり、満州事変からはじまる太平洋戦争開戦、敗戦の流れがだいたいわかりました。石原莞爾は山形県出身と、誰がどう考えても飢える故郷のために軍人が立ち上がったと言ってはいけないのかもしれないけど立ち上がったのを見ると、現在では考えられない、上の方のほうが今以上に「責任」があった時代だったんだなと感じました。


戦争に関するテレビや映像、本はたくさん出回っていますが満州事変〜太平洋戦争のはじまりとも言える自然災害の東北での不作,凶作の飢饉は戦争を語る上で現代あまり有名ではないように感じます。いかがでしょうか?


571 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/14(Wed) 23:07
age

572 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/15(Thu) 14:58
昭和16年、軍関係の慰問演奏が多数行われ、この年発売されたレコードは「蘇州の夜」「夜霧の馬車」を初めとする等13曲。
この時期、李香蘭が参加した最も巨大規模と思われる音楽イベントが、
読売新聞主催・後楽園球場で2万人の観客を集めた「そうだその意気」発表会である。

製作過程
当時、各メディアは軍や国家機関の協力を得て、国策協力の歌を積極的に作っていた。


「露営の歌」東京日日新聞(現・毎日新聞)   
「兵隊さんよありがとう」朝日新聞
「婦人愛国の歌」主婦之友                 「出征兵士を送る歌」キング

「そうだその意気」もその流れの中、読売新聞が作った歌である。
後援は陸軍・海軍を含めた全ての省。情報局・大政翼賛会・日本放送協会。
作曲・古賀正男。作詞・西條八十。歌手は李香蘭・霧島昇・松原操。
多くの政府関係機関が後援を行い、コロムビアを代表する人気歌手と製作陣が参加する
大規模な音楽プロジェクトだった。

「聖戦完遂 国民総意の歌 募集」と題された記事が3月21日付に掲載され、
歌詞のテーマは「一億国民老若男女が朝夕高らかに唱和する如き平面にしてしかも神国に
第一線の将兵と共に戦いつつある決意を全国民に促し得る画期的名作を切望」して一般募集されたが
当選作が無く、結果的に作詞家の西條八十が担当する事になった。

作曲は古賀正男が担当したが、二晩徹夜して作ったメロディを軍人が気に入らず、
「戦意を高めるどころか、なんだ悲しくなるじゃないか」と作り直せと注文をつけた。
しかし古賀政男はこれ以外のメロディは作れないと、突っぱねたというエピソードがある。

実際聞いてみると前半は比較的静かで、後半にかけての盛り上がりがメリハリが効いている。
前半部分を軍人は気に入らなかったのかもしれないが、
注文通り作り直したら、勇ましいけれども単調な歌になっていたかもしれない。

5月10日、東京日比谷のコロムビア本社にてレコーディングが行われた。
合唱形式で歌われており、歌詞によって担当が異なっている。
1番 霧島昇 
2番 松原操 
3番 霧島昇と李香蘭の合唱 
4番 全参加者による合唱
4番は、この歌の副題が「国民総意の歌」という事もあって、全国民が歌う事をイメージしているのだろう。

銃後の全国民を対象にした歌で、歌詞を簡単に説明すると、
「中国戦線で戦う兵士達に感謝し、彼らに負けないように、銃後にいる私たちも仕事や社会奉仕に励もう」
という歌である。


そうだその意気(国民総意の歌、陸・海軍礼式歌)

西条八十作詞、古賀政男作曲 
歌;霧島昇/松原操/李香蘭  昭和16年


1 なんにも云えず 靖国の 
  宮のきざはし ひれ伏せば 
  熱い涙が こみあげる 
  そうだ 感謝の その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

2 雁の鳴きわたる 月の空 
  今夜いまごろ 戦地では 
  弾丸(たま)を浴びてる 
  朋友(とも)がある 
  そうだ 済まない その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

3 戦に勝つにゃ お互いが 
  持場 職場に 命がけ 
  こんな苦労じゃ まだ足りぬ 
  そうだ その意気 その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

4 かがやく勲  皇軍に
  まけず遅れず  がっちりと
  共に戦う  銃後軍
  そうだ  進めば 盛り上がる
  凱歌凱歌  あかるい
  大アジア


573 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/17(Sat) 16:38

朝ドラ『エール』では、ヒット曲が出ないで悶々とする古関(古山)が話す中で「名曲ばかりの古賀メロディー」という会話がたびたび出てくる。

そんな中で、以下の中で、「そうだその意気」が聞ける。

西条八十作詞、古賀政男作曲「そうだその意気」霧島昇、松原操、李香蘭歌。


朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


574 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/18(Sun) 19:16
昭和5年(1930)10月20日、佐藤千夜子はビクタースタジオで[影を慕いて」「日本橋から」を吹き込み。その一週間後佐藤は日本を後にするが、翌昭和6年(1931)1月に発売された。
来年令和2年(2021)は、昭和96年。「影を慕いて」が世に出て、もうすぐ90年。
藤山一郎のコロムビア盤は昭和7年3月。


90年にわたる「古賀メロディ」の歴史。

【日本のクラッシック 古賀メロディ】・・「影を慕いて」を作曲した昭和3年(1928)から、頂点に上り詰め、亡くなった昭和53年(1078)まで、半世紀にわたる古賀メロディの歴史、それは、日本がまだ貧しかった昭和の初めから、戦前、戦中、戦後の日本の歴史の中でも最も苦難の歴史、大衆歌曲・歌謡曲というものが日本に出来て根ずいて隆盛の歴史そのものである。


575 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/18(Sun) 19:54
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀メロディ」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。


576 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/18(Sun) 20:05
「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家の名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるでしょう。

これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビのナツメロブームの影響でしょうか、使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初めから、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではない。

昭和の長い歌謡の歴史の中で「メロディ」をつけて実際にそう呼ばれてきたのは、たくさんある中で、「古賀メロディ」しかないのです。

「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められていると思われます。

577 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/28(Wed) 21:07
朝ドラ『エール』モデル・古関裕而と古賀政男のライバル関係「人気作曲家の明暗を分けた戦争」
天才と苦労人
刑部芳則 日本大学商学部准教授

朝ドラ 推し本

世田谷中原駅(現在の世田谷代田駅)。裕而と金子の姉妹(寿栄子、松子、子供は寛子)
すべての写真を見る
戦時下の古賀政男との違い
ヒットに恵まれない古関裕而と、ヒットメーカーとして名高い古賀政男。そのライバル関係は、戦時下に一変する。

米英との関係が悪化すると、両国を仮想敵国と見なし、日本国内の情報が漏れないように注意すべきだという危機意識も持つ必要性が生じるようになる。昭和16年4月に読売新聞社は、国民に防諜を喚起する国民総意の歌「そうだその意気」と、「海の進軍」の歌詞募集を行った。古関は、海老沼正男が作詞した「海の進軍」に曲をつけることとなった。歌は伊藤久男(山崎育三郎演じる佐藤久志のモデル)、藤山一郎、二葉あき子が吹き込んだ。

この作曲について古関は、「曲は短調だが、多分にグランド・マーチ風の四分の四拍子で、堂々たる艦船を表現したつもりである。私としては、終わりの四小節のメロディーが気に入っていた」という。曲調は短調だから暗いメロディーだが、「多分にグランド・マーチ風の四拍子」を用いているため、全体的に勇ましく「堂々たる艦船を表現」することに成功している。

この裏面になった「そうだその意気」は、「国民総意の歌」というとおり、一億国民の意識を戦時体制下で一つにする目的があった。歌詞は6000篇が集まったものの、優秀なものがなく、作詞は西条八十、作曲は古賀政男と流行歌の王者に依頼することとなった。「そうだその意気」は、霧島昇、松原操、李香蘭が吹き込んだ。

この企画を立てた陸軍省防衛課中佐大坪義勢は、西条の歌詞に注文をつけるくらい入れ込んでいた。吹き込みには、軍関係者、コロムビアの重役、部長、西条八十、新聞記者が並んだ。古賀政男のピアノ伴奏が終わると、軍関係者は「軟弱だ。戦意を高めるどころか、なんだか悲しくなるじゃないか」とケチをつけた。これに対して古賀は「私は、心を打ちこんで作曲したつもりですが、この詞にはこの曲しか作れません。気に入らなければ、他の人に頼んでください」と反論した。「そうだその意気」は、昭和16年5月に書き換えることなくそのまま発売された。

578 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/28(Wed) 21:20

   江口夜詩 (えぐち・よし/1903.7.1〜1978.12.8)


新型コロナウイルス騒動のため現在中断されているが、NHK朝の連ドラ「エール」のモデルになった作曲家・古關裕而 (1909〜89) についていろいろ調べるうち、江口夜詩という名前に出会った。古關が日本コロムビアに入社後ヒット曲を生み出せず、業を煮やした会社側がスカウトして来た作曲家が江口だった。彼はもともとポリドールで月給30円で雇われていた作曲家だったが、1932年(昭和7年)11月にリリースした「忘られぬ花」(歌/池上利夫=後の松平晃)がヒットし、一躍注目されるようになっていた。ポリドールの専属が切れて一年経った1933年(昭和8年)3月、コロムビアは江口に入社支度金二千円、月給三百円という破格の好条件を用意した。当時の古關の月給は二百円であったから、評価の違いは歴然である。
コロムビアに入社後すぐに江口は「十九の春」(歌/ミス・コロムビア)「急げ幌馬車」(歌/松平晃)などのヒットを連発、1934年(昭和9年)12月に発売された30枚の新譜のうち20枚が江口の手によるものという大活躍であった。この現状に、コロムビアは古關の解雇を考えた。しかし、古賀政男の強い反対により窮地を免れたのは「エール」で描かれていた通りである。
こんな物凄い作曲家・江口夜詩について、私はもっと知りたくなった。
そして調べているうちに、私がよく知っている曲の多くが江口の手によるものであることが分かり、驚きと嬉しさとが交差した。ミス・コロムビア(松原操)の大ファンである私は、「十九の春」こそ彼女の最高の作品だと信じて疑っていなかったが、この名曲も江口の手によるものだったのだ。冒頭の哀愁溢れるスチール・ギターを奏でているのは、松原によればディツク・ミネであるという。彼はこの楽器の名手で、レコード会社の枠を飛び越え、ギターを自転車の後ろに縛り付けて様々なレコーディングに参加していた。私が敬愛してやまない高峰三枝子の初レコーディング「螢の光」におけるデイツクの見事な間奏も、懐かしく思い出される。

579 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/01(Sun) 23:54
十九の春

歌:ミス・コロムビア

作詞:西條八十

作曲:江口夜詩 1933.6

ながす涙も 輝きみちし
あわれ十九の 春よ春
すみれつみつつ 散る白露に
泣きし十九の 春よ春

君はやさしく 涙は甘く
唄をうたえば 花散りぬ
乙女振袖 ゆく白雲も
われを眺めて 流れゆく

我世さみしと 嘆くな小鳥
春はまたくる 花も咲く
愛の光に 夜はほのぼのと
明けて十九の 春よ春

昭和8年(1933)、コロムビアの古賀政男とビクタ―の西条八十が、専属を超えて1年間、組んだ。
その中の一つでもある。
東京音楽学校を出たばかしの松原操が歌った。

580 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/03(Tue) 23:00
松原操(ミス・コロムビア)と古賀メロディ

「お蝶夫人]の唄 西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌(昭和8年1933、
気まぐれ涙  西條八十作詞、古賀政男作曲 ミス コロムビア(松原 操)
1933-09
誰も知らない  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア昭和14年(1939年) コロムビア新譜 叙情歌
新妻模様  西条八十作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、ミス・コロムビア
目ン無い千鳥  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、ミス・コロムビア、昭和15年
そうだその意気(国民総意の歌) 西条八十作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、松原 操、李 香蘭
故郷の白百合  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲 霧島 昇、松原 操
いさおを胸に  西条八十作詞、古賀政男作曲 弘田竜太郎編曲 楠木繁夫、松原 操
茜の雲の燃ゆる時, 大木 惇夫作詞、古賀 政男作曲,霧島 昇,松原 操
桜花に誓う(女子挺身隊の歌)西条八十作詞、古賀政男作曲(歌,松原操、奈良光枝、三原純子)昭和19年
三百六十五夜  西条八十作詞、古賀政男作曲 霧島昇・松原操 昭和23年



581 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/12(Thu) 23:50
「お蝶夫人」の唄 西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌(昭和8年1933、

長崎観光は“蝶々夫人ゆかりの地”グラバー園が柱になっていますが、その“蝶々夫人ブーム”ともいえる現象が見られたのは昭和8年(1933)でした。
アメリカ映画「マダム・バタフライ」が公開され、映画にあやかって演劇、音楽分野にも続々と“蝶々夫人もの”が登場します。
歌では同年の「お蝶夫人の唄」を皮切りに次々にレコードが出て、ブームに拍車をかけました。


グラバー園に建つ蝶々夫人の三浦環像

「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌)

20近くある、お蝶夫人の歌の最初がこの歌、東京音楽学校を卒業したばかりの初々しい松原操(ミス・コロムビア)のデビュー曲{浮草の歌」と同じ最初の歌。




昭和8年1月早々、コロムビアはライバル(ビクター)の看板作詞家・西条八十(さいじょうやそ)さんと、自社の看板作曲家・古賀政男(こがまさお)さんにコンビを組ませるというショッキングな企画を発表、世間をアッと言わせます。
その“百万ドルコンビ”第1作で、5月に発売されました。
歌ったミス・コロムビアは同年3月「浮草の唄」でデビューしたばかりの覆面歌手。
本名は松原操(まつばらみさお=のちの霧島昇夫人)さん。
アイマスクを掛けた覆面写真に「これは誰でしょう」のというキャッチコピーで宣伝、話題を集め、歌もヒットしました。
戦後、長崎復興に観光が第一と考えた文化関係者が“グラバー邸はお蝶夫人ゆかりの地”のお墨付きを与えた際、この歌も有力な材料になりました。




582 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/13(Fri) 21:46
>>378


「お蝶夫人」の唄
  西条八十 作詞
  古賀政男 作曲  
  歌 ミス・コロムビア 
  昭和8年(1933)3月

一.
おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに 
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

二.
私しゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露にぬれたか 恥ずかしや

三.
ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねの人
ねんねおころり 謡(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

四.
来るか来るかの 頼りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


いくつかある「お蝶夫人の歌」のさきがけ。「浮草の歌」とともに、ミス・コロムビア最初期の歌声。。。
美貌と美声を兼ねた、清純で美しい歌姫ミスコロムビアの歌声。
「流浪の民」「この道」「我が家の歌」など松原操名の声楽曲も多い。
お蝶夫人、日本では世界的プリマドンナ三浦環が歌った。
東京音楽学校(現東京芸術大音楽部)を出るか出ないか頃のミス・コロムビ(松原操)のコロムビア最初期の歌。
けなげな日本娘にふさわしい清純で綺麗なすばらしい歌唱。、今のクラッシック標ぼうの歌手でもここまでは歌えない、すばらしい歌唱。


379 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/26(Wed) 23:27
松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-kiji%20index.html


プロフォール、ミスコロムビア(松原操)
h ttps://columbia.jp/artist-info/miss-columbia/prof.html


583 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/11/15(Sun) 21:17
大木敦夫と古賀メロディ

茜の雲の燃ゆる時 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],霧島 昇,松原 操,コロムビア合唱団  コロムビア(戦前)
思い出の記 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],霧島 昇 コロムビア(戦前)
雲のふるさと 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],仁木 他喜雄[編曲],伊藤 久男
崙越(こんろん)超えて  大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],藤山 一郎 コロムビア(戦前)
われら空の子 大木 惇夫[作詞],古賀 政男[作曲],藤山 一郎,コロムビア合唱団 


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