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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 11:32
明治大正時代、このころは文部省唱歌や民謡などを除き大衆が歌える歌がなかった。
大正に入って童謡が生まれ、対大正末期から昭和にかけて新民謡運動がおこる。
こんな中で、誰でも歌える歌作りを目指した作曲家がいた、それが中山晋平。東京音楽学校を卒業すると、
音楽教師をしながら劇中歌や童謡運動に加わった。大正半ばごろから詩人野口雨情、歌手の佐藤千夜子とともに
全国に飛びして民謡の採譜や新民謡の普及活動をしていた。
この運動の中で生まれた新民謡『波浮の港』(昭和3年、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、日本における最初の
日本で最初のレコード歌謡と言われ、これを歌った佐藤千夜子が日本で最初のレコード歌手とされる。

昭和3年、無名の学生に過ぎなかった古賀政男(正男)作曲の「影を慕いて」をビクタ―で吹き込んだのが佐藤。
昭和6年1月にビクター、昭和7年3月に藤山一郎でコロムビア。

古賀政男の「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」の一連の歌は「古賀メロディ」と言われた。

古賀政男はいまや「○〇節」の時代ではなく「メロディ」の時代だと語っていた。





140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 12:07
これを新聞が大きく書いた。
  
  【晋平節から古賀メロディの時代へ】 と

古賀の自伝によると、これを見た古賀は驚いて大先輩「中山晋平先生」のところに
謝りに行った。

ところが中山晋平先生は、いいですよ、あなたは私にないいいところを持っています、頑張ってくださいと逆に励まされた。

「古賀メロディ」が大きく認知された歴史的瞬間である。

同時に昭和8年の「東京音頭」を最後に晋平の「晋平節」は影を潜め、

以後、新聞が書いたようにこれまでの主流とされた「晋平<節>」に代わって「古賀<メロディ>」が主流になっていった。

晋平のビクタ―黄金時代は「古賀<メロディ>」のコロムビアにとってかわられた。

なお、何とかメロディとか作曲家に「メロディ」をつけるのは、昭和40年代の懐メロブーム時代からで、
「古賀メロディ」は世に出た昭和の初めから、それを称える唯一許された歴史的価値を持つものとして、
たくさんの作曲家の中で戦後に至るまで特別なハイランクのものだった。

すでに押しも押されもせぬ「日本の名士」でもあった大御所・古賀政男は、昭和33年に「日本作曲家協会」を設立、自ら会長となる。
レコード大賞など知られている。

また戦後、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウーハチローに次ぎ、JASRAC「日本音楽著作権協会会長」。
その著作権における偉大な功績と実績を讃えるように、JASRAC設立にも関わったJASRACは古賀財団のビルに本拠を構える威容。
またその死後、野球に王貞治選手に次ぎ二番目の国民栄誉賞。

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 09:19
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 12:31
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 09:33
昭和の初め、主流だった「晋平節」は「古賀メロディ」にとってかわられた。

昭和8年の「東京音頭」を境に、晋平は戦後に至るまで虚ろな日々を送る。
ビクタ―の顔だった中山晋平の代わりになったのは佐々木俊一だった。
西條八十、中山晋平コンビは戦後に至るまで佐伯孝夫、佐々木俊一に代わった。

ビクタ―専属西條八十は、ビクターに対し、コロムビアの古賀政男とは申し出、ビクターも八十ーも専属を超えた提携の希望を1年間の条件で受け容れた。
で昭和8年から西條八十・古賀政男黄金コンビがここに成立。
「去り行く影」(関種子)、「サーカスの唄」(松平晃)・・などがそうである。

その後、古賀政男はテイチクへ、西條八十はコロンビアへ変わった。
古賀政男はテイチクを経て、「外務省音楽文化親善使節「」として」1年間の渡米後、昭和14年から再びコロムビアに。

昭和13年からコロムビアに代わっていた西條八十とともにとともに、西條八十・古賀政男黄金コンビが戦後に至るまで続き、「誰か故郷を想わざる」などなど数多くの【古賀メロディ】名曲を世に送り出した。


144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 09:39
訂正

ビクタ―専属・西條八十は、ビクターに対し、コロムビアの古賀政男と連携することを申し出、ビクターも八十の専属を超えた、、コロンビアの古賀政男との提携の希望を1年間の条件で受け容れた。

145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 22:31

昭和27年も押し迫った12月2日、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、ある恩人,その名は野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、この28日後、今から65年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。


しかし、その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、中山晋平(晋平節)ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。






146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/24(Sun) 23:01

コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口 井之頭通り 駅前交番前




147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/26(Tue) 21:00
日本の名曲 「影を慕いて」


影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月




かって平成の初め頃、NHKTVで、「日本の名曲10曲」(歌謡曲の名曲で無く)の一つとして、「影を慕いて」(古賀政男作詞・作曲)が1年間ずっと流されていました。

「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」・・など日本の名曲10曲が「日本の名曲10」として、毎夜8時の番組の後の時間を使って1週間ずつ、交代で1年間ずっと流され続けました。


<「影を慕いて」の曲碑>
 古賀メロデーの原点といえば、「影を慕いて」・・朝鮮のメロデーと同じ三拍子・・で、この曲碑は宮城県の蔵王に近い「青根温泉」(自然の森公園内)と、「古賀政男記念館・生家」のある家具の町、福岡県・大川市・大川公園内にもあります。
 この歌が作られた、昭和3年には、演歌や「さすらいの歌」などを除けば、「出船」「波浮の港」「出船の港」や、「青空」「アラビアの歌」などあちらの歌を除いて現在ある歌はまだ存在しなかった。

青根温泉「影を慕いて」曲碑   h ttp://ww5.et.tiki.ne.jp/~kawsaki2/koga.htm
古賀政男記念館    h ttp://www.city.okawa.fukuoka.jp/kogakinen/hall.html


河口湖畔 古賀政男記念公園「影を慕いて」音楽碑

作曲家古賀政男が疎開していた富士五湖の一つ河口湖畔 古賀政男記念公園にも「影を慕いて」音楽碑があります。 

「影を慕ひて」の歌詞と楽譜が刻まれていて、実際にセンサーで音楽が流れるようにもなっています。
外国人の方も多く訪れていて、ガイドさんが熱心に日本の有名な音楽家であることを解説されていた光景が印象的でした。



148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/29(Fri) 08:44
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/02(Tue) 20:38
■古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)

佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり(古賀正夫作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺   (島田芳文作詞)  1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄  (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校  あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校  蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、
東京音楽学校本科主席卒業。





150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/03(Wed) 00:13
公益社団法人 日本作曲家協会歴代会長

初代 古賀政男 1958 - 1978  (昭和33年−53年)
2  服部良一 1978 - 1993
3  吉田正  1993 - 1997
4  船村徹  1997 - 2005
5 .遠藤実  2005 - 2008
6  服部克久 2008 - 2013
7  叶弦大  2013 - 2017
8  弦哲也  2017 -

151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/04(Thu) 11:04
昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもしない歌謡界の『大御所』というだけでなく、『日本の名士』になっていた。

指には大きなダイヤを付け、き、テレビが家庭に普及する中で、「うたマネ読本」とかの審査員となって「よかったね!、よかったね!」と言う言葉で知られる。
このころ、昭和33年(1958)には、日本作曲家協会を設立、自ら会長となり作曲家の待遇改善に尽くしたり、「レコード大賞」などを作るなど、昭和30年代の役割は[大御所]としての役割に移っていく。

日本作曲家協会会長は彼が亡くなるまで続き、作曲家の著作権や待遇改善に尽くしたり、[大御所]としての役割に移っていく。


152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/04(Thu) 11:26
設立目的 日本作曲家協会


昭和33年(1958年)11月30日に「作曲活動を振興し日本の音楽や芸術文化の向上を図り作曲家の社会的地位と著作権を守る」ことを目的に初代古賀政男氏(昭和53年・1978年没)を会長に発足しました。そして平成24年4月1日に公益社団法人日本作曲家協会として再出発しあらためて「作曲活動の振興を通じて音楽の普及を図り、もってわが国の芸術文化の発展に寄与することを目的とする」を定款に掲げ活動を続けております。


153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/08(Mon) 01:44
「都はるみ 古賀メロディーを歌う」
nanaironokinunouta.seesaa.net
でやってる

154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/09(Tue) 13:05
>>153
ありがとう。

155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/13(Sat) 07:58
NHKホームページより

NHKアーカイブス・スペシャル
幾山河は越えたれど 〜昭和の心 古賀政男〜
放送:前編 12月29日(日)23:10〜翌0:55(105分)
   後編 12月30日(月)23:25〜翌1:10(105分)

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
 1979年(昭和54年)4月14日放送
 90分×2本(二部構成)
前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。

後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。

【スタッフ】
脚本:早坂 暁/たなべまもる
音楽:山本丈晴
制作:萩原具佳
演出:岡崎 栄
美術:青柳敏郎
技術:高尾禮充
効果:高橋美紀
撮影:山下政人
VTR技術:松岡住夫
照明:宮本省二
音声:服部己喜男

【出演】
渥美 清

柳生 博

水谷良重

ハナ 肇

山内 賢

森 光子
 ・・・ほか

藤山一郎 
 ディック・ミネ
霧島 昇 
 近江俊郎
村田英雄 
 島倉千代子
美空ひばり 
 森 進一
さとう宗幸 
 八神純子
ツイスト 
 原田真二
さだまさし 
 矢野顕子

【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒

【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。

*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。

古賀政男音楽博物館
 〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12

*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。

古賀政男記念館
 福岡県大川市大字三丸兼木844

156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/20(Sat) 19:57
>>149

昭和のレコード歌謡は昭和3年(1928)、新民謡『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)に始まる。

直後、昭和6年(1931)に古賀政男が台頭。これまでの主流だった中山晋平の「晋平節」が古賀政男の「古賀メロディ」にとってかわられた。

古賀政男(正男)をメジャーデビューさせるに至ったのは、まだレコード普及もない頃から中山晋平の歌(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えによる。

古賀正男の「影を慕いて」など計7曲をビクターに吹き込んだ。

古賀政男は自伝で佐藤について「私に作曲家の道を切り拓いてくださった終生の恩人」と書いている。

「古賀メロディ」を支えた主な名歌手が27人いる。(1929‐1945)

このうち音楽学校卒業が22人。

藤山一郎などこうした歌手がほとんどの「古賀メロディ」の歌手である。

22人のうち、「東京音楽学校」(現在の「東京芸術大学」音楽学部)卒業のクラッシックの声楽家・歌手がなんと12人。

関種子、藤山一郎(増永丈夫)は本科主席卒業。レードデビューは古賀政男のデビューそのもの。

今のクラッシック歌手でも歌えない・・!「古賀メロディ」・・の理由だ!。


・佐藤惣之助、西條八十など第一級の詩人が心を込めて作った詩に,第一級の作曲家古賀政男が心を込めて作曲し、それに藤山一郎などの第一級の歌手が心を込めて歌った文句なしの第一級の文化遺産・古賀メロディ・・・

大切に歌おう!

157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 09:06
戦後大きく変わったのは恋愛の自由、恋愛は昔も今も小説、映画のテーマであることように変わりないのだが、それまでの恋愛表現は奥ゆかしさがあったのが、戦後自由奔放になってくる。
その先駆けみたいなものが石坂洋二郎作品だろう。

「青い山脈」というのは石坂洋二郎作品。その新聞連載の昭和24年映画化作品とその主題歌(西條八十作詞、服部良一作曲)。
でもなにか「平和」を願うみたいなっているが気になる、東北地方の港町を舞台に、封建的な田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動、それと戦う若い女教師の姿を描いたもの。未だに戦前の封建的な社会制度を引きずっており、女性は男性より低い立場にあるのが当たり前という封建制度と戦う姿。戦う陰にあるのは戦後の奔放な男女関係で平和そのものではない。

前年、まだ恋愛にも奥ゆかしさがあったころ、昭和23年の「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)とは、同じ恋愛小説の映画化作品であるが、まったく異なる。
西條八十は数えきれないほどの名作品を世に送り出したことで知られるが、特にその心情、苦悩を謳ったそれは他の追随を許さないものが有る。しかし、この「青い山脈」に限っては、奔放な男女交際とは思われない、心情が見えない、苦悩もない、何のことかわからない、平和を願った歌とであるように勘違いしてしまうような、西條八十にしてはありえないさらっとした一般的な表現。
だから、藤山一郎の名歌唱によって、一般的人気を集めている一方で、明るいが軽いとの辛口の批評も常に付きまとう理由と思われる。
同じ西條八十の戦後早々の作品である「三百六十五夜」「麗人の歌」などの重厚な作品と聞き比べればよくわかる。



158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 09:55
三百六十五夜

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操


 みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君


 たそがれ窓に 浮かぶのは
 いとしき人の 旅すがた
 我ゆえ歩む 道頓堀の
 水の夕陽が 悲しかろ


 気づよく無理に 別れたが
 想い出の道 恋の街
 背広に残る 移り香(が)かなし
 雨の銀座を ひとりゆく


 鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る


昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。映画は雑誌『ロマンス』に連載された小島政二郎の恋愛小説の映画化で、出演は上原謙、山根寿子、高峰秀子、堀雄二など。
 古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなりました。

159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 12:36
青い山脈・・・、明るいより軽く聞こえる残念。

160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 16:02
藤山一郎が「青い山脈」を歌うとき、手拍子で歌う。

161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 21:43
三百六十五夜 ・・日本語がきていですね!

みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君

鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る


162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 21:59
コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前



163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/10(Sat) 22:45
>>161
三百六十五夜 ・・日本語がきれいですね!

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 09:44
>>162

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。

〔渋谷区コミュニティバス〕 (ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/

@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。

h ttp://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html




165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 10:17
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌 (音楽BBS)


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50


懐かしの銀座を歌った歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

名前を名にした歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50

166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/20(Tue) 22:00
>>158


みどりの風におくれ毛が
 やさしくゆれた恋の夜
・・・・・・・・・・・・・
こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ・・!といつも
思います。
・・・・・・・・・・・・
古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と
作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもか
と 討ちこんでくる・・・・・・・・・
正に この歌はその代表だと思っています。

167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/21(Wed) 01:12
川口松太郎原作「愛染かつら」、小島政二郎原作「三百六十五夜」、・・西條八十の作詞による作品が、同じ男女間がでも二人の間の深い恋愛なのに対し、
石坂洋二郎作品「青い山脈」の場合、学校内の奔放な集団的男女交際の話。

東北の田舎の港町を舞台に、男女間が封建的な田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動と、それと戦う若い女教師の姿を描いたもの。
愛染かつらでは・・すれ違いともう一つの大きなテーマは、親子・・生みの親・育ての親。

石坂作品「青い山脈」ではテーマというものがはっきりしない。
だから、どうしても一般的、全般的で平板にならざるをえない。
愛染かつら、三百六十五夜など西條八十の殊玉の名作品に比べると、、その分どうしても明るいけど軽さは否めない。
多数ある西條八十の作品故、どうしてもそう感じてしまうのは致し方ない。

168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/21(Wed) 01:21
西條八十の「愛染かつら」三部作6曲がある、すれ違いの映画で、そこには生みの親、育ての親の葛藤、
それを乗り越えて最後で結ばれる二人。
随所に出てくる言葉・・それは「子守歌」、第一部の主題歌「悲しき子守歌」もある。
その全般を通して優しい詩に、優しい歌声。


169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/22(Thu) 10:13
先日、軽く今井正監督の映画『青い山脈』を民衆蜂起の 映画として捉えた小文を書こうと思った。そのために原作である石坂洋次郎の小説『青い山脈』を確認したい部分が出てきたため、持っていた文庫を探そうと考 えた。膨大な蔵書の中から探し出す労苦を惜しんで総合書店へ買いに行ったが、文庫どころか全集の単行本もない。調べると版元の新潮社では石坂洋次郎の文庫は全て廃刊になっている。
30年前なら石坂洋次郎の代表作はどんな小さな書店にでも置いていたものだ。
戦後民主主義の歴史に おいて民主主義大衆文学として金字塔であった『青い山脈』が廃刊になっているという事実は筆者にとって大きな驚きであった。『青い山脈』は原節子と吉永小百合という戦前戦後の永遠の美貌と輝きを持った女優の人気にのみに後押しされて、DVDで初作の東宝版と日活版が映画が視聴できるのみ。主題歌『青い山脈』 は藤山一郎のCDアルバムや日本コロムビアの日本映画主題歌集などで聴けるのみである。(廃盤になってないものでは東宝の1979年のリメイク版主題歌 だった、石川さゆりと潮哲也歌唱のものが『石川さゆり・アーリーアルバム』で聴くことができる)
「青い山脈」は藤山一郎と奈良光枝が歌った、奈良光枝が亡くなっ、現在藤山一郎の歌のようになってる。藤山一郎はよくこの歌を手拍子をもって歌っている。
肝心の原作である石坂洋次郎の『青い山脈』はあれ程までに多くの人に読まれたのにも関わらず、現状では廃刊となり、古書で探してもなかなか入手が難しいのだ。


170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 23:03
>>35

丘を越えて 藤山一郎/古賀政男.
視聴回数 24万 回

2012/10/29 に公開

昭和6年発売の「丘を越えて」です。青春をテーマにした藤山一郎・古賀政男の合作芸術の傑作です。演奏は明治大学マンドリン倶楽部(男子部員時代)。藤山一郎は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)在学する将来を嘱望された期待のクラシック音楽生でした。昭和恐慌で破産した生家の借財返済のためにアルバイトの流行歌歌手となりコロムビアからデビューしました。青春を声量豊かに高らかに弾むように歌いあげています。躍動感溢れる歌唱は永遠の名唱です。

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/01(Thu) 19:14
NHK放送ライブラリ
初めて戦争を知った〔2〕 幻の歌“サヨンの鐘”が聞こえる 台湾「高砂族」と太平洋戦争
テレビ番組
番組ID 007069
放送日  1993.08.03
分数   44
ジャンル ドキュメンタリー
放送局  NHK
製作者  NHK
出演者  山田太一、山口淑子、語り:内藤啓史
概要
戦争を知らない若者たちが、太平洋戦争を体験した人々と出会うことを通して戦争の悲惨さ、戦争の真実を発見し、伝えていくシリーズ。(8月4日終了、全3回)◆第2回は高校2年生の少女が台湾を訪ねる旅を通して、戦争中台湾で歌われていた「サヨンの鐘」(西條八十作詞、古賀政男作曲)に秘められた事実を追い、台湾の人々を戦争に巻き込んでいった日本の植民地政策を明らかにしていく。

NHK放送ライブラリ
横浜市中区日本大通11
横浜情報文化センター内 
TEL.045−222−2828


172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/01(Thu) 21:07
古賀メロディ代表曲

h ttp://www.jrt.co.jp/radio/natsumero/bangumi/kogamasao.htm

173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 09:52
■■コガ・ミュージアムコンサート 案内 ■■

  (近日の予定)

◇平成30年5月26日(土)
 永遠の古賀メロディコンサート 東京大衆歌謡劇団

開場13:30  開演14:00 終了予定16:00

◇平成30年6月23日(土)
 古賀政男没後40年 心を込めて古賀メロディを歌う!

昼の部 12:00開場 開演12:30
夕の部 15:30開場 開演16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール

入場料 指定席制 2000円(税込) (要電話予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051

主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口1を出て右側音楽村通りを進み、突き当り井之頭通り、 代々木上原駅南交差点駅前交番すぐ目の前
下りホームすぐ下に見えます。南口出口を出て2,3分です。

渋谷駅ハチ公口から循環バス(丘を越えてルート)がでています。

入場券で博物館をご覧いただけます、開場前にご見学ください。>>42-44,>>45-46

他の企画・演奏もあります、ホームページ参照。

■無料開館日のご案内 (通常入館料 500円)
 
 毎年5月18日 国際博物館の日

 毎年7月21日 古賀政男命日

 


174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 10:01

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。

〔渋谷区コミュニティバス〕 (ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/

@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。

h ttp://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html




175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 23:01
>>171

戦前、台湾コロムビアから「乙女の真心」という曲が出されました。通称「サヨンの鐘」です。渡辺はま子さんが唄っておりました。古賀政男作曲、西條八十作詞の名曲です。台湾では今もなお歌い継がれる名曲中の名曲です。


「サヨンの鐘」・・日本と台湾の間で、少数民族が顔を出すところがある。それは、残念ながら蜂起とか鎮圧とかという形だった。昭和5年、台湾総督府に山間で抵抗した高砂族、霧社藩暴動事件というのがあった。
 
 しかしこの話は、そん名歴史を考えると感激せざるを得ない、実際に起った日本と台湾との架け橋のような「美談」なんですね。「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまうんですね、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送るんですね。それを聞いた渡辺はま子が、この歌を歌う。これは昭和16年11月だそうで、太平洋戦争直前なんですね。
しかも、昭和18年に「李香蘭」・・山口淑子女史・・が主演、サヨン役で、映画「サヨンの鐘」が公開されるんですね。この話の碑が戦後倒されたり削り取られたりしたが、現在復活して大切にされてるというのはすばらしい話だと思います。


h ttp://home.so-net.net.tw/katakura/kyodo/0105.html

h ttp://urawa.cool.ne.jp/masakim/Taiwan/Trip/Hualien/hualien2.html

h ttp://nwotw.hp.infoseek.co.jp/nihon/iseki.htm#sayon

h ttp://taiwantokuso.hp.infoseek.co.jp/nihon/uta/sayon.htm



176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/15(Thu) 23:13
サヨンの鐘
(西条八十作詞・古賀政男作曲)

 1.あらし吹き巻く 峯ふもと
   流れあやふき 丸木橋
   渡るは誰ぞ うるわし乙女
   紅きくちびる ああサヨン
 
2. 晴れの戦に 出てたまふ
   雄雄しき師の君 なつかしや
   担う荷物に 歌さえほがら
   雨は降る降る ああサヨン
 
3. 散るや嵐に 花ひとえ
   消えて哀しき 水けむり
   蕃社の森に 小鳥は鳴けど
   何故に帰らぬ ああサヨン
 
4. 清き乙女の 真心を
   誰か涙に 偲ばざる
   南の島の たそがれ深く
   鐘は鳴る鳴る ああサヨン

<CD紹介>
松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の挿入歌として次の歌がある。いずれも名曲。
「サヨンの歌」(西條八十)李香蘭、「なつかしの蕃社」(西條八十)霧島昇、菊池章子
CD「渡辺はま子 / シナの夜 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・サヨンの鐘
CD「李香蘭 / 蘇州夜曲 (SP盤復刻による懐かしのメロディー)」・・・・サヨンの歌
上記挿入歌2つは、CD「SP原盤復刻による日本映画主題歌集 5」にも入ってます。(「サヨンの鐘」は入ってない。いずれも現在の入手状態不明。)


「サヨンの鐘」の“鐘”と、『組曲 サヨンの鐘』
  h ttp://www1.ocn.ne.jp/~shoji/sayon.html






177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 22:00
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。

昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。

改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。




178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 22:15
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、代々木上原駅前の3000坪の広大な屋敷には、庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。







179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 22:28
>>173-174,>>178

古賀政男音楽博物館は、小田急線代々木上原駅南口から徒歩3分ほどの場所に位置しております。日本を代表する大作曲家の生前住んでいた所を公開している博物館です。館内には古賀氏が使っていた楽譜が展示されていました。数々の名曲を残した作曲家さんでしたので、凄く感動しました。ぜひ一度足を運んでみてください。

古賀政男が1938年から自邸を構えた渋谷区、小田急線代々木上原駅前3000坪の敷地に一般財団法人古賀政男音楽文化振興財団によって1997年に開設された。建物は日本音楽著作権協会(JASRAC)が本部を構えるオフィスビルと博物館付属のコンサートホール「けやきホール」と一体化している。館内には古賀の来歴紹介や自邸のモックが。


180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 23:06
日本の豪邸

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/16(Fri) 23:16
世界の名車


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=410079389&ls=50

182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/17(Sat) 08:43
>>178
訂正
古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から丁度87年前の昭和6年(1931)3月。


183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/17(Sat) 10:35
>>173-174

古賀政男音楽博物館

これは、昭和12年、自宅兼「音楽村」を作りたいという、飛ぶ鳥を落とす勢いだった作曲家「古賀政男」
が、小田急線代々木上原駅前の松林3000坪を購入し邸宅を建てて昭和13年から住んだ邸宅。
代々木上原駅から古賀邸までの短い道は今、「音楽村通り」となずけられて表示されている。
現在、邸宅跡は「古賀政男音楽博物館」になっている。
「古賀政男音楽博物館」にはこのほか、東京渋谷区が渋谷区コミュニティバス(上原・富谷ルート循環;「丘を越えてルート」)を運行している。
(運用:京王バスTEL.03−5300−6011)

料金一律100円、8時から20時まで1時間3本循環。本数は多くはないが、東大等経由して博物館ルートなので
渋谷めぐりにはいい。

出発は渋谷駅西口バスターミナル、渋谷駅につながった、渋谷駅西口京王井之頭線渋谷駅5F渋谷マークシティから。

渋谷駅は現在大きく変わっていて、ハチ公口ではないので注意。でJR山手線、埼京線では玉川改札、地下鉄ではハチ公口が便利。

不明な点は運航の京王バスに。


184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 18:30
NHKは、NHKTVで「日本の名曲10曲」と題して日本の名曲10曲<<150を1年間にわたり流した。
ちょうどそのころ、NHKは「日本のうたふるさとのうた」を発表、いずれも「影を慕いて」が入っている。


>NHKが「日本のうたふるさとのうた」と題し、童謡とか愛唱歌などを主に100曲を選んでいて(1989年11月4日放送)、このなかに「赤い靴」などとともに、「影を慕いて」が同じようにはいってる。これを「童謡新聞」という童謡を主としたHPで紹介してます。「明日に残す心に残る歌」として、「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」など幾つかで、『唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる』とあります。明日に残す心に残る歌・・「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」他 日本のうた・ふるさとのうた(1989)


昭和が終わって平成の時代がはじまった1989(平成元)年に、忘れ去られつつある
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える文化遺産として集
大成して、記録にとどめようという趣旨のもと行なわれた企画で、明治・大正・昭和の
歌の中から次代へ残したい歌を一人一曲選び、ハガキなどで投票した結果が、応募総数
65万7千通あまり、総曲数は5千曲にものぼったという大調査です。

選定基準は得票数のみではなく、全国の十四団体(下記)で構成する全国実行委員会が
組織され、さらに各都道府県には地域実行委員会が設置されて、寄せられたハガキの中
から各地域実行委員会が地域の百曲を選び、これをもとにして全国実行委員会が全国版
をリストアップ、それを代表5名(下記)で構成された選定諮問委員にかけて最終的に
決定したという、大掛かりでものものしい調査でした。
はかなり妥当性の高いものです。

この結果については、全国33都市で発表コンサートが開かれ、その締めくくりとして
平成元年10月にNHKホールで行なわれた全国版の発表コンサートがテレビ放映され
ました。ここではその集計結果から一部をご紹介します。



「日本のうた・ふるさとのうた」全国実行委員会

全国実行委員会役員

委員長 三浦朱門(日本文芸家協会理事長)
副委員長 石本美由起(日本作詩家協会会長)
副委員長 服部良一(日本作曲家協会会長)
副委員長 川越宏樹(日本青年会議所会頭)
監事 星野雅春(日本青年団協議会会長)
監事 日野豊(全国地域婦人団体連絡協議会会長)
事務局長 勅使河原平八(NHK番組制作局次長)


構成団体

(社)日本PTA全国協議会
(社)日本青年会議所
 日本青年団協議会
(社)全国公民館連合会
 全国地域婦人団体連絡協議会
(社)日本作詩家協会
(社)日本作曲家協会
(社)日本作曲家協議会
(社)日本音楽著作権協会
(社)日本レコード協会
(財)地域活性化センター
 日本放送協会
(財)NHKサービスセンター
(財)NHK交響楽団

後援 文化庁、自治省、放送文化基金


選定諮問委員

小山内美江子(脚本家)
金田一春彦(国語学者)
三枝成章(作曲家)
平山郁夫(日本画家)
三国一朗(放送タレント)

(注)肩書き等は当時のまま。

以下の資料を参考にしました。

「日本のうた・ふるさとのうた」実行員会 「NHK日本のうた・ふるさとのうた」(1990 講談社)
「新版日本流行歌史」 古茂田信男、他(1995 社会思想社)


100曲については以下参照;

「NHK日本のうた・ふるさとのうた100曲」(講談社1990/12)



185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 18:50
>>184

NHK「日本のうた・ふるさとのうたNHK100曲」

h ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 18:51
NHK「日本のうた・ふるさとのうた100曲」

187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/18(Sun) 19:58
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本の名曲、それは日本がまだ貧しかった時代、明治から大正、昭和の初めにかけて、多くの当代随一・第一級の大歌手・声楽家が歌い継いできた、80年を超える歴史を持つ。



NHKが「日本のうたふるさとのうた」と題し、童謡とか愛唱歌などを主に100曲を選んでいて(1989年11月4日放送)、このなかに「赤い靴」などとともに、「影を慕いて」が同じようにはいってる。これを「童謡新聞」という童謡を主としたHPで紹介してます。「明日に残す心に残る歌」として、「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」など幾つかで、『唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる』とあります。明日に残す心に残る歌・・「さくら貝の歌」・「影を慕いて」「あざみの歌」他

温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男
養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した
「明日に残す心に残るうた」唱歌童謡の中に「影を慕いて」含まれる
(童謡新聞 「心の故郷」)

歌は「童謡」の中に入ったとき、[愛唱歌]になると思うが、「影を慕いて」は、今や「古賀メロデー」を越えて,童謡その他の愛唱歌と渾然一体になって、[日本の愛唱歌][日本の名曲]「人生の主題歌」になっているのではないでしょうか。



寺山修司編「日本童謡集」(光文社1972)という本があって、その前書きには、『優れた「童謡」というものは、長い人生に二度あらわれる、一度目は子供時代の歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。』・・と。そして、『映画に主題歌があるように、人の一生にもそれぞれ主題歌があるのではないだろうか。そして、それを思い出して唄ってみるときに、人はいつでも原点に立ち戻り、人生のやり直しがきくようなカタルシスを味わうのではないだろうか。』・・として、広い分野の歌を集めてあるのが特徴。
『赤い靴』『青い眼の人形』から 、古賀メロデー『影を慕いて』『人生の並木路』・・など優れた童謡としてあげられている。


188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/19(Mon) 19:47
■[NHK日本のうた・ふるさとのうた100曲]1989年 (曲目リスト)■
 h ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka96.html

(年代別曲目リスト)h ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka97.html

■NHKTV 「日本の名曲10曲」■ >>187 

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