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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:36
■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■  1990 NHKTV

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:48
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。


青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング



※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393




244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:50
※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)

さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536





245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 20:56
☆古賀政男とその主な人脈
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:14
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)   1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌    (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952

247 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:23
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

248 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:55

小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、長い石畳のなだらかな坂道。

そこに、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。

古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。

古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。



249 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 21:57
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

毎朝、玄関でお金の音がする。
これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRAC本部のビル。

−私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。

私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。

代々木上原駅前3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。

古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や、数十台が留められる広い駐車場。大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のテナントとして、「古賀政男音楽博物館」に一体隣接して、そびえ立つ威容はまさしく大衆音楽の聖地。

「古賀政男音楽博物館」には、滝廉太郎、野口雨情、本居長世、山田耕作、中山晋平、西條八十、古賀政男、藤原義江、藤山一郎・・美空ひばり、島倉千代子、北島三郎・・など明治以降、日本の大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手について、「大衆音楽の殿堂」で併せて現在246名が顕彰している。

入館料だけでその中で7000曲のうちから選んで無料で十分聞くことができ非常に貴重です。


顕彰者一覧 h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/index.html

5月18日はICOM(国際博物館会議)が提唱する「国際博物館の日」。古賀政男音楽博物館ではこれを記念して平成30年5月18日(金)は無料開館日。www.koga.or.jp/



250 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:01
参 考)
・藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県)、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
 古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

・「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)     1500坪
孫正義邸 (港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪




251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:29
古賀政男とJASRAC
古賀政男音楽博物館、代々木上原駅から徒歩2〜3分のところにある博物館です。立派な建物で、演奏ホールも併設しているみたいで、ちょうど何かの発表会があるのか団体さんがいらっしゃいました。
古賀政男という人を自分はよく知らなかったのですが、昭和の代表的な作曲家なんですね。お隣にJASRACがあって、おお、と思いました。これも博物館と一体の古賀財団ビルの一部だそうです。
代々木上原の駅から徒歩でアクセスしました。5分もかからない場所です。もともとは作曲家の古賀政男さんのお屋敷だった場所で、今もピアノや書斎などが見られました。大衆音楽の有名人も紹介されていましたよ。観光客は多くはなく、静かな環境で見学できるのはよかったです。

日本作曲家協会を作り自ら初代会長として日本レコード大賞を制定、作曲家の権利向上など、音楽界の発展に尽力し、国民栄誉賞を受賞した古賀氏の博物館。代々木上原駅から徒歩3分ほど。ジャスラック本部が横にあります。コンサートホール、自身の歌を録音できるカラオケスタジオ、古賀氏や顕彰者の作品視聴、私邸の一部を移築した展示等を観ることがで
きます。・・


古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きな屋敷に住み、指には大きなダイヤをつけ、幅2mもあるリンカーンなど大きな外車に乗り、テレビが家庭に普及していく中で、歌謡番組では審査委員長として「よかったね、よかったね」と。
小田急線代々木上原駅前、3000坪の古賀政男邸、昭和日本の著作権王を象徴するその豪華な古賀邸は昭和13年に作られた。
テイチクを退社し、14年にコロムビアに復帰するわけだが、この間に「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカ、南米を回り、1分間1万ドルのNBC放送から全世界に流れた。
昭和13年、代々木上原の駅前3000坪を手に入れた古賀はここに古賀村を作るべく古賀邸の建設を始める。
当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。
そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。
その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水組(現清水建設)に建てさせ昭和13年に完成したもの。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」(講談社)などに残っている。
「日本の洋館 第6巻 昭和篇2 」講談社2002(ISBN-13: 9784062614863)




252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:35
そして、テイチクを退社した古賀政男は藤原義江の見送りを受けて横浜港へ出発。
14年8月には、1分間1万ドルのNBC放送から古賀の曲が全世界に流れた。14年、「世界の古賀」となって帰国凱旋した古賀は三浦環の歓迎祝賀会を受けた。そしてコロムビア復帰。
復帰第一作が「誰か故郷を想わざる」と「あの花この花」、いずれも西條八十作詞。
このコロムビア時代は、初期コロンビア黄金時代、テイチク黄金時代と並んで、「古賀政男第三期黄金時代」と言われる。

同時に14年には、日本の著作権行政に大きく影響を及ぼすことになる、JASRACの前身『大日本音楽著作権協会』が設立される。

第三期黄金時代の古賀はコロムビアの古賀としてだけでなく、日本の古賀、世界の古賀として、この「大日本音楽著作権協会」の設立に大きく関わっている。
古賀政男は著作権長者として有名、自身もコロンビアからテイチクに移るのに著作権に苦労し弘田竜太郎に助けられた。
古賀邸には毎朝玄関でカネを数える音がするという伝説もある。
著作権料も圧倒的であって、JASRACの前身「大日本音楽著作権協会」設立にも深く関与、戦後「日本音楽著作権協会会長」など、「著作権」と切っても切れない関係にある古賀政男。

現在、古賀政男音楽博物館になっている、財団法人古賀政男音楽文化振興協会、その西新橋から移転したJASRACをテナントとして持つ、博物館と一体のビルの威容!。
日本音楽著作権協会(JASRAC)は現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、昭和14年(1939年)に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
著作権に関する仲介業務に関する法律 (昭和 14年法律 67号) により主務官庁の許可を得た日本唯一の音楽著作権仲介団体となった。
西新橋にあった本部は古賀政男没によって創設された東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有する同博物館と一体の同ビルに移転。22の支部が日本全国の主要都市に設置されている。
戦前の大日本音楽著作権協会では政治家が会長をつとめたが、昭和23年から作曲家と詩人が交代となって、作曲家古賀政男は、作曲家中山晋平、詩人西條八十、作曲家堀内敬三、詩人サトウハチローに次いで、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を歴任している。
財団法人古賀政男音楽文化振興財団の古賀政男音楽博物館ビルに日本の著作権を代表するJASRACの本拠が一体であるのも、80年を超える、歴史の重み、昭和日本の著作権王としての、その偉大さをものがたるものといえるだろう。
多くの人が歌った聴いた、80年の歴史の重みをもつそれはもう「古賀メロディ」を越えた、「童謡」に匹敵する、名実ともに【日本のクラッシック】といえよう。

丘を越えて (藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺  (河原喜久恵)
乙女心   (関種子)
窓に凭れて (関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出す。
これまでの「晋平節」とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
「影を慕いて」は、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、知る人ぞ知る東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部の前身)首席卒業などクラッシック歌手だった。

今年平成最後の平成31年(2019)は昭和94年、古賀メロディ発祥88年。

もうすぐ90年を迎える古賀メロディ、それは飽食の時代の昨日今日できた最近の歌とは一線を画する。

「平成」も終わろうとしているが、「影を慕いて」は、昭和が終わった平成元年(1989)に、「荒城の月」「波浮の港」などとともに「日本の名曲10」として、1年間NHKTVで放送された。

当初、中山晋平のビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流はこれ以降、古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

昭和6年には、他に「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、ビクター、徳山 l(たまき))などがある。







253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:45
日本のクラシック「古賀メロディ」

影を慕いて(佐藤千夜子、藤山一郎)
日本橋から(佐藤千夜子)
丘を越えて(藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺 (河原喜久恵)
乙女心  (関種子)
窓に凭れて(関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの「晋平節」とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。

「影を慕いて」は、昭和7年3月藤山一郎に依って再び吹き込まれる。

「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業のクラシック歌手たちなどだった。

月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ
2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ



 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。

 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。作詞の島田芳文は、古賀政男
 がコロンビア専属初期のコンビですが、『丘を越えて』『キャンプ小唄』と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。

オリジナルのレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。


当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき)歌)などがある。

今年、平成最後の平成31年(2019)は「昭和94年」、古賀メロディ発祥88年。 もうすぐ90年になる。

まもなく、その殆どの名曲は80年を超える[古賀メロディ]、

それはもう【日本のクラッシック】そのものである。



254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 22:52
☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄  (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに  (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938






255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/16(Thu) 23:43
☆楠木繁夫代表曲(古賀メロディ)テイチク

国境を越えて   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1934
男のまごころ   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
白い椿の唄    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
ハイキングの唄  島田芳文作詞  古賀政男作曲 1935
緑の地平線    佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1935
慈悲心鳥の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1936
女の階級     村瀬まゆみ作詞 古賀政男作曲 1936
啄木の歌     島田欣也作詞  古賀政男作曲 1936
のばせばのびる  江川貞夫作詞  古賀政男作曲 1937
真実一路の唄   佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1937
人生劇場     佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 1938
いさおを胸に   野村俊夫作詞、 古賀政男作曲 弘田竜太郎編曲 1944 松原操





256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 00:21
☆霧島昇代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる 西條八十作詞 古賀政男作曲(1940):
新妻鏡       佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 霧島昇,二葉あき子 (1940)
目ン無い千鳥     サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア (1940)
相呼ぶ歌      西條八十作詞 古賀政男作曲     菊池明子    1940
そうだその意気   西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操・李香蘭 (1941)
勝利の日まで    サトウハチロー作詞 古賀政男作曲        (1944)
麗人の歌      西條八十作詞 古賀政男作曲                (1946)
旅役者の唄     西條八十作詞 古賀政男作曲                (1946)
旅の舞姫      西條八十作詞 古賀政男作曲     二葉あき子 (1948)
三百六十五夜  西條八十作詞 古賀政男作曲     松原操 (1948)
あの夢この歌  西條八十作詞 古賀政男作曲     二葉あき子 (1948)
白虎隊 台詞:鈴木吟亮 島田欣也作詞 古賀政男作曲 (1952)
ギター月夜   西條八十作詞 古賀政男作曲(1952)
湖畔のギター b野村俊夫作詞 古賀政男作曲  (1954)



257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 07:04
一口に詩人と呼んでいるが、彼ほど多彩な顔を持つ詩人はいない。
八十は、詩人・歌謡曲作詞家という顔と、もうひとつ忘れてならないのが、仏文学者・芸術院会員・早稲田大学仏文科教授としての顔。大正13年、ソルボンヌ大学留学帰国後、早大仏文科教授になった。アルチュール・ランボーの研究でも有名。「西條八十全集」(国書刊行会刊1991)という本は、16巻まである大作である。

明治25年に東京牛込(新宿)に生まれた八十の生家は石鹸製造業を営んで隆盛であったが、中学3年生の時に父が亡くなり、一家は没落してしまう。八十は早稲田中学校卒業後、同大学英文科を主席で卒業した。鈴木三重吉の主唱する童謡運動に参加し、大正7年27歳で「赤い鳥」に「カナリヤ」を発表して一躍有名になった。翌大正8年処女詩集「砂金」を発表して、たちまち象徴派詩人としての名声を高めたとされる。こうして、丁度「金の船」(大正8年)で野口雨情の才能が一気に花を開くように、「唄をわすれたカナリヤ・・八十」は、一気に花開く。

西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四谷文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 07:10
「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいづこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

また、少女雑誌などに多くの著作を寄せるなど文筆活動も多い。映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。

<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
 八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・  
肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50) (中公文庫1978)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      

西条八十児童小説データ
  h ttp://sinsin2006.web.fc2.com/content12.html

「詩人 西條八十」
 h ttp://hac.cside.com/afcw/culture/96/kiyamado.htm



259 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:03

日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

 戦前・戦中は、「大日本音楽著作権協会」

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サトウハチロー(1903〜1973)詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家・演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人

戦後、これまでは、作曲家と詩人が交代だったが、詩人もいなくあった

昭和55〜63   服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家


260 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:21
古賀政男に関する文献 1


日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、 歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。
くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)



261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:51
古賀政男に関する文献 2

「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)
『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが
福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)

262 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 08:57
古賀政男に関する文献 3

古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)
宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他
長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
 「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他

他にも一般雑誌等に古賀政男に関する記述は多い。

263 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:11
<「古賀政男」の出てくるドラマ>

昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
若尾哲平   
昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
      (1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)

昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十) 
NTVテレビ
平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京

・NHK HPによると、NHKアーカイブスで以下が保存されてるとあります。(閲覧できないが)
西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男        1993年2月4日
この人と語ろう                 1977年11月21日
あの人あの芸 古賀政男             1997年5月5日
NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編 2002年12月29日
NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 後編 2002年12月30日
NHK映像ファイル あの人に会いたい 古賀政男 2006年4月29日 

・NHK連続テレビ小説「いちばん星」(最初と最終回と途中)は見れる。


264 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:26
古賀政男のことはTVでもいろいろ取り上げられた。

NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男」では、マンドリンを通して古賀メロデー
の曲のひみつ、古賀メロデーのルーツを探っていた。
そのなかで、上記「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り
明治大学に入るあたり、・・

古賀メロデーの歴史は、「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根ずいた歴史でもあること。
「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった。でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。


古賀政男は貧乏だったが、その後成功に次ぐ成功だった。でも心の底には消すことのできない
、しこりのようなものがあった、それが何であるか自分でもわからない。
そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、体をおして昭和53年再び朝鮮に渡ることにしたのだった。
(TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る」で放映。)
そしてそこで、驚いたことに子供のころに、聞いた懐かしい朝鮮メロデーとであった。

そしてうつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、底に自らの音楽の原点をみた。
家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロデーとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロデ‐のこぶしでもあるが、古賀少年のこころの震えであり、
それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989)



265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:29
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。古賀政男が活躍した昭和一桁時代から、
10年代そして20年代初めにかけて、日本はまだ貧しい時代だった。貧しくとも心豊かな時代だっのだ、そして昭和30年代はすでに歌謡界の「大御所」だった。
そして「古賀メロデー」は、たとえば「人生の並木路」や「新妻鏡」・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより名曲が多い。
古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ、
今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。と、そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、
人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている
 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版)

古賀政男(正男)初期のレコード
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年2月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年2月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年11月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同    1930年12月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1930年12月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年5月  ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年5月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の学生時代の作品

乙女心   鹿山鶯村  関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺  島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325




266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:32
昭和元年は大正15年、昭和は実質昭和2年から始まった。日本に本格的なレコード会社ができたのは昭和2年から3年にかけて。レコード音楽は昭和と共に始まった。古賀メロデーのルーツと言える「影を慕いて」が佐藤千夜子によって世に出るのは今から80年前の昭和5年だが、「影を慕いて」が作られた昭和3年、日本にはまだ、「波浮の港」、「アラビアの唄」、「君恋し」などしかなく、唱歌・童謡、民謡・新民謡など以外現在あるものはまだ殆どなかった。
「古賀メロデー」といわれるようになったのは、昭和10年代人々が敬意を込めて歌うようになったことからのようです。
古賀政男は独学で音楽を学んだもので、初期には「月の浜辺」などジプシー音楽やワルツな世界の音楽を広く取り入れている。このあたり、藍川由美が詳しく本に書いている。

古賀政男が亡くなる一月位前、女優のうつみみどりを伴って古賀は韓国に渡った。
TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る]。

韓国の女性がカヤキンという弦楽器を奏でるのをいすに座って聞いている。
古賀は自分のメロデーの「こぶし」は、カヤキンの弦の震えからとったものだと。
このとき、古賀はかってすごした善燐商業に「音楽和也」の時計塔を贈っているが、その前での生徒の演奏する「アリラン」を指揮している。
・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989)

古賀政男は昭和53年8月に亡くなった。同じ年の暮れに「平凡出版」から追悼本「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」が出版された。
その最初のあたりに「日本人と古賀メロデー」と題して歌人・楠本憲吉氏が追悼文を寄せている。古賀作品の真髄は決して「義理、人情」ではない。
人生に真面目に取り組む姿勢であると。以下抜き出して紹介してみる。
私(楠本憲吉氏)は、「古賀メロデー」という言葉には、二つの使い方があるのではないかと思っている。
ひとつは広く古賀政男作曲を意味するものと、もうひとつは古賀政男の書いた曲のうち、特に詩のテーマが人生の悩みや苦しみを表現しているもの。



267 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 10:39
【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/

【明治】演歌について語ろう【古賀政男】
h ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/396/1122014572/l50


古賀政男総合スレ
H TTPS://2CH.VET/RE_AI_NATSUMELOJ_1320231349_2_172




268 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/17(Fri) 20:40
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正男)のレコード吹込みが先だった。

昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。

当時の最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのであるが、実はその前にもあった。、、



昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06

尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。

さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。

まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 


269 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 11:34
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩


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271 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:46
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 10:40
三百六十五夜 ・・日本語がきれいですね!

作詞 西條八十
作曲 古賀政男
霧島昇、松原操 
昭和23年(1948)


みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君

たそがれ窓に浮かぶのは
いとしき人の旅すがた
我ゆえ歩む道頓堀の
水の夕陽が悲しかろ

鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る


こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ・・!といつも思います。

何と素晴らしい名曲。

日本人に生まれて良かったと実感させてくれます。

日本語の美しさが際立つ名曲ですね。

ほのぼのと、そして切なく感じるのは何故だろうか?
日本の女性や男性に、まだ慎みと奥ゆかしさがあって、恋の道でも節度があったころの歌ですね。聞いていて風格がありますよ、抱いてとかいった露骨なんじゃなくて。

古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもかと 討ちこんでくる・・・・・・・・・
正に この歌はその代表だと思っています。

DVD「市川崑初期作品集・三百六十五夜総集編」THD−19931  B20209(株)フュチャークラッカー、レンタルあり

映画の内容は知らないけど、この歌は、大好きです。

西條八十・古賀政男、この二人の巨匠になるたくさんの美しい名曲最高。
霧島昇さんの甘くソフトな歌声がより引き立てています




273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 21:03
☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。
映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。


あけみの唄

1932
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関 種子


(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。


















274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/05(Wed) 22:22
月の浜辺

   作詞 島田 芳文
   作曲 古賀 政男
   唄  河原喜久恵

 1.月影白き 波の上
   ただひとり 聞く調べ
   告げよ千鳥
   姿いずこ かの人
   ああ 悩ましの夏の夜
   こころなの 別れ

 2.月早やかげり 風立ちぬ
   われ啜り泣く 浜辺
   語れ風よ
   姿いずこ かの人
   ああ狂おしの夏の夜
   とこしえの 別れ

 1931年(昭和6年)5月、コロンビアから河原喜久恵の歌で
 発売されたもので、A面が藤山一郎の『キャンプ小唄』でした。
 青白い月の光に、わけもなく瞼がうるむ、淡く、なつかしい
 センチメントに溢れている曲です。
作詞の島田芳文は、古賀政男がコロンビア専属初期のコンビですが、
『丘を越えて』『キャンプ小唄』と主に、古賀の明朗な曲でヒットが多かった人です。
オリジナルのレコードは古賀のギターだけの伴奏で河原が歌ったセレナーデ
 風の佳曲で、古賀が好んだジプシーの短音階で作曲されています。


275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 19:03
age

276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:47
古賀政男は李香蘭のために「荒城の月」「宵待草」の編曲を行った。山田耕筰、本居長世、橋本国彦に次ぐ編曲です。

「荒城の月/宵待草」(古賀政男編曲 明治大学マンドリン倶楽部演奏 李香蘭 1942コロムビア100542)

戦後5年を経たない1950年1月、山口淑子主演の東宝映画「暁の脱走」が公開された。

李香蘭として戦地慰問の姿を自ら再現したような映画です。

この中で、李香蘭が兵隊を前に「荒城の月」を歌うシーンが You Tubeで見られる。(検索;山口淑子・荒城の月)

澄んだソプラノ、歌唱のすばらしさ、繊細に、心を込めて、言葉をひとつひとつ大切に、兵隊さんを前に切々と歌う李香蘭・・


李香蘭には、「宵待草」盤もあります。

「宵待草」の最初のレコードは昭和3年(1928)、藤原義江によって日本ビクター蓄音機から出されました。

SP盤では、関屋敏子盤など、この昭和17年の李香蘭盤まで、戦前だけで15年間に少なくとも18枚のレコードが出されています。


現在のクラッシック歌手で、これほどまでに歌えるものを知りません。

《李香蘭・宵待草》で検索。

『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。

そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。

ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。

そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )


ソプラノで哀しみを歌うことができるーそんなクラッシック歌手はそういるものではない。

そんな繊細な歌唱、それができるのはドイツリートの傍ら、多くの初期の古賀メロディを支えた本格的クラッシックソプラノ歌手・関種子とかクラス。

なぜ李香蘭なのか、その優しい歌声を聞けばわかる。

映画「暁の脱走」それは、なぜ李香蘭なのか、その問いに、一つの解答を与えるものでもある。


「暁の脱走」
李香蘭が戦後、山口淑子と名を変えて出演した『暁の脱走』。昭和20年の中国戦線、上官にひたすら従順な兵士と、慰問歌手との禁じられた恋の行方。 昭和25年に製作された反戦映画の傑作。

「国立近代美術館フィルムセンター」で保管されており,同アートライブラリ(竹橋)、フィルムセンタ―図書室(京橋)で見ることができるほか、時々鑑賞会が開かれている。

またDVDも出ている。
DVD[暁の脱走」(東宝TDV−2926D)
谷口千吉監督作品、1950李香蘭、池辺良

荒城の月荒城の月、宵待ち草、両曲とも古賀政男編曲。





277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:53
主な李香蘭の作品29曲のうち、古賀作品が15曲で半数以上で一番多い。

この中には、「荒城の月」や「宵待草」(いずれも古賀政男編曲)があります。

三浦環に師事するなどクラッシックの修業を本格的に積んだ李香蘭、単なる美貌のスター、歌姫というだけでない、李香蘭の歌声が本格的なものであることは、この心に染み入る、心の琴線に触れるこの二曲を聞けばよくわかる。

今のクラッシック歌手でさえも、これほどのものは見当たらない。



伊藤久男盤であまり世間に受け入れらることができなかった名曲「雲のふるさと」への思い入れが強かっただろう古賀政男にとって、それは満たされないものがあったことででしょう。

そして、李香蘭の登場となるのでしょう。

上記二曲もはいってるようだが、李香蘭の「雲のふるさと」ぜひ聞きたいものです。



そういえば、李香蘭がテイチクでデビュー曲として吹き込んだ『さらば上海』は、もともとコロムビア時代に古賀政男が作曲した映画主題歌で関種子が吹き込んだ作品でしたね。

主要29曲のうち15曲が古賀作品…ですか。

『夜霧の馬車』などは流行歌テイストの曲調ですが、作り手と歌い手がとても息の合っている作品だと感じます。古賀は声楽の修業をしている魅惑の歌手・李香蘭に歌曲系メロディの『雲のふるさと』をうたわせたかったのではないかと思います。



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:58
「夜霧の馬車」は、代々木上原の古賀邸の応接間に西條八十、古賀政男、李香蘭が集まって歌いながら作曲を組み立てた傑作と言われます。

279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 21:59
古賀政男には、「熱砂の誓い(建設の歌)」(西條八十作詞、李香蘭出演「熱砂の誓い」主題歌)、「馬」(佐藤惣之助作詞)など、いずれも伊藤久男歌唱の優れた作品があります。

「建設の歌」など朗々と歌いあげるのもいいけど、李香蘭の歌う「雲のふるさと」、それがあまりにも「真摯」で、「真実」で、そこに嘘が無かったのではないでしょうか。

そこに嘘偽りがないとき、聞く人の心に響いて思わず涙が溢れる。

そのため、かえって戦時下で公にできなかった・・のではないかなとも思います。

戦地を多く慰問した李香蘭、慰問先で明日をも知れぬ兵隊さんを前にして必ず最初に歌ったという「荒城の月」や「宵待草」、それはいいかげんなものではなかったはず。

それを聞いて、そうおもわずにいられませんでした。


話は少々ずれますが、李香蘭出演映画の主題歌『熱砂の誓い(建設の歌)」』は個人的に結構好きな歌です。メロディも古賀政男らしい感じが致します。
それにしても、李香蘭(山口淑子)、人気がありますねぇ。

そうですね、「熱砂の誓い」いい歌ですね。

もう一つの主題歌・挿入歌に「赤い睡蓮」があって李香蘭ですがこちらも名曲ですね。




280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:08
「雲のふるさと」は伊藤久男が既に歌ってらしたんですねぇ。
SP盤を収集したての頃はこの時代前後にとくに関心がありました。
『雲のふるさと』は自分の持っている盤を含め何度か古物市場で目にしており、珍しくはないように思っていました。しかし後に李香蘭でテスト盤を吹き込んでいたということは、伊藤盤がヒットせず埋もれた状態だったのでしょうね。李香蘭盤発見の報道でオリジナルの伊藤盤について言及がなかったのは意外でした。


281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:17
雲のふるさと
作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

常夏の椰子の木陰に
戎衣を解きて憩いつ
返り見る雲の遥けさ
ますらおの我と言うとも
ゆえ知らず涙落つるを

誰ぞ叱る我も人の子
胸熱く思い出ずるは
旗薄靡く信濃路
河鹿鳴く清き河部に
あの雲は今も翳らん

皇国に捧げたる身の
死にてよと汝は言わずや
幻に見ゆる故郷
我強し汝のあればぞ
弾丸の中行かんと思え


海軍礼式歌で戦後、NHKラジオ歌謡にもなっている。
伊藤久男歌で、最近古賀政男音楽文化振興財団で李香蘭盤が発見された。

282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/27(Thu) 22:27
「西条八十作詞・古賀政男作曲」の沢山ある名曲の一つに、松竹映画「サヨンの鐘」(清水宏監督、1943年7月)の主題歌で格調高い「サヨンの鐘」(1941)他がある。
今ほとんど知られてないが、日台の架け橋のような歌で、現在も台湾で知らない人は無い歌だそうで参考までに、中国名「月光小夜曲」。

「サヨン」というのは、この台湾奥地に住む少数民族・高砂族の娘で、昭和13年、日本人警官の出征に際し、嵐の中、荷物を持って決死で送ってくれるんですが、
自分は丸太の橋で足を踏みはずして転落してしまう、そして日本の台湾総督府は、少女の兄に鐘を送る。それを聞いた渡辺はま子が
、太平洋戦争直前にこの歌を歌う。後昭和18年に映画が作られる。

平成10年9月7日NHK 特集で放送された。日本人の高校生の女の子が台湾に行き、「サヨン」のお姉さんや知り合いに、当時の様子を 取材して歩くというもの。
「サヨンの鐘」は、中国語では「月光小夜曲」というタイトルで歌われていますが、 サヨンの村では、日本の歌詞をそのまま中国語に訳して歌われてる。
台湾原住民(かつての高砂族)の小学生達が学校で合唱していました。




「サヨンの鐘」(西条八十)渡辺はま子・・中国名「月光小夜曲」
  ♪あらし吹き巻く 峯ふもと  流れあやふき 丸木橋・・

「サヨンの歌」(西條八十) 李香蘭(山口淑子)
  ♪花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜露に濡れる・・

283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 14:50
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50

284 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/30(Sun) 23:43
04/12 07:11 NHK総合 【おはよう日本】
“李香蘭”未発表の歌・2曲見つかる

戦時中日本人であることを伏せて李香蘭の名前で女優として活躍し去年亡くなった山口淑子が、戦時中に録音したとみられる未発表の歌2曲(「月のしずく」「雲のふるさと」)があることがわかった。
戦地に赴いた兵士の涙を描いたとみられる歌詞もあり、レコード会社は“戦時中にはそぐわない”として発売を自粛した可能性もあるとしている。
古賀政男音楽文化振興財団に言及。
この歌は今月29日に発売されるCDに収録されるという。
日本コロムビア・男性のコメント。
♪未発表の歌「月のしずく」、「雲のふるさと」/山口淑子(作詞・大木惇夫、作曲・古賀政男)。


285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/30(Sun) 23:50
荒城の月
作詩 土井晩翠  作曲 滝廉太郎

藤原義江 0302 VIC1175 赤盤
藤原義江  0310 ORI30012
ブカナン  0511 COL26015
荻野綾子  0601 VIC13109 赤盤
奥田良三  0602 POL631
黒田 進  0606 TAI3034
牧 嗣人  0701 COL35221
内本 実   0801 COL35336
四家文子 0805 VIC52673
藤山一郎 0800 VIC52756
藤山一郎 0907 VIC53108
関屋敏子 1101 VIC13452 赤盤
奥田良三 1104 POL2268@
永田絃次郎 1110 KIN10002
藤原義江 1210 VIC J54098
藤原義江 1211 VIC13527 赤盤
藤山一郎、女声合唱団1501 COL30467@
井口小夜子 1704 KIN67025
李 香蘭 1709 COL100542@
帝国合唱団 1803 TEI T3418




286 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/12(Fri) 10:25
目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」(霧島昇、二葉あき子)の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 作詩  サトウハチロー
 作曲  古賀政男   
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨

目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、
目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。






287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/15(Thu) 16:43
age

288 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:10
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:30
新妻鏡、目ン無い千鳥・・昭和15年、太平洋戦争直前80年前に作られた歌、
簡潔な言葉に凝縮された詩人ならではのやさしい詩、やさしいメロディ、やさしい歌声、いま聴いても情景が浮かんでくる新鮮な名曲。



290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 15:14
「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

☆「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

この「酒は涙か溜息か」で、「古賀メロディー」の時代を決定ずけ、SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

なお、晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

【古賀 “メロディ” 】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平 “節” 】に対する言葉である。(上山恵三)

上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房  昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

昭和10年には熱海、西山町に別荘を建て、ピアノ も送ってしまいます。晋平の後のビクタ―の顔は佐々木俊一に、以後はほとんど作曲はしていない。

西條八十はビクタ―に談判、昭和8年の1年間、社を越えてコロムビアの古賀政男と提携、「サーカスの歌」など、その後もたくさんの名曲を送り出すことになる「西條八十・古賀政男」黄金コンビがこの時確立。

昭和14年にはその西條八十もビクターからコロムビアへ。西條八十の代わりは、弟子の佐伯孝夫。
[西條八十・古賀政男] 、コロムビアにおけるこの昭和歌謡史に残る圧倒的な黄金コンビは戦後に至るまで、昭和45年、八十が亡くなるまで続いた。

昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会長」等の要職を歴任します。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たち

・畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)

・上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)  



291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 15:19
☆酒は涙か溜息か

酒は涙か溜息か(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)
昭和6年(1931)9月、満州事変の勃発と東北大凶作、世界恐慌、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。

これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。
この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた、同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。

人々は、主流だった【晋平“節”】に対し、【古賀“メロディ”】と呼んだ、ここにメロディを大切にした「古賀メロディ」が確立した。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、あの前奏・間奏?後奏がそれぞれ独立した一曲にも値するような、音のキャンバスいっぱいにつかったような、これまでにない新鮮でしかも哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場、「酒は涙か溜息か」と「古賀メロディ」の登場・・それは昭和の歴史上で、社会的、歴史的にも大きな出来事だった。

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と東北大凶作での娘身売り相談所の写真、世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・

「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)




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