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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

451 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 06:47
 三百六十五夜

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 みどりの風に おくれ毛が
   やさしくゆれた 恋の夜
   初めて逢(お)うた あの夜の君が
   今は生命(いのち)を 賭ける君

 2 たそがれ窓に 浮かぶのは
   いとしき人の 旅すがた
   我ゆえ歩む 道頓堀の
   水の夕陽が 悲しかろ

 3 鈴蘭匂う 春の夜
   灯(ともしび)うるむ 秋の夜
   泣いた 三百六十五夜の
   愛の二人に 朝が来る



452 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 07:17
*【三百六十五夜】・・ 際立つ日本語の美しさ、奥ゆかしさ、しとやかさ!

昭和23年小島政二郎原作、新東宝「三百六十五夜」(1948年9月2日公開) 、雑誌「ロマンス」連載。

小島正二郎は慶応大卒業後、鈴木三重吉が主宰していた『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶大文学部講師となり、最終的には同学部教授へ昇格、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。

1927年の『緑の騎士』で大衆的人気を得る。以後多くの大衆小説を書き『花咲く樹』『人妻椿』『新妻鏡』など人気作を次々執筆。

戦後の社会が大きく変わってゆく中、男女関係にも奥ゆかしさがあった恋愛事情も大きく様変わりする…

「三百六十五夜」は、歌手も含め、歌におしとやかさがあった古き良き時代を象徴すを最後のすばらしい日本の歌、日本の名曲、日本の文化遺産である…。.

みどりの風におくれ毛が
 やさしくゆれた恋の夜
・・・・
こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ!といつも
思います。

何と素晴らしい名曲・・・日本語の美しさが際立つ名曲です、日本人に生まれて良 かったと実感させてくれます。

古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と
作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもか
と 討ちこんでくる


正に この歌はその代表だと思っています。
ほのぼのと、そして切なく感じるのは何故だろうか?、この日本の女性や男性に、まだ奥ゆかしさと慎みがあって、恋の道でも節度があったころの歌で聞いていて風格があります。

西條八十の名詩が古賀政男の曲と出会うことによって、日本語の美しさが際立つ、表情豊かで心の襞に滲みわたる不朽の名曲、日本人に生まれて良かったと実感させてくれる名曲となった。

ところが、昭和24年になると世の中の事情が急速に変化する、石坂洋二郎の登場は、恋愛小説も大きく変わってゆくはきっかけに。

川口松太郎原作「愛染かつら」、小島政二郎原作「三百六十五夜」、・・西條八十の作詞による作品が、同じ男女間二人の間の深い恋愛なのに対し、石坂洋二郎作品「青い山脈」は学園内の奔放な男女交際の話。。

東北の田舎の港町を舞台に、偽のラブレターに右往左往する人々をユーモラスに描いた青春映画。

「封建的」とされる田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動と、それと戦う若い女教師の姿を描いたたわいもないもの!。

「古い上着をさようなら」の「古い上着」の中身が、昔からの男女間の「しきたり」(貞俶)。

請けは良いけど、若く明るいだけでは軽い。

【愛染かつら】では・・すれ違いともう一つの大きなテーマは、『親子の絆』・・生みの親・育ての親・・時を超えて普遍のテーマ。

数ある西條八十の作品の中でも、日本人らしさ、奥ゆかしさ、恥じらいという普遍的な美徳が有った時代の数々の名作。

日本が急速に豊かになっていく中で、アメリカナイズが進む中で、「三百六十五夜」以後、こうした昔からの美徳とされたことが音を立てて崩れてゆくのは残念なことではある・・。

日本がまだ貧し勝った時代、貧しくも心豊かだった時代が生んだ、日本人が忘れかけてる大切なものを思い起こさせてくれる、今では決してできない不朽の名曲、それが「三百六十五夜」。

「三百六十五夜」とともに、歌手松原操はこの歌を最後に歌手を引退、家庭の人となり再び歌うことはなかった。

彼女は昭和8年(1933)に東京音楽学校を卒業、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。

彼女の引退後、日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑、これ程までに、日本的な良さ美しさを感じさせる歌手は出なかった。




453 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 07:30
・流浪の民Zigeunerleben (Schumann)  日本発売:昭和11年1936)1月
石倉小三郎作詩、奥山貞吉編曲 独唱:関種子、松原操、内本実、青山薫 コロムビア合唱団、コロムビア・オーケストラ COL28642

・国民歌謡 我が家の唄 松原 操  西條八十作詞 山田耕筰作曲 12年3月 col29241 @黒盤

・赤とんぼ 松原 操 三木露風作詞 山田耕筰作曲 13年12月 COL29981 @ 黒盤13241

・この道  松原 操  北原白秋作詞 山田耕筰作曲 14年07月 COL30253 @ 黒盤14715



454 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 21:34
>>450

☆惣之助「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』とは☆


「青い背広で」作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男。テイチク1280-A「青い背広で」 -B「青春日記」藤山一郎

昭和12年3月、青春の哀歓を歌って若い人たちに愛唱され後、日活によって同名の映画が作られた。

『青い背広で』 : 清瀬英次郎監督、日活多摩川、1937年4月8日公開

ビクターからテイチク専属となった昭和11年、5月新譜「東京ラプソディー」が大ヒットする。

翌年には「青い背広で」「青春日記」などがヒットし古賀政男と共にテイチクを大手に押し上げた。

しかし昭和14年後期には先にテイチクを退社した古賀政男の後を追ってコロムビアへ移籍してしまう。 

藤山一郎の「青い背広で」という歌。♪青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか・・

その歌で歌われているのは、それはまさしく当時からの銀座の一流企業、数寄屋橋にビルを建てているT社に勤務するサラリーマンそのものだというのがその社内の一応の都市伝説になっているそうだ。

藤山一郎が歌ってヒットした「青い背広で」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。

「青い背広で 心も軽く まちへあの娘と 行こうじゃないか」という歌詞、青い背広に心も軽くと流行歌のモデルになった可能性がような会社。

当時から憧れの一流企業の青春を謳歌する若きサラリーマン、憧れの銀座の街を心も軽く、まだ自由を謳歌し、

さっそうと歩く姿可能性は簡潔な言葉の中に見事にイメージされるような素晴らしさ。

藤山一郎が歌唱する「東京ラプソディー」「青い背広で」、昭和モダンを高らかに歌いあげます。

戦前の都市文化の象徴する流行歌としてヒット。

「東京ラプソディー」は原曲が「スペインの花」。

ビクターから藤山一郎を迎えるために古賀政男が作曲し門田ゆたかが作詞。「青い背広」は佐藤惣之助がダーググリーンの背広を見て「青い背広」を思いつく。・・

失業者が巷に溢れた昭和初期の時代から、ようやく景気も回復しサラリーマンの時代になった「ああそれなのに」(星野貞志=サトウハチロー 作詞、 古賀政男作曲 1937年1月発売)うちの女房にゃひげがある・・空にゃ今日も アドバルーンさぞかし会社で 今頃はおいそがしいと 思うたに)

大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大とともに、
この「青い背広で」が出来た。

その直後,盧溝橋事件(昭和12年7月7日)で中国との全面戦争(支那事変)、そして太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。

なぜ背広なのか、それには朔太郎の若き日の詩を読むと浮かんでくる。

 朔太郎の「旅上」(『純情小曲集』)が出来た大正14年から、惣之助の「青い背広で」が歌われた昭和12年頃は

丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火のごとく最後の輝きを放つよう
な時期でもある。


ようやくサラリーマンの時代が始まったばかりの昭和12年、背広を着るサラリーマン姿は、まだ珍しく憧れがあったでしょう。

地方では、勤め人自体がまだ多くなかったと思います。

背広を着る職業、新しい背広を着て外に出たい憧れ(旅情)があったとしてもおかしくない。

そんなあこがれで見られる新しき「背広」を着て・・・は文人ならずとも,あこがれの背広がまだ一般的でなかった時代、特別な思いもあったとしてもおかしくないようなのだ。

石川啄木 → 萩原朔太郎 → 佐藤惣之助

詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷〈馬込文士村〉
に越してきた。

これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。

この年、彼が作詞してヒットした曲が「青い背広で」作曲は古賀政男。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。
 


455 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 21:40
佐藤惣之助は、「馬込文士村の住人」の一人としてレリーフに刻まれている。

大正15年頃、南馬込の広津和カ邸に居候をしていた。雪ヶ谷には昭和12年から亡くなる17年まで居住した。

解説などでは「自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝」したと説明している。雪谷は馬込文学圏に入るらしい。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうです。

小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。

大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。

ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。

11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。

佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。


詩のモチーフの基底に朔太郎の『純情小曲集』にある「旅上ーの背広」が沈殿していた,かなり奥深いものがあるのではないか?と考えてもおかしくない。

456 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:48
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


457 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 12:10
「女の階級」

・『女の階級』は、吉屋信子(1896〜1973)原作による昭和 11(1936)年 10 月封切 の日活映画であり、楠木繁夫(1905~1956)の歌った同名の主題歌である。

・歌「女の階級」は、同年 12 月新譜で、上記吉屋信子原作『女の階級』の映画 主題歌であり、楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B 面は、「回想譜」で、 藤山一郎(1911~1993)が歌った。

小説『女の階級』
・昭和 11(1936)年 4 月 11 日~9 月 19 日『読売新聞』連載新聞小説 〈h ttp://sanpo-e.hp.infoseek.co.jp/retro/books/yoshiya/list-long2.htm〉
・昭和 12(1937)年 春陽堂(日本小説文庫)刊
・昭和 23 年 2 月 29 日 隆文堂刊
『吉屋信子全集』(朝日新聞社、昭和 50~51 年刊)には未収録

歌「女の階級」及び「回想譜(加壽子のうたへる。)」

「女の階級」
・作詞 島田磐也(きんや、1909〜1978、「村瀬まゆみ」名義で公表) / 作曲 古賀 政男(1904~1978) / 編曲 古賀政男 / 歌 楠木繁夫 / 演奏 古賀政男オーケスト ラ

「回想譜(加壽子のうたへる)」〈h ttp://www.tei3roh.com/kaisoufu.htm〉

・作詞 今城靖児 / 作曲 古賀政男 / 編曲 古賀政男 ・歌 藤山一郎 / 演奏 古賀政男オーケストラ
1 星みれば はろかに遠く 雲みれば つきせぬ想い 離れゆきし 君は問わねど 御宿(おんじゅく)の ああ 海の恋しさ
2 風ふけば 風もさびしや 虫なけば 虫もわびしや ただひとり ロッジにあれば たえがたく ああ 涙ながるる
3 朝(あした)には あしたの祈り 夕べには 夕べのねがい 嫁(とつ)ぎゆく 妹にのみ いまはただ ああ 幸(さち)を請うのみ




458 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/03(Wed) 15:34


2 風ふけば 風もさびしや 虫なけば 虫もわびしや ただひとり ロッジにあれば たえがたく ああ 涙ながるる
3 朝(あした)には あしたの祈り 夕べには 夕べのねがい 嫁(とつ)ぎゆく 妹にのみ いまはただ ああ 幸(さち)を請うのみ


「短歌」は「寂しさ」で完結してもいいものだが、「歌(詩)」というものは寂しさだけではダメで、この詩のように寂しさを超えたその先が大切。

459 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/04(Thu) 11:20
白 い 椿 の 唄
(作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )楠木繁夫歌  (昭和10年) 

1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

呼べど返らぬ 面影は・・これは、古賀政男が母を亡くしたその思いと重なる。
この歌は菊池寛原作「貞操問答」主題歌、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にあたるようなうた。



460 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/04(Thu) 11:32
古賀政男の自伝などによると、仏教の「声明」(しょうみょう)や、義太夫など江戸文化の研究や自らも歌っていたとあります。

西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。

西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。

古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう

1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。

仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY

古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。

ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。

しかし、古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。


古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。

古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。

461 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 09:01
最近、歌番組で「名曲」という言葉が頻繁に飛ぶ。「昭和の名曲」というのは、今や昭和最末期、昭和50年代以降のをさすらしい。 テレビ「思い出のメロデー」は、今や昭和30年頃のロカビリーあたりから始る。日本が貧しくとも心豊かだったころ/昭和前半の歌はやはりいい。

人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 ) 昭和12年(1937)ディックミネ

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

渡辺邦夫監督日活『検事とその妹』(竹田敏彦原作『検事の妹』)主題歌




萩原朔太郎は、佐藤惣之助の義兄で、マンドリンをやっていた。萩原朔太郎は、古賀政男のファンであるとともに、古賀メロデーを高く評価していたことで知られている。



462 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 11:36
数え切れないほど多くのヒット曲を持つ「古賀メロディ」。「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものもありません。
そして、その多くは「映画主題歌」でもあります。    

「古賀メロディ」ほど、多くの映画主題歌を持つものもないのです。

「古賀メロディ」は、まだ無声映画の時代から多くの映画主題歌を世に送り出しています。
その多くは、今流に言えば「青春」を歌ったもの(青春歌謡)です。「古賀メロディ」というは、元祖青春歌謡ともいえるものでしょう。
その主題歌の多くは佐藤惣之助、西條八十、サトウハチローなどの珠玉の名詞によるものです。

酒は涙か溜息か(想い出多き女)、丘を越えて(姉)、あけみの唄(佳人よ何処へ)、さらば上海(上海)、緑の地平線(緑の地平線)、東京ラプソディー(東京ラプソディー)、
男の純情(魂)、二人は若い(のぞかれた花嫁)、ああそれなのに(うちの女房にゃ髭がある)、人生の並木路(検事とその妹)、
新妻鏡(新妻鏡)、目ン無い千鳥(新妻鏡)、熱砂の誓い(熱砂の誓い)、紅い睡蓮(熱砂の誓い)、・・麗人の歌(麗人)

昭和SP歌謡の時代、日本がまだ草深く、そして貧しかった時代、まだテレビも無かった時代、昭和の初めから30年代にかけては「日本映画黄金時代」。どんなちいさな街にも、小さな映画館があって、その映画を心待ちにしたことでしょう。
ヒット曲、それは、それだけ多くの人々に支持され愛され歌われたということです。


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

463 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 11:42
(参考)
つれづれ 萩原朔太郎
h ttp://higashinum.exblog.jp/16429910/

「父・萩原朔太郎」を読み終えた。
長女である作家萩原葉子の著である。

萩原朔太郎は詩人である事は知っていたが、作品を読んではいないし、どういう人物かも知らなかった。この著書を読んで、実に多くの著名人との交流を知った。
室生犀星、三好達治は無二の親友とある。他に朔太郎の家に出入りしていたとして次のような人物が上がる。
北原白秋、芥川龍之介、川端康成、横光利一、尾崎士郎、広津和郎、衣巻省三、志賀直哉、古賀政雄、佐藤惣之助(朔太郎の妹と結婚)宇野千代等々。
宇野千代は桜の着物で知られるが当時はひっつめの髪に洋装だった(モダンガール)とあるところが興味ふかい。
朔太郎設計の家の二階は洋間で、毎晩のようにダンスをしていたと書かれている。

マンドリン奏者でもあった詩人、萩原朔太郎は佐藤惣之助の義理の兄で、萩原葉子著「父・萩原朔太郎」に佐藤惣之助のこととして、朔太郎宅における惣之助、古賀政男との歓談の様子がうかがえます。
 h ttp://blog.goo.ne.jp/qazmandolin/e/cd6c77bc1d684f4e3c1d402cf3d7ceb1
また、朔太郎、惣之助が古賀政男邸に集まって詩の談義をしていた。

萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館
h ttp://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/

(参考)

"「影を慕いて」の前奏曲は父の得意中の得意で…指をギターに打ちつけるほど情熱的に感情をこめて弾いた(萩原葉子)"


・群馬マンドリン楽団(GMG) プロフィール
 h ttp://www.page.sannet.ne.jp/msw4681/gmg.htm


・群馬マンドリン楽団 過去のコンサート
 群馬マンドリン楽団 東京公演 演奏会
 h ttp://www.gunma-mandolin.com/concert.html

464 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 17:28
古賀政男総合スレ
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/


465 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/05(Fri) 23:07
慈悲心鳥の唄(愛の勝利)
(菊池寛原作 日活「慈悲心鳥」1936主題歌)
  作詩 佐藤惣之助  作曲 古賀政男 
 歌 楠木繁夫

一.

愛と泪に流れ行く
若きふたりの 思い出は
海の真珠の浪の色
虹よ消ゆるないつまでも



窓のともし火ほのかにも
母とよばれて幼児(おさなご)に
聞かす夜毎の子守唄
ゆめの千鳥よ何を泣く



掟きびしき人の世に
負けてこの身は果つるとも
愛の勝利のうるわしく
花も輝けこの胸に



466 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 00:02
日活「慈悲心鳥」(愛の勝利)1936.7.1
  原作:菊池寛
  監督:渡辺邦男
  出演:江川宇礼雄 黒田記代 岡譲二
  主題歌「慈悲心鳥の唄」(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男 歌:楠木繁夫)

467 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/06(Sat) 18:22
<古賀メロデーの抒情歌>

ほかにもたくさんあるが・・

影を慕いて(古賀政男)
丘を越えて(島田芳文)
月の浜辺 (島田芳文)
ハイキングの唄(島田芳文)
夕べ仄かに(島田芳文)
人生の並木路(佐藤惣之助)
白い椿の唄(佐藤惣之助)
さらば青春(佐藤惣之助)
誰か故郷を想わざる(西条八十)
あの花この花(西条八十)
青い牧場(サトウハチロー)
故郷の白百合(サトウハチロー)
雲のふるさと(大木敦夫) 国民歌謡
やすらいの歌(百田宗冶)  国民歌謡、ラジオ歌謡
ピレネーの山の男(西条八十)
りんどう峠(西条八十)





<古賀メロデー 青春・叙情歌>  藤山一郎歌

東京ラプソデイー (門田ゆたか)1936年6月(映画「東京ラプソデー」主題歌)
 ♪花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で・・
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
 ♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
回想譜(今城請児)1936年10月  (日活「女の階級」挿入歌)
 ♪星みれば はろかに遠く 雲見れば つきせぬ思い
青春カーニバル(青春の謝肉祭)(島田欣也・野村俊夫)  1936年11月
 ♪若き日の憧れを胸に抱き・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・
歓喜の丘 (島田芳文)1938年3月
 ♪あこがれの丘にきて 萌ゆる瞳に仰ぎ見る 空は青空 日はうらら・・
春よいずこ(西条八十)
 ♪おもいでは おもいでは 青い背広の・・


468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/07(Sun) 00:15
《白衣(びゃくえ)の佳人》
 作詞 佐藤惣之助  作曲 古賀政男 編曲 古賀政男 歌手 ディック・ミネ
昭和11年3月 入江プロ=日活 鞠小路泰子 昭和11年1月

すみれ花咲くむさしのに
きみと相見しその日より
乙女ごゝろはうす月の
かなし涙の春は逝く
 
泣いて流れる夕雲の
きみははるかな北の空
雪の広野の日は落ちて
わかき涙の春は逝く
 
鈴もさびしきあの橇は
きみと別れを告ぐれども
愛しこゝろは尽きもせず
さらば涙の春や春


日活映画 白衣の佳人 1936年公開]阿部豊監督 入江たか子 岡譲二 原節子 伊沢一郎
古賀政男はディック・ミネの高音の甘さを活かして作曲。演奏は「古賀政男サロンオーケストラ」となっていますが、実際は明治大学マンドリン倶楽部が演奏しています。軽快なマンドリンオーケストラにのて哀愁に満ちた古賀メロディーと


469 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/07(Sun) 13:39
霧島昇・松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-index.html


470 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 11:25
「馬」

陸軍省撰定 東映映画「馬」主題歌 昭和15年12月

作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男

伊藤久男、菊池章子、コロムビア合唱団
コロムビア・オーケストラ

1.
山は朝焼け青い空
さっと一鞭たてがみ振って
ホイノホイ
駈ける彼方に陽が昇る
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ

2.
明けて三年また三月
ともに暮せば心も通ふ
ホイノホイ
同じ思ひの親と子だ
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ

3.
月の夜道も雪空も
手綱片手に聞せたものを
ホイノホイ
馬よ忘るな故郷の唄
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ

4.
国のお召しで征く朝は
馬よ喜べ日の丸たてて
ホイノホイ
虹の襷もかけてやろ
ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ


「めんこい仔馬」と軍馬哀歌
 昭和16年にサトウ・ハチロー作詞、仁木他喜雄作曲でつくられた「めんこい仔馬」は、東宝映画『馬』(監督:山本嘉次郎、助監督:黒澤明、主演:高峰秀子)の主題歌である。戦後改変された歌詞により現在は童謡であるが、何しろ日米開戦の年に作られた軍馬映画の主題歌なので、小国民向けの軍歌ともいえるものだった。戦後改詞されてしまったようだが、当時の歌詞は以下のようだった。馬に対する愛情と別れをやさしい言葉で描いた大変いい歌です。

作詞はサトウハチロー、作曲は仁木他喜雄。歌は二葉あき子、高橋祐子。陸軍省選定 東宝映画、「馬 」挿入歌として作られたが、映画には入らなかった、
「新妻鏡」の二葉あき子(東京音楽学校)と、「お山の杉の子」の童謡歌手高橋裕子がうたった。現在のクラッシック歌手で、これほどまでにやさしい、素晴らしい愛情のこもった歌唱はない。

 (一)ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露 
    呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道 
    ハイド ハイドウ 丘の道
 (二)藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる 
    お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ
    ハイド ハイドウ ないてみろ
 (三)紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を
    ハイド ハイドウ お話を
 (四)西のお空は夕焼けだ 仔馬かえろかおうちには
    お前のかあさん待っている オーラ 唱ってやろかよ山の唄
    ハイド ハイドウ 山の唄
 (五)明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
    軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ
    ハイド ハイドウ してやるぞ



471 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 11:37
映画の内容は、岩手山麓の農村の小野田一家と飼い馬を描いた物語で、馬の出産の喜び、その馬の成長と美しい農村の四季。そして馬の競買。軍馬として高額の値段がつき、売られて行く別れのシーン。馬と生きる貧しい農民の生活が描かれています。軍馬と農耕馬との価格や、扱いの違いがはっきりわかります。娘役の高峰秀子も話題になりました。高峰の馬を呼ぶ明るい声が、印象に残ります。
 山本嘉次郎監督が、農民が愛情を込めて育てた馬を軍馬として徴用され、犠牲にしてもよいのだろうか、ということを訴えて制作された映画です。
 映画『馬』のタイトルには、主題歌コロムビアレコード「馬」「めんこい子馬」とあります。主題歌が二つ作られた事になります。
 主題歌「馬」は、映画のタイトルバックに流れます。明るい、素朴な子どもたちの歌声です。次のような歌詞です。

   主題歌「馬」   作詞:佐藤惣之助   作曲:古賀政男

   一、みちのくの 山の尾影に 春来たり
    こぶし咲くよに 生まれいず 吾が子馬

   二、風澄ぬ 山の麓に 秋来たり
    すすき咲く日に 売られ行く 吾が子馬

 映画『馬』のタイトルに書かれた、主題歌として作られたはずの「めんこい子馬」の方は、使われませんでした。
 
  〈映画に「めんこい子馬」を使わなかった理由〉
  東北ロケの最中であった山本監督が、「めんこい子馬」が作られていることを知らなかったからと言われていますが、知らなかったとは思えません。なぜなら、独特の歯切れの良いこの歌と、素朴な農村の四季や生活を美しく画いたカメラワークとは、合わないからです。監督が映画の中に組み込まなかったのは当然でしょう。
 映画『馬』の中では、主題歌「馬」の他、三曲が歌われています。

 映画の封切りに先立ち、昭和十五年十二月一日にコロムビアよりレコードが発売されました。

▲サトウ・ハチロー自筆の仔馬画
 A面は「馬」、作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、歌:伊藤久男、菊池章子。
 B面は「めんこい子馬」、流行歌手の二葉あき子と童謡歌手の高橋祐子、コロムビア児童合唱団が歌いました。

  一番は、「コウマ」「ゆこかよ」と歌った(二葉あき子)。
  二番は、コロムビア児童合唱団が歌った。
  三番は、「オウマ」と歌った(高橋祐子)。
  四番は、「コンマ」「かえろう」と歌った(二葉あき子)。
  五番は、コロムビア児童合唱団が歌った。
 掛け声「オーラ」「ハイド ハイドウ」は、コロムビア児童合唱団が歌った。

  〈「オーラ」について〉
  足羽章によると、「歌詞各節に出てくる「オーラ」の掛け声は、『作曲者、仁木さんの発案だった』とサトウハチローさんが話されたのを覚えている」(季刊『どうよう』19号・チャイルド本社)。
  「オーラ」の掛け声は、サトウハチローの原作にはなく、作曲者の仁木他喜雄が入れたことになります。
  (註)オリジナルレコード番号:100151B、録音:昭和十五年十月三十一日。このレコードは、CD『生誕90年、没後20年記念 サトウハチロー記念館』≪童謡・コロムビア編≫で聴くことができます。

 【『国民歌謡』として放送された「めんこい小馬」】



472 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 12:02
「めんこい仔馬」。この歌は昭和16年封切の東宝映画「馬」の挿入歌だが、高峰秀子が娘役を初めて演じて評判になった。この唄は二葉あき子と童謡歌手・高橋裕子が歌い録音、同年1月からの「国民歌謡」のラジオでは松原操が唄って、幼児から老人まで幅広い層に愛唱された。
が、日中戦争開始1年で軍馬が不足し、原則牡馬だったのを増産のため、雌馬がたくさん配給されていたと石川達三の戦記文学「武漢作戦」に記されている。農耕馬も戦地へ送られた。
この歌の背景は、軍馬愛育の心情だ。さすが名曲なので、コロムビアでは戦後、仔馬と子どもの愛情交流の歌詞に変えて昭和26年、伴久美子の歌で再発売した。

473 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 20:23
【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/healing/1113312511/l50


474 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/10(Wed) 20:28
【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】

h ttps://bubble5.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1162563164/


475 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/11(Thu) 11:16
めんこい仔馬
 本来は童謡でなく、流行歌として世に出た『めんこい仔馬』(1940年)が、子供の頃から大好きである。

めんこい小馬-陸軍省情報部撰定
     サトウ・ハチロー作詞/仁木他喜雄作曲

  一、ぬれた小馬の たて髪を
    撫でりや両手に 朝の露
    呼べば答へて めんこいぞ オーラ
    駆けて行こかよ 丘の道
    ハイド ハイドウ 丘の道
  二、藁の上から 育ててよ
    いまぢや毛並みも 光つてる
    お腹こわすな 風邪ひくな オーラ
    げんきに高く ないてみろ
    ハイド ハイドウ ないてみろ
  三、紅い着物(べべ)より 大好きな
    小馬のお話 してやろか
    遠い敵地で お仲間が オーラ
    手柄たてた お話を
    ハイド ハイドウ お話を
  四、西のお空は 夕やけだ
    小馬かへろか おうちには
    お前の母さん 待つてゐる オーラ
    唄つてやろかよ 山の唄
    ハイド ハイドウ 山の唄
  五、明日は市場か お別れか
    泣いちやいけない 泣かないぞ
    軍馬になつて 行く日には オーラ
    みんなで バンザイ してやるぞ
    ハイド ハイドウ してやるぞ

めんこい仔馬
 歌;二葉あき子、高橋祐子、日蓄児童合唱団

 映像のレーベル面にもあるとおり、もともと東宝映画『馬』(1941年3月公開)の主題歌として作られたにも係わらず、実際には使われなかったらしい。そうとも知らずレコード盤は、先行して1940年12月に発売されている。そのこととは無関係に、NHKが“国民歌謡”として採り上げ、松原操(ミス・コロムビア)の歌唱で1941年1月にラヂオ放送されている。
 映画は未見なれど、時節柄、戦時色が強いことは否めまい。したがって、該当歌詞(三番、五番)を改変乃至削除して戦後も歌い継がれている。
 それはともかく、この歌詞のキモは二番に収斂される。即ち、我国の家族主義的社会を否応なく想起させてくれる。祖父母・親兄弟・子孫等の血縁者はもちろん、使用人・飼犬猫・家禽畜に至るまで「家族」同然に遇する文化をいうのである。とりわけ、二番を児童合唱団が歌っているのが効いている。動物(この場合“小馬”)を世話することで、親が子を思う心情を理解しつつ自分が大人になったとき、我が子にも同じように受け継がせる、そういう日常生活全般が世渡りの道場(訓練場)になっていた、ということ。


戦後歌詞改変版(昭和20年代の録音?)
 歌;伴久美子(1942-1986)、コロムビア杉の子子ども会

476 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/12(Fri) 22:32
「めんこい仔馬」。この歌は昭和16年封切の東宝映画「馬」の挿入歌だが、高峰秀子が娘役を初めて演じて評判になった。この唄は二葉あき子と童謡歌手・高橋裕子が歌い録音、同年1月からの「国民歌謡」のラジオでは松原操が唄って、幼児から老人まで幅広い層に愛唱された。
が、日中戦争開始1年で軍馬が不足し、原則牡馬だったのを増産のため、雌馬がたくさん配給されていたと石川達三の戦記文学「武漢作戦」に記されている。農耕馬も戦地へ送られた。
この歌の背景は、軍馬愛育の心情だ。さすが名曲なので、コロムビアでは戦後、仔馬と子どもの愛情交流の歌詞に変えて昭和26年、伴久美子の歌で再発売した。

477 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 14:30
02/09: 1974年6月 沖縄の雑誌『青い海』34号「詩碑を訪ねてー佐藤惣之助」
h ttp://ryubun21.net/index.php?itemid=12069
佐藤惣之助詩碑。1959年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。

佐藤惣之助 さとう-そうのすけ
1890−1942 大正-昭和時代前期の詩人。
明治23年12月3日生まれ。佐藤紅緑(こうろく)に俳句をまなぶ。千家元麿(せんげ-もとまろ)らとまじわり,詩作に転じ,第1詩集「正義の兜(かぶと)」などを刊行。大正14年詩誌「詩之家」を創刊。また随筆,釣りの本をかき,歌謡曲「赤城(あかぎ)の子守唄(うた)」「人生劇場」などを作詞した。昭和17年5月15日死去。53歳。神奈川県出身。(→コトバンク)

佐藤惣之助年譜
1922年
3月ー詩誌『嵐』を千家元麿、陶山篤太郎、後藤大治らと創刊。
5月31日ー横浜より大洋丸で出帆、沖縄、台湾への旅にたつ。
6月1日ー神戸上陸、芦屋の富田砕花(不在)宅で百田宗治と会う。
6月3日ー長崎に下船、崇福寺、木蓮寺、丸山見物。
6月5日ー三角、熊本、鹿児島泊。
6月7日ー正吉丸、天候不良で出航延期。
6月8日ー鹿児島出帆。
6月9日ー奄美大島名瀬に上陸、夜、暴風をついて那覇へ向かう。那覇で3週間。その間、慶良間、石垣島へ渡る。帰路は基隆へ渡る。□1959年5月1日ー『琉球新報』山里永吉「沖縄の佐藤さんー古い風物につながる思い出ー佐藤惣之助さんが沖縄入りしたのは大正11年、たしか若夏の候だったと憶えている。当時佐藤さんは詩誌『嵐』を主宰し、詩集も矢つぎばや・・・と云っていいくらい出版されて、名声トミにあがっていたが、沖縄にはこれといった知人がなく、『嵐』の愛読者で、私の親しい友だった伊波普哲君(伊波普猷先生の甥)に連絡をとっての、未知の島訪問だった。




478 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 16:33
大衆音楽の殿堂

大衆音楽の殿堂は、古賀政男音楽文化振興財団が認定する日本の大衆音楽の発展に貢献した人物を顕彰するために設立された殿堂
東京都渋谷区の古賀政男音楽博物館内に設けられた殿堂ホールに展示されている。

古賀政男音楽博物館 h ttp://www.koga.or.jp/

殿堂入り受賞者の一覧 :
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大衆音楽の殿堂


479 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 19:18
流行歌(レコード歌謡)において、作曲家がメロディーを付け始めたのは、昭和3年、レコード産業が成立してからである。
日本では、昭和の時代と歩みをともにするが、まず作曲家の一番星になったのが中山晋平だった。

外資系のビクターから、西條八十作詞、佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」の作曲で世に知られるが、ついで、昭和6年、古賀政男がコロムビアから高橋掬太郎作詞の「酒は涙か溜息か」の作曲と、 詞も自ら書いた「影を慕いて」を、東京音楽学校(現東京藝大)最大の傑作≠フ折紙つきの ベルカント歌手・藤山一郎(本名・増永丈夫)に歌わせ、蓄音機が、植民地だった台湾・朝鮮 を含めて、日本全国にわずか二十万台といわれた時代に、それぞれ百万枚の大ヒットをさせた のだった。
中山晋平の曲が、民謡的な匂いのただよう素朴感のあるメロディーだったのに対し、古賀メロディーは、都会的な哀愁感が嫋々と流れ、そのやるせないひびきが大不況下の暗い世相に共鳴して、満州事変の勃発と、東北大凶作の中、狂乱に近い大ヒットになったのである。

古賀政男は、マンドリンの演奏からギターに転じ、独学で作曲を志していた。「影を慕いて」 と同時期に、「酒は涙か溜息か」を作曲しているが、短い二行詞にどう曲を付ければいいか苦しみ抜いた末に、「古賀メロディー」の原点となる、やるせない哀愁に彩られた曲調を生み出したのである。

古賀政男についで、昭和8年以降、10年代にかけて、江口夜詩 、佐々木俊一、万城目正、阿部武雄、服部良一、古関裕而・・らが続くのである。




480 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 19:26
そうだその意気(国民総意の歌)

作詞 西條八十、作曲 古賀政男
歌  霧島昇、松原操、李香蘭

(一)
何にも言えず靖国の
宮の階ひれ伏せば
熱い涙がこみ上げる
そうだ感謝のその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(ニ)
雁鳴き渡る月の空
今夜今頃戦地では
弾丸を浴びてる友がある
そうだ済まないその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(三)
戦に勝つにゃお互いが
持場職場に命懸け
こんな苦労じゃまだ足りぬ
そうだその意気その気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(四)
輝く勲皇軍に
負けず遅れずがっちりと
共に戦う銃後軍
そうだ進めば盛り上がる
凱歌凱歌明るい大アジア

「そうだその意氣」は、1941年(昭和16年)5月25日にコロムビアレコードから発売された。作詞は西條八十、作曲は古賀政男で、歌は霧島昇、松原操、李香蘭。「国民総意の歌」の副題がある。


481 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 20:49
国民歌謡:いざおを胸に

サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲
楠木 繁夫、松原 操、歌
日蓄合唱団1944-10


いろはのいの字は
命のいの字
誰も忘れぬこの文字よ
一番勇まし
勲を胸に
いの字で行こうか
その日 その日,

2.
鳶のとの字は
とんぼのとの字
仰ぎ眺めるその翼
飛んだぞ飛べ飛べ
轟く凱歌
との字で作ろうか
いつもいつも

3.
今年のこの字は
工場のこの字
この道通うて早や三年
小鳥の小唄は
小藪の陰に
この字で唄おうか
君も僕も


瑞穂のみの字は
皆のみの字
交わす言葉も朗らかに
見つめる見事な
実りの秋だ
みの字でやろうか
日毎 夜毎.



482 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/17(Wed) 21:55
夜霧の馬車 (陸・海軍礼式歌)

作詞 西條八十
作曲 古賀政男
歌  李香蘭
昭和16年7月

(一)
行け嘆きの馬車
赤い花散る港の夕
旅を行く我を送る
鐘の音さらばよ
愛しこの町君ゆえに
幾度振り返る

(二)
鳴け鴎の鳥
哀れ切なく夕陽は燃える
波の上浮かぶジャンク
寂しやはろばろ
誰が歌うか愛の歌
夜霧に流れ来る

(三)
行け嘆きの馬車
月に胡弓の流れる町を
いつか見ん母の待てる
故郷懐かし
窓の灯影を夢見つつ
果て無く旅を行く

夜霧の馬車(3番?後奏) 昭和歌謡に惹きつけられる要素のひとつに、前奏や間奏か?美しい曲か?多いことか?挙け?られます。この曲も当に美しい…?
かって多くの歌手や詩人、音楽関係者が通ったという代々木上原駅前3000坪の古賀政男邸。
古賀邸は美術館のようにあちこちに第一級の美術品が飾られ、玄関を入ると正面に、音楽・弁論の神、弁財天のふくよかな像を彫りこんだ額が、かかっている。萩原朔太郎、佐藤惣之助、古賀政男がたびたび詩の談義をはずませた応接間..そこに、西條八十、李香蘭、古賀政男が集まって「夜霧の馬車」の曲を練った。


483 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/17(Wed) 21:56
?は点(・)の文字化けです。

484 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 00:29
さらば上海

作詞:時雨音羽 作曲:古賀政男
関種子 1932、李香蘭 1838

胡弓ならせば ランタンゆれる
ゆれるランタン 小さく赤く
すえは夜霧で すえは夜霧で
絶えだえに

胸の白菊花の しおれる頃は
消える黄包車 二度とは 逢えぬ
今日も四馬路に 今日も四馬路に
けむる雨

糸がふるえる 胡弓の糸が
すすり泣く音の 悲しく細く
遠い夜霧の 遠い夜霧の
あの中で

わかれゆく身は 儚く淡し
霧の上海 さよならならば
明日ははるかの 明日ははるかの
空の涯



1938年に李香蘭の名で女優デビューした山口淑子,デビュー曲「さらば上海」。

関種子  昭和07年(1932)
李香蘭 昭和13年(1938)





485 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 10:31
歌謡曲の父・・・古賀政男物語 You Tube
2019/11/26
h ttps://www.youtube.com/watch?v=zagPzuXKPVE


486 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 11:40
『酒は泪か溜め息か』
作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男 歌 藤山一郎
 オリジナル Columbia-26486-A

1.
酒は泪か 溜め息か
心の憂さの 捨て所
遠い縁の 彼の人に
夜毎の夢の 切なさよ

2.
酒は泪か 溜め息か
悲しい恋の 捨て所
忘れた筈の 彼の人に
残る心を 何としょう


89年前、昭和6年(1931)9月、満州事変の勃発と、日本最後の飢饉と言われた東北大凶作の中、作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。また、日本で最初にクルーナー唱法を取り入れた作品としても知られる。当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生だった。 折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。歌のヒットにより、のちに松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された。

B面は、淡谷のり子「私此頃憂鬱よ」(作詞:高橋掬太カ 作曲:古賀政男)淡谷は東洋音楽学校主席。、

レコード袋(古賀春江) h ttps://ameblo.jp/kimokenblog/entry-11901366766.html



487 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 15:25
「影を慕いて」

古賀政男作詞・作曲
佐藤千夜子(ビクター) 昭和6年1月
藤山一郎(コロムビア) 昭和7年3月


まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ






不世出の国民的名歌手藤山一郎が独唱するギター歌曲・「影を慕いて」・美しき日本の歌です。
昭和モダンの陰影を象徴する古賀メロディーの傑作といえるでしょう。藤山一郎の声楽技術を解釈したクルーン唱法によって古賀政男のギター曲の魅力が伝わりました。
昭和4年6月 明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会初演(ギター合奏)昭和5年10月佐藤千夜子ビクターで吹込み(昭和6年1月新譜)。昭和7年1月藤山一郎再吹込み(昭和7年3月新譜発売)。
クラシック系歌謡曲の藤山一郎は現在の東京芸術大学を、昭和8年首席卒業であり、美空ひばり、森進一ら感情を濃く小節を回す演歌系歌謡曲の艶歌唱法とは対極にあるリートのベルカントによる歌唱芸術です。

昭和が終わった平成元年(1989)、NHKTVは「日本の名曲10曲」として、1年間にわたって1週間ずつ繰り返し放送。


488 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 15:35
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
 2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


489 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 16:35
◇戦後の主な古賀メロディ
「りんどう峠」を含めた戦後の主な古賀メロディの一端を
古賀作品には圧倒的に西條八十が多いのがわかる!。


麗人の歌     1946(西條八十作詞 霧島 昇歌)
悲しき竹笛    1946(西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌)
こころ月の如く  1947(西條八十作詞 二葉あき子歌)
旅の舞姫     1947(西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌)
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948 (西條八十作詞 霧島 昇、二葉あき子歌)
三百六十五夜   1948 (西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948 (西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詞 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう    1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節       1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詞 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詞 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)


490 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 16:47
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸作詞、 藤山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詞、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詞、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968 (古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)


491 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 18:40
いちうた ― 君の住む街・市原は
h ttp://music1930.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-469a.html
2012年7月20日 (金)

影を慕いて



492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 19:06
昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。
このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

493 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 19:19
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。
菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。

NHKの連続ドラマ「いちばん星」で紹介されたの覚えておられる方も多いかと思います。日本で最初のレコード・スター歌手・佐藤千夜子は1897年(明治30年)3月13日、山形県天童市で生まれました。
13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)に入学。東京音楽学校の社交場でもにもなっていた本郷中央教会で聖歌を歌った、ここで同じクリスチャンの山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。
中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)に、歌手として参加、この企画の中で生まれた新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)(ビクターからレコードとして発売。これが日本の商業レコード第一号とされている。
このレコード歌手第一号、晋平の唄(晋平節)そ世に広めた歌手「佐藤千夜子」の力添えで誕生することになるのが、「古賀政男」(正男)でした。
「いちばん星」にはこのあたりのことが描かれています。


494 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 20:21
age

495 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:03
古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)



東京・代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。
本田美奈子「アマリア」のマンドリン

「決定盤?古賀政男?心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤
?ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。
?明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。
?年1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが(後述)、あまり売れた形跡はない。
?−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。
?本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
?萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。
?本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
?本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。



496 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:04
?は点・の文字化けです。


497 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:13

「トレモロ寂し?身は悲し」
?古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
?ギターをとりて?爪弾けば
?どこまで時雨?ゆく秋ぞ
?振音(トレモロ)寂し?身は悲し
?という一節がある。

?トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。
?マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。
?「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。
?どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。
?この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。
毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。




498 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:26
作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。/昭和六年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)
?この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年7月、「乙女心」は6月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
?コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。

西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために
?古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。
?藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。
「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲≪影を慕いて≫≪酒は涙か溜息か≫≪丘を越えて≫は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)
「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。



499 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:35
「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

?古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。
?コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。
?けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。
?月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやとおうと言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している。




500 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:45
古賀の入社は昭和6年(1931年)3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。関種子(1907−90)も東京音楽学校を卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。
「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
?詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。


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