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昭和歌謡が好きな人集まれ!

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/05/16(Tue) 23:04)]
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!


[564:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/21(Mon) 11:37)]
窓に凭れて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一) 
行きて返らぬ 若き日を
窓に凭れて 思いみる
夢多かりし かの頃の
雲のかからぬ 清らかさ
ああ 過ぎにし 過ぎにし春の
思い出よ

(二)
ただやすらけく ありし日の
胸のあこがれ 泡と消え
たけての今日の この胸に
地上の愛の なやましさ
ああ 涙に 涙にくるる
このこころ


関種子はクラッシックソプラノ歌手で、佐藤千夜子、長門美保、佐藤美子、四家文子、松原操などと共に活躍し、初期の古賀メロディーを中心に、ヒット曲を出した人気歌手でしたが、短い芸能界でした。

関種子は、クラッシックのソプラノ歌手で、本格的な声楽家です。
明治40年9月18日、岡山県生まれで、小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京音楽学校に進学、在学中に結婚、本科を首席で卒業しました。
坪内逍遥原作、山田耕筰作曲の歌劇『墜ちたる天女』で楽壇デビュー、クラッシックのソプラノ歌手の活躍を始めました。
『墜ちたる天女』の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだ縁で、昭和6年に同社からデビュー、『窓に凭れて』『嘆きの夜曲』『あけみの唄』『日本橋から』など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせています。


私は国立音大で関先生に教えを受けました。ご自宅にもレッスンに行きました。また、軽井沢でのセミナーにも参加しました。とても素晴らしいコロラツゥーラソプラノでした。先生が本邦初演の「ランムールのルチア」のアリアを頂き、練習しました。大学3年の時でした。中田喜直の「霧と話した」も初演でした。有名で日本語もドイツ語もイタリア、フランスと造詣が深く、素晴らしい声楽家でした。この頃は歌謡曲が声楽と言われていたそうです。しかし今のような文化ではなく、日本歌曲をどのように浸透してゆくか、迷った時代でした。NHKのラジオでの多くの音大での声楽家、オペラ歌手が今で言う歌謡曲を歌いました。美しい発音と発声法でマイクに頼らず、心を歌いました。私が卒業の時『心と声』と直筆で書いてくださいました。今70歳を目前にその意味がやっと解ってきました。
心の歌を歌うのは声を大切にしなくてはなりません。関先生にもっともっとお習いしたかった今日この頃でした。


[565:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/21(Mon) 21:38)]
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。

82年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。


[566:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/25(Fri) 21:25)]
>>564

関 種子(読み)セキ タネコ
20世紀日本人名事典の解説

昭和期の声楽家(ソプラノ) 国立音楽大学名誉教授;千種会主宰。



生年 明治40(1907)年9月18日
没年 平成2(1990)年6月6日
出生地 東京
本名 秋山 種子
学歴〔年〕 東京音楽学校本科〔昭和4年〕卒
主な受賞名〔年〕 紫綬褒章〔昭和49年〕,勲四等宝冠章〔昭和56年〕
経歴 昭和4年楽劇「墜ちたる天女」の主役として出演、以来第一線の歌手として活躍。31年「コンセールf」の結成に参加。また国立音大・名古屋音大各教授も務めた。著書に「音楽家になるには」。
出典  日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報



新撰 芸能人物事典 明治〜平成の解説

職業 声楽家
専門 ソプラノ
肩書 国立音楽大学名誉教授,千種会主宰
本名 秋山 種子
生年月日 明治40年 9月18日
学歴 東京音楽学校本科〔昭和4年〕卒
経歴 昭和4年楽劇「墜ちたる天女」の主役として出演、以来第一線の歌手として活躍。31年「コンセールf」の結成に参加。また国立音大・名古屋音大各教授も務めた。著書に「音楽家になるには」。
所属 団体日本演奏連盟(評議員),日伊音楽協会(理事)
受賞 紫綬褒章〔昭和49年〕,勲四等宝冠章〔昭和56年〕
没年月日 平成2年 6月6日 (1990年)
家族 姉=関 鑑子(ソプラノ歌手),弟=関 忠亮(バス歌手),娘=関 弘子(女優)
伝記 オペラ歌手奮闘物語―繰り返せない旅だから〈4(最終巻)〉 畑中 良輔 著(発行元 音楽之友社 ’09発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治〜平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治〜平成について 情報


[567:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/25(Fri) 21:36)]
2009/9/18
「武岡鶴代 関種子」  今日のひと こと
 1895年・明治28年の今日、岡山県で後にソプラノ歌手となる武岡鶴代が生まれています。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ・レーベに師事し、1916年・大正5年東京音楽学校を卒業しました。
 1924年・大正13年に国立音楽学教授となり、1929年から3年間ドイツに留学しました。大正から昭和初期にかけてドラマチック・ソプラノとして活躍しました。
 1935年門下生の希望によりプロの音楽家を養成するための「鶴声会」を発足させました。その功績を称え「武岡鶴代賞」が設けられています。
 もう一人ソプラノ歌手の話題です。

 1907年・明治40年の今日、東京で関種子が生まれています。姉鑑子はソプラノ歌手としてうたごえ運動を起こしました。
 1924年東京音楽学校声楽科を卒業します。姉や武岡鶴代と同じネトケ・レーヴェの教えを受けました。
 卒業後も研鑽を積み、昭和4年に山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の初演で第七の天女でデビューしました。
 その後ソプラノ歌手として藤原歌劇団で「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌います。
 流行歌手としても、昭和6年に吹き込んだ「日本橋から」、「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」、「乙女の春」、「雨に咲く花」などのヒット曲も多くあります。
 戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍しました。オペラばかりではなく、コンサート歌手としても、歌曲のリサイタルなどでも幅広い活躍をしました。東京芸大や国立音大で後進の指導に当たり、多くの門下生を育てました。
1


[568:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/26(Sat) 12:19)]
(参考)
h ttps://item.rakuten.co.jp/cfc-co/d6160/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_102_1_10001643

<古賀政男名曲大全集>
2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えます。その記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。出演者も、藤山一郎を初め、淡谷のり子、霧島 昇、二葉あき子、李 香蘭、近江俊郎、神楽坂はん子、村田英雄、美空ひばりなど、まさに綺羅星のごとき大スターたちによる夢の饗宴盤となっています。
過ぎ去りし昭和を振り返りながら、もう二度と現れないであろう大作曲家の音楽の真髄に触れていただく、まさにコロムビア創立記念に相応しいBOXセットです。

CD10枚組
全200曲収録
別冊歌詞集付
専用ケース入り
古賀政男 名曲大全集
(1件)22,000円(税込)送料660円

商品番号 D6160 コロムビア創立100周年記念特別企画!
選びに選び抜かれた「古賀メロディー」の名曲200曲!!
【演歌・歌謡曲 CD】
古賀政男 名曲大全集 商品番号D6160


[569:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/26(Sat) 21:23)]
>>559

日本の歴史は飢饉の歴史ともいえる。昭和に入っても飢饉はあった。
東北の大凶作による飢饉と社会不安、それは太平洋戦争に到る遠因ともいわれる。
日本は農業国家でまだ草深い、まだ貧しい時代だった。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。



[570:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/26(Sat) 21:51)]
昭和大飢饉(大凶作)について
おしんみました。東北で飢饉が起こり、身売りでおしんの元に養女となる初子がやってくる場面など窮乏さががよくわかり、満州事変からはじまる太平洋戦争開戦、敗戦の流れがだいたいわかりました。石原莞爾は山形県出身と、誰がどう考えても飢える故郷のために軍人が立ち上がったと言ってはいけないのかもしれないけど立ち上がったのを見ると、現在では考えられない、上の方のほうが今以上に「責任」があった時代だったんだなと感じました。


戦争に関するテレビや映像、本はたくさん出回っていますが満州事変〜太平洋戦争のはじまりとも言える自然災害の東北での不作,凶作の飢饉は戦争を語る上で現代あまり有名ではないように感じます。いかがでしょうか?


[571:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/14(Wed) 23:07)]
age


[572:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/15(Thu) 14:58)]
昭和16年、軍関係の慰問演奏が多数行われ、この年発売されたレコードは「蘇州の夜」「夜霧の馬車」を初めとする等13曲。
この時期、李香蘭が参加した最も巨大規模と思われる音楽イベントが、
読売新聞主催・後楽園球場で2万人の観客を集めた「そうだその意気」発表会である。

製作過程
当時、各メディアは軍や国家機関の協力を得て、国策協力の歌を積極的に作っていた。


「露営の歌」東京日日新聞(現・毎日新聞)   
「兵隊さんよありがとう」朝日新聞
「婦人愛国の歌」主婦之友                 「出征兵士を送る歌」キング

「そうだその意気」もその流れの中、読売新聞が作った歌である。
後援は陸軍・海軍を含めた全ての省。情報局・大政翼賛会・日本放送協会。
作曲・古賀正男。作詞・西條八十。歌手は李香蘭・霧島昇・松原操。
多くの政府関係機関が後援を行い、コロムビアを代表する人気歌手と製作陣が参加する
大規模な音楽プロジェクトだった。

「聖戦完遂 国民総意の歌 募集」と題された記事が3月21日付に掲載され、
歌詞のテーマは「一億国民老若男女が朝夕高らかに唱和する如き平面にしてしかも神国に
第一線の将兵と共に戦いつつある決意を全国民に促し得る画期的名作を切望」して一般募集されたが
当選作が無く、結果的に作詞家の西條八十が担当する事になった。

作曲は古賀正男が担当したが、二晩徹夜して作ったメロディを軍人が気に入らず、
「戦意を高めるどころか、なんだ悲しくなるじゃないか」と作り直せと注文をつけた。
しかし古賀政男はこれ以外のメロディは作れないと、突っぱねたというエピソードがある。

実際聞いてみると前半は比較的静かで、後半にかけての盛り上がりがメリハリが効いている。
前半部分を軍人は気に入らなかったのかもしれないが、
注文通り作り直したら、勇ましいけれども単調な歌になっていたかもしれない。

5月10日、東京日比谷のコロムビア本社にてレコーディングが行われた。
合唱形式で歌われており、歌詞によって担当が異なっている。
1番 霧島昇 
2番 松原操 
3番 霧島昇と李香蘭の合唱 
4番 全参加者による合唱
4番は、この歌の副題が「国民総意の歌」という事もあって、全国民が歌う事をイメージしているのだろう。

銃後の全国民を対象にした歌で、歌詞を簡単に説明すると、
「中国戦線で戦う兵士達に感謝し、彼らに負けないように、銃後にいる私たちも仕事や社会奉仕に励もう」
という歌である。


そうだその意気(国民総意の歌、陸・海軍礼式歌)

西条八十作詞、古賀政男作曲 
歌;霧島昇/松原操/李香蘭  昭和16年


1 なんにも云えず 靖国の 
  宮のきざはし ひれ伏せば 
  熱い涙が こみあげる 
  そうだ 感謝の その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

2 雁の鳴きわたる 月の空 
  今夜いまごろ 戦地では 
  弾丸(たま)を浴びてる 
  朋友(とも)がある 
  そうだ 済まない その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

3 戦に勝つにゃ お互いが 
  持場 職場に 命がけ 
  こんな苦労じゃ まだ足りぬ 
  そうだ その意気 その気持 
  揃う揃う気持が 国護る

4 かがやく勲  皇軍に
  まけず遅れず  がっちりと
  共に戦う  銃後軍
  そうだ  進めば 盛り上がる
  凱歌凱歌  あかるい
  大アジア


[573:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/17(Sat) 16:38)]

朝ドラ『エール』では、ヒット曲が出ないで悶々とする古関(古山)が話す中で「名曲ばかりの古賀メロディー」という会話がたびたび出てくる。

そんな中で、以下の中で、「そうだその意気」が聞ける。

西条八十作詞、古賀政男作曲「そうだその意気」霧島昇、松原操、李香蘭歌。


朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


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