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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2019/05/27(Mon) 08:43)]
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


[239:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/05(Fri) 17:44)]
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

h ttp://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。

戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。ぜひこの映画を見せてあげたい。



荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモ­ノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物­だと感心させられた一曲です。


「荒城の月」は、「紅い睡蓮」、「夕月乙女」とともに、映画『熱砂の誓ひ』挿入歌でもあったのですね。
h ttp://plaza.rakuten.co.jp/roberobe1963/3022/

·紅い睡蓮(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
·夕月乙女(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
·荒城の月(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)

テレビで今年亡くなった有名人を報じている。なかでも李香蘭は忘れてはならない人でしょう。

李香蘭は単なる美貌のスター歌手というだけでなく、あまり知られていないが、本格的に幼時から声楽を学んだ本格的歌手でもある。

特に、ぜひ聞いてほしいのは李香蘭の歌う「荒城の月」だろう。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、
中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。
マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。
ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。


また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )


[240:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/06(Sat) 10:22)]
☆ 古賀政男 二つの「思い出の記」


昭和53年7月25日に古賀政男が亡くなって今年、令和2年(2020)で42年になる。

42年前の7月25日,午後1時15分、代々木上原の自宅で急性心不全により死去、享年・73歳。

訃報を伝えるNHKラジオ放送は、その夜すべての番組を中止し、一斉に古賀メロディ―を流し続けた。異例のことだった。

10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。

生前に贈ることを目的としたもので異論もあったようだが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった…

昭和歌謡の黎明期、一苦学生で、プレクトラム音楽家だった昭和4,5年から、昭和6年コロムビア専属そして、テイチク、コロムビアとレコード会社を移りながら、日本がまだ貧しかった時代から高度成長の真っ盛り戦後の昭和40年代末ごろまで,古賀政男ほど長きに亘って広範に思う中心でありえたものもいない。

「人生の並木路」そのままに、貧しい故郷を捨てて兄を頼りに「韓国」に亘った古賀メロディに大きな影響を及ぼしたとされる韓国で過ごした少年時代。

また、明治大学学生として日本に帰って来て、一苦学生に過ぎなかった「古賀正男」が「古賀政男」として歌謡界の頂点に昇りつめる半生、それは日本の昭和の歴史を象徴するかのよう。

それはまさに半世紀に亘る昭和歌謡の歴史そのものだった。


古賀政男には「思い出の記」という自身の人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。



「思い出の記」は二つあって、いずれも古賀政男作曲の秀作、昭和16年の作品(大木惇夫作詩)と、晩年自らの「思い出」を辿る自伝的作品として作った昭和43年(1978)の古賀政男作詩があります。

古賀政男にしか書けない曲です。

古賀政男ならではの「思出の記」の実績の上に作られた自信に溢れた曲といえる。

大木惇夫作詩は、国民新聞に連載された徳富蘆花の立志的自伝的文学作品『思出の記』(「思い出の記」だったが「思出の記」と変更)の歌謡化作品であるのに対し、歌謡界の大御所で、「日本の名士」になっていた古賀政男晩年の自らを顧み語る自伝的作品と言えます。

思出の記 (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)霧島昇1941.12 (陸海軍礼式歌)

思い出の記(古賀政男作詞、古賀政男作曲)    1968


大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲で陸海軍の礼式歌ともなった。

・大木惇夫作詩「思出の記」は、徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化で、霧島昇歌(コロムビア100374@)

作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

ああ馬の背に涙して
故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に
誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに

ああ山河は変わらねど
人の心は今いかに
思い出の谷夢の丘
幼馴染の面影も
今は空しき菜の花よ



・古賀政男作詞「思い出の記」
作詞 古賀政男
作曲 古賀政男

ああ思い出は 懐かしく
ふるさと恋て 訪ぬれば
親同朋(はらから)は すでに逝き
誓いし友の 面影も
今は虚しき 菜の花よ

ああ人生は 夢の夢
幾年変わらぬ 山川も
流れる雲か 風に散る
人の心は 山吹の
花はほろほろ 散るばかり


なお、他に大木惇夫作詞に、
崑崙越えて     1941(大木惇夫作詞、藤山一郎歌)
苺の雲の燃える時 1941(大木惇夫作詞、霧島昇、松原操歌)  
雲のふるさと   1944(大木惇夫作詞、伊藤久男歌)陸海軍礼式歌、戦後NHKラジオ歌謡
月のしづく    1944 ( 大木敦夫作詞、李香蘭歌)

*雲のふるさと、月のしづくの李香蘭(山口淑子)盤が古賀財団で最近発見された。

なお古賀政男最晩年の作品は…
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)



[241:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/06(Sat) 10:48)]
古賀メロディとは

日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)。

これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。


[242:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/06(Sat) 11:47)]
前橋マンドリンフェスタ 2006

2006年が生誕120周年にあたる郷土の詩人・萩原朔太郎はマンドリンの演奏家としても知られることから、
「前橋マンドリンフェスタ2006」が開催されました。福岡マンドリンオーケストラは、県外からの招聘団体として参加いたしました。
h ttp://www.geocities.jp/fkmo1966/2006/2006maebasi/2006maebasi.htm
開催期間:平成18年10月28日(土)、29日(日)
開催場所:前橋市民文化会館、前橋市内中心街

●2006年10月
29日(日) 萩原朔太郎生誕120年記念 で住職が 朗 読 しました前橋マンドリンフェスタ2006 (リンク)

28日 マンドリン四重奏の全国コンクール
29日 午前 県内56団体の演奏     午後 県外6団体          
ゴンドラマンドリーノの「朔太郎コーナー」

・朔太郎遺愛曲
・朔太郎と古賀メロディー
・朔太郎愛唱歌「野火」「ふるさと」

秋山直之・オーケストラと朗読:「広瀬川」村上泰賢、「大渡橋」神野文子  など

会場:前橋市民文化会館 大ホール (前橋駅南口)

関連ページ
◇前橋マンドリンフェスタ2006の開催(リンク)

□第一回マンドリンフェスタは盛会のうちに終わりました。萩原朔太郎生誕120年で初めておこなわれたマンドリンフェスタ。
「これから前橋をマンドリンの街にしてゆきたい」という高木市長の言葉が、力強く胸に響きました。
群馬交響楽団を育てた高崎市、についでこれから朔太郎の縁で生まれたマンドリンフェスタの街前橋、を大事に育てていってほしいものです。
文化を育て上げるには時間と手間がかかります。ゆっくり息長く。
h ttp://tozenzi.cside.com/news2006.html

h ttp://tozenzi.cside.com/news2006.html



前橋出身の詩人・萩原朔太郎は、大正15年〜昭和4年まで、馬込の「文士村」に住んだ。
文士村には佐藤惣之助もいて、萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。昭和5年には、妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
昭和6年には、妹アイとともに世田谷区下北沢に。

一方、昭和6年、代々木上原に住んでいて、一時期世田谷松原に住んだ後、
昭和13年、緑豊かな小田急線代々木上原駅前3000坪に、邸宅を構え移り住んだた古賀政男。>>157,>>162,>>167

昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。

マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、
マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。

なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、代々木上原から二つ目、三つ目。

朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半月後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、

4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。

朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。

(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について  
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977


[243:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 20:03)]
戦後の西條八十、詩人・芸術院会員西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化したもので、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。

その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と最も長く、最も多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。
昭和23年には、新東宝映画「あの夢この歌」の主題歌として、霧島昇、二葉あき子の歌で発表された。





     あの夢この歌


  作詞 西條八十 : 作曲 古賀政男

1 おさない日かなしい日 聞いた歌
  優し メロディー
  君うたう今うたう 花の唇燃えて
  ときは春あかしやの みどり白雲
  楽しげに渡鳥 翼はかがやく

2 涙ぐみ別れたる うるわしの
  君の姿 浮かび来て
  流れ来てわれを 泣かすよ呼ぶよ
  若き日の恋の花 すみれひなげし
  におう夜の歌声に 月さえかがやく

3 あの夢もこの夢も ながれ去り 
  残る メロディー
  あの人がこの人が 哀れ歌いしメロディー
  歌は蝶むらさきの 紅の蝶々
  華やかに朗らかに こころを結ぶよ


               葬儀委員長 安藤 更生
               喪主    西條 八束
                  


[244:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 20:12)]
昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説で『東京行進曲』(西條八十作詞、中山晋平作曲)を歌ったレコード歌手第一号、佐藤千夜子の生涯を描いた『いちばん星』が放送された。

『いちばん星』では、「エール」と違って、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫( 政男)など、まさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する。

昭和歌謡、大衆歌謡の源流とそこに関わった先人の熱い情熱と思いが描かれています。


大衆歌曲「歌謡曲」(クラッシックのことをこう呼んだ)はクラシック(洋楽)を基礎にして、さらに世界の音楽と邦楽の伝統を取り込みつつ融合発展したもので、大衆の間に浸透していくにつれ様々な抵抗や批判があった。それらにひるまず「歌謡曲」を確立してゆく、歌作りにかけた先人の弛まぬ熱い思いの歴史であった。

昭和4年、音楽評論家伊庭孝が流行歌(レコード歌謡)を批判したことから、西條との間で論争が起こった。「流行歌」が通俗かつ劣悪であるとされていたのだ。しかし、西條はものともせず流行曲作家として次々に映多くの映画主題歌などを手掛けてゆく。

『大衆をこよなく愛した詩人・作詞家 西條八十』、戦前から戦中・戦後・高度成長期まで約50年に渡り、童謡から流行歌まで幅広く作詞を手がけた西條八十。

詩人、仏文学者、作詞家、大学教授・・・ 多彩な仕事を残し「堕落」と言われようが、歌が持つ力を信じ、そっと寄り添う優しい簡潔な言葉で、大衆を励まし続けた昭和歌謡の源流。

西條八十の歌、そこに流れるものは、弱きものにそっと寄り添う「やさしさ」だと想います。

処女詩集『砂金』から、初期の童謡と純粋詩、あるいは訳詩、「東京行進曲」あたりから書きはじめた流行歌、後の歌謡曲、あるいは軍歌など書いてゆく。早稲田大学の仏文科で教鞭をとりながらの二束のわらじだった。

さらに各地の民謡、校歌、社歌の類、多くの少女小説まで書きまくった。

弟子にサトウハチロー、門田ゆたか、佐伯孝夫、丘灯至夫などがいる。

童謡から新民謡,歌曲、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十。

西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、江口夜詩、万城目正、佐々木俊一、・・服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。

西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇が いわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。

西條八十は「芸術とは人生に対する真剣な感動が盛り込まれていなければならぬ」と言っていて、この歌謡の中でも例えば「旅のつばくら淋しかないか」ですが、これはフラ ンスの女流詩人の「旅の燕は私の心の夢で、あなたについていく」がヒントになっていて 私だったら「旅のつばくろ淋しくないか」となってしまうところ、「 ― つばくら淋しか ― 」となるのは、さすがです。らとかの明るいはずのあ音が、歌うと(古賀政男作曲) 深く澄んだ寂蓼となって響きます。

彼が歌謡曲を作るきっかけとなったのは関東大震災の夜だった。被災した兄を見舞うため都内を歩いていました。瓦礫の山の中、人々は嘆き、悲しみ、叫ぶ人までいました。余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。

朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。

 ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山(現上野公園)の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。

それは思いがけぬ美しく優しい音であった。


[245:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 20:26)]
激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。それで聞き覚えのあるメロディー〈船頭小唄 ♪おれは河原の 枯れすすき・・〉を吹き出しました。

すると、それを聞いた人々はなぜか静まりかえり、誰もが心をなごませたといいます。八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。(「父西条八十は私の白鳥だった」(集英社文庫))


「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」(ふえのしらたま)「お菓子と娘」「女給の唄」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「天国に結ぶ恋」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「楽しい我が家」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「なつかしの歌声」「春よいずこ」「蘇州夜曲」「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「三百六十五夜」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「娘船頭さん」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。


当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。(「唄の自叙伝」西條八十)

大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

なお、こんな安っぽいメロディ−は「船頭小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)。

八十はこの体験から何を言われようと思うまま書きまくることになる。

古賀政男音楽博物館地下1階「音楽情報室」のコンピュータで「西條八十」で検索すると、600曲くらい出てきて、一部の音源の準備の無いものを除き選んで試聴できる。

 昭和45年(1970)8月12日、詩人・芸術院会員西條八十はこの世を去ります。彼の残した曲の多くは、今でも多くの人々の記憶に刻まれています。

そして、その数の多さには誰もが驚かされるでしょう。彼が作ったのは、童謡が854曲(うち訳詞が63曲)、流行歌の作詞が3200曲、校歌、社歌700曲以上、これらのうちでレコード化されたものは7000枚になるといいます。それに加えて、詩、訳詩、小説、随筆、少女小説、紀行文なども多数あります。
 
 八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。喉頭ガンをわずらっていま した。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。


「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼 申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前 4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。謹んで辱知 の皆様に御通知申し上げます。


[246:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 20:31)]
   葬儀委員長 安藤 更生
               喪主    西條 八束


[247:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 20:37)]

西条 嫩子著「父西条八十は私の白鳥だった」 (集英社文庫) ? 1990/5/1




[248:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/09(Tue) 20:51)]
(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)
西条 嫩子著「父西条八十は私の白鳥だった」 (集英社文庫) 1990/5/1
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)

吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)


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