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実況!パワフルプロ野球総合 VOL.24

949 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/07/08(Sat) 00:24
鈴木平
「当時の自分はイースタン・リーグでは無敵の状態でした。
それでも、一軍からは声をかけてもらえませんでした。
当時の僕は細かいコントロールがなく
野村監督が求める優勝するための「ピース」ではなかったのです。
それでも、球団には『腐るなよ。頑張れよ。必ず誰かが見ているから』と声をかけてくれる方々の存在がありました。
そう信じて投げ続けた結果、トレードでオリックスに移籍して活躍することができたということでもあります。
95年の日本シリーズ、グリーンスタジアム神戸からスタートしたのですが
練習から上がってくるタイミングで当時のヤクルト・田口周球団代表に声をかけていただいたんです。
『平、良かったなあ、おめでとう。今シーズン、すごい頑張ったよなあ。(日本シリーズでは)絶対に抑えろよ』
田口さんの周りには関係者の方々もたくさんいたんです。普通はこれから戦うチームのセットアッパーに『絶対に抑えろよ』はダメですよね。
でも、ああやって言ってくれたことはすごくうれしかったです。ヤクルトでも大事に思ってくれていたんだろうなという気持ちが伝わってきました。
『俺は本当は残したかったんだよ』と間接的に伝えようとしてくれたのかもしれません。
ヤクルトにいた最後のころの自分は、野村監督には相手にされていないレベルの投手だったと思うんです。
名言で『無視・称賛・非難』というおのおののレベルがあるとおっしゃられていましたが、僕は無視よりも、その下のレベルだったと思います。
当時は92、93年のヤクルト連覇の直後ですし、野村監督の発言力、影響力はチーム内では絶大だったと思われます。野村監督の意向が重視され
その野球にフィットできなかった僕が放出された形だったのでしょう。
それでも、チーム内には期待してくれていた方々がたくさんいて、95年の活躍で少しは恩返しができたかなと思います。
実は98年オフ、ヤクルトが野村監督から若松勉監督の体制になる時に『戻ってこないか』と電話をいただいたことがあったんですよ。
ただ、当時の僕はオリックス・仰木彬監督に見いだしてもらった恩がありましたので、戻りますとは返事できませんでした」

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