掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

なつかしのメロディ

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/05(Tue) 19:21
懐メロが死語になってしまったようです。日本の文化遺産、日本の古き良き時代の
思い出のメロディを語りましょう。
あなたのなつかしのメロディはなんですか!?。

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/30(Wed) 20:35
りんどう峠

   作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 りんりんりんどうの 花咲くころサ
   姉サは馬コで お嫁に行った
   りんりんりんどうは 濃むらさき
   姉サの小袖も 濃むらさき
   濃むらさき
   ハイノハイノハイ

 2 りんりんりんどうの 花咲く峠
   姉サは馬コで あとふりかえる
   姉サに行かれて なんとしょう
   いっしょに柴刈る ひとも無い
   ひとも無い
   ハイノハイノハイ

 3 りんりんりんどうは 小雨にぬれる
   わたしゃ別れの 涙でぬれる
   りんりん鳴るのは 馬の鈴
   姉サは峠に 消えてゆく
   消えてゆく
   ハイノハイノハイ



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/03(Sat) 20:51
  サーカスの唄

  作詞:西條八十、作曲:古賀政男
  唄:松平晃  (昭和8年)

  1 旅のつばくろ 淋しかないか
    おれもさみしい サーカス暮らし
    とんぼがえりで 今年もくれて
    知らぬ他国の 花を見た

  2 昨日市場で ちょいと見た娘
    色は色白 すんなり腰よ
    鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
    可愛いあの娘(こ)は うす情

  3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
    遠くはなれて テントで暮らしゃ
    月も冴えます 心も冴える
    馬の寝息で ねむられぬ

  4 朝は朝霧 夕べは夜霧
    泣いちゃいけない クラリオネット
    流れながれる 浮藻(うきも)の花は
    明日も咲きましょ あの町で

31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/03(Sat) 20:59
サーカスの唄

この歌は、西條・古賀、戦前、戦後に至る二人の巨匠の最初の記念すべき作品。

美しいうら悲しい古賀メロディと西條八十の歌詞とが相まって、軽快ななかにも哀愁を感じさせ、とても心に響きます。

当初、【晋平節】のビクタ‐の一人勝ちで始まったヒット競争は、「古賀メロディ」の登場によって、コロムビアに移る。この佐藤千夜子の力添えで、メジャーデビュ‐を果たした古賀政男(古賀正男)。

西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。

昭和8年(1933年)末にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

つまり、昭和8年の1年間、コロムビアのドル箱、コロムビア専属、「古賀メロディー」の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」(西條八十作詞、古賀政男作曲)・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、その黄金コンビは戦後にいたるまで続いた。

最後は、昭和43年の美空ひばり「銀座音頭」(西條八十作詞、古賀政男作曲)。


詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。

作曲家や歌手に比べ、詩人のギャラの少ないことに、ビクタ―と交渉する中で、コロンビアの顔・「古賀メロディ」の古賀政男と一緒に仕事したいとビクターに掛け合い、昭和8年の1年間について認めさせたもの。

関種子「去り行く影」(1933.1)をはじめ,松平晃「はてなき旅」(1933.10)まで11曲。

「サーカスの唄」、この詩を八十から受け取ると感動で涙が止まらなかったと云う、少年時代の思い出と重なる。

「こんな素晴らしい詩に私が曲を付けることはできません」、と詩を返そうとした古賀に、八十は「あなたに曲を付けてもらうことができなければ、この詩は棄てる。」とまで言われ、あの歌ができた(自伝「わが心の唄」)という。

「詩はお姉さんで、曲は妹」という思い。詩を大切にした古賀は、作曲の際、詩人が託した望郷への思い、母を慕う心が曲になって溶け出すまで、何度も詩を読み返しながら曲を作った。

古賀政男の作品は、豊かさの中で日本人が忘れかけている大切な“心”を、いつも呼び覚ましてくれる。

なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように寄稿している。・・

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」





32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 08:30
人生の並木路
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。  映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 『人生の並木道』は、田舎から東京に出て来た人なら、涙なしでは聞けない唄です。私がさる高校の教師をしておりました頃、修学旅行で担任していた子が浜松駅でホームに会いに来ていた兄と、夜汽車のたった5分間、語り合うのですね。事前にそうしたいと許しを乞いに来たその子たちは幼くしてお父さんを亡くし、兄が浜松の工場に働きにいき、お母さんも病没。極貧のなかで、妹はけなげに高校生活をまっとう。私はお母さんの葬式に行きましたから、その辛さを見て泣きました。夜汽車が汽笛を鳴らして発車する直前まで語り合う兄と妹。その光景は今でも私の心に焼き付いています。
 人生の並木路

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  唄 ディック・ミネ (昭和12年)

  1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば 幼い二人して
    故郷を捨てた甲斐がない

  2 遠い淋しい日暮れの路で
    泣いて叱った兄さんの
    涙の声を忘れたか

  3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
    やがて輝くあけぼのに
    我が世の春は きっと来る

  4 生きて行こうよ 希望に燃えて
    愛の口笛高らかに
    この人生の並木路


33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 08:45
    人生劇場

  作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
  歌 楠木繁夫 (昭和13年)

 1 やると思えば どこまでやるさ
   それが男の 魂じゃないか
   義理がすたれば この世は闇だ
   なまじとめるな 夜の雨

 2 あんな女に 未練はないが
   なぜか涙が 流れてならぬ
   男ごころは 男でなけりゃ
   解るものかと 諦めた


 3 時世(とき)よ 時節は変ろとままよ
   吉良の仁吉は 男じゃないか
   おれも生きたや 仁吉のように
   義理と人情の この世界

田中角栄総理の愛唱歌。早稲田の第二校歌。



34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 08:49
昭和9年(1934)5月コロムビアを退社してテイチク(帝国蓄音機)に移った。まだできたばかりの小さな会社で、重役待遇でレコード制作に関する全権を任され、専務取締役兼文芸部長兼作曲家で、現在のテイチクを作った作曲家といえる。

「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「緑の地平線」「東京ラプソディ」「人生の並木路」・・と大ヒットが続き世にいうテイチク黄金時代(古賀政男第二期黄金時代)を築く。できたばかりの小さなテイチクをメジャーなレコードにする。

重役として迎えられた古賀政男は映画会社と提携し、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など今に残る多くの映画主題歌、映画音楽が作られた。古賀政男ほど映画主題歌の多い作曲家はいない。

しかし、昭和13年、古賀政男が著作権に関わるテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社。古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、戦争の足音が忍びよる中、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われたアメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。三浦環の凱旋祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。


また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。
? ?



35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 09:04
『人生劇場』は、早稲田大学出身の尾崎士郎の自伝的大河小説。

愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。

佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「人生劇場」は、楠木繁夫の歌として昭和13年(1938)年に発表された。

もともとは尾崎士郎の大河小説「人生劇場」(残侠編)が原作で、戦前戦後合わせて十数本も映画化されていて、この歌も1938年の「人生劇場 残侠篇」の主題歌でもった。

この歌は戦後、村田英雄がリバイバルでヒット。

楠木繁夫がこの歌をスマートに歌っていますが、後に作曲者古賀政男は、自叙伝に、

『「人生劇場」は、戦前、楠木繁夫君が歌ってヒットしたが、やはり”背広を着た吉良常”だった。村田君の「人生劇場」は妙に大衆におもねたりせずに、村田君の個性とオリジナリティを前面に出したことが成功したと思う。・・・”古賀メロディ”の硬派の部分を支えてくれたわけだ。』
と書いています。

「人生劇場」は早稲田大学が舞台になっていて、「早稲田第二校歌「」となっている。

また、角さんこと[今太閤」田中角栄総理大臣がこよなく愛した歌。。。
 
愛知県の三州吉良港の落ちぶれた旧家に生まれた主人公、青成瓢吉は政治家になる夢を抱いて早稲田大学に入学し、学生運動に参加したり恋愛をしたりするが、それらに挫折する。父・瓢太郎の自殺による苦しみを乗り越えた瓢吉は作家を目指し、文壇デビューを果たす。

やがて日本が戦争時代に突入すると従軍作家となる…。

 小説「人生劇場」は尾崎士郎の中学生時代から始まる自伝的小説で、年代でいえば大正から昭和の戦争直後まで、延々と書き続けられた作品です。

その中で「青春篇」と「残侠編」が映画化され、そのなかでも圧倒的な人気となったのが「残侠編」で、この部分は尾崎士郎の創作だということです。

「馬込文士村」の中心人物とされる尾ア士郎、尾崎士郎は明治三十一年(一八九八年)生まれ。荒畑寒村や大杉栄らの影響を受け、早稲田大学政治経済科に学ぶが、学長問題と学制改革に端を発した学内騒動のリーダー格と目されて中退する。

☆「馬込文士村の住人」・・尾崎士郎と佐藤惣之助
 
JR「大森駅」前の高台に位置する山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか『馬込文士村』と呼ばれるようになった。

現在ここに『馬込文士村』が残っている、いる人だけでも43人。
 
・・石坂洋次郎 宇野千代 尾崎士郎 川端康成、川端龍子 北原白秋 小島政二郎 佐藤惣之助、萩原朔太郎 室生犀星 ---まだまだおります 

太平洋戦争開戦5ケ月後の昭和17年5月、ここの住人、二人の詩人萩原朔太郎、佐藤惣之助(佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎)は相次いで病死、あっけくこの世を去った。

ここに尾崎士郎が住んでいて、その住居後が「尾崎士郎記念館」でその庭に「人生劇場」文学碑がある。。

 昭和8年新聞に連載始め、
尾崎士郎の自伝的大河小説といわれている歌、映画にもなり広く知れわたる。

 ☆歌(昭和13年)
    作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
        (佐藤惣之助は文士村の住人)
     この歌は戦後、村田英雄がリバイバルで
     ヒット。 


36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 09:23
「思い出の記」 ‥ 古賀政男 二つの秀作


昭和53年7月25日に古賀政男が亡くなって今年、2020で42年になる。

42年前の7月25日,午後1時15分、代々木上原の自宅で急性心不全により死去、享年・73歳。

訃報を伝えるNHKラジオ放送は、その夜すべての番組を中止し、一斉に古賀メロディ―を流し続けた。異例のことだった。

10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。

生前に贈ることを目的としたもので異論もあったようだが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった…

昭和歌謡の黎明期、一苦学生で、プレクトラム音楽家だった昭和4,5年から、昭和6年コロムビア専属そして、テイチク、コロムビアとレコード会社を移りながら、日本がまだ貧しかった時代から高度成長の真っ盛り戦後の昭和40年代末ごろまで,古賀政男ほど長きに亘って広範に思う中心でありえたものもいない。

「人生の並木路」そのままに、貧しい故郷を捨てて兄を頼りに「韓国」に亘った古賀メロディに大きな影響を及ぼしたとされる韓国で過ごした少年時代。

また、明治大学学生として日本に帰って来て、一苦学生に過ぎなかった「古賀正男」が「古賀政男」として歌謡界の頂点に昇りつめる半生、それは日本の昭和の歴史を象徴するかのよう。

それはまさに半世紀に亘る昭和歌謡の歴史そのものだった。

古賀政男には「思い出の記」という自身の人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。



「思い出の記」は二つあって、いずれも古賀政男作曲の秀作、昭和16年の作品(大木惇夫作詩)と、晩年自らの「思い出」を辿る自伝的作品として作った昭和43年(1978)の古賀政男作詩があります。

古賀政男にしか書けない曲です。古賀政男ならではの「思出の記」の実績の上に作られた自信に溢れた曲といえる。

大木惇夫作詩は、国民新聞に連載された徳富蘆花の立志的自伝的文学作品『思出の記』(「思い出の記」だったが「思出の記」と変更)の歌謡化作品であるのに対し、歌謡界の大御所で、「日本の名士」になっていた古賀政男晩年の自らを顧み語る自伝的作品と言えます。

思出の記 (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)霧島昇1941.12 (陸海軍礼式歌)
思い出の記(古賀政男作詞、古賀政男作曲)    1968

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲で陸海軍の礼式歌ともなった。

・大木惇夫作詩「思出の記」は、徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化で、霧島昇歌(コロムビア100374@)

作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

ああ馬の背に涙して
故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に
誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに

ああ山河は変わらねど
人の心は今いかに
思い出の谷夢の丘
幼馴染の面影も
今は空しき菜の花よ



・古賀政男作詞「思い出の記」
作詞 古賀政男
作曲 古賀政男

ああ思い出は 懐かしく
ふるさと恋て 訪ぬれば
親同朋(はらから)は すでに逝き
誓いし友の 面影も
今は虚しき 菜の花よ

ああ人生は 夢の夢
幾年変わらぬ 山川も
流れる雲か 風に散る
人の心は 山吹の
花はほろほろ 散るばかり


なお、他に大木惇夫作詞に、
崑崙越えて     1941(大木惇夫作詞、藤山一郎歌)
苺の雲の燃える時 1941(大木惇夫作詞、霧島昇、松原操歌)  
雲のふるさと   1944(大木惇夫作詞、伊藤久男歌)陸海軍礼式歌、戦後NHKラジオ歌謡
月のしづく    1944 ( 大木敦夫作詞、李香蘭歌)

*雲のふるさと、月のしづくの李香蘭(山口淑子)盤が古賀財団で最近発見された。

なお古賀政男最晩年の作品は…
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)



37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 09:40
古賀メロディとは (メロディー)

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲「影を慕いて」は、美しき日本の歌で、クラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられる。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(
映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

ちょうど同じ頃、昭和3年(1928)に作られた、
佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》・《影を慕いて》・・、

いずれも《日本の名曲》として、今でも根強く愛され歌われ、演奏されているのです。

両方とも、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)

宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939

“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、

それを当時の主流だった【晋平節】に対し、「古賀メロディ」と呼んで称えた。

彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。




38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 09:54
昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成30年(2018)から87年前の昭和6年(1931)3月。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。

したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究 
 ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが、映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。

「白い椿の唄」、それは菊池寛原作「貞操問答」の主題歌で、池寛の依頼で主題歌を作ったもの。

東京へ母を呼んで暮らすのが夢だったという古賀政男の母が亡くなった(昭和9年8月)のは、この映画の企画をしてるときだそうです。

この歌ができた時は母がなくなってた時で、佐藤惣之助作詞の三番目に「呼べど帰らぬ面影は、消えて遥かな山の上・・」
と歌われてますが、これは母を失った古賀政男の心境そのもので、彼のその後に創作意欲を大いにかきたてたそうです。

たくさんのヒット曲で知られる「古賀メロデー」、「古賀メロデー」の時代、それは日本がまだ草深く、貧しくも心豊かだった苦難の時代と重なる。

その多くは永遠のテーマである人生・青春をテーマとした「古賀メロデー」。

特に『影を慕いて』『人生の並木路』や『新妻鏡』など、詩のテーマが人生の、青春の苦悩をテーマとしたものにより名曲が多いとされる。

古賀政男は亡くなる前、・・「古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ、これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ。
今はハピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。」・・といっていたことがある。

そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハピーな歌が受け入れられているんだ。そういう歌がいまの歌なんだ。」って。・・

これについて吉田正は、「僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ、先生には。」・・

と書いている。
(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))


☆古賀政男とその主な人脈
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
    淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
    由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110



39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 10:10
古賀メロディとは・・「花は咲く」と「嘆きの夜曲」


呼んでみたとて かえらぬ人よ 
なぜに儚い 夢じゃやら
  
想いつかれて 心に秘めて 
暮れりゃ寂しい 雪ばかり 

泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
なぜに尽きせぬ 涙やら

灯影つめたく 愁いはながく
絃(いと)のすさびも 嘆(な)くばかり



SP歌謡は、今危機にあると思います。

昭和も遠くなりにけりとなって、「SP歌謡」を知る人も少なくなっていると思います。

歌もハッピーなものばかり。テレビの歌番組で「昭和」とは、昭和の末、50年代以降のようですし、歌える歌手も居なくなった。

今こそ、このSP歌謡文化遺産を正しく残して行くことが大切です。


さて今、この状況を象徴するかのように、時々[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。

地震直後から放影されていたものですが、でもこの歌には何か大切なものが抜けているのではないだろうか。


花が咲くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、ハッピ−な軽い文句ばかり、何の歌なのかもよくわからない。小学生の合唱コンクールか顔見世ソングかといったところ。


遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、今ないが、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」で、解説にはこうありました。・・

嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・


80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予見
したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。

同じ時期の藤山一郎「影を慕いて」とともに古賀政男初期の名歌の一つだと思います。関種子の歌唱力も最高。

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感じさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。


憂い,哀しみ、苦悩を歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。




40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 10:30

■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。

東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。

「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。

今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。

以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児    東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄 (玉川映二作詞)  1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)1936
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞)1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子・・・

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、東京音楽学校本科主席卒業。










41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:01
昭和6年12月 窓に凭れて 歌:関 種子 コロンビア/26624B(発売当時のレコード番号)作詞:島田 芳文 作曲:古賀政男
歌いだしは「行きて帰らぬ若き日を窓に凭れて思い...」
終戦直後、進駐軍のリクエストNO.1だった。




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:43
古賀政男と河口湖・・古賀政男記念公園

[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。

古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年(1945)3月から8月まで。

古賀メロディの隠れた名曲、NHK国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)♪丘にはためくあの日の丸を仰ぎ眺める我らが祈り・・がある。

合唱版は昭和20年1月である。2月には硫黄島の戦い、3月10日一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲・・。

昭和19年から日本各地に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。

この歌を歌ってるとなぜか涙が出てきて歌えなくなる‥この歌を最後に古賀政男は川口湖畔に疎開となった。


今、河口湖湖畔にある記念公園の記念碑の碑文によると、きっかけは以外にも陸軍省からの一本の電話だった。

古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和15年(1940年)1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

西條八十作詞、古賀政男作曲の数えきれないほどたくさんある名曲のうちでも日本のスタンダードと言える名曲。

日常のごくありふれた日本の現光景、やさしい言葉、短い言葉で随所に散りばめられた詩人の殊玉の詩、

それは今の世でも変わらず生き続けられる普遍性を持つ。

そこに嘘偽りがない、だからひとの心をとらえてはなさない。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという「誰か故郷を思わざる」。

ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で歌われ、内地に逆輸入された。

慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将(支那派遣軍総司令官、後に元帥陸軍大将 第二総軍司令官)から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

古賀は軍からは軟弱だといわれていたはずだが、こうしたこともあったからなのか、陸軍の中枢から非常事態、国難のさ中、戦争の最終段になって、戦禍から国民作曲家古賀政男を守らねばと気ずいたのだろうか。


なお、畑俊六元帥は、もうひとりの元帥陸軍大将第一総軍司令官とともに天皇からの請いで終戦について奏上、御前会議に臨む。

なお、古賀政男は20年8月に復帰、戦後最初は昭和21年5月、霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪夢はやぶれて花嫁人形・・

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。

湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html




43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:59
 誰か故郷を想わざる

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男
  歌 霧島昇 (昭和15年)
 
 1 花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   唄をうたった 帰りみち
   幼馴染みの あの友この友
   あゝ誰か故郷を想わざる

 2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
   小川の岸で さみしさに
   泣いた涙の なつかしさ
   幼馴染みの あの山この川
   あゝ誰か故郷を想わざる

 3 都に雨の 降る夜は
   涙に胸も しめりがち
   遠く呼ぶのは 誰の声
   幼馴染みの あの夢この夢
   あゝ誰か故郷を想わざる

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/06(Tue) 00:17
《誰か故郷を想わざる》・・日本のスタンダード! 

故郷を離れて生きる人にとってこの歌ほど普遍的で望郷の想いを歌った歌もないであろう。

〈花摘む野辺に日は落ちて〉と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

古賀メロディは今日本人が忘れかけている大切なことを思い起こさせてくれる。

《誰か故郷を想わざる》は古賀の少年時代の記憶に残った郷土の原始的郷愁の風景と重なるもの。

80年を経た今でも延々と歌い続けられる、古さを感じさせない普遍性を持つ典型的な日本のスタンダードである。

「愛染かつら」三部作でスターダムに上った霧島昇が初めて歌う記念すべき古賀メロディー「誰か故郷を想わざる」。

「古賀メロディー」の原点・・それは『母(の愛)』と言われる。

苦学を強いられた明大時代幾度か年老いた母の待つ故郷に帰りたい衝動にかられた。

故郷への回帰は「忘れ難い物」への追慕である。

だが、古賀は、終生故郷田口村へもどることはなかった。故郷への想いは、古賀メロディーの原風景でもある。
 
昭和13年、古賀政男が著作権に関わるテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)を最後に退社。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、戦争の足音が忍びよる中、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われたアメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

そして、昭和14年10月10日に帰国した。

コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

三浦環の祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から日本的情緒を基本とした邦楽的技巧表現の傾向をますます強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和 15 年 に日本コロムビアから発売された唄で、日本国内よりも大陸に渡り激しい戦火の中にあった兵士たちのあいだで圧倒的に支持された。

大戦中に中国へ慰問に行った渡辺はま子が、この歌を歌ったところ、のちに元帥陸軍大将になられた畑俊六大将(支那派遣軍総指令官)が「目の前で泣き出されて、わたしも涙声で歌ってしまった。」と古賀に話したということが古賀政男自伝「わが心の歌」に載っている。

自伝には支那事変が泥沼になってることを想わざるをえなかったという。

また、夜も光り輝くニューヨークなど太平洋戦争開戦直前の豊かなアメリカをつぶさに見てきた古賀にはアメリカとの戦争は無謀にしか見えなかったと自伝に書いている。

いくら国が見栄を張っていばって士気を高めようとしたころで、人の心は優しくもろいものなのだ。普遍的でそこに嘘偽りがない、だから人の心を打つ・・誰か故郷を思わざる。



作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、80年前の1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。


約1年間、「外務省音楽文化親善使節」として、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国した古賀政男。

昭和14年〈1939 〉8月31日、当時1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。



45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/06(Tue) 00:33
古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。

古賀政男は初期の「影を慕いて」と裏表の【日本橋から】(1931)、今「お江戸日本橋」の代わりに日本橋の番組によく使われる日本初のアルゼンチンタンゴ【日本橋から】。

藤原義江の強い勧めで南米アルゼンチン訪問する古賀政男、藤原義江の見送りで東京駅を出発した写真が「自伝わが心の歌」に載っている。

アルゼンチンタンゴについては、アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。

また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。

古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。

昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに昭和8年以来のレコード会社を越えての西條八十・古賀政男コンビが復活。

最初の作品である、「あの花この花」(二葉あき子)と「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)、いずれも西條八十作詞。

「誰か故郷を想わざる」は、日本を遠く離れたアルゼンチンで構想がほぼできていたようだ。 (「誰か故郷を想わざる」のB面が「あの花この花」)

古賀政男は、「世界の古賀」となって凱旋、自信に満ちて日本的情緒を大切に邦楽傾向を強めてゆくのだが、同時に併せて外国音楽にも広く傾倒してゆく。『世界の古賀』のすごいところであるといえる。

こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。



掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)