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なつかしのメロディ

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/05(Tue) 19:21
懐メロが死語になってしまったようです。日本の文化遺産、日本の古き良き時代の
思い出のメロディを語りましょう。
あなたのなつかしのメロディはなんですか!?。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 10:30

■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。

東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。

「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。

今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。

以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。


☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子  東京音楽学校  文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校  月の浜辺   (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子  東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア   東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児    東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)      純情一座の唄 (玉川映二作詞)  1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)1936
有島通男   東洋音楽学校 春まだ浅く  (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ  東京音楽学校 黒いパイプ  (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*    紅い睡蓮   (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子   東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子   東洋音楽学校 相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌  (西岡水朗作詞)1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘  (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場  (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男   東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞)1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)

主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや、
美空ひばり、島倉千代子、)畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子・・・

関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、東京音楽学校本科主席卒業。










41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:01
昭和6年12月 窓に凭れて 歌:関 種子 コロンビア/26624B(発売当時のレコード番号)作詞:島田 芳文 作曲:古賀政男
歌いだしは「行きて帰らぬ若き日を窓に凭れて思い...」
終戦直後、進駐軍のリクエストNO.1だった。




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:43
古賀政男と河口湖・・古賀政男記念公園

[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。

古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年(1945)3月から8月まで。

古賀メロディの隠れた名曲、NHK国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)♪丘にはためくあの日の丸を仰ぎ眺める我らが祈り・・がある。

合唱版は昭和20年1月である。2月には硫黄島の戦い、3月10日一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲・・。

昭和19年から日本各地に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。

この歌を歌ってるとなぜか涙が出てきて歌えなくなる‥この歌を最後に古賀政男は川口湖畔に疎開となった。


今、河口湖湖畔にある記念公園の記念碑の碑文によると、きっかけは以外にも陸軍省からの一本の電話だった。

古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和15年(1940年)1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

西條八十作詞、古賀政男作曲の数えきれないほどたくさんある名曲のうちでも日本のスタンダードと言える名曲。

日常のごくありふれた日本の現光景、やさしい言葉、短い言葉で随所に散りばめられた詩人の殊玉の詩、

それは今の世でも変わらず生き続けられる普遍性を持つ。

そこに嘘偽りがない、だからひとの心をとらえてはなさない。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという「誰か故郷を思わざる」。

ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で歌われ、内地に逆輸入された。

慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将(支那派遣軍総司令官、後に元帥陸軍大将 第二総軍司令官)から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

古賀は軍からは軟弱だといわれていたはずだが、こうしたこともあったからなのか、陸軍の中枢から非常事態、国難のさ中、戦争の最終段になって、戦禍から国民作曲家古賀政男を守らねばと気ずいたのだろうか。


なお、畑俊六元帥は、もうひとりの元帥陸軍大将第一総軍司令官とともに天皇からの請いで終戦について奏上、御前会議に臨む。

なお、古賀政男は20年8月に復帰、戦後最初は昭和21年5月、霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪夢はやぶれて花嫁人形・・

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。

湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html




43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:59
 誰か故郷を想わざる

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男
  歌 霧島昇 (昭和15年)
 
 1 花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   唄をうたった 帰りみち
   幼馴染みの あの友この友
   あゝ誰か故郷を想わざる

 2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
   小川の岸で さみしさに
   泣いた涙の なつかしさ
   幼馴染みの あの山この川
   あゝ誰か故郷を想わざる

 3 都に雨の 降る夜は
   涙に胸も しめりがち
   遠く呼ぶのは 誰の声
   幼馴染みの あの夢この夢
   あゝ誰か故郷を想わざる

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/06(Tue) 00:17
《誰か故郷を想わざる》・・日本のスタンダード! 

故郷を離れて生きる人にとってこの歌ほど普遍的で望郷の想いを歌った歌もないであろう。

〈花摘む野辺に日は落ちて〉と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

古賀メロディは今日本人が忘れかけている大切なことを思い起こさせてくれる。

《誰か故郷を想わざる》は古賀の少年時代の記憶に残った郷土の原始的郷愁の風景と重なるもの。

80年を経た今でも延々と歌い続けられる、古さを感じさせない普遍性を持つ典型的な日本のスタンダードである。

「愛染かつら」三部作でスターダムに上った霧島昇が初めて歌う記念すべき古賀メロディー「誰か故郷を想わざる」。

「古賀メロディー」の原点・・それは『母(の愛)』と言われる。

苦学を強いられた明大時代幾度か年老いた母の待つ故郷に帰りたい衝動にかられた。

故郷への回帰は「忘れ難い物」への追慕である。

だが、古賀は、終生故郷田口村へもどることはなかった。故郷への想いは、古賀メロディーの原風景でもある。
 
昭和13年、古賀政男が著作権に関わるテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)を最後に退社。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、戦争の足音が忍びよる中、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われたアメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

そして、昭和14年10月10日に帰国した。

コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

三浦環の祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から日本的情緒を基本とした邦楽的技巧表現の傾向をますます強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和 15 年 に日本コロムビアから発売された唄で、日本国内よりも大陸に渡り激しい戦火の中にあった兵士たちのあいだで圧倒的に支持された。

大戦中に中国へ慰問に行った渡辺はま子が、この歌を歌ったところ、のちに元帥陸軍大将になられた畑俊六大将(支那派遣軍総指令官)が「目の前で泣き出されて、わたしも涙声で歌ってしまった。」と古賀に話したということが古賀政男自伝「わが心の歌」に載っている。

自伝には支那事変が泥沼になってることを想わざるをえなかったという。

また、夜も光り輝くニューヨークなど太平洋戦争開戦直前の豊かなアメリカをつぶさに見てきた古賀にはアメリカとの戦争は無謀にしか見えなかったと自伝に書いている。

いくら国が見栄を張っていばって士気を高めようとしたころで、人の心は優しくもろいものなのだ。普遍的でそこに嘘偽りがない、だから人の心を打つ・・誰か故郷を思わざる。



作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、80年前の1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。


約1年間、「外務省音楽文化親善使節」として、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国した古賀政男。

昭和14年〈1939 〉8月31日、当時1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。



45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/06(Tue) 00:33
古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。

古賀政男は初期の「影を慕いて」と裏表の【日本橋から】(1931)、今「お江戸日本橋」の代わりに日本橋の番組によく使われる日本初のアルゼンチンタンゴ【日本橋から】。

藤原義江の強い勧めで南米アルゼンチン訪問する古賀政男、藤原義江の見送りで東京駅を出発した写真が「自伝わが心の歌」に載っている。

アルゼンチンタンゴについては、アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。

また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。

古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。

昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに昭和8年以来のレコード会社を越えての西條八十・古賀政男コンビが復活。

最初の作品である、「あの花この花」(二葉あき子)と「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)、いずれも西條八十作詞。

「誰か故郷を想わざる」は、日本を遠く離れたアルゼンチンで構想がほぼできていたようだ。 (「誰か故郷を想わざる」のB面が「あの花この花」)

古賀政男は、「世界の古賀」となって凱旋、自信に満ちて日本的情緒を大切に邦楽傾向を強めてゆくのだが、同時に併せて外国音楽にも広く傾倒してゆく。『世界の古賀』のすごいところであるといえる。

こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。



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