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いじめは勇気があればどうにかなる

1 名前:io 投稿日:2010/07/01(Thu) 16:06
いじめは勇気があればどうにかなるという先生の言葉についてどう思いますか?

313 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/07(Wed) 15:57
先生がまちがってます=

314 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(Fri) 23:42
勇気なんて存在しません。うん。


315 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/29(Sun) 22:17
結局、勇気ってなに?

316 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/04(Wed) 16:45
人間関係は多分、勇気があればどうにかなる

317 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/07(Sat) 12:08
【加害者生徒】 木村束麿呂(主犯) 山田晃也 小網武里
【大津市長】 越直美
【担任教師】 森山進 教科:体育
【事件当時の校長】 片山義教
【現校長】 藤本一夫
【大津市教育長】 澤村憲次



318 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/07(Sat) 17:40
ぱちか

319 名前:名無しの旅人 投稿日:2012/07/07(Sat) 22:42
塩塚あゆみ
塩塚一数
塩塚一家。
鈴木エロ保体。
皆葉啓介
田中隆文
山田一家
実名投稿です。
殺してもいいですよ…。
こいつらを!!!!


320 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/08(Sun) 20:56
なぜ???

321 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/10(Tue) 09:07
失礼します。
勇気というものは一応実在するようですが、勇気を体感できない人もいる。
「勇気があればどうにかなる」という言葉は大多数の人向けの言葉。
(つまり小数の人間を無視した言葉です。)
しかし、本当の問題は「どうすれば勇気が出せるのか?」なのです。
どうすれば、そんな未知なる体質になれるのか?ここから考えなければならない。
先生が思っているより、実際は非常に複雑で難しい問題なのです。

322 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/10(Tue) 22:06
考えるな、感じろ。ま、それは兎も角。
考えるにしろ、感じるにしろ、あくまでも自分次第。他人がとやかく言ったところで、理屈で理解するのは無理だと思う。

323 名前:名無しさん◎お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/11(Wed) 11:44
>>321
結論から言えば、勇気とは、言い換えれば「無謀」だと思ってもらえれば結構です。
行動を起こしたら、それがたまたま成功し、それを周りの人が「勇気」と称えたに過ぎません。
もしも失敗していたなら、無謀だとか、バカだとか、命知らずと言われていたでしょう。

成功や失敗といった結果が出て初めて勇気か無謀かに別れます。
失敗しても勇気と呼ばれるのは、その人に対する敬意の表れであって、
勇気と無謀は紙一重であり、同じ物です。

つまり、結果が出る前の段階では、明確な勇気という物は存在しません。
なので勇気とは一体どんな物なのか分からないなら、無謀行為を思い浮かべれば良い。
勇気は分からずとも無謀なら分かるはずです。

勇気を出して一歩を踏み出す行為は、その生活(状況)からの脱却を意味します。
下手に歩けば今の生活すら危うくなる無謀な行為だから躊躇するのです。

逆に言えば、貴方は今の生活(状況)に、それなりに満足していると言う事です。
だから、その生活(状況)からの脱却を億劫がるのです。(勇気が出ない)
勇気ではなく無謀としか思えないのです。だから勇気が分からない。

324 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/11(Wed) 20:38
例えば、ある人が好きな異性に勇気を出して告白したとしましょう。
この場合、成功したとしても失敗したとても無謀行為ではありません。
結果が出る前でも明確な勇気なのです。
恋愛の場合、物理的損失を被るような危険性は(まず)無い為、無謀とは言わないのでし
ょう。

あるストレスの根源を振り払おうと行動に出るとき、ある程度の勝算があり、失敗時の被害を了解している場合、これは勇気。
一方、無謀運転などの場合、本人が事故をしてもしなくても無謀です。つまり結果が出る前でも無謀です(客観的な定義に過ぎなませんが)。

『勇気』と『無謀』、これら成分の似通った概念は、ある割合で交わりを見せていますが、決して完全には交わらない集合であり、双方が独立しています。

「いじめは勇気があればどうにかなる。」という言葉は、先生本人の人生観を基準とした言葉です。これには大きな見落としがあり、生徒ひとりひとりの価値観、感受性、能力などを無視した、非常に短絡的な言葉です。

いじめを受けている人が、勇気を出して今の状況から脱却しようとしたが為に、よけいに酷いいじめに遭い、場合によっては命すら落とすことになるかもしれません。

この言葉だけを見ると、先生本人は勇気を出して数々の難関をくぐりぬけてこられたのでしょう。そして、勇気を(上手く)出せる体質なのです。
まるで「全ての人間が勇気を(いともたやすく)出せるであろう」という気でいるようです。

ですから、先生は「いじめは勇気があればどうにかなる。」と言う前に、
「どうすれば(無謀ではなく、ある程度の打算を土台とした)勇気が出せるのか。」を全身で考え、丁寧に教えなければならない。
「どうにかなる。」とはどのようなことなのか、具体的に説明しなければならない。

大抵の場合、強者は弱者の苦悩を(正確に)理解しなくとも生きてゆけるものですから、なかなか難しいものです。

インターネットでは、(特に若い方が)相手に勝とう勝とうと激論めいたBBSが多い中、このBBSではアサーティブな会話ができたらよいな、と思ってます。


325 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/12(Thu) 00:00
目の前に居る人間とさえ、まともに話出来ない人が、この場で勇気云々の議論したところで、無駄じゃないかな?

326 名前:名無しさん◎お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/12(Thu) 09:50
>>324
>例えば、ある人が好きな異性に勇気を出して告白したとしましょう。
>この場合、成功したとしても失敗したとても無謀行為ではありません。
>結果が出る前でも明確な勇気なのです。 恋愛の場合、
>物理的損失を被るような危険性は(まず)無い為、無謀とは言わないのでしょう。

大前提を忘れていますよ。
「勇気」や「無謀」とは、個々の評価なのです。

だから「失敗しても勇気と呼ばれるのは、その人に対する敬意の表れ」
>>323にて書いた訳です。

よって、いけすかない奴が告白に失敗した時は勇気と評価せず、
「ざまあw、あの顔で告白とか無謀だんだよ」となります。

まあ、皮肉を込めて「あの顔で告白とか勇気あるな」
と評価される場合も在るでしょうけれど・・・
勇気と無謀、文字は違えど中身は同じです。

どういうつもりで「勇気」という言葉を使っているのかが問題です。
だからこそ「その人に対する敬意」の存在が重要となる訳です。



>あるストレスの根源を振り払おうと行動に出るとき、ある程度の勝算があり、失敗時の被害を了解している場合、これは勇気。

「ある程度の勝算」って、具体的に何ですか? 
普通だと勝算って先が見えている時に使う言葉です。
しかし「ある程度」という補助形容詞?が付いているので
通常の勝算よりは、見通しが悪いと言うことですかね?

まあ、勝算があろうと失敗時の被害を了解していようと、
どちらにせよそれは個人的な自己評価ですね。

価値観は人それぞれ違う訳で、自己評価は自分の自由に付けられます。


>一方、無謀運転などの場合、本人が事故をしてもしなくても無謀です。つまり結果が出る前でも無謀です(客観的な定義に過ぎなませんが)。

無謀運転とは、道通法違反運転の総称でそう呼ばれています。
道通法という基準を元に判断しています。よって、個々の評価ではありません。


>『勇気』と『無謀』、これら成分の似通った概念は、ある割合で交わりを見せていますが、決して完全には交わらない集合であり、双方が独立しています。

それは、貴方の価値観で区分し、それが全てだと認識しているからです。
個々に見れば貴方の言うとおりで、ある割合で交わりを見せ、完全には交わらない物です。
しかしながら、人はそれぞれ違う価値観を持ち、人それぞれ違う区分をするので
一般的には「勇気」と「無謀」の境界は限りなく曖昧になり区分できません。

327 名前:名無しさん◎お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/12(Thu) 10:00
>>324
>「いじめは勇気があればどうにかなる。」という言葉は、先生本人の人生観を基準とした言葉です。

この部分はだいたい同意ですね。

>これには大きな見落としがあり、生徒ひとりひとりの価値観、感受性、能力などを無視した、非常に短絡的な言葉です。

貴方は「具体的に説明しなければならない」との事ですが、
そもそも先生と生徒とでは時代が違い、能力が違い、いじめっ子も違う。
つまり、先生の経験など参考程度にしかならない。

どんなに事細かく説明したところで、それは見込みでしかなく保証は無い。
で、行き着く答えは「やって見なければ分からない」となるわけです。

「いじめは勇気があればどうにかなる。」という言葉は、一つの指標です。
この言葉だけで完結している訳ではありません。

当然、生徒が質問すればこの先の言葉が出てくるでしょう。

しかしながら、どんなに豊富な経験を持っていようと、確証などありません。
生徒に対して絶対にいじめから立ち直れると、具体的な保証もできません。

教師のできる事は、例を教えることだけ。
つまり、やって見なければ分からないのです。

トライアルアンドエラー  こればかりは自分でしなければなりません。

やって見なければ分からない。未知への挑戦。やらない事には始まらない。

やる為のスタート地点。それが「いじめは勇気があればどうにかなる。」という言葉です。

「いじめは勇気があればどうにかなるかもしれない・・・ けど保証はできないよ?」
なんて言ったら、出せる一歩も出せなくなるかもしれないでしょ?。
まあ、どちらにせよ無責任な言葉では在るな。


328 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:16
いじめについて「ああすればどうか」「こうすればどうか」と、いろいろと熱心な助言もあるが、
やはり誰もいじめの本当の原因に触れていない気がする。

本当の原因とは、日本人の体に深く浸透している「みんな一緒主義」である。
協調性主義、出る杭はみんなで打つ主義、
日本人のほとんどがそれに絶大な価値を置いていることこそが「日本型いじめ」の原因なのだ。

「さあ勇気を出して」「自分を変える努力をしよう」などと叫びながら、
「みんな一緒主義」そのものの破壊に徹っすることのない限り、いじめは無くならない。
では、どうすれば「みんな一緒主義」を止めることができるのか、それは非常に難しい問題である。

少なくとも、常識に縋り付く体質では「みんな一緒主義」崩壊への糸口はほど遠い。
哲学的センスのある方ならお分かりだと思うが、
「〇〇は〇〇」「いえいえ、〇〇は〇〇ではなく〇〇でしょう」など、
常識(すなわち多数派の決め事)を後ろ盾としたわが国での議論は幼稚なものであるし、
言葉の裏側に潜むルサンチマン(怨恨)は見え見えである。
自らの知識が絶対的に正しいと思い込み、自分の頭で考えようとしない。


329 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:25
例えば「あのとき、ああすればこんな目に合わなかった。」という後悔。
しかし、「あのとき」に「ああする意志」の発生はどこにも無かったのである。
意志の発生は自分の意志で決めるのではなく、自然に行われるのである。

ある人が、いじめを解決しようと物事Aを実行すべきか、物事Bを実行すべきか、両方実行すべきか、
両方実行しないべきか、さんざん迷ったあげく、
物事Aを実行することにした。

これは一瞬一瞬に全ての事象の影響を受け、「物事Aを実行すべきか、物事Bを実行すべきか、
両方実行すべきか、両方実行しないべきか」という意志が発生し、
最終的に「物事Aを実行する」という意志が発生したのである。  

「ああするべきか、こうするべきか…」と決断を迷っているとき、
気温が0.0000001℃高ければ決断結果は違っていたかもしれない。
明度が僅かに低いだけで決断結果は違っていたかもしれない。
近くに非常に小さな物体Qが存在しているか否かで決断結果は全く違っていたかもしれない。
 
一瞬一瞬における私の意志の発生・行動・構造等も、
恐ろしく複雑な事象が重なり合って決定されているということである。
私が「過去に物事Aを実行し続けたことにより、ある目的Zを実現できた」
ということを実感したとしよう。

では、「物事Aを実行しよう」という意志の発生は、私の意志により成されたのであろうか?
いや、そうではない。「物事Aを実行しよう」という意志の発生は自然に行われたのである。
私が過去に「物事Aを実行し続けた」のはただの自然現象である。

330 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:35
 おわかりだろうか?
一瞬一瞬における意志の発生自体は全て運、
つまり「今から『勇気』を発生させよう」という意志の発生も運だということである。

「(今の一瞬Tの次の)一瞬T+1」における意志の発生を「今の一瞬T以前」において企画可能であろうか?
厳密には不可能である。仮に企画できたとしよう。
では「企画しよう」という意志の発生はどのように行われるのか。
やはりこれも自然に決定されるのである。

意志の発生は「自分で意志を発生させよう」という意志によってではなく、自然に行われるのである。
運なのである。
今の一瞬Tに全ての事象が決定されたとき、既に次の一瞬T+1にある全ての事象は決定されている。

一瞬Tに人Aの意志が決定されたとき、一瞬Tにおける全ての事象(人Aの意志を含む)の影響を受け、
一瞬T+1における人Aの意志が決定される。
人の意志の発生は、全ての事象の影響により、既に決められているようなものである。
ビリヤードの玉を打った時点で既に穴に入るか否かが決められているように。

何をどう自分の意志で決定しようが、意志そのものが「意志以外の全ての事象」により決定されるのであるから、
意志の発生は自由ではない。
 
私自身が目的Zを実現できたとき、
「私自身が物事Aを実行し続けたから目的Zが実現できた」ことを喜ぶのではなく、
「私自身に物事Aを実行しようという意思が発生したという自然現象」を喜ぶだけである。
「たまたま私が私の構造であった運」を喜ぶだけである。 

「ある人Qが勇気を出せたからいじめが解決できた」のではなく、
「たまたまQに勇気が発生し、幸運により目的が達成できた」だけのことである。
そして多くの人々は、この運的な部分(自然現象)をまったく見ようとしない。 

例えば、「物事Aを実行しよう」という意志の発生が無い為に、目的Zが実現できなかった者がいたとしよう。
大多数の人間がその者を批判するとき、「不運な者」を批判しているのである。
〇人事件の犯人の場合も同様である。マスコミに報道され、大多数の人間が犯人に罵声を浴びせるとき、
「不運な者」に罵声を浴びせているのである。

善いことをしようという意志の発生も、悪いことをしようという意志の発生も、
激しい感情の発生も、自制しようという意志の発生も、
(先天的な)いじめっ子であることも、いじめられっ子であることも、全て自然現象(運)なのだ。

331 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:47
人の持つポテンシャルやセンス、感受性、価値観などの先天的な部分も生まれたときに決定されてしまう。
何をどうがんばろうが、(想像力の欠如、読解力の無さなど)最初から決められている枠から脱出することは不可能なのだ。

物事を実行することで、目的が実現できた人。そんな人も、
あらかじめ決められていた可能態から現実態へと変化を遂げたに過ぎない。

つまり、物事を実行しようがしまいが、超人は超人、凡人は凡人なのである。
これは、多くの人が直視したくない残酷な事実であるが。

「意志の力で未来を変える」などと言う低IQ評論家は、もっと眉間に皺を寄せて思考すべきである。
意志の発生自体が自然現象(運)なのである。
未来は一通りしかなく、既に決定されているのである。

332 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:00
自分は絶対的に正しいという思い込みから発せられる
「あなたの言うことは〇〇だ」「それは〇〇ではなく〇〇です」などという否定の台詞。 
人が正論を主張するとき、その背後に多数派を控えて物を言っている場合が実に多い。

絶対的に自分が正しいと思い込み、
地上に生息する殆どの人が自分と同意見だろうという無根拠な確信を抱いている。

これは多くの人によくありがちなこと。
自分の意見(行動)が正しいと思えば思うほど、それに多くの人が賛同すればするほど自己批判の精神は薄れ、
影すら見えなくなる。
そもそも「正しさ」とは何なのか。定義付けなど出来るのだろうか。

人が軽率に「正しい」という言葉を吐くとき、その身体には自らの方向性を疑いもしない愚鈍さ、
それに融合された欺瞞性が息を潜めている。
「正しい」と居直るポジティブ性人種に関し、私は次のような3重構造を成す疑問を感じる。

1.自分の正しさが大多数の人の「正しさ」と一致しているという確信に間違いはないのか。 
2.自分の正しさが大多数の人の「正しさ」と一致しさえすれば、自分は絶対的に正しいのか。
3.「正しさ」とは一体どのようなことなのか。 

多くの人は、自分自身の正しさが大多数の人間の正しさと合致すればそれは正しく、
大抵のことは円滑にとクリアできるという短絡的予想を常としている。
そして、その背景にある複雑な事象をこれっぽっちも考察しようとしない。

大勢の人が、ある物事を「正しい」と公認しさえすれば、それは絶対的に正しいことなのだろうか。
当然その答えはノーである。

333 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:09
「正しい」ことに値する第一条件は、
この世に生息する全ての人間(出来れば人間以外の生物・意識も含む)が「正しい」と認めることではなかろうか。
「それは正しくない」などと言う(思う)者が一人も存在しないことではなかろうか(勿論これは私自身の定義)。
だが、そんなことは世界中の何処にも存在しないであろう。

人を助ける事は「正しい」、人を愛する事は「正しい」、人の役に立つ事は「正しい」、
みんなで楽しむことは「正しい」、悪気のない行動は「正しい」などというのは、多数派の人間が思っていることである。

世の中での「正しい」ことは、「多数派の人間に都合の良いこと」に過ぎない。
そして、それは価値観や感受性の異なる少数派の人間を無視した「正しい」ことなのだ。
世の中には、これらが正しくなく、迷惑を被る少数派の人間もいるということを、多数派は露ほども考えようとしない。 

「正しいこと」 = 「多数派にとって都合の良い決め事」

そうなのだ。世の中の「正しい」ことは、恐ろしく想像力の欠如した多数派によって決定されるのである。
人は自分が「正しい」と思うとき、自己正当化のメカニズムが働いている場合、
あるいはその背後に多数派が潜み、無意識に同化している場合が実に多い。
「みんなと一緒」は「正しい」ことなのである。

334 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:20
ここで哲学者オルテガの言葉を引用するとしよう。
「大衆とは、無個性で、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は周りの人と同じであると感じ、
そのことに苦痛を覚えるどころか、むしろ喜びを見出しているすべての人のことである。」

オルテガのアフォリズムは驚くほど的を射抜いており、私の定義する「現代日本の多数派」とほぼ一致する。 
私は多数派に逆らって生きようなどとは思わない。それは少数派の人間にとっては無謀なことであり、
大げさに言えば死を意味することなのだ。

多数派は、理解し難い少数派の人間が現れるやいなや、これを速攻で排除しようとする習性がある。
多数派は少数派の人間を理解しなくとも、(いろんな意味で)小数派を排除することにより、快適に生きてゆける。
しかし、少数派の人間は多数派を理解しなければ生きてはゆけないのだ。

少数派が完全に多数派に馴染むには巧妙なテクニックを要する。
感受性の制御すなわち「お芝居」が必要なのだ。
笑いたくもない時に笑い、悲しくもない時に悲しみ、怒りたくもない時に怒り、
愚見に賛同するフリをしたりと、非常に面倒臭く疲れる作業を実践し続けなければならない。

少しでも油断しようものなら異端児扱いされてしまう恐れがある。
そうなると大変だ。多数派は大群を率い、全力で小数派の人間を多数派形状に矯正しようとする。
そうならない為にも、絶対的少数派の人間は、仮面を被って上手く生きてゆくしかないのだ。

多数派は小数派の複雑繊細な意見にまったく耳を傾けようとしない。
小数派の真実よりは多数派の愚見が正しいと思い込んでいる。
なぜか?それは彼らが途方もなく頭が悪い(IQが低い)からであるが、ある角度から観察すると利口である。

その「お利口さ」とは論理的思考によるものではなく、
自分でも気が付かないほどの深層心理にビッシリとこびり付いた「みんな一緒主義」と、
余計なことを考えない訓練の積み重ねによる「素直で鈍感な頭」である。
「考えない頭」「想像力の欠如した頭」である。

身体のレベルで、常識の上に寝転んでしまった「鈍感な頭」は強い。
例えばインターネットのBBSで、いかなる論理をぶつけても、
ダイナマイトを投じても、水爆を投じても微動だにしないほど強い。

335 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:27
多数派は、時代風潮に乗った「正義」を振りかざし、強力な後ろ盾のもとに小数派を血祭りに上げる。
その心理構造は、魔女狩り、ユダヤ人虐殺と何ら変わりは無い。

人類は「正義」の旗の下、残酷な悪行がなされてきたことを直視しなければならない。
「正義」の旗の下に行われた制圧、抹殺、排除が最も残酷であったことを理解しなければならない。 

例えば私がそんな多数派の姿勢を「間違っている」と訴えれば、
そんな私の姿勢こそが「自分が正しい」と居直っているのだから同類である。
そして、私に自己批判があるからと言って、自己批判の無い者を罵る姿勢こそが、自己批判の無い姿勢なのである。

…などと書いた自分自身のことを、私は正しいとは思わない。
「正しいと思わないことが実は正しいのだ」などとも思わない。
そもそも「正しい」とは何なのか、まったく分からない。

336 名前:名無しさん◎お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 20:22

>>328-335

で、何が言いたいの? 何がしたいの?
言っておくが、人類にせよ、他の生物にせよ
全ての生物が環境(外界)への順応・適応を求められている。

周りの環境に振り回されたり、面倒臭くとも合わせようとするのは
地球に限らず全ての生物が絶えず行なっており、生物が生きる上において、
環境への適応力は必須項目である。在る意味必然であり生物にとっては真理だ。

かつて地球(地上)を支配していた恐竜も、環境の変化に順応できず滅びた。
用意された環境に適応できなければ、楽々と暮らせないのは自然の摂理であり、
それは物理的にも精神的にも少数派だけに当てはまるものでは無い。

つまり、適応できなければ、少数派や多数派など関係無く、滅びるのが摂理なのである。



正しいも、悪いも、正義も、言葉を作り定義したのは人間だ。
だから言葉の意味は人間本位なのは当然だ。

人間本位から抜け出し、宇宙の真理的な正しさを求めたなら
当然ながら人間本位の正しさからも離れてしまう訳だが
宇宙の真理にこれと言った基準は無く、正しさの真理は導けない。

正しさや正義が無い故に、正しさや正義の対極も存在できない。
つまり、宇宙の真理的な絶対悪も存在できず、宇宙の真理を持ち出して
他人に対して「それは正しさ、正義に反する」と主張する事はできなくなる。

で、本題に戻る。

貴方は一体何が言いたいの? 何がしたいの?

人からかけ離れた真理を持ち出したところで、
そこに人の行動を制限できる根拠など存在しないよ?
宇宙の真理に在るのはケイオスでしかありません。

人間界的に言えば自由に相当し、何の根拠にもならない。




337 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 21:36
人それぞれ持論や信念が有って然り。それを持ち続け、信じ抜くのも勇気であり根性じゃない?

俺的に勇気とは、根拠の無い自信かな。
ま、反対論も有るだろうけど。少なくとも、俺はそう。

338 名前:io 投稿日:2012/07/13(Fri) 21:43
>>337なるほど。

私もそう思うよ。




339 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/14(Sat) 00:35
>>337の者だが。

逆に、新しい信念や目標を見つけて、今まで背負って来たものを、捨て去るのも勇気。だと思う。

上の長文の言うとおり、「勇気」というのは漠然として、曖昧かもしれない。

けど、それは言い方を変えればなんでもアリって事だと思う。他人に、害を与えなければね。

340 名前:ちゃと子 投稿日:2012/07/14(Sat) 10:54
あらら〜ここも主導権の取り合いってやつ?

やれ〜! やっちゃえ〜! 自演もあり〜!

誰が一番頭いいかって? それ私^^;)

341 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/14(Sat) 18:45
ちゃと子さんの言う通り1人2役って空気あるね。
なんとなくだけど。
どこでもそうだけど長文書けば勝ちとか最後にアゲアシ取れば勝ちとかってのもね(笑)


342 名前:io 投稿日:2012/07/14(Sat) 22:45
私はスレ主です。

まず、>>339>>341
勝ってに決めつけるのはよくない。
あなたたちも、そうかもしれません。
本当のことなんて他人にはわからないんです。

>>1についてですが、言われた時は確かに、勇気さえあればなんとでも言える。
恥をかいても勇気があればいじめっ子なんて怖くないんだ!
とか思ってましたが、勇気を出すということも大変なことなんですね。
難しい問題です。



343 名前:名無しさん◎お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/16(Mon) 08:36
勇気があれば、勇気を出す(実行する)のは簡単なような・・・

勇気が無いから、勇気を出す(実行する)のが大変なのでは?

344 名前:io 投稿日:2012/07/16(Mon) 17:11
勇気って、「思い切る気持ち」だと思う。
つまり覚悟みたいな。よく「死ぬ勇気があるなら、それを生きる勇気に変えて頑張ってほしい」とか聞くけど、「死ぬ勇気」ってのは間違ってる。
良いことをする時に出すのが勇気。

>>343勇気が無いから勇気が出せない?
無いんじゃなくて出さないだけだと思いますけど。

345 名前:名無しさん◎お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/17(Tue) 09:54
>無いんじゃなくて出さないだけだと思いますけど。

在るのに出さないなら、それは完全に本人の責任ですね。



346 名前:還暦会社員 投稿日:2012/07/17(Tue) 15:05
人が集まれば いじめはあります。
私も 会社でいじめにあっています。
「テメー」「ナイサマノツモリ」と罵声を浴びされ
私も 抵抗することもブットばすことも20年前ならできたでしょう。
その勇気、 これは蛮勇になってしまします。
結果は 見えていますくびとなり、路頭に迷う。
行動をおこして 先が見える(解決する)ときが
勇気でしょう。

347 名前:還暦会社員 投稿日:2012/07/17(Tue) 15:15

10代の方へ 私などとと異なり選択子がまだあります。
まず、その環境から身を引く勇気、次のような勇気
1学校に行かないこと (なんでもないことです)
2警察に被害届けを出す(NGな場合が多いですが)
3ネットで いじめを公表する(いつでも私が手伝います)
4日本を離れましょう。(高校生以上 なんとかなります)

348 名前:還暦会社員 投稿日:2012/07/17(Tue) 15:37
「死ぬ勇気があるなら、それを生きる勇気に変えて頑張ってほしい」
よく聞く言葉ですが、場外からの無責任な言葉だと思います。
生きることが地獄だから 死ぬことを考えるのです。
「頑張ってほしい」いったい何を、どうがんばればいいのでしょう。
多分「殴られる」ことに絶えることをガンバルしかないでしょう 

349 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/17(Tue) 20:12
>>348
所詮他人事だから、テンプレ通りの無責任な言葉しか出ないんだと思う。


350 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/18(Wed) 19:58
ですよね、死んだらいけない理由を言ってほしい。

351 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/18(Wed) 20:00
それとも、可能性か?

352 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/19(Thu) 17:35
>>349>>350
あれじゃね?ゲームやマンガとかでよくある「悪者は最後には負ける」視聴者的な理想。悪者は負けなければならず、その悪者に屈してはならないみたいな。

大体いじめられっ子が自殺してから「そんな奴の為に死ぬこと無かった」だの「自殺の他に道はあった」だの「誰かが悲しむ」って事しか言わないのも当人の考え全否定じゃん。じゃあ逆に全て当てはまらない奴は死んでいいのかよって話になるしな。あっ、構ってちゃんは無しね。
勿論相談受けてる奴を否定はしないし、いじめられっ子にとってそれは光だとも思うよ。でもそれが「偽善じゃない」なんて考えそのものが偽善。

353 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/24(Tue) 21:37
ゲームじゃないんだ。

354 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/24(Tue) 21:41
↑そう言う「傍観者」がいるってこった

355 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/25(Wed) 15:56
生きてても良いことなんて無いし
楽しくもなんともない
生きろ生きろってなんだよ。
理由も言わないで
苦しめ苦しめっていってるのとおんなじだ

356 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/25(Wed) 17:05
>>355
そこでこうですよ
「そんなクズ(いじめっ子)の為に死ぬことない!両親も悲しむよ!生きていればいい事はきっとある!死んだらそれで終わりなんだよ!死んじゃだめ!」

丸投げクズ野郎のよく使う台詞

357 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/25(Wed) 17:23
>>355

理由さえあれば、文句言わずに生きるのかい?

なら、苦しむ為でも理由になるんじゃないか?

苦しむ為に、文句言わずに生きてください。



358 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/25(Wed) 18:21
>>357
わざわざ苦しむ為に生きるとかどこのドMだよwww

359 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/25(Wed) 18:45
なぜ苦しまなければいけないんですか?
つらいだけです。

360 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/26(Thu) 11:08
>>358-359

結局、理由が在ったってダメなんじゃん。
なら理由なんて求めるなよ。意味ねーよ。



361 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/26(Thu) 13:01
>>360
>>355は苛められて苦しんでる→もう苦しむのは嫌だから死にたい。だろwww
苦しむ為に生きろ!って話噛み合ってないから既に理由にならんぞwww



362 名前:io 投稿日:2012/07/26(Thu) 17:06

>>360苦しまないといけない理由を教えてください。
それだけでは理由にもなりません。

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