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日本の歴史における「男色」について

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/22(Tue) 08:04
「郷中」制度とは、男色が制度化されたものということができるだろう。
薩摩では男色が制度化していた他、若者たちは夕方、(灯明とともに)油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し
運悪く捕まった少年は輪姦された。

明治以降も男色の少年狩りが頻発したようだ・・


「白袴隊」
 
「白袴隊とその時代 ―世紀転換期の不良学生集団と美少年騒動」
「びゃっこたい」と言っても、戊辰戦争の華と散った会津「白虎隊」ではなく、明治30〜36年(1897〜1903)の東京で、美少年を襲ってレイプしたり、美少年を奪い合って決闘事件を起こした、娘をもつ親だけでなく、息子をもつ親をも恐怖させた硬派(=男色)の不良学生集団。

仲間の目印として白い袴を着けたことから「白袴隊」と呼ばれた。

おもしろいのは、「白袴隊」の活動を盛んに紹介して厳しく批判したのが、反藩閥政府を方針とする「万朝報」だったこと。
どうも「万朝報」は、「白袴隊」の少年襲撃(男色)を、薩摩藩の男色風俗と重ね合わせて、「白袴隊」に代表される不良学生による「風俗壊乱」を、政府要人の道徳腐敗に結び付けようとしていたらしい。
そのせいか、記事を詳細に読むと、どうも実に乏しく(レイプも未遂が多い)、「白袴隊」の活動がフレームアップされている感がある。

それはともかく、「白袴隊」は男色(少年愛)を堂々と表看板にした青年集団が明治30年代の東京に存在したという点で興味深い。
古川さんの分析によると、「白袴隊」の「事件」では、年上の青年(18〜23歳が多い)が、年少の少年(13〜17歳が多い)に性愛関係を迫るという形、つまり前近代に地方の「だ」などに見られた年齢階悌制の色彩が濃厚な男色文化の影響が見て取れるという。

しかも、記事を詳細に見ると、「白袴隊」の構成員は、判明する限り、地方出身者ばかり(やはり鹿児島県が多い)で、東京(江戸)本籍の者は見当たらない。
地方に残存していた近世的な男色文化が、上京学生によって東京にもたらされたと、見ることができる。

20世紀に入ると、男女の恋愛だけが賛美されるようになり、こうした男色集団は衰退し、アンダーグラウンド化していく。
「白袴隊」は、歪んだ形ではあるが、近世的な男色文化の最後の光芒だったのかもしれない。




52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:15
森鴎外「ヰタ・セクスアリス」にでてくる「賤のおだまき」というのは「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と文武両道に秀でた吉田大蔵清家の、郷中に関わる稚児と二才の男色の契りの物語だ。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。
数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)、大蔵との男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

関ヶ原の戦い前頃の物語で、薩摩に実在した無双の美童・平田三五郎と吉田大蔵清家が「義兄弟の契り」を結び、生死をともにする内容。平田三五郎は、庄内合戦(1599)の折、財部で十六歳の若さで戦死したことになっており、実際に曽於郡財部町(現在は市町村合併で曽於市となりまた)には、お墓が残っています。

薩摩藩の「郷中教育」は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。
郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上妻帯前の20代の年長の「二才」(にせ)が、男色という肉体の絆(義兄弟の契り)で深く結び合っていたのだろう。



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:27
「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
実在の人物で財部町に「平田三五郎の墓」があって町の記念物になっているようだ。

ほかにもたくさんあったことでしょう。


平田三五郎の墓(財部町史跡28)
鹿児島県曽於郡財部町古井(曽於市財部)にある。
 (古井(こい)は、JR日豊本線北俣駅より「中間トンネル」を抜けて大峰川を越えて「馬立」バス停、南郵便局に行く途中の十字路あたり。
  ただし交通は観光課に確認のこと。)
  
  実在の人物で、それぞれ子孫が墓参りしているという。

  財部郷土館には、平田三五郎の掛軸(絵)が展示されている。




54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:29
財部郷土館HPより

 平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において戦死した人で、相当の美少年であったらしい。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられた事件である。庄内地方を領有していた北郷時久は、宮之城へ移封となり、代わりに肝属地方を領有していた伊集院幸侃(こうかん)が入庄して来た。伊集院方の勢力拡張に危機感を持った島津と伊集院の戦いは結局、島津方が鎮圧した。
 財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。三五郎は「赤き鉢巻きに女郎花(おみなえし)を折て笄(こうがい:かんざしの意)にした」とあり、目立つ出で立ちであった。三五郎と兄貴分の吉田清家のことを記した「賎(しず)之麻玉記」という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。

 桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。



55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:34
男色の盛んな薩摩は、明治に入ってから新政府軍と戦った、これを「西南の役」という。明治10年に起こった、日本最大最後の内戦だ。熊本の激戦地田原坂に「田原坂の美少年」の像があるが、薩摩は今の中学生くらいのたくさんの少年が参戦した。当然、「男色の契り」があったのだろう。
また、これら少年が捕虜にされたりした場合、美童がどういう目に合うか想像に難くない。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/24(Thu) 22:34
『男色四十八手』については、『男色山路露』、『弘法大師一巻之書』などがあるほか、夢中庵魯鈍作『男色四十八手指南』(文化6年) がある。(東○大学図書館などでみられる。)
これらは図版があるようだが、稲垣足穂「少年愛の美学」や今東光「稚児」などの本が分かりやすい。

稲垣足穂「少年愛の美学」(徳間書店1968)
「稲垣足穂大全」第3巻? (現代思潮社 (1969) 1〜6巻)
「稲垣足穂全集第4巻」筑摩書房2001
ちくま文庫、河出文庫、角川文庫などになっている。

今東光「稚児」(鳳書房2005)
稚児『今東光代表作選集』第五巻(読売新聞社1973)
「定本稚児」防長史料出版社 (1977/03)
自身、天台宗の僧侶であった今東光が、それまでベールに包まれていた僧侶の性生活=男色(美童愛・稚児愛)の実態を小説の形で公表したことにあります。




57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 07:26
庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあったのだそうだ。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。

明治になってからも、薩摩出身の塾の書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたという「賎のおだまき」とは・・当時の男色の実態、郷中制度が作られた時代の稚児、二才の男色の実態について窺い知る手掛かりともなる。

「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位かの美童の誉れの高い三五郎、今で言えばJr.あたりか。野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、
その頃は少年武士は誰かの稚児・若衆となって肉体を捧げ契りをする。したがって処女(生童)を守らねばならない。

三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に適うはずもない。すぐその細腕を押さえられ、いよいよ帯を解かれ押し倒されいよいよ強姦の辱め・・というときに馬に打ち乗った大蔵さんに助けられる。危うく強姦されるところきわどいところを助けられる場面がある。その後三五郎は、互いに想い焦がれ、自宅に訪ねてきた大蔵さんに春雨の音だけが聞こえる寝静まった夜中、生童のすべてを捧げ、硬く抱きしめられ、刀を抜いて守ろうとした帯に手がかかるのを受け容れ、
・・春の宵、寝静まった雨音のみのぞする御座の内、二才・大蔵に抱きしめられ、刀を抜こうと身を守った体をすべてを捧げ、花嫁のように、愛撫に身を任せ肉体を一つにして、硬い「男色の契り・義兄弟の契り」を交わした。

その後の藩の二才たちは競ってまわし読みし、その後明治になってからも、薩摩出身の塾のむくつけき書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたとある。当時美童狩りも盛んだったようだ。
400年前のどこかこのあたりの広大な一部で実際起こったと思えばいいだろう。

・「賎のおだまき」
ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/NewFiles/NT60.html
・ぱぱずきっちん 男色文学の世界・    男色文学多数あり
  ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/Top.html


《平田三五郎の墓(三五郎塚)》
 鹿児島県曽於市財部町古井8164地先


58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 08:02
庄内の乱(慶長4年:1599年)は、豊臣vs徳川の「天下分け目の合戦」として知られる関ヶ原の戦い(1600年(慶長五年)〉の前年戦国時代際末期だ。1603年3月24日(慶長8年2月12日)徳川幕府開城となる4年前だ。従って江戸時代の薩摩の「郷中」その他武家の「男色」も似た激しいものだったでしょう・.
小姓もまさに男色、会津の「什」も男色による少年育成組織。でもこうした重要な事が、大河ドラマなどを含めどこにもでてこないのは不思議なこと。


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 08:12
礫川 全次「歴史民俗学叢書 男色の民俗学」批評社2003


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 08:18
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.hp.infoseek.co.jp/books/yamato.htm




61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 12:20
日本の戦国時代から江戸時代の初期にかけて武士階級の間で男色が流行したことはよく知られていますが、この時代、武士の家に生まれた少年が年長の武士と義兄弟と呼ばれる男色関係をもつのはごく一般的にみられる、ほとんど制度化された習俗でした。

このような「義兄弟」の関係は少年の家族にも公認されるフォーマルな関係で、少年の父親がこれはと思う青年を見込んで自分の息子の兄分になってくれるように頼むことも珍しくなかったといいます。

このような少年と男色関係をもつ武士には女嫌いの傾向が強くみられ、周囲が結婚を勧めてもなかなか結婚しようとせず、40過ぎになってようやく子供を作るために結婚するというケースが多かったそうです。

また民族学者の赤松啓介氏によると、男色が盛んであった九州地方では、少年がフンドシを締めて成人男子の仲間入りをする「フンドシ祝い」で、熟年の男や壮年の男が「フンドシ親」となり、少年にフンドシを贈った夜に少年と性関係をもち、義理の親子になる習慣があったそうです。

これなんか、まさに前述したニューギニアの部族でみられる「尻穴親子」の関係そのものです。

さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」と呼び、郷中のメンバーは7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

この「若衆宿」の制度は、ニューギニアの部族の少年が通過儀礼のために入る「男の家」によく似ていますが、若衆宿が西日本に普及していた事実からみて、この若衆宿の制度がニューギニアなど南太平洋の島々から日本に伝わった可能性は十分に考えられます。
   ttp://jack4afric.exblog.jp/8986743


かっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
これは戦後昭和30年代初めごろまで網本制度の強い一部漁村にあったようです。その若衆宿では「義兄弟の契り」の儀式が全員の面前で行ったそうです。

薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」(ごちゅう)と呼び、郷中のメンバーは数え7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。・・・強い絆とは、「義兄弟の契り」といって
肛交に依る肉体的少年性愛・・これを男色(美童愛)という。

   「賤のおだまき」は、この稚児と二才の男色関係の話です。

薩摩の「郷中制度」とは
この稚児と二才の男色関係に依って成り立つもので、
「賤のおだまき」の世界そのものです。



62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 13:08
俺が育ったところは昔は漁村で男子は15歳になると若衆宿に入らされた。
新人はひとりずつ先輩と義兄弟の契りを結んで漁業の技術からセックスの指導まで全部その先輩に叩き込まれた。
義兄弟の契りを結ぶ時は宿の全員の前で先輩が新人の尻を掘る儀式があったらしい。
尻を掘るといっても、新人が先輩に絶対服従を誓う儀式だから、
実際には先輩が勃起させたペニスを新人の尻の穴に当てるだけで、
ペニス全体を挿入したり射精したりはなかったらしい。


昔って大ざっぱに言うと戦前の話だから15歳は数えだよ。
ほとんどの子供は小学校までしか行かなかったから何年生とかない。
昼間は家の仕事手伝って、夕食が終ると宿へ集まった。
昔は数えで正月に一才歳をとるわけですね、15歳と言えば満13,4歳。
若衆宿にはいらされるのは、みんないっしょですか、それともばらばらですか。
若衆宿というのは、ずっとですか、それとも日数がきまってるのですか。
義兄弟の契りを結ぶということは、いつごろ知るのでしょうか?。


数えだとほんとは正月に歳をとるけど、うちの方では
数えの15の誕生日(だからほんとは満14歳の誕生日)過ぎると
宿に連れてかれたって聞いた。
若衆宿は結婚するか24歳くらいになると退会して大人の寄り合いの方に出た。
新入りがいつ入ってくるかは前からわかってるから、
宿の幹部が誰を新入りの義兄弟にするか事前に決めてたが、
大体は家が近くて子供のころから顔なじみの先輩と組まされたらしい。
新入りは先輩と義兄弟の契り結ぶことは知ってるが、
まねごととは言え尻掘られる儀式があることはその場で初めて知らされるから
緊張してびびるやつ多かったみたいだよ。




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:08
大昔は知らないが、俺が聞いたのは戦前から戦後しばらくまでで、
高度成長の前の頃までの話だから、着物ではなくズボンが普通だったと思う。
契りの儀式は義兄弟のお披露目だから、当然若衆宿のメンバー全員の前でやるんだよ。

契りの儀式は全裸だよ。
三三九度みたいなことやったあと義兄弟の2人が服脱いで全裸で正座する。
あるいは全裸になってから三三九度やるのかもしれない。
新入りが宿のメンバーに向かって土下座みたいなかっこしてお礼の口上言うと
先輩がうしろに回って新入りの尻をつかんでペニス挿入する真似する。
新入りはずっと顔を上げてなきゃいけないから、先輩のペニスが尻に当たった時は
どんな威勢のいい新入りも目つぶっちゃったりおびえたような顔になるって言ってたよ。




64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:13
大昔は義兄弟になる時は例外なく必ず本式の儀式を行ったということなので、
いざ挿入となって本気で逃げようとしたり泣き喚いたりする新入りも多かったのかもしれない。
ただ真似ごとの方が当たり前になってからは、本式の儀式をやるのは本人が希望したり、納得している場合に限られたから、
弟分が先輩のペニスを受け入れて男にしてもらう儀式だということは理解していたと思う。
実際に網元や有力者の場合は家の体面もあって息子に本式の儀式を受けるよう事実上強制していたから、
事前に兄貴分を呼んだり、息子に張り形を渡して練習させて、本番で見苦しいことがないよう気を使っていたようだ。
もちろんそれでも本番で耐えきれなくなる新入りもいたと思うが、そこのところは介添え人がうまく按配していたと思う。
儀式を奥の間の薄暗い所で行い、一般の団員と少し距離を置いたのもその辺の配慮だったのかもしれない。
むしろ本式の儀式の時は兄貴分の方が責任重大だったかもしれない。
ペニスを勃起させて弟分が動かないよう尻をしっかり掴んで優しく挿入し、あまり時間をかけずに射精するのは
口で言うほど簡単なことではなかったと思う。
いざ本番という時兄貴分が勃起しなかったりしたら論外だが、、逆に本物の同性愛者のように
快楽をむさぼってほしいままに往復運動をすればいいわけではなくて、あくまで儀式として行うのだから、
体力とともに精神力もまさに兄貴分にふさわしい所を幹部や他の先輩たちに見せなければならなかった。
弟分は自分が男になるためと家の名誉のために本式の儀式に耐えたが、
兄貴分にとっても自分が幹部になるためには避けて通れない試練だったと思う。

ペニスを勃起させて弟分が動かないよう尻をしっかり掴んで優しく挿入し、あまり時間をかけずに射精するのは
口で言うほど簡単なことではなかったと思う。・・こういうことが、だだっぴろい部屋の敷物を敷かれた狭いリングのような
中で繰り広げられたわけですね。
この儀式は集落のみんなにこうかいすることでなりたったようですね。介添人はプロレスのレフリーのようなもので、敷物がリングかな。
残酷なのは、本式の儀式をやることを自身が希望したり、納得しているのに、いざ
いざ本番になって、いざ挿入となって本気で逃げようとしたり泣き喚いたりしても、勃起させたペニスをあてられ、動かないよう尻をしっかり掴んで優しく挿入し・・ということかもしれませんね。、

契りの儀式そのものは宿のメンバー以外に公開したわけではないが、
新入りがいつ宿入りしてどんな儀式を行うかは家族にも地区の人全員にも知れ渡っていた。
家を出る時にも宿に着くまでの間にも「がんばれ」、「しっかり耐え抜け」と励まされたろうから、
新入りはどんな辛くても耐えることができたんだと思う。
残酷といえば残酷だが、兄貴分が自分をしっかり支えて一体になってくれ、熱いものを注ぎ入れてくれたことも
思い切り体で感じとれたと思うし、新入りにとっては誇りになったと思う。




65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:14
宿入りの歳を迎えた少年は宿に呼ばれて幹部の面接を受ける。
その際宿のしきたりや義兄弟のこと、契りの儀式のことなどを教えられる。
契りの儀式に本式と真似ごとがあることもそれとなく伝えられるが、
網元の息子のように親も本人も最初から本式を希望するような場合は
「どんなことにも耐えるから先輩たちの前で男にしてほしい」旨その場ではっきり言った。
そうでない場合は宿入りまでにどちらを選ぶか決めるよう言われた。
体格もよく度胸もあるような少年の場合は、将来の幹部になるためにも
暗に本式の契りを結ぶよう勧められたらしい。
そのあと何日かして、少年の家に宿の幹部が赴いて何月何日に宿入りさせたいと親と少年に伝える。
その際、どこのだれが少年の兄貴分になるかも伝える。
近隣の地区にも漁村であればそれぞれ若衆宿はあった。
昔は漁場争いなどで若衆宿同士のけんかなどもよくあったと聞いてる。
ただ宿のしきたりや契りの儀式のやり方などはみんなそれぞれだったと思う。




66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:18
地区に残って一人前の漁師になりたいと思ってる若者だったら、また息子を一人前の漁師にさせたいと思ってる親だったら
宿入りを拒否することはまずありえなかった。
もし仮に何らかの理由で拒否するとしたら、事前の面接やその前の親との接触の段階で拒否していたはずだよ。
特に誰が義兄弟の兄貴分になるかが決まってから拒否したら、その兄貴分が「俺が兄貴分になるのが気に食わないのか」って
その家に殴りこみに行きかねない。
だから幹部が宿入りの期日を伝達しに行った時は、本人や親は「たしかに承りました」と答えるだけだった。
もちろんその時点では本人も親も契りの儀式でどういうことをするのかは当然知っていたはずだよ。
宿のしきたりは宿によってみんな違っていたが、義兄弟の契りはどこでも大事にしていたと聞いている。
ただ契りの儀式は兄貴分と弟分で杯を交わすだけのところが多かったと思う。


「どんなことにも耐えるから先輩たちの前で男にしてほしい」旨その場ではっきり言った。
そうでない場合は宿入りまでにどちらを選ぶか決めるよう言われた。・・

いずれにしても、「たしかに承りました」と答えると、その日を境に大人の男になるわけですね。

今のように成人になるのは生易しいものではなかったようですね。

本式の儀式を希望する新入りとそうでない新入りがいる時は、
本式の儀式の日取りをまず先に決め、数日間なり数週間なり間をおいてから他の新入りの儀式を行ったと聞いた。
本式の儀式をあとにすると、真似ごとの儀式で契りの儀式を終えた新入りも本式の儀式に立ちあうことになり、
ショックが強すぎるということだったようだ。
大昔、本式の儀式が当たり前だった頃は新入りが何人かいてもまとめて儀式を行い、
介添え人の合図で一斉に挿入し、介添え人の拍子に合わせて同じリズムで往復運動したというから、
それはそれで壮観だったと思う。

いずれにせよ本式の儀式を受けることを選んで宿入りの期日を告げられた若者は
もうすぐ男になれるという期待と不安で胸がいっぱいだったと思う。
本番当日になるまで、兄貴分になる先輩が来たり張り形を渡されて儀式の練習をしたらしいが、
兄貴分は暗黙の了解で挿入までは練習することが認められていたが、
弟分の体内で射精することは本番の儀式まで厳しく禁じられていたらしい。
たしかに新入りにとって練習も本番の儀式も辛くて苦しいものだったと思うが、
最後の最後に兄貴分の熱い思いを体で受け止めた時には自分も男になれたと
実感できたんだろうと思う。




67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:22
新入りは大体は中学の同級生だったわけだから、自分は真似ごとで入団して、
その直後に友人が本式の儀式を必死で耐える姿を見たらショックだったろうし、
また本式の儀式を受ける新入りも涙を流して耐える姿を同級生には見られたくなかったと思う。
逆に本式の儀式を受けたあとだったら、同級生の真似ごとの儀式も落ち着いて見ていられたと思う。
期日を告げてからその期日までは大体1週間か10日くらいだったはずだが、
大安とか友引とかもあるからもっと間があいていたこともあったと思う。
その間も家の仕事とかは当然あったから、何もしないで宿入りを待つということはなかったはずだよ。
特に本式の儀式を行う場合は、周囲が心配して兄貴分と引き合わせたりして練習させるようにしていたと思う。
新入りの方だけでなく兄貴分になる方にとっても男の尻に勃起したペニスを挿入するのは初めての経験だから
周囲は2人で練習するよう仕向けていたと思う。
本式の儀式で兄貴分になる先輩は宿入りの際本式の儀式を受けた若者がなるのがふつうとされていたから、
儀式を前にした新入りの気持ちも十分わかっていたはずだよ。

契りの儀式の練習は兄貴分と弟分2人だけの練習だから、
張り形を使ったり、指を使ったり、いろいろなやり方があったと思う。
ただ本番の儀式ではペニスを挿入する前に指を挿入することは禁じられていた。
兄貴分がペニスをしごいて勃起させた時、我慢汁が十分亀頭を潤していないような場合は
介添え役が潤滑剤としてワセリンのような軟膏をペニスに塗らせたこともあったらしい。
その場合も弟分の尻の穴に指で軟膏を塗るということはなかったらしい。
理由はわからないが、弟分が兄貴分のペニスを無垢のまま受け入れるのが契りの儀式だから、
その大事な場所を指などを挿入して汚すのは邪道とされたということだと思う。
本式の契りの儀式は昭和30年代の前半までは行われていたと聞いている。
最後の頃は網元の息子などごく一部に限られていたようだが、
逆に兄貴分も弟分も他の団員たちに男らしさを見せるという部分を意識しすぎて、
最初から兄貴分が一気にペニスの根元まで挿入してぐいぐい往復運動を繰り返し
弟分が失神しそうになるなどかなり壮絶な儀式もあったらしい。



68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:30
昭和30年代前半までは宿入りがあって、少数だが本式の契りの儀式も行われていたと聞いた。
その頃は中学を卒業して進学しないで漁師の家を継ぐ者だけが宿入りしたが、
網元の息子だけは高校進学しても特例で宿入りして、本式の契りの儀式を行った。
それが本式の契りの儀式が行われた最後だと聞いている。
久しぶりに本式の儀式が行われるということで幹部や団員たちがかたずをのんで見守る中、
兄貴分が挿入した後射精まで長引いて介添え人が声をかけて途中で終わらせようとしたが、
高校生になったばかりの弟分が「まだ、まだ」と止めるのを拒否して最後まで耐えたと聞いた。
最後の本式の儀式にふさわしい壮絶なものだったらしい。
50年も前の話だから、これまでに書いた話はすべて自分が直接見た話ではなく、
元網元や地元の古老たちから聞いた話だよ。
昔話だから美化されたり誇張された部分はあると思うが、義兄弟が本式の契りを結び、
若衆宿を離れた後も生涯信頼関係を持ち続けたというのは本当だと思う。


高度成長期頃は変換期で、これだけでなくまだ古いものが残っていたとしてもあり得たことでしょうね。

こうした漁村における当時の「網本」について想像するしかありませんが、当時のそのような息子が本式の契りをするような背景など
についても知りたい。


戦後は新制中学卒で宿入りしたが、それ以前は数え15歳(13歳何カ月か)ということだったようだ。
逆に昭和30年代以降は高校進学が増えたので高校を卒業して家業を継いでから青年団に入るものも多くなったようで、
その頃には若衆宿と呼ばずに青年団と呼ぶのが普通になっていた。
さらに昔のような網元の権威がなくなったことなどもあって義兄弟や契りの儀式もすたれていったらしい。
昔の網元は漁村のいわば村長のようなもので、船も網もすべて網元のもので、
一般の漁師は小作人のようなものだったから、政治力も経済力もすべて一手に握っていた。
その網元の息子があえて若衆宿に入ったのは若手のリーダーとして将来の網元になるための修行をさせられたのだと思う。
網元の息子の宿入りの時は必ず本式の契りの儀式を行ったのもリーダーになるための不可欠の条件とされていた。
外部の人間から見ると、仲間たちの前で全裸になりペニスを挿入され往復運動の末に精液を注入されるというのは
男として辱められることのように思いがちだが、決してそんなものではなかった。
まだ初々しさの残る少年が逞しい青年から文字通り男のエキスを注入してもらい、
一人前の男へと生まれ変わるための儀式だったといえる。

網元としては息子を後継ぎにさせるためには地区の他の若者たちの見ている前で
契りの儀式にしっかりと耐えさせなければならなかったのだと思う。
息子の方も生まれた時から次の網元として親に厳しくしつけられているから、
立派に最後まで儀式に耐えたのだと思う。




69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:33
網元は世襲といっても馬鹿殿様では決して勤まらなかった。
息子たちもそれを知っていたから、若衆宿でリーダーとしての訓練を積んだ。
網元の息子たちはその第一段階として、契りの儀式の試練に耐えることが求められたし、
網元を補佐する役割を担いたいと思う若者たちも自ら進んで本式の契りの儀式を自らに課すことを望んだのだと思う。
ただ、全裸という点については、昔は漁村では人前で全裸になることはよくあったことで、
風呂上がりの若者が女性の前でも平気でペニスを晒して涼んでいたという光景はざらだったというから
人前で全裸になることには全く抵抗はなかったと思う。
また、ニュアンスの問題だが、「動物となって」というのは契りの儀式の実態とはやや違うような気がする。
儀式はあくまで作法が大事だから、兄貴分は落ち着いてゆっくりと弟分の尻にペニスを挿入し、
あまり激しい往復運動をせずに弟分の体内で射精するよう心がけていた。
また弟分は両肘を大きく開き、顔をしっかり上げて兄貴分を受け入れることが大事とされた。
苦痛で呻き声を上げたり涙を流すことは試練に耐えている証として容認されたが、
よがり声を上げたり「気持ちいい」などと口走ることは絶対許されなかった。
そんな場合は直ちに中断して契りの儀式は終わったこととされた。
繰り返しになるが、契りの儀式はどんな苦痛にも耐えて兄貴分の精を弟分が貰い受けることを象徴する儀式だった。
そのあとの宴会で兄貴分も弟分もペニスを勃起させたまま団員ひとりひとりと杯を交わすことになっていたのも
兄貴分の精が弟分にしっかり注入されたことをみんなに披露するためだったと思う。




70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:50
本式の契りの儀式で兄貴分が射精を終えたあと弟分の尻からペニスを引き抜くと、
勃起したままのペニスの先端が精液で白く濡れて輝いていたのが
奥の間に並んでいた幹部たちにはしっかりと見てとれたと思う。
兄貴分は射精を終えペニスを引き抜くと、精を注入したことを象徴するしぐさとして、
弟分のペニスを3度しごいて勃起させるよう促したあと弟分のうしろに着座した。
介添え役は兄貴分に懐紙を渡して濡れたペニスを拭わせ、
弟分の尻は介添え人が懐紙を当ててあふれ出る精液を拭き取った。
それから兄貴分は弟分の横に移り、弟分は尻を下ろして上体を上げ、2人並んで最後の口上を述べた。
この際兄貴分・弟分ともペニスを勃起させたまま口上を述べるのが正式とされたから
弟分は口上の前にあらためて3度自分で自分のペニスをしごいた。
もちろん実際にはそれだけでは勃起しない場合が多かったらしいが、
自分で大きくペニスをしごくしぐさを見せることで体内に精がみなぎっていることを象徴すればそれでよいとされた。
兄貴分が弟分の尻からペニスを引き抜いた直後に精液があふれ出て
敷物を濡らしたり弟分の太股を流れ落ちたりというのは本式の儀式なら常にあったことだと思う。
ただそれを確認できたのはすぐ横にいた介添え人だけだったと思う。
弟分も儀式の最中は無我夢中だったから、あとで宴会の席で介添え人と杯を交わす時、
「濃いものをたっぷり入れてもらってよかったな」などと言われて、
あらためて試練に耐えた末に自分の体からあふれ出た熱いものの意味を思い知ったのではないだろうか。




71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 14:55
契りの儀式の最後の口上も敷物の上に2人並んで行った。
敷物は当然儀式のたびに汗や体液が滲みこむから、そのあと次の儀式や行事に備えて洗った。
宿入りした新入りの最初の仕事で、敷物を洗わされたり、
宴会で使った座布団を干したりさせられたって話も聞いた。
もちろん何年かおきに新調することはあったと思うが、
毎年ってことはなかったと思う。

自分が兄貴分となって宿入りさせた弟分が、4、5年後に今度は兄貴分として新入りと契りの儀式を交わす。
おどおどしながらも必死に耐えていた弟分が、今は逞しく成長して、新入りに精を注入している。
同じ奥の間の同じ敷物の上で、かつての自分に代わって弟分が同じ儀式を作法通りに行っている。
それを見る時、自分が兄貴分として弟分を男にする大役をこなせたことを実感したと聞いた。
そうした伝統を今の時代に復活させることはおそらく不可能だろうが、かつての漁村の連帯感は
そんな中で培われていたように思う。




72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 17:51
祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。

会長さんが生まれ育った村には、「若衆宿」がありました。

「若衆宿」は今の日本では絶滅してしまいましたが、戦後の一時期まではあったようです。その名残が今では村の「青年団」になっています。

又、「若頭」「組頭」という名称は、今でもやくざの世界に残っています。
薩摩の「郷中」も若衆の発想ですね。

幼児期を脱し母親の手を離れた男の子は、結婚して一人前になるまでの間、若衆組に所属するというのが基本です。

徹底した若衆組は、家を持っていて若衆全員がそこで寝起きします。そこまで行かない組は、頻繁に集会をしレクリエーションをして結束を維持します。

年長の若衆が年下を指導教育するという役割もありました。その先輩・後輩は強固な絆で結ばれています。

播磨の農村では、男の子が13歳になるとオバかそれに近い女性からフンドシを贈られ、それを「フンドシ祝い」と呼んだそうです。フンドシ祝いをして筆下しを済ませた男の子は15歳(数え年)で「若衆宿」に入り、先輩の指導を受けながら夜這いを始めます。
男色もけっこう行なわれていて、男の家へ夜這いすることもあったそうです!

毛が生えるまではふりちんで腹掛けのみを着用させる。
毛が生えたのを確認したら赤褌を締めさせて赤飯で祝う。
若衆宿に入り先輩と二才の契り・義兄弟の契りを結ぶ。
先輩が結婚するとき初めて女郎屋に連れて行ってもらう。




73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 10:45
若衆宿あるいは若者宿の、宿は10畳くらいの部屋が2つあってどちらも縁側があった。
大きい寄り合いの時はふすまを開けて二間つなぎにして、
幹部だけの集まりの時は神棚がある奥の間で行った。
契りの儀式の時は奥の間の方は夏でも雨戸を閉めて薄暗くしたが、前の間は開け放ちにして、
義兄弟の2人と幹部は奥の間に入り、他の団員は前の間に座った。
真夏の本式の儀式の時は2人とも汗みどろになって、弟分の顔からは涙と汗がだらだら落ちてたって聞いた。
宿は道路より少し高い所にあったし奥の間は雨戸を閉めていたから
通りがかりの人からは儀式の様子は見えなかったと思うが、弟分の悲鳴や呻き声は聞こえたと思う。
薩摩の郷中も薩摩士族の若衆宿だから、そこで義兄弟の契りがあってもあたりまえだったでしょう。




74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 09:53
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです


75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 09:56
▼島津氏が継承した新羅の民俗

 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわた
り南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。

 幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩
摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と
呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行な
われたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

 名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味
の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ
赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新
羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を
奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県
北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。
国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて
参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣
した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交
友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新
羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

 その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖
都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれ
た男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。
ttp://www.k5.dion.ne.jp/~coppe/page015.html



76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/09(Sat) 12:40
【☆】

77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 14:59
鹿児島・「維新ふるさと館」などには、「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。4〜5町(約440〜550メ−トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね40〜80戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル−プに分ける。「小稚児」(こちご 6〜10歳)、「長稚児」(おせちご 11〜15歳)、「二才」(にせ 15〜25歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル−プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。
「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ−ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。・・などとある。


鹿児島では士族の子弟教育に「郷中制度(ごじゅうせいど)」なるものがあった。この制度は徹底した自主教育が特徴で藩士の家格に上下の差はあっても、この制度の下では全く平等であり、他藩とはこの点が著しく異なった。
 薩摩藩では、城下の子弟を住居地域で6つの郷中(ごうちゅう、方限-ほうぎり、とも言う)に組織していた。郷中制度は7・8才〜13・14才を稚児(ちご)、14・15才〜24・25才の青年を二才(にせ)を呼ぶ二階層から成っていた。
 稚児は、朝6時に、郷中の先生格の家に駆けつけ文字を習う。8時には、二才達の指導の下で駆けくらべ、旗とり相撲などで体を鍛え午後2時から、歴史・地理など色々な学問を学び、4時になると、武道、特に薩摩藩独自の憲法『示現流』の基本を教わった。
 14〜15才で元服式をすませると二才となり、藩主にお目見えして俸禄(年4石)をもらう。朝8時から正午まで藩校(造士館)で儒教を中心とした学問を学ぶ。入学試験もなければ卒業証書もくれない。午後は、家の手伝いと読書をする。4時から造士館の隣りの武術道場に行って示現流の武術の鍛練をし、稚児の指導も行った。夜は各家輪番で座元を決めて「三国志」「漢楚軍談」などを論講しその内容について徹底的な討議を行った。・・とされる。

これは「男子」ですが、一方そもそも、なぜ年長者(男子)と、年少者(男子)を分けて一緒に集まったかというと。南方習俗とされ西日本に古くからあるとされる『若者組・若者宿』と言われるもので、「稚児」と「二才」(にせ)の「男色(少年愛)制度」と言うことができます。

なお、「郷中教育」の「塾」を「舎」と言って現在でもいくつか存在するようだ。

明治時代の鴎外の小説「イタセクスアリス」に、少年の事を書いた写本(「賤のおだまき」のこと)を鹿児島の塾なんぞではまわし読みするのが元旦の習わしとあるが、その「塾」である。

たぶん少年(稚児)の事を書いた写本(「賤のおだまき」のこと)を回し読みするヒゲもジャの性欲旺盛な、むくつけき年長者たる「二才」たちがたくさんあつまっている中に、元服前のまだ声変りもしない「稚児」(「長稚児」)たちが、夕刻に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けたというのだ。

先輩たちの教えとは、「郷中の掟」を復唱し・・だけで許すだろうか。

若者宿である以上、明治あるいはそれ以前ともなれば、義兄弟の契りなど「男色行為」も手取り足とり教え込まれたと考えた方があたっているのだろう。このあたりはスルーされていていいことずくめなのがかえってきになるところだろう。このあたり説明しない、あるいは知らないとすれば欺瞞に満ちている。




78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 15:42
社会的動物であるわれわれ人間は、さまざまなコミュニティに属して生きざるを得ない。
つまり、「先輩」「後輩」という人間関係をさけては通れない宿命を背負っている。
英語圏では、「先輩」「後輩」の関係はあまり重要視されず、これらの単語のニュアンスにぴったり相当する英単語はないらしい。
この「先輩」「後輩」という、ある意味、超組織的メンタリティを含んだ関係は、「若衆宿」の古俗をもつ南太平洋から東アジアにかけてのものらしい。
  
話がそれるが、「若衆宿」について少しふれたい。
日本における「若衆宿」は、近世以前は南方的要素が濃い地域(近畿・中国・四国・九州地方など)には、当たり前のようにあった習慣(組織)である。
村社会の男子はある年齢(12歳前後か?)になると、地域の慣習として「若衆宿」という組織に入って、そこで共同体のルール(ときには夜這いのしかたまでも)を学びながら、大人になった。
また、自警団的な要素も強く、火事や災害のときの救急隊も「若衆宿」が請け負っていた。
自然、村の大人たちも「若衆宿」のリーダーにたいしては、命令もできないし、むしろ敬って接していたらしい。
維新の元勲である西郷隆盛が、「郷中」とよばれていた薩摩藩郷士の「若衆宿」のリーダー(お先師)だったことは有名である。
大久保利通・大山巌・西郷従道・東郷平八郎なども西郷のいた下加治屋町の「郷中」の出身で、少年時代、その「郷中」のお先師のもとで、さまざまな薫陶を受けた。
  
「若衆宿」や「郷中」には非常に厳しい規律がそれぞれに存在しており、なかでも「先輩」「後輩」の長幼の序がもっとも重んじられた。
幕末の薩摩藩士が討幕運動のなかで、お先師とよばれる「郷中」の先輩のことばひとつで、死地に飛び込んでいったことを思えばわかりやすい。
  
では、どうして「若衆宿」の先輩の命令に、後輩(新入会員)は従順だったのだろうか。
「それは古俗だから」と断定してしまえば、身も蓋もない。
そこには、自分が所属している組織「若衆宿」にたいするプライドやリスペクト、また、自分のすべてをかけて後進を指導していかなければいけない、という強烈な責任感があったのではないか。
そうそう単純ではないが、JC には「若衆宿」に通じる要素がたぶんにあると思う。


79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 23:00
(参考)

礫川全次「男色の民俗学」歴史民俗学資料叢書・第二期
(批評社 2003年)


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/03(Sun) 10:17
(参考)
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
 南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社


81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/03(Sun) 10:28
日本でもかって少年売春があった。
江戸時代は陰間茶屋といって、美童を買って一時の夜を自分のものとして遊ぶ
のである。ほとんどが人身売買によって親方に、8歳くらいで買われ、いろいろ訓練して
12,3になると客席に出されて弄ばれた。
歌舞伎の役者でもあって、歌舞伎の起源でもあった。

まだ、児童福祉法もない時代、貧しい時代だった。武士の家に生まれても、いい思いをできるのは
長男だけだった。次三男は、手習いということで、10歳前に寺に預けられた。名目は手習いだが、本当は食いっプチを自分でかせぐためである。

だが、手習いは表向きで、実は女のいない寺で、坊主の性の欲望を満たすためなのです。
これが、「寺小姓」です。

武士さえそうだから、貧乏商人とか一般の貧しい親の息子は、陰間宿に売られたのだ。
こうして日本も、今のアジア諸国や各国で存在する少年売春が行われていた。



花咲一男著「江戸のかげま茶屋」




82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/29(Fri) 20:48
現在一般的な女性に対する美とか服装とか、男色(美童愛〉からきているものが結構ある。

「振袖」というのは江戸時代「蔭間」などという少年売色が起源。「蔭間」が着ていたもの。
「振袖」は女の衣装ではなく、美童が夜、お客の前にでていく衣装です。

「美童」が女装していたのではなく、「美童」の衣装が女の子を含めて女のいしょうになったもの。

「柳腰」というのも、少年売色や小姓など12,3−4の美童の細くてしなやかな腰付き(尻つき)から来た言葉です。
「柳腰」とは女の腰(尻)のことにあらずして、男色に於いて交わる男の子の細い尻を指した言葉です



83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 09:35
明暦の大火、別名振袖火事由来・・

明暦の大火は,火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。

別名振袖火事といわれている、その由来としていわれていること・・麻布の質屋の娘・梅乃は「寺小姓」に一目惚れし、その「小姓」が着ていた服と同じ模様の「振袖」を作らせて愛用していましたが、ふとしたことで死んでしまいました。両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやりました・・と言われています。

当時こういう棺に掛けられた服とか仏が身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。

「寺小姓」とは、寺の坊さん専用の「小姓」で、殿様の「小姓」、少年売色[蔭間]に相当する12,3の美童です。
昔は旗本でも重用されるのは後取りの長男だけで、食いっぷちを減らすため、次三男は10歳くらいになると手習いの名目で寺に預けられます。女色禁止の僧院は昔から「男色」(美童愛)が行なわれていました。坊主に体を捧げ可愛がられて自ら食べさせてもらって、大きくなったらカネをもらって寺をでます。そして代わりに次々に年少の男の子が入ってきます。

旗本でも、そうだから貧しい町民の子どもは売られて[蔭間」に売り飛ばされたのだろうが、親方の下不特定多数相手に線香一本いくらで売春させられるに対し、旗本の子弟は寺で坊主に食べさせてもらうだけよかったろう。


ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。
ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。
今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談。死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。
それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。
住職が読経しながら火中に振袖を投じます。

ところが、折しも強い風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移りました。おりしも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。
この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。

明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。




84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 11:09
七五三で男の子の衣装の袖がいくらか長くなっているが、これは男の子の風俗衣装だった
「振袖」の名残りとされる。

その後、「振袖」は女の子の晴れ着となって、男の子のでなくなり今日に至る。

85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 12:03
寺小姓とは小坊主ではない。姿も小姓や陰間と同じように、振袖姿です。
振袖火事とは、振袖姿の「寺小姓」を慕った娘が起こしたものという。
これと別だが、寺小姓を慕って16歳で火あぶりになった「八百屋お七」
の放火事件もこのようなものだった。


江戸時代の少年風俗は、その後、「振袖」とか「柳腰」とか女の美にちおりいれられた。
陰間は完全な人身売買にとる少年(美童)売春、で、線香一本いくらで強制売春だった。
拒否すると、親方から、食事をさせないとか裸にして縛り上げられ、尻をハリでつつきまわすとか厳しい
制裁があった。

「寺小姓」は寺の中で坊主専用という点で、身分はいい。「小姓」は、普通なら手の届かぬ殿様専用の
寵童。殿様は一段高い御座の上で、そこには前髪姿の12,3の小姓が二人、必ず殿様の刀をささげ持つ。
その御座には、殿様以外、小姓しか上がれない。

最近の時代劇に、小姓の姿は見られない。



86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/02(Tue) 18:28
歌舞伎座が改築されましたが、歌舞伎とは男色に由来し、江戸時代の「若衆歌舞伎」が起源です。(その前に阿国歌舞伎というのもあるんはるが。)
歌舞伎が男だけというのもそのためです。

元服前の若衆(美童)による「若衆歌舞伎」がもとで、その後幕府により禁止され、少し年長の「野郎歌舞伎」になりました。こいずれも男だけですが、これが現代の「歌舞伎」になっていくといえます。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/05(Fri) 11:01
「歌舞伎」と言うのはもともと少年売春における、美童の顔見せ興業で、客が指名するもの。
まだ舞台に出ない間の「蔭間」(かげま〉と呼ばれる少年は8歳くらいから親方の下で修行させられ12,3で蔭間宿と言う少年売春宿で客席に出て線香一本いくらで体を売る。
、たいてい貧しい町人や武士の次三男で、食いっぷち確保のため親方に売られてきたもの。


88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/09(Tue) 22:57
習俗としての男色は、はるか縄文の昔から、脈々と日本列島で生き続け、中世から近世初頭にかけては、数多くの男色物語も生まれました。
 「安寿と厨子王」のお話が、実は、厨子王のシンデレラ物語であることをご存じでしょうか。
 明治になって書かれた森鴎外の「山椒大夫」では省かれていますが、姉のおかげで山椒大夫一族の迫害の手から逃れた厨子王は、天王寺の童子となり、百人の稚児の中から都の貴族に選ばれて、養子となります。
 中世の稚児が男色の対象であり、養子とは、男同士の結婚の形であったことは、いうまでもありません。
 
 このお話は、もともと、説教節とよばれる語り物だったわけでして、庶民が聞いて楽しみました。聴衆の大半は、女子供だったでしょう。
 つまりこれは、「やおい」ですね。「やおい」の歴史も古いのです。
 弟のために命を捨てる安寿には、弟の大津皇子の死を嘆いた大伯皇女の姿が重なりますし、「兄弟を守護する姉妹の霊能」の、中世の姿でしょう。
 「習俗としての男色」と「姉妹の霊能」は、ともに南方的な文化要素ですし、日本列島では、終始、南方文化的な要素が強かったわけです。
 そこらあたりから、女が男同士の恋愛物語を好むやおいの伝統も生まれた、というのは、やおい女のいいわけでしょうか.。





 


89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/13(Sat) 00:55
映画「御法度」 ・・巨匠・大島渚監督が、幕末に生きた新撰組の世界を独自の解釈で綴った異色時代劇。幕末の京都を舞台に、ひとりの妖艶な美少年隊士をめぐって引き起こる愛憎劇を描く。同性愛をモチーフに、耽美的な色彩で捉えた映像が秀逸。坂本龍一の音楽も、不思議な魅力を奏でている。ビートたけし、松田龍平、浅野忠信、武田真治共演。幕末の京都。時代の流れに逆行し、幕府の非常警察として抗争に明け暮れる新撰組に、惣三郎という新人が入隊する。妖しい魅力を放つ美少年・惣三郎に対し、次第に心を惑わす血気盛んな剣士たち。やがて隊内は、嫉妬や羨望を交えた不穏な空気に包まれるが・・・。
・・
これは、現代的というか、無知と言うか、これほどまでに「男色」と言うものを全く知らない不勉強なできの悪い素人作品もみたことない!。武家作品を作るなら勉強せい。
18歳というのもおかしいし、前髪でもない。
男色の一方は元服前のまだ声変りもしない前髪姿の12,3の美童のはず。
テレビでやってたけど、これな〜に!?。

昔は、男色は同性愛と言うのではなかった。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/13(Sat) 09:28
(参考)国会図書館蔵
文献に見るセクハラの系譜と諸相 : 性と人権 男子篇
男子児童生徒と性被害の諸相 : 性的いじめ・裸体罰、逆セクハラ被害、少年売春の衝撃実態
文献に見る小中高校男子に見られる性的イジメの諸相
新聞記事に見る杉並の少年通り魔事件と、戦後少年愛事件史
蔭間と少年性愛の系譜 : 日本における少年愛と少年売春の歴史
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
宦官とカストラート : 少年去勢の歴史と文献



91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/17(Wed) 12:46
薩摩では男色(なんしょく・美童愛)が制度化していた他、若者たちは夕方、油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し 運悪く捕まった少年(美童)は輪姦された 。
男色といっても肛門性交ばかりぢゃ無かったみたいだゼッ!!! 口交(一節切・ひとよぎり)や相互自慰なども可成り盛んだったらしいしナッ!!!!!!!


92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/17(Wed) 23:14
>>91
>油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し・・

(灯明の他に)油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/18(Thu) 10:35
薩摩の「郷中制度」とは
この稚児と二才の男色関係に依って成り立つもので、
「賤のおだまき」の世界そのものです。


「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の男色制度といえるでしょう。
今で言えばJr.に於ける《セクハラ、児童虐待》と同じなのです。

薩摩では、一方で極悪非道な事が行なわれていました。

年貢の払えない農民などを小さな子どもに切り殺させ
平気で切り殺した子どもには褒美をあげ賞賛される
それが郷中教育の実態

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))




94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/21(Sun) 17:44
>>32
「郷中」や「什」の掟にかいてあることを現代風に解釈してはならない・・

江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。


「郷中教育」では、悪辣非道なことを教育・強制していた・・

>>17
【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。

【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中で男色行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆で焼酎を飲み、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。




95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/21(Sun) 18:04
>>94

>一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
・・このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

これが「郷中教育」の実態であった。

何といっても武家は殺人集団であって、高貴な集団ではあり得なく
郷中教育もおのためのものであった。

「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、
何をどう教育したか重要であって、勝手に現代民主主義で解釈してはならない。

これは会津の「什の掟」などについても同じことが言える。


96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/02(Thu) 18:39
什の掟

ttp://www.nisshinkan.jp/about/juu


97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/16(Thu) 15:50
旧鹿児島城(鶴丸城)本丸跡にある鹿児島県歴史資料センタ−「黎明館」(「維新ふるさと館」)展示には・・

「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。4〜5町(約440〜550メ−トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね40〜80戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル−プに分ける。「小稚児」(こちご 6〜10歳)、「長稚児」(おせちご 11〜15歳)、「二才」(にせ 15〜25歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル−プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。
「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ−ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。・・とある。


この中に肝心の男色(少年愛)の記述が無いが、年長の「二才」(にせ)と「稚児」(長稚児)とは男色関係を持つのである。

「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。・・手取り足とり男色を教えられるのでしょうか。

『郷中の掟』はこうしたときに効いてきて、「稚児」は年長者たる「二才」のいうことに逆らってはならないのだ。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 13:43
江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。
元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。





99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 13:51
会津藩の正式な記録書である、[家世実記]を丹念に読むと、衆道事件と それに付随する事件、刃傷沙汰、処罰などがいくつもあった。戦国の 名残なのかね。武を尊ぶ家内に多いね。



100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 14:19
【会津藩家世実紀】
会津藩初代藩主保科正之から7代藩主容衆(かたひろ)に至る歴代の正史。藩の編集方役場が4年を費やし1815年(文化12)に完成。277巻。広く旧記類を集め参考としているので,藩の行政,財政,民政等はもちろんのこと,村々のできごと,人々の生活に至るまで記述されており,藩政全般を知りうる唯一の史料である。全15巻として刊行中。(歴史春秋社発行)



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