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日本の歴史における「男色」について

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/12(Wed) 14:18
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・

72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/26(Sat) 17:51
祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。

会長さんが生まれ育った村には、「若衆宿」がありました。

「若衆宿」は今の日本では絶滅してしまいましたが、戦後の一時期まではあったようです。その名残が今では村の「青年団」になっています。

又、「若頭」「組頭」という名称は、今でもやくざの世界に残っています。
薩摩の「郷中」も若衆の発想ですね。

幼児期を脱し母親の手を離れた男の子は、結婚して一人前になるまでの間、若衆組に所属するというのが基本です。

徹底した若衆組は、家を持っていて若衆全員がそこで寝起きします。そこまで行かない組は、頻繁に集会をしレクリエーションをして結束を維持します。

年長の若衆が年下を指導教育するという役割もありました。その先輩・後輩は強固な絆で結ばれています。

播磨の農村では、男の子が13歳になるとオバかそれに近い女性からフンドシを贈られ、それを「フンドシ祝い」と呼んだそうです。フンドシ祝いをして筆下しを済ませた男の子は15歳(数え年)で「若衆宿」に入り、先輩の指導を受けながら夜這いを始めます。
男色もけっこう行なわれていて、男の家へ夜這いすることもあったそうです!

毛が生えるまではふりちんで腹掛けのみを着用させる。
毛が生えたのを確認したら赤褌を締めさせて赤飯で祝う。
若衆宿に入り先輩と二才の契り・義兄弟の契りを結ぶ。
先輩が結婚するとき初めて女郎屋に連れて行ってもらう。




73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 10:45
若衆宿あるいは若者宿の、宿は10畳くらいの部屋が2つあってどちらも縁側があった。
大きい寄り合いの時はふすまを開けて二間つなぎにして、
幹部だけの集まりの時は神棚がある奥の間で行った。
契りの儀式の時は奥の間の方は夏でも雨戸を閉めて薄暗くしたが、前の間は開け放ちにして、
義兄弟の2人と幹部は奥の間に入り、他の団員は前の間に座った。
真夏の本式の儀式の時は2人とも汗みどろになって、弟分の顔からは涙と汗がだらだら落ちてたって聞いた。
宿は道路より少し高い所にあったし奥の間は雨戸を閉めていたから
通りがかりの人からは儀式の様子は見えなかったと思うが、弟分の悲鳴や呻き声は聞こえたと思う。
薩摩の郷中も薩摩士族の若衆宿だから、そこで義兄弟の契りがあってもあたりまえだったでしょう。




74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 09:53
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです


75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 09:56
▼島津氏が継承した新羅の民俗

 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわた
り南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。

 幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩
摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と
呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行な
われたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

 名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味
の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ
赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新
羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を
奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県
北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。
国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて
参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣
した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交
友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新
羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

 その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖
都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれ
た男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。
ttp://www.k5.dion.ne.jp/~coppe/page015.html



76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/09(Sat) 12:40
【☆】

77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 14:59
鹿児島・「維新ふるさと館」などには、「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。4〜5町(約440〜550メ−トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね40〜80戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル−プに分ける。「小稚児」(こちご 6〜10歳)、「長稚児」(おせちご 11〜15歳)、「二才」(にせ 15〜25歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル−プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。
「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ−ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。・・などとある。


鹿児島では士族の子弟教育に「郷中制度(ごじゅうせいど)」なるものがあった。この制度は徹底した自主教育が特徴で藩士の家格に上下の差はあっても、この制度の下では全く平等であり、他藩とはこの点が著しく異なった。
 薩摩藩では、城下の子弟を住居地域で6つの郷中(ごうちゅう、方限-ほうぎり、とも言う)に組織していた。郷中制度は7・8才〜13・14才を稚児(ちご)、14・15才〜24・25才の青年を二才(にせ)を呼ぶ二階層から成っていた。
 稚児は、朝6時に、郷中の先生格の家に駆けつけ文字を習う。8時には、二才達の指導の下で駆けくらべ、旗とり相撲などで体を鍛え午後2時から、歴史・地理など色々な学問を学び、4時になると、武道、特に薩摩藩独自の憲法『示現流』の基本を教わった。
 14〜15才で元服式をすませると二才となり、藩主にお目見えして俸禄(年4石)をもらう。朝8時から正午まで藩校(造士館)で儒教を中心とした学問を学ぶ。入学試験もなければ卒業証書もくれない。午後は、家の手伝いと読書をする。4時から造士館の隣りの武術道場に行って示現流の武術の鍛練をし、稚児の指導も行った。夜は各家輪番で座元を決めて「三国志」「漢楚軍談」などを論講しその内容について徹底的な討議を行った。・・とされる。

これは「男子」ですが、一方そもそも、なぜ年長者(男子)と、年少者(男子)を分けて一緒に集まったかというと。南方習俗とされ西日本に古くからあるとされる『若者組・若者宿』と言われるもので、「稚児」と「二才」(にせ)の「男色(少年愛)制度」と言うことができます。

なお、「郷中教育」の「塾」を「舎」と言って現在でもいくつか存在するようだ。

明治時代の鴎外の小説「イタセクスアリス」に、少年の事を書いた写本(「賤のおだまき」のこと)を鹿児島の塾なんぞではまわし読みするのが元旦の習わしとあるが、その「塾」である。

たぶん少年(稚児)の事を書いた写本(「賤のおだまき」のこと)を回し読みするヒゲもジャの性欲旺盛な、むくつけき年長者たる「二才」たちがたくさんあつまっている中に、元服前のまだ声変りもしない「稚児」(「長稚児」)たちが、夕刻に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けたというのだ。

先輩たちの教えとは、「郷中の掟」を復唱し・・だけで許すだろうか。

若者宿である以上、明治あるいはそれ以前ともなれば、義兄弟の契りなど「男色行為」も手取り足とり教え込まれたと考えた方があたっているのだろう。このあたりはスルーされていていいことずくめなのがかえってきになるところだろう。このあたり説明しない、あるいは知らないとすれば欺瞞に満ちている。




78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 15:42
社会的動物であるわれわれ人間は、さまざまなコミュニティに属して生きざるを得ない。
つまり、「先輩」「後輩」という人間関係をさけては通れない宿命を背負っている。
英語圏では、「先輩」「後輩」の関係はあまり重要視されず、これらの単語のニュアンスにぴったり相当する英単語はないらしい。
この「先輩」「後輩」という、ある意味、超組織的メンタリティを含んだ関係は、「若衆宿」の古俗をもつ南太平洋から東アジアにかけてのものらしい。
  
話がそれるが、「若衆宿」について少しふれたい。
日本における「若衆宿」は、近世以前は南方的要素が濃い地域(近畿・中国・四国・九州地方など)には、当たり前のようにあった習慣(組織)である。
村社会の男子はある年齢(12歳前後か?)になると、地域の慣習として「若衆宿」という組織に入って、そこで共同体のルール(ときには夜這いのしかたまでも)を学びながら、大人になった。
また、自警団的な要素も強く、火事や災害のときの救急隊も「若衆宿」が請け負っていた。
自然、村の大人たちも「若衆宿」のリーダーにたいしては、命令もできないし、むしろ敬って接していたらしい。
維新の元勲である西郷隆盛が、「郷中」とよばれていた薩摩藩郷士の「若衆宿」のリーダー(お先師)だったことは有名である。
大久保利通・大山巌・西郷従道・東郷平八郎なども西郷のいた下加治屋町の「郷中」の出身で、少年時代、その「郷中」のお先師のもとで、さまざまな薫陶を受けた。
  
「若衆宿」や「郷中」には非常に厳しい規律がそれぞれに存在しており、なかでも「先輩」「後輩」の長幼の序がもっとも重んじられた。
幕末の薩摩藩士が討幕運動のなかで、お先師とよばれる「郷中」の先輩のことばひとつで、死地に飛び込んでいったことを思えばわかりやすい。
  
では、どうして「若衆宿」の先輩の命令に、後輩(新入会員)は従順だったのだろうか。
「それは古俗だから」と断定してしまえば、身も蓋もない。
そこには、自分が所属している組織「若衆宿」にたいするプライドやリスペクト、また、自分のすべてをかけて後進を指導していかなければいけない、という強烈な責任感があったのではないか。
そうそう単純ではないが、JC には「若衆宿」に通じる要素がたぶんにあると思う。


79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 23:00
(参考)

礫川全次「男色の民俗学」歴史民俗学資料叢書・第二期
(批評社 2003年)


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/03(Sun) 10:17
(参考)
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
 南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社


81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/03(Sun) 10:28
日本でもかって少年売春があった。
江戸時代は陰間茶屋といって、美童を買って一時の夜を自分のものとして遊ぶ
のである。ほとんどが人身売買によって親方に、8歳くらいで買われ、いろいろ訓練して
12,3になると客席に出されて弄ばれた。
歌舞伎の役者でもあって、歌舞伎の起源でもあった。

まだ、児童福祉法もない時代、貧しい時代だった。武士の家に生まれても、いい思いをできるのは
長男だけだった。次三男は、手習いということで、10歳前に寺に預けられた。名目は手習いだが、本当は食いっプチを自分でかせぐためである。

だが、手習いは表向きで、実は女のいない寺で、坊主の性の欲望を満たすためなのです。
これが、「寺小姓」です。

武士さえそうだから、貧乏商人とか一般の貧しい親の息子は、陰間宿に売られたのだ。
こうして日本も、今のアジア諸国や各国で存在する少年売春が行われていた。



花咲一男著「江戸のかげま茶屋」




82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/29(Fri) 20:48
現在一般的な女性に対する美とか服装とか、男色(美童愛〉からきているものが結構ある。

「振袖」というのは江戸時代「蔭間」などという少年売色が起源。「蔭間」が着ていたもの。
「振袖」は女の衣装ではなく、美童が夜、お客の前にでていく衣装です。

「美童」が女装していたのではなく、「美童」の衣装が女の子を含めて女のいしょうになったもの。

「柳腰」というのも、少年売色や小姓など12,3−4の美童の細くてしなやかな腰付き(尻つき)から来た言葉です。
「柳腰」とは女の腰(尻)のことにあらずして、男色に於いて交わる男の子の細い尻を指した言葉です



83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 09:35
明暦の大火、別名振袖火事由来・・

明暦の大火は,火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。

別名振袖火事といわれている、その由来としていわれていること・・麻布の質屋の娘・梅乃は「寺小姓」に一目惚れし、その「小姓」が着ていた服と同じ模様の「振袖」を作らせて愛用していましたが、ふとしたことで死んでしまいました。両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやりました・・と言われています。

当時こういう棺に掛けられた服とか仏が身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。

「寺小姓」とは、寺の坊さん専用の「小姓」で、殿様の「小姓」、少年売色[蔭間]に相当する12,3の美童です。
昔は旗本でも重用されるのは後取りの長男だけで、食いっぷちを減らすため、次三男は10歳くらいになると手習いの名目で寺に預けられます。女色禁止の僧院は昔から「男色」(美童愛)が行なわれていました。坊主に体を捧げ可愛がられて自ら食べさせてもらって、大きくなったらカネをもらって寺をでます。そして代わりに次々に年少の男の子が入ってきます。

旗本でも、そうだから貧しい町民の子どもは売られて[蔭間」に売り飛ばされたのだろうが、親方の下不特定多数相手に線香一本いくらで売春させられるに対し、旗本の子弟は寺で坊主に食べさせてもらうだけよかったろう。


ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。
ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。
今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談。死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。
それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。
住職が読経しながら火中に振袖を投じます。

ところが、折しも強い風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移りました。おりしも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。
この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。

明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。




84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 11:09
七五三で男の子の衣装の袖がいくらか長くなっているが、これは男の子の風俗衣装だった
「振袖」の名残りとされる。

その後、「振袖」は女の子の晴れ着となって、男の子のでなくなり今日に至る。

85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 12:03
寺小姓とは小坊主ではない。姿も小姓や陰間と同じように、振袖姿です。
振袖火事とは、振袖姿の「寺小姓」を慕った娘が起こしたものという。
これと別だが、寺小姓を慕って16歳で火あぶりになった「八百屋お七」
の放火事件もこのようなものだった。


江戸時代の少年風俗は、その後、「振袖」とか「柳腰」とか女の美にちおりいれられた。
陰間は完全な人身売買にとる少年(美童)売春、で、線香一本いくらで強制売春だった。
拒否すると、親方から、食事をさせないとか裸にして縛り上げられ、尻をハリでつつきまわすとか厳しい
制裁があった。

「寺小姓」は寺の中で坊主専用という点で、身分はいい。「小姓」は、普通なら手の届かぬ殿様専用の
寵童。殿様は一段高い御座の上で、そこには前髪姿の12,3の小姓が二人、必ず殿様の刀をささげ持つ。
その御座には、殿様以外、小姓しか上がれない。

最近の時代劇に、小姓の姿は見られない。



86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/02(Tue) 18:28
歌舞伎座が改築されましたが、歌舞伎とは男色に由来し、江戸時代の「若衆歌舞伎」が起源です。(その前に阿国歌舞伎というのもあるんはるが。)
歌舞伎が男だけというのもそのためです。

元服前の若衆(美童)による「若衆歌舞伎」がもとで、その後幕府により禁止され、少し年長の「野郎歌舞伎」になりました。こいずれも男だけですが、これが現代の「歌舞伎」になっていくといえます。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/05(Fri) 11:01
「歌舞伎」と言うのはもともと少年売春における、美童の顔見せ興業で、客が指名するもの。
まだ舞台に出ない間の「蔭間」(かげま〉と呼ばれる少年は8歳くらいから親方の下で修行させられ12,3で蔭間宿と言う少年売春宿で客席に出て線香一本いくらで体を売る。
、たいてい貧しい町人や武士の次三男で、食いっぷち確保のため親方に売られてきたもの。


88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/09(Tue) 22:57
習俗としての男色は、はるか縄文の昔から、脈々と日本列島で生き続け、中世から近世初頭にかけては、数多くの男色物語も生まれました。
 「安寿と厨子王」のお話が、実は、厨子王のシンデレラ物語であることをご存じでしょうか。
 明治になって書かれた森鴎外の「山椒大夫」では省かれていますが、姉のおかげで山椒大夫一族の迫害の手から逃れた厨子王は、天王寺の童子となり、百人の稚児の中から都の貴族に選ばれて、養子となります。
 中世の稚児が男色の対象であり、養子とは、男同士の結婚の形であったことは、いうまでもありません。
 
 このお話は、もともと、説教節とよばれる語り物だったわけでして、庶民が聞いて楽しみました。聴衆の大半は、女子供だったでしょう。
 つまりこれは、「やおい」ですね。「やおい」の歴史も古いのです。
 弟のために命を捨てる安寿には、弟の大津皇子の死を嘆いた大伯皇女の姿が重なりますし、「兄弟を守護する姉妹の霊能」の、中世の姿でしょう。
 「習俗としての男色」と「姉妹の霊能」は、ともに南方的な文化要素ですし、日本列島では、終始、南方文化的な要素が強かったわけです。
 そこらあたりから、女が男同士の恋愛物語を好むやおいの伝統も生まれた、というのは、やおい女のいいわけでしょうか.。





 


89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/13(Sat) 00:55
映画「御法度」 ・・巨匠・大島渚監督が、幕末に生きた新撰組の世界を独自の解釈で綴った異色時代劇。幕末の京都を舞台に、ひとりの妖艶な美少年隊士をめぐって引き起こる愛憎劇を描く。同性愛をモチーフに、耽美的な色彩で捉えた映像が秀逸。坂本龍一の音楽も、不思議な魅力を奏でている。ビートたけし、松田龍平、浅野忠信、武田真治共演。幕末の京都。時代の流れに逆行し、幕府の非常警察として抗争に明け暮れる新撰組に、惣三郎という新人が入隊する。妖しい魅力を放つ美少年・惣三郎に対し、次第に心を惑わす血気盛んな剣士たち。やがて隊内は、嫉妬や羨望を交えた不穏な空気に包まれるが・・・。
・・
これは、現代的というか、無知と言うか、これほどまでに「男色」と言うものを全く知らない不勉強なできの悪い素人作品もみたことない!。武家作品を作るなら勉強せい。
18歳というのもおかしいし、前髪でもない。
男色の一方は元服前のまだ声変りもしない前髪姿の12,3の美童のはず。
テレビでやってたけど、これな〜に!?。

昔は、男色は同性愛と言うのではなかった。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/13(Sat) 09:28
(参考)国会図書館蔵
文献に見るセクハラの系譜と諸相 : 性と人権 男子篇
男子児童生徒と性被害の諸相 : 性的いじめ・裸体罰、逆セクハラ被害、少年売春の衝撃実態
文献に見る小中高校男子に見られる性的イジメの諸相
新聞記事に見る杉並の少年通り魔事件と、戦後少年愛事件史
蔭間と少年性愛の系譜 : 日本における少年愛と少年売春の歴史
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
宦官とカストラート : 少年去勢の歴史と文献



91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/17(Wed) 12:46
薩摩では男色(なんしょく・美童愛)が制度化していた他、若者たちは夕方、油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し 運悪く捕まった少年(美童)は輪姦された 。
男色といっても肛門性交ばかりぢゃ無かったみたいだゼッ!!! 口交(一節切・ひとよぎり)や相互自慰なども可成り盛んだったらしいしナッ!!!!!!!


92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/17(Wed) 23:14
>>91
>油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し・・

(灯明の他に)油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/18(Thu) 10:35
薩摩の「郷中制度」とは
この稚児と二才の男色関係に依って成り立つもので、
「賤のおだまき」の世界そのものです。


「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の男色制度といえるでしょう。
今で言えばJr.に於ける《セクハラ、児童虐待》と同じなのです。

薩摩では、一方で極悪非道な事が行なわれていました。

年貢の払えない農民などを小さな子どもに切り殺させ
平気で切り殺した子どもには褒美をあげ賞賛される
それが郷中教育の実態

三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))




94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/21(Sun) 17:44
>>32
「郷中」や「什」の掟にかいてあることを現代風に解釈してはならない・・

江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。


「郷中教育」では、悪辣非道なことを教育・強制していた・・

>>17
【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式をあげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し斬り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。

【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中で男色行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆で焼酎を飲み、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。




95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/21(Sun) 18:04
>>94

>一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
・・このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。

これが「郷中教育」の実態であった。

何といっても武家は殺人集団であって、高貴な集団ではあり得なく
郷中教育もおのためのものであった。

「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、
何をどう教育したか重要であって、勝手に現代民主主義で解釈してはならない。

これは会津の「什の掟」などについても同じことが言える。


96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/02(Thu) 18:39
什の掟

ttp://www.nisshinkan.jp/about/juu


97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/16(Thu) 15:50
旧鹿児島城(鶴丸城)本丸跡にある鹿児島県歴史資料センタ−「黎明館」(「維新ふるさと館」)展示には・・

「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。4〜5町(約440〜550メ−トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね40〜80戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル−プに分ける。「小稚児」(こちご 6〜10歳)、「長稚児」(おせちご 11〜15歳)、「二才」(にせ 15〜25歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル−プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。
「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ−ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。・・とある。


この中に肝心の男色(少年愛)の記述が無いが、年長の「二才」(にせ)と「稚児」(長稚児)とは男色関係を持つのである。

「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。・・手取り足とり男色を教えられるのでしょうか。

『郷中の掟』はこうしたときに効いてきて、「稚児」は年長者たる「二才」のいうことに逆らってはならないのだ。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 13:43
江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。
元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。





99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 13:51
会津藩の正式な記録書である、[家世実記]を丹念に読むと、衆道事件と それに付随する事件、刃傷沙汰、処罰などがいくつもあった。戦国の 名残なのかね。武を尊ぶ家内に多いね。



100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 14:19
【会津藩家世実紀】
会津藩初代藩主保科正之から7代藩主容衆(かたひろ)に至る歴代の正史。藩の編集方役場が4年を費やし1815年(文化12)に完成。277巻。広く旧記類を集め参考としているので,藩の行政,財政,民政等はもちろんのこと,村々のできごと,人々の生活に至るまで記述されており,藩政全般を知りうる唯一の史料である。全15巻として刊行中。(歴史春秋社発行)



101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/20(Mon) 15:49
>>96
什の掟、破ったもんにはいくつか罰があり、火あぶりならぬ手あぶりというのもあったという。
掌を火にかざさせたり、雪中に閉じ込めるなどというもの。

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/22(Wed) 13:48
「戊辰戦争」では、会津藩だけでなく二本松藩を始め東北諸藩が参加。

この「戊辰戦争」には、多くの少年兵が参加していることが分かる。
主に戦った相手は、「男色」の盛んな薩摩であった。

それぞれ数え年で

・会津藩では・・
白虎隊(15(のちに16歳)から17歳の武家の男子によって構成された部隊。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた。)
年小隊(13〜15歳の少年有志で編成)100名
護衛隊(14〜15歳の少年有志で編成。)50名

・二本松藩では・・
二本松少年隊(12歳から17歳の幼い少年62名で結成された少年隊)

薩摩の軍勢が,ちょうど「男色」における「二才(にせ)」の齢であるのに対し、
ほんの12,3〜4の「稚児」にあたる少年兵たちが活躍した会津や二本松藩・・

戊辰戦争の時代はまだ会津でも薩摩でも男色は盛んにおこなわれていたこと、
男色では、他の男に体を許すことは少年武士として死ぬほどの恥辱屈辱であったろう。

生け捕りにされたりした少年兵もいただろうが哀れ





103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:22
西南戦争にも、少年兵も数多く参加していた。
その少年兵が田原坂で戦う様子を歌ったもので、ここに「美少年」というフレーズが登場する。
馬上ゆたかな美少年

つまり、どうもここから熊本(特に植木界隈)では「美少年」という言い回しがよく使われるようになったようだ。(おそらく)
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年


104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:24
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。



105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:28
明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。

「私学校」は軍事訓練学校で主に「二才」たちだったようだが、それより低い「稚児」さんも
いたのだろう。

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:31
「私学校」とは[若者宿](若衆宿)で「郷中」だから、「二才」だけではなりたたず「稚児」も必要だったろう。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:32
参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002



108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:34
西郷は幕末の風雲期に、京都で革命外交を旋回させていたころ、その幕僚のほとんどは自分が郷中頭だったころの下加冶屋町の旧二才たちだった。西郷にすればかれらなら気心が知れているし、安んじて追い使うこともできたのであろう。
維新が成立すると、それらの旧二才衆が新政府の官僚になり、明治六年に西郷が征韓論にやぶれて鹿児島に帰山したときも、ともに辞職はしなかった。むしろ他の方限の出身者が西郷を慕って下野した。

やがて西郷とかれらが、鹿児島士族の二才衆を組織して在校一万余人という私学校をおこすが、私学校組織は巨細(こさい)に見ると、もとの郷中組織であるにすぎない。
かれら薩摩の若衆組が反政府反乱に立ちあがったとき、桐野利秋(きりのとしあき〜人切り半兵衛)でさえ、はじめその気分をおさえようとした。しかしおさえきれなかった。西郷がこの武装決起に反対だったことは明瞭な証拠がいくつもあるが、しかし西郷は事実上起ちあがってしまったときに、おさえることをあきらめ、「自分の体をあげよう」といって、かつがれてしまった。
ttp://hachi-style.jugem.jp/?eid=431


109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 07:49
顕彰館というのは南洲公が下野後につくった私学校の記念館のことなのだが、私学校は現代の学校とは違う。郷中(ごうちゅう)の本部のことである。郷中は、西日本に古くからみられる地域社会の青年団のようなもので若衆宿ともよばれていた。

 明治10年、西郷隆盛はこの私学校を率いて西南戦争を闘ったのである。

 ところで西南戦争はなんだったのだろうか。西郷隆盛の想いはどのようなものだったのだろうか。

 西南戦争は、一言でいえば、西郷隆盛と大久保利通の国家建設ビジョンをめぐる闘いだったと思う。

 たしかに西南戦争の直接の原因は「征韓論」だったかもしれないが、本質的には「廃藩置県」とその後の中央集権体制のあり方が争点だったのではなかろうか。

 大久保利通は廃藩置県を西欧文明国家へのキャッチ・アップ体制構築のためには必要不可欠な手段と考えたはずである。確かに、日本を列強並の先進資本主義国家に変身させるためには封建制を解体する必要があった。廃藩置県による中央集権国家の建設である。

 しかし廃藩置県と中央集権体制構築という行財政の構造大転換は、結果的に士族社会及び地域社会の独自の伝統文化・風土を犠牲にすることによって断行されたといってよい。

 西郷隆盛は封建制、幕藩体制を維持したまま、徳川家400万石・幕府のみの行財政革命で日本を再建しようと考えていたのではなかろうか。腐敗堕落した徳川官僚士族を静岡藩の一地方官士族に再配置し、全国の各藩より選抜された地方官僚を新しい幕府に投入して、武士道精神に満ちた新幕藩体制建設を夢見ていたように思えてならない。



110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 08:36
西南の役 

 明治9年に政府は廃藩置県以来の諸般の改革を行っていたが政治的危機に直面していた。明治初年以来年々はげしく起こっていた農民一揆が明治9年の地租の改革に関連し、茨城県全県、三重、愛知、岐阜、奈良(堺)の4県にわたる大一揆となり、各府県で施行中であった地租改正作業に対する農民の不満は大きかった。反政府派士族は自由民権運動に結集するものと、佐賀(江藤晋平1874.2)、熊本(神風連1876.10)、秋月(1876.10)、萩(前原一誠1876.10)とつぎつぎに反政府暴動を起こした。

 西郷隆盛は明治6年(1873.10.24)征韓論に破れ辞表を提出し、11月10日に鹿児島へ帰った。明治7年6月には鹿児島私学校を設立し子弟の養成に努めた。
西郷隆盛は反政府暴動の挙兵のすすめに応ぜず、薩摩、大隈の自派勢力を保持することに専念していた。



111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:31
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.r.ribbon.to/books/yamato.htm


112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:47
薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。
この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。


郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。


113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 09:53
同時に「郷中制度」(若衆宿)は、いまでもいくつかある[学舎」に引き継がれたようだ。

森鴎外の小説「イタセクスアリス]に出てくる、元旦に「賤のおだまき」という「少年」の事を書いた写本をまわし読みする事が日課となっているという「鹿児島の塾」である。

114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:34
薩軍の中には15歳(数え)位の少年兵も多くいたらしい。この美少年像のモデルは5人いると言われている。薩軍二番大隊長村田新八の長男の村田岩熊、人吉隊の三宅伝八郎、熊本共同隊の高田露、熊本隊の高橋長次。そして、束野孝之丞。植木駅近くの萩迫柿木台場に薩軍美少年の墓があり、「束野孝之丞戦歿碑」がある。「君八日州庄内ノ人 西南役僅年十五才ニシテ薩軍ニ投ジ奮戦此地ニ没ス 時ニ明治十年二月二八日義軍遂ニ敗レシモ君カ英霊ハ永ク此地ニ眠ラン」と刻まれているそうだ。彼もまた美少年のモデルの一人と言われている。




115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:42
薩摩藩の武士の多くは、農業を営んでいたのあり、完全にに兵農分離をとらず、藩内の郷村を単位に、各地に武士集落である麓をつくったのが特徴である。麓集落は、郷村の中心地として、外城制度のなかでの仮屋を置いた。この麓集落では、武士の若者組である郷中教育が行われたのである。農民的な年齢階梯制である若者組と武士の若者教育が結合されたのである。薩摩藩ばかりではなく、兵農分離が十分に進んでいなかった藩には、薩摩藩と同様な郷中教育が行われていたのである。
 若者制度の研究のなかで、武士の若者組として、薩摩藩のことが典型として記されているが、それは、薩摩藩だけではなく、その他の藩でみられたのである。
 「鹿児島の武士階級の若者制度は所謂郷中の制で、城下が幾つかの方限に分かれ、この方限なる地域毎に団結せる自治修養警備の組織であったのである。従って昔は之を郷中又は方限と云う明治初年に於ては三十有余の郷中があった。
 この郷中の後進は「学舎」と称して現在十七学舎存在し、昔ながらの厳しい訓育が行われている。(学舎は謂はば青年団の倶楽部又は会館であるが、昔は特にかようなものはなく、組内の誰彼の家に月番に集まったものであると云う)。この郷中の制は鹿児島城下のみならず、百二外城もそれぞれ一つの方限を以て郷中の制があり、士族の自治的な青年教育が行われていた」。


116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:46
 1924(大正十三年)大日本連合青年団創立の準備委員長として奔走した田沢義鋪は、青年団の使命のなかでも、同じように若者組と郷中教育の関係を次のようにのべている。
 「鹿児島の武士階級の青年団は、頼山陽が詩に詠じた、いわゆる健児の社であるが、鹿児島では、方限(ほうぎり)または郷中(ごうちゅう)といっていた。庶民階級の青年団が、部屋または宿を持ってように、「舎」と称するクラブまたは会館をもっていた。今はこれを学舎といっている。この武士階級の青年団は、武士階級の青年団が、社交娯楽の方面を主としていたのに対して、その方面を軽視するのではないが、修養方面において非常な好成績をあげている。
 もっと正確にいえば修養と社交娯楽が、渾然(こんぜん)として融合調和し、青年達が、その行事によって、大いなる喜びを与えられる点からいえば、立派な娯楽であるが、そん心身に対する効果をいえば、極めて高級の修養であった。即ち修養即娯楽の青年団の真諦は、すでにこの方限の中に最もよく現われているといってよろしい。


117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 10:51
出水の郷中教育
 出水地方は、薩摩藩の北部国境の守りとして、重要な外城であった。麓集落では郷中教育が活発に展開された。そこでの修養で強調されたのは、節操を守り、正道を行うことであった。その正道とは、偽りを言わず、自己中心的な考えにならず、うえにへつらわず、目下の人を馬鹿にしないで、困っている人がいたら、助け、約束をまもり、骨身をおしまず期待がもてるような仕事をすること、人を困らせるような話をせず、恥を知りて首をはねられようと、強い心をもって信念をとおす人になれとのべている。また、温和慈愛、物の哀れみを知る情ある人になることを強調している。これらの精神を身につけてもらうために、次のように兵児修養の掟として朝夕、常に朗読をしているのである。
出水兵児修養之掟
 「士は節義を嗜み申すべく候。節義の嗜みと申すものは口に偽りを言はず、身に私を構へず、心直にして作法が乱れず、礼儀正しくして上にへつらわず、下をあなどらず、人の患難を見捨てず、己が約諾を違ヘず、甲斐かいしく頼母しく、かりそめにも下様の賤しき物語り悪口など話の端にも出さず、譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。」(24)
 麓以外の集落の農民は、庚申講として60日周期で、15歳から30歳までのすべての青年を講の構成員となっている。会合では、ニセ頭が「この60日間の生活を振り返って何か意見はないか」ということからはじまると出水郷土誌に書かれている。60日間に若者組の掟に違反したものや非行を働いたもんはないかと、それぞれに反省を促しているのである。
 出水郷土誌では「この講は日常の礼儀作法は勿論、公役や農事などの村の生活全般にわたって、こまごまと決議し実行したので、風紀秩序の反省自治会。あるいは村の若者会議といってよいものであった。もし決議事項を守らず、また村の掟に違反する者に対しては厳しい制裁が行われた。制裁には村八分、打首、ヤカン(仲間外し)の極刑をはじめ、打ち回し、座転がしころがし、おどし、寒中水浴、打ち上げ落とし、三間振り回し(高い所から振り落とすと三間先まで飛んだ)。道普請、橋かけ、縄ない、草履つくり等々、その違約の程度に応じて厳しく行われた。そして庚申講は、これらの村吟味がすべて終わったところで、会食となったものだ」。
 農民の若者組では農業の共同性や村の秩序のニセ組の取り締まりという性格から村の掟の実行が厳しく行われていたのである。


118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 11:00
鹿児島県立図書館編纂・北川鉄三著「郷中教育」、薩摩の郷中教育頒府委員会、
松本彦三郎著「郷中教育の研究」原版(1944年)復刻版(2007年)、尚古集成館
若者制度の研究・復刻版(原発行昭和11年)、財団法人青年館出版昭和43年、
安藤保「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」
鹿児島市史編さん委員会「鹿児島市史U」昭和45年発行、
出水郷土誌、
都城史・中世・近世編 宮崎県史蹟調査八号  
宮崎県史蹟調査八号、都城市史通史中世・近世編


119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/23(Thu) 11:29
「美少年暮」 で知られる 束野孝之丞の墓・・

15,16才の少年兵が戦い死んだことを示す墓碑は民謡田原坂に唄われた美少年の一人の墓として知られる。

碑の側面に「君ハ日州庄内ノ人 西南の役僅十五才ニシテ薩軍ニ投シ奮戦、此ノ地ニ没ス 時ニ明治十年二月廿八日 
義軍遂ニ破レシモ 君カ英魂ハ永ク此地ニ眠ラン」
      昭和七年盡日   再建
とある。

15歳とは数えだから、今でいえば13歳何カ月である。

120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/24(Fri) 00:00
・戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった

・西南戦争 西南の役(えき)
1877年(明治10年)
西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱。征韓論により下野した西郷は帰郷して私学校を興したが、その生徒が西郷を擁して挙兵。ともに下野していた桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介らが率い薩摩軍は北上、東京を目指した。その途上で熊本鎮台(熊本城)を包囲したが、稚拙な作戦により陥落させることができず徴兵による政府陸軍に鎮圧され、最後は西郷ら薩摩軍幹部らは鹿児島に敗走、城山に陣地を築き立てこもったが政府軍の集中砲火にあい、多く自刃した。明治初年の士族反乱の最大で最後のものとなった。以後の反政府運動の中心は自由民権運動に移る。


121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/27(Mon) 22:02
会津戦争:哀れ、埋もれた存在の少年達発掘

白虎隊の他にも、もっと沢山の少年達が埋もれています。隊の名が不明ながら、
明らかに年少者が集まった隊が、皆の記憶に、存在。原因は苦戦による混乱情報錯綜の他、
悲しいことに、身分差別なども絡んでいます。後の世、弔いを心掛けた者さえも挫折。
その訳は、姓を持たぬ者の情報整理が不可能だった。

雑用係(俗事係)として、幽閉同然の扱いを受けた少年二人
雑役係として、拘束された2人
■抜井将八、
■土井類吉
この2人の戦時詳細不詳(?15歳以下)


新政府は、明治2年1月皆の東京謹慎護送の際に、幼年少年を2人連れて行った。
この2人が解放されるは、明治3年春。
幼いので人畜無害だから使役した!薩長の腹黒さ!と文章は完全に怒っている。

将来国家有望の少年をして空しく一年有半幽窓の下に繋ぎたる
薩長の暴政是を以て知るに足る 。



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