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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




477 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/12(Thu) 21:34
古賀政男、中山晋平、弘田龍太郎、本居長世、小松耕輔。

50年前の昭和40年に出た古賀政男自伝、古賀政男著「我が心の歌」(展望社1965)には、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として
この日本の大衆歌謡に尽くした錚々たる5人の作曲家たちが一堂に会した貴重な写真が載っている。

478 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/12(Thu) 23:02
古賀政男などはもちろん、古賀政男音楽博物館には、中山晋平、弘田龍太郎、本居長世その他大衆音楽の発展に貢献した滝廉太郎を初めとした多くの音楽家、詩人・作詞家、歌手などが顕彰され、地下のパソコンで選んで多数それぞれ多数の作品を鑑賞できる。

479 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/03(Tue) 13:04
昭和の大衆歌謡史音楽としての「昭和歌謡史」の中で、J-POP系に比べ日本的なものがあまり出てこないというか、知られていのか残念なことである。
忘れてはならない作曲家に万城目正がある。

万城目正は昭和10年代、映画音楽から入った人で、古賀政男との類似性が指摘できる。
古賀政男ほどではないが西條八十とのコンビ曲が多い。
その優しい言葉、そのメロディの優しさ。
日本映画黄金時代、「愛染かつら」三部作、旅の夜風、愛染夜曲、愛染草紙や、純情二重奏、純情の丘、乙女七人。
戦後の、リンゴの歌、越後獅子の唄、この世の花、など永く心に記憶されるものが多い。

480 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/03(Tue) 18:28
昔の日本人の心優しさ、節度ある清爽さを表す昔の日本の歌。
古き佳き日本人の歌は癒され心を打たれすばらしい。

万城目正

旅の夜風 西條八十作詞 1938 霧島昇、ミス・コロムビア
愛染夜曲 西條八十作詞 1939 同上
愛染草紙 西條八十作詞 1939 同上

純情二重奏 西條八十作詞 1939 霧島昇、高峰三枝子
純情の丘 西條八十作詞 1939 二葉あき子
乙女七人 西條八十作詞 1939 ミス・コロムビア
愛馬花嫁 西條八十作詞 1940 ミス・コロムビア、菊池章子、渡辺はま子

リンゴの歌 サトウハチロ―作詞 霧島昇、並木路子
越後獅子の唄 西條八十作詞 1950 美空ひばり
哀愁日記  西條八十作詞  1954 初代コロムビアローズ
この世の花 西條八十作詞  1955 島倉千代子


481 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/12(Thu) 22:30
仁木他喜雄 その忘れられない曲

荒野(あれの)の夜風(西條八十作詞)霧島昇、ミス・コロムビア 1939 (「愛染かつら」三部作完結編挿入歌)
高原の月(西條八十作詞)霧島昇、二葉あき子 1939.12 ([高原の月」主題歌)
めんこい仔馬(サトウハチロ―作詞)二葉あき子、高橋祐子、コロムビア児童合唱団 1941

482 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/12(Thu) 23:05
竹岡信幸
古賀政男の弟子です。

人妻椿   (高橋掬太郎作詞)松平晃
赤城の子守歌(佐藤惣之助作詞)東海林太郎 1934
悲しき子守唄(西條八十作詞) 霧島昇、ミス・コロムビア 1938 「愛染かつら」挿入歌
朝月夕月(西條八十作詞) ミス・コロムビア 1939 「続・愛染かつら」挿入歌
支那の夜(西條八十作詞) 渡辺はま子    1938 「支那の夜」主題歌
白蘭の歌(久米正夫作詞) 伊藤久男、二葉あき子1939 「白蘭の歌」主題歌

483 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/13(Fri) 23:30
江口夜詩
  古賀政男、同時代唯一ライバル

忘られぬ花 (西岡水朗作詞) 1932
浮草の唄  (久保田宵二作詞)1933.3 ミス・コロムビア、デビュー曲
十九の春  (西條八十作詞) 1933  ミス・コロムビア(松竹「十九の春」主題歌)
急げ幌馬車 (島田芳文作詞) 1934 松平晃
あの夢この夢(西條八十作詞) 1936  二葉あき子


484 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 00:13
☆戦前の流行歌

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



485 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 18:13
古関裕而

船頭可愛いや (高橋掬太郎作詞)1935 音丸
暁に祈る   (野村敏夫作詞) 1937 中野忠晴、松平晃([聖戦愛馬譜 暁に祈る」主題歌)
露営の歌   (薮内喜一郎作詞)1937 伊藤久男
若鷲の歌(予科練の歌)(西條八十作詞)1944霧島昇、波平暁生
ラバウル海軍航空隊(佐伯孝夫作詞)  1944灰田勝彦
比島決戦の歌 (西條八十作詞)    1944 酒井弘

486 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 18:21
服部良一
 和声ポップス界の先駆者 1936年コロムビア専属

別れのブルース (藤浦洸作詞)1937 淡谷のり子
蘇州夜曲    (西條八十作詞)1940 渡辺はま子、霧島昇〈「支那の夜」挿入歌)
湖畔の宿    (佐藤惣之助作詞)1940高峰三枝子


487 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 18:57
佐々木俊一
 
 昭和6,7年怒涛のごとき「古賀メロディ」の浸透によって、「晋平・節」の時代から「古賀・メロディ」―の時代へと世の流れが移っていく。
 ビクタ―の顔、中山晋平も熱海に別荘を建てピアノを送ってしまう。以後戦後まで虚ろな余生を送る。
 そんな中で、中山晋平に代わるビクタ―の顔は戦後まで佐々木俊一になる。

 涙の渡り鳥(西條八十作詞)1932 小林千代子
 島の娘  (長田幹彦作詞)1933 小唄勝太郎
 僕の青春 (佐伯孝夫作詞)1933 藤山一郎
 無情の夢 (佐伯孝夫作詞)1935 児玉好雄

488 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/17(Tue) 10:08
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海の別荘]その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の【節】にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。

大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれた。

「晋平節」=晋平流の四七抜き五音短音階(ラ・シ・ド・ミ・ファ)の曲

これに対し、セコビアなど、ギター音楽と奏法を徹底的に研究し尽くした古賀政男。

ギターの流暢な音の特徴を活かして、《青春の息吹》をその【メロディー】に載せた。

古賀政男は、もう『○○節』の時代ではなく、「“メロディー”の時代」だと主張。
「“メロディー”の重要性」を訴えたのだ。

新聞は、「『晋平節』の時代から『古賀メロディー』の時代へ」と大きく書いた。


ここに、『古賀メロディー』という言葉が広く決定的となり広く定着してゆくことに。

そして、歌の流れが中山晋平(晋平・節)のビクターから、『古賀・メロディー』のコロムビアへと移ってゆく、戦後に至るまで。

昭和9年『皇太子さまお生まれなった』(北原白秋作詞)を最後に晋平は、戦後に至るまで、ほぼ空ろな悠々自適の生活を送る。

西條八十も、昭和10年9月にビクター専属からコロムビア専属に。

詩人西條八十の代わりにビクタ―の顔となったのは、戦後に至るまで作詞家佐伯孝夫となる  


畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)


489 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/26(Thu) 23:53
名門ビクタ―は、佐藤千夜子が古賀作品7曲を録音して日本を後にしたのが昭和5年10月。

昭和6,7年にかけ「古賀メロディ」の出現によって大きく、その顔を失ってゆく。

のちに戦前、戦後にかけ古賀政男とのコンビで最も多くの作品を世に送り出すことになる詩人・西條八十。待遇改善を求めた彼は、昭和8年の1年間ビクター専属のままコロムビアで活動することを許された。
古賀作品、「サーカスの歌」(松平晃)、「「お蝶夫人」の歌」(ミス・コロムビア)などである。

その後昭和9年の1年間、ビクタ―専属に戻ったのだが、昭和10年9月、コロンビア専属となり、以後戦後まで変わらない。

一方、昭和9年に、専務待遇でテイチクに移った古賀政男は、その後「外務省音楽文化親善使節」として渡米、凱旋帰国。
昭和14年に再びコロムビア専属に戻った。

コロムビアにおける西條・古賀コンビ復活最初の作品が「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)である。

以後、古賀政男はコロムビア、テイチクに続き第三期黄金時代、そして戦後の第四期黄金時代をを迎える。

490 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/29(Sun) 19:56
東京大衆歌謡楽団
h ttp://tpmb.jp/
h ttp://chesterfield-records.com/release/ttkg/


今、日本人として唄わなければならない歌がある。

昭和歌謡はメロディにやすらぎがあった。
歌詞に心があった。
昭和の時代には夢があった。
希望があった。

古き良き日本の時代、古賀メロディー等を唄う。



491 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/31(Tue) 23:29
影を慕いて
 詩・曲 古賀政男


まぼろしの 影を慕いて
雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ しのび泣く

昭和歌謡の最高傑作と言われる。
古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。

平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10」として、「荒城の月」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。

昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。

翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。

「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。

492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/01(Wed) 18:45
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。

493 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/03(Fri) 18:36
コガ・ミュージアムコンサート
東京大衆歌謡楽団 永遠の古賀メロディー コンサート

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ
昭和生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート

昭和時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら
古賀メロディーの世界をお楽しみください。

古賀政男音楽博物館けやきホール>>329
東京都渋谷区上原3−6−12
小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅前
 TEl.03-3460-9051

2015年5月30日(土)14:00〜
指定席制 料金 2000円

494 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/15(Wed) 06:56

伝説の歌姫李香蘭の世界

アーティスト名: 李香蘭



「蘇州夜曲」「夜霧の馬車」「紅い睡蓮」「夜来香」「何日君再来」「サヨンの歌」「迎春花」 そして歌謡史上の新発見作品、貴重曲を含む永遠の47曲。

歌謡史上のお宝発見!
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(雲のふるさと、月のしづく)ついに世に。 李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集。 大半を最新の技術で音質改良しました。
販売価格: ¥3,240
予約受付中
CD2枚組 E6378 COCP-39074
2015年04月29日発売

495 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/15(Wed) 07:01
04/12 07:11 NHK総合 【おはよう日本】
“李香蘭”未発表の歌・2曲見つかる

戦時中日本人であることを伏せて李香蘭の名前で女優として活躍し去年亡くなった山口淑子が、戦時中に録音したとみられる未発表の歌2曲(「月のしずく」「雲のふるさと」)があることがわかった。
戦地に赴いた兵士の涙を描いたとみられる歌詞もあり、レコード会社は“戦時中にはそぐわない”として発売を自粛した可能性もあるとしている。
古賀政男音楽文化振興財団に言及。
この歌は今月29日に発売されるCDに収録されるという。
日本コロムビア・男性のコメント。
♪未発表の歌「月のしずく」、「雲のふるさと」/山口淑子(作詞・大木惇夫、作曲・古賀政男)。

496 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 08:16
大衆音楽の歴史を考える上で、レコード歌謡は昭和3年「波浮の港」に始まるとされる。
それ以前は演歌歌手と呼ばれる人のバイオリンによって広められた。
なお、今にいう「演歌」とは、これとは別に日本が戦後復興から豊かになる戦後に出てきたものである。

昭和29年の「お富さん」がそのはじめで、春日八郎が歌った。作曲は渡久地政信である。
演歌歌手の走りとなった「春日八郎」は、演歌として他に

「赤いランプの終列車」(1952 江口夜詩作曲)
「お富さん」     (1954 渡久地政信)
「別れの一本杉」   (1955 船村徹)

などたくさんあって、戦後演歌の原点江口夜詩に始まる、渡久地政信、船村徹は戦後≪演歌≫の
創始者と言えよう。

なお、昭和29年というのは大きな転換点で、古賀政男とともに昭和のレコード歌謡を引っ張ってきた藤山一郎が、レコード会社専属をやめ、
NHKの嘱託となったのだ。

また古賀政男と「演歌」を結び付けるのがあるが、これは間違いであることを付け加えておかねばならない。
演歌の走りは江口夜詩であり、渡久地政信、船村徹あたりだ。


昭和30年代の古賀政男と言えば、誰しも認める「歌謡界の大御所」であるとともに、
押しも押されもせぬ『日本の名士』であった。

そんな本筋から外れたことを推進するまでもない大御所であった。

彼は、著作権で他を圧倒し、指には大きなダイアをつけ、大きな邸宅に住み、リンカーンなど大きな外車を何台も持ち、
草創期のテレビの「ものまね歌合戦」など歌番組の審査員として「よかったね!、よかったね!」と出場者を励ます。

昭和33年には「日本作曲家協会」を作り、自ら会長として作曲界に尽くした。日本レコード大賞を創設したり、古賀政男記念音楽隊賞を作ったことで知られる。


497 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 08:21
訂正 古賀政男記念音楽大賞

498 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 09:57
戦後の「演歌」の始祖は、古賀政男のライバルだった人、江口夜詩で、その歌手は春日八郎だったんですね。

499 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/28(Tue) 07:30
歌謡史上のお宝発見!
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(雲のふるさと、月のしづく)ついに世に。 李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集。 大半を最新の技術で音質改良しました。
販売価格: ¥3,240
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CD2枚組 E6378 COCP-39074
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500 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/07(Thu) 19:16
>>496
参考までに、いわゆる戦後演歌は春日八郎、江口夜詩に遡るといわれる。春日八郎は藤山一郎のステージを浅草で見て歌手に憧れる。
エンジニアを志し13歳で上京し、苦学の末に早稲田大学高等学院理科に入学するが、時が過ぎても憧れが薄れるどころか増すばかり、やがて東洋音楽学校へ進む。
音楽学校を卒業し、ムーランルージュ新宿座に入団、歌手を目指し活動を開始する。
キングレコードのコンクールに合格し準専属歌手となっても無給、先輩歌手の前座を務めるも、進駐軍の払い下げ品を闇市で売って生活をするほど赤貧の状態が続く。
その後、作曲家/江口夜詩の家に毎日のように通い、掃除から肩揉みまで行ないながら最後のチャンスと考え、曲を作ってもらえるよう願いながら、歌の研鑚に努めた。
そして、運命の「赤いランプの終列車」を作曲してもらう。
引き続き「お富さん」(渡久地政信作曲)の爆発的な大ヒット、「別れの一本杉」とヒットしを続け、当時の「流行歌」に取って代わり「演歌」の分野を拓いた人物といわれる。「故郷歌謡」という新天地を築いた点には、異論はあるまい。
その後、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、島倉千代子らが演歌に登場し、美空ひばりがデビューする。
そして、北島三郎、都はるみらが出て演歌の全盛期を迎えるが、春日八郎は演歌歌手の第一人者であり続け、生涯、歌唱力が衰えることはなかった。
生涯に吹き込んだ楽曲はいいかげんあものではなくて、通算1千6百曲を超え、レコード総売上は7千万枚を超した。戦後演歌の魁と言われる所以である。

501 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 14:38
昭和16年、福島から上京した春日八郎は初めて訪れた浅草で藤山一郎のステージに魅了される。強い憧れを抱いた春日は、音楽学校に進む。24歳になった春日はキングレコードの新人歌手オーディションに合格し、専属となる。しかし、なかなかレコードが出ない。なぜなら、キングレコードには当時人気歌手の岡晴夫がいたので、春日は注目されなかったからである。
その頃将来妻となる恵子さんと出会い同棲をはじめる。間もなく恵子は妊娠し、子供のためにも歌手を諦め普通の仕事をしようと考えるが、恵子は夫の才能を信じ、自分の師匠でもある作曲家・江口夜詩に春日の曲を書いてもえるように頭を下げ続けた。

4年後、江口夜詩作曲の「赤いランプの終列車」が発売される。この曲がみごとヒット。それからわずか2年後、「お富さん」という名曲と出会う。「お富さん」は日本歌謡界初のミリオンセラーとなる。一躍大スターになった春日だが、自分の本当に歌いたい曲にはまだ出会ってなかった。
そんな時春日は、キングレコードの廊下で、まだ駆け出しの作曲家だった、のちに「王将」などたくさんの歌で知られることになる船村徹に自分の作った歌を歌ってほしいと懇願され、1曲の歌を提供される。それが「別れの一本杉」である。これこそが春日の求めていた歌であり、望郷演歌の原点となった曲である。
三橋美智也、村田英雄と共に「演歌」というジャンルを確立したいく。そのため春日は演歌歌手第1号と呼ばれた。その後30年以上「演歌」を唄い続けた春日は1989年に紫綬褒章を受章する。


502 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 14:47
江口夜詩は、明治36年に上石津町時地区(当時の時村)の農家の次男として生まれた。(中略)大正8年、16歳で海軍軍楽隊に志願し、横須賀海兵団に入団した。ここで第1期軍楽補習生として1年間学び、首席で卒業、軍楽隊のトロンボーン奏者としてスタートした。(中略)太平洋戦争中のヒット曲には「月月火水木金金」「轟沈」「海底万里」等がある。戦後は、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」「東京の空青い空」、小畑実の「長崎のザボン売り」、津村謙の「緑の牧場」「天草のバテレン祭り」「赤いマフラー」、近江俊郎の「湯の町月夜」、春日八郎のデビュー曲「赤いランプの終列車」等、軽快でリズミックな歌の作曲で、一世を風靡した。また、昭和29年には、岐阜県養老町の依頼で春日八郎の「瓢箪ブギ」を作曲した。〉
(江口夜詩記念館 展示パネルより)


江口夜詩は生涯で4000曲も作曲したといいます。古賀政男唯一のライバルと言われ、その他戦前のヒット曲に、亡妻に捧げた「忘れられぬ花」、「急げ幌馬車」、
「十九の春」(沖縄で有名な方とは違いますよ)などがあります。

503 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 20:13
(参考)戦後演歌の系譜 【春日八郎と江口夜詩】

赤いランプの終列車 大倉芳郎作詞 江口夜詩作曲     白い夜霧の灯りに濡れて
雨降る街角     東条寿三郎作詞 吉田矢健治作曲       
お富さん      山崎正作詞 渡久地政信作曲     粋な黒塀見越しの松にあだな姿の洗い髪死んだ筈
瓢箪ブギ      高橋掬太郎作詞 江口夜詩作曲    飲めや歌えや世の中は酒だ酒だよ瓢箪ブギどうせ
山の吊橋      横井  弘作詞 吉田矢健治作曲   山の吊橋ァどなたが通るせがれなくした鉄砲撃が
別れの一本杉    高野公男作詞 船村  徹作曲    泣けた泣けたこらえ切れずに泣けたっけあの娘と


504 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 14:47
戦前に双璧を築いた二人の作曲家、古賀政男と江口夜詩のメロディを歌った歌手に松平晃がいる。古賀のテイチク移籍後のコロムビアの顔は、江口―松平コンビであった。一方、古賀メロディーの浸透によって、中山晋平、西條八十のかけることとなった名門ビクタ―の顔は、戦後に到るまで佐伯孝夫・佐々木俊一コンビになっていく。
松平は、藤山一郎がコロムビアに穴を開けていた、ビクター、テイチク時代の昭和8年から約6年間、ヒットを連発したが、昭和14年4月、藤山がコロムビアに戻ってからは低調で、後にコロムビアを離れテイチクに移籍している。
1936?年(昭和11?年)にかけて、東海林太郎・上原敏のポリドールの道中物、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う古賀メロディーのテイチク、江口夜詩―松平晃のコロムビア、佐々木俊一が台頭するビクターと激しいヒット競争が展開した。昭和13年霧島昇・ミス・コロムビアが歌う「旅の夜風」が大ヒットし、コロムビアは映画主題歌で全盛期を迎える。1940年(昭和15年)からは古賀メロディーの第三期黄金時代を迎え、松平晃の人気も翳りが見えてきた。
昭和13年から14年にかけての映画「愛染かつら」三部作のコロムビアにおける「万城目正」の活躍などで翳りを見せていた江口夜詩は、昭和14年の古賀政男のコロムビア復帰、西條八十―古賀政男黄金コンビの復活、藤山一郎とのコンビ復活による「古賀政男第三期黄金時代」の復活によって、江口―松平コンビも見る影もなくなった。この時代、江口夜詩は海軍軍楽隊の経験もあり「月月火水木金金」「轟沈」など主に軍歌を作ることになる。
そして、江口夜詩は昭和24年にキングに移籍することになる。江口夜詩と古賀政男の唯一ライバル関係は実は初期コロムビアの一時期だけだったのだ。このことが古賀政男の第二期黄金時代、いわゆる「テイチク黄金時代」への架け橋となったのだ。外人重役の推し進めた二人を競わせるという政策で、そのため離婚問題と重なり古賀は体調を崩し入院することとなった。
そこに目を付けた出来たばかりの「帝国蓄音機」(本社奈良)の南口社長から強い招聘を受けることとなった。重役待遇で全権を任せるというものだった。ここに世にいう「テイチク黄金時代」が始まる。そして、コロムビア復帰の頃はもう外人重役時代は終わっていた。テイチクを辞めて
外務省音楽親善使節として、アメリカ、南米を回り凱旋帰国した古賀政男は昭和14年コロンビアに復帰、その最初が西條八十作詞、霧島昇『誰か故郷を想わざる』だった。







505 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 15:37
古賀政男のもっとも脂の乗り切った時期、それは昭和12年ごろ、テイチク黄金時代、
「人生の並木道」「青い背広で」(いずれも佐藤惣之助作詞)のころとされる。

古賀作品には映画主題歌がとりわけ多い。

古賀はとくに映画会社とタイアップして映画音楽、主題歌に力を入れ、たくさんの今に残る映画主題歌がたくさんある。

昭和12年当時の各社の映画主題歌のなかでもテイチクの多さがひときわ際立つ。
テイチク  90曲
コロムビア 49曲
ビクター  41曲

テイチクの90曲のうち古賀政男作曲が43曲

506 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 16:04
昭和9年〈1934)5月15日、専務取締役兼文芸部長兼・・兼作曲家として、古賀政男は
東京銀座にテイチク東京文芸部(通称古賀文芸部)を発足され、ここに
テイイクが発足。

ここに「七人の侍」と言われる旧来の「明大マンドリクラブ」の仲間を呼び寄せた。
彼らは時に秘書であり、懐刀であ、パッカードやリンカーンの運転手である。

また「明大マンドリクラブ」も名前を変えて参加している。

テイチクにはテイチクオーケストラのほかにも、古賀政男サロンオーケストラ、古賀政男オーケストラなどが
そうである。

古賀政男サロンオーケストラ
男の純情
愛の小窓
緑の月
真実一路の唄
白衣(びゃくえ)の佳人

明大マンドリンクラブ
青い背広で
荒城の月
宵待草


テイチクオーケストラ

古賀政男オーケストラ
女の階級
回想譜
青春の謝肉祭
南国の乙女
ああそれなのに
人生の並木路
黒いパイプ
人生劇場




507 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 16:39
いつの間にか人が言うようになる
  古賀政男邸の玄関で 毎朝、お金の音がする。

これは昭和の大作曲家、古賀政男氏の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてくる、という業界人が作った話が一人歩きして、そう伝えられた伝説。
これは想像に難くない。

いつの時代も、古賀氏のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、
代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRACのビル。

当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。(ちなみに「目白御殿」が2750坪)

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」に残っている。

508 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/18(Mon) 20:01
江口夜詩の戦後は、昭和24年にコロムビアからキングに移籍。
「憧れのハワイ航路」「赤いランプの終列車」「長崎のザボン売り」「ひょうたんブギ」など数多い。また門下には若者たちがよく集まり、小畑実、岡晴夫、春日八郎らが巣立った。「春日八郎」は戦後の「演歌」の魁であり、江口夜詩とともに、当時の「流行歌」に取って代わり「演歌」の分野を拓いた人物といわれる。

一方、戦後の古賀政男は、「麗人の歌」「旅役者の唄」「三百六十五夜」「赤い靴のタンゴ」・・美しい日本語と、詩に心がある心に残るやさしい歌、西條八十との黄金コンビから多くの殊玉の名曲が生まれ、第四期黄金時代を迎えた。
昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもせぬ歌謡界の「大御所」であるというだけでなく「日本の名士」であった。昭和33年には「日本作曲家協会」を作り、自ら初代会長となり作曲家の地位の向上、「レコード大賞」など後進の発展に尽くしたことで知られる。




509 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/19(Tue) 21:38
代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。

古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。

戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。

これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。

ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。

また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。

また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。

西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のこの一体のビルにテナントとしてそびえたつ威容はそれをものがったっている。


510 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/21(Thu) 20:22
>>159-161
古賀政男さんがつくった軍歌・軍国歌謡 その五「勝利の日まで」。−ブログ高知
コメント
「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。(コメント

h ttp://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/04/post_6c1b.html


511 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 19:09
いわゆる「流行歌」といったレコードに対し、ラジオ(NHK)では「歌謡曲」といった。
歌謡曲と言った場合はクラッシックを意味した。

流行歌または歌謡曲の黄金時代はSP時代と重なる。
日本で最後のSPレコードは昭和37年(1962)であった。

その後日本が豊かになるとともに大きく変質していくことにある。

NHK「あなたのメロディ」(1963)では、素人作曲が始まる。
また昭和40年代にはいるとテレビのナツメロブームが起こる。

懐かしの歌を振り返るのはよかったのだが、何でも作曲家の後ろに「メロディ」の名をつけてしまったのはまちがい。

SP時代に、実際に広く使われ愛されたのは戦後まで『古賀メロディ』ただひとつだけだった。

『古賀・メロディ』とは、昭和初期に主流だった「晋平節」に対するもので、「晋平・節」に変わりメロディで主流となった古賀作品に対する敬愛を込めた称号のようなもの。

512 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 22:55
☆インテリ層と古賀メロディー

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発。」

そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう。

「酒は涙か溜息か」(1931.9)に続く、藤山一郎の「丘を越えて」(1931.12),「影を慕いて」〈1932.3)、

 人は敬意を表して「古賀メロディ」と呼んだ。


(参 考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。

513 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 23:07
酒は涙か溜息か

作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
昭和6年9月

1 酒は涙か溜息か
  心のうさの捨てどころ

2 遠いえにしのかの人に
  夜毎の夢の切なさよ

3 酒は涙か溜息か
  かなしい恋の捨てどころ

4 忘れた筈のかの人に
  のこる心をなんとしょう

この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた。

また、これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。


同時に「歌う昭和史」の昭和史たる、歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。


514 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 23:24
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。

古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。



515 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/26(Tue) 21:05
昭和6,7年に、主流だった「晋平節」の時代から、
「メロディー」の重要性を主張し実践した古賀政男。

今や『古賀メロディー』に似せた作曲家の後ろに「メロディ」をつけた、意味の違う軽い表現で、たくさん使われているのは残念なことである。

しかしそれは戦後、ものが有り余る飽食の時代の真っ盛り、昭和40年代以降のナツメロブームの産物で、戦後に到るまでそういうものが実在したわけではない。

516 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 06:32
ネット上などには、もっともらしく作曲家の後ろに「メロディ」をつけた物があふれているが、たとえば「服部メロディ」・・とかの類、
誤解を招く。

517 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 07:02
戦後20年代までのSP時代に、実際には使われていないVirtualなものの代表的なものとして

「服部メロディ」などのほかにも、「古関メロディ、」、「江口メロディ」、「吉田メロディ」・・などがあげられるだろう。

518 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 20:03
昭和は明治、大正を合わせたより長く、60年を超えている。
戦前、戦後を通じて、たえまなく、切れ目なく、メジャーなヒット曲をこれほど多く持つのは、「古賀メロディー」をおいてない。

519 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/02(Tue) 07:06
主に戦前の一時期の江口夜詩、逆に主に戦後の一時期の古関祐而、主にリズム系、J−POP系とされる服部良一。
それぞれいろいろだが、戦前戦後を通じて誰もが知っているようなメジャーな「ヒット曲」となると非常に少なく、10曲程度。

520 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/10(Wed) 18:31
日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』>>152である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
 「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)、これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。



521 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/11(Thu) 12:29
古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)・「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

522 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/14(Sun) 20:08
古賀政男のこのテイチク時代は飛ぶ鳥を落とす勢いで年齢的にも、もっとも脂ののった時期と言われる。

昭和12年には、代々木上原駅前の松林三千坪を手に入れ、清水組(清水建設)に頼んで邸宅を建てる。
この邸宅が完成したのが昭和13年4月のことだった。

この後古賀政男はまことに忙しい。

昭和13年6月「人生劇場」を最後にテイチクをやめ、昭和13年11月8日にはコロムビアに移籍復帰するのだが、その前に「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカや南米に立つ。

11月14日には、藤原義江らの見送りを受けて横浜港からハワイ経由で龍田丸でアメリカに向けて出港。

同じく13年11月には、上記「古賀政男藝術大観」がでる。

1年後の昭和14年10月10日帰国。三浦環の歓迎会を受ける。

523 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:47

戦前の流行歌〈1928?〉

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:49

戦前の流行歌〈1928−1943)

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/25(Thu) 07:59
「昭和」という激動の時代、レコード歌謡は生まれ激動の時代を生きてきた。

レコード歌謡の黎明期から、戦前・戦後までたくさんの「作曲家」が生まれた。そして多くの曲が世に出た。>>524

でも、この激動の時代を通して一貫してヒット曲を生み出し得たのは、古賀政男の「古賀メロディー」しかない。

昭和の初めから「古賀メロディー」と呼ばれ愛された理由もここにある。



「古賀メロディー」とは昭和の歴史とともにあった「時代性」の重みと「普遍性」を持つ。

526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/28(Sun) 23:30
>>256-258 索 引 (主なもの)

>>269-270 昭和SP歌謡 主要歌手(戦前・戦中)


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