掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/10(Wed) 08:59
>>423-426
古賀政男(1904−1978)
巻末小伝?せかい伝記図書館?オンラインブック(36)
h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-09.html



428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/10(Wed) 09:00
>>423-426
古賀政男(1904−1978)
巻末小伝 せかい伝記図書館 オンラインブック(36)
h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-09.html


429 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/12(Fri) 23:00
(参考)
財団法人古賀政男音楽文化振興財団(監修)/森一也(解説)『オリジナル版古賀政男大全集CD13枚』
古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』社会思想社(昭和45年9月)




430 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/13(Sat) 09:21
(参考)
全音 出版部 編「全音歌謡曲大全集1」(明治17年−昭和22年)
  前・間・後奏、オブリガート付 全歌詞・唄い込み・完全収録
  出版社:全音楽譜出版社


全音歌謡曲大全集1(明治17年−昭和22年)
全音歌謡曲大全集2(昭和22年−昭和34年
以後もあり。

431 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/13(Sat) 20:22
>>378-381
中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

雨情会会長だった中山晋平は、昭和27年12月2日、東京・井の頭公園に野口雨情の記念碑完成、除幕式を挙行する。
除幕式に出席した帰り、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

その後東京で膵臓炎発病。母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平はは国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

告別式は翌年、昭和28年1月16日、築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われた。
作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。



432 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 10:02
明大マンドリン倶楽部の古賀の愛弟子でテイチクで仕事をしていた宮崎良治氏が、宮本旅人のヒット歌謡『旅姿三人男』の企画を担当していた。
宮本旅人には「ほたる」(作詞 宮本旅人、作曲 本居長世)などの作品がある。

この宮崎氏の葬儀に病をおして出席した古賀政男を、宮本旅人が撮影した写真が、上記の貴重な写真のようです。
この時古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)



433 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 10:04
宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社
1939


434 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:01
☆古賀政男に関する文献☆
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>362-369 古賀政男に関する文献
>>423,>>429-430,>>432-433


435 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:25
>>417
>>353

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329 >>275>>325




436 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/15(Mon) 21:37
佐藤千夜子
「いのち短し 恋せよ“おとみいー”(乙女)」 少しなまった甲高い歌声が部屋じゅうに響く。ここは佐藤千夜子の生家である。
千夜子は本名を千代といい、1897年(明治30)、山形県天童市に生まれた。将棋の駒と温泉で知られる町である。14歳で上京し、普連土女学校から青山女学院へと進んだ。4年間の浪人後、23歳であこがれの東京音楽学校(芸大)に入学したものの授業に満足できず、中央会堂の聖歌隊員となった。賛美歌を独唱して中山晋平に見いだされ、27歳のとき、帝国ホテルでの中山晋平作品発表会で本格的な歌手としてデビューした。「影を慕いて」は彼女の歌で、古賀政男が世に出るきっかけをつくった。
1928年31歳のとき、日本ビクターで「波浮の港」を吹き込み、日本のレコード歌手第1号として脚光を浴びた。翌年に歌った「東京行進曲」は、映画主題歌第1号となった。本格的なオペラを勉強するため33歳でイタリアへ渡り、冒頭の歌詞で始まる「ゴンドラの唄」など4曲を、ミラノ座管弦楽団の伴奏でレコード化したという。
今日、「波浮の港」は藤原義江、「影を慕いて」は藤山一郎を連想しがちだが、ともに佐藤千夜子が“元祖”なのである。

437 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/21(Sun) 11:58
12月30日は作曲家中山晋平の命日です。

今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平はは国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。
晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)
には、古賀政男の序文があります。






438 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/23(Tue) 11:53
『日蓄(コロムビア)三十年史』(日本蓄音器商会、1940)
コロムビア五十年史編集委員会編『コロムビア五十年史』(日本コロムビア、1961)
「素顔の古賀政男」茂木大輔著 講談社刊181pより〜
宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978) 序文 古賀政男


439 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/23(Tue) 11:54
宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社
1939



440 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/27(Sat) 17:15
【戦前の流行歌】 (1928〜1943)

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt
1928「波浮の港」から、1943「勘太郎月夜唄」まで


441 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/04(Sat) 15:17
声楽/合唱/歌集「思い出の 昭和歌謡 /歌い出しさくいん付き」成美堂出版(株)

昭和の歌謡曲を170曲余収録する。タイトルがわからなくても、歌い出しから引ける「歌い出しさくいん」と、タイトルで探せる「50音さくいん」が付いている。全曲にメロディ譜を掲載。

「波浮の港」から戦後「乾杯」まで
h ttp://www.musenet.co.jp/search/set_detail2.asp?krno=342630&srno=342630


442 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/06(Mon) 20:18
日本音楽小史
川越守
h ttp://libro.do-bunkyodai.ac.jp/research/pdf/treatises11/009.pdf#search='%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7%E3%80%81%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3'


443 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/10(Fri) 22:10
もりちゃんの昭和歌謡ウンチク(戦前の昭和歌謡編)

h ttp://www.kayou.org/mori1.html


444 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/11(Sat) 21:20
写真Life  h ttp://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/cat11975100/

445 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/18(Sat) 12:42
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』

h ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html




446 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/29(Wed) 19:53
昭和の歌手シリーズ『ミス・コロムビア(松原操)』
2011-09-23 02:02:45

h ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11026519314.html


447 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/15(Mon) 18:29
12月30日は作曲家中山晋平の命日です。

今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平は国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。

 晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)
 には、古賀政男の序文があります。


448 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/22(Mon) 21:39
中山晋平は昭和一桁時代、「古賀メロディ」の隆盛とともに、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年(1952)の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

昭和27年12月2日、東京雨情会の会長として井之頭公園の野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から62年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

449 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/26(Fri) 21:24
中山晋平の偉大なところ、彼の目指したものそれは、みずからがクラシック音楽の分野で名をなすことではなくして、
童謡・新民謡・流行歌など誰でも歌える歌、子供でも歌える歌を作って歌ってもらう事にあり、
実際に大正時代から昭和にかけてそうしたことです。


450 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/26(Fri) 22:21
今でこそテレビは歌で溢れているが、まだ民謡くらいしかなかった時代、童謡運動の真っ盛り、大正9年ごろから野口雨情が作曲家の中山晋平らと一緒に行なっていた「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)、まだレコードの普及もラジオもなかった時代、新幹線も飛行機もなかった時代に、
歌手として参加したのが、中山晋平に師事した山形県の天童出身の佐藤千夜子。

この企画の中で生まれた雨情の新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)ビクターからレコードとして発売され
日本の商業レコードの第1号となり、佐藤千夜子は日本のレコード歌手第1号といわれました。

昭和2年から3年にかけて日本にあいついでレコード会社ができたのだが、このように大衆歌謡の下地があったのはすごいこと。


451 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 12:19
昭和元年は大正15年(1926)12月25日から一週間。翌年は昭和2年。

来る、平成27年(2015)は戦後70年、昭和90年に当たります。

レコード歌謡は昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲」にはじまります。

1月27日は野口雨情の命日です。

今から70年前の、昭和20年1月27日、戦火を避けて疎開先の宇都宮郊外でなくなります、63歳でした。

452 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 17:49
 雨情は「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩であり、民謡は民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である」との信念をもって童謡民謡普及のため全国各地に赴き、その土地の特徴を詠み込んだ民謡を詩作する旅を重ねた。それは国内のみならず当時の台湾、朝鮮、満州,蒙古にまで及んでいた。
雨情については土の詩人ともいわれるが、土の詩人かどうかは別にして、彼ほど日本全国を旅し、地に根差した詩人であることに変わりない。昭和18年(1943年)、雨情は突然軽い脳出血に冒され、それまで全国を駆け歩いていた雨情はそれ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。



453 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 18:06
東京、吉祥寺に住んでいた雨情は、昭和19年1月戦火を避けて、栃木県宇都宮郊外(現宇都宮)に疎開。
ここでなくなった。この屋敷は記念館になっていて公開されている。

戦後7年たった昭和27年、東京に「雨情会」が誕生して、中山晋平初代会長になる。

そして、昭和27年12月2日、東京雨情会の会長として井之頭公園の野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

その28日後、12月30日、晋平も65歳の生涯を閉じます。



454 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 20:49
信田の藪(しのだのやぶ)

野口雨情作詞
藤井清水作曲

h ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

「信田の藪」、佐藤千夜子版が絶品!!

455 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 21:15
野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。
詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 

雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。

広大な山林田地を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。

雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。


456 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/01(Thu) 16:15
今年、平成27年<2015>は、昭和90年にあたる。

「明治100年」は過去になり、もうすぐ「昭和100年」となる日もあと10年後。

レコード歌謡は昭和3年(1928)に始まる。

昭和最初を飾る歌声は、翌昭和2(1927)年1月、JOAKから流れた「昭和の子供」、
久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲、ボ−イソプラノの小笠原英夫歌。

昭和6年4月コロムビア発売。

457 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/01(Thu) 16:31
昭和 昭和
昭和の子供よ僕達は
姿もきりり 心もきりり
山 山 山なら富士の山
行かうよ 行かう 足なみそろへて
タラララ タララ タララララ

458 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/09(Fri) 19:43
今年、平成27年(2015)は、作曲家本居長世、没後70年でもあります。

作曲家本居長世(1885?)は、終戦直後の昭和20年10月14日、成城の自宅で亡くなりました。61歳でした。

459 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/09(Fri) 20:05
本居長世は、「童謡の祖」ともいわれるが、「童謡」だけでなく生涯に800曲近い歌曲も作っています。
本居長世は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業し、日本の音楽と西洋音楽の融合を図り、「新日本音楽」など多数の歌曲を生んでいます。
また、中山晋平、弘田竜太郎などの師でもあります。

本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だと言えますが、また同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人ではないかと思います。
 
古賀政男〈正男)は、昭和3年、学生時代作曲した「影を慕いて」を歌ってもらった人・・中山晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで作曲家になった人で、長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。
 


460 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/09(Fri) 21:25
古賀政男「我が心の唄」(展望社1965)に、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として、古賀政男、中山晋平、弘田竜太郎、本居長世、小松耕輔の写真が載っています。

461 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/11(Sun) 22:30
>>455

昭和6年、「キャンプ小唄」「月の浜辺」「丘を越えて」「窓に凭れて」「スキーの唄」など、初期の古賀メロディ-を支えた詩人、島田芳文は野口雨情門下生です。


462 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/20(Tue) 21:18
>>459
明治41年東京音楽学校本科を全学首席で卒業。同期に山田耕筰がいた。その後も邦楽調査員補助となり母校に残り、25歳で助教授になる。

長世は童謡以外にも、さまざまな活動があり、大正7年には、「如月社」を結成し、邦楽と洋楽の調和を探る。この活動を通してやがて尺八の吉田晴風や箏の宮城道雄と組んでの新日本音楽運動へと発展、民謡興隆の原動力となったといいます。邦楽を好んだ長世の関心は奥浄瑠璃、琉球歌謡、流行歌にまで及び、文字通り今日の日本の大衆音楽に大きな影響を与えてると考えられます。(「江戸祭の唄」,「哀別」「別後」など、民謡に類別される歌も作っている。)
「如月社」は現在でもあって、本居長世の作品の楽譜や、本を扱ってるようです。

これらは教え子の弘田竜太郎や中山晋平に受け継がれた。本居長世は大衆音楽に果たした役割も大きいと言わざるを得ない。



463 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/20(Tue) 21:26
こうした童謡運動と並ぶ新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)があげられる。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。

 新民謡運動に集まった野口雨情、中山晋平、本居長世、藤井清水、佐藤惣之助、北原白秋、西条八十、・・歌手の佐藤千夜子、藤本二三吉、・・・はその後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」( 野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。


464 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/28(Wed) 22:05
童謡運動の真っ盛り、大正9年ごろから長世は目黒不動の隣に居を構えていた。
ここには西條八十はじめ多くの詩人、歌手、文化人などが集まっていた。目黒不動には「本居長世の碑」が建立され「十五夜お月さん」の歌碑がある。

465 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/28(Wed) 22:16
それからかなり遅れて、慶応普通部時代の藤山一郎(増永丈夫)や、歌手の四家文子も
でいりしていた。
藤山は如月社で本居長世の作品を歌っていた。



466 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/29(Thu) 22:08
作曲家弘田竜太郎、童謡「叱られて」、「雨」「あした」、歌曲「千曲川旅情の歌」などで知られる。
その歌には日本の哀愁を込た歌が多い。弘田竜太郎は、詩の心を生かす最適な歌を作るのに長けた作曲家であった。
こうした歌を作らせたら天下一品である。
弘田は昭和3年ドイツ留学の後、昭和4年7月、師本居長世の後、母校東京音楽学校の教授になるが、1月で教授を辞して作曲家に専念。
西洋音楽と日本音楽との融合に力を尽くした。中山晋平に次ぎ千数百曲の作品がある。
昭和に入ってからも、国民歌謡や映画主題歌その他レコード歌謡作品がある。
また弘田は慶応普通部で、まだ慶応普通部時代の藤山一郎にピアノを教えた。
弘田と本居はまだ若き藤山一郎(増永丈夫)の師でもある。


467 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/29(Thu) 22:46
弘田龍太郎のレコード作品に、国民歌謡「野薔薇の歌」(佐藤惣之助作詞、関種子歌)や
大正三美人、九条武子を歌った東亜映画「無憂華」の主題歌「無憂華の唄」(河原喜久恵歌1930)
「今年の燕」(安藤一郎作詞、霧島昇、松原操歌)、国民歌謡「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田竜太郎編曲、楠木繁夫、松原操歌、1944.11)の
編曲などある。

468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/29(Thu) 23:11
「野薔薇の歌」(佐藤惣之助作詞、関種子歌)
「無憂華の唄」(河原喜久恵歌1930)東亜キネマ「無憂華」主題歌
「今年の燕」 (安藤一郎作詞、霧島昇、松原操歌)
「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田竜太郎編曲、楠木繁夫、松原操歌、1944.11)
「お国のために」」(サトウハチロー作詞、加賀美一郎歌)

469 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/30(Fri) 08:14
弘田龍太郎は昭和3年ドイツ留学の後、昭和4年7月、師・本居長世の後、母校東京音楽学校の助教授になるも、1月で助教授を辞して作曲家に専念。
新日本音楽など、西洋音楽と日本音楽との融合に力を注いだ。


470 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/30(Fri) 22:24
明治政府は、西洋音楽導入のため「音楽取調掛」を作った。その後の東京音楽学校である。東京音楽学校は戦後の学制改革で東京美術学校と一緒になって新制東京芸術大学となる。
本居長世は東京音楽学校を全科首席で卒業、助教授になるのだが、文部省邦楽調査員に任命され
邦楽の調査と、邦楽と洋楽の調和融合の研究をした。

当時洋楽崇拝の強い中で、本居宣長の末裔による、こうした音楽運動は邦楽に目も向けられることになった。
この運動は、本居の教え子の弘田竜太郎にも引き継がれた。そして、その後の新民謡運動やレコード歌謡など大衆音楽の普及となった。


471 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:10
明治以来、日本が西洋の文明に追いつくことを目標にして西洋一辺倒だった19世紀末においてさえ、たとえば日本の江戸時代の浮世絵が、ゴッホなどに代表される19世紀末の印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれている。当時二束三文でしかない、包み紙にしかならなかった「浮世絵」をみた、ヨーロッパの画家たちは、そこに衝撃を受けたという。
しかし、音楽の分野では、日本の音楽と西洋音楽との調和は、大きな課題ではあったが、絵画と同じで、依然、フランス印象派とか、ドイツロマン派とかいって崇め、「日本語」の語法・アクセントさえも、西洋音楽を至上のお手本とするものだった。したがって、多くの作品の中には、芸術と崇められたものがある反面、日本の感性とはかけ離れたものとなって、ぜんぜん顧みられることのないものも少なくない。
宮城道雄、本居長世、弘田龍太郎らで進められてきた「新日本音楽運動」は、日本語を使う日本人の手で、本居宣長に代表される日本の伝統美学に根ざす伝統音楽と、西洋音楽との融合・・西洋音楽の中に、伝統音楽の美学を取り入れる・・をめざすものであったということができよう。


472 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:30
弘田龍太郎は、明治25年(1892)高知県安芸市生まれだが、幼時に千葉県、三重県津へと引っ越した。三重ということでは、本居宣長ゆかりの地でもある。本居門下の俊才である弘田龍太郎は、本居長世とほぼ同じ経歴をたどった。
大正5年に発刊されていた「少女号」は少年少女雑誌の型を創り、後に続いた多くの子供雑誌に先鞭をつけたものとして評価される。 テレビやラジオのない時代、「少女号」で全国に紹介された「叱られて」や「靴が鳴る」「あした」「雀の学校」などが、やがて演奏会でも演奏され、レコードとなって子供達に愛唱された。清水かつらは中西屋書店という小さな本屋に就職し編集などをする。童謡運動の初めとされる大正7年の「赤い鳥」の2年前で、「赤い鳥」は「少女号」をまねたものという。
そしてすごいことには、そこで「少女号」という少女雑誌を作る。
、かつらの目指したものは、「赤い鳥」のような芸術性の高い高尚な童謡ではなく、子供達の喜びや悲しみを素直に歌った、自然に子供達の心にとけこんだ童謡であったという。


473 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:44
弘田龍太郎は、小松耕輔、梁田貞らと、日本の声楽曲(日本人独自の感性による)における作曲のパイオニアとして活動することで知られている「作曲研究会」のメンバーでもあり、「新日本音楽」活動をしていたが、弘田龍太郎には、「千曲川旅情の歌」(島崎藤村・詩)などの優れた日本歌曲がある。この歌はテナー・奥田良三が好んで歌うすばらしい日本の詩情(日本人独自の感性)にあふれた歌。
同じく弘田龍太郎の「武蔵野」とともに、「千曲川旅情の歌」は弘田の薫陶を受けた藤山一郎(増永丈夫)の持ち歌でもある。

474 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/01(Sun) 22:52
「野薔薇の歌」
佐藤惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子歌


ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア

昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となった。

「国民歌謡」の前身、昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目。



475 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/11(Wed) 18:11
弘田龍太郎は大正10年軽井沢に山荘を建てて、ここでたくさんの曲を作っている。
島崎藤村は、弘田龍太郎を山荘に訪ねて、「千曲川旅情の歌」の作曲を依頼し、大正14年8月に完成した。
JR中軽井沢駅から浅間山、鬼押し出しに向かう国道146号線の途中の千ヶ滝別荘街、星野(塩壺)温泉入口、弘田龍太郎の山荘があったところに、
弘田龍太郎「千曲川旅情の歌」の曲碑が昭和34年に建立された。
近くの野鳥の森には、北原白秋の「落葉松」の詩碑もある。
バス停「野鳥の森」。

476 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/11(Wed) 22:08
作曲家弘田龍太郎の多岐にわたる音楽活動、そのなかにはNHKラジオの子供音楽番組における活動や
晩年の幼時教育活動があげられる。

弘田龍太郎は作曲のかたわら、NHKラジオの「子供の時間」「幼児の時間」の指導や、児童合唱団の指導、指揮にその中心的役割を果たしている。
戦前昭和10年代から、戦後早々まで、音羽ゆりかご会、東京放送児童合唱団(NHK専属 海沼實「音羽ゆりかご会」のNHKラジオ放送における別称)、白菊児童合唱団、みすず児童合唱団、さくら子供会、ミチル児童合唱団、東京子供唱歌隊,すみれ会音楽園など多くの
児童合唱団が出演したNHKラジオ子供番組で指揮や指導を行った。(JOAK子供番組出演表)
また弘田龍太郎は晩年、長女夫妻の起こした幼稚園(ゆかり文化幼稚園)で園長を務め、小松公輔らを招くなど幼時教育に尽くした。

掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)