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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




497 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 08:21
訂正 古賀政男記念音楽大賞

498 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 09:57
戦後の「演歌」の始祖は、古賀政男のライバルだった人、江口夜詩で、その歌手は春日八郎だったんですね。

499 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/28(Tue) 07:30
歌謡史上のお宝発見!
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(雲のふるさと、月のしづく)ついに世に。 李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集。 大半を最新の技術で音質改良しました。
販売価格: ¥3,240
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CD2枚組 E6378 COCP-39074
2015年04月29日発売


500 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/07(Thu) 19:16
>>496
参考までに、いわゆる戦後演歌は春日八郎、江口夜詩に遡るといわれる。春日八郎は藤山一郎のステージを浅草で見て歌手に憧れる。
エンジニアを志し13歳で上京し、苦学の末に早稲田大学高等学院理科に入学するが、時が過ぎても憧れが薄れるどころか増すばかり、やがて東洋音楽学校へ進む。
音楽学校を卒業し、ムーランルージュ新宿座に入団、歌手を目指し活動を開始する。
キングレコードのコンクールに合格し準専属歌手となっても無給、先輩歌手の前座を務めるも、進駐軍の払い下げ品を闇市で売って生活をするほど赤貧の状態が続く。
その後、作曲家/江口夜詩の家に毎日のように通い、掃除から肩揉みまで行ないながら最後のチャンスと考え、曲を作ってもらえるよう願いながら、歌の研鑚に努めた。
そして、運命の「赤いランプの終列車」を作曲してもらう。
引き続き「お富さん」(渡久地政信作曲)の爆発的な大ヒット、「別れの一本杉」とヒットしを続け、当時の「流行歌」に取って代わり「演歌」の分野を拓いた人物といわれる。「故郷歌謡」という新天地を築いた点には、異論はあるまい。
その後、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、島倉千代子らが演歌に登場し、美空ひばりがデビューする。
そして、北島三郎、都はるみらが出て演歌の全盛期を迎えるが、春日八郎は演歌歌手の第一人者であり続け、生涯、歌唱力が衰えることはなかった。
生涯に吹き込んだ楽曲はいいかげんあものではなくて、通算1千6百曲を超え、レコード総売上は7千万枚を超した。戦後演歌の魁と言われる所以である。

501 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 14:38
昭和16年、福島から上京した春日八郎は初めて訪れた浅草で藤山一郎のステージに魅了される。強い憧れを抱いた春日は、音楽学校に進む。24歳になった春日はキングレコードの新人歌手オーディションに合格し、専属となる。しかし、なかなかレコードが出ない。なぜなら、キングレコードには当時人気歌手の岡晴夫がいたので、春日は注目されなかったからである。
その頃将来妻となる恵子さんと出会い同棲をはじめる。間もなく恵子は妊娠し、子供のためにも歌手を諦め普通の仕事をしようと考えるが、恵子は夫の才能を信じ、自分の師匠でもある作曲家・江口夜詩に春日の曲を書いてもえるように頭を下げ続けた。

4年後、江口夜詩作曲の「赤いランプの終列車」が発売される。この曲がみごとヒット。それからわずか2年後、「お富さん」という名曲と出会う。「お富さん」は日本歌謡界初のミリオンセラーとなる。一躍大スターになった春日だが、自分の本当に歌いたい曲にはまだ出会ってなかった。
そんな時春日は、キングレコードの廊下で、まだ駆け出しの作曲家だった、のちに「王将」などたくさんの歌で知られることになる船村徹に自分の作った歌を歌ってほしいと懇願され、1曲の歌を提供される。それが「別れの一本杉」である。これこそが春日の求めていた歌であり、望郷演歌の原点となった曲である。
三橋美智也、村田英雄と共に「演歌」というジャンルを確立したいく。そのため春日は演歌歌手第1号と呼ばれた。その後30年以上「演歌」を唄い続けた春日は1989年に紫綬褒章を受章する。


502 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 14:47
江口夜詩は、明治36年に上石津町時地区(当時の時村)の農家の次男として生まれた。(中略)大正8年、16歳で海軍軍楽隊に志願し、横須賀海兵団に入団した。ここで第1期軍楽補習生として1年間学び、首席で卒業、軍楽隊のトロンボーン奏者としてスタートした。(中略)太平洋戦争中のヒット曲には「月月火水木金金」「轟沈」「海底万里」等がある。戦後は、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」「東京の空青い空」、小畑実の「長崎のザボン売り」、津村謙の「緑の牧場」「天草のバテレン祭り」「赤いマフラー」、近江俊郎の「湯の町月夜」、春日八郎のデビュー曲「赤いランプの終列車」等、軽快でリズミックな歌の作曲で、一世を風靡した。また、昭和29年には、岐阜県養老町の依頼で春日八郎の「瓢箪ブギ」を作曲した。〉
(江口夜詩記念館 展示パネルより)


江口夜詩は生涯で4000曲も作曲したといいます。古賀政男唯一のライバルと言われ、その他戦前のヒット曲に、亡妻に捧げた「忘れられぬ花」、「急げ幌馬車」、
「十九の春」(沖縄で有名な方とは違いますよ)などがあります。

503 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 20:13
(参考)戦後演歌の系譜 【春日八郎と江口夜詩】

赤いランプの終列車 大倉芳郎作詞 江口夜詩作曲     白い夜霧の灯りに濡れて
雨降る街角     東条寿三郎作詞 吉田矢健治作曲       
お富さん      山崎正作詞 渡久地政信作曲     粋な黒塀見越しの松にあだな姿の洗い髪死んだ筈
瓢箪ブギ      高橋掬太郎作詞 江口夜詩作曲    飲めや歌えや世の中は酒だ酒だよ瓢箪ブギどうせ
山の吊橋      横井  弘作詞 吉田矢健治作曲   山の吊橋ァどなたが通るせがれなくした鉄砲撃が
別れの一本杉    高野公男作詞 船村  徹作曲    泣けた泣けたこらえ切れずに泣けたっけあの娘と


504 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 14:47
戦前に双璧を築いた二人の作曲家、古賀政男と江口夜詩のメロディを歌った歌手に松平晃がいる。古賀のテイチク移籍後のコロムビアの顔は、江口―松平コンビであった。一方、古賀メロディーの浸透によって、中山晋平、西條八十のかけることとなった名門ビクタ―の顔は、戦後に到るまで佐伯孝夫・佐々木俊一コンビになっていく。
松平は、藤山一郎がコロムビアに穴を開けていた、ビクター、テイチク時代の昭和8年から約6年間、ヒットを連発したが、昭和14年4月、藤山がコロムビアに戻ってからは低調で、後にコロムビアを離れテイチクに移籍している。
1936?年(昭和11?年)にかけて、東海林太郎・上原敏のポリドールの道中物、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う古賀メロディーのテイチク、江口夜詩―松平晃のコロムビア、佐々木俊一が台頭するビクターと激しいヒット競争が展開した。昭和13年霧島昇・ミス・コロムビアが歌う「旅の夜風」が大ヒットし、コロムビアは映画主題歌で全盛期を迎える。1940年(昭和15年)からは古賀メロディーの第三期黄金時代を迎え、松平晃の人気も翳りが見えてきた。
昭和13年から14年にかけての映画「愛染かつら」三部作のコロムビアにおける「万城目正」の活躍などで翳りを見せていた江口夜詩は、昭和14年の古賀政男のコロムビア復帰、西條八十―古賀政男黄金コンビの復活、藤山一郎とのコンビ復活による「古賀政男第三期黄金時代」の復活によって、江口―松平コンビも見る影もなくなった。この時代、江口夜詩は海軍軍楽隊の経験もあり「月月火水木金金」「轟沈」など主に軍歌を作ることになる。
そして、江口夜詩は昭和24年にキングに移籍することになる。江口夜詩と古賀政男の唯一ライバル関係は実は初期コロムビアの一時期だけだったのだ。このことが古賀政男の第二期黄金時代、いわゆる「テイチク黄金時代」への架け橋となったのだ。外人重役の推し進めた二人を競わせるという政策で、そのため離婚問題と重なり古賀は体調を崩し入院することとなった。
そこに目を付けた出来たばかりの「帝国蓄音機」(本社奈良)の南口社長から強い招聘を受けることとなった。重役待遇で全権を任せるというものだった。ここに世にいう「テイチク黄金時代」が始まる。そして、コロムビア復帰の頃はもう外人重役時代は終わっていた。テイチクを辞めて
外務省音楽親善使節として、アメリカ、南米を回り凱旋帰国した古賀政男は昭和14年コロンビアに復帰、その最初が西條八十作詞、霧島昇『誰か故郷を想わざる』だった。







505 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 15:37
古賀政男のもっとも脂の乗り切った時期、それは昭和12年ごろ、テイチク黄金時代、
「人生の並木道」「青い背広で」(いずれも佐藤惣之助作詞)のころとされる。

古賀作品には映画主題歌がとりわけ多い。

古賀はとくに映画会社とタイアップして映画音楽、主題歌に力を入れ、たくさんの今に残る映画主題歌がたくさんある。

昭和12年当時の各社の映画主題歌のなかでもテイチクの多さがひときわ際立つ。
テイチク  90曲
コロムビア 49曲
ビクター  41曲

テイチクの90曲のうち古賀政男作曲が43曲

506 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 16:04
昭和9年〈1934)5月15日、専務取締役兼文芸部長兼・・兼作曲家として、古賀政男は
東京銀座にテイチク東京文芸部(通称古賀文芸部)を発足され、ここに
テイイクが発足。

ここに「七人の侍」と言われる旧来の「明大マンドリクラブ」の仲間を呼び寄せた。
彼らは時に秘書であり、懐刀であ、パッカードやリンカーンの運転手である。

また「明大マンドリクラブ」も名前を変えて参加している。

テイチクにはテイチクオーケストラのほかにも、古賀政男サロンオーケストラ、古賀政男オーケストラなどが
そうである。

古賀政男サロンオーケストラ
男の純情
愛の小窓
緑の月
真実一路の唄
白衣(びゃくえ)の佳人

明大マンドリンクラブ
青い背広で
荒城の月
宵待草


テイチクオーケストラ

古賀政男オーケストラ
女の階級
回想譜
青春の謝肉祭
南国の乙女
ああそれなのに
人生の並木路
黒いパイプ
人生劇場




507 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 16:39
いつの間にか人が言うようになる
  古賀政男邸の玄関で 毎朝、お金の音がする。

これは昭和の大作曲家、古賀政男氏の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてくる、という業界人が作った話が一人歩きして、そう伝えられた伝説。
これは想像に難くない。

いつの時代も、古賀氏のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、
代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRACのビル。

当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。(ちなみに「目白御殿」が2750坪)

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」に残っている。

508 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/18(Mon) 20:01
江口夜詩の戦後は、昭和24年にコロムビアからキングに移籍。
「憧れのハワイ航路」「赤いランプの終列車」「長崎のザボン売り」「ひょうたんブギ」など数多い。また門下には若者たちがよく集まり、小畑実、岡晴夫、春日八郎らが巣立った。「春日八郎」は戦後の「演歌」の魁であり、江口夜詩とともに、当時の「流行歌」に取って代わり「演歌」の分野を拓いた人物といわれる。

一方、戦後の古賀政男は、「麗人の歌」「旅役者の唄」「三百六十五夜」「赤い靴のタンゴ」・・美しい日本語と、詩に心がある心に残るやさしい歌、西條八十との黄金コンビから多くの殊玉の名曲が生まれ、第四期黄金時代を迎えた。
昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもせぬ歌謡界の「大御所」であるというだけでなく「日本の名士」であった。昭和33年には「日本作曲家協会」を作り、自ら初代会長となり作曲家の地位の向上、「レコード大賞」など後進の発展に尽くしたことで知られる。




509 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/19(Tue) 21:38
代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。

古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。

戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。

これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。

ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。

また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。

また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。

西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のこの一体のビルにテナントとしてそびえたつ威容はそれをものがったっている。


510 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/21(Thu) 20:22
>>159-161
古賀政男さんがつくった軍歌・軍国歌謡 その五「勝利の日まで」。−ブログ高知
コメント
「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。(コメント

h ttp://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/04/post_6c1b.html


511 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 19:09
いわゆる「流行歌」といったレコードに対し、ラジオ(NHK)では「歌謡曲」といった。
歌謡曲と言った場合はクラッシックを意味した。

流行歌または歌謡曲の黄金時代はSP時代と重なる。
日本で最後のSPレコードは昭和37年(1962)であった。

その後日本が豊かになるとともに大きく変質していくことにある。

NHK「あなたのメロディ」(1963)では、素人作曲が始まる。
また昭和40年代にはいるとテレビのナツメロブームが起こる。

懐かしの歌を振り返るのはよかったのだが、何でも作曲家の後ろに「メロディ」の名をつけてしまったのはまちがい。

SP時代に、実際に広く使われ愛されたのは戦後まで『古賀メロディ』ただひとつだけだった。

『古賀・メロディ』とは、昭和初期に主流だった「晋平節」に対するもので、「晋平・節」に変わりメロディで主流となった古賀作品に対する敬愛を込めた称号のようなもの。

512 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 22:55
☆インテリ層と古賀メロディー

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発。」

そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう。

「酒は涙か溜息か」(1931.9)に続く、藤山一郎の「丘を越えて」(1931.12),「影を慕いて」〈1932.3)、

 人は敬意を表して「古賀メロディ」と呼んだ。


(参 考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。

513 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 23:07
酒は涙か溜息か

作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
昭和6年9月

1 酒は涙か溜息か
  心のうさの捨てどころ

2 遠いえにしのかの人に
  夜毎の夢の切なさよ

3 酒は涙か溜息か
  かなしい恋の捨てどころ

4 忘れた筈のかの人に
  のこる心をなんとしょう

この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた。

また、これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。


同時に「歌う昭和史」の昭和史たる、歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。


514 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 23:24
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。

古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。



515 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/26(Tue) 21:05
昭和6,7年に、主流だった「晋平節」の時代から、
「メロディー」の重要性を主張し実践した古賀政男。

今や『古賀メロディー』に似せた作曲家の後ろに「メロディ」をつけた、意味の違う軽い表現で、たくさん使われているのは残念なことである。

しかしそれは戦後、ものが有り余る飽食の時代の真っ盛り、昭和40年代以降のナツメロブームの産物で、戦後に到るまでそういうものが実在したわけではない。

516 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 06:32
ネット上などには、もっともらしく作曲家の後ろに「メロディ」をつけた物があふれているが、たとえば「服部メロディ」・・とかの類、
誤解を招く。

517 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 07:02
戦後20年代までのSP時代に、実際には使われていないVirtualなものの代表的なものとして

「服部メロディ」などのほかにも、「古関メロディ、」、「江口メロディ」、「吉田メロディ」・・などがあげられるだろう。

518 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 20:03
昭和は明治、大正を合わせたより長く、60年を超えている。
戦前、戦後を通じて、たえまなく、切れ目なく、メジャーなヒット曲をこれほど多く持つのは、「古賀メロディー」をおいてない。

519 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/02(Tue) 07:06
主に戦前の一時期の江口夜詩、逆に主に戦後の一時期の古関祐而、主にリズム系、J−POP系とされる服部良一。
それぞれいろいろだが、戦前戦後を通じて誰もが知っているようなメジャーな「ヒット曲」となると非常に少なく、10曲程度。

520 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/10(Wed) 18:31
日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』>>152である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
 「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)、これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。



521 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/11(Thu) 12:29
古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)・「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

522 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/14(Sun) 20:08
古賀政男のこのテイチク時代は飛ぶ鳥を落とす勢いで年齢的にも、もっとも脂ののった時期と言われる。

昭和12年には、代々木上原駅前の松林三千坪を手に入れ、清水組(清水建設)に頼んで邸宅を建てる。
この邸宅が完成したのが昭和13年4月のことだった。

この後古賀政男はまことに忙しい。

昭和13年6月「人生劇場」を最後にテイチクをやめ、昭和13年11月8日にはコロムビアに移籍復帰するのだが、その前に「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカや南米に立つ。

11月14日には、藤原義江らの見送りを受けて横浜港からハワイ経由で龍田丸でアメリカに向けて出港。

同じく13年11月には、上記「古賀政男藝術大観」がでる。

1年後の昭和14年10月10日帰国。三浦環の歓迎会を受ける。

523 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:47

戦前の流行歌〈1928?〉

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:49

戦前の流行歌〈1928−1943)

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/25(Thu) 07:59
「昭和」という激動の時代、レコード歌謡は生まれ激動の時代を生きてきた。

レコード歌謡の黎明期から、戦前・戦後までたくさんの「作曲家」が生まれた。そして多くの曲が世に出た。>>524

でも、この激動の時代を通して一貫してヒット曲を生み出し得たのは、古賀政男の「古賀メロディー」しかない。

昭和の初めから「古賀メロディー」と呼ばれ愛された理由もここにある。



「古賀メロディー」とは昭和の歴史とともにあった「時代性」の重みと「普遍性」を持つ。

526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/28(Sun) 23:30
>>256-258 索 引 (主なもの)

>>269-270 昭和SP歌謡 主要歌手(戦前・戦中)


527 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/29(Mon) 17:04
>>434 ☆古賀政男に関する文献☆


528 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/08/20(Thu) 09:47
古賀政男総合スレ  2Ch BBS(懐メロ邦楽)

 h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

529 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/06(Tue) 08:34

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=35

530 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/30(Fri) 21:43

・新東宝映画 1949「影を慕いて」(古賀政男作曲生活20周年記念制作映画)
 主題歌 希望に燃えて(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)


★「希望に燃えて」(伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・高倉敏・二葉あき子・奈良光枝)ー新東宝が古賀政男作曲生活二十年を記念して上原謙・山根寿子主演、野村浩
 将監督で制作した「影を慕ひて」のラストシーンを飾る主題歌となったが、もともとこれは映画のためではなく、NHKの視聴者リクエストによる「希望音楽会」のテーマーソングとして制作されたもの。


★ 希望音楽会(1945年、NHK)
 主題歌:「希望に燃えて」
  音源:「思い出のラジオ・テレビ主題歌集」(GES-31299)より
  敗戦後初の歌謡曲番組。

  1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の大詔」を放送、日本は事実上敗戦し、無条件降伏した。
  そんな時世の中、国民に希望を与えるため、10月3日に本番組は開始された。
  リスナーからのリクエスト曲を出演歌手が生で歌うといった内容のもので、資料によれば戦後初の
  大ヒット曲「リンゴの唄」も、この番組で初めて電波に乗ったそうである。

  番組最後に出演者全員によって歌われるのが「希望に燃えて」であり、サトウハチロー作詞、古賀政男
  作曲によるこの曲は、後半のメジャーに転調する展開と一気に希望を歌う歌詞と一体になって、当時の
  国民に大きな希望を与えたであろう名曲である。
  (但しレコード化されたのは昭和24年〈1949〉のこと。)

東日本大震災の被害に遭われた方々にぜひ聞かせてあげたい曲です。




531 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/31(Sat) 13:05
>>530

希望音楽会(昭和20年10月?)

NHKラジオ放送 戦後最初の歌番組
「リンゴの唄」もこの番組から世に出た。

主題歌 希望に燃えて(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
  
   ♪ あなたも私も いつも心は春よ・・

532 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 18:42
【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
.

Himatsubushi Channel

2015/01/10 に公開 You Tube


美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活­躍された作曲家の古賀政男(こがまさお)さんや、作詞家の佐藤惣之助(さとうそうのす­け)さん、歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られ­ています。古賀政男さんの曲は歌い手が困っていたという裏話が面白かったです。

※曲は省略していますm(__)m

美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より


533 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 21:33
【美輪明宏】作曲家・古賀政男について
Thepleiadian2012

2014/06/01 に公開 You Tube
(上の表題で検索のこと)


美輪明宏さんが昭和の国民的な作曲家・古賀政男さんについて語っています。
(TBSラジオ『岡村仁美 プレシャスサンデー』 薔薇色の日曜日2014,6.1より。)



534 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/19(Tue) 10:56
古賀政男総合スレ  2Ch BBS(懐メロ邦楽)


h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

535 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/19(Tue) 22:47
作曲家・古賀政男 You Tube

・・これで検索(コピーして)してください。




536 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/23(Sat) 11:50
古賀政男との思い出〜りんどう峠(島倉千代子)
.

2015/09/25 に公開 You Tube

(この表題で検索のこと)



537 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/25(Mon) 11:28
>>536

昭和54年 古賀政男追悼3時間ドラマ >>179

 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』 (全編・後編)

      (1979年4月14日、NHK総合TV)

でのインタビューです。

538 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/27(Wed) 22:10

作曲家古賀政男〈1904−1978〉がその73歳の生涯を閉じ昭和53年〈1978〉7月25日の夜、

訃報を伝えるNHKは、すべてのラジオ放送を停止し、一斉に古賀メロデフィーを

長し続けた。



539 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/27(Wed) 22:27
なお、同年8月4日、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。

540 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:23
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


541 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:38
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50



542 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 23:54


543 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/01(Tue) 15:01
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50



544 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 20:51
歌謡曲の歴史

日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲を指していた。藤山一郎、淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。歌謡曲の基礎とされる古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲であった。


〜NHKラジオ放送『国民歌謡』〜


 「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である『国民歌謡』は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった。


 読売新聞昭和8年7月7日記事には「『歌謡曲』というから、シューベルトやブラームスのリード(リート、歌曲)を放送するのかと早合点すると、そうではない。渋谷の姐さんが歌う流行歌であり、AK(現在のNHK東京)の当事者に理由を聞くと、何故か放送ではなるべく流行歌なる語を使いたくないそうだ」と書かれており、当時、「歌謡曲」がクラシック音楽の歌曲を意味していたこと、そしてNHK側も「流行歌」という言葉を使用しなかった事情の一端が伺える。

 

 その後、日本が戦争に邁進し軍国主義が台頭するようになると、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれた。これらの戦中時代の歴史については一部では現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。




545 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 21:42
>>544

殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。

歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

参考までに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。





546 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/07(Mon) 22:36
歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。

歌はテクニックでなく、本当の作曲家は「詩人」でなければならない。

「文のかをり」「影を慕いて」・・【詩はお姉さん、曲は弟】と言って古賀は「詩」を大切にした人。

古賀自身「生来の詩人」であった。

佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー・・、詩を大切にし多くの詩人とまみえた半世紀にわたる古賀の作曲生活。

「古賀メロディー」の魅力、それは曲はもちろん、その優れた第一級の詩人。その今に生きる優れた「青春」を、「青春の苦悩」を謳った第一級の詩、その簡潔な詩の中に「優しさと憂い」・・、

時代を超えた真実が端端に秘められている。他の作曲家には真似のできないことであろう。


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