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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




679 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/27(Fri) 21:30
宵夏  佐藤惣之助

しづかさよ、空しさよ
この首里の都の宵のいろを
誰に見せよう、眺めさせよう
まつ毛に明星のともし灯をつけて
青い檳榔樹の扇をもたし
唐の若い詩人にでも歩いてもらはう
ひろい王城の中門の通りを
水々しい蛍を裾にひいて
その夏服を百合の花のやうに
この空気に点じいだし
さて、空しい空しい
読めばすぐ消えてしまふやうな
五言絶句を書いて貰はう。



 大正期の詩人として、西条八十(1892 ? 1968)と佐藤惣之助(1890 ? 1942)のふたりが、なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもある。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。例えば、村田英雄は、惣之助作詞の「人生劇場」(1938年。創唱者は楠木繁夫)、八十作詞の「王将」(1961年)を歌っている。「私は文学といひ、芸術といふものの価値をさまでに大きいものに考へてゐない詩人である。(略)私の所願は、身をもつて人生を深く、ひろく、経験し、識り味はふことにある」という八十のことばと、「わたしはきれい事に小さく完成したくない。放大な、未成品的な、異端でゐたい」という惣之助のことばを並べて、いろいろと考える。
 詩集でいえば、八十では『砂金』(1919/大正8年)に収められたいくつかの詩、惣之助では『琉球諸嶋風物詩集』(1922年/大正11年)に収められたいくつかの詩を時折読み返したくなる。惣之助の「宵夏」を取り上げたのは沖縄が好きだからでもある。読んでいると、かつて訪ねた「首里の都の宵のいろ」が思い出され、そして、「読めばすぐ消えてしまふやうな」詩が目の前を過ぎていくのである。『琉球諸嶋風物詩集』について、日夏耿之介は、「中山古謡の心酔の果が」「新境地を打開した」と評した後、「今後の精神段階如何により」「純詩の領域まで辿りつかないとは必ずしも云へぬ」と云っているのだが……。(文責・岡田)



680 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/29(Sun) 15:09
>>675
レコード草創期

関種子 (1907-1990)
東京音楽学校声楽科を卒業。ネトケ・レーヴェに師事する。1929(昭和4)年、山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の主役でデビュー。ソプラノ歌手として、「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌う。
流行歌手としても、1931(昭和6)年に吹き込んだ「日本橋から」「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」「乙女の春」「雨に咲く花」などヒットも数多い。高音域も無理がない柔らかく美しい歌唱は一流オペラ歌手ならでは。
戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍。流行歌とオペラの二つの世界で活躍した希有の存在。

681 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 21:27
■戦中戦後における「童謡」について、ーについてはここの以下を参照
 サトウハチローと童謡・ろばの会による童謡排斥運動と童謡の終焉

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

>>161-163
>>235-242
>>450-476


682 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 17:00
童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50


683 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 18:10
佐藤千夜子が、「文のかおり」「影を慕いて」など、古賀の曲を全7曲をビクターでレコードィングした。

しかし、無名な一青年演奏家にすぎなかった若き「古賀正男」の作曲作品を、天下のビクターの、それも中山晋平作品を広める歌手、佐藤千夜子がレコードィングするなどということは、ビクターにすれば考えられないことだったはずです。

佐藤千夜子のすごいところ、その功績、それは古賀政男の才能を発掘し、ビクターの反対を押し切ってでも、その作品をレコードィングでき、世に送りだしたということです。

もし、これがなかったら、今の『古賀メロディ』の隆盛も、大衆歌謡たる『歌謡曲』の歴史も違ったものとなっていたことでしょう。

ただ、佐藤千夜子は、レコードィングの7日後には、日本を発っています。
ですから、宣伝も何もされていないのです。

宣伝もないのだから、佐藤の『影を慕いて』がはやらなかったというのは、しかたないことだったはずです。

しかしそれをコロムビアがほっておくはずがありません。

今から89年前、佐藤千夜子の「影を慕いて」が発売された昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男(正男)に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
 
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、89年前の昭和6年(1931)3月20日9だった。

「影を慕いて」「日本橋から」などは、藤山一郎、関種子など東京音楽学校主席卒業のクラッシック歌手によって、再び脚光を浴びることとなった。


684 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 00:31
「古賀メロディ」の原点たる「影を慕いて」は初唱の佐藤千夜子盤と、藤山一郎盤があり、
なんか、佐藤盤の評価が高くないようだが、古賀政男の切々とした思いがよりよく表現されているという点で、
佐藤盤は評価されている。いずれも東京音楽学校出身。

なお、佐藤の「篠田の藪」(しのだのやぶ)や「さすらいの唄」しのだのやぶ「旅人の唄」は絶品。ぜひおすすめ!!。


685 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:34
流行歌の世紀―近代日本の大衆音楽(菊池清麿)
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html

流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。

686 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/06(Wed) 23:39
コロムビア初期における、コロムビアに入社するまで、してからの古関の苦難の実際の生々しい姿のなど貴重。

687 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/12(Tue) 09:20
このあたりのことがスルーされてはならない!。

688 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/12(Tue) 09:28
■「昭和の流行歌掲示板」・・

h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231

→→ ここの「日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史」の主な項目(索引)がまとめられています。

689 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 15:42
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。

古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。

「晋平“節”」の時代から、これからの主流としての「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。

690 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/16(Sat) 22:56
明治41年、東京音楽学校を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。洋楽にしても、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。大切なことは長世はこうして、日本的なるものを外国にではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄と「新日本音楽」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会に大きな影響を及ぼしたといわれます。
1920(大正9)年には,宮城と作曲家本居長世の作品発表会が,「新日本音楽大演奏会」と名付けられ,ここで発表された「十五夜お月さん」 が大きな反響を呼び、人気童謡作家として知られるようになる。

 ついでに、こうした童謡運動と並ぶ新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)があげられる。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。

 新民謡運動に集まった野口雨情、中山晋平、本居長世、藤井清水(きよみ)、佐藤惣之助、北原白秋、西条八十、・・歌手の佐藤千夜子、藤本二三吉、・・・はその後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」( 野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。

 (昭和3年[波浮の港]を歌った佐藤千夜子・・中山晋平の弟子で、晋平の歌を世に広めた歌手・・は、レコード歌手第一号と言われ、また、同年、まだ明治大学学生だった古賀政男の[影を慕いて]を始めて歌い、今までとはまったく系列の異なる作曲家古賀政男を世に出すきっかけとなった。



作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。;

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」



691 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/16(Sat) 22:59
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。;

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」

692 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/17(Sun) 21:11
日本・アラブ通信



【第4夜】

古賀政男邸にアラブ諸国の大使ら50名が集まる
●アラブ人は日本の演歌が大好き

 1983年の夏、バグダ−ドの超一流のラシ−ド・ホテルのホ−ルに、『奥飛弾慕情』 など日本の演歌が流されているのにはびっくりした。
 早速、フロントで尋ね、担当のムスッタファ氏(以前、日本でテレビの操作技術の 研修のため来日した)に会ったところ、『日本の流行歌のように静かでメロデイアス な音楽こそ、このラシ−ド・ホテルのような超一流の雰囲気にぴったりだ』という返 事であった。

 もう20年も昔のことだが、かって日本に来ていたエジプトの外交官は、江利ちえみ の『さのさ』の大フアンであった。
 クルディ現サウジアラビア駐日大使は10年程前、参事官として日本に滞在していた 頃は、畠山みどりの大ファンであったそうな。

 アラブの大使の中には、美空ひばりの好きな方によくお会いする。帰国の時にひば りのビデオとカセットを持ち帰られた大使もいたほどである。  これほどに、アラブ・中東の人々は、日本の歌謡、演歌が好きである。

●古賀政男邸にアラブ諸国の大使ら50名が集まる

 日本とアラブの音楽交流の中で、私が関与したなかで最も思い出深い出来事の一つ は、代々木上原の古賀政男先生のお宅で開かれたアラブ諸国大使夫妻、文化担当官50 名程を招待した大交歓パ−ティがある。

 このパ−ティ開催の契機となったのは、1964年の暮、私が在日エジプト大使館文化 部に勤務していたときのことであった。

 古賀先生がヨ−ロッパ旅行の帰路、憧がれていたアラブの国、カイロを訪れるの で、アラブの代表的作曲家に紹介状を大使館から書いて貰えないかという申出があっ た。古賀先生は、1965年1月、カイロでエジプト作曲界の第一人者、モハメド・アブ デル・ワッハ−ブ氏に会い、おおいに交歓の実をあげてこられたのであった。

 その後、1974年5月17日、代々木の古賀御殿で、9組のアラブ諸国の大使夫妻と文 化参事官夫妻ら約40名と、日本側からも森繁久弥、服部良一、吉田正、松山善三、高 峰秀子、ペギ−葉山、猪俣公章氏ら約50名が出席した。

 当日はあいにくの土砂降りだったが、古賀先生の家を全部開放して、庭のテントで 明治大学マンドリン・クラブの演奏や、銀座のマキシムから料理人を呼んで、模擬店 まででる豪華さであった。  私人の家に、これだけの大使が参加したことはかつてなかったであろう。古賀先生 の上気されていた顔が未だに目に浮かぶ(写真あり)。

 しかし、その後、アラブとの音楽交流を夢見ておられた古賀先生が病に倒れ 、3年ほどして逝くなられたのは痛恨の至りであった。古賀先生は、明大マンドリン・ク ラブのメンバ−を連れて、カイロに演奏旅行されるのを楽しみにしていらっしゃった のだが…。

 古賀先生がその時、『自分は、若い頃から、韓国メロデーに次いで、アラブのメロ デーが大好きだった』とよくおっしゃり、『アラブの音楽が日本人に愛される日が きっときますよ』と断言されたのは忘れ難い。古賀氏は、亡くなる前にアラブ風組曲 『夕日の砂漠』を作曲発表されている。


693 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/17(Sun) 21:30
●日本の歌手はアラブふうの歌唱法をもっている

 日本の歌謡の源流に仏教の声明(しょうみょう)があるといわれている。経文を 「ナームーアーミ ダーブーツゥー」と唱えるように、「マーボーロシーノー カー ゲヲ シターイテー」と歌うのは、“ゆり”、つまり“小節”をいかした歌謡の歌い 方に引き継がれているという。それによって、歌詞にこもる深い意味を情感を込めて 伝える事ができるのだ。  アラブの音楽が、余韻嫋嫋たるコーランの朗誦の伝統を受け継いでいるのと似てい る。

 アラブの代表的歌手、オム・カルス−ムは、幼少のころから農村でコ−ランの朗誦 と宗教歌を学び、歌ってきた。彼女の声には、永く余韻を引くコ−ランにこもるイス ラム音楽の響きがあり、その珠玉をちりばめたような美しいアラビア語によってエジ プトだけでなく、全アラブの聴衆の心を陶酔させてきたという。

 また、彼女の歌がアラブの民衆に愛されている理由の一つに、作曲家のリヤド・ズ ンバティの美しい曲に恵まれたせいもあるが、アハマッド・ラーミーらの著明な詩人 が書いた歌詞のせいでもあるという。

 日本にやってくるアラブの音楽家も、「日本ではテレビも見ましたが、日本の歌手 が、東洋的なアラブふうの歌唱法をもっているのに驚きました」と語っている。  アラブとの音楽の交流を、真剣に考えておれた古賀政男先生が亡くなられたことも 残念であるが、世界の民族音楽の紹介に精力的な活動をされた故小泉文夫教授も、ア ラブと日本の艶歌の比較を提唱されていたのをよく思い出す。

 筆者は、一昨年のバビロン音楽祭で、日本の歌謡「波浮の港」、「三日月娘」、 「影を慕いて」、「月の砂漠」、「荒城の月」など5曲程歌ったが、小生の歌をウー ドで伴奏して下さったバグダード音楽大学のサーミー教授は、「影を慕いて」は最高 傑作だと絶賛された。筆者はその時、古賀先生がアラブと日本のメロデーの共通性を 強調されていた意味に開眼した思いがした。

 私は、バグダ−ドに滞在していた頃、真夜中に宿舎のベッドの中でラジオを聴いた ものだ。バグダ−ドはじめ、カイロ、アンマン、クウェ−ト、リアドなどの放送局か らアラブの伝統音楽、民族音楽、流行歌が絶えまなく流れてくる。それらのメロディ −は、スペイン音楽の旋律、ロシアの大地から涌き起ってくる民謡をおもわせるもの など、驚ろくほどバラエティに富んでいた。

 なかには、日本の民謡にそっくりなものもあった。かつて、駐日ス−ダン大使は2 代続けて、「夜、ラジオやテレビで日本の民謡を聞いていると、メロディ−がスーダ ンの歌にあまりに似ているために、急にス−ダンに帰ったような気持ちに襲われた」 と語っていたことを思い出す。スーダンなどの音楽は、日本の伝統的音階の「ヨナ抜 き」5音階であることと深く関連するようだ。

…………………………………………………………………………………
本稿は、マイクロソフトの『MSNジャーナル』 h ttp://journal.jp.msn.com/default.asp に、
1999年4月27日付で掲載された内容とほぼ同文のもの h ttp://journal.jp.msn.com/worldreport.asp?id=990427abe&vf=1
をご参照下さい。
…………………………………………………………………………………

694 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/18(Mon) 22:55
>>691
>そして、古賀を、「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた」と評した。 「文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。 」

>>692-693

>日本の歌謡の源流に仏教の声明(しょうみょう)があるといわれている。経文を 「ナームーアーミ ダーブーツゥー」と唱えるように、「マーボーロシーノー カー ゲヲ シターイテー」と歌うのは、“ゆり”、つまり“小節”をいかした歌謡の歌い 方に引き継がれているという。それによって、歌詞にこもる深い意味を情感を込めて 伝える事ができるのだ。  アラブの音楽が、余韻嫋嫋たるコーランの朗誦の伝統を受け継いでいるのと似てい る。

大正末期から昭和初期にかけて登場したラジオやレコードによって、マス・メディア時代が訪れます。巷には、まるで大正12年の関東大震災や昭和2年の金融恐慌、さらに軍国化への息詰まるような社会情勢に反発するかのように、エロ・グロ・ナンセンス的な歌や、新民謡・ご当地ソング等による集団的狂舞が溢れかえりました。『證城寺の狸囃子』や『蛙の夜まはり』といった童謡への振り付けや、昭和3年にレコード発売された『道頓堀行進曲』の和製スウィング・バンドの演奏からは、当時の尋常ならざる空気が感じられます。民衆は本能的に現実逃避へと向かっていたのかも知れません。
 古賀政男は、そんな狂騒的な音楽が好まれた時代に登場したのです。ですから、今では「古賀メロ」の代名詞ともなっている『影を慕ひて』ですら、昭和4年6月に明大マンドリン倶楽部第14回定期演奏会で初演(ギター合奏)した際には不評で、周囲からは「今の時代はジャズ調のもっと派手な曲でないと駄目だ」との声があがったそうです。それで、ビクターでの最初のレコードが佐藤千夜子吹き込みの『文のかをり』(昭和5年2月発売)になったらしいのですが、昭和5年12月発売の佐藤千夜子の『影を慕ひて』に続き、昭和7年2月には再度、自らのギター伴奏でコロムビアから藤山一郎の『影を慕ひて』を発売して大ヒットさせました。古賀は、世の風潮に媚びず、自分のスタイルを貫くことで、時代を引き寄せたのです。
 「古賀メロ」は、こうして、確かな歌唱力を身につけた音楽学校出身の歌手・藤山一郎や関種子らによって、当時、流行歌を敬遠していた新たなファン層まで獲得しました。そして、その後は、圧倒的な声と人気を誇る美空ひばりの登場で、大衆音楽の雄としての地位を不動のものとしていったのです。
 当時は、若者たちがギター片手に「古賀メロ」を歌うことが、一種のブームのようになっていました。「古賀メロ」は、現在でもカラオケで愛唱されていますが、まさに鑑賞するもよし、自ら歌って愉しむもよしといった音楽であることがわかります。
 

695 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/18(Mon) 23:13
ブームのようになっていました。
「古賀メロ」は、現在でもカラオケで愛唱されていますが、まさに鑑賞するもよし、自ら歌って愉しむもよしといった音楽であることがわかります。


本講座では、そんな「古賀メロ」の魅力を実感して頂くために、皆様ご一緒にギター伴奏で実際に歌って頂こうと考えております。一般に、「古賀メロ」は音域も広く、表現が難しいと言われていますが、曲を分析し、それぞれの作品にふさわしいテクニックを身につければ、演奏効果も上がります。
 さて、古賀政男の創作は、初期の作品にこそ欧米のさまざまな音楽の影響が見られますが、昭和6年秋に「彦根高等商業学校偲聖寮歌」として作曲し、昭和11年3月封切りの日活映画『情熱の詩人啄木』の挿入歌として転用した『春まだ淺く』や、昭和12年7月発売の『眞實一路の唄』は、いわゆる寮歌や書生節の手法で作曲されています。中でも、歌い始めの言葉の2音節を続けて発音してから音を長く延ばしたり、飾りをつけていくという書法は、山田耕筰も大正期に看破していた伝統的な日本語作曲法です。
 また、昭和十年代から多用されるようになった「ユリ」「アタリ」「スカシ」などは、もともと仏教声明の手法で、千年にもわたり、わが国の民謡や邦楽などに影響を与えてきたものです。
 このように、古賀の感性は日本の伝統的な音楽の土壤に根差したものでした。だからこそ「古賀メロ」は、近代日本の歌の歴史の中で確固たる地位を築き得たのです。もし、「古賀メロ」が単なる西洋音楽の物真似や、借り物であったとしたら、おそらくほかの「流行り歌」同様、すぐに飽きられてしまったことでしょう。
 近代日本の歌の歴史は、まだ百年あまりに過ぎません。ですが、「古賀メロディー」は千年以上にもわたって日本人が培ってきた美意識に立脚した音楽なのです。これを日本の財産としてきちんと継承していくことこそ、日本の歌を愛する者の使命といえましょう。
                                                                        (藍川 由美)

(参考)
)   
「演歌」のススメ (文春新書) 藍川 由美(著)

第1章 伝説好きの日本人(松井須磨子「悪女伝説」
三浦環「世界のプリマ伝説」
童謡ブーム伝説 ほか)

第2章 日本の音階とリズム(東西二洋の音楽取調
本居長世と日本の音階
野口雨情の民謡と童謡 ほか)

第3章 「古賀メロ」解剖(古賀メロディーと仏教声明
古賀メロディーの音階
古賀メロディーのテンポとリズム ほか)




696 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/18(Mon) 23:16
>>694

このように、古賀の感性は日本の伝統的な音楽の土壤に根差したものでした。だからこそ「古賀メロ」は、近代日本の歌の歴史の中で確固たる地位を築き得たのです。もし、「古賀メロ」が単なる西洋音楽の物真似や、借り物であったとしたら、おそらくほかの「流行り歌」同様、すぐに飽きられてしまったことでしょう。
 近代日本の歌の歴史は、まだ百年あまりに過ぎません。ですが、「古賀メロディー」は千年以上にもわたって日本人が培ってきた美意識に立脚した音楽なのです。これを日本の財産としてきちんと継承していくことこそ、日本の歌を愛する者の使命といえましょう。
                               

697 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/18(Mon) 23:38
昭和53年−日本の歌謡曲の父・古賀政男逝去
 
 昭和五三(一九七八)年、歌謡界の父、巨星古賀政男が逝去した。享年七三歳だった。古賀政男の人生は昭和の歴史そのものである。そして波瀾に満ちていた。五度にわたる黄金時代がそれを物語っている。古賀政男は明治三七(一九〇四)年一一月一八日、福岡県三潴郡田口村に生まれた。その故郷は詩人北原白秋の詩情豊かな柳川の近くで、その原風景は《誰か故郷を想わざる》という名曲を生み出した。古賀政男は村の鎮守にかかったサーカス小屋から聞こえてくるクラリネットの音や旅芸人が奏でる月琴の音などによって早くから音楽体験を育んだ。
 古賀政男は七歳のとき父を失い、思い出深き田口村を後にし朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の悲しみが《人生の並木路》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男/一九三七・一)となった。故郷を捨て渡った朝鮮半島の生活は古賀政男にとっては苦闘の時代であった。だが、善隣商業三年のとき、マンドリンとの出会いが後年の古賀政男の人生を決定づけた。長兄の命令で四兄の大阪の支店に勤務させられたが、音楽への情熱が止み難く上京を決意し出奔した。
 大正一二(一九二三)年の春、古賀政男は明治大学に入学しマンドリン倶楽部の創設に参画した。マンドリン・ギター、いわゆるプレクトラム音楽を独学で勉強した。明大マンドリン倶楽部のリーダーとなり当時の人気歌手佐藤千夜子に見いだされた。昭和五年から六年にかけて、佐藤千夜子の歌唱にマンドリン演奏・ギター演奏を加えた自作品をビクターから発売した。昭和六(一九三一)年、コロムビア入社。古賀は最初流行歌の作曲に自信がなく、社員を希望した。だが、藤山一郎との出会いで人生は大きく好転した。藤山一郎の歌唱で《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《影を慕いて》が次々とヒットしそのメロディーは一世風靡した。これが古賀メロディー第一期黄金時代である。その後、古賀政男はテイチクへ作曲家兼重役待遇で迎えられた。 
 テイチク時代の古賀政男は、「創作芸術」と「事業経営」に手腕を発揮した。作品の創作においては《二人は若い》《緑の地平線》《東京ラプソディー》《男の純情》《ああそれなのに》《青い背広で》《人生の並木路》などつぎつぎとヒットし、テイチク時代に古賀メロディー第二期黄金時代を形成した。歌手陣には、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴らを揃え、他社を圧倒した。また、テイチクの重役として経営陣の一翼を担い会社の発展に大きな功績を果たした。殊に文芸部において制作を一切任され手腕を発揮した。その後、外務省の音楽親善使節として、ハワイ、アメリカ、南米を外遊。NBC放送で《緑の月》《ああそれなのに》《男の純情》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》が流れた。
 


698 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/18(Mon) 23:49
古賀政男は、コロムビア復帰後もつぎつぎと《誰か故郷を想わざる》《目ン無い千鳥》《新妻鏡》などのヒットを放ち、流行歌王としての地位を確立した。歌手もコロムビアに復帰した藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、二葉あき子、松原操らがいて充実し、第三期黄金時代を現出したのである。日中戦争以後、軍国歌謡が盛んになるが、古賀政男もテイチクからコロムビア時代にかけて多数の作品を生み出している。だが、戦意昂揚となるような作品が少ない。軍国主義を強力に推進する軍部からは軟弱な歌として徹底的に嫌われたようである。
 戦後の古賀政男は旺盛な創作活動を展開した。近江俊郎が熱唱した《湯の町エレジー》を始め、戦後の復興を背景に《トンコ節》《芸者ワルツ》などのヒットによって第四期黄金時代を形成したのである。昭和三〇年代、吉田正、船村徹、遠藤実、中村八大など戦後派の作曲家が歌謡界を席巻すると、古賀政男も新たなスタンスを構築しなければならなくなった。そこに美空ひばりへの接近が見られた。古賀政男は美空ひばりを得て《柔》《悲しい酒》をヒットさせるなど五度目の黄金時代を形成し歌謡界の巨匠として君臨した。  古賀政男の作品は、古賀メロディーと言われ、初期作品においてはマンドリン・ギターのクラシック作品の影響が強かった。この分野はプレクトラム音楽と言われているが、古賀政男のこの分野における造詣はかなり深いものがある。歌手には藤山一郎、関種子ら声楽家や、淡谷のり子、二葉あき子、松平晃、楠木繁夫らの音楽学校出身者が古賀メロディーを彩った。昭和恐慌、満州事変などの暗い世相を背景にしたセンチメンタルなメロディーに加え、昭和モダンを高らかに歌う作品などその音楽は豊饒なものであった。そして、テイチク時代の後半から日本情緒を基調にした邦楽的技巧表現に重点を置き、戦後の円熟期にかけては演歌の源流となるような作品を生み出した。
 古賀政男は日本人の哀しみによって流す涙や怨恨の根源を仏教に求めていた。つまり、演歌・艶歌の心情を声明にその源流を遡及したのである。仏教の典令音楽である声明から、平曲や謡曲、浄瑠璃、説教節、浪花節への流れと、和讚(国産声明)や御詠歌、子守唄、民謡、江戸小唄へという二つの系脈となり日本人の内面世界に浸透していった。その音楽は旋律型をつなぐことによって構成された。古賀は最後の黄金時代を迎えた後、敢えて自らの音楽遺産を矮小化することを覚悟して演歌の源流というスタンスを明確にし演歌系歌手である美空ひばり、島倉千代子、村田英雄、北島三郎、森進一、五木ひろし、都はるみらにそれぞれの個性をもって自由自在に古賀メロディーを崩させながらを歌わせたのである。多くの日本人を感動させた音楽人生だった。 



699 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 20:05


作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇

1 花摘む野辺に日は落ちて
  みんなで肩を組みながら
  唄をうたった帰りみち
  幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
  ああ誰(たれ)か故郷を想わざる
2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
  小川の岸でさみしさに
  泣いた涙のなつかしさ
  幼馴染のあの山この川
  ああ誰か故郷を想わざる
3 都に雨の降る夜は
  涙に胸もしめりがち
  遠く呼ぶのは誰の声
  幼馴染のあの夢この夢
  ああ誰か故郷を想わざる

誰か故郷を想わざる(西條八十 作詞 古賀政男 作曲 昭和十五年)

本当に、心の奥深くに染み入る、魂の歌ではないでしょうか。日本人の心の歌だと思います。

「一人の姉が嫁ぐ夜に 小川の岸で淋しさに」・・・深い姉弟愛を感じさせるフレーズですね。
決して軽くはない内容を織り込んだ歌でありながら、軽快なリズムが我々を惹き付けてやまない昭和の名曲です。

出だしの「花摘む野辺に 日は落ちて」の歌詞に、平易、簡潔この上ない表現で日本人の心をとらえていると思います。

「都に雨の降る夜は 涙に胸も湿りがち」に、私などはフランス文学者の西條八十を感じます。
それにもまして、古賀メロディーの前奏、間奏を含めた構成力の大きさに圧倒されます。

この歌は台湾、中国でも根強い人気があるそうです。田舎、村落共同体、そしてその地縁、人脈が息づいている国では受け入れられるでしょうね。日本の農村の衰退がさびしいです。
 
 昭和15年にこの曲を出す時、レコード会社の上層部には慎重論があったとか。「誰か故郷を想わざる」という反語表現は国民の知的水準では難しいのではないかという意見だ。失礼な奴らだ。同時に、軍部の上層部にも慎重論があったという。「四面楚歌」の例を出して望郷の念の高まりが戦意の低下を招くと心配したのだ。これまた日本人の情感、魂の根底を知らぬ輩だ。


霧島昇唄、作詞:西條八十、作曲:古賀政男「誰か故郷を想はざる」の歌碑が、茨城県日立市から車で約1時間の福島県いわき市大久町(霧島昇さんの生誕地)にあります。震災後の何年か前に、訪ねた事があります。

新興キネマより同名映画が製作された。 ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。
ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣きして、満場涙に暮れたというエピソードもある。

内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。



700 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 20:28
故郷を離れて生きる人にとってこの歌ほど普遍的で望郷の想いを歌った歌もないであろう。

〈花摘む野辺に日は落ちて〉と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

古賀メロディは今日本人が忘れかけている大切なことを思い起こさせてくれる。

《誰か故郷を想わざる》は古賀の少年時代の記憶に残った郷土の原始的郷愁の風景と重なるもの。

80年近く経た今でも延々と歌い続けられる、古さを感じさせない普遍性を持つ典型的な日本のスタンダードである。

「愛染かつら」三部作でスターダムに上った霧島昇が初めて歌う記念すべき古賀メロディー「誰か故郷を想わざる」。

「古賀メロディー」の原点・・それは『母(の愛)』と言われる。

苦学を強いられた明大時代幾度か年老いた母の待つ故郷に帰りたい衝動にかられた。

故郷への回帰は「忘れ難い物」への追慕である。

だが、古賀は、終生故郷田口村へもどることはなかった。故郷への想いは、古賀メロディーの原風景でもある。
 


701 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 20:39
昭和13年、古賀政男が著作権に関わるテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)を最後に退社。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、戦争の足音が忍びよる中、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われたアメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

そして、昭和14年10月10日に帰国した。



702 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 20:50
コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

三浦環の祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から日本的情緒を基本とした邦楽的技巧表現の傾向をますます強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和 15 年 に日本コロムビアから発売された唄で、日本国内よりも大陸に渡り激しい戦火の中にあった兵士たちのあいだで圧倒的に支持された。

大戦中に中国へ慰問に行った渡辺はま子が、この歌を歌ったところ、のちに元帥陸軍大将になられた畑俊六大将(支那派遣軍総指令官、後に元帥陸軍大将第二総軍司令官。終戦時.第一総軍司令官 杉山元元帥陸軍大将とともに天皇陛下に終戦を上奏した。)が「目の前で泣き出されて、わたしも涙声で歌ってしまった。」と古賀に話したということが古賀政男自伝「わが心の歌」に載っている。

自伝には支那事変が泥沼になってることを想わざるをえなかったという。

また、夜も光り輝くニューヨークなど太平洋戦争開戦直前の豊かなアメリカをつぶさに見てきた古賀にはアメリカとの戦争は無謀にしか見えなかったと自伝に書いている。

いくら国が見栄を張っていばって士気を高めようとしたころで、人の心は優しくもろいものなのだ。普遍的でそこに嘘偽りがない、だから人の心を打つ・・誰か故郷を思わざる。



作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、80年前の昭和15年、1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。


約1年間、「外務省音楽文化親善使節」として、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国した古賀政男。

昭和14年〈1939 〉8月31日、当時1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。



703 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 21:00
古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よずこ」に応用した。

古賀政男は初期の「影を慕いて」と裏表の【日本橋から】(1931)、今「お江戸日本橋」の代わりに日本橋の番組によく使われる日本初のアルゼンチンタンゴ【日本橋から】。

藤原義江の強い勧めで南米アルゼンチン訪問する古賀政男、藤原義江の見送りで東京駅を出発した写真が「自伝わが心の歌」に載っている。

アルゼンチンタンゴについては、アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。

また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。

古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。

昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに昭和8年以来のレコード会社を越えての西條八十・古賀政男コンビが復活。

最初の作品である、「あの花この花」(二葉あき子)と「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)、いずれも西條八十作詞。

「誰か故郷を想わざる」は、日本を遠く離れたアルゼンチンで構想がほぼできていたようだ。 (「誰か故郷を想わざる」のB面が「あの花この花」)

古賀政男は、「世界の古賀」となって凱旋、自信に満ちて日本的情緒を大切に邦楽傾向を強めてゆくのだが、同時に併せて外国音楽にも広く傾倒してゆく。『世界の古賀』のすごいところであるといえる。

こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。



704 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/21(Thu) 21:10
☆「幻の古賀作品」・[二世行進曲] (有松由子・板野雪人 メルカ管弦楽団)(参考)

「二世行進曲」は、戦前に渡米した古賀政男が日系市民協会からの依頼で作曲したもの。歌詞は一般公募されたが、適当なものがなく、古賀自身が書いた。曲の一部には「大洋の寵児」(1936 藤山一郎)が使われている。

メルカ・レコードは当時にLAに存在した日系のレコード会社、古賀が渡米したのは1938年。レコード発売は翌年の1939年である。
真珠湾攻撃の二年前に録音販売されたにもかかわらず、現地では広く歌われた。
「二世行進曲」は米国でのみ販売された「幻の古賀作品」。

『二世行進曲』(古賀政男作詞/作編曲 1939) 伴奏:メルカ管弦楽団、独唱:有松由子、板野雪人− [古賀メロディ誕生70周年記念 古賀政男大全集〜20世紀の遺産〜] 16CD (1998/7/18コロムビア)より

歌詞:祖国を沓か(はるか) 海濤(うみ)越えて
こゝアメリカの 大陸に
正義と愛国に奮い起つ


☆「誰か故郷を想わざる」歌碑
霧島昇の出生地、福島県いわき市大久町 いわき市海竜の里センターに「誰か故郷を想わざる」の碑がある、2002年(平成14年) 建立、 揮毫:坂本紀男(歌手、霧島昇・・松原操夫妻子息)、


・茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略があった--古賀政男に下った「日米開戦前夜の密命」」   掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228
・利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)
天  皇 /近衛文麿/東条英機/吉田茂/大原孫三郎/小林一三/松永安左エ衛門/正力松太郎
/野間清冶/菊田一夫/古賀政男



705 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 17:55
《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月

昭和14年11月18日午後1時、現在の一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC))の前進、社団法人大日本音楽著作権協会 の創立総会が内務省で開催された。
対象は邦楽と洋楽の作詞家、作曲家である。
洋楽と邦楽で、作詞家、作曲家併せて出席者は、発起人68人中48人だった。

協会設立時における主な会員出席者は洋楽では

作曲家(25人):

本居長世、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、橋本国彦、堀内敬三、山根銀二、松平頼則、 藤井清水、古賀政男、小松耕輔、佐々木すぐる、諸井三郎、杉山長谷夫、井上武士、飯田信夫、服部正、他


なお、作詞家(15人)は、
林柳波、大木惇夫、與田準一、 高野辰之、長田幹彦、久保田宵二、葛原しげる、西条八十、佐藤惣之助、時雨音羽、清水桂ほか。






706 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 09:32
主なスレ

☆影を慕いて
☆古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
☆日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
☆西條八十は
☆詩人・佐藤惣之助は
☆「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
☆古賀政男アメリカへ
☆古関祐而と古賀政男
☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
☆西岡水朗と初期古賀メロディ
《SP歌謡・回顧と展望》古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
李香蘭と古賀メロディ
☆古賀メロディと霧島昇
☆古賀政男と「荒城の月」
☆「荒城の月」について
☆三浦環と古賀政男
☆西條八十と古賀政男
☆古賀政男 二つの「思い出の記」
☆昭和戦前の作曲家
☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
☆関 種子と「古賀メロディ」
☆古賀メロディと藤山一郎
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
☆楠木繁夫の代表曲
☆古賀メロディと霧島昇
☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
☆佐藤千夜子と古賀政男
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ
☆サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
☆サトウハチローと「童謡」
☆佐藤惣之助没後70年
☆佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
☆「古賀政男音楽博物館」
☆古賀メロディの戦後
◇戦後の主な古賀メロディ・・
☆萩原朔太郎と古賀メロディ
☆西岡水朗と初期古賀メロディ
☆ 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
☆詩人・佐藤惣之助
☆古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
☆古賀政男編曲作品
☆二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
☆古賀メロディを支えた主な名歌手たち
☆ <「古賀政男」のドラマ>
☆「古賀メロディ」と、その秘密
☆古賀メロデー」とは
☆ 藤山一郎と増永丈夫
☆「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
☆古賀政男生誕100年記念CD
☆ 嘆きの夜曲 関種子.wmv
☆SPレコード歌謡とSPレコード
☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
☆古賀メロディとその時代
☆新妻鏡
☆ 松平晃 サーカスの唄
☆ ビクター専属藤山一郎への対抗
☆《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月


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