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☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:17

「昭和」も遠くなりました。昭和は明治、大正を合わせたより長く、1926年12月から1989年1月まで62年あまりあります。

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその歌謡史と歌謡史を支えた主な歌手と主な歌を。



2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:19

昭和歌謡史の魁は佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)です。波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。


3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/12(Fri) 23:21
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:06
佐藤千夜子(1897〜1968)は、山形県天童市に生まれ、わが国のレコード歌手の草分けといわれる。

佐藤千夜子は、中山晋平の弟子で、大正から昭和の初めにかけて、晋平の歌を世に広めた歌手である。

その生涯は、決してなだらかなものではないが、昭和53年NHKTV朝の連続テレビ小説[いちばん星]で紹介された。その中には、野口雨情、中山晋平、西条八十、学生時代の古賀政男〈正男〉などがでてくる。

ちょうど80年以上前、昭和3年に始まる坪井栄の小説「二十四の瞳」の世界、草深い貧しい時代と重なる。このころ、現在たくさんある様々な歌の殆どは唱歌・童謡、新民謡など以外まだなく、これからつくられていくのだった。


まさにそれは日本における初期の、黎明期・草創期の大衆音楽の歴史そのものである。NHKアーカイブでも、その一部が見れる。

13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校に入学。ここでクリスチャンでもある山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。

日本の本格的なレコードの時代は、「昭和」と共に始まったのでした。昭和元年(大正15年)は、1週間しかなかった。前年、大正14年3月にラジオ放送が始まった。

それまでは主に演歌歌手によって歌い広められてきた大衆歌がレコードによって聞くことが出来るようになり、多くの歌が作られるようになった。

明治時代からレコードは無いわけではなかったのだが、高価で普及しておらず、主に浪花節(浪曲)などに使われ、録音も外国で行っていた。それが昭和にはいって外国レコード産業が日本に上陸し勃興した。

昭和2年(1927)
5月  日本ポリドール蓄音器商会設立
      9月 日本ビクター蓄音器株式会社創立
昭和3年(1928)
日本コロンビア蓄音器株式会社設立

まだラジオもレコード普及も無かった大正時代に始まった童話・童謡運動は、その後童謡・新民謡運動となって今日の歌謡曲へと向かっていく。そして童謡や、新民謡運動に参加した西條八十、佐藤惣之助などの詩人や中山晋平など作曲家、佐藤千夜子などがレコード文化によって「歌謡曲」と言われる新しい大衆音楽分野が形作られる。

東京音楽学校でオペラを学んでいた千夜子が、レコード歌手に転身していくきっかけは、作曲家中山晋平との出会いがきっかけである。当時、中山らは大衆向けの新しい音楽運動に情熱を燃やしており、それに千夜子が共鳴、行動をともにするようになったのだ。その後、歌手としての本格的な活動を開始した千夜子は、まもなくラジオ放送にも出演するようになる。

大正10年頃から中山晋平、野口雨情らと「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に参加、ラジオやレコードのない時代に全国津々浦々で歌謡、童謡・新民謡を広めた。千夜子も東京音楽学校を中退して、この運動に参加した。
  ttp://blogs.yahoo.co.jp/gulliverbros/53130700.html

この運動から、1928年日本ビクターから歌謡レコード1号の「波浮の港」が発売され人気爆発、千夜子31歳。





5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:06
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング、古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、このあとイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。天童市に「佐藤千夜子の生家」が残されている。

ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年、イタリアにオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そしてまだ学生だった古賀政男を作曲家としてメジャーデビューさせ今日の大衆音楽の隆盛に繋げた、忘れてはならない陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、「古賀政男音楽博物館」や、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。〈当ブログ参照〉




6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:14
※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)佐藤千夜子歌唱

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。


7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:21
☆昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中) 1,

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。

佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、

藤原義江(1898−1976) 出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948)   私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995)  (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976)     祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990)  (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993)  (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961)   (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970)(武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956)  (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963)    明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ

小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原  敏(1908-1944)  妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986)  無情の夢 
林伊佐緒(1912-1995)  出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996)  ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975)  (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-)(東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984)   (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−)  迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-)    (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002)  (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959)  南から南から、固い約束
市  丸(1906−1997)   天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996)  マロニエの木陰、夕べ仄かに 
伊藤久男(1933-1983)(帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬






8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:22

志村道夫(1914-)     (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-)    (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989)    (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990)  純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999)   あなたなしでは
伏見信子(1915−)    あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940)   潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977)   青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校)    月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校)   明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982)  煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998)  大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013)  大利根月夜、シンガポールだより  
小畑 実(1923−1979)  勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970)   上海の花売り娘、港シャンソン


(参考)
東京音楽学校  (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)






9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:23

内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996)   (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985)  出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012)   (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?)    (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974)  東京音頭
小笠原美都子(1920-)  十三夜
青葉笙子(1918-2012)    鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954)   愛国千人針
服部富子(1917−1981)   満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009)    祖国の護り
塩まさる(1908-2003)    九段の母、
樋口静雄(1911−1973)  チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992)   ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004)   夕日は落ちて
市丸(1906−1997)     天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976)     船頭可愛や、下田夜曲






10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 09:36
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:45
関種子(1907〜1990)

昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90


12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:51
藤山 一郎(1911〜1993)

日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家。バリトン歌手として活躍。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した

13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:56
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90








14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:58

☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。








15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 12:59
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の?(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952




16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 21:44
戦前〜戦中に絶大なる人気を博しながら、早世してしまったがために、知名度が低い・不当評価に甘んじている歌手は案外多いモノです。
二村定一、楠木繁夫、美ち奴…。
そんな不幸な歌手のひとりが、徳山l(トクヤマ・タマキ)です。

この徳さんとはどういう方かと言いますと

徳山l(1903〜42)

神奈川県藤沢出身。
昭和三年、東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となる。
講師時代の教え子に渡辺はま子がいる。
昭和四年、日本ビクターに入社し、レコード吹き込みを本格的に開始。
昭和五年、流行歌吹き込みの風当たりが強くなってきたので、武蔵野音楽学校講師を退職。クラシック歌手と流行歌手、双方に集中。
昭和六年、映画主題歌『侍ニッポン』、『ルンペン節』が大ヒットし、一躍人気歌手の座につく。
昭和七年、四家文子と吹き込んだ『天国に結ぶ恋』が大ヒット。
昭和九年、皇族懇話会にて、小唄勝太郎、渡辺はま子、藤山一郎らと美声を披露し、「河原乞食」よばわりされていた流行歌手の地位向上に一役買う。
その後も、古川緑波とコンビを組み、映画・舞台出演する一方で、オペラ「カルメン」などに出演。クラシック(バリトン)と流行歌の世界で大活躍。
昭和14年『太平洋行進曲』『大陸行進曲』、昭和15年『空の勇士』『隣組』…と戦時歌謡でもヒットを連発。一世を風靡した。
昭和17年一月二十八日、敗血症のため死去。38歳。
満州慰問での怪我がもと、過労と戦時中の物資不足が祟った死であった。
大柄で豪放磊落そうな見た目とは裏腹、小心者で恐妻家であったと言われる。


17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 21:57
戦前・戦中にかけて絶大なる人気を誇った名歌手、徳山 l (とくやま たまき)

徳山 lは東京音楽学校声楽科(現・東京芸術大学音楽学部声楽科)を
卒業し、教職を経て歌手デビュー、声楽家としてオペラへの出演、
俳優として古川ロッパとの共演、流行歌歌手として「侍ニッポン」
「ルンペン節」「天国に結ぶ恋」などを歌い、戦前・戦中にかけて
一世を風靡した歌手でした。

昭和17年38歳の若さでこの世を去った惜しまれてならない名歌手です。


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 22:20
1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。翌年には『侍ニッポン』が大ヒットとなった。その後も『ルンペン節』や、四家文子と共演の『天国に結ぶ戀』など数多くのヒット曲に恵まれた。『隣組』、『歩くうた』など、国民歌謡からヒットした曲もある。

一方、声楽家としても活躍し、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』のエスカミーリョが当たり役であった。ベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏にも、バリトン・ソロとして何回か出演している。昭和10年代前半には古川ロッパ一座に入り、『ガラマサどん』、『東海道中膝栗毛』などの舞台に出演したり、「シネオペレッタ」と呼ばれた音楽映画にも出演するなど幅広く活躍した。

レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの「邦楽的」な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しく、コミック・ソングも得意とし『マルマル節』『歌ふ弥次喜多』(古川ロッパと共演)など多数の傑作を遺している。

ルンペン(ホームレス)・療養所・盲学校などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、「お相撲になっていたら今頃は双葉山を負かしていたかもね」などと笑わせたという話も残っている。

1935年結婚し、藤沢町鵠沼に新居を構えた。私生活面では、外見の豪放磊落さとは反対の小心な性格で、勝ち気な妻に頭が上らず、かなりいじめられたが、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという。人気絶頂のころの1942年(昭和17年)1月28日、敗血症のため死去。満38歳没。友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山の訃報を聞いて衝撃を受け、弔問であたりはばからず号泣した。墓所は常光寺(藤沢市)。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/13(Sat) 22:39

徳山 l

ルンペン節(柳水把作詞、松平信博作曲)
侍ニッポン(西條八十作詞、松平信博作曲)
夜の酒場に(西條八十作詞、松平信博作曲)
天国に結ぶ恋
赤い灯、青い灯(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)
天から煙草が(北原白秋作詞、飯田信夫作曲)
さくら音頭(佐伯孝夫作詞、中山晋平作曲)
歩くうた(高村光太郎作詞、飯田信夫作曲)
隣組
歌う弥次喜多
サリーマンよ
ガラマサどん
空の勇士

戦友
満州行進曲
日の丸行進曲
大陸行進曲
愛国行進曲
愛馬進軍歌
大陸行進曲




20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 20:34
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 20:49
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。


22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 22:00
四家文子((よつやふみこ 1906−1981)

東京府出身。東京音楽学校を首席で卒業後、「不壊の白珠(ふえのしらたま)」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。
それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名で吹き込みも行っていた。
しかし、佐藤が周囲の反対を押し切って渡欧してしまうと、佐藤の吹き込みが予定されていた曲が四家に回ってくることになった。「銀座の柳」は、1932年(昭和7年)にレコードが発売されて、大ヒットとなった。この曲は関東大震災で焼失した銀座の柳が、佐藤の歌った「東京行進曲」で復活したのを記念する歌だった。歌詞に「昭和」と出てくることから、当時はまだ「昭和」の元号が新鮮だったことが伺える。その後も次々とヒット曲を連発した。
徳山 l とともに、「天国に結ぶ恋」や「日の丸行進曲 」「太平洋行進曲」「愛国行進曲」「愛馬進軍歌」などの軍歌軍国歌謡を吹き込んでいる。
太平洋戦争勃発後は軍歌、戦時歌謡を多く歌ったほか、1943年(昭和18年)には日本人最初のベートーヴェン「第九」の録音(第4楽章のみ。尾崎喜八訳。橋本國彦指揮・東京交響楽団)にも参加している。
一方では後進の指導にも熱心であり、弟子には五十嵐喜芳、東敦子などがいた。
1981年7月16日に胃癌のため死去。75歳。 


23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/14(Sun) 23:16
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
他に童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング




24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:39
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 16:46
>>13
関 種子

「南海小唄」 (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 26661B 昭和7年1月 コロムビア 黒盤
「曙に唄う」 (太田哲城作詞、 古賀政男作曲) 27121A 昭和7年11月 コロムビア 黒盤
「処女よさらば」 (西条八十作詞 古賀政男作曲)27507B 昭和8年9月 コロムビア 黒盤 松竹『嫁入り前』
[嵐の島] (西条八十作詞 古賀政男作曲)1933.2




26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 16:55
☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫

昭和6年(1931)3月にコロンビア専属作曲家となった古賀政男は、その後専属レコード会社を

@ コロムビア(昭和6 〜9年) 第一期黄金時代
A テイチク (昭和9〜13年)  第二期黄金時代(テイチク黄金時代)
B コロムビア(昭和13年〜戦後) 第三期黄金時代、戦後第四期黄金時代

と変わった。そして変わった先でそれぞれ時代を築き、「黄金時代」を築いた。

古賀政男には、戦後の黄金時代を含めて、4つの「黄金時代」が有る。

古賀政男は多くの歌手を呼寄せ発掘し、育てたことで知られる。その一人テイチク、コロムビアにおける楠木繁夫は、早生したためあまり知られていないようだが、藤山一郎、ディックミネと並ぶ「古賀メロディ」テイチク黄金時代を築いた立役者の一人。

大正13年(1924)、東京音楽学校師範科に入学、本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家梁田貞に師事。しかし学生運動で校則などに抗議したことから、同級の高木東六とともに除籍処分となった。

昭和9年(1934)5月に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属に迎えられ、昭和10年(1935)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。

古賀政男が抜けた後の江口夜詩―松平晃のコロムビア、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う「古賀メロディー」のテイチク、佐々木俊一が台頭するビクターと三つの構図で激しいヒット競争が展開し、世にいう「テイチク黄金時代」が出現。

古賀政男は重役として迎えられ、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など多くの映画主題歌が作られた。

昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社すると、楠木もビクターに移籍。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。

現在の古賀政男音楽博物館のある代々木上原は、古賀政男が昭和13年に移り住んだ街。古賀政男は、この代々木上原の地に、音楽創造に邁進する同志を集めて「音楽村」をつくろうという構想を持っていた。

古賀政男を初期には自信がなく、洋楽傾向を持っていて世界の音楽を取り入れていた。

その後、特に昭和14年8月、一分間1万ドルと言われたアメリカNBC放送の「世界の電波」に乗って以降、古賀政男はますます自信を深め、自身に満ち溢れたものであったという。

そして、作曲の傾向も洋楽傾向から邦楽の傾向を強めて行く。

古賀政男はコロムビアで第三期黄金時代を迎えるのだが、「古賀政男藝術大観」が出版されたこの昭和13、14年ごろと言うのは、このように自信に満ち溢れ、脂の乗りきった、絶頂期にでもあったのだ。

その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。

昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属となっていた西條八十、昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。

昭和15年(1940)にコロムビア専属とていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである

そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。第3期黄金時代を迎えた。

「花白蘭の唄」(1942.8)以降はコロムビアでの作品である。






146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:36

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 16:58
☆楠木繁夫の代表曲

国境を越えて  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ    (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲)      1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段    (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄  (佐藤惣之助作詞、 楠木繁夫歌) 1937.1
スキ‐の唄   (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲    (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴)    1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1937.8
時代の霧   (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)        1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1938.6
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲)(李香蘭)    1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11


28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:01
☆古賀メロディと霧島昇


日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952






29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:32
☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ

歌謡曲(流行歌)は日本の貴重な文化であり、後世に継承してゆくべきものです。

ところが過去の音楽は放送もされず聞く機会も失われ、名曲の数々が埋もれてしまっているので、このままいくと、将来「名曲」を誰も知らないという事態に発展しかねないのは残念なことです。。



昭和9年(1934)5月15日、コロムビアを退社した古賀政男によって、テイチク東京文芸部(古賀文芸部)が発足、ここにテイチク黄金時代がスタートする。

テイチク黄金時代の立役者は、楠木繁夫、ディックミネ、杉狂児(東京音楽学校)など、それに昭和11からビクターから移った藤山一郎が加わる。

日活と提携して沢山の映画主題歌も作られ、昭和12年だけでも40曲以上もの映画主題歌が作られたという。


デックミネ(本名、三根 徳一)、は、立教大学商学部卒。昭和9年(1934年)タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを、淡谷のり子に見出されレコード歌手の道を歩むこととなる。

同年、テイチクの重役だった古賀政男の推薦で「ダイナ」をレコーディング。「ダイナ」では自ら訳詞と編曲、演奏を担当。テイチクの重役だった古賀政男の推薦で,昭和9年「ダイナ」をレコーディングしデビュー、和製ジャズ歌手の草分けとなる。

二村定一を日本のジャズ・ポピュラーの始まりとするなら、ディックミネはその路線の継承者ともいえる存在で、彼は生涯に500曲以上ものジャズ・レコードを吹き込み、その普及に大きく貢献している。

サトウハチロー原作、日活多摩川、渡辺邦男監督1935『うら街の交響楽』(音楽、福田宗吉・古賀 政男)の、[恋は荷物と同じよ] (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1935.6(川畑文子、ディックミネ)、(東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクール1等入選作。)が古賀作品との最初となる。




30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:32
昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。

古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。


おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。

ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。


☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938









31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:38
☆李香蘭と古賀メロディ

李香蘭(山口淑子)は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏



32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:38
李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)




☆李香蘭の代表曲(古賀メロディ )

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8
若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5


荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542
宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542



33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 17:47
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。

1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽市生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。

松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。その後は、『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などのヒットを連打し、美貌と美声を兼ね備えた流行歌手として人気を博すが、1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため、1年間の療養を余儀なくされる。
1937年(昭和12年)には復帰を果たし、同年7月、NHKの特別番組として、当時の女性歌手が総出演の音楽放送『鶯の競演』に出演。松原操の出演中に番組を中断し、盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたのである。デビュー当時から、『流浪の民』などの声楽曲は、本名の松原操でレコードが発売されていたが、日中戦争勃発後、彼女がレコーディングした戦時歌謡も殆どが松原操の名前で発売されている。


34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 18:47
☆松原 操(ミス・コロムビア)代表曲(古賀メロディー)

「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲)   1933

新妻模様   (久保田宵二作詞、古賀政男作曲)   1939

誰も知らない(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲) 1939

目ン無い千鳥(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲) 1940

そうだその意気(西條八十作詞、古賀政男作曲) 1941

故郷の白百合(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲) 1943

三百六十五夜(西條八十作詞、古賀政男作曲) 1948


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 20:41
二葉 あき子

 広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
 昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。


36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 22:09
☆二葉あき子代表曲(古賀メロディ)

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1940
新妻鏡    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1940 霧島昇
春よいづこ  (西條八十作詞、古賀政男作曲)1940  藤山一郎
なつかしの歌声(西條八十作詞、古賀政男作曲)1940  藤山一郎
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)1941  藤山一郎
旅の舞姫   (西條八十作詞、古賀政男作曲)1947
夢よもう一度 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1948
恋の曼珠沙華 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1948
あの夢この歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1948  霧島昇







37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 22:33
古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた名歌手

関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)   1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア  東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞)    1936
奥田英子          別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く   (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ   (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*     紅い睡蓮  (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌   〈西岡水朗作詞〉  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場    (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校  b月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで  (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。




38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 22:49
>>37

☆古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)

1930
 佐藤千夜子  「文のかをり」・・・「影を慕いて」など
1931
 関種子    「乙女心」・・・「窓に凭れて」など 
 天野喜久代  「チャッカリしてるわね」
 河原喜久恵  「月の濱邊(月の浜辺)」・・([キャムプ小唄]のB面)・・「町子姉妹の唄」
 藤山一郎   「キャムプ小唄」・・「影を慕いて」など
 淡谷のり子  「私此頃憂鬱よ」(「酒は泪か溜息か」のB面)・・「佳人よ何処へ」など
1932
 中野忠晴   「夜霧の港」・・・「高原の唄」など
1933
 ミス・コロムビア(松原操)・・・「「お蝶夫人」の唄」・・・「目ン無い千鳥」など
 松平晃   「サーカスの唄」・・「母立つ丘」など
1934
 楠木繁夫  「国境を越えて」・・「白い椿の唄」など
1935 
 ディックミネ 「二人は若い」・・「人生の並木路」など
1936
 奥田瑛子  「別れの歌」・・・・「緑の月」など
1937
 由利あけみ 「黒いパイプ」・・・「愛国六人娘」など
1939
 李香蘭   「さらば上海」・・ 「迎春花」など
 霧島昇   「新妻模様」・・・・「誰か故郷を想わざる」など
 伊藤久男  「波を越えて」・・・「熱砂の誓い」など
1940
 二葉あき子 「あの花この花」・・「新妻鏡」など
 奥山彩子  「蛇姫絵巻」-・・・「母立つ丘」など
 渡辺はま子 「りぼんむすめ」・・「サヨンの鐘」など
 菊池章子  「相呼ぶ歌」・・・・「なつかしの蕃社」など
1943
 近江俊郎   「明日もまた」・・・「勝利の日まで」など    




39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/17(Wed) 12:42
古賀政男が昭和53年〈1978〉年7月25日に73歳の生涯を閉じた。古賀メロディーの最末期の作品は以下の通り・・
佐藤千夜子から五木ひろしまで約半世紀にわたり常に主流であり続けた作曲生活はまさに昭和のレコード歌謡の歴史そのもの。

銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)



40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 18:54
淡谷のり子
1907年8月12日 - 1999年9月22日)、青森県青森市出身。


1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立第一高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い「十年に一人のソプラノ」と絶賛される。

世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。キングでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。
1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。映画館の専属となりアトラクション等で歌う。当時、東洋音楽学校からは青木晴子、羽衣歌子らが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)が、1963年に起きた母校の内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方が暴力団を「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、淡谷を中心に卒業生たちが東京声専音楽学校(現・昭和音楽芸術学院)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。

1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。A面は「酒は涙か溜息か」。歌唱者の藤山一郎は、当時東京音楽学校の学生で、将来を嘱望されていた。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。



41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 19:09
☆淡谷のり子代表曲(古賀メロディ)

私此頃憂鬱よ(高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)1931(「酒は涙か溜息かのB面)
佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞、古賀政男作曲)1932
アリアンの唄(佐藤惣之助作詞、朝鮮民謡、古賀政男編曲)1932 長谷川一郎
不如帰   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932
花の東京  (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)1932
二人の夢  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932
春の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932
来る来るサーカス(西條八十作詞、古賀政男作曲)1933






42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 19:14
☆松平晃代表曲(古賀メロディ)

はてなき旅  (西條八十作詞、古賀政男作曲)1932
サーカスの唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲)1933
さらば故郷  (西條八十作詞、古賀政男作曲)1934   



43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 22:41
☆伊藤久男の代表曲(古賀メロディ)


熱砂の誓い(建設の唄)(西條八十作詞、古賀政男作曲)1940
馬        (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1941 菊池章子
海の豪族     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1941
大空に起つ    (大木敦夫作詞、 古賀政男作曲)1941
山の凱歌     (西條八十作詞、 古賀政男作曲)1941
雲のふるさと   (大木敦夫作詞、 古賀政男作曲)1943 *
シベリヤエレジ― (野村敏夫作詞、 古賀政男作曲)1948
希望に燃えて   (サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)1949
ああ青函連絡船  (西條八十作詞、 古賀政男作曲)1954


*陸海軍礼式歌、NHKラジオ歌謡、李香蘭盤発見さる。


44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 22:49
作曲家・古賀政男 You Tube

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45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/18(Thu) 22:58

【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
.
2015/01/10 に公開

・・これで検索(コピーして)してください。 (You Tube)



美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活­躍された作曲家の古賀政男(こがまさお)さんや、作詞家の佐藤惣之助(さとうそうのす­け)さん、歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られ­ています。古賀政男さんの曲は歌い手が困っていたという裏話が面白かったです。

※曲は省略していますm(__)m

美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より


46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/19(Fri) 06:38
松島詩子

山口県出身。本名は内海シマ。柳井高等女学校を卒業後、

教員生活を経て昭和7年(1932)コロムビアから「ラッキーセブン」でデビュー。

昭和10年(1935)テイチク移籍。千早淑子、「夕べ仄かに」で最初のひっと。昭和12年「マロニエの木陰」がヒット、

最初のリサイタルを東京で開き「蝶々夫人」を歌う。

昭和13年(1936)歌劇団「パヴォー」を組織して、

オペラ「ボッカチオ」を公演するなど歌謡曲以外の分野でも活躍した。

松島詩子(千早淑子)の代表曲(古賀メロディ)

夕べ仄かに (島田芳文作詞、古賀政男作曲)1935 「緑の地平線」挿入歌、ディックミネ盤もあり、
純情一座の唄(玉川英二作詞、古賀政男作曲)1936
愛無き言葉 (島田欣也作詞、古賀政男作曲)1936
泪の春   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1936 「白衣の佳人」主題歌



47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 00:22
>>43

雲のふるさと


作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男
歌  伊藤久男

常夏の椰子の木陰に
戎衣を解きて憩いつ
返り見る雲の遥けさ
ますらおの我と言うとも
ゆえ知らず涙落つるを

誰ぞ叱る我も人の子
胸熱く思い出ずるは
旗薄靡く信濃路
河鹿鳴く清き河部に
あの雲は今も翳らん

皇国に捧げたる身の
死にてよと汝は言わずや
幻に見ゆる故郷
我強し汝のあればぞ
弾丸の中行かんと思え

*映画「あの旗を撃て」主題歌。陸海軍礼式歌。NHKラジオ歌謡、李香蘭盤発見さる。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 00:56

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49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 01:08
いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」。1944 年11月録音。

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/21(Sun) 20:28
昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし藤山一郎と言えば古賀メロディ。

藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。

「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、なんといっても、古賀メロディが圧倒的。それ以外で知られるのは、「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」など主にビクター時代でしょうか。

藤山一郎のビクター時代は、古賀政男と離れていたせいか、パッとしたヒット曲がない。「僕の青春」の佐々木俊一の気合いの入れようも分かるが…

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