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苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 19:59

昔、明治になるまでは平民が「苗字」を名乗ることはできませんでした。

よくテレビ番組で「苗字」についてやってるが、祖先が藤原氏だとか武田(信玄)だとか思ってしまうが、
間違いです。

日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、
明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。

姓名はどうやって名乗ったか〜それは明治8年2月13日に遡ることが重要です。


2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:00

江戸時代に百姓、町人に姓(せい・これよりは名字・なあざなと呼びます)がなかったという説はただしくありません。
名字(なあざな)は存在していましたが、江戸幕府の政策で庄屋、名主や旧家、大商人など許された人しか名字(なあざな)を公に名乗れなかっただけです。
いわゆる名字・帯刀を許されたという表現です。多くは名字のみ許されたケースが殆どで、名字・帯刀を許される場合は稀でありました。許されても一代限りということもありました。
また藩内では名乗れても、藩の外では公に名乗れないなどの制約もありました。
お金や養子縁組によって武士の身分や郷士、下士の株を買って、名字・帯刀を手中にした場合も多々あります。
お寺の寄進帳(寄付者の名簿)や過去帳(檀家が代々記してある)には名字を名乗っている場合も多く、ここを調べることは大変重要なことです。



3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:02
さて前置きはこのあたりにしまして、日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。
(明治3年の平民苗字許可令がありますが、課税されることを恐れて届け出は少なかった)

ここで名字(なあざな)を公に名乗ったり、つけたりしました。
必ず、名字にはそれ相当の理由があって名字をつけます。
ルーツを知る上で、大変重要なポイントです。
江戸時代に武家で名字を公に名乗っていたは場合以外で、「平民苗字必称義務令」で明治8年に名字を届け出た場合の解説です。

@江戸時代以前に武士であったが帰農した。江戸時代以前の名字を名乗る
A江戸時代から公ではないものの名字を名乗っていた
B江戸時代以前の先祖が名乗っていた名字を復活させた
C江戸時代から名字を名乗ることを許されていた
D庄屋、名主、お寺の住職などの方につけてもらった
E地域や集落で連帯感を表すためにみんなで名乗った
F自分で考えて名字をつけた

この7つのケースにほぼ集約されます。
まずどのケースかご先祖を調べてください。



4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:04
@ABCにあたる場合は江戸時代以前を調べる大きな手がかりになります。
DEFのケースは、宗教宗派なども更に調べて、地域性や大名のお国替えや、戦国時代の背景なども調査しながら研究する必要があります。

名字は理由なくしては名乗りません。
必ず相当の理由や意義があってつけられたのです。
「続きを読む」からは、更に名字を探求したレポートになります。ぜひご覧ください。

JUGEMテーマ:先祖・出自や出身地のルーツを辿る調査研究


◇名字の漢字が少し違うケース
理由があって違う場合と、明治8年の登録の時、書き間違えたり、墨が落ちてしまったりしたケースなどがあります。

江戸時代には漢文が発達し、すでに漢字の体系は完成しています。
すなわち江戸時代の漢文の世界にない漢字はありません。漢字は確立しています。
では何故、ないはずの点があったり、あるはずの点がなかったりするのでしょう。

それ相当の理由がある場合(江戸時代においてです)
@大名やそれ相応の方から特別にその字を賜った。
(功績をあげた場合、名字を賜ることもあり、または点をつけたりして功績を称えられた)
A縁起を担いだり、災いがあったりして改名ではなく漢字の一部を変えた。
この場合がほとんどです。つまり江戸時代に上記の理由で変わって名乗っていた漢字のままで、明治8年に名字として届けたケースです。



5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:06
明治8年の届け出で間違ってしまった場合
(このケースがもっとも多いといわれています)
今のようにパソコンがあるわけではありません。すべて手書きで戸籍を作ったりしました。
字を書けない方もいらっしゃったでしょうし、役人が間違えて登記してしまったということもままありました。
@本人(家の代表者)が届ける際に、名字を書いていてあやまって墨などをこぼして点がついてしまったりした。
A止める、はねる、突き抜けるなどの漢字を間違えて書いたり、勢い余って点をつけてしまった。(1本多い、少ないなどもこれにあてはまります)
B見よう見まねで書いたので、はっきりしないまま、役人(急ごしらえの)も漢字を熟知しておらず、登記の時に気がつかなかった。
※旧字体の難しい漢字や珍しい漢字などは、このケースには当てはまりません。
旧字体も江戸時代に完全に確立しています。
ただ旧字体の難しい漢字を少し書き間違えて登記してしまう場合もありました。

ご先祖がどうやって名字を名乗り、届けたかをしっかりと調べることが重要です。
個人的な意見ですが、もし明治8年の届け出の際に間違ってしまった字だとしましたら、あまり「字が違う」とか「うちの字はこれだ」などといわれない方が良いのではないかと思います。

◇氏族の本姓(ほんせい)は武家の場合、まず名字(なあざな)としない
武家の場合、源、平、藤原、橘などの本姓を名字に届けたケースは稀です。
というのも本姓は江戸時代はほとんど使いません。武家の場合は名乗っていた名字で届けました。
例えば「徳川慶喜」が明治8年を迎えた時には、「源慶喜」とはまず届けません。
(ただし明治時代初期には幕府から天皇へ政権が変わったため、一瞬だけ源平藤橘の本姓を名乗ったこともありましたが、8割近くを源平藤橘で占めるため、姓尸(セイシ)不称令を発布しすぐ禁止しました)

武家ではないのに「松平」「徳川」などの将軍家の名字や藩の大名の名字、氏族の本性である「源、平、藤原、橘」を名乗り、明治8年に届けるということは、かなり勇気が必要だったと思いますし、教養を持ち合わせたユニークな智恵者のご先祖でしょう。


6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:09
明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」

 日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。
(明治3年の平民苗字許可令がありますが、課税されることを恐れて届け出は少なかった)

ここで名字(なあざな)を公に名乗ったり、つけたりしたのです。

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:14










明治政府は江戸幕府を倒した後、幕府が定めた士農工商の身分を廃止する方針をとりました。そのため帯刀を禁じる廃刀令(1876年)と、農民や町民に苗字を名乗らせる平民苗字必称義務令(1875年)が出されました。
これにより苗字が大きく動いたのです。


家系図にはご先祖様の名前が載りますが、様々な理由で苗字が変わる場合もあります。その理由の一つに明治8年に出された法令があります。ここでは、日本の苗字制度が大きく動いたその出来事についてご紹介します。
明治8年前までの日本の苗字
苗字は「名前の豆知識」ページにも紹介しているように、平安時代の終わり頃に新興の武士が名乗り、その後は時代の流れに沿い御家人や公家などにも付けられるようになり、地主となる豪農などにも付けられるようになります。
領地の管理に関わることで付けられた苗字ですが、江戸時代には「苗字帯刀禁止令」が出され、苗字を名乗り帯刀することは武士の特権とされたため、平民は公の場で苗字を名乗ることを禁じられました。
明治に入り、明治3年に平民にも苗字の使用が許可され登録を促しましたが、税金を多く取られるようになるのではないかという憶測や登録後改名をしてはいけないという法令、徴兵令が出されたことなどにより、順調には進みませんでした。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:16
領地の管理に関わることで付けられた苗字ですが、江戸時代には「苗字帯刀禁止令」が出され、苗字を名乗り帯刀することは武士の特権とされたため、平民は公の場で苗字を名乗ることを禁じられました。
明治に入り、明治3年に平民にも苗字の使用が許可され登録を促しましたが、税金を多く取られるようになるのではないかという憶測や登録後改名をしてはいけないという法令、徴兵令が出されたことなどにより、順調には進みませんでした。


9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:21

**「苗字帯刀禁止令」から明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」へ

江戸時代には「苗字帯刀禁止令」が出され、苗字を名乗り帯刀することは武士の特権とされたため、平民は公の場で苗字を名乗ることを禁じられました。
 日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。
(明治3年の平民苗字許可令がありますが、課税されることを恐れて届け出は少なかった)

ここで名字(なあざな)を公に名乗ったり、つけたりしたのです。


10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 20:31
平民苗字必称義務令


平民苗字必称義務令(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていた。
明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が定められた。
この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどである)に属さない平民に「苗字」の使用を許した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した。

本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。
1875年(明治8年)2月13日に平民苗字必称義務令が出されたことから、2月13日を「苗字制定記念日」という。また、明治3年9月19日(1870年10月13日)に平民苗字許可令が出されたことから、9月19日は「苗字の日」とされている

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/25(Thu) 21:50
苗字制度は、明治8年2月13日に公布された「平民苗字必称義務令」により、大きく動きます。この法令により強制的に全ての国民に苗字が付けられました。ほとんどの人はご先祖から受け継いだ家名を登録したようですが、中には家名も分からない人やこれを機に苗字を変えた人もいました。
苗字がわからないという人が新しい苗字を持ち、苗字を変えた人などがいたこの時期は苗字の転換期となり、この頃生まれた新しい苗字のことを「明治の新姓」と呼びます。

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 10:54
江戸時代までは庶民に名字(苗字)帯刀が許されなかったとのことです。
江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。

自分で苗字を決められない家は庄屋や名主につけてもらったとか。全く血縁などないのに、庄屋が遊んで「井伊」「本多」「榊原」「大久保」「酒井」という姓をつけた村があったそうです。

名主や庄屋は苗字帯刀を許された場合が多かったようですね。


明治政府が、「平民苗字必称義務令」という必ず苗字を名乗ることを義務付けた命令が出されています。

別に国が割り振ったわけではなく、各自が勝手に名乗ったんです。
まあ、無学な農民の多くはよく知られていてさほど恐れ多くない名字を名乗ったり、庄屋さんに名づけてもらうことも多かったようです。鈴木姓が非常に多いのは前者が原因ですね。


13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 11:04
江戸時代までは庶民に名字(苗字)帯刀が許されなかったとのことです。
江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。


明治政府が、「平民苗字必称義務令」という必ず苗字を名乗ることを義務付けた命令が出されています。

別に国が割り振ったわけではなく、各自が勝手に名乗ったんです。
まあ、無学な農民の多くはよく知られていてさほど恐れ多くない名字を名乗ったり、庄屋さんに名づけてもらうことも多かったようです。鈴木姓が非常に多いのは前者が原因ですね。

自分で苗字を決められない家は庄屋や名主につけてもらったとか。
全く血縁などないのに、元庄屋が遊んで「井伊」「本多」「榊原」「大久保」「酒井」という有名姓をつけた村があったそうです。

だから、高貴な姓でもそれと関係があったわけではないのです。

武士階級や田舎でも名主でもない限り、今の99%は明治時代以降、「平民苗字必称義務令」(明治8年太政官布告第22号)によって自由勝手につけたものと考えられます。


14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 12:05
鈴木、佐藤の名前の由来

鈴木さん、佐藤さんは、江戸時代から鈴木、佐藤だったのですか?それとも自分の廻りにいる人の名前と同じにしたのですか? もちろん江戸期に鈴木さん、佐藤さんは居たと思いますが、それにしては多過ぎだと思うので、明治8年に姓名を付けた時に付けたとしか思えないのですが・・・

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 12:17
昨日テレビで「佐藤姓」の由来をやて増した、佐藤姓の人が集まって「藤原氏」に繋がるんだと意気揚々と気勢をあげてましたが、
みな苗字を許されなかった農民明治8年に姓名を付けた時に付けたものとしか思えない・・・歴史も知らないバカげた烏合の衆。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 12:42
こういう苗字由来番組や、苗字の由来本は必ず苗字付与の歴史につて必ず予備知識として明記解説の必要がある。

《明治以前は、武士階級や庄屋、名主など以外の、ほとんどすべての民は苗字は許されなかったことを明示しなければいけない。

苗字を名乗ることが許されていたのは、現在では探すことも難しい、ごくごく少数であったこと。


明治3年    「平民苗字許可令」

明治8年2月13日「平民苗字必称義務令」(明治8年太政官布告第22号)


17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/26(Fri) 20:05
江戸時代かそれ以前に文書が残ってるか、墓所等に石碑等があるのでなければ、
明治になってつけられたもの。

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/27(Sat) 23:30
明治政府は江戸幕府を倒した後、幕府が定めた士農工商の身分を廃止する方針をとりました。そのため帯刀を禁じる廃刀令(1876年)と、農民や町民に苗字を名乗らせる平民苗字必称義務令(1875年)が出されました。
これにより苗字が大きく動いたのです。

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/27(Sat) 23:48

【歴史雑学】 明治期以降、誰もが名字(苗字)を名乗る様になったのは何故か? 〈2408JKI54〉

明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。
それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、しかしそこには意外な理由が存在していたのだった・・・。
 
江戸時代までは、武士階級などを除く多くの平民(農民・職人・商人などの庶民)は「何々屋(屋号)の誰それ」とか「何処の誰々」といったように、携わっている職業やその居住地の地名を名前の上につけて名字(苗字)の代わり(識別の為の呼称)としていた。
それが明治時代になると、前述の様に平民もすべて名字(苗字)を付けなくてはならないという法律が出来たが、この国民全員が名字(苗字)を付けるという決まり事は、身分制度の撤廃を優先した発想によるものではなかったのだ。
 
結論から言うと、国民全員が名字(苗字)を名乗ることになったのは、実は「徴兵制度(ちょうへいせいど)」との関係が強いとされているのだ。そしてこの制度とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度のことで、「志願兵(募兵)制度」の対義語である。
国家が強力な常備軍を維持し、また一朝事ある時には速やかに戦力の拡大を要することを考慮して(国民皆兵のもとに)多くの兵員を集め、また一定期間にわたり兵役に服すことを可能とした体制を整備したのが「徴兵制度」である。但し、明治6年1月10日発布の法律では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。
さてこの「徴兵制度」を確立する上では、何処に何と言う名前の者が住んでいるのかを正確に把握することが最も重要であった。兵士となる候補者を集める上では、江戸時代までの様な多くの庶民が適当で(いい加減な)呼び名で呼ばれていた状態では確実に「徴兵制度」を遂行することは能わなかったし、同様に何処に常住しているかを知る必要もあったのだ。
そこでこの「徴兵制度」をスムーズに遂行・達成する為に必要なものとされたのが、徴兵対象者を含む国民全ての年齢・性別や氏名と住所を記した「戸籍(こせき)」の整備であったが、この「戸籍」とは、「戸」と呼ばれる一定の家族集団単位で国民たちを登録・管理する目的で作成された公文書類のことである。

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 20:33
名主(なぬし)

身分は農民です。村の長で、それ相応の財力があります。世襲で名主を引き継ぐこともありますが、村で選挙した結果、名主に選ばれることもある。
地域によっては庄屋(しょうや)と呼ばれています。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 20:39
名主(なぬし)
江戸時代の村役人、村方三役(名主・組頭・百姓代)が、村落内の行政を行っていた。その代表を、東国では名主、西国では庄屋と呼んでいた。

この時代、領主側の支配機構と百姓側の接点として、村役人の中ではもっとも重要な役割を担っていたのが名主だった。名主は、村内でもっとも家格の高い百姓であり、また知識層でもあった。主な仕事は、年貢の取立・管理・戸籍事務・諸書類の作成や他村・領主との折衝など、村政全般を取りあつかっていた。
そのために名主の仕事は、たいへんな知的能力と事務能力を必要とされ、「読み書き」「そろばん」が出来なくては、勤まらなかった。
名主はその職務に対して、年貢の免除や給米・引高などのかたちで、役料をもらっている場合が多かったようだ。また、衣料なども一般の百姓では着ることのできない、絹・紬などを着ることが許されていた。

江戸時代も苗字が許されていた。

22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 22:53
姓というのは「制度」として、つまり「例外なくすべて」でなければならないはず。たまにではない。
業者などで江戸時代も平民も苗字があたなどというのは、
ここに証明されるのでなければ「制度」としては、まるで根拠を持つものでなく、意味をなさない。

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:13
姓と苗字の違い
 では、家制度のもう一本の柱にあたる家名の方はどうか。最初にお断りしたいことは、歴史的に見た場合、今日では混同されている姓と苗字は別ものだという事実である。姓は源氏・平氏・藤原氏・橘氏といった、古代貴族が用いた氏(うじ)の名前(氏名(うじな))にあたる。氏とは貴族が組織した族集団であり、平安時代に武士が勢力を伸ばしてくると、武士も姓を名のるようになる。そして、ついには農民までもが姓を僭称するに至った。姓は室町時代以降衰退するものの、なくなることはなく、重要な儀式や書類などにおいては、自分を権威づけるために武士も姓を用いた。
 一方苗字の方は、中世の武士が私的に名のった名前(主に地名)であり、やがてそれは先祖代々伝えられる家名となる。そして、戦国時代には農民レベルでも苗字の使用が一般化した。もちろん、江戸時代の農民の中にも、苗字を持っている者はかなりの割合で存在した。高校の日本史教科書によれば、江戸時代の農民は「苗字・帯刀」禁止であったとされるが、実際のところは、武士に提出する書類上や武士の面前で、農民が苗字を用いるのを禁止しただけのことにすぎなかったのである。
家名としての屋号
 とはいえ、それでも苗字を持たない農民はいたし、また、農民が武士の前で堂々と苗字を名のれなかったことも事実であって、こうした中、農民たちは苗字とは別の家名も用いるようになった。それは屋号である。
 屋号といえば商家のそれが思い起こされるが、農家も屋号をもっていた。屋号は通名(つうみょう)とも呼ばれる。通名とは、父から嫡男へと代々受け継がれる個人名のことであり、父に代わって嫡男が通名を名のることを襲名という。通名はいつしか、藤次郎(とうじろう)家、勘右衛門(かんえもん)家といった具合に、家に固有の名前、すなわち家名と化した。
 明治維新の後、近代国民国家を築き上げる過程の中で、徴税や徴兵の実をあげるために個人を特定することが必要となり、政府は襲名の慣行を禁止した。その結果、今日では歌舞伎などの伝統芸能の世界における芸名のレベルで、襲名慣行が残るにすぎなくなってしまったが、江戸時代の民衆世界において、それはごく一般的なことであった。そして、こうした通名の風習は、戦国時代の農民の世界でも確認することができる。

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:14
家名としての屋号
 とはいえ、それでも苗字を持たない農民はいたし、また、農民が武士の前で堂々と苗字を名のれなかったことも事実であって、こうした中、農民たちは苗字とは別の家名も用いるようになった。それは屋号である。

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:23
江戸時代の庶民はすべてが苗字を持っていたと解するのは正確な理解と言えない。
苗字を持たない者もいるのです。
寄進帳などを調べると苗字はなく、苗字の代わり屋号を用いている者、あるいは苗字も屋号もないものもいる。
つまり、「すべて庶民が苗字を持っていた」わけではなかった。

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:32
>>24-25
h ttp://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/08/23/post-1889/

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:34
>>23
h ttp://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20130115.html

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:37
>>25
h ttp://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20130115.html

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:41
訂正

>>23.>>24
h ttp://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/08/23/post-1889/

>>25
h ttp://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20130115.html


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:46
>>25
h ttp://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20130115.html


すべて庶民が苗字を持っていたわけではなかった。

江戸時代の庶民はすべてが苗字を持っていたと解するのは正確な理解と言えない。
苗字を持たない者もいるのです。
寄進帳などを調べると苗字はなく、苗字の代わり屋号を用いている者、あるいは苗字も屋号もないものもいる。
つまり、「すべて庶民が苗字を持っていた」わけではなかった。

31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/12(Wed) 23:54
30 訂正

すべて庶民が苗字を持っていたわけではない。
 h ttp://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/08/23/post-1889/

江戸時代の庶民はすべてが苗字を持っていたと解するのは正確な理解と言えない。
苗字を持たない者もいるのです。
寄進帳などを調べると苗字はなく、苗字の代わり屋号を用いている者、あるいは苗字も屋号もないものもいる。
つまり、「すべて庶民が苗字を持っていた」わけではなかった。

32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/13(Thu) 11:46
寺の寄進帳や氏子台帳、過去帳などに江戸時代以前の過去の人がすべて載ってるわけでもないし、
墓や寺がすべて現存するわけではない。

「過去帳」に載っている者でさえ、苗字か屋号かさえ分からなかったり、苗字も屋号もないものなどがある。

基本的に歴史上、「制度」として農民など平民の苗字というものがあったのでない以上、
江戸時代以前の庶民はすべてが苗字を持っていたと解するのは間違い。
つまり、すくなくとも「すべて庶民が苗字を持っていたわけではない。」ことは明らかである。

江戸時代以前の「過去帳」や、「家系図」その他由緒ある「古文書」や、墓などに石碑が残って証明されるのでなければ、
明治以降にお坊さんや「名主」(農民、関東、関西は「庄屋」といった)などにつけてもらった苗字と考えるのが適当。

個々に過去の人の完全な名簿が存在するわけではないのに、江戸時代以前から、平民にも苗字があったとする仮想の前提での「苗字の起源論」は、一人一人個々の人物に関して
上記の古文書等で検証されたものでなければ意味をなさないものと考えるべきです。

なんか古代平安時代から、平民を含めすべてに苗字があったかのような企画は他にも多いが、誤解をまねく。

江戸時代以前は今では考えることもできない大飢饉や貧困、戦乱が続いたはずで、生きて行くことさえ厳しい貧しい農民や平民が苗字などに関わっていられなかったはずです。

(過去帳等で調べないとわからない、すべての人がそうだと言うわけではないとあらかじめ断っておいたほうがいいでしょう。)


33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/14(Fri) 21:33
田舎の家についてる名字以外の呼び方『屋号』ってなんなんですか?
このまえ田舎で、田中(仮)さんの家が田中ではなく坂上さんと呼ばれていました。

屋号の意味や由来などをおしえてください。


屋号ができた理由はいくつかあります。

・もともと苗字がない時代に、どの家かを判別するため
・同じ集落の中には同じ苗字の家がいくつもあるため
・分家した次男・三男らの家ができたので区別するため、などです。

意味ですが、
・その家の地理的な特徴
(例)坂の上にあるから坂上さん
・かつての家業や看板、などがあります。

わたしも、外部の人の流入が少ない町に行ったことがありますが町内には
数百の家のほとんどが3種類ぐらいの苗字で、少数派の家は比較的後から
移り住んできた人達だけという集落や、
小学校の一クラスのうち1/3が同じ苗字の地区、というところがありました。
同姓同名も沢山います。
こういうところでは今でも日常的に屋号が使われています

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/14(Fri) 21:53
全国的には、ほとんどの人が苗字を持っていたという事実はありません。ただし、村を個別に見れば元々苗字を持っていた武士が帰農して村民になっていた村もあります。例えば武蔵野台地の多摩地区は、地形が水利に恵まれず、江戸時代以前は全く開発されていなくて原野状態でした。そこに徳川秀忠が鷹狩りに来て、代官に新田開発を奨励させるといったことがありました。多摩地区には滅ぼされた後北条氏の元家臣が大勢残っていて、そうした新田開発の募集に応じた人がいます。逆に代々農民だった人は新田開発に応募しない。農民とは保守的・守旧的な性質があり、冒険的な事業に乗り出そうという気概がある人が少ないのです。そういう村ならば、石碑や寺の過去帖に苗字が載っていても不思議ではない。しかし、そうした特殊な例を持って全国にあてはめるのは間違いです。江戸時代の村の規模は極めて小さく、人口は数百人から多くても千人を越えるぐらいです。保守的・守旧的な農民の性質から、農村は過去のしがらみ、立村の経緯を引きずって、どうしても細かく分かれたままで統合しようという機運が起きないのです。小さな村の合併が進んで町や市に昇格していったのは明治時代以降のこと。

17世紀末たまたまカムチャッカ半島に漂着した伝兵衛という人がいます。大阪の質屋の息子だったが、東京へ向かう途中に嵐があって、なんとカムチャッカ半島まで漂流したというのです。アイヌの村に拾われたところ、たまたまカムチャッカ半島を侵略していたロシア人に見つかってサンクトペテルブルクに強制連行されて日本人学校の校長として一生を終えたと伝えられています。そうした事はかなり後になってロシア側の記録から分かったことです。ところが、伝兵衛の苗字は伝えられていません。ただ伝兵衛というだけ。もし苗字があったなら、ロシア人に対して遠慮なく伝えたはずです。ロシア人に対してなにを遠慮する必要があろうか。

カムチャッカ半島には伝兵衛の後にゴンザとソウザの2名も漂着した事例があったことが分かっていますが、やはり苗字は伝えられていません。どちらもロシア側の記録によります。アイヌは文字を持ちませんから、カムチャッカ半島がロシア領になる以前のことは全く分からない。

また幕末には一介の漁民から旗本にのし上がったジョン万次郎という人がいます。この人も漁に出てたまたま無人島に漂着したところをアメリカ人に見つけられてアメリカで学業を受けさせてもらってアメリカ通になったところを日本へ帰国後に評価されて旗本に取り立てられて苗字を許されました。中濱村出身だから、中濱万次郎となのりました。もし元々苗字を持っていたというなら、その苗字を名乗ればよい。しかしそうしなかった。他に思いつく苗字がない。だから出身地の中濱村から苗字を貰ったわけです。

石碑も過去帖もいいのですが、あったあった、それ見たことかと大はしゃぎにそればかりが一人歩きしている現状はいかがなものか。


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/20(Fri) 09:21
NHK 日本人の名前 ・・
武士階級や田舎でも名主でもない限り、今の99%は明治時代以降、「平民苗字必称義務令」(明治8年太政官布告第22号)によって自由勝手につけたものと考えられます。
この番組は娯楽番組以上の意味は感じられません。
明らかな一般人の場合、古文書や墓石碑など証拠がない限り、明治に勝手につけたものと思われます。
名主とかお寺の坊さんにつけてもらったり、部落で相談して考えたり。こうした前提、お断りを必ず明示すべきです。

36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/25(Wed) 09:10
家系調査、家系図請負を業とする業者がいる。業者や本屋などが昔から平民も苗字を持っていたということを根拠(古文書等)なしに
言ってるようだね!。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/25(Wed) 09:19
飢饉や大災害、疫病、戦乱、貧困、つい昭和の初めまでそうであった日本、庶民は昭和の初めまで、
かやぶき屋根から月が見えるあばら家で家畜と暮らしていた。
テレビを見てミカンを食べながらコタツで暖をとる、昔も、江戸時代もそんなものと勘違いしているようだ。

38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 14:10
平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていた[1]。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)[2]が定められた。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどである)に属さない平民に「苗字」の使用を許した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した[3]。
本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。
1875年(明治8年)2月13日に平民苗字必称義務令が出されたことから、2月13日を「苗字制定記念日」という。また、明治3年9月19日(1870年10月13日)に平民苗字許可令が出されたことから、9月19日は「苗字の日」とされている。

39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 14:13
本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 14:19
平民苗字必唱義務令
明治8年2月13日太政官布告第22号

平民苗字被差許候旨明治三年九月布?候處自今必苗字相唱可尤?先以來苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字ヲ設ケ候樣可致此旨布?候事






41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 17:05
村の庄屋が苗字を付けたところには、全くのお百姓なのに「井伊」「本多」「酒井」「榊原」と四天王が小さな村に勢ぞろいしたところがあったとか。もっとすごいのは、自分で「近衛」「鷹司」などと届けようとした人が、さすがに役場から拒否されたという話を聞いたことがあります。

42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/06(Mon) 17:12
藤原にあやかりたいけど使っちゃ駄目だから一文字だけ貰って
佐藤、伊藤、斉藤、加藤とか籐の字が流行ったんだっけ

藤原が伊勢とくっつく→伊藤みたいな感じやぞ

43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 16:50
明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。
それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、「徴兵制」と「徴税」の効率化のためだった・・・。
 

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/07(Tue) 16:55
明治8年前までの日本の苗字
苗字は「名前の豆知識」ページにも紹介しているように、平安時代の終わり頃に新興の武士が名乗り、その後は時代の流れに沿い御家人や公家などにも付けられるようになり、地主となる豪農などにも付けられるようになります。
領地の管理に関わることで付けられた苗字ですが、江戸時代には「苗字帯刀禁止令」が出され、苗字を名乗り帯刀することは武士の特権とされたため、平民は公の場で苗字を名乗ることを禁じられました。
明治に入り、明治3年に平民にも苗字の使用が許可され登録を促しましたが、税金を多く取られるようになるのではないかという憶測や登録後改名をしてはいけないという法令、徴兵令が出されたことなどにより、順調には進みませんでした。
平民苗字必称義務令の発令
苗字制度は、明治8年2月13日に公布された「平民苗字必称義務令」により、大きく動きます。この法令により強制的に全ての国民に苗字が付けられました。ほとんどの人はご先祖から受け継いだ家名を登録したようですが、中には家名も分からない人やこれを機に苗字を変えた人もいました。
苗字がわからないという人が新しい苗字を持ち、苗字を変えた人などがいたこの時期は苗字の転換期となり、この頃生まれた新しい苗字のことを「明治の新姓」と呼びます。


45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/01(Fri) 13:52
テレビでいろいろな苗字についてやってるが、
それぞれその苗字の個人が、それとつながってるわけではないのだ。

46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 22:58
苗字とは・・ 明治8年 平民苗字許可令

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=495709999&ls=50

47 名前:疑問解決したい爺 投稿日:2019/01/14(Mon) 08:30
「斎部」は使ってはいけない名字なのでしょうか?
また「忌部」「斎部」はなぜ皆、改称したのでしょうか?
何か、調べる手立てがあるならばおしえてください。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:20
テレビで日本人の名前とかやってるが、日本人の殆どは明治時代に姓をもった。
寺院とか、名主だった人につけてもらったりしたもの。武将だとか地域の有名な人の
名にあやかったりしてつけたもの。
江戸時代から姓を持っていた名主など名家は必ずどこかに古文書や墓石,石碑等に名が残っているはず。


コタツでミカンを剥きながらテレビを見ていたかのようなテレビ番組の全員姓名論は荒唐無稽。

古文書や墓石に名が残っていない限り、明治時代初期の法律により以下の法令で義務化されたことにより急遽つけられたもの。


明治3年  平民苗字許可令 

明治8年  平民苗字必称義務令



日本の歴史は飢饉の歴史、明治以降も東北地方では例外による飢饉が頻発、最後の飢饉と言われた昭和6年から9年にかけての昭和東北大凶作、
東北の人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えを凌ぐ惨状。

宮沢賢治の「雨にも負けず」は昭和6年の冷害のことをうたったもの。
雨にも負けず風にも負けず‥この最後には夏の寒さにも負けず、寒さの夏はおろおろ歩きとある。

江戸時代以前ともなれば燦たるものだったろう。
昔、平民でも全員姓をもっていたとか抜かす輩がいるようだが、こういうのは歴史を知らぬ人の考えること。




49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:30
日本の歴史、それは飢饉の歴史、多くの名もなき庶民が餓死し、餓死した人の人肉を食べた、



現代の日本では、どんなに貧しくても餓死というのはあり得ませんが、江戸時代においては多くの人が餓死で亡くなりました。

特に全国規模で起こった天明の大飢饉のときの被害は、とても大規模なものでした。

1782年に各地で起こった大洪水や関東地方の大地震、1783年の浅間山の噴火などにはじまり、1787年まで続いた天候不順により農作物が壊滅的は被害を受けたのです。

天明の大飢饉による餓死者は30万人とも50万人ともいわれていますが、大地震や浅間山の噴火、洪水などで亡くなった人の人数を合わせると、100万人以上の人が亡くなったといわれています。

1700年代の日本の人口は2800万人から2900万人であったと推定されていますから、100万人以上の死者というのが真実だとすれば、日本の総人口の3.5%ほどの人が亡くなったことになります。

30人に1人が亡くなったことになりますから、その被害の大きさは想像を絶するものであったといえるでしょう。


特に東北地方での被害は甚大でした。

弘前藩では人口の3分の1が餓死したといわれており、津軽藩でも人口の3割〜4割にあたる8万人が餓死をしたそうです。

また、盛岡藩でも死者が6万人にのぼったという記録が残されています。

飢えをしのぐために人肉を食べた人もいた!?

天明の大飢饉では、飢えによって多くの人が亡くなりましたが、一部の人たちは飢えをしのぐために餓死をした人の人肉を食べていたといわれています。

食べるものがなくて極限まで追い込まれると、人間はそういった行動に走ってしまうのかも知れません。

八戸領における天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」に次のような記述が残っています。



天明4年にある宿屋に1人の女性が訪ねてきて、次のように言ったそうです。

「こちらの家で爺さんが亡くなられたと聞いてやってまいりました。どうか片身とも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか?うちの爺さんもせいぜいあと2〜3日かと思われますので、その節にはすぐにお返しに上がりますので」

つまり、その宿屋で亡くなった爺さんの、片身でも片股でもいいので譲ってほしいということです。

そして、自分の家の爺さんが亡くなったら返しに伺いますという。

にわかには信じられないような話ですが、実際にそういった話は江戸の町まで伝わってきていて、のちの杉田玄白が「後見草(のみちぐさ)」の中で、この人を食べた話についてリアルに記述しているようです。

さらにこの「後見草」の中には、信じられないような記述もあります。

「橋の下で、死骸を切り裂いて股の肉を籠に持っている人がいるので、何にするのかと聞いたら、これに草木の葉をまぜて犬の肉だと偽って売るのだと答えた」

これはもう狂気としか言いようのない話ですが、人間は極限まで追いつめられるとこういったあり得ないような行動をおこしてしまうのかも知れません。




50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/04(Tue) 08:36
日本における飢饉の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50

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