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昭和歌謡が好きな人集まれ!
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
- 歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!
- 515 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 14:53
- 昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とされる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。
昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。
昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
昭和7年から8年にかけて主な作品
鳩笛を吹く女の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて 〈古賀政男作詞作曲〉 藤山一郎
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
朝顔の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
あけみの唄 (原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲) 関種子
嘆きの夜曲 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子
二見情話 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵 (島田芳文作詞、古賀政男作曲) 関種子
去りゆく影 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。
他に昭和6年には、ビクター「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。
- 516 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 15:01
- 訂正
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
- 517 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 15:12
- 昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。
(新制東京芸術大学は、戦後学制改革によって、東京美術学校と東京音楽学校が合併してできた。)
関種子(1907〜1990)
昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90
藤山 一郎(1911〜1993)
日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家。バリトン歌手として活躍。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した。
藤山一郎、関種子のコロムビアでの歌謡デビューは、コロムビアの「古賀メロディー」のデビューの歌手としてであり、
その後も多くの「古賀メロディー」を支えることになった歌手である。
- 518 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:03
- 乙女心 (鹿山鴬村作詞、古賀政男作曲 関種子)
月の浜辺(島田芳文作詞、古賀政男作曲、河原喜久恵)
82年前、昭和六年(1931)7月発売。「月の浜辺」(島田芳文/作詞 古賀政男/作曲、河原喜久恵)とともに、
昭和6年3月、コロムビア専属作曲家となった若き古賀政男栄えの第一作「乙女心」。
ドイツリートの若きクラッシックソプラノ歌手、関種子の歌謡録音第一作でもある。関種子は藤山一郎とともに、
この後、「窓に凭れて」「朝顔の唄」「嘆きの夜曲」「美わしの宵」「去りゆく影」「あけみの唄」など多くの古賀メロディを支えた。
乙女心
朧月夜の その頃に
トンと踏まれた道の芝
燃ゆる想いに泣きぬれて
露の情の玉襷(たすき)
泣き泣き結ぶ玉襷
乙女心を知ろかいな
関種子出演オペラ
「カルメン」ミカエラ
「ファウスト」マルグリート
「ラ・ボエーム」ミミ
「椿姫」ヴィオレッタ
「ドン・ジョヴァンニ」ツェルリーナ
「トゥーランドット」トゥーランドット
「フィガロの結婚」スザンナ
- 519 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:21
- ☆関 種子と「古賀メロディ」
初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックソプラノ歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。
乙女心 (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄 (貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海 (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌 (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲 (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影 (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄 (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3
乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女 (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花 (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌 (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋 (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘 (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938 松原操盤もあり。
- 520 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:40
- ☆古賀メロディと藤山一郎
最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。
NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。
昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。
昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。
昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。
そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。
古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。
藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。
「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。
なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。
80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。
その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。
さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。
なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。
何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。
デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。
- 521 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:02
- ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲) 1931年10月
丘を越えて (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年12月
スキーの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて (古賀政男作詞、 古賀政男作曲) 1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
東京娘 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭 (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊 (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1941.3
歌えば天国 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲) 1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)
(戦後)
嘆きの小鳩 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌 (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖 (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952
- 522 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:30
- >>510
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。
古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)
「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。
苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。
彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。それは、コロムビアの顔・古賀政男が昭和9年、テイチクに移っていなくなった後だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。
- 523 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:51
- エールをみても、東京行進曲ならぬ「福島行進曲」それに「福島三羽烏」、どうでもよい、マイナーな者ばかしでメジャ―なものがでてこない。応援歌だとか本筋からはずれたことのみでは、おもしろくもない・・、
こうしたものをNHKに強く推したのが福島と豊橋。決しておもしろい などとはいえるものではないもの。
- 524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 07:53
- 関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。
- 525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 08:16
- あけみの唄 昭和7年(1932年)
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関 種子
(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの
(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ
(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ
- 526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 09:42
- ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。
古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。
『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。
支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。
『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。
「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。
ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。
これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。
また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。
- 527 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 20:38
- 昭和12年(1937)からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。
ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを
CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア
- 528 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 23:17
- 今、NHKテレビ本年度前期朝の連続テレビ小説「エール」をやってるが、本日8月25日夜8時のテレビを見ていたら、
突然、歌番組で「古賀メロディ」を紹介。エールでも紹介された古賀メロディ、名曲ばかりの古賀メロディとして最初に紹介。
故郷を歌った歌として、霧島昇の歌う映像を見た後、三山ひろしが、「誰か故郷を想わざる」を歌った。
「エール」の言葉から入ったので、古関の[船頭可愛や」とか歌うのかと思っていたが、古関の作品はなく、「古賀メロディ」の名と歌が最初に始まった。
・・今夜は歌で里帰り!ふるさとへの思いをはせる名曲特集▽“朝ドラ”「エール」でも話題!三山ひろし&山内惠介が歌う懐かしの古賀メロディー・・と。
いかに、古賀政男(木枯くん)・その存在がいかに大きく偉大か、その絶大さを、これが物語るもの・・
うたコン「わたしたちには歌がある!」(17)
NHKTV 8月25日 夜8時
うたコン「わたしたちには歌がある!」 (17) 字幕放送. 三山ひろし&山内惠介の古賀メロディー
今夜は歌で里帰り!ふるさとへの思いをはせる名曲特集▽“朝ドラ”「エール」でも話題!三山ひろし&山内惠介が歌う懐かしの古賀メロディー
▽三山ひろし&山内惠介の古賀メロディー
▽今年ドラマで大ブレイク!上白石萌音
▽嵐のあの曲も秘蔵映像で
▽大阪からも!矢井田瞳・NMB
▽ふるさとグルメ
出演
NMB48,上白石萌音,三山ひろし,MORISAKI WIN
矢井田瞳,山内惠介,フラッシュ金子,MUSIC CONCERTO
司会 谷原章介,赤木野々花
うたコン「わたしたちには歌がある!」(17)
h ttps://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1598313071/l50
- 529 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 20:47
- 昭和53年−日本の歌謡曲の父・古賀政男逝去
昭和五三(一九七八)年、歌謡界の父、巨星古賀政男が逝去した。享年七三歳だった。古賀政男の人生は昭和の歴史そのものである。そして波瀾に満ちていた。五度にわたる黄金時代がそれを物語っている。古賀政男は明治三七(一九〇四)年一一月一八日、福岡県三潴郡田口村に生まれた。その故郷は詩人北原白秋の詩情豊かな柳川の近くで、その原風景は《誰か故郷を想わざる》という名曲を生み出した。古賀政男は村の鎮守にかかったサーカス小屋から聞こえてくるクラリネットの音や旅芸人が奏でる月琴の音などによって早くから音楽体験を育んだ。
古賀政男は七歳のとき父を失い、思い出深き田口村を後にし朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の悲しみが《人生の並木路》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男/一九三七・一)となった。故郷を捨て渡った朝鮮半島の生活は古賀政男にとっては苦闘の時代であった。だが、善隣商業三年のとき、マンドリンとの出会いが後年の古賀政男の人生を決定づけた。長兄の命令で四兄の大阪の支店に勤務させられたが、音楽への情熱が止み難く上京を決意し出奔した。
大正一二(一九二三)年の春、古賀政男は明治大学に入学しマンドリン倶楽部の創設に参画した。マンドリン・ギター、いわゆるプレクトラム音楽を独学で勉強した。明大マンドリン倶楽部のリーダーとなり当時の人気歌手佐藤千夜子に見いだされた。昭和五年から六年にかけて、佐藤千夜子の歌唱にマンドリン演奏・ギター演奏を加えた自作品をビクターから発売した。昭和六(一九三一)年、コロムビア入社。古賀は最初流行歌の作曲に自信がなく、社員を希望した。だが、藤山一郎との出会いで人生は大きく好転した。藤山一郎の歌唱で《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《影を慕いて》が次々とヒットしそのメロディーは一世風靡した。これが古賀メロディー第一期黄金時代である。その後、古賀政男はテイチクへ作曲家兼重役待遇で迎えられた。
テイチク時代の古賀政男は、「創作芸術」と「事業経営」に手腕を発揮した。作品の創作においては《二人は若い》《緑の地平線》《東京ラプソディー》《男の純情》《ああそれなのに》《青い背広で》《人生の並木路》などつぎつぎとヒットし、テイチク時代に古賀メロディー第二期黄金時代を形成した。歌手陣には、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴らを揃え、他社を圧倒した。また、テイチクの重役として経営陣の一翼を担い会社の発展に大きな功績を果たした。殊に文芸部において制作を一切任され手腕を発揮した。その後、外務省の音楽親善使節として、ハワイ、アメリカ、南米を外遊。NBC放送で《緑の月》《ああそれなのに》《男の純情》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》が流れた。
- 530 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 21:10
- 古賀政男は、コロムビア復帰後もつぎつぎと《誰か故郷を想わざる》《目ン無い千鳥》《新妻鏡》などのヒットを放ち、流行歌王としての地位を確立した。歌手もコロムビアに復帰した藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、二葉あき子、松原操らがいて充実し、第三期黄金時代を現出したのである。日中戦争以後、軍国歌謡が盛んになるが、古賀政男もテイチクからコロムビア時代にかけて多数の作品を生み出している。だが、戦意昂揚となるような作品が少ない。軍国主義を強力に推進する軍部からは軟弱な歌として徹底的に嫌われたようである。
戦後の古賀政男は旺盛な創作活動を展開した。近江俊郎が熱唱した《湯の町エレジー》を始め、戦後の復興を背景に《トンコ節》《芸者ワルツ》などのヒットによって第四期黄金時代を形成したのである。昭和三〇年代、吉田正、船村徹、遠藤実、中村八大など戦後派の作曲家が歌謡界を席巻すると、古賀政男も新たなスタンスを構築しなければならなくなった。そこに美空ひばりへの接近が見られた。古賀政男は美空ひばりを得て《柔》《悲しい酒》をヒットさせるなど五度目の黄金時代を形成し歌謡界の巨匠として君臨した。 古賀政男の作品は、古賀メロディーと言われ、初期作品においてはマンドリン・ギターのクラシック作品の影響が強かった。この分野はプレクトラム音楽と言われているが、古賀政男のこの分野における造詣はかなり深いものがある。歌手には藤山一郎、関種子ら声楽家や、淡谷のり子、二葉あき子、松平晃、楠木繁夫らの音楽学校出身者が古賀メロディーを彩った。昭和恐慌、満州事変などの暗い世相を背景にしたセンチメンタルなメロディーに加え、昭和モダンを高らかに歌う作品などその音楽は豊饒なものであった。そして、テイチク時代の後半から日本情緒を基調にした邦楽的技巧表現に重点を置き、戦後の円熟期にかけては演歌の源流となるような作品を生み出した。
古賀政男は日本人の哀しみによって流す涙や怨恨の根源を仏教に求めていた。つまり、演歌・艶歌の心情を声明にその源流を遡及したのである。仏教の典令音楽である声明から、平曲や謡曲、浄瑠璃、説教節、浪花節への流れと、和讚(国産声明)や御詠歌、子守唄、民謡、江戸小唄へという二つの系脈となり日本人の内面世界に浸透していった。その音楽は旋律型をつなぐことによって構成された。古賀は最後の黄金時代を迎えた後、敢えて自らの音楽遺産を矮小化することを覚悟して演歌の源流というスタンスを明確にし演歌系歌手である美空ひばり、島倉千代子、村田英雄、北島三郎、森進一、五木ひろし、都はるみらにそれぞれの個性をもって自由自在に古賀メロディーを崩させながらを歌わせたのである。多くの日本人を感動させた音楽人生だった。
- 531 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 21:40
- コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。
三浦環の祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。
アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から日本的情緒を基本とした邦楽的技巧表現の傾向をますます強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和 15 年 に日本コロムビアから発売された唄で、日本国内よりも大陸に渡り激しい戦火の中にあった兵士たちのあいだで圧倒的に支持された。
大戦中に中国へ慰問に行った渡辺はま子が、この歌を歌ったところ、のちに元帥陸軍大将になられた畑俊六大将(支那派遣軍総指令官、後に元帥陸軍大将第二総軍司令官。終戦時.第一総軍司令官 杉山元元帥陸軍大将とともに天皇陛下に終戦を上奏した。)が「目の前で泣き出されて、わたしも涙声で歌ってしまった。」と古賀に話したということが古賀政男自伝「わが心の歌」に載っている。
自伝には支那事変が泥沼になってることを想わざるをえなかったという。
また、夜も光り輝くニューヨークなど太平洋戦争開戦直前の豊かなアメリカをつぶさに見てきた古賀にはアメリカとの戦争は無謀にしか見えなかったと自伝に書いている。
いくら国が見栄を張っていばって士気を高めようとしたころで、人の心は優しくもろいものなのだ。普遍的でそこに嘘偽りがない、だから人の心を打つ・・誰か故郷を思わざる。
作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、80年前の昭和15年、1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。
歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。
ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。
西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。
約1年間、「外務省音楽文化親善使節」として、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国した古賀政男。
昭和14年〈1939 〉8月31日、当時1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。
アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。
そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。
- 532 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 22:23
- 作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇
1 花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰りみち
幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を想わざる
2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
小川の岸でさみしさに
泣いた涙のなつかしさ
幼馴染のあの山この川
ああ誰か故郷を想わざる
3 都に雨の降る夜は
涙に胸もしめりがち
遠く呼ぶのは誰の声
幼馴染のあの夢この夢
ああ誰か故郷を想わざる
誰か故郷を想わざる(西條八十作詞 古賀政男作曲 昭和十五年(1940))
本当に、心の奥深くに染み入る、魂の歌ではないでしょうか。日本人の心の歌だと思います。
「一人の姉が嫁ぐ夜に 小川の岸で淋しさに」・・・深い姉弟愛を感じさせるフレーズですね。
決して軽くはない内容を織り込んだ歌でありながら、軽快なリズムが我々を惹き付けてやまない昭和の名曲です。
出だしの「花摘む野辺に 日は落ちて」の歌詞に、平易、簡潔この上ない表現で日本人の心をとらえていると思います。
「都に雨の降る夜は 涙に胸も湿りがち」に、私などはフランス文学者の西條八十を感じます。
それにもまして、古賀メロディーの前奏、間奏を含めた構成力の大きさに圧倒されます。
この歌は台湾、中国でも根強い人気があるそうです。田舎、村落共同体、そしてその地縁、人脈が息づいている国では受け入れられるでしょうね。日本の農村の衰退がさびしいです。
昭和15年にこの曲を出す時、レコード会社の上層部には慎重論があったとか。「誰か故郷を想わざる」という反語表現は国民の知的水準では難しいのではないかという意見だ。失礼な奴らだ。同時に、軍部の上層部にも慎重論があったという。「四面楚歌」の例を出して望郷の念の高まりが戦意の低下を招くと心配したのだ。これまた日本人の情感、魂の根底を知らぬ輩だ。
霧島昇唄、作詞:西條八十、作曲:古賀政男「誰か故郷を想はざる」の歌碑が、茨城県日立市から車で約1時間の福島県いわき市大久町(霧島昇さんの生誕地)にあります。震災後の何年か前に、訪ねた事があります。
新興キネマより同名映画が製作された。 ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。
タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。
ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣きして、満場涙に暮れたというエピソードもある。
内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。
- 533 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/26(Wed) 23:28
- 故郷を離れて生きる人にとってこの歌ほど普遍的で望郷の想いを歌った歌もないであろう。
〈花摘む野辺に日は落ちて〉と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。
古賀メロディは今日本人が忘れかけている大切なことを思い起こさせてくれる。
《誰か故郷を想わざる》は古賀の少年時代の記憶に残った郷土の原始的郷愁の風景と重なるもの。
80年経た今でも延々と歌い続けられる、古さを感じさせない普遍性を持つ典型的な日本のスタンダードである。
「愛染かつら」三部作でスターダムに上った霧島昇が初めて歌う記念すべき古賀メロディー「誰か故郷を想わざる」。
「古賀メロディー」の原点・・それは『母(の愛)』と言われる。
苦学を強いられた明大時代幾度か年老いた母の待つ故郷に帰りたい衝動にかられた。
故郷への回帰は「忘れ難い物」への追慕である。
だが、古賀は、終生故郷田口村へもどることはなかった。故郷への想いは、古賀メロディーの原風景でもある。
- 534 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 12:10
- ☆古賀政男と『七人の侍』
古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。
古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。
いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。
古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりした人。
古賀政男邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。
3000坪の広大な古賀政男邸、坂を登った左側には大きな車庫が3つあって、幅2mもあるリンカーンや、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。
右側に和洋折衷の洋館、その大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。
あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカード、フォードや、リンカーン、ベンツを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。
戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。
古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」(銀座)発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。(また古賀メロディの多くに明大マンドリンクラブ演奏が多い、明大マンドリンクラブ演奏以外にも、古賀政男オーケストラ、古賀政男サロンオーケストラ等の名前もそうである。)
いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。
清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。
さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。
『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。
このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。
53年8月4日、独自の曲調「古賀メロディー」作曲による業績により、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られ、王選手に次いで二番目。
生存者に贈る賞で、亡くなった人に贈ることに異論があったが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった。博物館に展示されている。
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/fc680eb40403d8544cc667836dceca8a
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
b ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
- 535 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 12:31
- ☆古賀政男とその主な人脈
古賀メロディの隆盛を支えた広範な音楽家、詩人、文化人たち
歌手; 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
淡谷のり子、楠木繁夫、松平晃、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、川畑文子、
由利あけみ、渡辺はま子、伊藤久男、松島詩子、ディックミネ・・
詩人; 萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウ・ハチロー 、島田芳文 ・・
作曲家;中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
その他、文化人
;棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・
主な門下生、弟子 (300人と言われる)
竹岡信幸、清水保雄、山本丈晴、アントニオ古賀、猪俣公章、鶴岡雅義、団しんや・・、
美空ひばり、島倉千代子、畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子・・・
- 536 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 15:25
- 佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環、
萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウ・ハチロー 、島田芳文
・・
中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實・・
棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香 蘭)、徳川無声、森繁久弥、山本富士子、美空ひばり、村田英雄、・・
美空ひばり、島倉千代子、畠山ミドリ(ギター)、村田英雄、森進一、美川憲一、五木ひろし、大川栄策、小林幸子・・・
『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。
支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校主席)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。
それは、出身地三羽烏・・みみっちい「○○三羽烏」とか、そんなものでは収まり切れない、スケールの大きな偉人、名士だったといえる。
多くの歌手や門下生を育成し、テイチク(帝国蓄音機)を全権を持って育て、大レコード会社に育て上げた。
- 537 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 15:53
- 朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
2020/05/14
h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3
日本の芸能界、歌謡界に偉大な足跡を残してきた方たち。
佐藤千夜子
藤山一郎
菅原都々子
渋谷のり子
ディック・ミネ
アントニオ古賀
美空ひばり
森進一
五木ひろし
小林幸子
一人も知らないという日本人はいないでしょう。
彼らにはある共通点があります。
半世紀かけて4000曲を手掛けた昭和歌謡の巨人・古賀政男――。
第2回国民栄誉賞を受賞した偉人であり、2020年の朝ドラ『エール』にも登場する「木枯正人」のモデルです。
ドラマでは人気ロックバンドRADWIMPSの野田洋次郎さんが演じていますが、この偉大なる作曲家とはどんな人物だったのか?
その足跡を追ってみましょう。・・
- 538 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 20:28
- ■[古賀メロディ]を支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。
日本歌謡界の大御所と言うべき作曲家である古賀政男,その作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、社会的、歴史的、文化的にも大きな影響を及ぼし、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さない大きな存在となった。
東の正横綱・中山晋平、西の正横綱・佐々紅華、まだ「新民謡」や「青空」などのあちらの音楽の時代から抜け出なかった昭和の初め、そこに「古賀メロディ」の登場によって、大衆歌謡としての「歌謡曲」というジャンルが確立していった。
「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。
古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。「古賀メロディ」には、東京音楽学校主席卒業の関種子、藤山一郎はじめ、それを支えた音楽学校卒の優れた歌手が揃っていた。
「古賀メロディ」を支えた30人に近い主な歌手、そのうち23人は音楽学校、うち、主席を含む12人が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でした。
今の演歌歌手はもちろん、クラッシックを標榜する歌手でも歌いこなせない古賀メロディ、そのすごい理由といえます。
以後、「古賀メロディ」を支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作・・。
☆古賀メロディを支えた名歌手 と最初の歌(戦前戦後)
佐藤千夜子 東京音楽学校 文のかおり (古賀正男作詞) 1929.12
関 種子 東京音楽学校 乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎 東京音楽学校 キャンプ小唄 (島田芳文作詞) 1931.7
河原喜久恵 東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞) 1931.7
淡谷のり子 東洋音楽学校 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子 東京音楽学校 強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア 東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞) 1933.3
松平 晃 東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫 東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ 立教大学 戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞 1935.10
千早淑子(松島詩子) 純情一座の唄 (玉川映二作詞) 1936
奥田瑛子(ミス・タイヘイ) 別れの唄 (山川あさを作詞)1936
有島通男 東洋音楽学校 春まだ浅く (石川啄木作詞) 1936.4
由利あけみ 東京音楽学校 黒いパイプ (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)* 紅い睡蓮 (西條八十作詞) 1939.9
二葉あき子 東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇 東洋音楽学校 誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
奥山彩子 東洋音楽学校 蛇姫絵巻 (西條八十作詞) 1940
菊池章子 東洋音楽学校 相呼ぶ歌 (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴 武蔵野音楽学校 歓喜の歌 (西岡水朗作詞) 1933.1
渡辺はま子 武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝 東洋音楽学校 青い牧場 (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校 月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎 武蔵野音楽学校 明日もまた (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子 宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで (サトウハチロー作詞)1945.1
*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。
瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの変名。
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)
関種子(昭和4年卒、国立音楽学校、名古屋音楽学校教授、東京芸術大学講師歴任)、藤山一郎(増永丈夫、昭和8年卒、昭和6年よりアルバイトで吹き込み)はいずれも、東京音楽学校本科主席卒業。
- 539 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/27(Thu) 21:01
- ■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 1989
「荒城の月」 土井晩翠作詞、 滝廉太郎作曲 1901
「波浮の港」 野口雨情作詞、 中山晋平作曲 1928
「叱られて」 清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲 1920
「この道」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲 1927
「浜千鳥」 鹿島鳴秋作詞、 弘田竜太郎作曲 1919
「影を慕いて」 古賀政男作詞、 古賀政男作曲 1931.1932
「出船」 勝田香月作詞, 杉山長谷夫作曲 1928
「宵待草」 竹久夢二作詞、 多 忠亮作曲 1918
「花」 武島羽衣作詞、 滝廉太郎作曲 1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲 1925
日本がまだ貧しかった90年以上前、明治・大正から昭和の初め、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその日本の抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が愛して
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ「日本の名曲」です。
この10曲に、佐藤千夜子によって世に出た二曲、『波浮の港』と『影を慕いて』が入っています。
- 540 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 16:46
- 昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、まだ中山晋平の晋平節が華やかなりし昭和の初め、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。
そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。
・古賀政男(正男)最初期のレコード
文のかをり 古賀正男 佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も 浜田広介 同 1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥 不詳 同 1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて 古賀正男 同 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から 浜田広介 同 1931年1月 ビクター 51519
片想い 浜田広介 同 1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭 浜田広介 同 1931年6月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の作品
古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌)。
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。
「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子
『文のかおり(古賀正男作詩作曲編曲)』、『娘心も(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『青い小鳥(作詩者不詳・古賀正男編曲)』、『風の鈴蘭(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『片思い(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』ら5曲がビクターレコードで佐藤千夜子によって吹込まれたのは昭和4年(1929)12月23日。
続いて、昭和5年(1930)10月20日、『日本橋から(浜田広介作詩)』、『影を慕いて (古賀正男作詩作曲編曲) 』2曲が、佐藤千夜子の歌唱でビクターレコードで吹込まれた。
佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し たのだ。昭和9年に再び日本に。
・コロムビア専属作曲家・古賀政男 最初期の作品
乙女心 鹿山鶯村 関種子 1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺 島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄 島田芳文 藤山一郎 1931年6月 コロムビア 26325
- 541 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 20:02
- ■古賀メロディとは・・「花は咲く」と「嘆きの夜曲」
「嘆きの夜曲」(西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子)1932
呼んでみたとて かえらぬ人よ
なぜに儚い 夢じゃやら
想いつかれて 心に秘めて
暮れりゃ寂しい 雪ばかり
泣いてみたとて かえらぬ恋よ
なぜに尽きせぬ 涙やら
灯影(ほかげ)つめたく 愁いはながく
絃(いと)のすさびも 嘆(な)くばかり
さて今、たまに[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。
地震直後から放影されていたものですが、何の歌なのかもよくわからない。
花が咲くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、小学生の合唱コンクールか顔見世ソングかといったところ。
遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。
そんな中、今ないが、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」がアップされていた。解説にはこうありました。・・
嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・
80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予見
したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。
同じ時期の藤山一郎「影を慕いて」とともに古賀政男初期の名歌の一つだと思います。関種子の歌唱力も最高。
短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感じさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。
憂い、哀しみ、苦悩を歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。
- 542 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 20:33
- 色々な歌手がカバーしている「影を慕いて」、絶望の中から生まれたとされる「影を慕いて」は、今から90年以上前の昭和3年(1928)、まだ学生時代の古賀政男(正男)によって、昭和3年(1928)の秋、秋雨そぼ降る下宿で作曲されたといわれる。
そして「明治大学マンドリン倶楽部」のギター合奏による《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月22日の第14回定期演奏会(赤坂溜池三會堂)だそうです。
これを最初にレコードにしたのは、ビクターのスタ−歌手で、日本における「レコード歌手第一号」とされる佐藤千夜子。昭和5年10月20日だそうです。(発売は昭和6年1月)
佐藤千夜子は、この8日後にイタリアに渡って、昭和9年に帰国するのですが、当然行われるべき宣伝・バックアップもできずこれが広く歌われるまでには至らなかったようですが、このレコードに依って、一苦学生・古賀正男は「コロムビア」の専属作曲家として迎えられることになるのです。
なお、古賀政男は後に自伝『我が心の唄』〈展望社)で、佐藤について『[私に作曲家としての道を与えてくださった終生の恩人』とかいている。
これを歌ったのは、同じく古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を歌った増永丈夫(藤山一郎)でこれが「流行歌手」としての初デビューでした。
これ以後、古賀政男、藤山一郎のコンビはレコード会社が何度か変わるも、今に残る数々の殊玉の名曲を世に送り出すことになる。
後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手によって支えられたのです。(藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビューで、昭和6年。)
今の東京芸術大学音楽学部の前進『東京音楽学校』昭和8年首席卒業である藤山一郎は、本名・増永丈夫(たけお)の名では、主にクラッシックを歌っていた。
また、中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
- 543 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/28(Fri) 21:01
- 戦前の歌手がステレオで再吹込みした録音盤があるけど、
やはり最初の録音がいちばんいい。声も若々しくきちんと歌っている。
再録音は声も衰え、編曲もヘンな風にアレンジしてあり違和感を覚える。
- 544 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 19:11
- ☆「古賀メロデー」とは
昭和53年(1978)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、古賀自身最後の公の姿となった。
それから約1か月後、昭和53年7月25日の午後1時15分、代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73歳。
その死から10日後の同年8月4日、前年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。
生前に贈ることが目的で、異論もでたが福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることを決めたのだ。・・
古賀政男は父の死後、7歳の時かから17歳まで一番多感な10年間、故郷・田口村を捨てて一家で朝鮮に渡り、10年間朝鮮で暮らすわけだが、この10年間の朝鮮での生活・・それは家族の中で居場所の無い筆舌に尽くしがたいものだったという。
「古賀メロデー」の原点になってるともいわれ、特にキーワードは「母(の愛)」といわれ、このあたりのことは『古賀政男物語』などの古賀政男のドラマに描かれている。
NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男」では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。
そのなかで、上記「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。参考に一部を書く。
古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。
古賀メロディの歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根ずいた歴史でもあること。
「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった。でも唯一あるのが朝鮮の民謡。
どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。
古賀政男は貧乏だったが、その後成功に次ぐ成功だった。
でも心の底には消すことのできない、しこりのようなものがあった、それが何であるか自分でもわからない。
そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、体をおして昭和53年再び朝鮮に渡ることにしたのだった。 (TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る」で放映。)
そして両脇を抱えられるようにしてタラップを降りた古賀政男を迎えたのは、朝鮮の民族衣装の女性たちが演奏する子供のころに、聞いた懐かしい朝鮮メロデーとであった。
そしてうつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。
家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。
朝鮮の楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶしでもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。
・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989) ・・
音楽の道に進みたい古賀は、商人になれとの長兄の反対を押し切り、そのかわり商学部の明治大学予科に大正12年に入学しました。ここで人生を変える二人の人物との出会いがあります。
古賀は入学と同時に有志とマンドリン倶楽部を創設しています。彼は、アルバイトで音楽教室「駿河台音楽院」でギターとマンドリン講師をして学費を稼いで生活をしていました。
古賀は、昭和3年(1928年)に音楽教室の生徒中島梅子という女性との恋愛関係にあり、身分の違いから別れなければならない辛さ、そして梅子の自殺を知ります。
「大学は出たけれど」という映画ができた程、大学を出ても就職できない厳しい環境の中、就職の目処がつかないという将来への不安から、蔵王の青根温泉で自殺を図ります。
このあたり、「古賀政男物語」に詳しい。
そして、古賀政男は、その自伝『わが心の唄』で、私を作曲家の道を切り開いてくださった「終生の恩人」と書いている、ある重要な人物、佐藤千夜子との出会いを果たします。
- 545 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 19:34
- 佐藤千夜子は、大正から昭和にかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手、日本初のレコード歌手で、その足跡は昭和52年NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインとしてドラマになった。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。
<「古賀政男」の出てくるドラマ>
・昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
・昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
若尾哲平
・昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』テレビ
(1979年4月14日、NHK総合TV)
(平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)
・昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十)
NTVテレビ
・平成4年 片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京
・平成5年 西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男 NHK 1993年2月4日
参考までにこうしたテレビ、ラジオドラマ等は、NHKは、埼玉・川口のスキップシテイー
や、東京港区愛宕のNHK放送博物館や各県のNHK放送局で見れる。
民放等は、横浜の情報文化センター・放送ライブラリで見れる。多彩なコースでご要望に合わせたレッスンが可能で以下NHKは横浜の情報文化センター・放送ライブラリでみれます。
・NHK 幾山河は越えたれど・昭和のこころ・古賀政男(1979.04.14)
・テレビ大阪 古賀政男物語 1992.03.03
・ NHK 連続テレビ小説[いちばん星] 第一回目(1977.04.04)
NHK連続テレビ小説「いちばん星」は、川口のNHKアーカイブス、NHK放送博物館、NHK各放送局でみれます。(最初と最後と途中いくつか。)
・NHK HPによると、NHKアーカイブスで以下が保存されてるとあります。(閲覧できないが)
・西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男 1993年2月4日
・この人と語ろう 1977年11月21日
・あの人あの芸 古賀政男 1997年5月5日
・NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編 2002年12月29日
・NHKアーカイブス スペシャル 特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 後編 2002年12月30日
・NHK映像ファイル あの人に会いたい 古賀政男 2006年4月29日
・NHK連続テレビ小説「いちばん星」(最初と最終回と途中)は見れる。
- 546 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/29(Sat) 20:04
- 昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。
- 547 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/30(Sun) 08:47
- ☆古賀政男の主な編曲曲
アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。
二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)
ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク
会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907
のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)
軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2
愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074
荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌
宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏
南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)
イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩
123 :昔の名無しで出ています:2013/12/05(木) 22:36:49.27 ID:ZY20NSLm.net[3/3]
>>122
(参考)
- 548 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/30(Sun) 09:15
- (参考)
☆「荒城の月」について
「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
戦後を除くSP時代、主な編曲版としては次のものがある。
古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。
『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲) 明治34年発表(無伴奏)
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲
- 549 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/31(Mon) 15:07
- >>548
「荒城の月」
「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。
明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。
明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。
当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。
哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。
世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。
三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。
他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。
『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。
武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)
※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。
幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。
そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。
「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。
戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。
「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。
この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。
李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏
なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。
- 550 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/31(Mon) 22:41
- 「片思い」(かた思い)昭和6年6月 佐藤千夜子
昭和7年6月 関種子
(一)
ハーアー
山は山晴れ
野は野で晴れた
鳴くぞ ポーポーと
山鳩が
(二)
ハーアー
鳴いて 鳴かれて
雌鳩に 雄鳩
飛ぶぞ 並んで
ぱちぱちと
(三)
ハーアー
さても私は
あの娘を好いた
好いて逢わなきゃ
片思い
(四)
ハーアー
浜のアワビの
届かぬ思い
野良が晴れても
気が塞ぐ
- 551 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 09:33
- 風の鈴蘭 1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い 1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
- 552 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 12:26
- 昭06-02 風の鈴蘭. 佐藤 千夜子. 浜田 広介. 古賀 政男. 夜店の風に鈴. 蘭の. ビクター. /51698B. 風の鈴蘭(佐藤千夜子). ビクターで出た古賀作品7曲のひとつ。夜風にわびしげに揺れる鈴蘭と乙女心を歌った小品。
- 553 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 21:04
- >>526,>>538
(参考)
放送オペラ 放送一覧
内山惣十郎著「浅草オペラの生活」(昭和42年 雄山閣)を基に構成しました。
h ttp://stokowski.web.fc2.com/jp/nattoku/opera_air.html
二村定一、徳山l(たまき)、天野喜久代、河原喜久恵、藤原義江、佐藤千夜子、奥田良三、川崎豊、四家文子、関種子、増永丈夫(藤山一郎の本名)・・
知る人ぞ知る錚々たる名がみられますね。
- 554 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/01(Tue) 21:24
- (参考)
◇徳山l追悼/青砥道雄(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.98-100)
内容:徳山l[とくやま・たまき]は1942(昭和17)年1月28日、慶応病院で死去したが、声楽家としての磨きをかけて本領を発揮するのは、これからという時だった。
/徳山が東京音楽学校を出たのは1928(昭和3)年で、ちょうどビクターやコロムビアが日本吹込みを開始したばかりの時だった。当時できたばかりの武蔵野音楽学校の先生になったが、生活の設計にはいろいろ苦しみ、周囲の猛烈な反対を押し切ってビクターの専属歌手となった。
そしてレコード歌手のレベルを一気に引き上げ、自分の仕事も軌道に乗せた。こうしてレコードのごく初期にこの世界に飛び込んで、しかも終始一貫一社の専属として他社に動かず、十何年間のレコード変遷とともに生きてきた。
/第1回の吹込みは1930(昭和5)年で松竹映画の主題歌《叩け太鼓》、次が《撃滅の歌》(堀内敬三作曲)、1931(昭和6)年の《さむらひ日本》《るんぺん節》(いずれも松平信博作曲)で全国的に有名になった。
満州事変の時には《満州行進曲》(堀内敬三作曲)を歌った。
日中戦争前に官能的な流行歌の時代となったが、この時期、徳山は《天国に結ぶ恋》(松平信博作曲)や、勝太郎といっしょに《櫻音頭》を歌った。この頃の徳山は、ロッパと組んで盛んに芝居をやった。
日中戦争が起こってからは、《愛国行進曲》《日の丸行進曲》《大陸行進曲》《太平洋行進曲》を歌い、晩年には「トントントンカラリ」の《隣組の歌》を歌った。指導振りは誰にでも親しまれていたので、亡くなった直後、あちこちの隣組常会で故人の話題がしきりに出たという。
/徳山の声は実にきれいだと言われるが、声の寿命を長く保持するために禁酒・禁煙をしていた。そうした努力があってこそ、ベートーヴェンの《第九交響曲》と流行歌を同時に歌うことができたのである。
/今度の病気は、1941(昭和16)年11月に発病したのだが、同年2月には痔で入院しているから、全体に身体が弱っていたのかもしれない。しかし死ぬ前日にも、日ごろの洒脱な調子を失わずに歌っていたそうである。なんでも頭が痛いといって頭を叩いたのがいけなかったらしい。
/徳山は、さいきん音楽芸術への自覚を深め、声楽家として本腰を入れようとしていた。その一つの現われが《冬の旅》独唱会であった。ポスターやプログラムも全部自分で図案を考えたが、それが黒一色で、死んで行く徳山を予感されるようで縁起が悪い図案だった。
1941(昭和16)年に痔で入院したときには首相から見舞をいただいたし、この度はまた首相から弔問を辱うしている。
メモ:p.99に「徳山l略年譜」が掲載されている。
徳山lは、代々木上原駅前の古賀政男音楽博物館にも顕彰されている。
パソコンで選んで顕彰者のレコードを聞くことができます。
- 555 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/02(Wed) 21:09
- 愛馬進軍歌(徳山 l・四家文子) 公開日:2011/11/24
昭和14年(1939年) (文部省検定済) 陸軍省選定
作詞:記載無
作曲:記載無
編曲:深海善次
歌唱:徳山 l・四家文子
X-3(J-368)
- 556 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/02(Wed) 21:14
- 愛の子守唄(松村久男) 公開日:2013/03/07
昭和10年(1935年) テイチク 松竹鎌田特作川田芳子引退記念映画 「母の愛」主題歌
作詞:高橋掬太郎
作曲:清水保雄
歌唱:松村久男
伴奏:古賀政男サロンオーケストラ
15092-A
※レコード番号が同じ「スタンダードレコード」盤が存在、作詞・作曲者記載無、伴奏:OSオーケストラとなっている。
♪
浮世の風の激しさに、翼は痛み傷つきて、はてなき旅に啼く鳥も、子故(ゆえ)に強き親ごころ♪♪
嘆きに暮れてあかす夜も、唄うは愛の子守唄、いとけき夢を見守りつ、涙で唄う子守唄
♪♪♪
茨の道の険しさに、心は痛み傷つきて、女は弱きものなれど、子故に強く生きてゆく
※にいちゃんの「なつめろダイアリー」に下き記述があり。
1935年(昭和10年)の歌謡曲。松竹映画「母の愛」主題歌。当時人気絶頂の川田芳子さん
女優引退作品。テイチク清水保雄=古賀政男作曲。 歌唱の松村久男は翌年
『酒の中から(玉川映二作詩・古賀政男作曲編曲)』が大ヒットの有島通男氏別名(有島氏
最初のヒット『大楠公(島田磬也作詩・古賀政男作曲編曲)』と松村久男=赤尾松三の歌声は 同じ)。1937年、テイチク廉価レーベル「スタンダード」で再発売。
- 557 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/02(Wed) 21:33
- 朝顔の唄(關 種子)
昭和07年(1932年)
作詞:佐藤惣之助
作編曲:古賀政男
歌唱:關 種子
26967-B(36479)
- 558 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 21:53
- 「丘を越えて」と山田耕作
古賀政男は、昭和6年3月にコロムビア専属にになり、この一年でコロムビアの顔、コロムビアのドル箱になってゆく。
丘を越えて、
多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品、古賀メロディ。
歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。
詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴 く人の心を捉えて離さない。
『丘を越えて』、歌詞が出てくるまで、沢山の音符で構成された楽譜一枚分の前奏である。ひとの心をとらえないはずがないのだ。
これが当時の主流であった『晋平“節”』と一味違う、新鮮な『古賀“メロディー”』というものかと気ずかなければおかない楽譜である。
島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。
プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「キャンプ小唄」「丘を越えて」「月の浜辺」「窓に凭れて」などを初め 、童謡など多くの大衆歌謡を手がけた
昭和6年(1931)、まだ東京音楽学校の学生だった若き「藤山一郎」によって歌われた《丘を越えて》、いつの時代でも青春を謳歌する青春の息吹を感じさせる歌。今でもあちこちで演奏あれ歌われている名曲である。
なお、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。
山田耕作は「明朗性」を表す傑作として高く評価、ヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持ち歩き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。
日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、《古賀メロディー》を高く評価。
日本における交響楽団の雄たる山田耕筰がその最大の理解者であった事は特質に値する。
専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年(1932)12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、おなじくコロムビアの山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式、28歳の時である。
その前、昭和7年(1932)6月には、古賀政男と山田耕作、二人の作曲家の合作・競作企画、財団法人富民協会の当選歌「農村婦人の唄」の作曲がある。
- 559 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 22:12
- 《昭和・・「丘を越えて」・・古賀メロディの時代》
古賀メロディの時代・・・・、丘を越えて、酒は涙か溜息か、影を慕いて、‥の時代、それは日本の歴史の中でも最も苦難の時代でもあった・・
□昭和6年(1931)
金輸出再禁止。失業者300万人。東北・北海道大凶作、娘身売り。
満州事変−柳条湖事件。溥儀擁立。
歌; 「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」。
□昭和7年(1932)
上海事変。満州国建国。五・一五事件、犬養首相射殺。ドイツ、ナチス第一党に。
歌; 「影を慕いて」「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」「涙の渡り鳥」 。
昭和6年
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
- 560 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/03(Thu) 22:31
- ☆萩原朔太郎と古賀メロディ
『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。
自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。
ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。
朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。
「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。
作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。
序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。
詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。
文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。
なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。
参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。
平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。
常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。
「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...
・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25
・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)
・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について 萩原朔太郎
(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)
詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。
- 561 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/12(Sat) 19:58
- ☆関 種子と「古賀メロディ」
初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。
乙女心 (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵(ずえ)の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1
南海小唄 (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 1932.1
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海 (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌 (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲 (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
曙に唄う (太田哲城作詞、 古賀政男作曲)1932.7
愛は紅い (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影 (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
嵐の島 (西條八十作詞, 古賀政男作曲) 1933.2
初恋の唄 (西條八十作詩、 古賀政男作曲)1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲)1933.3
処女よさらば (西條八十作詞 古賀政男作曲)1933.9
乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲)1932.6
夢に泣く (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女 (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花 (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲) 1935
野薔薇の歌 (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋 (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘 (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938
・関種子
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90
- 562 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 10:32
- >>561
「かた思い」(片思い)(浜田広助作詞、古賀政男作曲)26897 昭和7年6月
- 563 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 10:55
- 「かた思い」(片思い)
浜田広助作詞、古賀政男作曲 昭和7年6月
佐藤千夜子
関種子 (昭和7年6月)
1.
ハアー
山は 山晴れ
野は野で晴れた
鳴くぞ ポーポと
山鳩が
2.
ハアー
鳴いて 鳴かれて
雌鳩に 雄鳩
飛ぶぞ 並んで
パサパサと
3.
ハアー
さても わたしは
あの娘を 好いた
好いて 逢わなきゃ
かた思い
4.
ハアー
浜のアワビの
とどかぬ思い
野良が 晴れても
気が塞ぐ
- 564 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/21(Mon) 11:37
- 窓に凭れて
作詞:島田芳文
作曲:古賀政男
歌唱:関 種子
(一)
行きて返らぬ 若き日を
窓に凭れて 思いみる
夢多かりし かの頃の
雲のかからぬ 清らかさ
ああ 過ぎにし 過ぎにし春の
思い出よ
(二)
ただやすらけく ありし日の
胸のあこがれ 泡と消え
たけての今日の この胸に
地上の愛の なやましさ
ああ 涙に 涙にくるる
このこころ
関種子はクラッシックソプラノ歌手で、佐藤千夜子、長門美保、佐藤美子、四家文子、松原操などと共に活躍し、初期の古賀メロディーを中心に、ヒット曲を出した人気歌手でしたが、短い芸能界でした。
関種子は、クラッシックのソプラノ歌手で、本格的な声楽家です。
明治40年9月18日、岡山県生まれで、小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京音楽学校に進学、在学中に結婚、本科を首席で卒業しました。
坪内逍遥原作、山田耕筰作曲の歌劇『墜ちたる天女』で楽壇デビュー、クラッシックのソプラノ歌手の活躍を始めました。
『墜ちたる天女』の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだ縁で、昭和6年に同社からデビュー、『窓に凭れて』『嘆きの夜曲』『あけみの唄』『日本橋から』など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせています。
私は国立音大で関先生に教えを受けました。ご自宅にもレッスンに行きました。また、軽井沢でのセミナーにも参加しました。とても素晴らしいコロラツゥーラソプラノでした。先生が本邦初演の「ランムールのルチア」のアリアを頂き、練習しました。大学3年の時でした。中田喜直の「霧と話した」も初演でした。有名で日本語もドイツ語もイタリア、フランスと造詣が深く、素晴らしい声楽家でした。この頃は歌謡曲が声楽と言われていたそうです。しかし今のような文化ではなく、日本歌曲をどのように浸透してゆくか、迷った時代でした。NHKのラジオでの多くの音大での声楽家、オペラ歌手が今で言う歌謡曲を歌いました。美しい発音と発声法でマイクに頼らず、心を歌いました。私が卒業の時『心と声』と直筆で書いてくださいました。今70歳を目前にその意味がやっと解ってきました。
心の歌を歌うのは声を大切にしなくてはなりません。関先生にもっともっとお習いしたかった今日この頃でした。
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